toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

新コロナの警告/ファシズム2.0「新自由主義と独裁」の癒着に抗って持続できるイノヴェーションの培地はエトノスと一回性を共有的な自由で繋ぐ『日常』(1/2)

新コロナの警告ファシズム2.0「新自由主義と独裁」の癒着に抗って持続できるイノヴェーションの培地はエトノスと一回性を共有的な自由で繋ぐ『日常』(1/2)

【補足/これも新コロナの警告!】行政、立法、司法、既存メディアに次ぐ5th.エステート(第5勢力/権力)たるFB・Twらは新自由主義の麾下におけるもっぱら“混沌/フェイク”の拡散で我利が貪れる時代は終了!?第4権力との建設的関係を思考するべき時!➾「第5勢力」SNSの功罪:イノヴェーション・エディター、ジョン・ソーンヒル323日経/F.Times https://www.nikkei.com/article/DGKKZO57005270Z10C20A3TCR000/

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・・・

(前置1)「リバタリアニズムファシズム2.0の癒着」を読み解くためのキーワードが、自由原理・ファシズム2.0・批判実在論・エトノスということ

『民主主義の内なる敵』(第1章で詳述)の著者ツヴェタン・トドロフは、グローバル市場原理主義リバタリアニズム=完全自由(市場)原理主義)が主導する現代世界であるからこそ、いまや世界中に出現しつつあるポスト全体主義2.0(=ファシズム2.0/米国・トランプ政権、日本・安倍政権など/補、toxandoria)であっても、ファシズムなるものの「あるものはない、ないものはある」と言う正体は全く変わらないという。

が、厳密に言えば「米国・トランプ政権の米国」と「安倍政権の日本」は同じ<ポスト全体主義2.0>下にあるとはいえ、実は全く異なっている。その謂いは「米国・トランプ政権(ファシズム2.0的な権力)下の米国」は、それでも未だ民主主義国といえるが、その憲法が名目化し一般国民の意思も希薄化した「安倍政権一強支配下の日本」は今やれっきとしたファシズム2.0(リバタリアニズム(完全自由主義新自由主義)と独裁権力が癒着した全体主義)の国であるということだ委細は、『第3章-モンペルラン協会の理念の変質』で触れるが、同様の視点から、すでに20190505の時点で、Newyork Timesが、安倍政権に対する(その独裁的なメディア規制のやり方を切り口として)厳しい批判記事を書いている。

いわば、ファシズムとは『例外的なもの(“あるものは無い、ないものは在る”という表象的な異常価値観)への抽象的同一化なる視野狭窄に嵌った倒錯合理主義であり(ファシズム下では、国民の殆どがその独裁者の異常価値観と一体化!の空気に無意識の内に回収されてしまう)、それは、いわば乳幼児的な鏡像ナルシスの小さな機能主義(催眠術にかかる如き小さな合理主義)の世界である』ともいえる(@田中 純『政治の美学-権力と表象-』(東大出版会)/↓画像)典型事例の委細は↓▲を参照乞う)。

 

f:id:toxandoria:20200323023406j:plain「表象と権力 権力の美学」の画像検索結果

 そして、それと真逆の認識論(認知)の視座が例えば『画家セザンヌの眼』のリアリズムであり、それは、いわゆる「批判実在論(Critical Realism)」、または後で詳しく触れる現代「知」の先端の一人と見るべき、“心”という語で表せるたったひとつのものなど存在しない!と主張する「マルクス・ガブリエル(↑画像)の新実存主義」らの斬新な視点に重なると思われる。

 

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴン内需等に係る新しい生産性の培地)の発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331

ナチスの流儀で『ファシズム2.0アベの国』、ディープ・フェイク【真実モドキ】化する日本!が合法的に完成!?】<PCR検査の「忌避」徹底、新コロナパンデミック(株価大暴落付き)に負けず五輪「断行」宣言(その後、IOCの決定で、急転直下、1年の延期となったが!)、対・緊急事態法「主要野党&メディア」の翼賛、検察法・内閣法制局法務省ら諸法制&官庁の完全アベ御用組織(アベさま御用達の特務機関)化>でも、安倍支持が50%未満で安定(むしろ上昇トレンド?)>等を併せ見れば、忌々しきこと乍ら大ショックはチャンス!のナチス流儀で『ファシズム2.0アベの国』、ディープ・フェイク(オール・ウソw)日本!が合法的に完成した!?   公取員長に古谷官房副長官補、国公安委に横畠前法制局長官 両者ともにアベ首相直近の官僚 317毎日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1240197588470530048 

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・・・左:古谷氏、右:横畠氏

【アベ・ファシズム2.0】検察・官憲・内調(内閣情報調査室)ら手駒化なる、高圧“印象&表象”操作で官僚、新聞等メディア、野党、国民を抑圧!は戦前~戦中<特務機関式“威圧権力なる政治的情動誇示”>の再現!法曹&主要メディアの奮起が絶対に不可欠! ➾近畿財務局職員を自殺に追込んだ森友公文書改竄は財務省・佐川氏だけの責任に非ず! 事実上アベの指示だった320リテラhttps://lite-ra.com/2020/03/post-5320.html

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<注>ディープ・フェイク・・・ディープラーニング深層学習)とフェイク偽物)を組み合わせた【真実モドキ】動画らを創生(捏造)する技術で、GAN(Generative AdversariaNetwork/敵対的生成ネットワーク)が利用されている。TVドラマ(tv-asahi2020318)相棒スペシャル「第20話/ディープフェイク・エクスぺリメント(解決の鍵は“動かぬ証拠”である映像!?」のモチーフで使われていた。https://www.tv-asahi.co.jp/aibou/story/0020/

ディープ・フェイク【真実モドキ】安倍首相が超然君臨/アベ・ウソザクラが咲き誇る美しい?ニッポン!

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323共同通信 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6354918

近財局・故・赤木氏の奥さまは、安倍氏人間性を国民の眼前に露呈させた:検事総長・稲田氏率いる広島地検はいつ、安倍事務所に立ち入るのか20200324新ベンチャー革命
http://blog.livedoor.jp/hisa_yamamot/archives/6036898.html

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https://twitter.com/freedom19752008/status/1241992869935644673
【“踏み絵”流儀のアベの御<急所>を踏み潰した?ぶら“タモリ”の慧眼!w】アベの正体は宗門改めの御都合主義的な法解釈変更「官憲=特務機関型の御用私兵化」と同じ!wタモリさん、これからもガンガンお願いします!@akasakaromanteiさん https://twitter.com/akasakaromantei/status/1241626705262809088

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https://twitter.com/akasakaromantei/status/1241626705262809088

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https://twitter.com/nogutiya/status/1242410055581855746

【検察が(アベ様のために?!)握りつぶした極秘ファイル!】「8億円値引きは問題だった」森友事件 近畿財務局「売買担当者」が赤木さん妻に告白 325文春on-line/週刊文春・326発売号 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1242905309015752704

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安倍晋三=良性組織へも深刻なダメージを与えるため潰すに潰せないまで巨大化した悪政(性)腫瘍、つまり『ファシズム2.0』】内田樹 @levinassienさん/安倍政権のtoo big to fail policy は「統治機構内部で不祥事に関与した人間の数が多すぎて、全部摘発すると統治機構が機能不全に陥るので、摘発できない」ように意図的に仕込むことです。安倍政権はその「歴史的成功例」として政治学の教科書に載りそうです。https://twitter.com/levinassien/status/1240429822481821696

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そもそもGPIFの株式投資枠「24%→50%引上」は『日常』エルゴンに関わる「非情アベ」の無知と、国民の痛み無視が原因!too big to fail policyを非情・無知・作為で仕込んだアベはヒトに非ず! ➾GPIF22兆円の損失 株価暴落&運用失敗でまた年金が消えた318日刊ゲンダイhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1240565640718454784

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御意!まさに「ウソ吐き・ドロボー」のアベ様に悪ノリした火事場ドロボーだ!!結局、電力会社も【万事が他人(99%日常)のフンドシ(褌)の暗号資産(日常住血吸虫)と同意!】その儘であり、《ヒトの日常&一回性の生命》の意味が分からぬやんごとなき「モンペルラン協会」風の経済オンチの御仲間!いわばバカの集まり!https://twitter.com/yurikalin/status/1243468070070312962

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1243622588657664002

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ー批判実在論(Critical Realism)のまなざしー

梶原葉月氏社会学者、立教大学社会福祉研究所研究員、ジャーナリスト/↓★)によれば、イギリスの哲学者ロイ・バスカー(Roy Bhaskar 1944−2014)が提唱した社会科学論のベースとなる新しい認識論である「批判実在論は、中世~啓蒙期に革命的な視座を提供した事実同定型の「実証主義」、1950年代以降に米国で台頭した“社会の多様性”が前提の「(言語)解釈主義」に次ぐ、「“経験、客観現象、各現象内構造”の3領域の説明的な統合理解(認知)こそ実在の在処(正体)!と見る新しい認識論の立場」である。

梶原葉月オフィシャル・ブログ:批判的実在論https://hazuki.ddtune.com/%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96/

社会科学は予測可能性で評価されるものではなく、その説明力で評価されるべきであると主張し、ロイ・バスカーは、新しい認識論である批判実在論(Critical Realism)」に基づき「説明的社会科学」(explanatory social science)を提唱している。この広角な視座からは、「人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス/consilience)/▼」への接近を連想させるものであり、本格的AIの時代に入りつつあると喧伝される昨今であるからこそ、ヒトとAIの根本的な差異の問題はもとより、改めてヒトの正体を正しく理解し直すためにも、更に、例えば批判実在論コンシリエンスの融合のような試みから如何なる新たな認識論が可能となるかを検討すべき時代に入りつつあるのでは?ということなども考えさせられる。

▼抑制的なAI活用を視野に文化進化論・進化経済学らによる新しい知の総合、コンシリエンスの視点で21世紀の多元的『啓蒙主義ルネサンス』を目指すべき、https://toxandoria.hatenablog.com/entries/2016/11/07

エトノスとは?ー

世界大百科事典第2版(平凡社)の説明によれば、そもそものエトノス(ethnos)はギリシア語で民族を意味する。民俗学の用語としては、ロシア系の民俗学者S.M.シロコゴロフがはじめて本格的に論じ,ドイツの民俗学者ミュールマン(W.E.Mühlmann/1904‐ )などによって、この概念の重要性が明らかにされた。それは、同一の文化的伝統を共有するとともに〈われわれ何々族、何々人〉という共属意識をもつ最大の独立した単位集団を指す。

従って,「一つのエトノスは場合によっては,バンドでも,氏族でも,部族でも,あるいはカーストでもありうる。」ということになるが、ここではその後の自然科学、歴史、地球環境、民族・人類学等に関わる研究と人間社会の全般に係わる意識上の変化等を反映させつつ、更に批判実在論(Critical Realism)、新実在論(新実存主義)などの新たな視点を加味してエトノスの概念を再定義しておくことにする。

そこで、次のように定義することが可能となるだろう。すなわち、ethnosは古代ギリシア語に由来しており、村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団のことを意味することから、エトノスの意味は、そこに置かれる人々の立ち位置が変われば正反対に反転し得ることになるので、そもそも絶対的で画一的な価値評価を伴う言葉ではなかったということになる。

おそらく、それは休むことなき一回生の連続である「生命」現象そのものと同じく、永遠に揺らぎつつも(対象と背景環境が絶えず交替し得るものでもあるため)アイデンティティ持続性を必死で繋ぎとめるべきものであると言えるのではなかろうか。

従って、エトノスとは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”(培地)となし得る開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化(マイクロバイオーム世界、量子物理学世界の理解など)を常に受け入れつつも、その伝統的なヒューマン・スケールの全体性の“持続”を最も重視する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となるローカルの風土』を意味する。>ということになる。

(Cover Images)セザンヌの言葉-その現代的な意味-

 f:id:toxandoria:20200308110022j:plainPaul Cezanne, Still Life with Apples on a Sideboard, 1900–1906, Dallas Museum of Art5 cuadros de Paul Cézanne, con música de Debussy HD

"The real voyage of discovery consists not in seeking “new” landscapes but in having new eyes."

                 - Marcel Proust 

f:id:toxandoria:20200225084702j:plainPaul Cezanne『The Gulf of Marseilles Seen from L'Estaqu ca. 1885 The Metropolitan Museum of Art 

f:id:toxandoria:20200308115304g:plainPaul Cezanne『Mont Sainte-Victoire 1902-1904 Philadelphia Museum of Art


25 cuadros de Paul Cézanne, con música de Debussy HD

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『私(セザンヌ)があなたに翻訳してみせようとしているものは、もっと神秘的であり、存在の根そのもの、感覚の(その感覚だけでは/補、toxandoria)感知しがたい源泉(自然・伝統・文化エトノス/補、toxandoria)と絡みあっているのです。』・・・J.ガスケ「セザンヌ」‐岩波文庫

・・・プロヴァンスが生んだ画家セザンヌ.その晩年に親しくつき合った同郷の若き詩人.ガスケは自ら目にし耳にした老画家の姿を丹念に記録していた。ゾラとの破綻した友情,ルーヴルで見せる破天荒な熱狂,アトリエで戸外で仕事に向かうセザンヌが語った芸術論・・・、傷つきやすい天才の複雑な内面を、詩的な言葉で再現した古典的伝記と対話篇.書評情報(岩波文庫・解説https://www.iwanami.co.jp/book/b246634.html)より・・・

晩年のセザンヌがポスト印象派の若い画家エミール・ベルナール(Emile Bernard/1868-1941)あてに書いた手紙(19040415)のなかの言葉、「自然を円筒形と球形と円錐形で扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい」キュビズムの予見で、かつ19世紀末~20世紀初頭の科学的な眼であるとされることもあるが、もしこれが只それだけの意味であるとするなら、それは誤解であるようだ。

無論、時代の空気からセザンヌが科学的な最先端の視座を持っていたのは間違いがないだろうが、それに留まるものではなく、むしろセザンヌは後の時代のミシェル・アンリ(Michel Henry/1922−2002/フランスの哲学者・現象学者)の『情感の現象学』(実質的現象学)の先取り的な「実在に関わるユニークな認識」を持っていたと見るべきかもしれない。

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この晩年のセザンヌの有名な言葉の背景にあるのは、まず「南仏エクス・アン・プロヴァンスの豊かな自然環境のなかで育まれた情感豊かな少年時代の想い出」である(画像はhttps://www.teestyle.jp/country/france/aix_en_provence/report/reportQXBAVN170502.html、および

https://www.traveldonkey.jp/france/aix-en-provence/11948/より)

そして、パリ以降の生活では、「ルーブル美術館でのデッサン(模写)の研鑽の傍らピサロなど印象派の画家たちと親交を結び、印象派展にも出品するが、やがて固有の道を探るため、その後は約40年にもおよび血がにじむような「自然と実在の本質を捉え、それをカンバス上で表現する困難な研究と仕事」に取り組むという、「セザンヌが画家として生き抜いた厳しくも美しい人生そのものの重み」である。

また、上に先立つ1905年のベルナールあての手紙では「ルーブルの先人たちの美しい描き方を学ぶだけで満足してはいけません。そこから抜け出し美しい自然を研究しつつ精神を解放させ私たちの固有の気質に従って自己を表現することに努めましょう。」と書いている。無論、セザンヌは、画家固有の気質・情感の実存だけでなく、同時に「自然の本質」に科学的な視覚で肉薄する努力を積み重ねた。それがセザンヌ絵画の「重厚なリアリティ」の秘密(情感と自然、二つの実在の融合としての実存)と言えるかもしれない。

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因みに、M.アンリ『実質的現象学』(叢書ウニベルシタス/法政大学出版会によれば、M.アンリ(Michel Henry/1922 - 2002)は、次のような原点となる視座から論考を深めて行ったと思われる。

 <自分一人が、あるいは自らを含む一定数の人々が、仮に、いま突然に此処で命絶えることがあるとしても、自らの周辺を含み此の世界に生きるその他大勢の人々は、やがて何事もなかったかのように、今までどおりの日々を生き続けてゆくだろう。しかし、このように絶えず流れ去る世界の中で、個々人の「絶対的主観性」を保障する<現象学的実在性(真理)>とは何であるのか?>

そして、同じ現象学と呼ばれるものであっても、M.アンリは、<フッサール現象学(委細/参照↓★)における「形相(エイドス)、質料(ヒュレー)」の作用因(アリストテレスによる)=抽象的認知>と、<自ら(M.アンリ)の現象学における「絶対的主観性」に内在する作用因=実存的認知(‐意識)>を全く異なるものとして峻別した。

フッサール現象学の概要(および、その現代的意義):旧「toxandoriaの日記」https://toxandoria.hatenablog.com/entries/2017/09/01

<注>アリストテレスの言う4種の作用因・・・形相因(エイドス)、質料因(ヒュレー)、始動因(起動因/アルケー)、目的因(テロス)の4つ。

・・・

従って、M.アンリの<実質的・志向的現象学/普通の意識では見えず、かつ理解不能な個々人の内奥にある真理の中核たる意識作用(コギタチオ)の探求プロセス>におけるエイドス(形相)とヒュレー(質量)の両者に相当する概念は、フッサール現象学とは異なり、外部世界の現象学的な形相的「与件/現出」以外の実在とも共鳴し得る多様な志向性(様々なベクトルを帯びた意識)を獲得することになった。

言い換えれば、M.アンリの現象学では、作用因としてヒュレー(質量)が最も重視されていることになる。もっと分かり易く言ってしまえば、M.アンリは、個々人の絶対的主観性の意識作用(コギタチオ)の実在性として視覚と結びつき易い形相(エイドス)よりも触覚・痛覚らとの親和性を十分に想像させる質料(ヒュレー)を採用していることになる。

そして、M.アンリは絶対的主観性の実在性(その中核に内在する真理)の現象学的な「与件(現れ)」として「感情」の表出を措定する。その絶対的主観性の核心(自己性の湧出源)となる「与件」の背後、個々の絶対的主観性の中核には、その与件(現れ)を含む広大な「感情の海」(超越論的情感性/affectivite)が存在すると見るのがM・アンリの特徴である。

つまり、「視覚」以外の知覚(内感の窓口としての触覚なども含む)を重視しているという点が、「視覚」という個々の形相的な与件(現れ)と結びつき易いエイドス(形相たる意識内容(コギタートゥム/cogitatum))を重視するフッサール現象学(やや設計主義的な理性の現象学)と、片や触覚を重視するM.アンリの現象学(“感情の海”の拡がりを想定する情感性の現象学)の根本的な差異であると思われる。

なお、[神谷英二:情感性と記憶―アンリ現象学による試論(1)/福岡県立大学人間社会学部紀要2005,vol.14,No.1,21―36 http://u0u1.net/GN7E]によれば、<情感性(affectivite)とは何か?の問い>に、M.アンリ以前のヨーロッパ哲学は必ずしも十分な答えを提示してきたとは言えないようだ。また、M.アンリ「現象学」の稀有な特質と言えるのは、それが『情感の現象学』から独特の一瞬一瞬の出会い(一回性)を重視する共同体論(個の自由原理ではなく、『第3章-モンペルラン協会の理念の変質』で後述する、デューイのプラグマティズムの共有的な自由(自由の共有)意識を連想させる!)へと発展することだが、ここではその委細を省く。

 (前置2)

【ポスト全体主義2.0(ネオリベ自国第一ファシズム2.0国家)の完成を“急ぐ”米トランプ政権/但し、安倍ファッショ体制下の<“事実上”独裁国>日本と異なり、国民の総体が催眠にかかっていないアメリカ合衆国は依然として薄皮一枚の差で民主主義国家の儘である!】目先と近未来~、二つの現実で何れが<イノヴェーション源>と見えるかがカギ! ➾資本主義の王、強気のワナ/金融緩和&時間稼ぎだけで真の成長戦略が不在!(アベ日本はもっとヤバ!W)/経済だ!愚か者@B・クリントンをパクるトランプ、社債バブルがリスク!2020222日経https://twitter.com/tadanoossan2/status/1231349236551254017

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世界投資マネーがトランプ強権(ネオリベ自国第一ファシズム2.0国家の完成を願望する!)支配の米国債務異常拡大に吸収されるグローバル・バブル仕掛で多数派国民&強欲投資家らが“操作”される、世界の構図!いわばトラ熱に浮かれた「タコ脚自食」方式のグローバル強欲バブル!万一の米財政破綻世界恐慌“勃発”の恐れが高まるバカリ!20200223日経 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1220184941062811650

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人々が日々に生きる『日常』エルゴン(蓄積不能なプレ・デュナミス生産性の潜性ワールド!近未来・未来の可能性の宝庫!/持続的な信用と生産性の培地=人々の自制心に基づく普段の生命力の海こそが 、<市場経済社債・株・AIら高度生産性の第一義的な生命線!>であるリアル!それを再確認(or覚醒)させてくれる新コロナパンデミック ➾米市場動揺、干上がるマネー CP発行難しく 資金調達に逆風 318日経 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1240332302795722753 

<注>エルゴン(ergon/死静態)・・・W.フンボルト(19世紀、プロイセン時代ドイツの言語学者)の用語で、普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことだが、リアルに活性化するとそれら両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。近年の生(命)化学、量子物理学ら先端科学研究フィールドにおける生命エネルギー論では、たとえばATP(アデノシン酸三燐酸)あるいは生体中の微小管(microtubule)などヒトの意識とプレ生命エネルギーたるエルゴンの(おそらく量子論的な?)関係性が注目されつつある(Ex.@R.ペンローズ、Cf.↓★)。

★コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

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不況の外形だけで目が曇り新コロナパンデの警告とバブル金融危機リーマンの決定的「差異」、つまり根本的に「経済」が分からぬアベの愚策!支持率対策も兼ねるバラマキでなく『日常』エルゴン(潜在イノヴェーション=対弱者層“傾斜”救済、ベーシックインカム等)】の意義に覚醒し、これらと併せて斬新な方向性を示すべき ➾政府、全国民に現金給付へ 「リーマン対策」の1万2000円超す額で検討(その後、一律10万円超のバラマキ案となった?)→ 更に、姑息な出し惜しみ「緊急事態宣言407」へ変容?  新型コロナ対策 319 毎日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1240721582110040064

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1 『人間社会』故の逆説ともいえるファシズム出現の可能性は常在的に潜む

 ・・・それだけに、AI学者であるブリュースター・ケール氏の「複数のウェブ(インターネット)・システム&デジタル図書館」の構築で「ネット社会の信頼」を取り戻すという挑戦には大いに期待したい!2020222日経(続、1~)https://twitter.com/tadanoossan2/status/1230947420449599488

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・・・

自然界の一部たる人間社会もある意味で広義の「永続性の原理」(持続的な対称性バイアス、つまり同調圧力のジャンル(自然界で作用する物理・化学的な相転移・熱伝導・濃度希釈など広義の“忖度・同調”への傾斜圧力)の誘惑を可能な限り断ち切り、または遅らせつつ最大限に定常性を維持するため暗黙知によるリスク分散/その全体を保証する原理が、おそらくハーネス調教に似る自然計算のプロセス(関連/Cf.↓★))で補完されている可能性が高い。

想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか? それは「アナログ/自然計算(“暗黙知”ワールド?)」と「デジタル/AIディープラーニング(“形式知”抽出マシンワールド?)」の溝の深さによる?(仮説)、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125003

ただ厳密にはローカル自然環境や広義の伝統文化または歴史発展的な意味でのヴァリエーションがあり、その典型が現代の人間社会(民主主義)の維持を目的とする、ヴォルテールが着想した「三権分立」に「メディア(第4権力)」が加わる権力分散(四つの権力)の形である。

これが剥出しの、換言すれば善・悪を超越した苛烈な生存競争に曝される生物・動物一般と異なる差異(信頼に基づく人間社会)を保証してきたといえる。しかし、そこには「人間社会」故の逆説ともいえるファシズム出現の可能性が常在的に潜んでいる

ファシズム全体主義)の最大の特徴は、『例外的なもの(あるものは無い、ないものは在る)への抽象的同一化』(委細は、当記事の冒頭の<注>を参照乞う)ということに加えて、ポピュリズム脆弱性を狙いモノカルチャー化(統一化・画一化)を仕込み「信頼に基づく人間社会」を敢えて破壊し、それを国家統制の一強支配下に置くこと(Ex.現下の日本でアベ政権が出現させた“カルト”流ポスト全体主義(又は、全体主義ファッショ2.0))だが、見方を変えると、これは自然界の大きな「永続性の原理」を破壊する、実に愚かな狂暴性の狂い咲き(インカーネーション)だともいえる

上で取り上げたAI学者、ブリュースター・ケール氏の「複数のウェブ(インターネット)・システム&デジタル図書館」の構築で「ネット社会の信頼」を取り戻すという挑戦>は、当然ながら、「新自由主義とAIの野放図な癒着」が進みつつある悪しき潮流(@ツヴェタン・トドロフ)に逆らうことであり、敢えて此のような意味での人間社会の優れた特性を取り戻すことが、その前提となっているはずだ

同じく、上で取り上げた<Deep Insight/世界投資マネーがトランプ強権支配の米国債務異常拡大に吸収されるグローバル・バブル仕掛で多数派国民&強欲投資家らが“操作”される構図>、あるいは<日本でアベ政権が出現させた“異常愛国カルト”性のポスト全体主義(又は、ポスト全体主義2.0)の出現>などは、いうまでもな新自由主義とAIと政治的情念」の野放図な癒着が暴走した挙句に産み落とされた異様な怪物リバイアタン(@ホッブス/現代の日本で言えば、アベ・サクラ怪獣リバイアタン!)とも見える

比喩的に言えば、それは形式知(一定の文脈、図表、数式らに因る抽象的な推測知で演出された物語)+悪徳感情」のマグマが凝集した“復讐の先取り”であり、それが戦争や飽くなき強欲のエネルギー源ともなっている。因みに、これは動物一般には見られない、ヒトの生体で起こる、ヒトであるからこそ出現する非常に特異で残忍かつ貪欲な意識の湧出現象である。

f:id:toxandoria:20200308162953j:plain英国のノーベル賞作家であるカズオ・イシグロは、ヒトの感情の最深部の病理(浪漫的でありつつも同時に奇怪で異常に残忍な感情の流れ)である、この<復讐の先取り/無媒介的認知的自己意識(@ダン・ザハヴィ)>をアーサー王が亡くなった頃のイングランドが舞台の作品、冒険ファンタジー忘れられた巨人』で見事に摘出している。因みに、ヒトの「形式知」を補完するのが「暗黙知」であるが、暗黙知はマイケル・ポラニー(Michael Polanyi /1891 - 1976/ハンガリーの物理化学・社会科学・科学哲学者)が提唱した概念であり、それは言葉や数式に置き換えて表せない印象、雰囲気(肯定の契機のフモール、又は虚無的なそれのイロニーなど)、感覚、直感らの経験「知」を意味する。

f:id:toxandoria:20200308163106j:plainダン・ザハヴィ(Dan Zahavi/1967‐ /デンマークの哲学者・現象学者)によれば、それ(復讐の先取りのジャンルの感情)はヒトの感情の最深部に潜むヒト故(その他の動物では見られない)の「作為的で狭隘な、あるいは過剰に貪欲な目的感情」(過剰な“個の自由原理”の湧出源)の可能性もある!/補、toxandoria)であり<無意識かつ条件反射的>に現れる非常に危険な悪徳感情、いわば「無媒介的認知的自己意識」である。そして「無媒介的」であるということは、それが殆ど無意識で条件反射的な感情の一方的で超権力的な表出ないしは、そこから派生する異常な応答関係(“権力的威圧⇄忖度&盲従”関係なる倒錯的な“安寧”ワールドの出現)であることを意味する

恐るべきことだが、その典型が日本の安倍晋三首相の<忖度>強制型の政治であり、いわば「安倍首相⇄高級官僚ら」という、殆ど条件反射的で倒錯的な“安寧”ワールドの出現(異常応答関係)の形で観察される。つまり安倍政権下における高級官僚らの過剰<忖度>の言動は、(無論それは保身のためではあるものの)殆ど条件反射的な行為の表出(下から上へ向かう)となっている。だから民主主義国家の権力者たるmin.理性法則(ロゴス)を遥かに凌駕するまで、その「無意識の悪徳感情」(上から下へ向けての)が異常肥大化した安倍晋三は、そもそも首相になるべき人物でなかったのである。

今や、日本も含め全世界は「新自由主義(経済)に呑み込まれるAI‐Web技術と新自由主義の癒着)」で殆ど一色に塗り込められつつあるが、これは紛れもなく、ツヴェタン・トドロフが警告した「AI・原子力らの科学技術」が新自由主義に呑み込まれるという、両者の癒着の構図が深化する姿であるしかし、それはヒトの「永続性の原理」と「人間社会の信頼」の破壊に他ならない。

しかも、「ヒロシマナガサキという戦時下における人類史上の大悲劇」と「フクシマ311」という原発過酷事故(初動因は大地震であるとはいえ、フクシマ原発の事故が過酷化したのは紛れもなくネオリベ型の強欲資本主義に取り込まれた政治権力者らが引き起こした人災(+日本伝統の悪しき構造災))の当事国である肝心の日本政府(外務省)が、<“NPT3本柱の一つ=原子力の平和利用”を口実として被団協主催の原爆展の後援はできない!>と断っていることには驚愕させられる。

日本は、いつから「日本へ原爆を投下した戦勝国」の仲間入りをしたのだろうか?「ナガサキヒロシマそしてフクシマ311」は日本政府(安倍政権)が見事に超克(アンダーコントロールしてみせた!などという、こんなアベさま好みの屁理屈で粉飾した戯言をまともに信じる日本国民は果たしてどれほど存在するのだろうか?(関連/↓★)

★1  外務省「原爆展後援できぬ」原発事故掲出、理由に 被団協主催20200304朝日 https://www.asahi.com/articles/DA3S14388869.html

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★2 朝日新聞の<対「アベ原発」忖度>人事!?】主要メディア・科学・政治・経済が諸共でファシズム2.0(ネオリベファッショ)に吸引される典型! ➾3.11~9年!の朝日・原発記者が現場を外される異例人事/229「官邸&記者クラブ、ズブズブ・ヤラセ安倍会見」幹事も朝日!311日刊ゲンダイhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1238630424420552704

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・・・

それだけに、上で取り上げた人工知能(AI)学者であるブリュースター・ケール氏の「複数のウェブ(インターネット)・システム&デジタル図書館」の構築で「ネット社会の信頼」(新自由主義に取り込まれやすい(@ツヴェタン・トドロフ)、否、既に殆どそれに呑み込まれている!)を取り戻すという挑戦には大いに期待したい!(関連/↓▼) 

その原理は「イメージセンサ、マイクロ流体力学&同流路チップ、シングルセル解析etc」✖ AI‐DLの学際的な先端技術!(科学の扉)人体、1細胞ずつ解析 機能調べる国際計画、「成り立ち」の謎迫る124朝日:(所見/toxandoria)しかし、その実現でヒトが人造物(マニプランダ)化(“ヒト永続性の原理”破壊)のおそれ!「批判的実在論&人文・社会系」視座の役割がますます重要化しつつある!だから、今こそ「科学・科学技術という還元論的・絶対的人工主義がいくつかの抽象的(数学的・物理的)な指標から人間なり歴史なりを構成する(いわばそれは自在なディープ・フェイク化とも見える!)ことが容易になればそのとき、我われヒトは、自分で思い込むとおりの人造物(マニプランダ)となってしまうので、我われヒトは「経験論」的な、あるいは「生の現象学」的な(or普通の人々が住まい生活する日常生活的な)謂いでの文化の支配圏へ呼び起こされることがあり得ない(必要なくなる)ので?深い眠りへ、否、寧ろ悪夢に落ち込んでしまう筈だ。(@メルロ・ポンティ『眼と精神』-みすず書房-)という予告(警告)も真剣に受け止めるべき時であろう https://twitter.com/tadanoossan2/status/1232789730376339456

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「精神と眼 メルロ・ポンティ」の画像検索結果

 2  ツベタン・トドロフ『民主主義の内なる敵』が意味すること

 (自由原理主義のルーツと現在)

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『民主主義の内なる敵』(大谷直之・訳-みすず書房-)の著者、ツヴェタン・トドロフ(Tzvetan Todorov/1939 - 2017/ブルガリア出身/仏の思想家、哲学者、文芸批評家)によれば、キリスト教一神教)では、その神が創造するより前の世界は考えない。かつ、その神は自らに似せてヒトを創ったとされる。

故に、神とほぼ同等の(どこまで似せても許されるのか?その程度(神へ服従すべき範囲)に関わる論争が、アウグスティヌスVsペラギウス、の対立・抗争&異端問題ということになる。従って、このような西欧の世界観の下で我われ人類には<進歩と人民(個人の権利)>の未来を切り開き、直線的に未来へ向かって、少しでもより良い豊かな世界を創り続ける<自由/“原罪についての理解”と関わる>(特にプロテスタントにおいては義務?)があるということになる。

 <注>原罪と自由の理解について・・・諸説あるが、一応は「アダムとイヴが自由の原理に関わる神の示唆の無視」ということが原罪の意味である、と理解できる。なお、東方教会は原罪そのものを認めていないとされる(要参照資料/↓★)。

★ペラギウス派による原罪論批判の本質と課題──悪は「善の欠如」であるか?──山田 望/中世哲学会 http://jsmp.jpn.org/jsmp_wp/wp-content/uploads/smt/vol60/115-123_tokushu-yamada.pdf

 ・・・ 

トドロフによれば、歴史的に見るとキリスト教の世界では神が許容する一定の範囲での自由を良しとするのが正統であり、最大限に自律的な人間としての自由を尊重すべきとするのは異端とされてきた(因みに12世紀スコットランドではヨハネス・ドウンス・スコトウス(Johannes Duns Scotus/1266-1308)による両者の中間をとる非常に中庸な自由論が生まれており、これが啓蒙思想へ流れ込んだとの説もある/補、toxandoria)

一方、近代「科学革命」の曙の時代でもあった仏革命後の18世紀末~20世紀初頭にかけての急速な科学理解の深化と科学技術の進歩とも相俟って、共産主義独裁(ソ連邦ほか)、ファシズム(戦前のナチス独、日、伊など)、新自由主義(特にポスト冷戦の世界体制)という、いわば<政治的イデオロギーどおりの理想の国家体制(いわば神の国)をリアル世界で実現しようとする「政治的メシア思想」>の呪縛が世界を縛ることになった。

繰り返すがキリスト教では神が現れるより前の世界については考えない(ポスト神の起点から時間が一直線に進む)ことが大前提であり、この点こそ「輪廻の観念を前提とする仏教世界」と「直線的に時間が推移するキリスト教世界」との決定的な違いをもたらしている。また、実に興味深いことだが本格的なAI時代に差し掛かかりつつあるともされる昨今の「ヒトの意識の発祥に関わる研究」(特に脳科学フィールド)でも、このような意味での「東西における宗教観の根本的な差異」が研究手法そのものへ大きな影響を与えていることが観察される(関連参照↓★)。

★【塚田 稔:書評】ウオーター・J・フリーマン著「脳はいかにして心を創るのか—神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意思—」浅野孝雄・訳(埼玉医科大学名誉教授、小川赤十字病院名誉院長)・・・嗅球(olfactory bulb)は、脳底部の旧哺乳類脳の一部が鼻腔上方に突出して形成する球状の構造物である。鼻腔の嗅上皮に到達した嗅いの分子が、末梢受容細胞である嗅細胞の受容タンパクと結合して発生させたインパルスは、嗅神経を通って第一次中枢である嗅球へと達する。・・・ https://www.jstage.jst.go.jp/pub/pdfpreview/jnns/18/4_18_4_227.jpg

 ・・・

それ故、西欧の世界観の下では、直線的に未来へ向かって進みつつ「飽くなき進歩と豊かさへの欲望と人民(個人)の権利の領域」を切り開き、少しでもより良い経済的に豊かな世界を創り続ける<自由>(特にプロテスタントにおいてはそれ(豊かさを実現するための天職(職業)への精進)が義務となる!/@マックス・ウェーバー)が我われ人類にはあるのだということになる。

近年、マックス・ウェーバープロテスタント倫理=天職」の問題プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)として、ウェーバーの「論」そのものに誤謬(作為的?)があるとの説もあり、注目されている(↓◆)。その理由は「ルター訳『聖書』1534」頃の時代の独語Berufに“世俗的な天職の意味はなかったということ”などである。

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羽入辰郎マックス・ヴェーバーの犯罪/『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』ミネルヴァ書房、をめぐる「羽入-折原論争」の展開/橋本 務 https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Book%20Review%20on%20Hayu%20Tatsuro.htm

・・・

しかし、いずれにせよ、プロテスタントの「少しでもより良い経済的に豊かな世界を創り続ける<自由>を求める強い意思」こそが(それは、ほぼ併行して進んできた啓蒙思想、科学進歩、そして資本主義経済が発展するベースでもあった訳だが)、ツヴェタン・トドロフが言う意味での“自由原理主義”の胎盤でもあったと考えられる。

従って、米トランプ現象(新自由主義リバタリアニズムと結託してファシズム2.0国家へ米国を展相させるという野望)らの「排外ポピュリズム(自己(自国)第一主義)、マネタリズム&グローバル市場原理主義、地球環境破壊容認論」など、全人類的な危機の源は、そのことごとくが此の核心に居座る「際限がない行き過ぎ(Depassement sans fin)/飽くなき過剰(無限のオーバーフロー)の欲望と化した、自由原理主義(厳密に言えばリバタリアニズム)の拡張意思」にある!と言える

(深刻化する“新自由(自由原理)主義、ファシズム2.0、科学技術”癒着の問題

周知のとおり、主流経済学の座を占めた新自由主義の独断場と化したかに見える「1970年代以降~現在に至る約半世紀におよぶ時代」は、いまや止まることを知らぬか!とさえ見える激しい「格差」拡大のトレンドが世界を震撼させ続けてきたといえる。そして、近年になってから、その深刻な経済「格差」による社会「分断」の「犯人」として、漸く、広くリアルに理解されつつあるのが「ファシズム2.0のツール化して新自由主義ネオリベ自国第一ファシズム国家)に呑み込まれる科学(科学技術)」の問題である。

然るに、ツヴェタン・トドロフは以前からこの問題を指摘しており、上掲署『民主主義の内なる敵』のなかでも新自由主義イデオロギーに科学が呑み込まれる甚大なリスク」について警告しており、特に「フクシマ3.11」の如き悲劇を回避する決め手はヒト(特に一般国民と政治権力者)の意志(意識)しだいである、ということを強調している。なぜなら、明らかに「フクシマ3.11」は<科学技術が新自由主義イデオロギー>に呑み込まれた“見事なまでの人災の典型事例”であるからだ

それにもかかわらず、「新コロナウイルス」と「ウソ吐きまくるアベさまのサクラスキャンダル」等の喧騒が“フクシマ3.11についての国民の関心”をスッカリ掻き消してしまったかのような空気のなかで、「女川原発2号機/再稼動準備・検査合格/↓▲」のニュースが殆どノー・コメントで、恰も、誠に希少な日本の祝事(いわいごと)か、あるいは明るい出来事でもあるかの如く垂れ流された

 宮城 女川原発2号機 規制委員会の審査に合格2020年2月26日NHK https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200226/k10012301761000.html?fbclid=IwAR1_a1cBuN5KaqHFpLo8Xfr83hug398dxvxlhRiML2ftPmLA5plRnTD87s8

・・・アベ“フクシマ・アンダーコントロール宣言という悪辣な嘘”はその深刻化の典型事例・・・

★1 [主張/赤旗]女川原発「合格」住民の安全は置き去りなのか・・・2011年3月11日の東日本大震災で大きな被害を出した東北電力女川原発2号機(宮城県女川町、石巻市)について、原子力規制委員会は新規制基準に適合すると認めた審査書を正式決定しました。・・・原発をめぐっては、原発そのものの危険性にとどまらず、避難計画の実効性について、周辺の住民や自治体から不安と懸念の声が絶えません。それにもかかわらず、「合格」を出したことは重大です。安全を置き去りにした再稼働を推進することは許されません。・・・以下、省略・・・20200228赤旗https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-02-28/2020022801_05_1.html 

★2【連想】“原発マネー式玉砕”?/ボロボロ!女川原発2号機にひび1130カ所】自民党公明党らは何故に再稼働を強行しようとするのか?カミカゼ原発のつもりか?原発マネーのためか?

