toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴンの発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴンの発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ

<参考>全く同じ内容ですが、コチラ↓のヴァージョンもありますので、念のため御案内しておきます。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331

(前置)

https://twitter.com/SdaMhiko/status/1198152472725843974

f:id:toxandoria:20191204091422p:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1202016216006529024
・・・

・・・当記事は以下の二つの仮説を前提にしている。

(1)そもそもマンデヴィルはシャフツベリーと同等の啓蒙初期の思想家の一人と見なすべき人物である、

(2)マンデヴィルは、日々の生活(生命エネルギーの持続・継承活動)を最重視していた、

・・・因みに、(2)の『日常礼賛』(@ツベタン・トドロフ/また、自然法の根本であるエトノス観/委細、後述)には、単なる『私益』以上の深い意味があること(±プレデュナミス潜在性・潜勢態/委細、本文で後述)にマンデヴィルは気づいていた節がある。

・・・加えて、マンデヴィルは(2)の『日常礼賛』を正当に評価するための障害が当時の英国社会に蔓延する「忖度」の空気(その湧出源がシャフツベリーのモラル・センス)であると見ていたので、『蜂の寓話/私悪(私益)すなわち公益』という逆説の風刺は、これらを強烈にアピールする意図で書かれたと理解する視点に当記事は立っている。しかし、そのような重要な意味の理解は当時のイングランドの一般常識とは真逆であった

・・・ところで、「忖度しないことは非常識で、忖度することが健全な常識だ!」と見做される“不思議なアリスの国”へと、最高度の知的集団を自負する「政官学財労界、主要ジャーナリズムおよび司法・官憲」らエリート指導層の優れた戦略の下で、驚くべきスピードの相転換を体験しつつあるのが今の日本ではないか?との“無言の仮説”から当記事の準備が始まった。

・・・それに、“私益すなわち公益”方式の国策“アベ・サクラ見物の風流?”なる典型事例の如く、経済・安全保障のためならたとえ「国家(国策)犯罪」であってもソレを善しと見なす倒錯「倫理」が浮世のメジャーな常識となりつつあると思われるからだ。

・・・翻れば、「“経済・安全保障のため悪徳こそ倫理の主柱と見るべき!”との強い信念から(実はそれは逆説の風刺である)、当時(イングランド)の世間常識であった“処世訓としての美しいシャフツベリーの空気、モラル・センス”を厳しく批判し、時の指導層らを徹底的に揶揄したため大陪審で告訴される羽目となり、爾後、300年におよび、その真意が殆ど理解されぬどころか、資本主義を司る主流経済アカデミズムの手でその“逆接の風刺=私益(悪)すなわち公益”がチャッカリ悪用される(その精華が現代世界を席捲する新自由主義イデオローグ!)という実に過酷な始末と相成った人物がいる。それがマンデヴィルである。

・・・具体的にその結論を言えば、それは「グローバル市場原理主義新自由主義)に因る格差拡大」をも矯正可能と見なされる経済「エルゴン(死静態/ergon=±プレデュナミス潜在性・潜勢態)」の発見が必須だということ!特にマンデヴィル『蜂の寓話』の真意(その逆説の風刺の意味)が殆ど理解されていない日本では、自らの「明らかな国家犯罪行為」である「サクラ・スキャンダル」すら物ともせず「不遜の強欲悪鬼」と化したJPN一強権力こと<肝心のエルゴン問題など目にも入らぬ安倍サクラ政権>は、愈〻、本物の「透明甲殻リバイアタン・ファッショ」と化しつつあり、無辜の日本国民の身ぐるみを剥ぎ取り、そのあげく残り僅かな産毛一本までを根こそぎに抜き尽くそうとしている!・・・

<注記>エルゴン(ergon/死静態)

・・・W.フンボルト(19世紀、プロイセン時代ドイツの博物学者・地理学者)の用語で、普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことだが、リアルに活性化するとそれら両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。近年の生(命)化学、量子物理学ら先端科学研究フィールドにおける生命エネルギー論では、たとえばATP(アデノシン酸三燐酸)あるいは生体中の微小管(microtubule)などヒトの意識とプレ生命エネルギーたるエルゴンの(おそらく量子論的な?)関係性が注目されつつある(Ex.@R.ペンローズ、Cf.↓★)。

★コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

(Cover Images)

ラウル・デュフィ「ニースの海辺」1928 

・・・理知へひたすら傾斜するのではなく人間の深層に息づく感性を重んじるフォーヴィスムのジャンルで活躍したラウル・デュフィ(1877 -1953)であるが、同派のリーダーたるギュスターヴ・モロー