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  https://twitter.com/tadanoossan2/status/1186364304842317824

★3  フクシマ2号機「爆発」危機の回避が成功の科学的根拠は未解明!安倍アンダーコントロール式「大嘘」の罪は重く恰もそれは新コロナ行政検査での発祥「件数」抑制の欺瞞&傲慢に重なる! ➾終わりと始まり:フクシマ、現場の奮闘 「偶然」の生還、思い出して 池澤夏樹304朝日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1237109397551067137

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★4 福島第一原発3号機は核爆発だった」原発設計技術者が東電、政府を批判、・・・低濃縮ウランで核爆発が起きないというのは安全神話にすぎず、実際に爆発を起こした実験結果が米国にあります:藤原節男氏306AERA dot./週刊朝日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1236979883256893440

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・・・

(ツヴェタン・トドロフが指摘する新自由主義の盲点)

・・・新自由主義に潜む「二つの盲点」・・・

ツヴェタン・トドロフが著書『民主主義の内なる敵』のなかで最も強調しているのは新自由主義の盲点」ということだが、それは(1)ロック、ホッブスら革命(啓蒙)思想家から新自由主義者が受け継いだ抽象的・普遍的価値観の重要性ということ(2)同じく彼らが啓蒙思想家から受け継いだ“ヒトを物質的or合理的な利益のみで動かされるエゴイストとしての存在”と見ること、の二つに絞られる。

まず、トドロフ(1)について「新自由主義者は自由原理の普遍的な牽引力を公準としている」ことが彼らの最もベーシックな盲点だ」と主張するが、そこで、トドロフは、この新自由主義の第一の盲点を照射し、それを理解しやすく説明するため、フランス革命の自由に関わり十分に注意すべき側面があること」について1790年にエドマンド・バーク(参照/↓▲)が書いた内容を引用する。全文転載では長くなり過ぎるので、以下にその『要点』を抽出して転載する。

エドマンド・バークEdmund Burke/1729-1797):アイルラン生まれの英国の政治 思想家・哲学者。『保守思想の父』とされる人物。

 『ある事象に関わる一切の諸関係を切断して、形而上学的抽象による裸で孤立状態にある事象それ自体しか見ないのであれば、私は責任を持って人間の自由に関わる行動や問題に関係することについて称賛すべきか、非難すべきかを、まったく区別することができない。また、例えば権力を使用する自由であっても、それは如何に使用されるかで判断されるべきであって、抽象的に判断されるべきではない。何も私の行動を制限しなければ、私は絶えず増大する権力を獲得することになる。この権力は私が望もうが望むまいが、周囲の他の個人を犠牲にして行使される。特に、それが政治的なものである場合は、彼らはそうすることで、穏健であろうとしていた政府のためにモンテスキューが表明した黄金律を忘れるのである。すなわち、無際限の権力は正統ではありえないだろう。』

<注>このモンテスキューが表明した黄金律のなかで位置付けられる「自由」は、「第3章-モンペルラン協会の理念の変質」で触れる「デューイの“共有的な自由”」(完全な“個の自由”をベストとするリバタリアニズムと異なる、米国における、もう一つの自由主義の伝統、つまり自由の共有(共有が可能な自由)ということ)にソックリ重なると思われる。つまり、「啓蒙思想」自身が硬直的な抽象的普遍に囚われているという理解は誤りである。

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ともかくも、このトドロフの(1)「新自由主義の盲点」は、見方を変えれば、それが次節で書くアンドリュー・セイヤーの「概念飽和(Concept Saturation)」(セイヤーが説く批判実在論の重要な視点の一つ)の問題に重なること」は間違いがない。 セイヤーは、の最も重要な著書とされる『社会科学の方法-実在論的アプローチ-』(ナカニシヤ出版)のなかで、度々、この「概念飽和」に触れており、例えばミルトン・フリードマンの自由原理主義は、「非常に高度抽象化した概念飽和」が<一切の伸縮性を失い固着化したもの>だとセイヤーは主張する。つまり、この点こそがトドロフの(1)「新自由主義の盲点」と同じ理解ではないか、と考えられる訳だ。

ところで「概念飽和」がセイヤーら批判実在論この用語の創始者は(前置1)で触れたとおり現代イギリスの哲学者ロイ・バスカーである)の用語であるとしても「概念飽和」的な考え方は普通に我われが、殆ど無意識に理解していることだ。例えば、物や色などを表す言葉の意味(概念)、または抽象的な言葉の定義(概念)などが、ある程度は一定の範囲に止まることがなければ、我われの日常的なコミュニケーションが取れなくなるはずだ。

従って、そのような意味で一定の範囲で言葉に伴う概念の範囲が留まることは、それ自体が概念飽和であり、そのような意味での概念飽和は、人間社会においては至極あたりまえのことである。そして、この意味での概念飽和がなければ、つまり、もし一定の範囲の意味が共有できない(その意味での概念飽和がない)とすれば、日常会話でのコミュニケーションは無論のこと、特に法律や科学技術など専門分野の用語では致命的な問題に繋がることになるだろう

一方、ものごとを寛容に理解したり、永続的に信用を繋ぎ留めたり、多様性を大切にしたり、あるいはイノヴェーション・新発見・芸術的創造性や豊かな想像力の発揮などのためには、その意味での概念飽和(これは概念規定と言うべきだが)に余りにも過剰に固着すると、それらに関する新しい可能性や能力発揮の機会を逃したり、又はヒトにとり最も重要な人間性を破壊したり人道上の犯罪を犯したりする如き悪行さえ、人間社会で当然視されることにもなりかねない

つまり、「ウソ吐き・ドロボー・記録改竄etc」の非人間的な悪行の常習犯お仲間こと「安倍サクラ政権/ファシズム2.0」が一強支配する今の日本で、目下、万事につき日々に起こり続けている社会的な大混乱の原因の殆どが、実は、安倍首相による「このような意味での概念飽和の使用ルールの作為的な破壊」であることが理解できる。従って、安倍晋三氏を崇め奉る諸権力グループのお仲間らは、とても普通の意味での人間とは言い難い存在である。w

従って、ここで重要なのが、その個々の「概念飽和」をコミュニケーションの媒介材料として日常的に利用する必要がある人間社会そのもの(従って、数理的なそれは別として抽象概念そのものさえも)が、それ自体としては絶対に独立的に超然と存在(君臨)することはできず、必ず我われは「エトノス自然・文化環境」と数多の「ヒトの生命の一回性」との結びつきの共鳴と干渉の場のなかで生かされ、生きている存在なのだという、そのような意味で謙虚な<現実(リアリズム/実存)>についての理解があるか否か、ということになる

言い換えればこの「エトノス自然・文化環境」と「我われ人間社会で生きる一人ひとり」が、生(個々の限られた生命)の「一回性」を介し繋がり続けることが「ヒトの生きることの意味」だという“十分に文脈的で説明的”な相互の理解がありさえすれば(特に、政治・経済・社会的な問題については法の支配の下において)、もっと言えば「ヒトとしての傲慢な心性を遍く捨て去り、この謙虚な態度を絶対的な前提条件」とすれば、たとえこれが専門用語の概念規定の謂いでの「概念飽和」であるとしても、又はたとえそれが啓蒙思想の普遍(高度に抽象的な)であったとしても、その意味を周囲や社会一般の人々との間で、等しく十分に文脈的で説明的な意味でのコミュニケーションをとりつつ微調整で変容させることは可能であり、むしろそのような意味(概念フレームを深化させる)であれば、これらの意味は積極的に深化・変容させるべきだとも考えられる(因みに、この点はアベさま流の自分勝手で独善的で好き勝手なムリクリ解釈の世界とは雲泥の違いがある!)それは、我われ人類が決して「エトノス自然・文化環境」および「数多の人々との一回性の繋がりの持続性」から超然となり得る森羅万象の万能の神などではないからだ。もし、それができるなら、そのヒトは例えばアベ様の如き「癌細胞かカルト狂人のジャンル」となる!w

なお、二つ目の「(2)同じく彼らが啓蒙思想家から受け継いだ、“ヒトを物質的or合理的な利益のみで動かされるエゴイストとしての存在”と見ること」は、いわゆる「新古典派(主流経済学)の合理的経済人 」と繋がる問題だが、後で第5章で書くことになるのでここでは省略する。

いささか異なる視点から見ると、このセイヤーの主張が意味するのは、「新自由主義マネタリズムを代表する学者であるミルトン・フリードマン市場原理主義は<純粋に抽象的で固着的な世界に嵌った概念飽和の典型>だということであるセイヤーの著書『社会科学の方法-実在論的アプローチ-』によればフリードマン「直感の人」とされることが多いようだが(https://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/jss/pdf/jss6402_167170.pdf)、実は数学的才能に恵まれた(ハイエクと異なり/苦w)ミルトン・フリードマンの「市場原理主義」論は、市場経済が物質における重力の法則と類似の法則に支配されていることを前提としている

また、セイヤーによれば、フリードマン特徴的な「抽象概念基底的な意味」で“抽象”概念飽和を示す典型的な表現はミルトン・フリードマン自身が好んで使った「整序枠組み」(ファイリング・システム)という用語である。いわば、ファイリング・システムの如く「分類・論理・体系」的に整然と配列され続ける経済理論体系のイメージである。だから、ここでは「リアル経済に関わる客観・実在・因果的合理性」と「抽象概念的な主観・論理的合理性」の混同が見られるということになる。そして、この種の偏狭な市場経済の理解について距離を置くのがシュンペーターであるが、これについての委細は第4章へ送る

因みに、フリードマンの「整序枠組み」については、この説に対峙するかのような異説もあることを申し添えておく。例えば、下記★がある。ただ、この点については「フリードマンの完全自由原理主義リバタリアニズム)」(委細、第3章で詳述)との絡みで、果たしてフリードマンプラグマティズム(特にデューイの)を何処まで正確に理解していたのか?という意味で疑問符がつく。

ミルトン・フリードマン道具主義としての“市場原理”主義・・・市場原理の祖と見なされるミルトン.フリードマンではあるが、「重要論文F35」の読み直しから、実は<フリードマンが「諸経済理論F・システム大系を哲学的視点(?/補、toxandoria: ∵フリードマンの道徳哲学は名ばかりであった!@宇沢弘文でネットワーク化し、真の経済理論が完成する迄のさし当りの道具としての市場原理である/道具主義プラグマティズム)の市場原理」>と考えていた節があると、理解できる。https://www.chuo-u.ac.jp/uploads/2018/11/2988_31122discussno167.pdf?1552953600201

ともかくも、特に“一回性”と“永続性原理”の橋渡しと見るべき生命・生態論およびリアルな人間社会の日常性と深く関わる人文・社会科学フィールドでは、自然科学(数学・物性物理学あるいは量子物理学ら)の如き意味で究極の統一理論の完成を期待することそれ自体が誤りではないかと考えられる。なお、このような論点については、後で触れることになるが新進気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルも「新実存主義の立場で主張している。

だから、最も広範な視座(逆説に聞こえるかもしれないが)を提供する哲学・倫理こそが最も重要であり、その哲学を頼りに「整序枠組み」(ミルトン・フリードマンが好んだ用語)へのプロセスを、絶えず広角の視座から大系づけし直すことが重要ではないか?無論、これは特に人文・社会系では必須であるが、自然科学も生態系で生きるヒトを含む生命・生態論を土台とする視座(いわば、その意味での科学哲学の視座)が、つまり多様性と開放系へのエントランスの確保こそが生命のベースであるという立場からヒトを認知理論的に理解するためにも、究極的にはそのような視座が必須であろう。

「経済的理性の狂気」の画像検索結果

さもなければ、「科学の過剰サービス化(@カール・マルクスデヴィッド・ハーヴェイの解釈:『経済的理性の狂気』-作品社-)≒新自由主義に呑み込まれた科学・科学技術」の如き、“自らの拠って立つべき大地を喰らいつくす”と言う意味で、我われを生み落としてくれた生命・生態系にとって有害な科学利用の方向へ暴走する恐れがある、ということになるだろう。

<補足>生命体であるヒトの思考(意識)における概念飽和は科学(化学・物理ら)の「飽和」とは意味が異なる。それは、ヒトの概念飽和には殆ど無限の自在性(伸縮自在性)があるが、科学のそれには無制限な伸縮自在性が基本的にはあり得ないから。また、おそらく「概念飽和」の観念は「マッハ感覚論的素材性(論)」(マッハ現象学/Cf.↓)の考え方と何らかの関わり合があると考えられる(当ブログ記事に関わる限りという意味でだが、それは未だ文献類での確認ができていない!)。

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Claude Monet−Young Girls in a Boat. 1887. Oil on canvas. National Museum of Western Art, Tokyo, Japan./Olga's Gallery

 再び、マッハ現象学とマッハ感覚論的素材論(性)についての考察が必須・・・「同じと思われる光景」でも我われは異なる現出(実在・真理と信ずる射影、イメージ表象)を見ている/が、一方でその最大公約の表象(最大の共通項となる)が客観性(間主観性が保証する)である、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180701/p1

 (飽くなき過剰の欲望への批判力たるコンシリエンスと批判実在論の登場)

 「批判実在論」(Critical Realism/文脈的な説明を重視する社会科学/関連参照➾(前置)の視点で見ると、下記は「過酷事故・放射性廃棄物」リスクの原発と同じく「自然計算or自然循環/特に“複雑生命系”の永続性原理」を無視し、むしろそれを破壊しようとする安倍内閣の「ポスト全体主義2.0ネオリベ自国第一ファシズム国家)」とそっくりに見えるのだが、どうだろうか?(苦w)

(科学の扉)種の壁越え、望みの作物 受粉・受精・発芽できれば食糧問題に光?113朝日https://twitter.com/tadanoossan2/status/1216624648034455553

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ツヴェタン・トドロフによれば、コンディヤック(E. B. de Condillac/1714 - 1780/英経験論の父ジョン・.ロック(John Locke/1632- 1704)から決定的な影響を受けた仏の哲学者・聖職者)は、16世紀以降の「科学革命」の時代の空気のなかで、先ず<感覚論>を研究しており、やがて<経験論哲学>の研究を経て抽象的な分析思考を記号化し、それらを論理大系化する道を開いた。

更にこれがラヴォアジェ(フロギストン説(↓▲)を論破したため近代化学の父とされる)の化学記号の整理と大系的命名法の考案(化学革命)に繋がった。他方、化学(元素)記号そのものの考案者はスウェーデンの化学者イェンス・ベルセリウス(J. J.Berzelius/1779 -1848)である。

▲フロギストン説はなぜ支持されたのか/永井俊哉ドットコム、https://www.nagaitoshiya.com/ja/2011/phlogiston-theory/

・・・ 

すでに(前置)で触れてきたことだが、感覚と感情は切り離し難く深い関係にあると思われるが「感覚=感情」ではなく、いわば「感覚=感情のエントランス」と言うべきであろう。同じく、(前置)で既に述べたとおり、M.アンリは絶対的主観性の実在性(その中核に内在する真理)の現象学的な「与件(現れ)」として「感情」の表出を措定する。

そして、その絶対的主観性の核心(中核的な自己性の湧出源)となる「与件(現れ)」の更なる背後、つまり個々の絶対的主観性の深奥には、その与件(現れ)を含む広大な「感情の海」(超越論的情感性の拡がり/affectivite)が存在すると見るのがM・アンリの特徴であった。

ともかくも、このようにコンディヤックの「感覚論(もっぱら暗黙知)の研究」(先ず<感覚論>を研究し、やがて<経験論哲学>の研究を経て抽象的な分析思考を記号化し、それらを論理大系化する道を開いた歴史)が、それは間接的であったとはいえ、遂には、それがラヴォアジェ(Antoine-Laurent de Lavoisier/1743 - 1794)らのフロギストン説を超克して「化学革命」をもたらすことに繋がったという歴史から[次のようなこと]が理解できる。

*[17 世紀「科学革命~化学革命」~現代「民主主義」社会のフローの柱と見るべき事象のポイント]

ニュートン力学の受容(17世紀・科学革命)・・・もっぱら数学・数理物理論らの形式知による

●18世紀「コンディヤックの化学革命」・・・「形式知暗黙知」による

●18世紀「科学革命の完成期」・・・もっぱら形式知による

●18~19世紀「啓蒙思想の完成」・・・もっぱら形式知(事実検証的な理性)による

●20世紀~「現代民主主義の成熟?」・・・コンシリエンス(consilience/人文・科学知の融和的統合)が必須の時代!?(←関連で(前置)参照!)

・・・

この流れから分かるのは、いよいよ21世紀こそ、AI・原子核物理学(核 分裂反応・核融合反応、他等の先端科学それ自体のためではなく、またヒトの飽くなき過剰(無限のオーバーフロー、または科学の過剰サービス化への願望)である欲望のためではなく、この地球という自然環境のなかでヒトが等しく幸せに生きられるよう、それら先端科学技術らを役立たせるための広角の展望を与え続けることが可能な<既存アカデミズムの領域を超えたコンシリエンス、批判実在論>などの視座が確実に必須になると考えられることだ。 

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因みに、批判実在論(Critical Realism/文脈的な説明を重視する社会科学の視点で書かれた『社会科学の方法-実在論的アプローチ-』(ナカニシヤ出版)の著者アンドリュー・セイヤーは、同書のなかで<100%形式知の立場を採る自然科学といえども自らの「仮説」に因る論理大系のフロー(説明的な文脈)には必ず比喩的(暗黙知的)な言語表現が施されるか、あるいはそれを内包している(その仮説の展開者自身がそれを自覚しているか否かはともかく)。但し、純粋な形式知である数式そのものはその内包から除く。>と主張しているが、それは上の<既存アカデミズムの領域を超えたコンシリエンス、批判実在論>などの視座が確実に必須になる>ことを裏付けている、といえるだろう。

なお、アンドリュー・セイヤーの委細は、下記情報()を参照乞う。

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 アンドリュー・セイヤーと同書の内容について―ナカニシヤ出版の案内より転載― http://www.nakanishiya.co.jp/book/b481631.html

アンドリュー・セイヤーAndrew Sayer/1949‐ イギリス、ランカスター大学社会学部教授。専門は社会理論および政治経済学。社会科学に関する哲学的諸問題に一貫して関心を寄せて研究をしてきたが、その研究は社会の実質的な諸問題、特に政治経済と不平等の問題の研究と常に結合している。

内容説明研究対象と研究目的から、最適の研究社会研究にどのようにアプローチすべきか、を批判的実在論の視点から考察。研究対象と研究目的から、最適の研究方法を割り出すための方法論。欧米で30年にわたり版を重ね続ける名著、待望の初訳。

(批判実在論とコンシリエンスの先に見える身体化された心(エナクティヴィズム)の問題)

生存の限界に直面した生命が新たな適応力を展開し得る条件は何か?に関わる現象学的な方法論を探るごく新しい概念が「身体化された心(エナクティヴィズムenactivism)」の問題である。特に、ダン・ザハヴィが「現象学の自然化」(アバウトに言えば、コンシリエンス(“人文科学”と“科学知、特に神経生理学”の融合/実在論と観念論の中間の道)、いわば「批判実在論」に近いとも見える新しい概念の研究enactivismに取り組んでおり、そこから開始する新たな認知理論の展開が期待されている(関連著書↓★1)。

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★1 ダン・ザハヴィ『フッサールの遺産』―現象学形而上学、超越論哲学―(叢書・ウニベルシタス)

・・・そもそも「身体化された心」は、オートポイエーシス論の創始者であるマトゥラーナとヴァレラの研究に由来する概念であり、この概念を確立したのは上のザハヴィの著書★1とされている。しかし,更に遡れば「エナクティヴィズム」(enactivism)の用語を初めて使ったのはエヴァン・トンプソンであると思われる(↓★2)。

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★2 ヴァレラ、トンプソン、ロッシュ著:田中靖夫訳『身体化された心(The Embodied Mind)1991』(2001、工作舎)・・・Evan Thompson (born 1962) is Professor of Philosophy at the University of British Columbia in Vancouver and an Associate Member of the Department of Asian Studies and the Department of Psychology (Cognitive Science Group). He is a Fellow of the Royal Society of Canada.https://evanthompson.me/

特に、この「身体化された心」は科学的現象学(カント由来の超越論的哲学の最先端フィールド)、ダイナミカルシステム理論(ゲシュタルト心理学の分野)、第四段階に到達したとされる先端AI研究(自らを世界内存在であると意識できる、いわゆるハイデガー的な人工知能)などの分野で注目されている。

因みに、繰り返しになるがHKBモデル(身体-環境システム・モデル、https://en.wikipedia.org/wiki/Haken-Kelso-Bunz_model )を使った「神経科学における意識研究」(神経現象学)の最先端では、「意識の特性は志向性」にあることがS.ギャラガー(米・精神病理哲学者)とザハヴィが名付けた「現象学の前倒し」(front-loading phenomenology)という研究手法で科学的にも裏付けられつつあり、当然、これはヒトのコトバの誕生・発生等の問題とも関連することが考えられる。

なお、神経現象学(Neurophenomenology)はF.J.ヴァレラ(チリ出身の認知科学者/オートポイエーシス理論で知られる)によって提唱されたアプローチで、一般に①体験の現象学的な分析、②力学系理論(ポテンシャル関数、統一場理論など)、③生物学的システムに関する実験、の三者の統合に特徴がある(Gallagher and Zahavi 2008; Thompson2007)(以上、当節『エナクティヴィズム、関連』の出典=当事者研究を神経現象学に接合する:石原孝二・東京大学・大学院総合文化研究科、http://phsc.jp/dat/rsm/2013_a1-3.pdf )

ハイエクミルトン・フリードマン、そしてモンペㇽラン協会に始まる新自由主義の奔流

ハイエクミルトン・フリードマン

・・・ハイエク、および宇沢弘文ミルトン・フリードマンの天敵?)が紹介する「米国における“共有的な自由(自由の共有)”の伝統」について・・・

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シカゴ学派自由主義経済(自由原理主義)とマネタリズムを日本へ紹介しハイエク全集とミルトン・フリードマン『選択の自由 』の日本語訳を手掛けて自由主義哲学と新自由主義思想)の普及に大きく貢献した人物は、西山千明1924-2017理論経済学者、立教大学名誉教授)であるが、同じ自由原理主義と言っても、ハイエクミルトン・フリードマンのそれでは、拠って立つ原点における考え方は大きく異なっている。

ハイエクデビッド・ヒューム (David Hume)の経験論の基盤たる感覚哲学(観念連合(観念連想))を頂点とする 道徳哲学の流れ(スコットランド啓蒙主義)、あるいはクヌート・ヴィクセル(Johan Gustaf Knut Wicksell/1851-1926スウェーデン経済学派)らの影響を受けており、特に初めのころは経済に止まらない幅の広い「非設計主義」的な視野が感じられる。

「宇沢弘文」の画像検索結果

つまり、それだけハイエクでは各所において大いに矛盾点が目立っており、例えば同じヒューム思想とクヌート・ヴィクセルの大きな影響の流れから、新自由主義とは真逆の立場(“エトノス自然・文化環境論”的な)と見るべき宇沢弘文1928-2014/東大名誉教授/数理経済学、意思決定理論)の『社会的共通資本』という非常に人間的な経済思想が生まれている!/関連参照↓★)因みに、シカゴ大学時代の宇沢弘文ミルトン・フリードマンと同僚の立場であった(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60245?page=2)。

宇沢弘文「社会的共通資本」から学ぶ、自由原理主義(金融市場原理主義/サプライサイド論)の根本的誤謬の在り処、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

・・・

もうひとつハイエクの矛盾点?というか興味深いところを拾っておくと、自らが主張する自律的な自由思想の拠りどころとしてハイエクも、ツヴェタン・トドロフが“ヒトのための大きな合理主義”を重視する視点から新自由主義への批判の拠りどころとして触れた、エドマンド・バークを取り上げていることだ(関連で、第1章‐(ツヴェタン・トドロフが指摘する新自由主義の盲点)を参照乞う)。

無論、表面的に見れば、バークが正統的な保守思想家の祖であると見なされていることから保守思想家であるハイエクがバークを引用するのは何ら不思議ではないようにも思える。しかし、ことはそう単純ではない。むしろ、それだけ「ハイエクが主張する新自由主義の自由原理(過激な完全自由原理に傾斜するリバタリアニズム)」には大きな矛盾(キリスト教の解釈で異端とされたペラギウス派に潜む陥穽/関連で(前置)も参照乞う)が内在することの現れだと理解すべきであろう

因みに、ハイエクFriedrich August von Hayek/1899-1992)は、「第一次世界大戦が終わるころから世界経済恐慌(1929‐1932)、独ナチスの欧州支配、ソ連スターリン独裁、第二次世界大戦、東西冷戦期、ソヴィエト連邦が解体(1991.12.25)しロシア連邦とCIS諸国が出現するとき(ベルリンの壁の崩壊を目撃する直前のとき)」まで、94年間の激動の時代を生きたオーストリアンの経済学者哲学者である

ナチスの脅威がオーストリアへ及ぶ前にハイエクはイギリスの LSE(London School of Economics and Political Science)で教授職に就き、第二次世界大戦後はシカゴ大学(社会科学・道徳哲学研究所の教授)へ移り、 リバタリアニズム(libertarianism/新自由主義と一部は重なるが、それより更に個人の自律的な自由を完全に徹底させる非常に厳しい立場/(前置)で触れたペラギウス派(@ツヴェタン・トドロフ)に近い?)に立脚する学者らが集結した組織「モンペルラン・ソサイエティー」を組織(1947)し、その初代会長を務めた晩年には欧州へ戻り、例えば ロンドンのIEA (Institute of Economic Affairs) の設立に関与する(IEAはラスキを徹底的に批判するサッチャー革命の理論的拠点となる)などで活躍した

<注>The IEA is the UK’s original free-market think-tank, founded in 1955. Our mission is to improve understanding of the fundamental institutions of a free society by analysing and expounding the role of markets in solving economic and social problems.https://iea.org.uk/about-us

<注>ハロルド・ジョセフ・ラスキ(Harold Joseph Laski/1893-1950

・・・多元的国家論を唱えた英国の政治学者で労働党の幹部。フェビアン協会を通じ労働党に入党した。マルクス主義に傾倒したが、戦時中の英国では極めて評価が高く、戦後はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス政治科学部長を務めた。

 ・・・ハイエクのカタラクシー(Catalaxy)・・・

市場には「自生的秩序」(spontaneous order)があると見て、ハイエクはそれをカタラクシー(Catalaxy)と名付けた(ハイエクの造語)。が、この「市場で何かが自生する」という見方はミーゼス(Ludwig H. E. von Mises/1881-1973オーストリア=ハンガリー帝国出身の経済学者で現代の自由主義思想に大きな影響を及ぼした人物、ハイエクはその弟子の一人の頃からオーストリアンの核心に明確な姿を現した伝統的な考え方であった。

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根井雅弘『資本主義はいかに衰退するのか/ミーゼス、ハイエク、そしてシュンペーター』(NHK出版)などによれば、世界が大恐慌に見舞われ、ルーズベルトが1930年代にニューディール政策を導入した頃に、ハイエクは名高い<ハイエクVsケインズ『経済論争』>から身を引いたとされ(ケインズに敗れたと感じたらしい?)、それ以降のハイエクは専ら社会・経済哲学の分野の著作を手掛けるようになった

言い換えれば、ハイエクVsケインズ『経済論争』>とは<ハイエク(a小さな機能(合理)主義/おそらくハイエク自身は大きな合理主義を意識していたつもりらしい?)Vsケインズ(b大きな機能(合理)主義/実は非常に数学の才能に秀でており、かつそれに留まらず謂わば現代の“ロジャー・ペンローズ的な意味で計算不可能なリスク(大きな合理主義=自然・生命論理を支える永続性の原理、量子物理学の視座も取り込んだ自然計算ワールドについての理解に匹敵する視座)”に強かったケインズ計算不可能なリスク、つまり大きな合理主義の支配力(リアリズム倫理論的な意味での広大な視座)も十分に意識していたと思われる?)の『経済論争』>と、見立てることができるようだ。

「大きな機能(合理)主義」とは、ムッソリーニファシズムに回収されたイタリアの建築家ジュゼッペ・テラーニのモダニズム建築の特徴となっている「小さな機能(合理)主義」と対比的な概念と見るべき(@田中 順『政治の美学‐権力と表象‐』https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331)、フィンランドのアルヴァ・アールトが創造した言葉である。

それは「小さく、ひ弱な人間のための建築(一回性の命を日々に紡ぐリアルな生命の論理を求める人間のための建築)」、つまり<「アールト建築の特徴である大きな機能主義/人間性を包摂する、人間のための機能主義=エルゴンワールド(ergon/蓄積不能なプレ・デュナミス生産性(潜在イノヴェーション)の潜性ワールド/持続的な信用と生産性の培地=人々の自制心に基づく普段(日常生活)の生命力の海」のことである。

因みに、「不確実性」の意味を、「a 予測可能性/計算可能なリスク(小さな合理主義)」と「b予測不可能性/計算不可能なリスク(大きな(推定)合理主義/自然・生命論理のベース=永続性の原理、自然計算エルゴンワールド」の二つ(厳密に言えば、aは先見的(数学計算的)確率と統計的確率になる)に切り分けて定義した(“ナイトの不確実性”と呼ばれる)のはフランク・ナイトであるFrank H. Knight/1885-1972/シカゴ学の第一世代(道徳哲学がベース)の経済学者/ミルトン・フリードマン宇沢弘文の共通の師にあたる)

ところで、そのころのハイエクは「19世紀末~20世紀前半の社会主義経済論争/関連↓★」のひとまずの決着が、「取引市場における価格はワルラス系の連立方程式の解でしかあり得ないので、資本主義・社会主義の何れにせよ同じ解(価格)になる」というポーランドの経済学者オスカル・ランゲ(Oskar Lange1904-1965)の的確な証明(ランゲ・モデル/参照↓)が示されたことから、この新しい議論に応じて自分の立場をさらに磨き上げる(政治哲学的に社会主義を否定する?)決心をした。 

1   社会主義経済計算論争とランゲ・モデル、https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B2_%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

2   社会主義計算論争とは? https://cruel.org/econthought/essays/paretian/socialcalc.html

・・・

<補足>ワルラスを自由原理の祖の一人と考えるのは誤り

・・・ワルラス(Marie E. L. Walras /1834-1910/フランス生まれのスイスの経済学者/シュンペーターが高く評価した人物。経済分析に数学的手法を活かし一般均衡理論を最初に定式化した)は、個々人の力では及ばない大きな動きという意味での自然現象として経済を観察分析しようというスタイルで、その意味で経済学を自然科学と見立てていた。

・・・そのうえで人間的要素の介在のどの部分までをそこに含めるのか、どこから先を道徳科学など別の科学に委ねるのか、その線引きという微妙な問題に取り組んだ。従って、ワルラス理論経済学の最大の目的は自由競争が適用されるべき範囲を画定することであった。

・・・だから、ワルラスを自由原理の祖の一人と考えるのは誤りである。そもそも、ワルラスは“限定合理主義”的で社会主義的な発想の持ち主であったとも言える。(参照文献↓★)

★「ワルラスの経済学観と科学への視点」−英国モラルサイエンスとセイの間で−/鈴木則稔・筑波学院大学教授、https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2013/04-suzuki.pdf

・・・

 そして、ハイエクは従来は与件(当然の前提条件)とされてきた資本財・消費財・労働などをめぐる知識(現代的に言えば“情報”によるオートポエーシスに似た自生的な秩序創生論の視点の重要性)に気づき、ハイエクの人生後半の研究はそれに費やされることとなり(一連の重要な論文が1937、 1940、 1945、 1948、 1968)、その成果が『市場・知識・自由』(1986ミネルヴァ書房 /原著1973)で纏められた。ただ、その「自生論的」な視点は『隷属への道』(西山千明訳 1992、春秋社/原著1944)のなかで既に見られるようだ(@根井雅弘『資本主義はいかに衰退するのか』)

・・・

 一方、ハイエクのそもそもの自由論は国家権力からの自由を意味する古典的な自由論であり、その意味では革命期「欧州」の自由論の一つのタイプである「貴族エリート層が上から与える自由」であったハイエク自身はオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウイーンの学者の家庭の生まれだが父方はボヘミア 貴族の家系)。また、革命期「欧州」の自由論にはもう一つのタイプの民衆の自然権への覚醒に因る「下から要求する自由」があり、フランス革命(大革命期以降~第三共和制までのプロセス)とは、この二つのタイプの自由論の葛藤の歴史であったと見なすこともできる

その意味での古典的な自由論からスタートしたハイエクの自由論は、モンペㇽラン協会の設立(委細後述)などの影響もあって、しだいにその内容が変化しており、自律的な節度ある古典的な自由をうたいつつも遂には過激な自由市場原理主義(完全自由原理主義)へ過剰に傾斜するリバタリアニズムへ到達し、やがてそれ故にこそハイエクは自由原理主義の元祖視されることとなる

ついでながら、ハイエクVsケインズ『経済論争』>の背景に<市民型自由主義ハイエク)Vsハーベイロード金融エリート新興貴族趣味(ケインズ/↓▼)>の伏線を見る向きが多いようだが、「ハイエク自身が貴族系の出自であること(後で触れる)、またハイエクの自由が古典的自由主義から完全自由原理(リバタリアニズム)へ深化し、遂には啓蒙思想由来の自由原理(市民型の下から自由)の真逆に位置する新自由主義(格差を当然視する新しいタイプの“ごく少数派”のための完全設計主義)へ到達しているという現実があること」などから、それは無理なようである。

ハーヴェイロードの前提(Harvey Road presumption)・・・「政府は民間経済主体に比べ経済政策の立案能力・実行能力に優れている」という仮説。増税と政府の裁量権拡大を正当化するケインズ経済学を批判する意味で使われる。経済学者ロイ・ハロッドRoy F. Harrod/1900-1978/ケインズの弟子でポスト・ケインジアンの一人が、『ケインズ伝』で、ケインズが生まれ育ったケンブリッジのハーヴェイ・ロード6番地(ロンドンの上流知識人が多く住む街)にちなんで、ケインズの政治思想につけた言葉。いわば、裁量的な財政・金融政策は、民間の一般人より賢明で合理的な判断ができるエリートが行うことが前提条件だということ。

・・・

しかし、非常に残念なことだが(見方しだいでは、この重要な問題を末永く考え続けさせてくれるハイエク!?という意味では有意義なことともいえるが・・・)上で見たとおりハイエクの自由論には大きな欠陥がある。くり返しになるが、それは、ハイエクの古典的自由論の内容が時間の経過と共に変化しており、自律的な節度ある古典的な自由をうたいつつも、遂には過激な自由市場原理主義へ過剰に傾斜する完全自由主義リバタリアニズムまで到達してしまったということだ

そのため、ファシズム国家や社会主義の過剰「設計主義」を厳しく批判しながらも、肝心のハイエク自身の思想が「完全自由市場原理主義リバタリアニズム)という抽象的・普遍的な牽引力を公準とする」(@ツヴェタン・トドロフ)という<新自由主義の盲点の一つ>に嵌っていること(過剰な設計主義を厳しく批判するハイエク自身がリバタリアニズムという完全設計主義の帝王となってしまうという、一種の自己撞着的な矛盾に嵌っているということ)になる、と思われる。

また、残念なのはそれらがすべて「市場」のなかに押し込められてしまっている、いわば「市場原理主義」であるということだ。しかも、そのハイエクの「市場原理主義」の眼差しには、後述する『日常』に潜むエルゴン(潜性イノヴェーション)の問題は入っていないようだ。

無論、更に厳密に言えば、根井雅弘が指摘するとおり自生的秩序の考え方は既に『隷属への道』(1944)の頃に現れており、やがてハイエクはそれをケインズとの『経済論争』に敗れた後の時代になって研究対象として明確に取り上げることとなった初めは市場における「知識(情報)の分散」を収斂させる方法の考察の意味合いが強かったのだが、やがてその視野には社会制度の全般までが入るようになり、現代で言えば複雑系の社会制度論(その中枢となるのが市場原理、いわば一種の市場原理の崇拝に近い?)のような、あるいはその種の社会哲学的な論考の方向性となった

つまり、そのユニークなハイエクの「自生的秩序」の考え方は市場論を超えて社会一般への社会哲学的な意味合いまで深化した訳だが、残念に思われるのは、そのハイエクの「自生的秩序(Catalaxy)」論が飽くまでも、そもそもの課題であった「市場」論に内在すると見るべき「『日常』に潜むエルゴン(プレデュナミス潜在性/内需等に係る新しい生産性の培地)」の視点を欠いているのではないかと思われることである。おそらくそのためと思われるが、ハイエクには先に触れた「大きな機能(合理)主義」(計算不可能なリスクを伴う)と「小さな機能(合理)主義(計算可能なリスク)」の混同が窺われる(ハイエク自身が大きな機能(合理)主義を意識していたこととは関わりなく!)

しかし、それにもかかわらずハイエクの「自生的秩序(Catalaxy)」 の着想は、現在の「政治権力の在り方から科学技術に至るまでのことごとくが市場原理主義に呑み込まれて然るべき」と見る人々が多数派を占めるまで増長化するに至った、いわゆる<ネオリベラリズムの呪縛(@ツヴェタン・トドロフ)>を乗り越えるためにも、また未生の世代を持続的に育む役割を担うべきと思われる資本主義の未来のためにも非常に重要な視点を提供しているとも思われるので、そのエッセンスを下に纏めておく。

「フリードリヒ・ハイエク 市場・知識・自由 ミネルヴァ書房」の画像検索結果

・・・以下は、[松岡正剛フリードリヒ・ハイエク 市場・知識・自由 ミネルヴァ書房 1986]https://1000ya.isis.ne.jp/1337.html ほかを参照しつつカタラクシー周辺の関連情報を纏めたものである。・・・

カタラクシー(Catalaxy)という言葉は「交換すること」「コミュニティへの参入を認めること」「敵から友人にかわること」などの意味を持つギリシャ語に由来している。ハイエクが自生的秩序(社会・市場における)として語るカタラクシーは、各人が当局に統制されることのない環境のなかで、主観的な情報や意図・目的を自由に利用しつつ決定し、その帰結として導かれるところの相互作用的な行為システムが織りなす(市場の)自生的秩序である

因みに、ハイエクの場合も同じことが言えるようだが、自称“新自由主義”派のエコノミスト(現代経済の主流派)らがエコノミー的な思考で設計主義(大きな合理主義の論理を見落とすこと!)に堕すのはいわば必然ともいえるだろう。また(既述のとおり)、ハイエクは自由原理についても“古典的自由主義リバタリアニズム(完全自由主義)”という思想的な遍歴を経てミイラ取りがミイラ(設計主義排除→完全設計主義者)になるプロセスを歩んでいる。

つまり、それはこういうことだ。歴史を遡れば、そもそもは人間行為を「より満足の低い状態と、より満足の高い状態との交換」(恰も熱力学または統計力学相転移を彷彿とさせる考え方!) とするカール・メンガーCarl Menge/1840-1921ワルラスと共に限界効用理論の創始者の一人)は、既述のとおりオーストリアンの開祖的な存在で、ハイエクはその弟子のひとりが『政治経済学』 に代わる用語として「カタラクティクス」を使っていた。

ハイエクは、この「カタラクティクス」の派生語として「カタラクシー(catallaxy)」という新語を考案する。それは、社会のために計画者が立案したものではなく、各個人がそれぞれの目的を追求するうちに、自生的に整う市場秩序のことであり、ハイエクはこの語によってそのことを表現し、遂にはそれを従来の「経済/economic」に代わる言葉とすることを試みた

そして、その“カタラクシーという新しい言葉は、喩えれば恰もセザンヌ絵画の重厚なリアリティの秘密(情感と自然、二つの実在の意識上の融合としての実存)の如き実に興味深い、斬新な実在論(つまりカタラクシーというリアリズム)の視座を発見したのではないか?と思わせる一方で、ハイエクには極端なマルキシズム嫌いなどで見られるとおり、一種の政治・経済的なメシア思想(原理主義的イデオローグ)へジャンプする傾向(つまり、その非常に観念的な保守イデオロギーを現実社会の制度や仕組みで、かなり強引に実現させようとする傾向)がある。

ハイエクの弱点とも見るべき、このように政治・経済的なメシア思想へジャンプする傾向を脇に置くとすれば、<ケインズVsハイエク『経済論争』>の後にハイエクが発見した視点、いわば<玉石混交の知識(情報)が交差する「市場」という名の坩堝から、経済的に意味のある「価値」が創生するという「カタラクシー」>の考え方は重要である。それは、古典派の大前提では、市場に参加するすべてが完全な知識をもっていると想定されているのだが、現実には、そんなことはありえないと思われるからだ。

つまり、それ(市場が完全な知識をもっていない)にもかかわらず市場はうまく動いているのだとすると、むしろ本当のところ、実は真逆であり<不完全な知識が市場に参加することによって、うまく「カタラクシー」で分業されている>のではないかつまり、知識(≒情報)もまた、アダム・スミスが市場での「労働の分業」を説いたように、分業されているのではないか?とハイエクは見たようだ

しかし、おそらくハイエクは気づいていなかったようだが、この「カタラクシー/自生的秩序」の培地と見るべきものこそが、個々の人々と内外の諸観念や自然が目に見えない多様なルートで繋がり、共鳴しつつ活動し続ける現象とみるべきエルゴン(“プレ・デュナミス潜性生産性=潜在イノヴェーション”の培地)であると考えられるので、<知識(情報)も市場で分業されている>というハイエクの主張のくだりを、<市場のカタラクシー(自生的秩序)で経済的に意味のある「価値」(リアル生産性)の創生が分業されるとともに、市民の日常のカタラクシーではエルゴン・ファクター(潜在イノヴェーション)も強化され続けている>と読み替えて理解するのが妥当かもしれない。

・・・ミルトン・フリードマンの市場原理について・・・

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一方、ミルトン・フリードマン Milton Friedman1912-2006マネタリズム市場原理主義金融資本主義を主張しケインズの総需要管理を批判し1976 年にノーベル経済学賞受賞)の経済思想は同じ新自由主義とはいえ、そもそも当の新自由主義派の人々が忌避する「設計主義」的な空気(フリードマンの場合は、超抽象設計主義的なもの)が感じられる関連参照➾第1章‐『・・・セイヤーの主張、<ミルトン・フリードマンの自由原理主義は「概念飽和」が高度抽象化のうえ固着化したものである!>が意味すること。・・・)。

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ところで、マネタリ ズムと新自由主義の信奉者であることを誇りとされる山田 久・元和光大学教授によれば(和光経済 巻 50 号 : 発行年 2018-03和光大学リポジトリ  https://wako.repo.nii.ac.jp/?)によれば、 安井琢磨戦後の日本で近代経済学の普及と建て直しに多大な貢献をした経済学者)、福岡正夫、熊谷尚夫、荒憲 治郎、内田忠夫、篠原三代平、ミルトン・フリー ドマン、市村真一、嘉治元郎、山田雄三西山千明(執筆順,敬称略)共著、西山千明ほか編『近代経済学講義』(1964/創文社)は、1962 年に米国(シカゴ大学) から帰国して立教大学の教授に就いた西山千秋が 帰国後すぐに理論経済学セミナーを開催して出版 までこぎつけたものだ。

これがフリードマン自身の講演による「マ ネタリズム」の日本初上陸であった。その頃、マネタリズム に関する論文 はすでに日本でも知られていたが、フリードマン自身が直接日本で新貨幣数量説について講演したことに意義があると思われ

・・・以下は、山田 久氏“退任記念講演”(同上、和光大学リポジトリ )の部分転載・・・

山田 久氏(同上、和光大学リポジトリ )によると『米国貨幣史』はフリード マンの「マネタリズム」の実証研究の基礎となったもので、それは米国の過去 100 年の国民総生産と 貨幣の時系列の趨勢を丹念に拾い上げたものであった。その全体の読み解きから貨幣の動きが国民総生産の動きの原因になっていることが分かったとされる特に 1929-1933 年の大恐慌は,貨幣量の大幅な減少が国民総生産を減少させ大量の失業を発生させたと理解できるとされた。
このようなフリードマンの主張は当時の経済学界にとって衝撃的であった。それは、当時の主流派であるケインズ経済学は、 1930 年代の国民総生産が減ったことが貨幣量の 減少を引き起こしたのであり,貨幣量の減少は  結果でしかないという見解だったからだ
つま り、それまでの経済学界の認識では経済が流動性の罠」(金融緩和で利子率が一定水準以下に低下した場合、投機的動機に基づく貨幣需要が無限大となり、通常の金融政策が効力を失うことに落ち込んでいるときは 貨幣量の変動は実体経済に影響を与えないという 解釈だったからであった
フリードマンは自説のマネタリズムに対する批判に応えるため、米国の事実を見ようということになり NBER(全米経済研究所)の研究として『米国貨幣史』を著した訳であった。しかし、 NBER の理事会の評価は、米国の経験だけでは不十分だということになったため、その調査範囲を英国と日本に拡大した。100 年以上にわたる貨幣の経済統計を有する国は米、英、日ぐらいしか考えられなかったからだとされる。 日本には江戸時代末期からの資料が残ってい たうえ(大混乱期でもあった、此の時期のデータは信憑性に些か疑義を感じるが?/補、toxandoria)、幕末から明治時代にも各金融機関や日本銀行は詳細な金融基礎資料を残していた。

そして、貨幣委員会の当面の目標 はフリードマン流のマネーサプライの作成であった。 まず日本銀行の管理下にある、すべての金融機関 の預金勘定を流動性の高い要求払い預金と流動性 の低い定期性預金とに仕訳けをした。次に現金通貨と要求払い預金を合計して M1 とし、M1 と 定期性預金を合計して M2 とするというものである。つまり、 今では M1、M2 は常識であるが、当時は革新的でマネタリズム新自由主義とともに目新しいものであった。フリードマンが M1、M2 というマネー サプライの新しい概念を示したことで、米国の連邦準備制度日本銀行も時間はかかったが, それらを採用するに至ったことになる。・・・ここで、山田 久氏“退任記念講演”(同上、和光大学リポジトリ )の部分転載は終わり・・・

・・・ミルトン・フリードマン市場原理主義が批判的に検証されるべき理由・・・
ただし、以上の山田 久氏“退任記念講演”のミルトン・フリードマンマネタリズムに関わる紹介については、客観的に見て些か留意すべき点があると思われる。それは、「貨幣量が短期的には実質経済に大きな影響力を持つ」とする一方で、「長期的には実質経済への影響がなくなりインフレにのみ作用する」という考え方や、「政府の裁量より中央銀行のルールを重視すべきという主張」は、ニューケインジアン(新ケインズ派/新古典学派と本質的に異なる理論体系を主張する経済学者の総称)を含め現代のマクロ経済学に広く組み込まれており、現在では多くの経済モデルが何らかの意味でマネタリズム的であるからだ。そのため、かつてのようなケインジアンマネタリストか、といった区別は意味を持たなくなってきており、「今日のマクロ経済学者の中で伝統的なマネタリストを見つけるのは難しくなっている」と言える。
もっとも、ごく大雑把に言えば、マネー供給量が増えれば所得が増える、という考え方はケインジアンも端からもっていた訳であり、ただ、その流通速度への評価には違いがあるということではないか?従って、問題とすべきは<純粋な伝統マネタリズム理論(ミルトン・フリードマンのそれ)よりも、<政治的強者に媚を売ったり、理論の内容の是非は問わず“とにかく高名な理論”を私益や出世のタネとして平然と利用するエセ学者(例えば、竹中平蔵氏?らw)らに煽られて暴走する一方となってしまった自由原理主義の無条件賛同者>らの方である。無論、これら双方が深く癒着した金融・経済政策、例えばアベノミクスなどは甚だ有害だと見るべきであろう!
ともかくも、このマネーサプライの概念を世間に浸透させたことが「ミルトン・フリードマンマネタリズムの功績」であることは間違いがない但し、その肝心マネタリズムの実証研究」の有意性は未だに未完のままであるとみるのが、ごく冷静な経済学的視点ではないか?と思われる
それは、ネタリズムの理論の有効な部分がある一方でケインズ『所得速度』(同一の貨幣が一定期間内に何回持ち主を変えるかの平均)を最も重視した意義は決して失われておらず、それどころか昨今の新コロナ・パンデミック株価大暴落が発生、日常生活に関わるリスクが急拡大すると同時に現金(キャッシュ)の重要(必要)性が条件反射的に?高まりつつある!)の到来では、マネタリズム(又はAI機械イノヴェーション、サプライサイド政策、AI型投機・サービス金融、ビットコインなど)へ過剰傾斜すること(AI・金融傾斜型の市場原理主義政策の暴走)の限界とケインズ派の意義が再認識されている。従って、これを機に、今こそ市民の『日常』生活と表裏一体と見るべき「潜在イノヴェーション」の重要な意義にこそスポットを当てるべきと思われる

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いずれにせよ、市民の安定的なリアル『日常』の持続と、それを支える安定的な『衣食住の持続的なリアル生産・消費活動』(このリアルな日常は絶対に蓄積ができない一回性の持続であることに留意!)、およびその培地とも言うべきローカルな地球上の文化・自然環境(エトノス)および内なる精神環境の充実こそが経済的な「常態」(シュンペーター『静態⇄動態』モデル全体の意味)のベースであり(この点は、およそ封建時代以前の素朴な経済社会でも同じコト!)、更にそのため最も肝心となる『物価安定』の要は、矢張り、ヒトのための<信用>の維持であるということが、AI「シンギュラリティ」なる新世界の熱狂的「信徒」はともかくとして(w)、我われ<リアルに生きる人類>へ、再び、そのことが突きつられていると見るべきだろう。(関連参照➾フィッシャーの交換方程式(古典的貨幣数量説)https://www.findai.com/yogow/w00370.html)。
だから、「ミルトン・フリードマンマネタリズム」の意義を再考するとすれば、おそらくその最も重要なポイントは“一定期間におけるマネー量トータル(供給量)の大きさだけでなく、その期間内に流通するマネーが人々の『日常』生活のなかで<各「一回性」の関係=ヒトがヒトとして生き続けること>を十分に支えることが極めて重要だという認識に基づく、適切な量のマネーが持続的に、適度な速さで供給できる仕組みを工夫するということである。
次に重要なのが「その各一回性の関係(=ヒトがヒトとして生き続けること)が可能になるという意味で十分な量のマネーが供給できる仕組み」を工夫する役割の中心的な担い手は、いくらグローバルAI‐Web時代になったとしても「国家」以外には考えられないことだ。安定したグローバル・ネットワークでその代替が可能だ!という理想を持ち続けるのは、それはそれとして重要であるだろうが(関連参照↓▼)、まず人々がリアルの『日常』生活を安心して持続できるという<ヒトにとって最低限の必要条件を満たす生命の論理>を最優先させなければ、あらゆる意味で本末転倒となる。

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・・・

そして、その「国家」の<信用>を着実に支え続けるのが、先ず基本的には古典的イノヴェーション
によるエネルゲイア(ビジネス&金融活動がもたらし貨幣に換算できる付加価値)の創造であるが、「そのヒトがヒトとして生き続けることが可能になるという意味で十分な量のマネーが供給できる仕組み」を保証するためには、一定期間におけるマネー量トータルの大きさだけでは不十分であると考えられるが、 この問題については、後の第3章と第4章へ送る。
 
  (モンペㇽラン協会に始まる新自由主義の奔流)

 ・・・モンペルラン協会の創設・・・

 ・・・以下は、本山美彦・京都大学名誉教授(世界経済論)のブログ『福井日記 No.170 ハイエク、シカゴ大学、モンペルラン協会』からの部分転載。https://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/c47be2da63f00bb7414bb3e0f9e18217

◆モンペルラン協会(Mont Pelerin Society)は、市場経済と開かれた社会(open society)の促進を目的として設立された国際組織である。
 一九四七年四月一〇日、フリードリッヒ・ハイエク(Friedrich Hayek)がスイスののモン・ペルランに世界から三九人を招待した。招待された人のほとんどは経済学者であったが、歴史学者、哲学者もいた。国家の現状、古典的自由主義(classical liberalism)の運命にならんで、世界を覆うマルキストケインジアンたちとの闘争が会議のテーマであった。
 招待された人たちは、例えばヘンリー・サイモンズ(Henry Simonsシカゴ大学教授、経済学)、ミルトン・フリードマン(後に会の会長)、元・米国のフェビアン協会員でフェビアン社会主義者であったジャーナイスとのウォルター・リップマン(Walter Lippmann)、「ウィーン・アリストテレス協会」(Viennese Aristotelian Society)の指導者、『開かれた社会』の哲学者カール・ポッパー(Karl Popper)、オーストリー学派の経済学者、ルードウィヒ・フォン・ミーゼス(Ludwig von Mises)、一九四〇年~四六年の英国王立協会(the British Royal Society)会長を務めた後にイングランド銀行理事(senior official)となったクラッパム卿(Sir John Clapham)、オーストリーハンガリー帝国皇帝(the Austro-Hungarian throne)の末裔、オットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)家に代々使えてきた、四〇〇年の伝統をもつイタリア出身の大富豪「ツルン・ウント・タクシス」(Thurn und Taxis)家の末裔でバイエルン(Bavaria)に本拠をもつ同名の老舗企業のマックス・フォン・ツルン・ウント・タキシス(Max von Thurn und Taxis)等々、錚々たる顔ぶれであった。

 これらは中世の貴族、現在の上流階層、そしてオーストリー学派、つまり、上流階級にとってのよき時代のよき伝統を継承する面々だったのである。古典的自由主義とは、現代的な民主主義や共和主義を指すのではなく、貴族たちがもっていた高尚な心の自由を意味する概念であるように思われる。・・・途中、省略・・・
 もうお分かりであろう、ハイエクの理想とする自由主義(究極的には古典的自由主義からリバタリアニズムへ変質した!/補、toxandoria)とは、ナポレオン以前の皇族たちも享受できる自由だったのである。
 ミルトン・フリードマンの義兄にアーロン・ディレクター(Aaron Director, 1901~2004)がいる。アーロン・ディレクターの妹、ローズ(Rose)とフリードマンは一九三八年に結婚している。ディレクターは、経済学におけるシカゴ学派を隆盛させた功労者であると言われている。
 一九〇一年、ウクライナ(Ukraune)のチャルテリスク(Charterisk)に生まれ、米国に移民した後、第一次大戦後、エール大学(Yale University)入学、第二次大戦中は、戦争省(the War Department)と商務省(the Department of Commerce)に勤務、一九四六年シカゴ大学ロー・スクール(the University of Chicago Law School)に採用される。著作は少ないが、シカゴ大学の発展に大きな貢献をなしている。一九五八年にはノーベル経済学賞受賞者(一九九一年)ロナルド・コース(Ronald Coase)と協同してthe Journal of Law & Economicsを創刊した。シカゴ大学はすでに一八九二年からthe Journal of Political Economy をもっているが、ディレクターは、法と経済学の接合を目指したのである。
 ディレクターが、米国の出版社のことごとくが断っていたハイエク(Friedrich Hayek, 1899 ~1992)の『隷属への道』(Hayek, F.[1944])をシカゴ大学から出版させた。

 
当時、ディレクターはまだシカゴ大学ではなく、上記のようにワシントンに勤務していたが、シカゴ大学出版部とのコネクションがあったし、なによりもすでにシカゴ大学にいたフランク・ナイト(Frank Knight)と親しかった。このこともあって、シカゴ大学出版部にこの本を出版させたたのである。
 ディレクターは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(London School of Economics=LSE)に留学していて、そのときにハイエクと面識ができた。ディレクターは、同時にモン・ペルランの開催に協力することになる。とくにシカゴ大学のメンバーをこの会の会員に勧誘することに成功した。シカゴ大学関係では、上記のフランク・ナイトとジョージ・スティグラー(George Stigler)がいた。もちろん、ディレクターも会員であり、その強い勧誘でフリードマンも会員になった。そして、フリードマンは、第一回のの会議に招待されたのである(http://www.pbs.org/wgbg/commandingheights/shared/minitextlo/int_miltonfriedman.html)。
 引用文献 Hayek, Friedrich[1944], The Road to Serfdom, Routledge Press; the University of Chicago Press.
     ハイエク、F. A.、西山千明訳『隷属への道』春秋社、一九九二年。

・・・ここで、引用おわり・・・

・・・日本における新自由主義の始まり・・・

山田 久氏“退任記念講演”(同上、和光大学リポジトリ )」(既出)によると、日本で初めてモンペルラン協会のメンバーになったのは木内信胤1899-1993吉田茂らのブレーン・相談役を努めた経済評論家であった。それによると、木内信胤1958 年に ハイエクの勧めで「モンペルラン協会」に 入会し、それ以後ハイエクに傾倒したためハイエクの理論に因る「新自由主義」を熱心に説くこととなった。また、同「講演」はモンペルラン協会の理念と目的(文章起草)が以下のようなものであることを紹介している。

<参考>木内信胤のプロフィールhttps://www.hmv.co.jp/artist_%E6%9C%A8%E5%86%85%E4%BF%A1%E8%83%A4_000000000697201/biography/

・・・1899年(明治32年)7月30日、東京市牛込区にて出生。東京高等師範学校附属小学校、中学校から、第一高等学校独法科を経て、1923年(大正12年東京帝国大学法学部独法科を卒業し、横浜正金銀行に入り、東京、上海、南京、ハンブルグ、ロンドンに勤務、1945年(昭和20年)終戦と同時に、総務部長兼調査部長を最後に退職して大蔵省に入り、勅任参事官終戦連絡部長を務めた後、1952年(昭和27年)7月の占領の終了まで、外国為替管理委員会委員長を務め、その後1955年(昭和30年)から今日まで38年間、「財団法人世界経済調査会」理事長の現職にあった。この間、日本国有鉄道理事、外務省参与、国語審議会委員、臨時行政調査会第一専門部会長等を務め、また政治、経済、文化、社会、宗教、農業等極めて広範な分野に亘る経済評論家として活躍、歴代首相の経済指南役とも呼ばれた。1993年(平成5年)12月5日没(享年94歳)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)木内信胤語録』より

<参考>財団法人世界経済調査会(情報源:Wikipedia

連合国軍最高司令官総司令部GHQ)参謀2部(G2)所属のCIC(防諜隊)の下請け機関として設立された、旧軍人による情報収集グループである特務機関河辺機関(河辺 虎四郎、辰巳 栄一らの反共主義工作機関がその後、「睦隣会」に名称変更され、それを母体として、内閣調査室のシンクタンクとして設立されたのが「世界政経調査会」である。そのため、初期の内閣調査室には河辺機関出身者が多く流入している。「内外の政治、経済、社会事情等の総合的な調査研究を行い、 内外事情に関する知識の向上普及を図ること」を目的としており、内閣官房から情報調査委託費が交付されている。内外情勢に関する情報調査や資料収集を行い、毎年「国際情勢の回顧と展望」という名のレポートを刊行している。役員には警察庁内閣情報調査室出身の元官僚が名を連ねている。所在地:東京都港区赤坂2-10-8 設立:1961年7月1日 会長(2013-):植松信一(警察官僚、内閣情報官など歴任

<参考>「河辺機関」に関する米公文書の要旨、http://www.shikoku-np.co.jp/national/detailed_report/article.aspx?id=20060812000263

・・・

(理念)

モンペルラン協会は、市場中心の経済システム の働きを研究し、政府の関与を最小のものとする リベラリズムを理想として、調和の取れた国際経済関係を創り出すような国際秩序の創設や、市場の機能を阻害しない最小限の規制の実現などを追求する

(目的)

その唯一の目的は、自由社会の原則と実践を強化したいと考えて、志を同じくする学者・実務家などの間での交流を促進し、市場中心の経済システム(市場原理)の働き、利点、欠点を研究する ことにある。(そして、1947 年 4 月 10 日に次のような目的を期した文章が起草された 

「現在、文明の中核となるべき価値観が危機に瀕している。世界の広範な地域で、人間の尊厳や自由に欠かせない条件がすでに失われてしまった。 その他の地域も、現在の政治的傾向が進展すると いう脅威に絶えず脅かされている。専制権力が個忍耐の価値を人や自発的組織の地位をますます蝕んでいる。思想や表現の自由といった、西欧人にとり最も貴重なものですら、少数者の立場にあってを唱えながら、自らのもの以外の価値観を弾圧し抹消できる権力の座を確立することのみを目指す信条が広がることによって脅かされている。我々が思うに、こういった事態は絶対的な道徳規準を全て否定する歴史観や、法の支配が望ましい ものであることを疑う理論(共産主義?)が発展したために、さ らには私有財産や自由競争市場がもたらす権力の分散、及びそれに基づいた社会制度なくしては、 自由が十分に保障される社会など考えられないからである。 本質的にはイデオロギーに関するものであるこの 動きに対して、理論的な論争を起こし正しい考え 方を主張する必要がある。この信念に基づき、 我々は、予備的検討を行った結果、以下の点に関 して更なる研究の必要があると考える。
1 現在の危機の本質を分析し研究することによ り、その教訓の本質や経済的起源を人々に知 らしめること
2 国家の機能を再定義し全体主義とリベラルな社会制度との境界を一層明確化すること
3 法の支配を再び確立し、それが個人や団体が他者の自由を侵害する地位になく、個人の権利が略奪的な権力の基盤となることが許容されていないことを保証する手段
4 市場の機能を阻害しない、最小限の規制を確立する可能性
5 自由を害するような信条を推し進めるための歴史の利用に対抗する手段
6 自由と平和の保護や調和の取れた国際的経済関係、国際的な秩序の確立に資する国際秩序の創造」

・・・

因みに、同「講演者」である山田 久氏とモンペルラン協会の本格的な関わりについても、下のとおり紹介されている。大変に興味深いので、その全文を転載しておく

・・・筆者(山田 久氏)とモンペルラン協会の本格的な関わりは「(財) 世界経済調査会」(参照/上の<参考>)の専任研究員になってからですが、 モンペルラン協会の名前は学生時代から知ってい ました。前述したように米国から来日された経済学者は皆さん協会員でした。またフリードマン先生(1970-1972 年 )、 ベ ッ カ ー 先 生(1990-1992 年)、西山千秋先生(1980-1982 年)は会長経験者です。デューク大学での恩師、ブロンフェンブレン ナー先生も古くからの会員でした。2 年に 1 回総会が開かれ、毎年のように地域集 会が開催されます。日本では 1966 年 9 月に東京 地域集会が、1988 年 9 月に東京・京都総会が、 2008 年 9 月に東京総会が開かれました。筆者が本格的に会合に参加できたのは、1986 年 9 月の イタリア総会(St. Vincent, Italy)でした。世界経済調査会理事西村光夫先生の鞄持ちでイタリア総会に連れて行っていただきました。会合に参加するには会員からの推薦が必要です。西村先生には推薦していただいた上に先生のポケットマネーで連れて行っていただきました。正式に会員になるためには複数会員の推薦と事前に会合に出席していることが必須です。会員になるために、1997 年 9 月のバルセロナ地域集会 (Barcelona, Spain)、1998 年 9 月のワシントン総 会(Washington DC, USA)に参加して、2000 年 11 月のチリ総会(Santiago, Chile)で入会を許可されました。2008 年 9 月、モンペルラン協会東京総会の運営・実行委員として活動しました。2008 年 9 月 7 日から12 日まで、ホテルニューオータニで、モ ンペルラン協会 60 周年記念総会が 20 年ぶりに東 京で開かれ、現代社会の技術にかかわる諸問題と 自由市場、自由主義の関わりについて討議がなさ れました。
 テーマは「技術と自由」であり,今日世界が当 面する様々な問題に、次のような切り口から接近 しました。1. 地球温暖化、環境と自由市場 、2.人類の技術、倫理、自由市場  3.自由における医療  4.IT の自由とコミュニケーションにおける 影響  5.アジアの経済成長―自由市場はいかに重要であったか?  6.技術の国際的波及  7.デジタル・デバイド・貧困、所得格差、教育  この 7 つのテーマごとに午前中に 2 セッション が設定され、各々のセッションで 3 人の報告者が 論文を提出しました。午後は、これらの報告者の 問題提起を受けてテーマごとに分かれて討論する グループ・セッションが開かれました。

 モンペルラン協会での議論の内容は本人の承諾なしには公開できません。したがって、発言者はマネタリズム新自由主義に関わる自分の発言に対して何の拘束も咎めも受けない ルールとなっています。これこそが、モンペルラン協会で発表される理念の純粋性、独創性を保証 するものであり、またそれだからこそ、出席者は 心からの満足感をもって、会議終了とともに再会 を約束して、各自のスケジュールに戻っていくの です。通常、会としての議論の要約も、ましてや 決議や共同宣言の発表などは一切行われません。 協会は決してプロパガンダのグループではなく、 自由社会の維持と改良に貢献することを目的とし、 相通じる理想と考えを持つ仲間と意見を交換する場なのです。 

 筆者(山田 久氏)はマネタリストの端くれになりましたが、マネタリスト新自由主義者であることは矛盾し ません。マネタリストの信奉するマネタリズムは 「貨幣は重要である」というだけではなく、その 経済思想や経済政策が新自由主義と一体となって いるからです。

 日本で「新自由主義」という言葉に独自の意味を込めて初めて使ったのは、西山千秋先生です。西山千秋先生は、1966 年 9 月のモンペルラン東京地域集会以来、「フリードマンらが日本経済新聞社が主催する講演会に、いくども来てくれたので、シカ ゴ学派の面々は日本の人々によく知られるように なった。そして 1970 年代から、私はシカゴ学派自由主義を『新自由主義』と呼ぶことにした」と話されています

 新自由主義(neoliberalism、ネオリベラリズム、 または libertarianism、リバタリアニズム)とは、 国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和市場原理主義の重視を特徴とする経済思想といえます 。  

 資本移動を自由化するグローバル資本主義新自由主義を一国のみならず世界まで広げたものと言ってよいでしょう。新自由主義は、国家による富の再分配を主張する伝統的な自由主義(liberalism、例えばケインズ主義らのリベラリズム)や社会民主主義(democratic socialism)とは対立する 考え方です

 第二次世界大戦後、1970 年代頃まで、先進諸国の経済政策はリベラリズムケインジアン)が 主流でしたこれは、伝統的な自由放任主義に内在する市場の失敗と呼ばれる欠陥が世界恐慌を引 き起こしたとする認識のもと年金、失業保険、 医療保険等の社会保障の拡充、公共事業による景気の調整、主要産業の国有化などを推進し、国家が経済に積極的に介入して個人の社会権(実質的な自由)を保障すべきであるという考え方です。

 このような、大きな政府福祉国家と呼ばれる 路線は、1970 年代に入り石油危機に陥るとマネタリストやサプライサイダー(供給重視の経済学)からの批判にさらされるようになりました。

 当時、英国は英国病と揶揄された慢性的な不況に陥って財政赤字が拡大し、米国でもスタグフレー ションが進行し失業率が増大しました新自由主義は、こうした行き詰まりの状況を生み出した責任が、国家による経済への恣意的な介入と政府部門の肥大化にあると主張しました。  

 こうして 1980 年代に登場したのが「新自由主義です。その代表例が、英国のマーガレット・ サッチャー政権によるサッチャリズム、米国のロナルド・レーガン政権によるレーガノミックスと呼ばれる経済政策でした。

 サッチャー政権は、電 話、石炭、航空などの各種国営企業の民営化、労働法制に至るまでの規制緩和社会保障制度の見直し、金融ビッグバンなどを実施しました。グ ローバル資本主義を自国に適用して外国資本を導入、労働者を擁護する多くの制度・思想を一掃し ました。レーガン政権も規制緩和や大幅な減税を実施し、民間経済の活性化を図りました。同時期、 日本においても中曽根康弘政権によって電話、鉄道などの民営化が行われました。  

「社会といったものはない There is no such thing as society」と説き、国家に対する責任転嫁をいましめたサッチャーの下、自助の精神が取り戻されたという評価や、各国に共通した双子の赤字の課題を残しつつも、英国が英国病を克服したこと米国が石油危機に端を発するスタグフレーションを脱し、1990 年代にはクリントン政権下でインターネットなどの新産業が勃興して競争力を回復したこと、南米ではブラジルが 1990 年代までの深刻なインフレの制圧に成功しブラジル通貨危機までの安定成長を遂げているこ となどは、グローバル資本主義新自由主義の功 績であると評価されています。

(モンペルラン協会の理念の変質: “共有的な自由(自由の共有)”➾“完全な個の自由”(リバタリアニズム)へ/ミルトン・フリードマンの影響による)

ここまで、山田 久氏が紹介されたとおりに「ハイエクが創設したモンペルラン協会の理念」が見事に開花して、グローバルな世界経済が調和のとれた成長を見せつつ、より豊かになり、世界中の人々の社会厚生が遍く平等に充実してきたかと問えば、現実はそれと程遠いというかむしろ真逆の方向へ、大格差の時代へと進みつつある。

例えば、漸く決着しつつあるかに見えるBrexitと並行して明確になったアイルランド発のレプラコーン・ショック」あるいは偽装看板「アベノミクスの破綻」で一気に噴出しつつある「安倍長期政権なる日本型ファシズム2.0(新自由主義と戦前型国家主義イデオローグが癒着する異常体制、それはあまりにも異常な『事実上、特務機関と化した官憲・検察』をアベ私兵として重用する一強“独裁”支配など)の矛盾の数々(例えば深刻な格差拡大のベースとなっている“名ばかり働き方改革”の失敗)」、果ては「ポスト・トランプの動向へ大きな影響を与えるかに見え始めた米国における二つのリベラリズムの衝突/米大統領選に潜伏する地雷的な重要テーマ、若年層による熱烈なサンダース現象の背景などの諸問題がある(関連↓◆)。

アイルランド発のレプラコーン・ショックは「ネオリベ+科学(AI・金融工学等)」の賜物。気付きが遅れたと自戒しつつクルーグマンはトランプ企業減税(過激ネオリベ策)でも同問題を指摘。今や日本にとっても他人事に非ず!https://twitter.com/tadanoossan2/status/1228938209679134720

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◆すっかり色褪せたモンペルラン・ソサエティの目的を連想!w ∵偽装看板、安倍内閣の政策の一例を挙げると、働き方改革の現状は殆どが目標と真逆! ➾加藤厚労相の化けの皮が剥がれた/320政界地獄耳:日刊スポhttps://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/20

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・・・[参考]首相官邸のホームページには働き方改革は1億総活躍社会実現に向けた最大のチャレンジ。多様な働き方を可能とするとともに中間層の厚みを増しつつ、格差の固定化を回避し、成長と分配の好循環を実現するため、働く人の立場・視点で取り組んでいきます」とある。←ところが、驚くべきことに、どうやら加藤厚労相は“フリーランスとフリーターを混同している”らしいのだ!もっとも、安倍首相が“経済そのものの意味を殆ど理解していない”らしいので、当然のこととして“然もありなん!”であるが・・・whttps://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/202003200000066.html

【アベ・ファシズム2.0】検察・官憲・内調ら手駒化の高圧“印象”操作で官僚、新聞等、野党、国民を威圧!の手法は戦前~戦中<特務機関>方式の再現!法曹&主要メディアの奮起が絶対に不可欠! ➾近財局職員を自殺に追込んだ森友公文書改竄は財務省・佐川氏だけの責任に非ず! 事実上、安倍の指示だった320リテラhttps://lite-ra.com/2020/03/post-5320.html

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因みにレプラコーン・ショック」(又はレプラコーン経済/レプラコーン=伝説上のアイルランドの妖精)とはトランプ減税(過激な新自由主義政策の一環)の問題点とは、クルーグマンが指摘する「企業減税の恩恵の多くが海外のグロ-バル投資家らの手に渡ってしまう」ということだ。従って、国内ではますます格差が開くばかりとなる。アイルランドなどでもGAFAらのグローバル企業がこの甘い汁を吸っている。https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20200210-00162477/   https://himaginary.hatenablog.com/entry/20171111/leprechaun_economics

・・・

ともかくも、モンペルラン協会の歴史を概観して感じられるのは、新自由主義(ここでは特にリバタリアニズムを意味する)が各国へ導入される場面では、それが導入される国のなかで政治的な意味で敵対勢力を作為的に排除する策謀のようなものが相当に大きく作用し、又それがかなり先行している空気が漂っていることだ

また、これは特殊ケースと見るべきかもしれぬが、特に日本の場合はその新自由主義「導入の尖兵」の役割を戦前・戦中期における「特務機関」の流れを汲む研究・調査・シンクタンク組織(必然的に時の政権下の機構、つまり時の内閣の中枢と深く相互に浸潤し合う関係にある組織となる、現代の日本で言えば内調(内閣情報調査室 https://www.weblio.jp/content/%E5%86%85%E8%AA%BF が担ってきたことが伺われる案外、これらの点は「本山美彦・京都大学名誉教授(世界経済論)が述べているもうお分かりであろう、ハイエクの理想とする自由主義リバタリアニズム)とは、ナポレオン以前の皇族(or貴族)たちも享受できる自由だったのである”という論点と重なるのではなかろうか?

・・・日本では殆ど意識されていない「米国における二つのリベラリズムの問題/個の自由、共有的な自由(自由の共有)・・・

ところで、当「第3

 

章」冒頭の『ハイエクミルトン・フリードマン・・・ハイエク、および宇沢弘文・・・』でも触れたことだが、そしてこれは日本で殆ど意識されていないのだが若年層から熱狂的な支持を受ける、いわゆる「サンダース現象」の背景でもある「米国における二つのリベラリズムの問題」ということがある。

それは、米国ではプラグマティズムの伝統に因る「共有的な自由」(自由の共有)と、啓蒙思想由来の「個の自由」の二つが区別されてきたということだ。そして、「個の自由」を重視する流れはハイエクミルトン・フリードマンという「市場原理主義の二大開祖のリバタリアニズム」(完全自由主義)へ帰結した(関連/↓★)。

アメリカのリベラリズムの発展 山本春義:大阪経済大学(哲学)、https://www.evernote.com/shard/s440/sh/743844a9-683f-46ec-8197-709224e27988/ec88f7ac7a5e8d607194ea499d43e8a4

 

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他方「共有的な自由」(自由の共有)の重視はデューイJohn Dewey/1859-1952プラグマティズムで絶対に忘れるべきでない「一人ひとりの保障された言明可能性」という考え方に由来する(@ルイ・メナンドメタフィジカル・クラブ』-みすず書房デューイはチャールズ・サンダース・パースウィリアム・ジェームズとならびプラグマティズムを代表する思想家であり、20世紀前半のアメリカ哲学者のなかでも代表的且つ進歩的な民主・民衆主義者(良い意味でのポピュリズム主義者)であった。

ところで、このデューイの「一人ひとりの保障された言明可能性」「凡人(日常を大切にする普通の人々)の正しさ」(その根底は、デューイ・プラグマティズムの限定合理的な世界認識にあると考えられる!)を保証する問題とも呼ばれるが、それは<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”を最大限に重視し、それを持続的に繋ぎ留めるよう努力し続けるということであり、逆に言えば『民主主義』はヒトが存在し得る限りでの未完の営為だ!という理解による。換言すると民主主義国家では『聖人・君子ならぬ国民層の大多数を占める“凡人”の正しさの保証手段をシッリ政治・行政的に確保して社会的信用を維持すること』を最大限に重視すべきだ>ということだ。

更に、ここから二つの重要な政治的な原則が創生されることになる。その一つは<公文書・ドキュメント資料、民間のビジネス文書(日本では、これらを軽視する傾向がある!)あるいは歴史資料類は「法」に基づいて厳重に保管・保存すべき>だという『公文書管理(法)』の大原則である。だからこそ、目下のところ<アベさまのウソの山>を糊塗するための<公文書に関わる改竄・廃棄・隠蔽そして作為的な記憶喪失(アベ様によるヤラセ記憶喪失の政治利用?w)>なる大スキャンダルの“てんこ盛り”で揺れ続ける日本は、事実上、れっきとした非民主主義的な独裁国家だ!と肝に銘ずるべである/関連↓▼)

森友の【改竄】は財務省・佐川氏だけの責任に非ず!事実上【安倍の指示】なので人道上からも<「安倍、麻生」=調査される側>は天網恢恢疎にして漏らさずの自明の理では?w➾新型コロナでアベ会見が急遽中止された!「森友」追及避ける思惑か321東京https://twitter.com/tadanoossan2/status/1241455334167678976

 f:id:toxandoria:20200322052238g:plainf:id:toxandoria:20200322052317g:plainhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1241296670240829445

◆「日本、独裁政権のよう」ニューヨーク・タイムズが批判20190706朝https://www.asahi.com/articles/ASM7644NNM76UHBI00V.html

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そして、もう一つが「共有的な自由」(自由の共有/リバタリアニズムの対極となる哲学的な視座)という概念になる。このデューイの「共有的な自由」はニューディール政策(ケインジアニズム政策の応用)へも大きな影響を与えたことが知られており(それは当然だと思われるが)、実は、このこともあってか?<ハイエクVsケインズ『経済論争』>に敗れたハイエクが、ニューディールを実施したフランクリン・ルーズベルト大統領毛嫌いしていたのは、よく知られたエピソードである。

つまり、実はこのような意味での共有的な自由の概念の不在が、「トランプ支配とは雖も民主主義の国アメリカと偽装民主国ニッポン(ファシズム2.0/自由の概念が一つしかないアベの国)の決定的な差異」となって表れていると思われる。しかも、必然的にその根本には“一人ひとりの保障された言明可能性➾ドキュメント重視(改竄等厳禁)”の概念が「アメリカ合衆国では存在」し、「日本では存在しない」という問題が併存する

従って、それらが根本的に不在の日本で「てんこもりの嘘の山が出現し、しかもそれが放置されたままの状態である」のは当然と言えば、当然のことでもある。つまり、このような日米民主主義の「根本的な違い」を端的に言えば<「アベ・ファシズム2.0」政権下の日本の“自由”は芯が不在の玉葱の如き状態であり、米国の“自由”には“プラグマティズム哲学の芯”があり、永続的に論争が続いている、ということだ。

これは前にも触れたことだが、「 ハイエクモンペルラン協会を創設(1947)したホンネが“ナポレオン以前の皇族たちも享受できる自由を取りもどす”(@本山美彦・京都大学名誉教授(世界経済論))ことであったとしても、建前上は山田 久氏“退任記念講演”(同上、和光大学リポジトリ )」が紹介したとおり、ある意味で当たり障りがない(あるいは両義的に理解できる)「第二次世界大戦で失われてしまった人間の尊厳と自由を復活させるための理念と目標」が素直に謳われていたが、おそらく殆どの日本人(国民)はそのように信じ込まされている。

ところで宇沢弘文によれば、そもそも同じ自由原理主義リバタリアニズム/完全自由主義)でもハイエクミルトン・フリードマンのそれでは意味することが些か異なる。

すなわち、ハイエク自由主義は究極的には「市場経済の作用に神の手を見る(その意味ではアダム・スミスの踏襲でもありつつ、それよりも過激な市場至上主義である/ツヴェタン・トドロフによればスミスと異なり科学主義的という意味で、それは科学的社会主義と同次元の“科学”自由主義(この“科学”はアルバ・アールトの“か弱き人間のための大きな合理主義”の対極にある“小さな合理主義”と同意!)」である(関連参照↓★)。

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴン内需等に係る新しい生産性(というか、潜性イノヴェーション)の培地)の発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331

因みに、道徳哲学に裏付けられた自由主義を主張したフランク・ナイト(既出/ミルトン・フリードマン宇沢弘文の師の立場にあった)は、シカゴ学派の第1世代と呼ばれる経済学者であったものの自由競争(市場原理主義)に全幅の信頼を置くフリードマンとは違い(周知のとおり宇沢はフリードマンを厳しく批判している)政府による政策的な介入をある程度は是認する立場を取っていた

また、実に驚くべきことだが、宇沢弘文によれば「ミルトン・フリードマン投機的な動機による取引で金融機関の利益の最大化を実現せよ(“産業イノベーション⇔金融市場経済”の乖離は放置せよ!)と主張したことに止まらず、バリー・ゴールドウォーター上院議員共和党大統領候補/アジア系への差別意識があった)の『ベトナム戦争水素爆弾を使えとの』発言を支持し続けたとされる。

しかも、山田 久氏“退任記念講演”(同上、和光大学リポジトリ )」が紹介していたとおり、モンペルラン協会の内部での討議や各メンバーの発言内容は容易に外部へ漏れ出ないような仕組みとなっているが、 漏れ伝わる情報によれば、初めのころは市場原理主義による格差拡大などに対する懸念も大きな議題となっており、かなり激しい議論が闘わされていた様子だが、なによりもミルトン・フリードマンが参加していたことで、次第に会合の雰囲気が完璧なリバタリアニズムの方向へ変質してしまったとされる。

(モンペルラン協会に透ける、ハイエク型カタラクシー『交換的正義』万能論の限界 

ハイエクは著書『隷属への道』(1944)でファシズム政権や社会主義者が主張する分配的正義は人間の意図せざる行為の結果として市場において自生する自生的秩序(Catalaxy)が実現する交換的正義には敵わない。なぜなら、仮に金持ちから余剰なカネを奪い取り、それを社会的な弱者層へ平等に分配する(分配的正義を実現する)ことが可能であるとしても、それは一強・強権独裁化したファシズム国家でしかあり得ないことになるからだ。>という「趣旨のこと」を主張する

また、そのためハイエクは「長い歴史的な時間をかけ自生的に形成された言語・慣習・伝統および市場の知識を遥かに超えた大いなる力が、つまり人間の力を超えた意図せざる結果として自生的な秩序が市場のなかで生まれる」ことを最重視すべきだとも主張する

たしかに、このような視点は重要であり、それは現代「知」の先端と見るべき「エトノス(ヒト・自然・文化環境)論、新実存主義(@マルクス・ガブリエル/↓▲)、批判実在論(Critical Realism)」などの先取りかと見紛うばかりである

「マルクス・ガブリエル 新実存主義」の画像検索結果

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel/1984 - /ドイツの哲学者、ボン大学教授)の新実存主義/序論:穏健な(“普通の”のニュアンス/補、toxandoria)自然主義と、還元論への人間主義的 抵抗(廣瀬 覚訳、2020.1.21/岩波文庫

・・・以下は、当著書の序章「ジョスラン・マクリュール(Joceran Maclure/ラヴァル大学教授/1973- )のガブリエル・新実存主義についての紹介文」より部分転載。・・・

ガブリエルは、数々の形而上学の重要問題について、大胆な見解を唱えている。たとえば、以前の著作では、存在論や認識論で構成主義(自然科学に似た要素還元論的な)が乱用されるいま、新たな実在論が求められていると論じた。

我われの現実(日常的な)をかたちづくる対象領域―すなわち「意味の場」(つまり『日常』/補、toxandoria)―の多元性(マッハ感覚論的素材性(‐実在性)/補、toxandoria/関連参照↓★)を中心に据えた実在論である。

★マッハ感覚論的素材性(実在性)について:再び、マッハ現象学とマッハ感覚論的素材論(性)についての考察が必須、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180701/p1

★同上関連/西田哲学の形成に影響を及ぼした現代物理学の影響についての思想史的考察:矢崎 彰(早稲田大学大学院博士課程http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1994_21_hikaku_10_yazaki.pdf

日本哲学という意味の場—ガブリエルと日本哲学/浅沼光樹:西田幾多郎マルクス・ガブリエル、特に「場所」以後の西田と『なぜ世界は存在しないのか』におけるガブリエルの基本思想の類似を指摘する!

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/10ae5d94-4fb6-444c-be2a-6f296cc224f0/1c472734a1d9d1ebdc7a6b98d0d387c6

・・・

心の哲学の研究者も、神経科学者や認知科学者も、ガブリエルとコメンテーターの個々の議論に疑問を抱き、そこにある不備をとがめようと思う人は少なくないはずである。そして、それこそが健全というものだ。それでこそ、新実存主義はより強固なものに育っていける。

だが、アカデミズムの有力な一角で、また文化の広範な領域で、還元論自然主義(特に、一部のAI系研究者やフィンテック系の投資コンサルタントらに見られる素朴な!の謂いでの/補、toxandoria)が幅を利かせる現状に不安を抱く者にとって、ガブリエルらの見方が抵抗の時の到来を告げるものであることは確かなのだ。

私(ジョスラン・マクリュール)の目に映る「心は頭のなかだけにあるのではないと考えるガブリエル」とは、抜き難い心の文化的・社会的側面に注意を促す哲学的人類学者というものだ。

・・・ここで、引用転載おわり・・・

この哲学的人類学者のイメージが、ある程度まで後述する≪ハイエクのカタラクシーに特徴的な考え方≫に重なる点のあることが興味深い

ただ、ハイエクの場合、それはガブリエルの所謂「ヒトの意識(心)の“絶えざる多様性と開放性”の創出の作用」(更に付言すれば、デューイのプラグマティズムの共有的な自由(自由の共有)意識、つまり“凡人の言明の保障の意義”なる暗黙知の重要な役割についての理解)という水準まで深まることはなく、それどころか、折角のその貴重なエントランス部分への気付きが、結局は、もう一つのハイエクの関心事であり、ハイエク自身の大きな拘りでもあった自由市場原理主義(個の完全自由に基づく市場原理を崇拝するリバタリアニズム(その完全自由主義なる超設計主義(自己撞着)があらゆる埒外の余人の自由を厳しく規制するファシズム2.0)、つまりリバタリアニズムという経済計画論(完全な個の自由の絶対保全)による新しいタイプのファシズム国家(開放系の多様性を排除し市場原理の埒外の一切の価値観を否定する方向)に回収されている、と思われる。

 

片やミルトン・フリードマンについては、シカゴ大学時代に同期で同僚でもあった宇沢弘文の証言によるとフリードマン自身が金融投機のカラ売りで一儲けすることに熱中するタイプのリバタリアニスト( The Complete Libertarianist)であったようだ。だから、ミルトン・フリードマンはガブリエル哲学的な意味での実存主義的な理解とは程遠い世界のヒトであったようだ。

ただ、ミルトン・フリードマンの名誉のために補足しておけば、既述のとおり<「重要論文F35」の読み直しから、実は<フリードマンが「諸経済理論F・システム大系を哲学的視点でネットワーク化し、真の経済理論が完成する迄のさし当りの道具としての市場原理である/道具主義プラグマティズム)の市場原理」>と考えていた節がある。>という説もある。天才とされる経済学者フリードマンも、ハイエクに負けず劣らずの大いに迷える人間であったのかもしれない

とすれば、ハイエクフリードマン新自由主義の聖人たちの正体と欠点を或る程度は知りながらも、それを巧みに政治利用して私腹を肥やし、他方では只管お仲間らの権力強化にうつつをぬかし我が世の春を謳歌する輩(例えば現代日本安倍晋三ファシズム2.0政権の領袖)や竹中平蔵ら)の如き、余りにも野蛮で狡猾で強欲な政治家や御用学者は、この<市場原理主義の二大聖人>に対しても大いに無礼なのではなかろうか?

 ・・・・・第一部:当タイトル記事(1/2)/完・・・・・ 

そもそも、経済史上でアダム・スミスの“神の見えざる手に委ねるべきとするレッセ・フェール、つまりその自由原理の思潮(あとになると、その抑制的であったはずのスミスの自由原理と17世紀の科学革命後の完全合理主義が安易に癒着することになる!)の流れを汲むことを自負する 新自由主義」(シカゴ学派・第二世代~)の経済学者らは(上で述べたとおり、同窓の宇沢弘文は彼らと袂を分かつことになった)、<悪徳のエルゴン(プレ・デュナミス潜在性(生産性の培地)の悪徳の部分)を強調したマンデヴィル『蜂の寓意』の“18世紀~現代までの長きにわたる曲解”の中に自らの市場原理主義の淵源を持つと見ることもできる(当論点、マンデヴィル関連の委細は下記★を参照乞う)。

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴン内需等に係る新しい生産性(というか、潜性イノヴェーション)の培地)の発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331

・・・いずれにせよ、予定以上に長文となり、容量オーバーの警告が出されたので、最も肝要な当記事のモチーフである「潜在イノヴェーションの培地としての『日常』」(以下の第4章と第5章)については、暫く間をおいて、次回の記事(2/2)へ送ることとする。・・・

・・・

  オーストリアン派(ミーゼス、ハイエクシュンペーター)に通底するもの

・・・それは、「主観的リアリズム」が創造する「潜在イノヴェーション」についての気づきということ・・・

東浩紀の「ルソーの一般意思(又は共通意思)と社会的な間主観性(一回性のリアルで日々に更新され続ける)」の混同の問題】・・・それは、ミルトン・フリードマンハイエク新自由主義の「静学と動学(@シュンペーター宇沢弘文ら)」の混同に因る、より正確に言えば「抽象観念とリアル観念(一回性のマッハ感覚論的素材論(性))」の混同に因ると、考えられる。Cf.『Google‐Webネットワーク時代の「AI・BD‐Web情報」とリアル社会情報の根本的な差異の問題』https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180701/p1

5『日常』は「潜在イノヴェーション」のエントランス 

・・・新自由主義の盲点がヒントとなり、『批判実在論の眼』(Critical Realism)が切り開く未来への確実な希望!・・・

<注>ここの前段は、特に合理的経済人の前提,、つまりツベタン・トドロフが第2章で指摘した新自由主義の盲点(2)と係わる論点がテーマとなる。

Cf. ★合理的経済人の系譜を追う 行動経済学に至る250年・・・行動経済学は、それまでの標準的経済学が前提とする「合理的経済人」を否定し、理論の修正を迫ってきた。20171127週刊東洋経済https://premium.toyokeizai.net/articles/-/16898

(古典派~新古典派の歴史に流れる“完全合理Vs限定合理”の通奏低音

・・・新古典派のジョーン・ロビンソン「雇用の内容(質)」とカレツキ「政治的景気循環仮説」が抉った「民主主義のアキレス腱」・・・

◆監獄(役所等)の容疑者(雇用者)は監視の目で良心が萎縮!それが自白を強要し断罪。悪循環を切断するのは哲学・思想ら外部(警告知)!科学技術ら専門知も同じ陥穽、警告知の無視に嵌り易い! →なお待たれるフーコー/性や狂気、繊細な権力論/未公開作近く邦訳405朝日https://twitter.com/tadanoossan2/status/1247000037701214209

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関連/宿主細胞(≒一般国民)を殺すと自分も破滅!(アベファッショ2.0ソックリ!w)進化というか、おそらく99%の共生派ウイルスは、ヒトら“宿主の永続性の原理”に関与!? →(科学の扉)ウイルス、共生の歴史 宿主に遺伝子残し病防ぐ/進化、初期から関与?406朝日 https://www.asahi.com/articles/DA3S14430731.html

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関連/ヒト(<諸生命)の一回性(動的平衡)持続に係わる意義の理解が重要!<ウイルス=「永続性の原理」の一環、“大きな合理主義”下の存在>なる新コロナ本質の見極めに因る<ヒトの日常(潜性イノヴェーション>救済に全注力すべき!→(福岡伸一動的平衡)ウイルスという存在 生命の進化に不可避的な一部403朝日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1245840741768687621

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関連/新コロナの警告/ファシズム2.0「新自由主義と独裁」の癒着に抗って持続できるイノヴェーションの培地はエトノスと一回性を共有的な自由で繋ぐ『日常』(1/2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759

関連/同感!こ奴らの共通項は2・3世の世襲青年会議所日本会議ら極右系ということ。つまり自律的な自生・自活が不能な病原体である新コロナウイルスなど、ウイルス仲間内でも極く少数(1%?)派の病原体ウイルス(非共生派)であるようです。その頭領アベを支持する多数派国民の責任とも見えます。https://twitter.com/tadanoossan2/status/1246977018769465345

・・・追記/20200404/(2/2)用『資料メモ』・・・

宇沢弘文が指摘したミンスキー&ヴェブレンの懸念「金融資産市場の不安定化、つまり新コロナパンデミックで再び顕在化しつつある『産業イノヴェーション⇔営利(金融市場原理)』の乖離」はマネージャー資本主義(ミンスキー&ジョン・C・ボーグル)の暴走ということ

https://www.jstage.jst.go.jp/article/peq/52/3/52_KJ00010198905/_pdf/-char/ja

evernote.com/shard/s440/sh/

・・・【よみがえる宇沢弘文/新コロナパンデミックへの対応の差異で日米同盟(金融・軍事)に亀裂?!】リーマンとの違いは、規制緩和中ながらボルカ―ルールを未だFRBが握り米議会の監視も効くこと!片や我がアベ様化!のGPIF年金運用↓♨は危うい!Cf.↓★(続、2へ) https://twitter.com/tadanoossan2/status/1246202573922562049

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ハイマン・ミンスキー(米ポストケインジアン経済学者の一人/現在、特に日米では経済学&財界主流から疎外されている!)は マネージャー(金融)資本主義は資本主義の退化(ヘッジ→投機→ポンツイ(ネズミ講)金融化)なので、将来,破壊的な恐慌が生じる可能性も指摘!@服部茂幸・論文「2008年の金融危機におけるマネー&マネージャー資本主義の崩壊と再生」https://www.jstage.jst.go.jp/article/peq/52/3/52_KJ00010198905/_pdf/-char/ja

・・・現在 までのアメリカ経済の「回復」はマネー&マネージャー資本主 義の再生にすぎない。同じ経済危機からの回復であっ ても,その形がニューディール期とは大きく異なっている。

・・・2008年の危機以前では,世界経済が金融ケインズ主義によって成長を続けていた。金融ケインズ主義は現在のアメリカで可能な成長モデルとしてはほとんど唯一のものであろう。しかし,「2008リーマン危機」は金融ケインズ主義の時代を終わらせた。それが実体経済の回復が遅れ、中間層が破壊され、格差が拡大し続けている理由。すなわち,再び、マネー&マネージャー資本主義は行き詰まっている。新コロナパンデミックはこのことを気づかせるエトノス環境からの警告とも見える。

・・・だからこそ、(1)一般市民層のためのマネージャー(金融)資本主義「制御の意義」、(2)『日常』(潜性イノヴェ―ションの主役たる、一回性に生きる凡人の日常生活が資本主義経済の培地であることの意義)、の二点に覚醒することが急務である!

関連/◆ヒト(<諸個体生命)の一回性(動的平衡)持続に係わる意義の理解が重要!<ウイルス=「永続性の原理」の一環、“大きな合理主義”下の存在>なる新コロナパンデミック本質の見極めに因る<ヒトの日常(潜性イノヴェーション↓♨>救済に全注力すべき!(続、2へ)https://twitter.com/tadanoossan2/status/1245840741768687621

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f:id:toxandoria:20200405070210g:plain https://twitter.com/tadanoossan2/status/1246399780760125440

 【当節の関連で、(1/2)より「共有的な自由」に関連する部分を抽出し転載しておく】・・・[神谷英二:情感性と記憶―アンリ現象学による試論(1)/福岡県立大学人間社会学部紀要2005,vol.14,No.1,21―36 http://u0u1.net/GN7E]によれば、<情感性(affectivite)とは何か?の問い>に、M.アンリ以前のヨーロッパ哲学は必ずしも十分な答えを提示してきたとは言えないようだ。また、M.アンリ「現象学」の稀有な特質と言えるのは、それが『情感の現象学』から独特の一瞬一瞬の出会い(一回性)を重視する共同体論(個の自由原理ではなく、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759『第3章-モンペルラン協会の理念の変質』で後述する、デューイのプラグマティズムの共有的な自由(自由の共有)意識を連想させる!)へと発展することだが、ここではその委細を省く。⇔「感情の政治学」との共鳴!

 


Maurice Ravel - Gaspard de la nuit

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴン(内需等に係る新しい生産性の培地)の発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴン内需等に係る新しい生産性の培地)の発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ

<参考>全く同じ内容ですが、コチラ↓のヴァージョンもありますので、念のため御案内しておきます。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331

(前置)

https://twitter.com/SdaMhiko/status/1198152472725843974

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1202016216006529024
・・・

・・・当記事は以下の二つの仮説を前提にしている。

(1)そもそもマンデヴィルはシャフツベリーと同等の啓蒙初期の思想家の一人と見なすべき人物である、

(2)マンデヴィルは、日々の生活(生命エネルギーの持続・継承活動)を最重視していた、

・・・因みに、(2)の『日常礼賛』(@ツベタン・トドロフ/また、自然法の根本であるエトノス観/委細、後述)には、単なる『私益』以上の深い意味があること(±プレデュナミス潜在性・潜勢態/委細、本文で後述)にマンデヴィルは気づいていた節がある。

・・・加えて、マンデヴィルは(2)の『日常礼賛』を正当に評価するための障害が当時の英国社会に蔓延する「忖度」の空気(その湧出源がシャフツベリーのモラル・センス)であると見ていたので、『蜂の寓話/私悪(私益)すなわち公益』という逆説の風刺は、これらを強烈にアピールする意図で書かれたと理解する視点に当記事は立っている。しかし、そのような重要な意味の理解は当時のイングランドの一般常識とは真逆であった

・・・ところで、「忖度しないことは非常識で、忖度することが健全な常識だ!」と見做される“不思議なアリスの国”へと、最高度の知的集団を自負する「政官学財労界、主要ジャーナリズムおよび司法・官憲」らエリート指導層の優れた戦略の下で、驚くべきスピードの相転換を体験しつつあるのが今の日本ではないか?との“無言の仮説”から当記事の準備が始まった。

・・・それに、“私益すなわち公益”方式の国策“アベ・サクラ見物の風流?”なる典型事例の如く、経済・安全保障のためならたとえ「国家(国策)犯罪」であってもソレを善しと見なす倒錯「倫理」が浮世のメジャーな常識となりつつあると思われるからだ。

・・・翻れば、「“経済・安全保障のため悪徳こそ倫理の主柱と見るべき!”との強い信念から(実はそれは逆説の風刺である)、当時(イングランド)の世間常識であった“処世訓としての美しいシャフツベリーの空気、モラル・センス”を厳しく批判し、時の指導層らを徹底的に揶揄したため大陪審で告訴される羽目となり、爾後、300年におよび、その真意が殆ど理解されぬどころか、資本主義を司る主流経済アカデミズムの手でその“逆接の風刺=私益(悪)すなわち公益”がチャッカリ悪用される(その精華が現代世界を席捲する新自由主義イデオローグ!)という実に過酷な始末と相成った人物がいる。それがマンデヴィルである。

・・・具体的にその結論を言えば、それは「グローバル市場原理主義新自由主義)に因る格差拡大」をも矯正可能と見なされる経済「エルゴン(死静態/ergon=±プレ潜在生産性・潜勢態内需等に係る新しい生産性の培地)」の発見が必須だということ!特にマンデヴィル『蜂の寓話』の真意(その逆説の風刺の意味)が殆ど理解されていない日本では、自らの「明らかな国家犯罪行為」である「サクラ・スキャンダル」すら物ともせず「不遜の強欲悪鬼」と化したJPN一強権力こと<肝心のエルゴン問題など目にも入らぬ安倍サクラ政権>は、愈〻、本物の「透明甲殻リバイアタン・ファッショ」と化しつつあり、無辜の日本国民の身ぐるみを剥ぎ取り、そのあげく残り僅かな産毛一本までを根こそぎに抜き尽くそうとしている!・・・

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<注記>透明甲殻リバイアタンの「透明」が意味すること・・・それは「偽装民主主義の謂い」である。つまり、一応は民主主義であることを建前としつつ、そのホンネはファッショ独裁であるということ。関連参照⇒ジュゼッペ・テラー二(第1章ー(2)、第4章ー(1)、他)

<注記>エルゴン(ergon/死静態)

・・・W.フンボルト(19世紀、プロイセン時代ドイツの言語学者)の用語で、普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことだが、リアルに活性化するとそれら両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。近年の生(命)化学、量子物理学ら先端科学研究フィールドにおける生命エネルギー論では、たとえばATP(アデノシン酸三燐酸)あるいは生体中の微小管(microtubule)などヒトの意識とプレ生命エネルギーたるエルゴンの(おそらく量子論的な?)関係性が注目されつつある(Ex.@R.ペンローズ、Cf.↓★)。

★コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

(Cover Images)

ラウル・デュフィ「ニースの海辺」1928 

・・・理知へひたすら傾斜するのではなく人間の深層に息づく感性を重んじるフォーヴィスムのジャンルで活躍したラウル・デュフィ(1877 -1953)であるが、同派のリーダーたるギュスターヴ・モロー(夢想的象徴主義の画家)の超理念(形式外へ高く飛翔する、いわば抽象化への原理的・高踏的な飛翔)とは違い、鑑賞者との間での音楽演奏(エネルゲイア)的なハーモニーの共鳴を大切にしたという意味で、おそらくモローらとは異質であった。

・・・ともかく、この「多くの人々と普通に共感できる音楽演奏(エネルゲイア)的なハーモニーの感性」を大切にするということが、デュフィの芸術をして「あり得ないことの彼方へ、より先鋭的に飛びあがり、遥か彼方の天空の世界へ多くの人々を連れ去ろうとする」のを押しとどめさせたと言えるのではないだろうか。これは“薄紙一重”の如くとても微妙な問題ではあるが。

<参考>ラウル・デュフィ展― 絵画とテキスタイル・デザイン ―/パナソニック留美術館、2019100520191215 https://panasonic.co.jp/ls/museum/exhibition/19/191005/

雲谷等顔「花見鷹狩図屏風」(桃山時代の風流/江戸期『風流』のルーツ)

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・・・雲谷等顔(1547‐1618)は戦国時代末期〜江戸初期にかけ活躍した画家で幕末まで続く雲谷派の祖。桜の季節になると中世の日本人は花笠をつけ笛・太鼓で“やすらいはなや”と囃し花の下で踊る慣わしがあった。それは「やすらい花」と呼ばれ、今も多くの神社などに残照が遺る(出典:池上英子『美と礼節の絆』‐NTT出版‐)。これが「風流」群舞の美であり、それはドロボー・詐欺師・暴力組織までもが国費(歳費/税収)で招待される『一強アベ様のサクラ見物まつり』&『シュレッダー方式の消去で何が悪いの? et <忖度>でええじゃないか,ええじゃないか!踊り』が大歓迎される? <日本会議ご推薦>の今の日本の風景とは余りにも異なる本物の麗しい日本の姿である。/当画像は http://urx2.nu/DlPQより)


Maurice Ravel - Gaspard de la nuit Performance:Jean-Efflam Bavouzetm、picture:W.M.J. Turner, "Norham Castle, Sunrise".

 

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https://mitsubachi-enrai-movie.jp/

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO48886760S9A820C1000000/

・・・【映画/蜜蜂と遠雷】4人の若き天才たちの魅力的なピアノ演奏の競演!美しい「映像+音」の描写に加えて、大いなる自然の中を激しく疾走する黒い荒馬と雷鳴・稲妻・波頭・・・、そしてプロコフィエフバルトークの大音響がそこで醸し出す、ある種の共鳴・干渉(コヒーレンス)するようなイメージ!彼らが善悪の価値観を超えた底知れぬ“大自然”のパワーに挑むドラマ!その黒い馬は勇気ある若者たちが果敢に挑戦するアドベンチャーの象徴であるように思われる。そして、この点は原作者・恩田 陸とは異質な感性の石川慶・監督のユニークな解釈に因る映像化の精華であると思う。

 ロローグ)

・・・3~4歳児へ先祖返りするが如き自閉<鏡像ナルシス>男が恰も神サマの如く君臨する日本!言い換えれば、傲慢なカルト狂人や嘘つき犯罪人共の頭領こと安倍晋三によって一強(超然君臨)支配されるバカリの日本は「“非シャフツベリー的な主体的な経済の美学(美的価値判断の意識)が不在”ゆえ“に幻想(中動態“忖度”)啓蒙主義”の昂進という重篤な異常観念の病理に蝕まれている!・・・

・・・

<注>シャフツベリーについては、委細を後述する。また、そもそもインド・ヨーロッパ語族の言語に存在した「中動態」文法(サンスクリット文法では反射態)は、中枢権力(王権)が確定するプロセスで抑圧され消滅したが、人間関係のパターン化ないしは慣習化したそれは欧州でも(厳密に言えば欧米でも)社会の日常には文脈上の表現作法として些かは遺ってきた。約300年前に、その「中動態」文法的な文化(政治・社会・文化的な風潮)を敢えて抽出し、それが社会・経済的に悪影響を及ぼす危険性があると警告したのがマンデヴィル『蜂の寓話』の意味だともいえる(委細後述)。日本語そのものの中動態的な文脈構造は能動態と受動態の中間であり、それが、あらゆる言説の主語・主体は誰であるかを常に曖昧にするのが最善の美徳だとする価値観を日本の社会に定着させてきた。つまり、初めから文脈全体が中道態とも言える日本社会ではその典型たる「お上への忖度!」と「主流の空気を読む!」が満ち溢れており、その弱点を突いた安倍政権の「内閣人事局で全官僚の首根っこを押さえる政策」が見事に成功し、遂には「倫理・法律・憲法よりも、まず忖度してアベ様へ『へつらう』のが一番!」という空気が日本中に溢れかえっている。今や、司法・官憲・主要メディアまでもが悉くアベ様をへつらっているのは、そのためである。

Cf.『私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」/「する」と「される」の外側へ:國分 功一郎・哲学者、東京工業大学教授』、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51348

・・・ここで解説されている「中動態で、するとされるの外側の世界へ入る」ということは、別に言えば「主体と客体を曖昧化する(orさせられる)ことで、“主体の何かを行為しようとする意志(しようとする主体的な心の道理的で理性的な判断)”を主体の意図とは懸け離れた原初的な“例えば善と悪のように両義的な性質が共存するコヒーレントで不分明な混沌たる感情・情念の世界のエルゴン”へ押し込んでしまう(orそのようにさせられてしまう)事を意味すると考えられる(toxandoria)。

<参考>メジャー国民の篤い支持でファッション化した?安倍サクラ内閣の『私益すなわち公益』宣言/やがて、それが高じファッシ(真性ファシズム)化するのも指呼のうち?

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「グローバル透明甲殻リバイアタン、AIネオリベ・ナルシス怪獣」の蠢きとご都合主義的に連携する<アベ強行「改憲」のプロローグを意識した“私益すなわち公益”式のアベ様のサクラを見る会>開催の動因は、明らかに日本会議ことアナクロ御仲間なる「鏡像ナルシス権力」への没入政治の現れである!(“グローバル透明甲殻リバイアタン”の委細は後述する)。

常在的な作為であるのか否かはともかく、このおぞましい光景が綺麗サッパリと自らの魂を売り払ったマイファースト知識人or同・ジャーナリストらの“悪(入?)知”恵に因るシナリオの振り付けである可能性も高い。しかし、  このような時であるからこそ巷(浮世)に溢れかえるおぞましい時流の空気と対峙しつつ17世紀科学革命の息吹をも背景とする自律市民社会の希望を逆説的に説いたマンデヴィル『蜂の寓話』の風刺の真意を正しく理解すべきである。

無論、それは啓蒙思想初期においてホッブスらにも窺われる感情の政治学の重要性を再提起したマンデヴィルに関わる致命的誤解と言っても良いだろう。因みに、啓蒙思想の歴史を顧みると、この感情の問題(つまり、善と悪のように両義的な性質が共存するコヒーレントで不分明な混沌たる感情・情念の世界のエルゴン)に関わる一定の冷静な理解の確保は、カントによる“情念統制理念、論理構成理念”の考え方の登場を待たなければならなかった。

それは、下記a、bの意味であるが委細は下記↓★を参照乞う。

a:情念統制理念:たとえ実現の可能性から離れているとしても、持続的に目指すべき“方向性”(一定の統制された情念に基づく )

b:論理構成理念:論理と実践によって徐々に実現されるべき内容

★カント「情念統制、論理構成」の峻別、それは「普遍」観念を培地とするリベラル共和主義の理解と深化に必須の条件、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180307/p1

・・・

そもそも、経済史上でアダム・スミスの“レッセ・フェール”、つまりその自由原理の思潮(それは、抑制的であったはずのスミスの自由原理と、科学革命後の完全合理主義の安易な癒着とも見なせる!)の流れを汲むことを自負する「新自由主義ネオリベラリズム、自由原理主義」は、むしろ悪徳「エルゴン(生産性の培地/プレデュナミス潜在性・潜勢態の悪徳の部分/委細、後述)」を強調したマンデヴィル『蜂の寓意』の、18世紀~現代までの長きにわたる曲解に淵源を持つと見るべきである。

<注>スミスはグラスゴー大学スコットランド啓蒙思想の中心人物、F.ハチソン(F. Hutcheson/1694 - 1746)の下で道徳哲学を学んだ。なお、ハチソンはグロティウスらの自然法思想(自然に基礎をおく普遍的な法/実定法の対概念)を継承する道徳哲学者である。スミスもこれらの思想的潮流から大きな影響を受けている。

・・・

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<参考>安倍政権は「日本会議」指定の「戦前型ファシズム国家/アンチ自律市民社会」を目指す!

・・・これぞ、妄想“英霊顕幽論”教徒たる安倍晋三・一派のアベ型「改憲」(国民主権の剥奪が目的)の強行で、そのマンデヴィル『蜂の寓意』が曲解されたことに由来する「新自由主義」(ネオリベラリズム)がもたらす「格差」の一層の助長を作為で謀る、アベ自民党なるナルシス(戦前型自己陶酔/美しい愛国玉砕戦争へのアイロニー(没入、現実逃避)@橋川文三

・・・その無気味な「アベ・サクラ政治」は紛れもなく現代日本に着床したゾンビ「透明甲殻リバイアタン」、いわば“穴“グロテスク”「鏡像ナルシス権力」である。

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・・・中欧がドイツ支配圏に戻った」は同感だが、古い資本主義が蘇ったというよりも カーサ・デル・ファッショ(@ジュゼッペ・テラー二)型の「ポピュリズムを装いつつ恰もワイマール共和国時代の退廃バビロン化したドイツ(or同時代“政治経済”激混迷期、プレ・ムッソリーニ時代のイタリア)を彷彿させる「甲殻リバイアタン」が仕込む「“ポピュリズム極右”独裁&新自由主義ネオリベ)が野合したネオファッショ」、いわば全く新しいタイプの透明な壁>(つまりファッション流儀で、それが透明な民主主義である如く装うこと)で“グローバルな防弾・甲殻ガラスの壁”」に世界中の市民社会が囲われ追い込まれつつあるのではないだろうか? ⇒冷戦終結共産主義が崩壊し古い資本主義が蘇った(エマニュエル・トッド) - 大野博人20191108論座https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019110600012.html?page=1 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1193778208044285959

1  イタリア・モダニズムの建築家、ジュゼッペ・テラー二「カーサ・デル・ファッショ/倒錯の合理主義=非人間的な“小さな機能主義”」の現代的意味

・・・テラー二の建築プラットフォーム、「透明甲殻ファッショ建築」のイメージが意味するのは自閉性の「小さな機能主義」の病理・・・

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・・・画像は、G.Terragni Archive https://misfitsarchitecture.com/2014/07/13/architecture-for-fascists-by-fascists/1022-6499_la-casa-del-fascio-co/  より。

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・・・画像「カーサ・デル・ファッショ」(コモ)はウイキより。 

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・・・画像は、G.Terragni Archive https://misfitsarchitecture.com/2014/07/13/architecture-for-fascists-by-fascists/1022-6499_la-casa-del-fascio-co/  より。

(1)ファシズムは『例外的なもの(あるものは無い、ないものは在る)への抽象的同一化/倒錯的合理主義、鏡像ナルシスの小さな機能主義』、いわば「亡霊的」権力の病理

 

思想としてのファシズム(fascism)は、ベニート・ムッソリーニ(Benito A. A. Mussolini/1883 - 1945)が率いる国家ファシスト党イデオロギーに始まるとされ、その最大の特徴は「民主制のプロセスで、一強化した政党による強固な一党独裁制が確立したもの」とされているようだが、現実的な政策面では実に多様な側面(例えば軍事侵略主義、マイファースト倒錯合理主義(小さな機能主義)、強権統制経済、果ては市場原理主義(現下・日本の安倍ファッショ政権のケース)など)が現れており、その全容を正確に把握するのは容易なことではない。https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196428168837488640

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196428168837488640

敢えて一言で、その特徴を言うならば「例外的なもの(あるものは無い、ないものは在る/果ては、都合に応じて、その真逆である“ないものは在る、あるものは無い”へ強権的に自在に転換させるようなこと)への抽象(観念)的同一化」の超然権力による強制(つまり、有体に言えば限定的な合理主義を小ばかにしつつ、強権主義で“ご無理ごもっとも!”の同調と忖度を強いるバカリの、昔から存在するバカ殿さまの倒錯合理主義の政治・経済)ということである。さぞかし、現代日本の「安倍サクラ内閣が強制的に推し進める、今や酩酊状態の極みにも等しいアベノミクス政策」などは、その典型というべきであろう。

そして、例えば強権的な統制によって一般国民層の普通の『日常生活』のあり方(ヒトに必須の“生命の論理”)を完全に無視した倒錯の合理主義政策、つまり経済的付加価値の湧出源である「『日常』のエルゴン(死静態)、デュナミス(潜在性・潜勢態)、現勢態(エネルゲイア/特に、生命エネルギー通貨の重要な意義)」を完全に無視するという異常な権力の暴走(態度)である。その意味では、行き過ぎた新自由主義による大格差拡大の放置、又は準汎用AI機械抽象的生産性とヒトの“日常”に必須の“生命の論理”の乖離、つまり前者(準汎用AI機械抽象的デュナミス生産性/潜性態・潜在性)と現勢態(エネルゲイア)の乖離こと、準汎用AI抽象的生産性が必然的にもたらす『人間の壁』(委細、参照↓◆)を放置・無視するような“AI‐IT経済”立国主義なども明らかにファシズムのジャンルに入る。

チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済(第4次産業・AI革命)に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

しかも、それはやがてヒトラー・ドイツのナチズム(Nazism)の概念(イデオロギー)と融合したこともあり、益々、一般的には分かり難いものとなっている。そのため我われがナチズムとファシズムの言葉の定義を厳密に使い分けて議論することはなかなか困難である。因みに、このファシズムの語源はラテン語のファスケス(fasces)で、それは共和制ローマの統一シンボルである、領域で割拠する諸権力を強い共和制国家の紐で縛る意味を表す「束ねた杖」(諸権力の分散を統制する強力な団結力の象徴)のことだ(添付画像)。

ここから、ファシズムの特徴は過去における「一定の国家の栄光と民族の誇りの権力表象(タイプ/Type)」を過剰なまで誉め讃え、それをこの上なく美化しつつ祀り上げる、いわば過去(ここでは共和制ローマローマ帝国時代の)において嘗て一定の目標(理想)に到達したと想定される「美しい国」の理念(ドグマ化した)を熱烈に希求する、ある種の強烈なロマンチシズム的情念(自閉ナルシズム的な愛国心への没入を強制する、一強化した政治権力による統治形態)でもあることが理解できる。因みに、ムッソリーニは熱心にプラトン(“普遍的な希望の理念”と“あり得ない妄想”とのご都合主義的な同一視のための誤った粗雑な論理のためにを研究していたともされる。

<補足>現実認知に関わる「タイプとトークンの峻別」が意味すること・・・パース(Charles Sanders Peirce/1839 – 1914/米国の哲学者、論理学者、数学者、科学者/プラグマティズム創始者)が提唱したタイプ(そもそも脳内で超時間的に、かつ自由に変容し得る概念そのもの)とトークン(その概念と対峙する関係にあるリアル/内外のエトノス自然環境と共鳴しつつも確固たる実在として因果、つまりリアル時間の連鎖に沿って流れ続ける一回性で特定・個別の対象)を区別する考え方があり、これは「Type-token distinction」と呼ばれる。

・・・

注意すべきは、政治体制の如何を問わず何時の時代でもこのような意味での情念のファクターは人間であれば誰でもが普通に内心に抱えているという現実があることだ。従って、この「権力者によるナルシズム的な愛国心への没入を強制する、一強政治権力による統治形態」(まさに現代日本の一強、安倍政権はこれに当たると思われる)の核心的なエルゴン(ergon/死静態/既出:普段は休眠状態にある両義的な情念・表象で、何らかの契機で活性化するとそれらの何れかを表現する言語活動となる)は、一体何か?という問題になる。

そこで想起されるのが、『政治の美学‐権力と表象‐』の著者である田中純(東大大学院総合文化研究科教授/思想史、表象文化論)が指摘する、ファシズム(ないしはナチズム)が持つ、一種の抽象急進主義のジャンルと見るべき「例外的なもの(又はあり得ないこと)への抽象的同一化/亡霊的権力or権力の亡霊」の問題である(日本会議、安倍政権らが信奉する“靖国(英霊)”顕幽論などは、その典型であろう)。

この「例外的なもの(あり得ないこと)への抽象的同一化」は、必ずしも、おどろおどろしい「文字どおり恐ろしげに見立てた姿やイメージ」で立ち現れるとは限らず、むしろ実際には大衆受けがし易い美しいイメージや伝統であるか、あるいはむしろ「ファッショナブルで格好が良くてステキ―!」とか、又は「とても洗練されていて美的センスが良いわ~!」と、その見かけは好感をもって受け止められるケースが多いようだ(例えばジュゼッペ・テラー二の『透明甲殻ファッショ建築』、あるいは『盾の会』で散華した三島由紀夫の高踏な文学など(三島の画像は、http://history365days.blog.fc2.com/blog-entry-895.html より)

そして、後者は日本国民の無意識に深く浸透するファシズム美学の秀作へ昇華している訳だが(田中純は、これを文学の世界における“死に損ないの原理”と呼ぶ/無限後退的に敗戦のトラウマに飲み込まれた儘で、成仏もできず宙づりのゾンビとなっている深層心理の残滓の謂い)、おそらくその宙づりゾンビたる日本会議の指南に沿って、これを薄っぺらに“オレ・アベ様の巧妙な政治利用”と気取った『(美しい?wアベ様の)桜を見る会』は、むしろ無気味な安倍晋三・首相とその同類のドヤ顔(いわゆるサクラ)バカリを見せつられるトンデモ“亡霊的権力”であったようだが?w)。.

(2)ファッショ(ファシズム政治)に回収された現代建築家テラー二「小さな機能主義」の傑作、カーサ・デル・ファッショ

今もインダストリアルデザインの世界に大きな影響を及ぼすイタリア合理主義と、ファシズムの結び付きは、モダニズムの運動をイタリアに普及させようとジュゼッペ・テラーニが1926年に「グルッポ7」(Gruppo 7、https://www.idesign.wiki/tag/gruppo-7/)を設立した時から強まったとされる。そして、グルッポ7の建築宣言はフランスの建築家ル・コルビュジエの著書『建築をめざして』(1923)の影響を受けており、コルビュジエが訴えたフレーズは「住宅は住むための機械」ということであった(画像は、https://www.idesign.wiki/giuseppe-terragni/より)。

 が、そもそもル・コルビュジエ(Le Corbusier/1887 - 1965/フランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に“近代建築の三大巨匠”とされる)のフレーズ「住宅は住むための機械」が意図したのは「住宅は人が住むための機械と見るべきで、それは一般の人々の暮らしに合わせて使いやすく、しかも彼らが購入しやすいリーズナブルな価格で量産可能なものであるべきだ」いう、あくまでも建物の中で暮らし、そのなかで生活と仕事を創造する人々のためのもの(ヒトの生命の論理に貢献すべきもの)、つまり其処に住まう人間を最重視するということであり、ひたすら外形表象の美を求めて、その世界へ没入することではなかったのだ

そして、特に数学そのものに高い関心を持ち続けたテラーニが、その「現実にはあり得ない抽象性の典型」である<数学的抽象美>をリアルな建築造形へ昇華させる仕事の追求、つまりその高度抽象性なる超合理性の美の表現と関連づけて最もこだわったのがファサード・デザイン(建築物の正面部分のデザイン)である。必然的に、そこからはロマネスク、ゴシック、ルネッサンスバロックロココらの建造物のファサードデザインの特徴である「幾何学的な要素と自然造形的な諸要素(何らかの生命の論理を反映した装飾・文様等)とのバランスをとりつつ配置する」という視点は除かれることとなった。

無論、このような特徴が現代でも合理主義的なモダニズム建築の一つの魅力となっていることは確かなのだが、テラーニでは、それが徹底されるあまり自らの手本としたル・コルビュジエの建築美学(建築の基本構想部分)から“人間性の最重視”という最も肝心な基本ファクターを根底部分で一掃してしまうという、一種の倒錯的な美学へ没入するループ回路に嵌ったことになる。当然ながら、それはテラーニだけの責任と見るべきではなく、それこそファシズム時代の<忖度・同調>が強制される空気というステージ上での出来事であった訳だ。

それと同時に、このジュゼッペ・テラーニのモダニズム建築がファシズム政治の更なるファシズムとカーサ・デル・ファッショ」がイメージ表象を共有することを示す、このテラー二自身の言葉は非常に重要なヒントを我々に与えていると思われるので、同書『政治の美学‐権力と表象‐』の中から、田中が強調しつつ説明している部分を」以下に転載しておく。(P416~426/裏返された“ガラスの窓”―カーサ・デル・ファッショ―)

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・・・前、省略・・・では、テラー二の「家」はどこに位置するのか。それはどのような「住まい」を目指しているのか。カーサ・デル・ファッショにおいて追求されているのは文字通りの透明性ではない。内と外の単純な関係はそこにはない。トーマス・シューマッハー(都市計画家、建築家)は、この建物がほかの多くのイタリア合理主義建築とも、いわゆるインターナショナル・スタイルの建築とも異なり、奇妙な両義性(見かけの開放性と閉鎖性の謂い)を持っていることを指摘している。・・・途中、略・・・

カーサ・デル・ファッショは、これら前者二つの建築よりも遥かに堅く閉ざされているように見えながら、しかし同時にはるかに透明な感覚もまた与えるのである。堅い直方体をくりぬいた彫刻にも似た印象と共存して、大理石の被膜、コンクリート・フレーム、そして水平に並んだ窓の列といった要素が加算的に結合された結果としての、解体寸前の危うい均衡状態にあるかのような独特な透明性がそこには感じられる。・・・途中、略・・・

そして、このように内部/外部が逆転し、分裂してしまうとき(この奇妙なパースペクティブのもとで)、カーサ・デル・ファッショの外側に身を置く者は、実は既に何ものかの内側にいることになるだろう。逆に、建物内部はもはや閉ざされ限定された空間ではなく、はるかに広大で無限に近い外部空間(しかも、内と外が倒錯的に逆転した)であることになるだろう。・・・途中、略・・・

シューマッハーが指摘するように、ガラス扉はいわば「聖別」されており、この正面口(アトリウム側面の)からの移動(特別に配置された動線の一定の誘導による)が連想させるのは、ファシスト党員がアトリウムに集結し、十六のガラス扉が一斉に解放されて、黒シャツ姿の党員たちが一団となって広場の中央へと向かう場合にほかならない。・・・途中、略・・・

カーサ・デル・ファッショがファシズム革命に殉じたメモリアルでもあったとすれば、テラー二のダイアグラム(特別に仕掛けられた一定の動線の流れ)で表されているのは、この死者の家という彼岸から広場へとなだれ込んでくる、亡霊たちの殺到のようにも見える。(つまり、シューマッハーによれば、カーサ・デル・ファッショは内骨格が外骨格化する形で倒錯した、しかもその倒錯感覚が無限の反復を繰りし、その中心へ収斂する(飲み込まれる)ように感じられる、新種の不気味な甲殻生物の如きであることになる。←toxandoriaの解釈的な補足的)・・・後、省略・・・

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つまり、テラー二の建築は、第五章で取りあげる「リアル触覚遊牧民、小さな人間」の建築、つまり小国フィンランドのアルヴァ・アールトが創造した「小さく、ひ弱な人間のための建築(一回性の命を日々に紡ぐリアルな生命の論理)」とは全く異質な<「アールトの大きな機能主義/人間性を包摂する、人間のための機能主義」の正反対に位置する、その大仕掛けな見かけとは異なり異界に住む亡霊やゾンビたちのための閉鎖的な、つまりナルシス鏡像的なテラー二の最も特徴と言える「小さな機能主義」(マイファーストも此のジャンル)の建築プラットフォームである。まさに、それは「透明甲殻リバイアタン・ファッショの建築美学」とでも呼ぶべきものかもしれない。

2  17世紀(初期啓蒙思想期)は科学革命と仏モラリスト(只管、感情と論理の泥試合的な綱引きの場と化した宗教への批判)の時代に重なる

・・・17世紀(初期啓蒙思想期)は「モラリスト、“脱ドグマ”啓蒙市民社会、“オランダの光”が象徴する“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)と“機械”生産デュナミス潜在性の発見」が鼎立する、いわば今のAI時代のコンシリエンスの先取りともいえる画期の時代であった・・・

 (1)科学知の深化とモラリストの出現は感情と論理の泥仕合の場と化したキリスト教への冷静な批判

 (“機械”生産デュナミスの発見に繋がる科学革命と“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)の発見に繋がるモラリストの17世紀)

 <注記>デュナミス(潜性態・潜在性/dynamis)

・・・潜性態(デュナミス)は現勢態(エネルゲイア/energeia)に先行的に対応(いわばプレエネルゲイアの謂いで)するアリストテレスの用語。当記事の冒頭で記したエルゴン(ergon/死静態)が、普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことを意味するのに対し、それがリアル活性化すると両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。つまり、ヒトの『日常』(日々のリアル生命活動)は「エルゴンデュナミス(プレエネルゲイア)⇒エネルゲイア(現勢態⇒エンテレケイア(entelecheia)」のプロセスに支えられている訳だ。

・・・従って(+)のデュナミスが何らかの機械処理ないしは消費活動等で言語(経済活動)的に表現され、それが形式化され(例えば契約などの形で)「現実」化するとそれが新たに創造される経済価値(付加価値)のデュナミス(潜在性・潜性態)というリアル可能性の創造物となり、その貨幣化による分配と蓄積がヒト・企業・国家に必須の富の形成力(エネルゲイア/現勢態)となる。

・・・つまり、このプロセスを批判的実在論(Critical Realism)的に見れば見れば自然エトノスおよび人間社会のネットワーク網(生命の論理たる生命エネルギーの交換・代謝・展相が多次元的に連鎖する世界)における両義的なエルゴン(±、善・悪の表象らが無意識レベルの感情の海のなかで入り混じる混沌の世界/おそらく後述するザハヴィの無媒介的認知的自己意識にも一部が重なる)が一回性の邂逅で発火・燃焼する所在を絶えず、日常のなかでリアルに探索することが、先ず非常に重要であることが理解できる

 ・・・

 英国の歴史学者ハーバート・バターフィールド(Herbert Butterfield/1900 - 1979)は、1949年の著書『近代科学の誕生』の中で近代の画期として、17世紀を「科学革命の時代」と名付けている。具体的に見ると、それはN.コペルニクス、J.ケプラー、G.ガリレイ、A.ニュートンらによる科学研究上の大きな変革のことを指すが、その影響を受けた哲学上の変化も含め、この時代は「17世紀科学革命の時代」呼ばれることもある。

しかし、この時期の科学者が宗教の頸木、または羅針盤から完全に解き放たれていたと見るのは大きな誤解を生むことになる。例えば、後で委細を述べるフランスの思想家で「宗教的自由主義」を主張したピエール・ベールは、デカルトRené Descartes/1956 - 1650/数学者、合理主義哲学と、近世哲学の祖)の物理学に従って、処女作『1680年の彗星に関する随想』を書いたが、そのデカルトの物理学には“神によって保証された法則”との注釈が付いていた(@平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/京都大学・経済論叢:第89巻‐第2号』)。

それは17世紀後半~18世紀にかけての欧州「啓蒙思想」期の前半(初期啓蒙思想期)にほぼ重なり、この時代の主な思想家では英国のホッブス、J.ロック、スコットランドのD.ヒューム、フランスのヴォルテールディドロモンテスキュー、J.=J.ルソーらが先ず想起される。それは「聖書・教会、神学、王権」ら諸権威のドグマ(固定観念)から脱し、理性により人間の意思(意識)と権利の「普遍性」を定義し、その保全のための政治体制(民主主義社会)を創造する思想活動であった。

そこで、これから以下の章で述べるマンデヴィルへ大きな影響を与えたという意味で、17世紀フランス“啓蒙思想の先駆け”の思想家ピエール・ベール(Pierre Bayle/1647 - 1706)について少し触れておく(委細は第3章で詳述)。フランスの思想家ではあったが「宗教的自由主義」を主張したピエール・ベールはカトリックの国であるフランスから、リベラルの空気が濃厚だったオランダのロッテルダムへ移住している。

丁度その頃にロッテルダムエラスムス学校にマンデヴィルが在籍していた。そもそもベールは、1675年からフランスのセダンにあるプロテスタント系アカデミーの教授を努めていたが、1681年のルイ14世の勅令によって同校が廃止され、フランスにおけるプロテスタ ント迫害が過酷となってきたためフランスを逃れ、オランダへ移りロッテルダムでの教授職を得 て、オランダにおいて著作活動に専念するようになっていた。

ピエール・ベールがフランスで活躍していた時にほぼ重なる頃から、フランスにモラリストたちが現れる。モラリスト(moraliste)とは道徳家(moralisateur)とは異なる概念(というか、厳格な道徳家とは真逆で自由な発想を持つ人々)であり、彼らの思考は主にエッセイや文学・箴言などの形で表現される。その感情・感性の要素を重視しつつも、一方では大局的で冷静な視座で論ずるモラリストの思考は人間の日常における意識活動の多面性・多様性を様々な角度から深く思考するという、フランス文化に特有な知的伝統の一つの柱となっている。

特に大きな特徴と見るべきことは、それが宗教や道徳の厳正主義(厳格主義/rigorism)から解き放たれた自由であるが故の「両義性」という点にある(むしろ、多義性と言うべきかもしれない)。また、モラリストの発祥については諸説があるようだが「フロンドの乱/1648 - 1653」~「アンリ4世/フランス絶対王政の確立期」の間において「既存の政治体制と既成の価値観」(アンシャンレジーム)が崩壊する過程に入ったという点に求めるのが妥当と考えられる。

ところで、現代の「宗教的自由主義」は「宗教原理主義」(キリスト教の場合は主にプロテスタント聖書原理主義(聖書(福音)主義))と正反対の立場で宗教的リベラリズムと呼ばれることもあり、それは現在にも繋がる中々デリケートで難しいテーマである。なぜなら、今では「キリスト教での宗教原理主義」と言えば主に米国のプロテスタント系「エヴァンジェリカルズ(福音主義派)」を指すが、聖書原理主義カトリック系にも、又は神の唯一性(三位一体否定)を主張するユニタリアンでもあり得るからだ。

例えば、今の米国で「エヴァンジェリカルズ(プロテスタントキリスト教福音主義派/聖書原理主義派)Vs(宗教的)リベラリズム」の対立の形で現れており、今のところトランプ岩盤支持(約40~50%)の中核をプロテスタントエヴァンジェリカルズ(推定総数ca1億人/米全人口の約1/3)が占めており、トランプ大統領の再選へも相変わらず大きな影響を与える可能性がある。尤もこの構造の“背後霊”はペンス副大統領である(ペンスはカトリックエヴァンジェリカルズを自称し二股をかけている?苦w)。

(2)“脱ドグマ”啓蒙市民社会の曙、“オランダの光”が象徴する“機械”生産デュナミスと“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)の発見

(“脱ドグマ”啓蒙市民社会の曙を準備し開花させたネーデルラントのエトノス環境

 <注記>エトノス(ethnos)とは?

・・・[世界大百科事典 第2版(平凡社)]によれば、「そもそもエトノス(ethnos)は、ギリシア語で民族を意味する。民族学の用語としては,ロシア系の民族学者S.M.シロコゴロフがはじめて本格的に論じ,ドイツの民族学者ミュールマンW.E.Mühlmann(1904‐ )などによって,この概念の重要性が明らかにされた。それは,同一の文化的伝統を共有するとともに,〈われわれ何々族,何々人〉という共属意識をもつ最大の独立した単位集団をいう。したがって,一つのエトノスは場合によっては,バンドでも,氏族でも,部族でも,さらにカーストでもありうる。」ということになるが、ここでは更に、その後の自然科学・歴史・地球環境・民族等に関わる研究と人間社会における意識上の変化等を反映させつつ、さらにエトノスの概念を批判的実在論(Critical Realism)の視点で拡大して定義(仮に)しておく。

・・・つまり、<ethnosは古代ギリシア語に由来しており、村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団のことを意味するから、エトノスの意味は、そこに置かれる人々の立ち位置が変われば正反対になり得るので、そもそも絶対的で画一的な評価を伴う言葉ではなかった。おそらく、それは「生命」現象そのものと同じく、永遠に揺らぎつつも(対象と背景環境が絶えず交替し得るため)各アイデンティティーの持続性を必死で繋ぎとめるべきものであるのかも知れない。従って、エトノスとは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”となし得る開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化(マイクロバイオーム世界、量子物理学世界の理解など)を常に受け入れつつも、その伝統的なヒューマン・スケールの全体性の“持続”を最も重視する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となるローカルの風土』を意味する。>ということになる。

 ・・・

 

・・・Rembrandt「The Night Watch」1642 Rijksmuseum 、Amsterdam , Netherlands

・・・ Vermeer「 Girl with a Pearl Earring」c.1665. Mauritshuis, the Hague, Netherlands

近世のネーデルラント地方(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3か国、いわゆるベネルクスとも呼ばれる低地地域)は近代資本主義の誕生の地であり、その繁栄のピークを代表するのが「レンブラントの時代」とも呼ばれる17世紀のオランダである。因みに、光と影の画家とされるレンブラントは、キリスト教への賛歌に留まらず市井の普通の人々のリアリズム感覚に限りなく接近していた、フェルメール、カラヴァッジョ、ルーベンス、ベラスケスらと並びバロック絵画を代表する画家の一人である。

ネーデルラント(低地)の呼び名のとおり、この地域はヨーロッパ北西端の最も低い土地にあり、アルプスから発しドイツを南から北に流れるライン及び北フランスの山岳地帯から流れ出るマースとスヘルデの三つの川が、ここで北海に注ぐ。 このように平坦な土地を流れる河川の歴史は、必然的にこの地域での人流・物流を活発なものとしてきたうえ、ほぼ欧州の中心の位置でもありネーデルラントはヨーロッパの文化・言語・政治権力が出会い、交流し、激しく衝突する場でもあった。

今でも、当地域にはEUユーロポート(ロッテルダム)、ブリュッセルEU本部、ハーグ国際司法裁判所など欧州と世界の民主主義にとり重要な中枢機構が点在し、ゲルマン文化とラテン文化、オランダ語フラマン語ワロン語、フリースラント語、独・仏・英語がモザイクのように点在する形で共存している。つまり、その特徴を一言で言えば“絶えざる人的交流と流動的な異文化の坩堝”といえる。

およそ16~17世紀の近世史の流れのうえでも、このような人文・自然地理および歴史環境(いわば欧州の中央部に位置する低地地方というエトノス環境の中でも、北方ネーデルラントとも呼ばれるオランダは広い意味での欧州の紛れもない先進地であり、特に強大なハプスブルク支配から独立したばかりの17世紀のオランダ共和国において、新しい近代的な法思想や科学知識が深化しており、また新興市民階級(指導層はレヘントと呼ばれる、主に商人が出自の都市貴族)の勃興パワーと初期資本主義の発展が著しかった。

例えば、迫害を逃れるためポルトガルからオランダのアムステルダム(当時、アムステルダムはヨーロッパで有数の国際商業貿易港で自由と寛容の空気が流れていた)へ亡命した裕福なユダヤ商人の家に生まれたスピノザ(Baruch de Sponoza/1632〜1677)の事績がある。ここでスピノザは温厚なユダヤ神秘主義の精神とルネサンス以降の合理精神(スコラ哲学的論理学、デカルト哲学、数学、自然科学など)を統一して、独創的な哲学体系(寛容の哲学体系)を築いている。

あるいは、デルフトの有力市民(市長や参事会員を輩出した家系)の子として生を受けたグロティウス(Hugo Grotius/1583〜1645)は、14歳でライデン大学を卒業し、15歳でオランダ連邦共和国使節の一人としてフランス国王アンリ4世(1553〜1610/ブルボン王朝フランスの始祖/新教徒(ユグノー)と和解するため1598年の“ナントの勅令”で一部の信仰の自由を認めフランスの宗教戦争を終らせた)に謁見する機会を与えられている。

21歳の時に、グロティウスはマラッカ海峡で起こったポルトガル船による拿捕事件でオランダ東インド会社から委嘱を受けて『捕獲論』を書き東インド会社の立場を擁護しているが、更にグロティウスはその一部を『海洋自由論』として出版(1609)し、いかなる国の国民でも「自然法」の原則で海洋を自由に航行し、他国民と自由に交易をする権利があることを説いた。

18世紀に入ってからこの海洋自由論は広く世界的に承認されるようになり、現在の「公海」と「領海」の概念が成立したという海洋法に関わる歴史がある。なお、「自然法」は、ストア派の宇宙の理法(今で言えば自然計算の観念?Cf.↓)に由来し、中世ではキリストの啓示がこれに代わり、啓蒙思想のころから普遍的な法則性と規範性の二義性が意識されるようになった、実定法に優越する法理のことである。

♨ 想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか? それは「アナログ/自然計算(“暗黙知”ワールド?)」と「デジタル/AIディープラーニング(“形式知”抽出マシンワールド?)」の溝の深さによる?(仮説)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

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現在から逆照射すれば、それは殆どエトノス自然環境(地球環境内における生命の論理、地球温暖化の問題意識からそれは凡ゆる生命を含めた意味での倫理へと拡張しつつある)の考え方に重なると思われる。

また、1618年のオランダ移住後に「三十年戦争」へ参加しドイツの各地で過ごし、更にイタリアとフランスの各地を旅したあと、再び1628年にオランダに戻ったデカルトが、その後、21年間にもおよびアムステルダムで研究を続けている。そして、その間に、にガリレイの地動説を論じた著作がローマ教皇庁の宗教裁判で有罪とされたこと(1633)に大きな衝撃を受け、彼自身が天体を論じた著作『世界論』の公刊を断念する事件が起こっている。

(17世紀オランダの新興市民らによる『“機械”生産デュナミスと日常礼賛の意義の発見)

 

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196562627746390019

現代世界は、米国「トランプ政権」と日本「安倍政権」という二つのニュー・タイプの“ある意味で奇妙な”ファシズム権力(透明甲殻リバイアタン・ファッショのジャンル?)の暴走に脅かされつつあるとも言えそうであり、この両者を手玉に取る位置に立つのが中国(習 近平・主席)だ。これら三国のトップ(トランプ、安倍晋三、習 近平)は、外形的に“三者三様”に見えるが、実は宗教原理主義中国共産党一党独裁は、いわば宗教もどき!)絡みの<異様権力原理主義>という意味では共通した「人権に関わる深刻な宿痾」を抱えている。Cf.「米中新冷戦の「いい湯加減」?試金石は香港 編集委員・滝田 洋一/核心1118日経」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52230160V11C19A1TCR000/

つまり、それが前段で“ある意味で奇妙な”と述べたことに関わる訳だが、それは、夫々にヘイト・ステルス宗教(権力基盤たる“背後霊=守護神”)問題が絡むあまり、肝心のエトノス(観)を見失っている上に、最も重視すべき真の「経済生産デュナミス」と「日常生活のエルゴン(プレ生産デュナミス潜在性)」の視点を完全に見失っているという意味だ(米:エバンジェリカルズ(プロテスタント福音派/ca.1億人、対国民比ca.3割強を占有/副大統領ペンスを介しトランプの守護霊ともなっている!)、日=日本会議国家神道復活派/国民比では僅少ながら自民党保守系議員(国政・地方共に)の占有率が異常に大きく安倍内閣では、ほぼ独占状態)、中国=上で述べたとおり宗教もどき中国共産党一党独裁)。

一方、世界の歴史を振り返ると、17世紀の欧州の中心地ネーデルラント(ほぼオランダ連邦共和国に重なる)では「新しい時代の光と空気」(今で言えばエトノス観)、具体的に言えば17世紀科学革命、モラリスト啓蒙思想(前期)、オランダ典雅法律学(フット/J. Voet/1647-1714)が代表する人文主義的な広角の法解釈)などに共鳴した新興ブルジョワ市民層らの間から、更に日々の生活を充実させようとする気風が高まっていた。

より具体的に見れば、それは低地ネーデルラントオランダ)の中世から引き続く国土干拓の歴史、それに伴う機械・土木建築・造船・航海などに関わる技術開発の進化、そして金融・証券市場の創設と東インド会社の設立、内需(消費)市場の成熟、芸術創造の活性化(レンブラントフェルメールらの活躍、本格的画商の登場、果てはチューリップバブルの崩壊)etcとなる。

つまり、世界で最初の市民革命(商人ブルジョワ層中心の)でもあった「オランダ独立戦争」(1568-1609)によって、中世自由都市の面影を残しながらも英・仏に先駆け逸早く市民による活発な交易活動社会を実現した17世紀のオランダ(その黄金期を、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガ(J.Huizinga/1782-1945)は『レンブラントの時代』と名付けた)は、新興ブルジョワ階層(レヘント(Regent)と呼ばれる主に大商人を出自とする都市門閥貴族)を主体とする市民社会を創りあげた。

彼らは、その地の利と他国に先駆けて芽生えた「17世紀オランダ近代理性主義」(16世紀のエラスムスを源流とするグロティウス、スピノザなどの系譜)の知的遺産と欧州の十字路と呼ばれるマルチリンガル個性的文化を十分に活かして、このネーデルラントの地で、現代的な意味合いに近いグローバルな初期資本主義と呼ぶべき活発な経済活動を展開した。

やがて英仏両国から追撃を受け彼らの黄金時代は終わることになる。そして、このように「レンブラントの時代」が約100年足らずで終焉を迎えた背景には未解明の部分が多いが、一つはっきりしていることがある。それは「絶対王政の歴史経験がないオランダ連邦共和国(1580頃 - 1795/レヘントから選出される総督がトップで、同じくレヘントから成る市議会・州議会・連邦議会議員が政治を独占)では近代官僚制の発達が不十分であった」ということだ

他方、これを追撃した英仏両国は、それぞれの絶対王政時代を通して強大な近代官僚制を創り上げていった。このことから、歴史過程に照らしたその功罪の評価をともかくとすれば、近代国家を効率的に経営する条件として、確固たる理念をバックとするエリート指導層の形成と共に近代官僚制度の整備・充実は必要なことであったと考えられる。ともかくも、このように17世紀ネーデルラントの中心地であったオランダの近世史を概観すると、それは、紛れもなく「ネーデルラントに住む新興市民らによる『“機械”生産デュナミスと日常礼賛』の意義の発見」ということであった

特に後者の『日常礼賛』について見ると、当時の「各国が貿易収支の差額(黒字)により国富の増加をめざす重商主義(mercantilism/典型的な自国第一の保護主義)を採っていたこと」に照らせば、この『日常礼賛』を経済活動の第一義に位置付けるべきとする発想は、当時としては異端視される可能性すらあったと思われることを注視しておくべきだろうしかし、マンデヴィルはコレに気づいていた節がある。

つまり、この『日常礼賛』をストレートに「私益の飽くなき追求=悪徳」へと読み替えれば、後述するマンデヴィル『蜂の寓話』の風刺と重なることが興味深い。当記事は、それをストレートな風刺ではなく逆説であったと見ている。謂わば、この『日常礼賛』には単なる『私益』以上の深い意味があることに気づいていたからこそ、最もそれを重視すべきだ!ということをマンデヴィルは逆説で表現した!?と見ている訳だ。しかし、その重要な意味は当時の建前上の一般常識とは真逆であった。

ともかくも、言い換えればそれは機械・土木建築・造船・航海などに関わる技術開発の進化に伴う<“機械”生産デュナミスと“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)の発見>ということである。因みに、デュナミス(潜在性・潜性態/dy(u)namis)は、現勢態(エネルゲイア/energeia)に対応する、アリストテレスの用語であった。序に言えば、同じくアリストテレスによれば目的に到った状態のことはエンテレケイア(entelecheia/プラトンイデアに匹敵する)と呼ばれる。

エルゴン(ergon/死静態)は、記事の冒頭でも記したとおり、W.フンボルトの用語で普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことだが、それがリアルに活性化するとそれら両者の何れかを表現する言語的な意識活動となることが理解できよう。そこで、これら三者(四者)の概念を時間軸に沿って接合すると「エルゴン→デュナミス→エネルゲイア(→エンテレケイア」となることが分かる。

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また、このアリストテレスの相転換のイメージから、同様に段階的な転相の意義を説くフランス科学認識論の哲学者、G.シモンドン『個体化の哲学』(叢書・ウニベルシタス)が想起される。この著書でシモンドンは、“ミクロから宇宙規模のマクロにおよぶ大自然世界における相転移の問題意識”の連続リアリティ概念を説明しているが、又これは個体生命内の「ATP/アデノシン酸三燐酸(動植物に共通の個体内における生命エネルギー通貨)」創造の問題とも深く関わると考えられるので、これから益々重視すべき非常に重要な概念(認識)である。

以上のことから、そもそも今までの経済学が無視(又は見落としてきた)ファクターとして「『エルゴンの“未生の±価値”=プレ潜性(可能)態/おそらく、これは内需等に係る新しい生産性の培地』」の重要性が認識できるのではないかと思われる

より具体的に言えば、それは<リアル経済価値(付加価値創造)に至る以前の「潜在価値」転相プロセスの問題>ということである(委細は省くが此の点には生命の一回性の意義との関りが潜むかも?)無論、17世紀科学革命の頃から意識されるようになり、そして今や本格的なAI時代に入りつつあるからこそ、益々、解決を急ぐべき機械高度生産性Vs労働生産性(ヒトの低生産性)(大格差の発生)=人間の壁>の問題があることは言うまでもない

ところで、それに加えて注目すべきは<17世紀『レンブラントの時代』に生きた新興市民層の人々が、それは殆ど無意識であったにせよ、資本主義が深化しつつあった17世紀ネーデルラントの『日常の生活』のなかで、そのことの重要な意義に十分に気付いていた節があること。ともかくも、それを見事に摘出してみせたのがブルガリア出身のフランスの思想家・哲学者、ツヴェタン・トドロフ(Tzvetan Todorov/ 1939 - 2017)である。

 

ツヴェタン・トドロフは、著書『日常礼賛』で「17世紀オランダにおける“自律意識が高い市民らの日常生活”充実への粘り強い拘りと好奇心に因る社会ネットワークの多様化」こそが、初期の近代資本主義が当地で発達した理由となっていることを見事に摘出している。れは、何事につけ強権ワンポイント主義で全てが解決することはあり得ないことを前提に、啓蒙思想を培地とした絶えざる『日常』(日々の生活)の充実を求める市民層の、多様性を求める強い自律意思(共生志向の主権者意識)にこそ、普通一般の人々の日々に新たな民主主義への希望を与え続けていたということだ。

別の言い方をするならば、「ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』は、絵画と世俗・日常の完全な融合を実現した17世紀オランダ絵画の「批判実在論」的な意味を斬新な視点で抉ったものであり、同じトドロフの注目の新著『民主主義の内なる敵』と併せて、今こそ改めて読むべき内容だと思われる。それは、この時代が<政治・経済的には近代資本主義の幕開けを飾った「画期の時代」>であると考えられるからだ。」ということになる。

<注記>ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』のポイント(17紀オランダ市民層がフェルメールレンブラントらの絵画に惹かれた訳)

・・・「写実主義と寓意的意味という二つの狭い視点だけでしか風俗画とも呼ばれる17世紀オランダ絵画を見ることはできないのだろうか?」というのが、ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』の出発点(同書を書く動機、多元的な眼差し)であった。トドロフはそこに共通する<日常生活のジャンル>のなかに存在する、豊かさへの節度ある願望が持つ尊厳性ということに気づいたのだ。
・・・つまり、「写実、寓意(道徳、啓蒙)、画家自身の眼という三要素がもつれ格闘(entangle)する過程の中に画家たちは三つの夫々に還元できない、ある種の新しい人間的な美意識を伴うリアルな文化・経済価値を創造する作用を発見した」とトドロフは主張する。もっと言えば、これら三つの要素と中間層市民の『日常生活(の礼賛、へのこだわり)』という個々の異なるエトノス(世界観)の緊張関係の中で彼らは次々と「美意識と多元的な経済価値のフロンティア」(エルゴン)を発見し続けたのである。そして、17世紀オランダの市民層の旺盛な好奇心は、このような点に強く惹きつけられた
・・・より大きくとらえるならば現代にもつながる人間の営みの普遍性であり尊厳性でもあると見るべきことで、それは<資本主義経済の持続性(および結果としての成長)を請け負い保証するプラットホームが普通一般の市民層の日常生活>の中にこそあるという発見であった。つまり、それは彼ら一人一人の、自分自身の中と見知らぬエトノス環境の世界の中に無限に存在するという、いわばそのような意味での「エルゴン」の発見であった
・・・更に言い換えれば、それまで圧倒的な宗教の支配に従属していた人間の本質的なもの、人間の自由意思と正統な宗教意識の適度な調和と距離感を実現する啓蒙思想(相互の信頼と信用を保全する共同主観性としての政教分離の理想)にこそ馴染む、多数派市民層を中心とする“日常生活”の意義の発見ということだ。無論、この当時のオランダの「政教分離」は未完の発展プロセスの途上ではあったが。
・・・そして、それに必要な一定限度の貨幣「量」およびその多数派層の市民(17世紀オランダの場合は各自治都市の自律意識を持つ市民層)の日常生活を支え得る、過剰(バブル)にならぬ程々の貨幣流通「速度」(経済学的には、同一の貨幣が一定期間内に何回持ち主を変えるかの平均で、貨幣の『所得速度』とも呼ばれる/実は、現代でも忘れられてきたが、彼のケインズがこれを最重視していた)の確保の意味(重要性)の発見ということだ。

・・・

今まで書いたことと一部重複するが、以上から理解できることを、経済価値(付加価値創造)に関わる「生産デュナミス(潜在性)→リアル付加価値創造エネルゲイア(現勢態=個人所得・企業利益・税収・国富など)」のフローとして概観すると、以下のとおりになる。

・・・(1)エルゴン(死静態/ergon/未生の“±価値”/プレ潜性(可能)態)→(2)デュナミス(潜性(可能)態/du(y)namis/未生の“+価値”(付加価値創造1))→(3)エネルゲイア(現勢態/リアル経済価値(付加価値創造2))

「Luddite movement」の画像検索結果

・・・画像は、https://www.history.com/news/industrial-revolution-luddites-workersより。

17~18世紀「産業革命」以前の機械力が殆ど介在しない段階での資本主義では、農業生産と商業市場および遠隔交易に関わる経済のパイが大きかったが、同革命後(進行プロセス期を含む)のそれでは、次第に(2)の段階における「機械デュナミス潜性態」の占有が大きくなってきたと考えられる。そして、そもそも[(2)]Vs[(3)]で発生する、技術革新(労働・機械両生産性の質的な差異)から発生する大きな格差の問題は「産業革命」の頃から意識されてはきた(Ex.英『ラッダイト運動( Luddite movement/機械打ち壊し運動)』、http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h28/hakusho/h29/html/n1131c02.html)。

しかし、AI革命が喧伝される現代では、(2)が徐々に全面的な「AI機械デュナミス潜性(可能)態(潜在的なAI機械高付加価値)」への移行が予想されることとなり、同時に[(2)]Vs[(3)「特に個人所得の部分」]の格差拡大(断絶の発生と固定化)が大きな問題となっており「ネオ・ラッダイト」の時代の接近も懸念されている訳だ。

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https://twitter.com/sakuhinsha/status/1195510132462895104

因みに、新刊のデヴィット・ハーヴェイ『経済的理性の狂気』(作品社)は大変興味深いが、マルクス資本論」が上部構造(宗教・カルト・道徳・芸術・法制・政治ら謂わば情念)の狂気をも指摘しており、それ故にラッダイト運動も機械(今で言えばAI-ITら)ではなくそれを悪用し私益を謀る政治的なもの(例えばアベ的お仲間政治など)を破壊すべきと主張した点も改めて重視すべきだろう。

しかも、このような切り口から見れば、特に無限の可能性さえ秘める[(1)エルゴン(死静態/ergon/未生の“±価値”/プレ潜性(可能)態)]に全く気づいていないか、あるいはそれを承知で無視してきた新自由主義が、実は経済思想(エトノス自然環境を見据えた哲学を核とすべき)とは似て非なるものであることが歴然とする。無論、新古典派以降の正統派の経済学も殆どコレは無視してきたと思われる。

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196423460928360450

因みに、いま日本政府が「IPSストック事業(山中伸弥氏)」への支援を0レベルへ減額したことの大きな衝撃が拡がっているようだがしかも、その後になって此の背景には恐るべき安倍政権の堕落政治の実情が潜むことがバレた!20191118日経)、これは日本政府がこのような意味でのエルゴン・レベルの、言い換えればプレ潜在価値(=未生の“±価値”/プレ潜性(可能)態)について全く無関心か、あるいは無知である(新自由主義の短絡である目先主義に嵌ったままでいる)ことの証拠のように思われる。実に勿体ないことだが、これでは、既にこのような視点に気づき先手を打っている海外との競争で負け続けるのが必至である。 ⇒ Cf.「iPS備蓄事業、予算減額案 山中氏「非常に厳しい」1118日https://s.nikkei.com/2pnWiXG

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199893666476675072

f:id:toxandoria:20191128124712p:plain・・・1~6の記述内容は下記URLをクリック!で読めます。https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199258765045813251

しかも、AI・IPSらの先端科学技術分野への理解に止まらず、これと似たような意味では、「日本の政治権力トップも、投資家も、経営者も、一般国民も、その悉くが『アナクロ安倍サクラ内閣』のノリで、致命的にピント外れの時代遅れ」となっていることは空恐ろしいバカリである。

ともかくも、重要なのは、このような意味での[(2)デュナミス(潜在性・潜勢(可能)態/du(y)namis/未生の“+価値”(付加価値創造1))]は無論のこと、ツヴェタン・トドロフが説く如く「日常」を最重視しつつ生きた17世紀『レンブラントの時代』の新興市民層の人々が、おそらく[(2)デュナミス(潜在性・潜勢態(可能)態/du(y)namis/未生の+価値(付加価値創造1))]へも気付いていた可能性が高いことを思うと非常に感慨深い思いがする。そして、その理解のためのキーワードが『オランダの光である

(3)17世紀『レンブラントの時代』から続くオランダの光は代替不能なエトノス環境の無限の可能性の象徴

・・・“オランダの光”は、“機械”生産デュナミスと“日常エルゴン”(プレ生産デュナミス)発見の培地・・・

 

・・・画像[オランダの光]は、ピーターリム・デ・クローンの映画『オランダの光』http://urx.blue/zoq3より


Hollands Licht (Documentaire)

 

オランダの干拓の歴史は同時に排水技術と灌漑技術の長い歴史でもあった。当然ながら、いったん干拓で造成された土地は排水しなければ再び水没するし、灌漑で清潔な水を導かなければ生活も農作物も牧畜も成り立たない。また、生活廃水や屎尿などの汚水処理についても特に意識的な取り組みが必要であった。

現在、オランダ南西部に位置するロッテルダム郊外のキンデルダイクはオランダ国内で最も多くの水車が見られる場所として名高い所であり、ユネスコは、1997年、このキンデルダイクからエルスハウトに連なる風車ネットワーク地帯を「世界遺産」に認定している。

この地域にある風車は、中世以来、農地や牧草地に水を導く灌漑や余分の水を排水するための灌漑・排水設備として建設されてきたものであり、現在までに開発されたあらゆる関連技術が保存・活用されている。それは、まさに水と共存してきたオランダの人々の悠久の歴史の積み重ねである。

地下水道や下水道の歴史は古いものではメソポタミアのウル、バビロン遺跡やインダス文明モヘンジョダロ遺跡あたりまで遡るようだが、これら古代の下水道は、その末端が都市の外部の遠くまでは伸びておらず、途中の沈殿池から地下へ自然浸透させたものであった。しかし、ネーデルラントでは現代のような完全に化学的な汚・排水処理システムではなかった(つまり、最終的には海や河川へ流すものであった)にしても、既に中世から汚水を専用に排水する排水溝が作られていた。

・・・「The Arnolfini Portrait」the National Gallery, London, 1434 (Wikipedia

このため、15、16世紀頃のパリ、ロンドンなどの市街で糞尿まみれの汚水が垂れ流され臭気芬々たる有様であった時代に、オランダの都市では、舗装が行き届かなかったため泥まみれではあっても糞尿まみれにはならなかったとされる。ただ、低地であるため絶えず浸水と汚泥の侵入には悩まされており、ヤン・ファン・アイク『アルノルフィーニ夫妻像』(1434/テンペラ画/ロンドン・ナショナルギャラリー)の画中に描いてあるような木靴(靴の上からサンダルのように重ねて履き、道路を歩くときに汚泥を防ぐ)が利用されていた。

このようにオランダはヨーロッパ中で最も港湾土木技術及び排水施設関連の技術が発達していた。そのため20世紀に入ってからもオランダでは真空式集落排水システムや酸化溝構造など近代的な化学的排水処理施設を備えた下水道が世界で最も早く整備されている。また、日本の明治維新・政府がオランダの技術者を招聘して港湾・下水道整備などの近代的な土木技術を学んだことは周知のとおりである。今でも世界の下水道普及率はオランダ98%、イギリス96%、スウエーデン93%、ドイツ92%、カナダ91%、アメリカ71%、日本64%となっており、オランダの普及率が郡を抜いている。

(4)17世紀ヨーロッパ大陸で日常のエルゴンに無限の多様性(可能性)をもたらすステージを提供した出版・新聞ジャーナリズムの概要/ジャーナリズムの原点

Picture of a copy of the Gutenberg Bibl owned by the US Library of Congress  ・・・画像はウィキ(USA)より

<補足>以下に述べる欧州ジャーナリズムの過酷な歴史は、現代欧米ジャーナリズムの「権力者の明白な不正を毅然と糾弾する公正で厳格な姿勢」の基盤を形成した。それは現代日本メディアの大甘で欺瞞的な対権力<忖度>意識(↓★)との決定的な違いを見せつける!

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1229669094988763136

・・・

先ず出版につい見ておくと、1445年に近隣の都市マインツグーテンベルク活版印刷術を発明するや、途端に印刷・出版の大ブームがヨーロッパ中に湧き起こることになるが、まず他の諸都市に先駆けフランクフルトで「書籍市(ブーフ・メッセ)」が行われるようになり、それが今の「フランクフルト・ブックフェアー」(毎年行われる世界最大の書籍市)に繋がっていることを忘れることができない。

 

アントワープブリュッセルの北方約50kmに位置する、今は人口が約50万人のベルギー第二の都市)にあり、ルネサンスバロック時代にまで歴史が遡る「プランタン=モレトウス印刷所」の活躍も想起すべきであろう。現在、それは「プランタン=モレトウス印刷博物館」として残されている(画像はhttps://blog.goo.ne.jp/hidamari-reading-uk/e/8e9fc8cd0b04bbe224c7d1989d7dcd58より)。

当然、このような動きはネーデルラント(オランダ、ベルギー)、ドイツ、フランスなど欧州の中央部に留まることはなく、それは東欧へも及んでいる。例えば、1468年に“ボヘミア最古の本”とされる『トロヤ年代記』がプルゼニPlzen/今はボヘミア地方の西部にありプラハ、ブルノ、オストラバに次ぐ第4の都市)で印刷され1516世紀ボヘミアの印刷・製本術は非常に高度な技術に到達していた。16世紀のチェコではヤン・ブラホスラフ(Jan Blahoslav宗教改革家)がチェコ語文法の研究を進め、聖書のチェコ語への翻訳も完成させた。

このように16世紀のチェコではフスが形を整えたチェコ語(チェコ人の口語)ボヘミア公用語としての地位を獲得することとなり、フス、ヘルチェッキー、ボヘミア同胞兄弟団、ブラホスラフらの平和主義と高度な精神性が個性的なチェコ文化の実りをもたらした。無論、同様の出版に関わる傾向は欧州全体に広がり啓蒙思想や諸知識の深化・拡大に貢献した。

一方、インキュナブラ(incunabula/凡そ1500年より前に発行された金属活字の低精度の出版物)の時代から「かわら版」的な素朴な刷り物は出ていたが、世界で最初の「ほぼ今の形の新聞」は 1605 年にドイツのストラスブルグでヨハン・カロルス(Johann Carolus/1575-1634)が発行した「Relation aller Fürnemmen und gedenckwürdigenHistorien」とされている。欧州ではその後も各国で多数の新聞が刊行され,それらは欧州の歴史と文化を記録する貴重な資料となってきた(出典、画像(当新聞の表紙ページ)ともにhttps://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Carolus より)

最初のうち、その始まったばかりの新聞の利用者は主に商人であったが(フッガー家らの関係者によるビジネス通信(newsletter)としての利用)、やがて、それは商人以外へと、つまり貴族らの統治者、外交官、軍人、学者、聖職者らへと拡がっていった。元々、彼らは個々に秘密の情報交信の手段を持っていたのだが、次第に彼らも商人が通信員間の情報連絡の手段として使い始めた新聞を利用するようになったと考えられる。

フランスではブルボン絶対王政の統治(以降、1789年まで続くアンシャンレジーム)下でルイ13世の時に最初の定期刊行物(月刊、週刊、最後は日刊となる官報的性格の新聞)である「La Gazetteが創刊され(1631)、これが1789年の大革命まで続いた(発行部数は17世紀を通じ約1,200部)。民間では1777.1.1から1789年の大革命まで続いたフランス唯一の日刊新聞「Le Journal de Paris」がある(@フランスのジャーナリズム、http://pweb.cc.sophia.ac.jp/s-yuga/gakubu/FJ2lec15.htm#07)。

一方、フロンドの乱/1648 - 1653」を契機にパンフレット新聞「クリン」が発行され(おそらくフロンドの乱が象徴するアンシャンレジームの矛盾に対する反動?/補、toxandoria)、これがフランスの政治ジャーナリズムの始まりとされる。やがて、文学的ジャーナリズムや『学者新聞(Journal des Savants)』ほか多くの小プレスが現れるが、その頃からモラリストの活躍が活発になったと考えられる(@同上/モラリストの活躍、の部分はtoxandoriaの補足)。

<参考>16~17世紀ころの識字率についての考え方・・・全ての人々を統計対象とする、現代的な意味での識字率は不明であるが、例えばここで取り上げた「貴族らの統治者、外交官、軍人、学者、聖職者ら」を対象に考えれば非常に高度な識字率であったと思われる。また、ネーデルラントのオランダ共和国のように経済力を身につけた市民層が勃興した地域では、当然、フランスのモラリスト啓蒙思想(黎明期)の影響も受けつつ、平均的な識字率が高まっていったと思われる。因みに、記録の残っている都市部の男性に限定すれば、高い識字率を誇る都市は印刷技術の発明以前より存在しており、例えば16紀末のヴェネツィアでは33%ほどあったし,1530年のヨークでは20--25%ほどあった。が、やがてこのヨークの男性識字率は、16世紀末までには41%へと跳ね上がっている(参照資料↓★)。

★『hellog~英語史ブログ』16世紀イングランド識字率http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2017-12-02-1.html

・・・

なお、16~17世紀における欧州の新聞をめぐり非常に重要と思われる新聞の「そもそもの意義と役割」についての情報があるので、その内容をアレンジしつつ以下に部分転載しておく。[情報源:《研究ノート》ドイツ語圏活字メディアの歴史について ―新聞を中心に―北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 教授/江口 豊 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/53603/1/JIMCT_1701_eguchi.pdf・・・

・・・オランダ(1618~1620)、イギリス(1620~1622)、スウェーデン(1624)、イタリア(1643)と、ヨーロッパ各国に続々と「週間」新聞が広まった。当時の新聞の普及に関しては、平均すると350部から400部程度が印刷・配布部数であったこと(例外的に1,000部以上の多数もあるが)、また郵便での配達、独自の配達員の配達、売店・印刷所での手渡・販売の手段などがあったことが知られている。

・・・その後、新聞は一週間に一回から複数回へと刊行のペースを上げていき、1650年にドイツの都市ライプツィヒで日刊紙「Einkommende Zeitungen」が登場している。17世紀の段階ですでに読者層も「エリート層たる宮廷関係者、高級官吏、軍人、聖職者、学者」から「市民層たる医師、技術者、詩人、一般商人、兵士、船員など」に拡大したとされる。

・・・とはいえ、新聞の年間購読料は比較的高価(ほぼ職人の一週間分の賃金に相当する)なものなので「講読サークルが結成され二桁の構成員が共同で講読し分担する形がとられていたことも報告されている。(因みに、この時代の新聞が非常に高価格であった理由の主な理由は部数が少なかったのに加え、客観的な情報が拡散することを懸念した統治者側が情報統制の目的で,何らかの理由付けの上で 高率の税を課したことに因ると思われる。つまり、初めは検閲と威圧を兼ねスタンプを押していた?(Ex.18世紀初頭~の英国の印紙税など(委細、後述)←補、toxandoria)。

・・・17世紀後半には(北ドイツの)ハンブルクアルトナでは名望のある大学出で資質の高い人物が新聞事業で活動し始めている。情報に富んだ興味深い新聞を製作するためには、当然のことながら完璧に読み書きができるだけではなく、外国の通信や新聞を加工処理できるだけの外国語の知識をもたねばならなかった、と指摘する研究者もいる。

・・・17世紀に登場した新聞は、それに続く18世紀以降の量的な拡大・膨張にともない報道の質にも大きな変化が現れ始めた。例えば「18世紀後半で一週間にのべ30万部の新聞が読まれたが」、それは、「聖書とキリスト教の公教要理を除けばもっとも読まれた」ものであることを指摘した研究もある。まさにこうした状況こそ「新聞が啓蒙主義の時代を準備した17世紀の最も重要な媒体の一つだ」という指摘がなされる理由である。

・・・というのも、世界に関する知識と世界の認識に役立つ専門的な情報をタイムリーな時間経過の中で定期的・継続的に新聞が伝えることにより、国務や軍事を司るメカニズム、すなわち「ヨーロッパに関係する諸事件の関連を理解させる」というプロセスのなかで読者層の根本的変質を促したからである。1637年には「普通の人間が新聞により統治者を批判することを覚えたのだ」という記録が残っていることが確認されている。これに比すれば、現代日本における一般国民層、特に30代以下の若い年代層の意識の劣化(政治マターに関わる無関心化)が如何に危機的であるかが分かる!

 “曲解”された“逆説の風刺”?マンデヴィル『蜂の寓話』の真意を探る

 (1)『蜂の寓話』が出版された18世紀前半の英国(初期啓蒙主義)の空気

フランスでは「フロンドの乱1648 - 1653」を契機にアンシャンレジームに亀裂が入り始め、やがて、その17世紀の半ば頃からフランスに政治ジャーナリズムが出現しており、同時に文学的ジャーナリズム、『学者新聞(Journal des Savants)』など多くの小プレスも現れたことは前節で触れた

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重要なのは、同じその17世紀の半ば頃にフランスでモラリストたちが現れており、彼らが、そもそもイギリスの影響を受けて本格的に始まったと見るべき18世紀のフランス啓蒙思想(J.J.ルソーら)を深化させる先駆けとなっと思われることだ。マンデヴィル『蜂の寓話』(叢書ウニベルシタス)が出版された18世紀の初頭の頃は、そのような意味でイギリスとフランスの啓蒙思想が往還的に影響し合っている時代(啓蒙主義前期)であったということになる。

このような18世紀前半頃のイギリスにおける啓蒙主義前期の空気に満ちた時代のエトノス感を更に補強するため、歴史的な出来事について少し触れておくことにする。

・・・

三回におよぶ海戦中心の英蘭戦争(17世紀後半)で、英国が勝利しオランダは海洋権益を失いその黄金時代(レンブラントの時代)が終わる。しかし、名誉革命(1688)の後には縁戚関係からオランダ総督ウィレム3世イングランドウィリアム3世として迎えた。

  • 産業革命をめぐる状況・・・1709:ダービーがコークスによる製鉄法を発明、1710:ニューコメンが炭鉱での排水用の気圧機関を発明、1733:ジョン・ケイが飛び杼を発明、ハーグリーブスがジェニー紡績機を発明、アークライトが水力紡績機を発明、ジェームズ ・ワットが蒸気機関を改良、etc

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White's Coffee House formed part of William Hogarth's series The Rake's Progress CREDIT: 2005 GETTY IMAGES/HULTON ARCHIVE https://www.telegraph.co.uk/travel/destinations/europe/united-kingdom/england/london/articles/surprising-history-of-london-chocolate-houses/

  • 17世紀の半ば以降のロンドンでは、18世紀がコーヒーハウス(新聞など現代的マスメディア活動の揺籃の場)のピークとなり、広く庶民へ行き渡る「新聞」情報の普及が見られるようになっていたが、その反面で言論の矛先になる権力者側からの反動もあって、印紙税(言論規制のツール)などをめぐり激しい攻防が繰り返されていた。

https://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/65/65-ch10.pdf

新聞の刊行をめぐる状況>・・・日刊新聞「London Daily Courant」が1702~発行/政党新聞、政党機関紙の登場(政論新聞時代の幕開け)/エッセーペーパー:文学的刊行物(literary periodicals)が刊行/1712~印紙税:Tax on Knowledge(知識に対する課税)が導入、1725~捺印税:Stamp Actが導入、1731~月刊雑誌 Gentleman's magazineが刊行、1738~議会での討論内容の掲載が禁止、1771年~今度は、議会報道が許される、etc


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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1198210327290105858

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1198404264462180352

【参考資料:QT/上の時代に続く、19世紀初頭~における「英国議会」Vs「新聞ジャーナリズム」なる激烈な“国民主権、国家に次ぐ第三権力(対“立・司・行”の視点では第四権力)たる新聞の批判力を巡る覇権闘争史”の一コマ

・・・一強アベ政権下の日本の最大の危機は、国民とジャーナリズムが“此の当然の主権を放棄している”こと!・・・

・・・1819年、議会は聖ピーター教会広場で開かれた政治集会を弾圧し(ピータールーの虐殺)、言論弾圧六法(Six Act)で統制を強化、数年のあいだに125のラディカル・プレスが罪に問われ、無害な新聞には補助金が与えられた。これによって「品のよい」新聞『タイムズ』の成長と「20年代の政治的平穏」が訪れる。

・・・だがラディカル・プレスは1830年代によみがえる。その象徴となった1ペニーの『プアマンズ・ガーディアン』(1831-1835)をはじめ、違法な新聞は5年あまりで500種以上、1日7万部以上にのぼった。これは合法な新聞を上回る数字であった。スタンプ税法反対、労働闘争、選挙法改正を掲げた運動は、1830年代以降の改革を先導する。第1回選挙法改正(1832)、工場法制定(1833)、救貧法改正(1834)、都市自治体法制定(1835)、そしてスタンプ税法下の広告税引き下げ(1833)、スタンプ税と用紙税の引き下げ(1836)と、労働福祉政策が相次ぐが、その改革の不十分さは逆に労働者階級の意識を高め、その後のチャーティスト運動の盛り上がりにつながっていくことになる」(伊藤[2014:95-96]) [種村 剛:社会情報学の基本資料、新聞、http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/3S/si_newspaper.html]より部分転載。

・・・

オランダ・ロッテルダム生まれの脳神経系統を専門とする医師マンデヴィル(Bernard de Mandeville/1670 - 1733)は、そのような時代の空気が流れる18世紀初頭のロンドンヘオランダから移住し(そもそもは英吾を学ぶのが目的であったとされる)、開業医(今で言えば心療内科医?/ライデン大学で哲学の学位と医学博士の学位を取得)となり、そこで結婚し、遂には永住することになった。

(2)『蜂の寓話』は「エルゴンへの気付きと指導層の覚醒を促す“逆説の風刺”」であると見るべき理由

 (マンデヴィル『蜂の寓話』の解釈で主流となっている考え方/当記事は、敢えてそれへアンチ・テーゼのスタンスを採る)

 

https://twitter.com/GoofySmile4/status/1197362574758531072

悪徳こそが、実は経済活力の充実・持続発展と、当時17~18世紀のマーカンティリズム(重商主義mercantilism/典型的な自国第一の保護主義)時代の国力の伸長のために、そればかりか慈善(社会厚生)のためにすら十分に役立っている”という事実について、それを人々が直視し理解できるようにとマンデヴィルが皮肉を込めて風刺的に書いたものだ、と一般的には理解されているようだ。普通に言えば、もっぱら“善”だけを評価せず、たまには“悪”の効用の側面にも目配りが必要だ!と辛辣に(しかも、シニカル(つまり、やや遠慮がち)に?苦w)皮肉ったということになる。

 

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そして、その何よりの証拠が、この『蜂の寓話』の副題が<私益すなわち公益>と、当時の常識の真逆になっている(無論、今も建前上はそうであるはずだが?)ことだ。驚くきべきことに、今の日本ではこのこと(マンデヴィルの私益すなわち公益)をマジで率先実行しているファッショ・スタイルのアベ一強政権が肩で風を切りつつ一強独裁支配しているようだ。w

 そして、“人間の内心に潜む私益(ここでは、私益と自愛が究極の悪徳だとされている!)をはじめ凡ゆる悪徳、すなわち功利、蓄財、あるいはこれらと全く異質な“他人を喜ばす忖度と諂い(おべっか、追従)”が、それだけでなく毅然とした自負心までもがマンデヴィルによれば悪徳に入る。しかも、今の安倍政権の「我が世の春を謳歌する日々で舞い上がる」が如きあまりにも醜悪(淫獣リバイアタン/レヴィアタン)化した一強ブリを此処まで見せつけられると、マンデヴィルが自負心を悪徳のジャンルに入れたことが驚くべきほどの慧眼に思えてくる!w

例えば、米田昇平・大阪産業大学教授(経済思想史)は、「マンデヴィルは宗教の羈絆を逃れ,功利主義的な社会認識を徹底しようとしたが、しかし他方ではアウグスティヌス主義に基づくリゴリスム(道徳的厳格主義)の人間観に囚われていたから、人間の悪が結果的に公共善をもたらすという逆説を弄せざるを得ない、それゆえ彼らの論説にはおのずからシニシズムの影がまとわりつくことになる。」と述べている(出典:経済学の起源とアウグスティヌス主義―17 世紀後半のフランス思想を中心に―米田昇平、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet/51/2/51_68/_pdf/-char/en)。

 そこで、自負心についてである。ここでは、一応、マンデヴィルの主張をそのまま書いておいたが、さすがに自負心を悪徳のジャンルに入れるのは可成り難しいと思われる。しかし、敢えてマンデヴィルが「自負心」を悪徳の仲間へ押し込んだのは、そこに何か隠された意図があるからではないか、と思われる。

(3)ピエール・ベール(啓蒙思想の先駆け/おそらく遥かに時間を先取りしたエトノス観の先駆者でもあった?)の系譜としてのマンデヴィル 

マンデヴィルに大きな影響を与えたともされる『歴史批評辞典』ほかを著し神学的な歴史観を懐疑的に分析した(無神論者ではなくユグノーピエール・ベール(Pierre Bayle/1647 - 1706/哲学者・思想家)は欧州「啓蒙思想」の先駆けとなった人物として知られる。因みに、わが国で初めて本格的にピエール・ベールの人物像などを紹介したものに、下記(◆)「メゾー,ピエール・デ著書の翻訳」(野沢 協/訳:叢書ウニベルシタス)がある。

 

◆ピエール・デ メゾー 、野沢 協 ・訳『ピエール・ベール伝』(法政大学出版会)・・・Pierre des Maizeaux, also spelled Desmaizeaux (c. 1666 or 1673 – June 1745), was a French Huguenot writer exiled in London, best known as the translator and biographer of Pierre Bayle.https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_des_Maizeaux

・・・メゾー,ピエール・デ(1673‐1745):フランスのオーヴェルニュ地方に牧師の子として生まれ、宗教迫害により12歳でスイスへ亡命、ジュネーヴ大学で学ぶ。卒業後、オランダを経てイギリスへ渡り、ロンドンに定住。途中、1699年にロッテルダムでピエール・ベールと会い、それ以後ベールが死ぬまで頻繁に文通して、晩年のベールの親友だった。イギリスではジャーナリスト、出版人として活動し、18世紀初頭からフランスやオランダの新聞雑誌にイギリスの文芸・思想を系統的に紹介、英仏間の文化交流に大きな役割を演じた。http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-00816-0.html

 ・・・

 第2章でも少し触れた平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/京都大学・経済論叢:第89巻‐第2号』によると、ベールはシャフツベリー(その委細は次節で)と同じく「宗教、理性、人間性一般」の三者は決して対等に適合し得るものではなく、いわば現代的なコンシリエンス(例えば、第2章で触れたG.シモンドン『個体化の哲学』など)の概念で言えば「異なる系が相転移する」ような関係性ということであった、と思われる。

おそらく、このことを人文・社会・科学・AI関連知などが深化したと言う謂いでの“現代的”な理解で更に読み直すと、「宗教、理性、人間性一般」の三者は、何らかの表象・概念の統合であるから、三者を優劣の比較で認知できるものではなく、これは一般の生物ならぬヒトの意識ゆえの賜物(批判実在論(Critical Realism)的な認識の問題)であるということになるかもしれない。

つまり、それはエトノス観念に置き換えることが可能となるはずである。同じく同論文によれば、重要なのはオランダ人でありながらロンドンへ移住(定住)したマンデヴィルと、それとほぼ同時期にオランダへ短期滞在した経験をもつシャフツベリーが、共に、そのようなピエール・ベールの思想の影響を受けていたらしい、ということである。

ところで、ピエール・ベールの思想で絶対に押さえるべきと思われる枢要なポイントは先ず宗教についての個所であろう。上掲の平井俊彦/論文によれば、ピエール・ベールは「経験と啓示宗教は全く異なる領域であり、例えば旧キリスト教(当時のローマ・カトリック教会)は原罪説や恩調説を人間性の自然に強制するに過ぎないが、一方で人間の本性は自然に根ざしている。」と述べている。

 しかし、ユグノー(改革派)のベールが実は無神論者だったと見るのは短絡である。そうではなくベールは「宗教、理性、人間性三者は何らかの表象の統合であるから三者を優劣の比較で認知はできない」と考える宗教的自由主義リベラリズム)であったと思われる。又べールは「人間性の自然」の表現で自然の一部の関係性の個体における一回性の現れが人間性の正体だとも説明する。おそらく前者(自然の一部たる人間性の観念)は政教分離への長い道程の端緒で、後者(個体における人間性の一回性の現れの観念)は同じく基本権のルーツになったと考えられる。

だからこそ、ピエール・ベールは「これら種々の人間性の多くを占め、かつこれら人間性の諸相が浮かぶ海の如く流動的なプラットフォームである感情の作用」を最も重視したと考えられるのだ。そして、オランダでの生活と研究の経験によって、かつ何らかの交流の可能性すら窺われるマンデヴィルとシャフツベリー(委細は次節で書く)がピエール・ベールの「感情の作用を最も重視する」考え方を深く共有していた可能性が高いと思われる。

しかし、同じピエール・ベールの人間性(自然の一部としての)の要とでも言うべき「感情の海」を共有しつつ、マンデヴィルは自然の一部である人間性の「悪」の成分の分析へ、シャフツベリーは「善」の分析へと、何かを契機として、夫々の関心が異なる方向へ傾斜することになったようだ。

おそらく、その契機となったのは、シャフツベリーの貴族の系譜ゆえの「上からの美学」的な、つまり抽象論的・概念論的な視座であり、マンデヴィルの場合は生粋のオランダ人としての(それはそろそろ黄昏の時ではあったにしても)、あの栄光に輝いた時代(17世紀・レンブラントの時代)の残照の中で『日常のエルゴン=±を併せ持つプレデュナミス潜在性・潜勢態』という<活気の土壌=内需等に係る新しい生産性の培地>を経験したことではなかったか?と思われる。

因みに、それはおそらくピエール・ベールが気づいていたと思われる、現代で言えば「エトノスorコンシリエンス」的な視座から、つまり「人文・科学両知を統合的に適用しつつ内外自然のトータルまでをも取り込んだ広角の視点」から大きく俯瞰すれば、これからも啓蒙思想史のなかで新しい意味が発見され続けるのではないだろうかということである。

 啓蒙思想の先駆けと見なされるピエール・ベールがフランスで活躍したのは17世紀の後半であるが、それはフランスのアンシャンレジームに初めて動揺を与えることとなった「フロンドの乱/1648 - 1653」を契機に台頭した初期モラリストの時期と重なっている。モラリストたちの思考の特性は「定型化した論証や規範的な言説」を否定する点にあるが、それはベールの中世的・神学的な歴史観(神の意思や神の恩寵に因るドグマ)を否定する立場とほぼ同じである。

つまり、現実の世界は「キリスト教の定型化した論証や規範的な言説」で全ての説明がつくほど単純でないことが、アンシャンレジームの動揺や科学革命による知の深化・多様化によって理解されるようになってきた。同時に、神の視座から解放されることで、新たに歴史的・政治的に共通した歴史的・普遍的な構造があり得ることにも気付く人々が次第に増えていった。

しかし、これら歴史にも裏付けられた普遍的な概念(理想)と、今は普遍的と思しき国家制度(政体)であっても永久に完全無欠ではあり得ないので、絶えず、個々の現実的な、より厳しいリアル事象とエトノス観念の深化に照らし続ける必要がある。

このことに逸早く気づいたのが英国政治の動向に関心を向けアンシャンレジームを批判して均衡・抑制を重視する「権力分立制」を提唱したのがモンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu/1689 - 1755)である。そのためモンテスキューは普遍理念の次元を一気に高精度化することに努め、高精度の制度として「三権分立」(権力分立の典型)を着想した。

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つまり、モンテスキューにとり「三権分立」は只のお飾りの制度ではなく、喩えれば絶えず酷使されるべきエンジンの如き存在であるのだ。そして、国民も、主要ジャーナリズムも、肝心の政権政党の立場の政治家たちも、あるいは国民に奉仕する公僕であるべき官僚(司法・官憲もろとも)たちまでもが、ことごとく此のモンテスキューの根本(法の精神)を忘れ去っているのが「レンブラントの時代ならぬ?アベ様一強の時代」とかで我が世の春を謳歌しサクラ見物でうつつを抜かしている?、そして多数派層の国民が、何故か?そのアベ様へひたすら忖度し続けている>のが今の日本の現実(virtualならぬnominal reality?w)であるようだ(virtual reality=実在はしないが実質的に機能する意味での現実/nominal reality=名バカりの現実)。

風刺『蜂の寓話』の標的は、シャフツベリー「モラル・センス」を「社交術(忖度)」で弄び、「私益」のためそれを政治利用する指導層の怠慢

・・・シャフツベリーはモラル・センス派の創始者だが、マンデヴィルは英国の指導層を仏アンシャンレジームに匹敵する時代遅れ(日常エルゴンと“17C機械”生産デュナミス潜在性・潜勢態の無視)と見ていた可能性が高い。・・・

(1)マンデヴィル『蜂の寓話』の悪徳が意味すること(先端知に照らした解釈)

ニッコロ・マキャベリ(Niccolò Machiavelli/1469 - 1527)の『君主論』によれば、君主に求められる資質は少しでもフォルトゥナ(運命/Fortuna)に先手を打てる深い洞察力に裏付けられつつ決断し、それを確実に実行する力、つまりヴィルトゥ(virtu)であり、そこで更に必須となるものが、その実行力を保証する基(もとい)である「自負心」が重要となるという訳だ。

いわば、「自負心」とは「ヒトの内外の自然の本性において優勢な悪のパワーと、引けを取らずに対峙できる、換言すれば、その悪をも飲み込み滋養としてしまう先見性と実行力が君主たる人物の必須条件」だということになる。しかし、そこには「±、又は善・悪の両者が併存する“オランダの光”の謂いでのエルゴン(プレデュナミス潜在性)」の観念が未だ存在せず、その意味でのエルゴンの理解はマンデヴィル『蜂の寓話』の執筆を待たなければならなかっ、と考えられる

そして、その自負心とは「美徳をあわせもつ強い意志」のことであった。その美徳(virtue)には徳(性)・善・長所・貞節などの意味であるが、関連語virtuには“美術品”の意味が、同じくvirtualには“現実に存在しないが機能・効果としては実質的に存在する(今はIT用語としての“仮想現実の“仮想””→virtual reality)”および“虚な”の意味がある。因みに、virtualの反対語はnominal(名目上の)の意味である。

しかし、同じ18世紀初頭の啓蒙主義前期の空気を共有しつつも、マンデヴィルがシャフツべリ(第3代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー/Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesbury/1671 – 1713/哲学者)らと決定的に違っていたのは、マンデヴィルが啓蒙期の国家発展の「動因たるべきものへ的確に照準を定め点火し、その後の稼動の効果的な促進の見届け」に責任を持つべき支配層(特に立憲君主国の最高権力者)に此のマキャベリの意味でのヴィルトゥ(君主の資質条件の読み替え)を強く迫る点にある、と考えられる

おそらく、マンデヴィルはこの「美徳をあわせもつ」という自負心の性質に因って、「自負心」に纏わる善とも悪とも言い難い“両義性”について気づいていたのかもしれない。無論、それが19世紀後半~19世紀の博物学フンボルトの用語「エルゴン」の両義性(±を併せ持つプレデュナミス潜在性)の意味として捉えていたかどうかは定かでない。いずれにせよ、このことはマンデヴィルが“『蜂の寓話』(叢書ウニベルシタス)の不評に対する弁明”のために書いた『続・蜂の寓話』を読めば納得できるはずである。

つまり、この『続・蜂の寓話』は<正編が社会に与えた影響があまりにも大きく予想以上に批判が拡大したため(具体的には、出版された1723年に正編を誹謗する(『私益すなわち公益』などと主張し善良な人々を誑かすのは何ごとか、とばかりに!←<注>現下の日本なら、さぞかし『アベ様らの公費での私腹肥しすなわち公益』とは何ごとか!であろうか?w)C閣下あての書簡(ミドルセックス州大陪審が出したもの)の内容が「ロンドン・ジャーナル」に掲載されたこと>が契機となり、それへの弁明として書かれたものであった。

従って、マンデヴィル『蜂の寓話』は矢張りあくまでも悪徳のエルゴン的なもの(経済的な付加価値を持続的に創造する絶大なる、±が共存する潜在力の宝庫であること)を前面へ押し出しつつも、シャフツべリの楽観的で予定調和的な自然観がベースの世界・社会観(啓蒙主義前期の空気の主流)に対し、ホッブス自然権」と「オランダの光」(自身のオランダでの“日常”経験)を参照しつつ、自律的な美学を伴うヴィルトゥオーソ(virtuoso/女性形virtuosa/傑出した演奏の達人)への脱皮を求める、いわば産業革命期の「蜜蜂コロニーならぬ人間社会」に相応しい指導層の生き方を求める、そのような意味で逆説的な批判の書であった」と見るべきではなかろうか・・・以上のために参照した資料:内田義彦(経済学者)「社会認識の歩み」、ほか http://classic.music.coocan.jp/_book/shakaishiso/uchida/machiavelli.htm

f:id:toxandoria:20191129043350p:plain因みに、フンボルトの用語「エルゴン」の両義性(善と悪、又は ± を併せて持つプレデュナミス潜在性)との関連で無視できないのが現象学的「主観性」研究の分野で世界をリードする研究者、ダン・ザハヴィ(Dan Zahavi/1967‐ /デンマークの哲学者・現象学者)の『誠実さを蔑む“悪”魔的主観性の病理』という問題提起である(画像はウイキ)。

言い換えれば、これは<現代の世界で問題となっている、極右化のトレンドが共有する一般社会などの人間集団における内集団バイアスによる「無媒介的認知的自己意識」増幅の問題>ということになる。そして、「無媒介的認知的」とはほぼ「無意識」に相当

 

する概念と考えて間違いではないが、実際には、それよりも遥かに広大な概念であり、敢えて乱暴に比喩的な表現を使うならば。それはヒトの「内外エトノス環境下における、意識化される寸前の自己意識」ということになるだろう。

ダン・ザハヴィ『自己意識と他性/現象学的探求』(叢書ウニベルシタス)の訳者、中村拓也氏(同志社大学文学部准教授)の同書“あとがき”によれば、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)>は、往々にして哲学的思考などで見られる難解な概念の捏造ではなく、それは体験的な偏在性として誰にでも日常的に起こり得る主観的「自己—顕現」(個々人の内感フィールドにおける自己覚醒)レベルの問題、つまり個々人の「主観性の核心」を抉り、それを『感情の現象学』的な立場で説明し得る堅牢な言葉である

例えば、近年、世界的に問題となりつつあるネオ・ナチズムなど極右政治勢力(欧米各国の極右派、日本における日本会議(周知のとおり、それは靖国顕幽論の取り戻しと国家神道への回帰を謀る安倍自民党政権の守護神!)などが急速に台頭しつつある政治状況の深層には、M.アンリの「情感の現象学」のテーマとも深く関わる問題が潜む可能性があり、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識>が重要なテーマとして注目されている(《注記》無媒介的認知的は、言語等の意識的コミュニケーション介在が存在しない次元、いわば其れ以外の多様な回路でエトノス環境の影響下にある、無意識等の認知作用のこと、とも言える/この側面から見ると、この概念は言語哲学の選言説(論) or マクダウエル『リアリズム倫理』らの問題とも深く共鳴している。Cf.両者の委細は下記↓◆、参照)。

コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)/付、選言説とは?https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

因みに、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの作品「浮世の画家」が、実は、戦前・戦中期に日本全体を覆っていたアベ的なもの、つまり<怪奇極右幻想(追憶のカルト)なる特異な政治・宗教観念である『靖国顕幽論』>に潜む、戦前・戦中期日本人の心の闇を抉ったものである。

そして、その心の闇の奥に鎮座するのが、同じくイシグロの作品忘れられた巨人」が言うところの“復讐の先取りという感情の最深部の底流、いわば無媒介的認知的自己意識”の病理(言い換えれば、殆ど条件反射的な意味での病理)である。それは妄想的愛国心と復讐の先取りの情念に溺れる記憶の闇の奥底に揺蕩う、甘美で浪漫主義的なものでありつつも、実は、奇怪で異常な感情の流れであったということだ。

これは、古典的デカルトな立場での研究は絶対に承認しようとしないことであるが、ザハヴィは<ある一定のエトノス的な、別に言えば『大文字の“生”』の影響下にあるという意味で“先反省”的な複合性と多様性を、自我の「生」(個々の生命力の核心)に対する作用因として、ヒュレー(質量)分析の手法で帰属させたM.アンリの実質的現象学(情感の現象学/委細、↓★参照)を高く再評価している。更に、近未来を見据えるザハヴィは、無意識、催眠、記憶、倫理学・美学(レヴィナス、ガダマー、ディーター・ヘンリッヒなど)、先端AI研究、脳科学などもその視野に入れつつある。

★M.アンリ『情感の現象学』から見える『感情の政治学』の可能性 https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20171109/p1

ともかくも、これらコンシリエンスな先端知の成果なども十分に取り入れつつ、約300年前にマンデヴィルが“逆説の風刺”『蜂の寓話』で提起していた、「人間社会の無限の可能性を暗示するエルゴン(フンボルトの用語で言えば)の問題(源流は“オランダの光”の中における『日常の意義』の発見にある!)への気付きと新自由主義が「善と悪」に関わる現実(人間性のリアル、いわば大きな自然に潜むエルゴンの問題)を無視した虚偽(エセ経済理論)であることの暴露、およびネオ・ファッショへ走りがちな指導層の覚醒を促すことの重要性」を再考すべき時代に入ったといえるのではなかろうか。

(2)マンデヴィルが標的としたシャフツベリーのモラル・センス

・・・画像はウイキより。

・・・シャフツベリー『モラル・センス』とその底流となる多様な思潮・・

 

『続・蜂の寓話』の“訳者あとがき”を参照しつつ、委細は省くがシャフツベリー「モラル・センス」の要点を、下に箇条書きしておく。

前提:性善説(マンデヴィルの性悪説と対称、とされる)に基づく利他主義

人間の行為を規定する感情の分類:

(1)自然感情・・・利他的・生得的である。

(2)自己感情・・・利己的であるが、自然感情とバランスを保てる程度のものなら、悪徳とは言えない。このバランスを取っているのがモラル・センス。正邪の感覚と良心を先天的に備えている。モラル・センスに支えられる人は「宇宙全体と調和している。その調和的な世界は倫理的なので、道徳はキリスト教世界から区別され自律的となる。一方、神は宇宙に内在する原理となってスピノザ的な汎神論の世界となり、神的生命力にあふれる統一体をなしている。

(3)不自然感情(人間嫌いなど・・・論外)

 ・・・

ここで視点を変え、近代美学史の観点からシャフツベリーを俯瞰すると更にその特徴、つまりマンデヴィルとの違いが際立ってくるのではないかと思われる。それと同時にマンデヴィルがシャフツベリーの「モラル・センス」(端的に言えば精密な抽象論から成る!)を批判の標的とするに至った事情、いわばマンデヴィルの「情念のリアリズムを重視する先進的な心」に宿った、一種の危機意識のようなものが理解できると思われる。

そして、先ず「実は、シャフツベリーがJ.ロック(John Locke/1632 - 1704/英国の哲学者、イギリス経験論の父/その“王権神授説”否定を基本とする思想(社会契約・抵抗権など)が名誉革命、仏大革命、米国独立宣言へ多大な影響!/因みに、シャフツベリーはロックの家庭教師!)と共に18世紀イギリス啓蒙思想の始まり(初期啓蒙思想)を画した重要な人物である」ことを認識する必要がある。が、シャフツベリーの知名度が日本ではあまり高くないようだ。

しかも、シャフツベリーとは異なる意味で17世紀のオランダにおける『日常』(レンブラントの時代)の経験から、マンデヴィルは、同じように見える英仏の啓蒙思想(既述のとおり両者は特に仏のモラルセンスやピエール・ベールの影響を受けた)でも、マンデヴィルの「情念の作用を重視する、下からの美学的な視点」から見ることで「モラル・センス」には独特の脆弱性の空気が漂うことを嗅ぎ取っていた、と思われる

更に、シャフツベリーについては、もう一つ押さえておくべきことがある。それはシャフツベリーの「モラル・センス」が、フランシス・ハッチソン(1694– 1746/愛蘭出身の哲学者/スコットランド啓蒙思想の祖、モラルセンス理論を大成)、アダム・スミス、ルソー、ディドロ、レッシング、カント(カントの場合は、半ば批判的であったという意味合いだが)らへも影響を与えているという点である(要参照文献↓◆)

◆満足する理性:カント実践哲学への感情論的アプローチ/竹山 重光(和歌山県立医科大学医学部  教養・医学教育大講座。准教授)http://www.wakayama-med.ac.jp/med/lasphieth/zettel/manzoku.pdf

なお、このマンデヴィルの「下からの美学的な視点」は、(一般にこれは殆ど無視されているようだが?)『続・蜂の寓話』の<第一の対話>に登場する女性、フルヴィアの言葉(対話でオランダ絵画、おそらくレンブラントフェルメールらについて語る内容)の中に現れていると思われる。

ところで、ニッコロ・マキャベリが「君主に必須の資質であると見たもの「ヒトの内外の自然の本性において優勢な「悪」のパワーと引けを取らずに対峙できる、換言すれば、その「悪」をも飲み込み消化し自らの滋養としてしまう先見性と実行力が君主たる人物の必須条件」としての「自負心」であったしかし、そこには「±、又は善・悪の両者が併存する“オランダの光”の謂いでのエルゴン(プレデュナミス潜在性=人と自然の無限の可能性)」の観念は未だ不在であった

そして、「エルゴン(プレデュナミス潜在性)」なる言葉こそ使っていないが、それに匹敵する“オランダの光=市民生活の日常”の意味をリアルに経験し、仮にそれを「悪」のジャンルへ入れざるを得なかったとしても、その「エルゴン的なもの」の重要性を深く理解していたのがマンデヴィルであったと思われる。だからこそ、マンデヴィルはそれと対極に置くべき、シャフツベリーの「上からの美学」的な「モラル・センス」を標的として、厳しく批判するために『蜂の寓話』を書いた、と思われる

 つまり(繰り返すが)、マンデヴィル『蜂の寓話』は、矢張りあくまでも悪徳のエルゴン的なもの(経済的な付加価値を持続的に創造する絶大なる、±が共存する潜在力の宝庫であること)を前面へ押し出しつつも、シャフツべリの楽観的で予定調和的な世界・社会観(初期啓蒙主義通奏低音の一部であった)に対し、ホッブス自然権」と「オランダの光」(自身のオランダでの“日常”経験)を参照しつつ、自律的な美学(下からの美学)を伴うヴィルトゥオーソ(virtuoso)への脱皮を求める、いわば「レンブラントの時代」~産業革命期初期の「蜜蜂コロニーならぬ深く変容する人間社会」に相応しいモラルに基づく指導層の新しい生き方を求める、そのような意味での逆説的な批判の書であった」と見るべきではないか。

一年足らずの時間ではあったもののシャフツベリーも「17世紀オランダ(レンブラントの時代)」での『日常生活』の経験から、ある意味では「美徳と悪徳があらゆる国とあらゆる時代にわたり偏在しており、それが永続的な実在である」という認識もマンデヴィルとほぼ共有していた筈だ。

また、この美徳と悪徳が「感情」と深く通底するものであると言う理解もほぼ共有しており、特にこれはオランダ時代のピエール・ベールの大きな影響に因るものであったと考えられる。しかし、更に仏モラリストの「より広角な視座」の影響がマンデヴィルへ与えた影響は無視できないと思われる。おそらく、この辺りがマンデヴィルとシャフツベリーの分かれ目かもしれない。

つまり、マンデヴィルはピエール・ベールに加えラ・ロシュフコー(La Rochefoucauld/1613 - 1680/仏のモラリスト)の影響を大きく受けていた(@平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/既出)。ラ・ロシュフコーはフランスの非合理主義的な心理(つまり、感覚・感情・情念の作用)を重視する伝統から「いかにも知性ぶる人間の背後に潜む情念の大きさ」に関わるクローズアップ光景を抉りだし、これに鋭く鮮烈な皮肉を浴びせかける手法の作品を得意としたモラリストである。

(3)マンデヴィルのシャフツベリー批判の核心は「モラル・センスを悪用する指導層の怠慢」への批判ということ

 ・・・そもそもマンデヴィルの標的は“名ばかりモラル・センスと社交術(忖度)”を盾に私腹(私益)を肥やす指導層とお仲間たちであった筈だが、建前上であるにせよモラル・センスを評価して(特に社会の羅針盤と見なされていたキリスト教の絡みでそう強いられ、それが固定観念化して)いた一般多数派層をも敵に回してしまった。・・

ところで、たまたま「フランス語の習俗les mœursは,「善い方向もしくは悪い方向へ向かう人間の習慣」という語義に限定すれば,17世紀から現代まで 300 年以上定着した意味を持ち続けるように見える語である。」という興味深いくだりを下記論文★の中に発見した。

★フランス近代思想における習俗と自然法 : ジャン・バルベイラックの「習俗に関する学science des moeurs」田中大二郎一橋大学社会科学古典資料センター年報, 38: 1-15、2018-03-30 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/29236/1/koten0003800010.pdf

委細は省かざるを得ないが、当論文を概観して特に興味を惹いたのはフランス近代思想(自然法思想)と「習俗」という、常識的には全く相容れないと思われる概念がフランス自然法の底流にあることが分かったことである。それは、同じ様な抽象論理の賜物でありながらも、このような「習俗」(つまり多様な情念の坩堝)を視野に取り込んでいることがフランスの啓蒙思想の祖と見るべきピエール・ベールや、あるいはほぼ同時代以降のモラリストの情念を重視する視点と見事に重なる。

しかも、同時にそれは特にマンデヴィルの17世紀オランダ(レンブラントの時代)の『日常』におけるエルゴン(神学的観念とは全く異質な現前化している実在の意味)の発見(or現代のツヴェタントドロフによる同意義の再発見!)と繋がっている。また、それは第3章ー(3)でも触れたとおり、ピエール・べールは「人間性の自然」という表現で自然の一部の関係性の個体における一回性(情念の相互関係)の現れが人間性の正体だとも説明しており、おそらく前者(生物のジャンルたる人間性の自然)が「政教分離」の観念へ至るまでの長い道程の端緒であり、後者(一回性の現れとしての個体)は同じく「基本権」のルーツになったと考えられるからだ。

因みに、「ライシテ/laicite」(フランスにおける、明確な政教分離の観念を表す言語表象)が初めてフランス共和国憲法の中に現れるのは、パリコミューン(1871)の後に制定された「第三共和国憲法」(制定1875)が、1884年明治17年大日本帝国憲法・公布、1889年から5年前)に改正された時(フランス大革命から約100年も後になって漸く!)である。

 無論、紛れもなくその創始者の位置に立つシャフツベリーとJ.ロックも、経験論と言う意味では矢張り「日常」における感情の要素を無視するどころか、そのスタートラインに感情を置いてはいる。が、特にシャフツベリーのモラル・センスは一気に抽象的な言語表象の世界へ飛翔してしまっており、そこで構築された論理は美学的な整合性を急ぐあまりか、所謂「綺麗事」と過剰な楽観主義へ(つまり性善説)へ流れてしまったと思われる。

しかも、「フランス語の習俗les mœursは,「善い方向もしくは悪い方向へ向かう人間の習慣である」という田中大二郎氏の指摘は、おそらくマンデヴィルも気づいていた『日常のエルゴン(死静態)=±を併せ持つプレデュナミス潜在性(経済的な意味での付加価値などリアル現勢態(エネルゲイア/energeia)の淵源)と見事に重なっている。

(4)ホッブスリヴァイアサン』は、政治権力の正体が「普遍(持続性)Vs情念」なる双頭のリバイアタン」であることの気付き

ところで、平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)』によると、ホッブス(T. Hobbes/1588 - 1679/英国の哲学者、社会契約説で近代的な政治哲学を基礎づけた)は、マキャベリの「運命に抗うべき変異性必須論/マキャベリズム」(君主論/君主に限定された役割)を抜け出し、そのマキャベリズムを近代自然法思想の中核(政治権力の正体に関わる解釈論視座)に密かに忍び込ませた、とされる。

 ・・・当画像は、https://wedge.ismedia.jp/articles/-/4836?page=3より転載。

その具体的なイメージ表象が上掲、ホッブスリヴァイアサンであるホッブスは、デカルトらと共に(というかデカルトの影響を受けて)機械論的世界観(結果から原因へと還元・構造的に考える、つまり自然発生的世界観への対概念)の先駆的哲学者の一人でもあり、スピノザ(Baruch De Spinoza/1632 - 1677/オランダの哲学者/デカルトライプニッツと並ぶ17世紀近世合理主義哲学者らと共に唯物論の先駆的思索者とされる)らと共に人工的国家論(キリスト教神学下での王権の定義から距離を置く考え方/このため現代でもホッブスは王党派・共和派的な相異なる立場から両義的に解釈される傾向がある)の提唱と社会契約説で近代的な政治哲学理論を基礎づけている。

「ギュスターヴ・ドレ製作の版画/レヴィアタン

f:id:toxandoria:20191129133632p:plain・・・当画像はウィキより。
17世紀の半ばにピューリタン革命(1642~1649)で国王チャールズ1世が処刑(王政⇒共和政への急激な転換が実現)されたとき、この動乱を逃れた亡命先のフランスで書かれたのが著書『リヴァイアサン』(1651)である。リヴァイアサンは、この著書の巻頭で国家の原理を象徴するものとして掲げられた銅版画である。その原型イメージは旧約聖書ヨブ記で現れる、そもそもは海の怪獣とされるレヴィヤタン(リバイアタン)である。

カール・シュミットが指摘したとおりこれは国家神話(善と悪の両義性)の表象である。このイメージを王権神授説と誤解する向きがあるが基本的な誤りである(そもそもレヴィヤタンは巨人、巨獣、人工機械(オートマタ)、可死の神という4つのイメージの融合であるので、死すべき寿命のある神が永遠の王権を授けるのには無理がある!w)。むしろ、その真意はマンデヴィルと同じく「善と悪が併存する自然・人間社会のリアル」の直視だと見るべきであり、そこには「対称性バイアス」の問題(参照↓★)すら潜む可能性があると思われる。

★対称性バイアスの必然性と可能性: 無意識の思考をどうモデル化するか/中野 昌宏, 篠原 修二、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/15/3/15_3_428/_pdf

有り体に言えば、このバイアスは「空気に流され、忖度へ走る」という場面で主導するメジャーな空気(多数派Vs少数派の社会の中で囚人のジレンマなる権力側への抜け駆けを禁ずるべきとの逆接)の問題であるが(権力は民意(特に感情)を弄ぶ誘惑に常に駆られている)、このバイアスは「空気に流され、忖度へ走る」という場面で主導することになるメジャーな空気(多数派Vs少数派の社会の中で囚人のジレンマなる権力側への抜け駆けを禁ずるという逆接)の問題であり、これは今まで馴染みがなかった新機軸の概念を獲得したり、ものごとを創造的に考えたり、発見的に推論したりする場合にはむしろ不可欠なものと考えられる。

だから、これはマンデヴィルの逆説(悪徳でも上手く使いこなしさえすれば有益!)のキモだとも言えるだろう。が、マンデヴィルも腐心したとおり、これが殆ど理解できないのが例えば現下のトランプや安倍信三らの如き芯からマイファーストの私益や御仲間益で凝り固まった権力者の類である。

ところで、「巨人、巨獣」はヒトの内部に宿る強烈な情念の象徴であり、「人工機械」が普遍的な持続性(というよりも、普遍的な持続性への希望と見るべきか?)の象徴であることは容易に理解できるが(両者で双頭のリバイアタン(レヴィアタン)となる)、問題は「可死の神」である。絶対王政では、永遠の生命を持つ神の保証が「王権神授説」の支えとなっているので「可死の神」では都合が悪い。

田中純一『政治の美学―権力と表象―』によれば、「王権神授説」の物語は「ローマ教会の教皇権の連続性」の借用である(近代国家論の重要概念はすべて世俗化された神学概念である。カール・シュミット『政治神学』‐)。教皇権の連続性を仲介するのが、完全な空位状態を回避するために行われる象徴的「儀式」であり、これによって「権力の三つの身体」(前教皇‐象徴的儀式‐新教皇)の永遠の連続性が確保される(その儀式の象徴性が教皇権の永遠の連続生命を保証している)。

「王権神授説」でもこれと同様の象徴的儀式を介在させる、いわゆる「権力の三つの身体」のプロセスで王権の永遠の連続性(連続生命としての王権)が保証されてきた訳だが、ホッブスリバイアタン(レヴィアタン)が「可死の神」であるのは、初期啓蒙思想の「社会契約」に因ると考えられる。つまり、神学的な王権の連続性より、やはり社会契約論による王権の保証が優先された訳である。従って、この点については異論もあるようだが、市民の「生存する権利」、つまり自然権を重視したホッブスにも抵抗権の考え方は存在したと見るのが妥当である。また、当然ながら「可死の神」には科学革命の影響もあるだろう。

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https://twitter.com/SamejimaH/status/1200401955945758720

それよりも、ここで懸念されるのは、生物社会が何等かの「永続性の原理(↓注記)に組み込まれていると想定され得るので、この「マンデヴィルの逆説」的な真理が理解できない多数派層が常に一般大衆の中で常在的に過半超を占有する可能性が高いと思われことだ。ところが、ここからは「人間社会」故の逆説となるのだが、そのような意味での世間一般と言うヒトの浮世の情弱で脆弱な空気の中では第三権力(国民=第1/国家=第2、の場合/司・行・立に次ぐと見れば第四、となる)のジャーナリズムが余程シッカリしない限り(一般生物と異なり『宗教、知識文化、科学技術、破壊的な機械軍事力』などが伴うことに因って)、多数派ポピュリズムそのお仲間主義者らに対し常に弱い立場であり続け、それらに回収され易いのが普通ともいえることになる。このことから理解できるのは、おそらくファシズムによる国家統制のリスクは今でも常に存在するということである。そして更なる悲劇(むしろ喜劇?w)の逆接がそれに加わる。つまり大きな自然の永続性の原理に逆らうファシズムやマイファーストは地球の自然そのものの消滅への最短距離なのである!

<注記>ダ―ウイン進化論の上位概念としての仮説「永続性の原理」について

・・・これは進化生物学者・長谷川英祐・北大大学院農学研究院・准教授の著書『働かないアリに意義がある』で注目された生物学上の仮説。蜜蜂や蟻などの社会では約3割弱の“働かない蜂や蟻”が常に存在しており、もし一定数の働き蜂や蟻が死滅すると、今度は彼ら少数派が働き始める。つまり、生物社会には此れに類する何らかのバッファーが組み込まれている可能性が高い。そのバッファーの狙いはリスク分散であり、ミクロな生存競争(ダーウイニズム)はマクロな「永続性の原理」(リスク分散)で補完されているのかもしれない。但し、人間社会の場合は一般生物と異なり「宗教、知識文化、科学技術、破壊的な機械軍事力」などが伴うため、必ずしも一般生物の場合と同じ「永続性の原理」として作動するか否かは分からない。しかも、恐ろしいのは、歴史を顧みれば、それが致命的な「滅亡の原理」へ転相する可能性がむしろ大きいことである。ともかくも、よく知られているものでは「カッコウの托卵」なども同原理でのリスク分散として理解できる。更に次元を上げて考えてみると、人間社会のポピュリズム問題(約7~8割ノンポリ層の存在)でも似たような原理が推測される。それは、どこの国でもほぼ同率でノンポリ層が常在的に分布することからも窺われる。また、仮にある社会が100%エリート集団であったとしても、矢張り、おそらくそこでも7割程度はノンポリ化する(健全なジャーナリズム等の外部情報インプットが正常に作動しない限り、矢張り何も自律的に考えられない人々の多数派層が形成される)と思われる。

 ・・・

また、ンデヴィルが『蜂の寓話』のなかで最も強調しているのが、この忖度の問題であるのは同書を一読すればよく分かるはずだ。無論、ズバリ忖度に当たる言葉こそ使っていないが、マンデヴィルは「空気を読み、権力者や支配層の立場の人に対する過剰な気配りと同調」のことを綺麗に言えば「社交術」、汚く言えば「おべっか、へつらい」だと書いている。しかも、その時に標準的な価値観として持ち出されるのがシャフツベリーのモラル・センスであることに大いに立腹し、危機感を抱いている 

 

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1198706232346828800

ところで、いまJPN「安倍サクラ政権」下で延々と繰り返される“忖度を巡る怪奇現象”、マイファースト権力者との口裏合わせが目的の「官僚による公文書等の廃棄処理」の多発問題は、実に情けないことだが<公正と正義のため場合によっては囚人のジレンマ(whistle-blowerの出現)を容認する秩序が日本社会に不在である、つまり来の『安心社会』から転じて、法と良識遵守の慣習を最も重視する“個々人が社会的知性を身に付けた新たな『信頼社会』”へ向かう努力が足りない>ことを示す一方、信頼社会にとって有用な正しい意味での名声の価値も未だに深く認識されていないことの現れである(要参照資料↓▲)。

▲RIETI Special Report/「安心社会」から「信頼社会」へ―山岸俊男氏(1948-2018)の死を悼んで/山口 一男・客員研究員、https://www.rieti.go.jp/jp/special/special_report/097.html

(4)ホッブスとマンデヴィルの共鳴的な警告、それは現代の新自由主義に繋がる経済原理の問題

新自由主義へ至るまでの流れ)

ここで一つ忘れてならないのは「12世紀頃~の欧州には自動機械人形(Automata)の伝統が存在すること」である。それは、やがて16~17世紀頃に科学革命の影響を受けるようになり、それは次第に現代で言うところのロボット的イメージを形づくるようになった。そこには遥か300年後の未来における「機械orAIデュナミス高度生産性」をめぐる「人間の壁」の出現による大「格差」発生の予感すらが窺われる。

ホッブスリヴァイアサンは「巨人、巨獣、人工機械(オートマタ)、可死の神」なる4つの神話的な権力の正体(巨人、巨獣は権力に潜む巨大な情念の危険性!)の象徴であった(@カール・シュミット著、長尾 竜一訳『リヴァイアサン―近代国家の生成と挫折』‐福村出版‐)オートマタ については、例えば16世紀には仕掛け噴水やオートマタを配置した人工庭園がヨーロッパで流行した。1615年にはフランスの技術師サロモン・ド・コーが『動力の原因』を発表したが、そこで紹介されている自動装置の設計図では、水力とともに歯車が動力として用いられていたことがわかっている。

更に、もう一つここで付け加えておきたいことがある。それは、このマンデヴィル『蜂の寓話』の逆接の風刺、「私益すなわち公益=悪徳こそが永続的な社会・経済発展のエネルギーである!」が文字どおりに解釈され(又は作為的に方便で悪用された節もあるが)、やがてそれは経済アカデミズムで箔をつけ独り歩きし始め、遂には現代の新自由主義の「経済イデオローグ・リヴィアタン(リバイアタン)」を誕生させたことである。

このように現代世界を主導する経済思想は新自由主義(Neo-Liberalism)であり、それが市場主義と結びついたのがグローバル市場原理主義だ。そのルーツから現在までの流れを概観すると以下のとおりとなる。

グローバル市場原理主義のルーツはシカゴ学派Manetalism)の祖であり、ケインズ論の祖ハイエク(但し、経済学部ではなく社会思想委員会の所属であったハイエクについては、直截的な新自由主義の祖と見るのは無理な面のあることが理解されつつある)とされており、更にそれを引き継ぎ理論化したのがミルトン・フリードマンであるが、その特徴は“物価と名目所得変動の最大の要因が貨幣供給量の変動だと主張する点にある又、彼らは政府の財政介入を可とするケインズ主義や付加価値の公平分配を重視する福祉国家論は社会科学的な無知と不勉強に基づくとして厳しく批判する。

彼らによれば、福祉国家論は人間を堕落させることになり、その代案として彼らが提唱するのが“自由原理と市場主義の融合”だ。それは国民一人ひとりが自己責任の原則に基づき自由に市場へ参加すれば、市場活動を通じ自ずから最適な調整と公正な分配が達成できるという考え方である。簡単に言えばアダムスミスの古典派経済学、つまり経済・厚生・福祉活動における全ての調整を神の手が宿る市場へ任せる、あの自由放任主義が再び市場原理主義の理念の名で復活した訳である。

 1993年にIMF世界銀行・米国政府らの関係者がワシントンに集まり、この考え方を一定の合意に基づく戦略として取り纏めたのがワシントン・コンセンサスである。これは8つの基本合意”から成っており、その内容は「W.C.に拠点を置く銀行等金融機関の財産権の保護、政府の規制緩和、政府予算の削減、資本市場の自由化、為替市場の開放、関税の引下げ、基幹産業の民営化、外国資本による国内企業の吸収・合併の促進ということになる。

これには、アメリカが1991年のソ連崩壊後(ポスト冷戦構造)の世界を経済面から支配するための“新戦略”(既に色褪せたブレトン=ウッズ体制(第二次世界大戦後に計画されたアメリカ主導の世界経済復興戦略)に代わるスキーム)という意味合いもあった。現在、このコンセンサスに基づく新戦略のシナリオに沿って「グローバル市場原理主義」が世界を覆いつつある訳だが、日本の安倍政権のアベノミクスなる経済・財政政策も、このコンセンサスの枠内で進められてきた。

新自由主義へ至る流れの深部構造/全て承知の上で?マンデヴィルの逆接「悪の論理/私益(私悪)すなわち公益」を利用してきた流れ)

更に、このストリームの上部構造と見るべきものがあり、それが「マンデヴィル(ホッブス)~古典派経済学(アダムスミスら)~新古典派経済学新自由主義」の流れということである。そして、経済アカデミズムはこの奔流の流れの上でマンデヴィルの<逆接「悪の論理」>を更に強化しつつ全て承知の上での『悪用』、ないしは敢えて『誤用』してきた節があるのだ。

これは「政治権力」と「経済価値に関わる表象操作」の間の怪しい関係であるのだが、より具体的に言えば<真のエルゴン&生産デュナミス潜在性剰余価値マルクスらの正体)に盲目のまま(敢えて人々をそれに対し盲目にさせたまま)「マンデヴィルについての“誤解”=私益すなわち公益」を助長し「格差」拡大のタネを仕込んできた>ということである。

分野は異なるが、プロパガンダによる「定説」改竄の事例としてエピキュロス派哲学(快楽主義)の問題を挙げておく。ヘレニズム期ギリシアの哲学者エピキュロスに始まる学派は快楽主義として広く認識されているが、そもそもエピキュロスはa「快楽」よりもb「心の平安と苦痛がない状態」を目的としていた。ところが敵対するストア派からプロパガンダ・スキャンダルを大量に浴びせかけられaとbの認知が倒置し、遂には「エピキュロス派=快楽主義」が定着してしまったとされる。

さて、このストリームの上部構造の流れで特に注視すべき「認知バイアス」操作が二回あると思われ、それは新古典派経済学ワルラス一般均衡論=ラグランジュ解析力学(数学的には熱力学と同じ)の模倣)とグローバル市場原理主義新自由主義金融工学)である。

後者はリーマン・ショックに繋がった記憶が未だ割に新しいが、前者については更に静力学(化学系の均衡)散逸(同構造系の均衡/ブリゴジン)の問題が絡み、関連する収拾の先は見えないようだ。しかし、仮にこれら数学・物理学の援用に些かの問題があったとしても、そもそも此処まで巨人化してしまった経済理論のテンソル部(屋台骨)を根っこから弄繰り回し矯正を図るのはあまり現実的でないと思われる。

少し付言すると、こういうことではなかろうか?ヒトを含めた凡ゆる生命活動の根底が「一回性のリアル関係を支えるのがセカンドオーダー・サイバネティクス的なクオラムセンシング、触覚性の知覚機能」(委細は第4章で後述)の問題に近いと見なすことができるだろう。

とすればヒトの一回性のリアル(『日常』性がベース)に直結する経済(厳密に言えば政治経済)を語る、ミクロ(microtubule/最小限の生命活動?)~マクロ(フリードマンなどの宇宙モデルなど)を繋ぐ論理は、上の上部構造ストリームの議論に限れば散逸(同構造系のブリゴジン均衡)に近いと思われるものの、更に「量子論的・数学論的な抽象論理 ⇄ 一回性の生命活動(≒『情念』なる現勢体“エネルゲイア”)」を繋ぐ現場(リアル)で有効なのは、ATP(アデノシン酸三燐酸)やマイクロバイオーム・ワールド等を支える「生命経済の論理」の方が適切ではないか?と思われるからである(関連参照/↓▼)。

 

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コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然) https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

 ・・・

ホッブスが、権力に潜む巨大な情念の危険性の象徴である“巨人、巨獣、そして人工機械(オートマタ)、可死の神という4つのイメージの融合”を自然法思想の中に密かに仕込んだ可能性がある>という「平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)」の指摘は、案外、この辺りの問題と深く関わっており、それは自然法思想を支える「国民主権」(自然権)導く当然の帰結であり、それは生命のリアル!)が王権と全く対等であるという論理を成り立たせる重要な根拠になるのではないか。「香港デモ」を巡る過酷な現況の出現は、おそらくこの「基本権の根底」部分の問題と関係があると思われるが、片や、今や犯罪者同然(というか、おぞましい犯罪者そのもの!?)と化した安倍政権の「サクラ型暴走政治」に対する一般日本国民の無関心ぶりには、驚愕するバカリである(サクラの説明には納得せぬが、アベは支持するという奇妙な多数派の態度はその無関心の正体の現れである!)。

 ▼コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然) https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

従って、矢張りより重要なのは当記事で取り上げた「おそらく内外エトノスの自然計算or量子コヒーレンスとも広範に、かつ啓蒙思想のベースと見るべき『情念』(ピエール・ベール、シャフツベリー関連で取り上げた当記事の重要テーマの一つ!)とも深く共鳴するため無限の可能性がある、プレ・顕在化(現勢体/エネルゲイア/energeia)のエルゴン(死静態/ergon)」について、つまり「死静態(エルゴン)→デュナミス(潜勢態・潜在性/du(y)namis)へ遷移する部分」および「機械・AI高度生産性(抽象性)のエネルゲイア化」」にスポットを当てて、旧来の伝統経済学を補強するという発想の転換こそが、「新自由主義」の宿命である格差対策のためにも必要だと考えられる(機械・AI高度生産性については下記↓★参照乞う)。

4  透明甲殻リバイアタン・ファッショ安倍からのExodus!そのカギとなる「リアル触覚遊牧民、小さな人間(@アルバ・アールト)」

・・・準汎用AI経済の時代に必須となるのは「グローバル透明甲殻ファッショ」(“閉塞的”鏡像ナルシス)の天敵たる「リアル触覚遊牧民、小さな人間」の視点(@アルヴァ・アールト)・・・

(1)「安倍サクラ内閣」の正体は透明甲殻リバイアタン・ファッショ

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https://www.nikkei.com/article/DGXKZO51581510Q9A031C1KE8000/

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1200527562377576449

安倍サクラ内閣の正体は、先ず多数派の人々に照準を定め彼らを自らの内部へ連れ込み、それを効率よく消化・吸収(養分化)し次いでマイファースト専用の単体クラスター分泌という不気味な仕事に取組む、いわば自らのクローンを好き放題に増殖しようとするナルシス鏡像型のファシスト集団であり、その不気味な単体クラスタ分泌は恰も悪性腫瘍の浸潤の如くエンドレスに日本社会のなかで拡がってゆく。そのため、何よりも邪魔となるのが日本国憲法の授権規範性(=国民主権)の性格である。

しかも、それは面妖な自己愛の欲望に従いつつ底なしの合わせ鏡像に酔い痴れるナルシスの泥沼へ沈潜する自己イメージの完結のためである。欧州の極右トレンドが大いに懸念されているが、日本では既に安倍サクラ内閣こと「カルト極右=透明甲殻リバイアタン・ファッショ」が主要メディアを調教しており、その狡猾なプロパガンダで長期安定政権の記録を更新中である。まさに、これは<世界の極右ファッショ・トレンドの最先端をひた走る超弩級の大国難>に襲われた緊急事態ニッポンの異常な姿になっている。

 ・・・

「プロローグ」でも触れたとおり、「お友達内閣」とも揶揄される安倍政権の実像は日本会議こと「戦前型アナクロ・ゾンビ(英霊界派遣エイリアン)一派」のれっきとしたメンバー(安倍晋三氏はその特別顧問)であることで歴然としている。そして、日本会議の当面の最大の狙いは「“改憲”強行で日本国憲法から授権規範の性格を取り除き、明治憲法の時代の如く上が与える国民主権の形を強行<改憲>下で確実に取り戻す」ことである。 

だからこそ、その安倍政権が如何に“グロテスクな“英霊”の御仲間ご用達の巣穴(or“英霊”量産用の墓穴)”堀りの悪趣味を持っているかは、今からでも決して遅くはないので一人でも多くの日本国民が知るべきである(主要メディアは忖度して言葉を濁さずに、分かり易くハッキリとこの恐るべき緊急事態を記事で書くべきである!)。比喩的に言えば、このようにおぞましい日本会議の性格<多様性絶対否定の無限後退「鏡像ナルシス権力」集団、つまり繰り返しになるが「透明甲殻リバイアタン・ファッショ」とでも呼ぶべき“倒錯”政治意識に嵌った異常カルト集団である(更なる日本会議の委細は下記◆を参照乞う)。

◆「平和主義」放棄と「国家神道教育勅語アナクロ国策」復活のため強引な「改憲」を謀る安倍晋三萩生田光一日本会議らは「教育勅語」を起草した井上 毅らをめぐる、本物の「日本国民の未来」を考えた明治期・俊秀らの粒々辛苦の歴史を本気で学び直せ!https://www.evernote.com/shard/s440/sh/2f50b2a8-a879-46d5-9d58-f25f25ace999/6064574b9e2a5d59bb2b15b3ddae69d4

日本会議安倍晋三萩生田光一ら)の恐るべき正体!再び日本国民メジャー?の脳内(精神環境)に深く取り憑いた戦前型カルト「国家守護神制(亡霊(英霊)鎮護国家?)の残照https://www.evernote.com/shard/s440/sh/379c4eda-3097-4638-b26a-6c735e3fb1e9/03e623ec0959b29b3a08bc25e9860bf6

正統保守と偽装極右(安倍首相らが信奉する国家神道&尊皇テロ愛国妄想権力/日本会議、指南)の混同が多数派層の内心のネジレを増幅し、不要な『改憲』へ日本を連れ込みつつある!https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20170518/p1

・・・

(2)「利己心と自負心」(マンデヴィルでは同じ悪徳)の違いとは?

 ・・・その見分けこそが『透明甲殻リバイアタン』、ネオ・ファシズムへの決定的アンチテーゼとなる・・・

f:id:toxandoria:20191130052044p:plainゲーデルの画像は、https://analyticsindiamag.com/does-godels-incompleteness-theorem-question-the-possibility-of-strong-ai/より。

◆【「触覚遊牧民、小さな人間」が紡ぎ出す無限の関係性・多様性ゲーデル不完全性定理によれば我々が生きるリアル世界で基準とすべき健全な論理(論理式、人間・社会・自然の相互関係)には、それを解釈する世界に応じ常に複数の多様な意味がある!故に、一回性の証言or関係性を無視・隠蔽する政治的な行為等、例えば安倍政権が得意技とする議事録・閣議決定らの後出し的な“操作”(改竄・隠蔽・削除・消去、等)はナンセンス・詐欺行為ないしはカルト抽象性とリアル実在を同一視するである!

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1193294570102018049

◆@itaihito2さん/プラズマの研究者のHPの記述にこういうものがあった。・・・「周囲の状況を察し不安定な領域を乗り越えてあるべき場所に意志を持ってたどりつく」、そこで周囲の状況との相関関係の複雑さに時間が追い付けないから量子論的なカオス(出現する時間の共存関係?)が生まれる。量子論というのはそういう事だと思っている。

 ⇒ to @tadanoossan2/●遺伝の信頼性・・・これは、DNAの分子レベルにおける量子力学に依存している。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/

 ⇒ to@itaihito2さん/面白い!プラハに住むユダヤ人としてドイツ語で小説を書く経験をしたカフカが、意図せずして?「言語の非領域化」(恰も量子“確率分布”論的な意味での、複数の“一回性としての時間の共存”の如き触覚性の感覚)を体験したとのエピソードを想起!ドウルーズetガタリ(@田中純一『政治の美学―権力と表象―』)@tadanoossan2 https://twitter.com/itaihito2/status/1193434682462859265

・・・

 国民主権の形」の根本を考えるに当たりヒントとなりそうなのが、かつて水田洋氏(名大名誉教授/世界的に著名なアダム・スミス研究者)が述べた「それは上(神や君主など)から与えられたものではなく、(蜜蜂の群生コロニーならぬ)ヒトの社会に生きる人間自身の意識が創り出したものだ(マクダウエル『リアリズム倫理』をも連想させる!)」という言葉である(@水田洋『近代人の形成』(東大出版会))。

この水田洋氏の含蓄ある深い意味の言葉はマンデヴィルにおける「利己心(自愛なる悪徳)と自負心(自愛のジャンル)」の差異(マンデヴィルではこれら両者の差異があまり判然としない?)を考えるヒントも与えているようだ。因みに、マクダウエルの『リアリズム倫理』を短く言えば、それは「人間の意識の存在を自然界や社会的事象のリアルと全く対等に位置付けて理解する両者を同一視するカルトとは全く異なる健全な認知的理解である!」ということだ(委細、下記▼参照)。

バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)/@マイファ―スト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主要TV・新聞・国民>の「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る「想像力」消滅 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

従って、この「それは上(神や君主など)から与えられたものではなく、(蜜蜂の群生コロニーならぬ)ヒトの社会に生きる人間自身の意識が創り出したものだ」という田氏の」言説における“それ”「多様性に満ちた自然世界と人間社会における一回性のリアルな関係」を意味するコノテーション(connotation/含意・内包=個人的・情感的・状況的な意味のことで、外示(denotation/辞書に登録されている語の最大公約数的な意味)の対語)であることに気付きさえすれば、<ただのナルシス的な「利己心」ならばそれは悪徳へ傾いたものであり、一方で「自負心」というものは、むしろ隔りなく多くの他者との善意に因る関係性に近づく>という意味で全く異なった方向性(ベクトル)であることが分かるはずだ。

(3)触覚性「知覚機能」の核心:クオラムセンシングは一回性のリアル関係を支えるセカンドオーダー・サイバネティクスのジャンル

‐セカンドオーダー・サイバネティクス

R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著)によると、我々の体内に棲む膨大な数の細菌類がマイクロバイオーム(Microbiome)という宇宙的な規模の纏まり(ウイルスまで入れると、それは超100兆個の新世界(宇宙規模!)の発見を意味する!)であり、彼らの全て(そのDNAも含む)が刻々とヒトの細胞やDNA、およびエトノス環境と直接的な遣り取り(水平移動・交換・交流・共感・妥協)をしつつ我われの生理機能を調整し個体のアイデンティティ持続させている(セカンドオーダー・サイバネティクス(orノントリビアルサイバネティクス)で言うobserver情報を取り込みつつ?)ことが、ここ数年来の研究で急速に解明されつつある(委細は↓◆参照)。

◆20170320toxandoriaの日記/マイクロバイオームが拓く新世界への希望/DNA観察から見える「“民族主義レイシズム=非合理”http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320 

 ・・・フェルスターの画像はウイキより

Heinz von Foerster(1911–2002)Austrian American scientist combining physics and philosophy, and widely attributed as the originator of Second-order cybernetics. https://en.wikipedia.org/wiki/Heinz_von_Foerster 

ここで注目すべき重要なファクターがH.v.フェルスター(↑画像)のセカンドオーダー・サイバネティクスだ。つまり、それは従来のファーストオーダー・サイバネティクスを「普通のサイバネティクス」(トリビアルサイバネティクス/下図1)とすれば、セカンドオーダー・サイバネティクス(普通ではない2nd.オーダー・サイバネティクス/下図2)型の自己言及システムがあり得ること、それがヒトを含む生命体のそもそもの起動因となっている可能性が高いという発見である。

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3Trivial machines、4Nontrivial machines http://web.asc.upenn.edu/usr/krippendorff/secorder.html

・・・Trivial machines :As shown in Figure 3, trivial machines are driven by their inputs. Describing something as a trivial machine is to focus on the predictability of its behavior, o, from the conditions that impinge upon it, its input i. This is accomplished by formulating a relation between the two observables, ideally in the form of a mathematical function F : o = F(i). Functions do not offer choices.

周知のとおり、サイバネティク(ファーストオーダー・サイバネティク)は20世紀中ころにノバ―ト・ウイナー(Norbert Wiener/1894-1964/米国の数学者)らにより情報と通信に関する制御理論(自己言及的フィードバック・システム)として定式化されたものである。

このファースト.オーダー・サイバネティクスの特徴を端的に言えば「結果をインプット(原因)側に返すことで原因側を自己言及的に調節し続けること」である。例えば、電気回路では出力による入力の自動調整機能、生体では代謝・内分泌の自己調節機能などを挙げることができる。

因みに、このファーストオーダー・サイバネティクスをモデルとする西川アサキ(AI研究・情報哲学者)らの「意識創生に模したコンピュータ・シミュレーション」では(セカンドオーダーでないことに注目!)、そこで創生された“コンピュータ上の意識もどき”(最小単位モジュール)が「対外部的な超閉鎖化と読み替え得るような動き」が観察された、という報告があることを注視すべき、と思われる(参照⇒『西川アサキの基礎情報論』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104)。

おそらく、これはプラットフォームの大小の問題ではなく、あくまでも“情報フィードバックのあり方”、換言すれば、基本となる“性質または性格”の問題なので、例えば、安倍政権の基本プラットフォーム(基本となる政治姿勢)の特徴である透明甲殻リバイアタン・ファッショ』性の問題は、たとえいくら壮大な政策構想を持つとしても、そのスケールとは全然無関係に、その無気味な透明甲殻リバイアタンは安倍政権の仕事のトータルの凡ゆる局面で偏在することになる。まさに「暗い雰囲気の安倍政権の悪徳は細部と全体に遍く宿る」という訳だ。

一方、H.v.フェルスターのセカンドオーダー・サイバネティクの活動モデルでも、その起動因は先ずシステム内“観察者”に仮設することで得られることになるのだが、そこでは<外部環境(それはカント的な普遍の表象ないしは最広義のエトノス環境とも言える)というフリーハンドの外部から入ってくる多様なエンドレスの影響があるからこそ、いわば「平等な個性(主権)」を持つ個々の外部環境との水平な一回性の関係の持続を確保できることで「起動因」自身も常に自由で開放的な自己言及のエルゴン(ergon/±、又は善・悪両面のファクターを併せ持つ死静態)が確保できることにな

なお、最初に取り上げた個々のマイクロバイオームが、生体内において「平等な個性(主権に読み替え得る?)」を持つ個々の外部環境のそれとの間で、水平な一回性の関係を持続的に確保することに匹敵するような生理活動(あるいは、より正確には情報活動と言うべきか?)の典型事例としてクオラムセンシング(定足数感知)がある。

‐ クオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)‐

クオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)とは、例えばある一部の細菌らが「未知で正体が知れぬ相手に対して先ず仮の名づけ(ネーミング)を行い(AI‐DL教師なし学習クラスタリングに似ている?)、次に、その仮の見立てに応じて自らのシグナル伝達要素(分子)、または自由誘導因子(オートインデューサー/autoinducer/同種菌が生産するシグナル物質)などの分泌(フェロモン様の物質であるクオルモンらの産生)を調整するシステム(その結果、バイオフィルムが形成される)のことである(画像はウイキより)。

この定足数感知の概念をザックリ概念的に言えば、それは「一定のマイクロバイオーム環境内において、ある個体(バクテリア・細菌・ウイルスなど)が、初遭遇であるため未知で得体が知れぬ相手側の個体が自らに対し、その恰も多変量解析の如く非常に複雑な環境下において、果たしてどれ程の有害性または無害性を持つかを物理・化学的かつ定量的に測り知るための殆ど触覚に喩え得る程デリケートなやり方で化学信号を相互交換する生理的“調整”作用」ということになる。

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因みに、近年の研究で「この生理的“調整”作用で形成されるヌメリのあるバイオフィルムの中には驚くべきほど多数の菌種が生息しており、その菌種が更に非常に複雑きわまりない多様な社会を創っており、例えば、そのバイオフィルム内部の菌密度が外部の数千倍におよぶこともある!」ことが分かってきている(▼1/画像は▼2より)

▼1 目に見えないヒト常在菌叢のネットワークをのぞく:太田 敏子/宇宙航空研究開発機構 宇宙飛行士運用技術部 宇宙医学生物学研究室、http://www.sasappa.co.jp/online/abstract/jsasem/1/049/html/1110490301.html

▼2Biofilm developmental stages 

1ttps://www.researchgate.net/figure/Biofilm-developmental-stages-1-Quorum-sensing-EPS-and-microcolony-formation-2_fig1_309201414 

<補足>AI‐DL教師なし学習について(部分転載@↓★)・・・教師あり学習で行っていたのは「分類」問題を解いていたのだが、教師なし学習が行うのは「クラスタリング」(グループ化)である。両者は似ているように思えるが、「分類」はあくまでも個体のラベリングであり、「クラスタリング」は各「個体」の属性を目星とし同じ仲間と思しき「複数の個体でグループを作る」(クラスター化する)ことだ。別の角度から言えば、教師なし学習で行うのは、多変量のデータが大量にあって、どういうクラスタ分割ができるのか分からないので、とりあえず、それをやってみるという様な場合に有効な手法である。重要なのは、クラスタリングで得られた複数のクラスターの夫々がどのような特徴を持つデータ集団(仲間)であるかを、その教師なし学習の結果しだいで、今度は人が類推的に理解(今度は人が、その複数クラスターを見分けて評価)する必要があることだ。・・・以下、省略・・・★ AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができるhttps://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125003

以上の概観から理解できるのは「生命圏トータルの一部としての我われヒトの体内エトノス空間と外界である自然エトノス環境との仕切りについても、これまで考えられてきたほど明確で強靭な壁が築かれている訳ではないらしいということだ。そして自己アイデンティティーの保全は、問答無用で来訪者を拒絶する強靭・強固な壁の厚さよりも、先ず個々のファクターの個性(主権)が平等に保全されると同時にコミュニケーションの一回性の関係をしなやかに編み上げ続ける強かさで実現されているらしいということだ。

(4)アルヴァ・アールトの核心は、内外の自然エトノス環境を意識する人間的な「大きな機能主義」

・・・当画像は『国際巡回展「アルヴァ・アールト展-もうひつの自然-」(2019.2.16-4.14 @東京ステーションギャラリー)』パンフレットより

A.Aalto 1935 Viipuri Library(ヴィ―プリの市立図書館/ロシア)
A.Aalto 1935 Viipuri Library 

・・・第2次大戦後ヴィープリ市はソ連領となり、情報がほとんど入らぬ状況が続いて居ました。ソ連崩壊後は日本からの見学者も増えたとは言え、「建物の痛みが激しく悲惨な状況は見るに忍びない」との感想を漏らされる方が数多く居られました。ヴィープリの図書館はパイミオのサナトリウム1928〜33とほぼ同時期にアールトがインターナショナルスタイルを取り入れて二つのコンペを勝ち取り、国際的な評価を受けた記念碑的な建物と言うことが出来ます。と同時に、その後のアーアルトの作品にしばしば用いられるデザインモチーフをあちこちに見ることが出来る大変興味深い作品と言えます。@北欧建築ゼミ アールト:多摩美術大学 環境デザイン学科 (旧)平山研究室のページ https://hokuouzemi.exblog.jp/568611/

・・・

 フィンランド出身で20世紀を代表する世界的な建築家・都市計画家・デザイナー、アルヴァ・アールト(1898‐1976)の独特の個性(人間主義の建築)を表す言葉は「小さな人間」である。つまりアールトの建築とデザインの特徴はモダニズムに対する人間的なアプローチということであり、そのことからアールトは「フィンラン・モダニズムの父」と呼ばれている。そして、そのデザインは、自然との深いつながりを大切にする「地さな国」、フィンランド国民性に根付きつつ今も世界中の人々を魅了している(アールトの画像はウイキより)。

学芸出版社編集部が運営する建築・都市・まちづくりのウェブマガジン「まち座」のHP(↓★)を参照しつつ、「アルヴァ・アールト建築」の特徴上のポイントを、より具体的に抽出しておくと以下の通りとなる(同社出版、小泉隆 著『アルヴァ・アールトの建築/エレメント&ディテール』“まえがき”の案内より)。★http://book.gakugei-pub.co.jp/mokuroku/book/2277/ato.htm

人間のための「大きな機能主義」 ─ アールトが語る建築の理想 ─

 ・・・前、省略・・・具体的な作品紹介に先立ち、ここではエレメントやディテールが生みだされた背景にあるアールトの設計思想、作品の特徴について、アールト自身の言葉に即して記していきたい。

大きな機能主義

 「建築は科学ではない。それは何千もの、はっきりした人間的機能を結合する総合的な大プロセスであり、依然として建築である。その目的は物質の世界を人間の生活と調和させることである。建築を人間的にするということは、それが良い建築であることを意味し、そして単なる技術的なものより、はるかに大きな機能主義を意味する。

 アールトの作風は、初期の古典主義様式から機能主義様式を経て、独自のスタイルが確立された後も発展、変化していくが、「建築を人間的にする」「物質の世界を人間の生活と調和させる」という大きな目的は一貫して変わっていないそれこそが、時期やスタイルを超えて、アールトが生涯追求した最も重要な事柄であったといえるだろう。

 ここで「大きな機能主義」という言葉を用いている点にも注目したい。近代建築の台頭を後押しした「機能主義」は、技術や経済の合理性を偏重し、それが主として装飾が排除された幾何学的な形態表現と結びつくことで、建築の新たな一様式として世界的に広く波及していった。しかしながら、建築における本来の「機能主義」は、「建築の形態は実際の機能や目的によって規定される」というものであり、ここでいわれる機能には、技術面や経済面に限らず、人間の心理や生理に関わる機能までもが含まれる「技術の機能主義は本源的な建築をもたらさない」とも語るアールト、当時の「機能主義」が建築の発展に大きく貢献したことを認めた上で、その機能を人間の生理的・心理的な側面にまで拡張して捉え、「建築を人間的にする」「物質の世界を人間の生活と調和させる」=「大きな機能主義」というテーマを掲げた・・・以下、省略・・・

遊びの必要性

 アールトはまた、「建築を人間的にする」ためには、技術や経済の合理性だけでなく、「遊び」が必要だと語る。

 「われわれは、実験的な仕事を遊びの気分に、または遊びの気分を実験的な仕事に結び付けるべきである。建築の構造物、それから論理的に導かれた形態や経験的知識が、まじめに遊びの芸術とよぶことのできるものによって色付けられて、初めて、私達は正しい方向に進むことになるだろう。技術や経済性は、常に、生活を豊かにする魅力と結び付いていなければならない。」・・・以下、省略・・・

人間のための「大きな機能主義」 ─ アールトが語る建築の理想 ─

 アールトの作品は、人間を中心に考えることを起点として、内側から外側に向けてデザインされる傾向が強い。内部ではそこに居る人間の活動や求められる機能に応じ空間が形づくられ、窓の配置や形状が決められる。つまり、先に取りあげた小さな機能主義(ムッソリーニのファッショに回収された)ティラーニ建築の閉鎖性と真逆のベクトルである。・・・以下、省略・・・

<注記>アルバ・アールトの人間を中心に考えることを起点として、内側から外側に向けてデザインされる傾向が強い“大きな機能主義”」は、第1章で取りあげた イタリア・モダニズムの建築家、ジュゼッペ・テラー二の「倒錯の合理主義=非人間的な小さな機能主義」と正反対である。つまり、テラー二の小さな機能主義”はムッソリーニのファッショに呑み込まれる形で見事に回収され、それはイタリア・ファシズムの表象を代表する建築である「カーサ・デル・ファッショ」を創造したが、実は、その正体が「透明甲殻リバイアタン」なる妖しげなナルシス“自閉”怪獣であり、その特徴が「無限後退的に際限なく無辜の国民の生存権を脅かすものであったこと」は、既に述べたとおりである。

自然環境との共生

 「われわれは建築の理想的な目標を次のように定義できる。つまり、建物の役割は、人間(住民)に自然のよい影響をすべて与える装置として働くことあり、またそれは、人間(住民)を自然や建物がつくり出す環境に現われるすべての悪い影響から保護することである。そして今、私はこれ以上によい定義を見つけることができないのだが、建物もそれが緊密に所属している自然と同様に豊かなニュアンスをもっていなければ、その役割を果たすことができないということも、われわれは認めるべきである。」

 アールトの建築作品のうち約9割が母国フィンランドに建つ。それらの作品からは、高緯度ゆえの特異な気候風土、厳しい自然環境に抗うことなく、人間の生活を守りながらうまく共生していこうとするアールトの思想が垣間見える。・・・以下、省略・・・

時と場所を超えて

 建築家の仕事は、調和を生み出し、未来から過去までの糸をひとつにつなぎ合わせることに向けられている。その根本に存在するのは、無数の感情の糸を持つ人間と、人間を含めた自然である。」

 フィンランドという北の地で、土地の気候風土や伝統に根ざした作品を生みだしたアールトローカルな建築家」「ヴァナキュラー(地域や集団の暮らしに根差す)な建築家」と言われることもあるが、それはアールトの限られた一面を捉えたにすぎない。「ナショナルとインターナショナルの概念の結合が現代世界に必要な調和ある結果を生み出し、それらの概念は、互いに分離されることはできない」と語り「近代的か伝統的な表現か」という問いにも意味がない とするアールトの作品には、古典的なモチーフや地域の伝統的なモチーフが見られ、時にイタリアや日本などの他国のスタイルが持ち込まれることもあるが、それらは近代的なデザインと融合しながら、アールト独自の表現に昇華されている

 このようにして様々なエレメントが結びつけられたアールトの建築では、単なるスタイルではない、時と場所を超越した一つの「調和」が実現されており、ここにアールトが生涯追い求めた「大きな機能主義」が結実した形を見ることができるだろう。

(5)アルヴァ・アールトの触覚性の建築から学ぶべきこと

『政治の美学‐権力と表象‐』(東大出版会)の著者である田中純によれば、「アールトの人間主義の背景にあるのは、機械文明のなかで脅威に晒されている、か弱く、保護されるべき存在としての人間という認識であり、そのような特質が『小さな人間』というアールトの言葉には込められている」ということになる。つまり、アールトにとって、「人間のスケール」は決して建築のための物理的モジュールなどではなく、あくまでも世界のなかで人間が占める矮小な、それ故にこそ建築というシェルターで守られるべき地位(自然権、つまり一回性の生を生き抜くべきヒトの権利/補、toxandoria)であるという認識を示すもである。

従って、弱肉強食の新自由主義ネオリベラリズム)と相性が良いグローバルスタンダードとして人間の規格化(モジュール化)を建築・都市計画あるいは社会設計のための尺度とするのは許されるべきでないことになる。その意味で「普遍的人間性」なる言葉を、たとえそれが一面(言葉上)では近代啓蒙思想の「普遍」の観念(J.J.ルソー)と相性が良さそうだと見て、安易に新自由主義の経済観念や社会設計に接合するのも誤りであることになる。

つまり、アールトの思想からすれば、宿命的に自然エトノス環境のなかで生きる矮小な人間は、必然的にローカルな個性と結びつかざるを得ないのであるから、科学・機械文明の進化に伴い益々暴力(一方で、グローバル経済的な意味で強権)化する傾向を見せつつある「普遍」(この批判対象としての“普遍”は、既に触れてきたとおり啓蒙思想初期に重視されていた感情のファクターを完全に無視して抽象世界へ高く舞い上がったそれを指す)への圧力からは毅然として守られるべきなのである。

因みに、このように人間的なアルヴァ・アールトの目線から連想させられるのがマーティン・オルブロウの社会の茎(socio-scapes)である。これは、新自由主義ネオリベラリズム)(および、それがファッショ的な政治権力と癒着する傾向にあること/渦中の世界的極右ポピュリズム・トレンドの根源にある問題!)への対抗軸として、ローカル生命モデルから構想された「ヒトを幸せにする“社会的共通資本”たる新マクロ金融の創造!」ということである(委細、↓▲参照)。

▲チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済(第4次産業・AI革命)に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!

https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

<補足>マーティン・オルブロウ(Martin Albrow/英国の社会学者(ドイツ出身))について・・・オルブロウは、トランスナショナルな分業を巡って組織される、国家など一定の地理的な領域を持たないコミュニティ>のことを「社会の茎」(socio-scapes)と名付けているが、ウルリッヒ・ベック(1944 - 2015/ドイツの社会学者)は著書『世界リスク社会』(叢書ウニベルシタス)の中で、これをグローバリズム時代における新しい「帝国」(国際金融資本など)へ対峙し得る、“グローバル市民のための全く新しい共有基盤”(いわばグローバルな社会的共通資本)になり得るもの>として注目している。

・・・

ところで、「プロローグ」でも触れたが格差問題の深刻化というグローバル市場原理主義の限界に悩まされる現代世界は、今や東西の別なく「極右ファッショへの回帰」を求める過激なポピュリズム・トレンドに煽られ

つつ多数派層が構成されるという共通の難題を抱え込みつつある

しかも、これは、所詮バカの量産現象だと揶揄し静観することが許されぬほど危機的状況となっている。しかも、その上手を行かんとするバカリの“我が偉大なる?安倍サマがやることならば、渦中の「サクラ祭り(見物)」式の国家犯罪であれ、凡ゆる公文書の廃棄であれ何であれ”、安倍サクラ内閣の蛮行に対し何故かあまりにも寛容すぎる日本は、今や異常を遥かに凌駕する「超常オカルト国家」同然となりつつある!w

しかし、目先主義を煽る甘美な大衆迎合プロパガンダに対し極めて脆弱なポピュリズム派の目には、いずれもが(1)AI‐SNSや(2)主要メディアの巧みな政治的利用(後者(2)は特に忖度の空気に溢れる日本で著しい!)、または美学的・心理学的な表象操作を伴う悪質な洗脳工作(例えばステマステルス・マーケティング)戦略の応用etc)の利用などで激しく鎬を削る時代であるだけに、このA-アールト的「プラットフォーム視線の方向」とB極右ファッショ的「プラットフォーム視線の方向」の違い(政治的に仕込まれるベクトルの向き)が非常に見えにくくなってきている。

その「政治的意志のベクトルの向き」とは、建築用語で言えば「建築アーキテクチャ(基本構想)が志向する方向性」のことであり、Aアールト的「プラットフォーム視線の方向」が「人間のための大きな機能主義を志向する、ローカルで小さな人間の目線」だとすれば、B極右ファッショ的「プラットフォーム視線の方向」は「無気味な内心の霊界(悪徳情念のマグマ溜り)を無限に志向する異常ベクトルの強制、いわば属人的で併せ鏡(鏡像)的な異界ナルシスト・ループの目線」ということになる。

・・・

Aジュゼッペ・テラー二のカーサ・デル・ファッショ

Bヴィ―プリの市立図書館f:id:toxandoria:20191130102408p:plain

Cアベ「桜を見る会」(↓)の深奥に潜む「異界ナルシスト・ループのイメージ(↑)」

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2019.11.19 Business Journal /「桜を見る会」に反社勢力が参加か…半グレや詐欺グループ関係者の目撃談 https://biz-journal.jp/2019/11/post_128749.html

 ・・・

そして、Aの事例が「第1章で取り上げた『ジュゼッペ・テラー二のカーサ・デル・ファッショ』であり、Bの事例がここで取り上げた『アルヴァ・アールトの最も特徴と見るべき作品で、アールト建築の核心でもある大きな機能主義の建築の代表事例、ヴィ―プリの市立図書館』である

問題は、AとBが外面的に殆ど見分けがつかないことだ。そして、両者ともにその仕掛けは内部の動線計画と諸施設の配置方法(ゾーニング)の工夫などにある。つまり、既述の繰り返しとなるが「Aが悪質なのは透明なガラスの採用(つまり、見栄えだけで騙すための如何にも分かり易そうに見える外形的工作の工夫)によって、一見では恰も自らの内部の全てを曝け出しており、その内臓までをも包み隠さず過剰に露出しているかの如く、いかにもオープンで開放的に見えることだ。

 

しかし、その開放性が実は分厚く強固な防弾ガラスで覆われており、ふと気がつくと何時の間にかその内臓の深奥に悪徳が潜むファッショ権力の非常に貪欲で超閉鎖的でグロテスクな消化器官に取り込まれている!ということだ

 まさにファッショ建築、つまり日本の場合は、英霊界(日本会議)の代理人たるアベ様と呼ばれる『政治的甲殻生物』の罠である。特に主要TV・新聞・国民の共依存係(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」が一般社会における「想像力」の消滅を一層助長しつつある日本では、今やその安倍ファッショ政権の暴走が過激化(基本となる国家観のパースペクティブ、そして動線計画とゾーニングが狂暴化)し、驚くべきことに国家犯罪行為(例えば、歳費・公金が凡ゆる野望とお仲間益のため浪費されるアベ・サクラ祭り!)が罷り通るまで重篤化しつつある(関連参照/↓★)。

★マイファ―スト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主要TV・新聞・国民>の「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る「想像力」消滅 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255 

・・・

そもそも、当記事をやや分析的な視点で書いたのは「自らの明らかな国家犯罪行為である「サクラ・スキャンダル」すら物ともせず「不遜の強欲悪鬼」と化したJPN一強権力こと<肝心のエルゴン問題など全く眼中にない安倍サクラ政権>が、愈〻、本物の「透明甲殻リバイアタン・ファッショ」と化しつつあり、無辜の日本国民の身ぐるみを剥ぎ取り、そのあげくに残り僅かな産毛一本までを根こそぎに抜き尽くそうとしている 」という危機感ゆえである。   

そして、一見では回り道のように見えるかもしれぬが、「マンデヴィル『蜂の寓話』を介在させつつ『日常』とホッブスに潜むエルゴン(格差の天敵)」を具体的に発見する努力こそが、やはり『魅惑するファシズムファシズムの美学@スーザン・ソンタグ』の精華(文字どおり“悪の華”)と見るべき「透明甲殻リバイアタン・ファッショ・アベ」の更なる暴走の天敵となり得ることが確認できたと思われる。

<注記> ファシズムの美学、アフォリズムジャン・ジュネ泥棒日記』より

・・・以下3件の出典/田中 純『政治の美学‐権力と表象‐』、P2~8・・・

ファシズムの美学/“芸術は行われよ、たとえ世界は滅びようとも”(@ベンヤミン『複製時代の芸術作品』

ファシズム」の“魅力”とは、「ナルシズム権力⇄ナルシズム国民」なる併せ鏡像式の相互凭れ合いによる、恰も汲めども尽きぬかの如くに無限退行する、非常に居心地が良い倒錯エロティシズム(2-3歳児“鏡像段階”@ラカン)の空気である。―スーザン・ソンタグ『魅惑(誘惑)するファシズム

アフォリズムジャン・ジュネ泥棒日記より(フィーチャー:( )内は原文)

・・・ただ、日本人(ドイツ人)だけが、安倍晋三ヒトラー)の時代に、同時に「警察・検察」(警察)であり「犯罪」であることに成功した。この反対物の壮大な総合、この真理の大塊は恐ろしいものであった。そして、それに満ちていた磁力は今後長いあいだ、我われを熱狂させ続けるだろう。

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    (完)

 

(エピローグ)大澤昇平・東大准教授の「中国人は雇わない」発言&同炎上事件

 

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f:id:toxandoria:20191202180752p:plain・・・苦、の後に「w」が漏れました!w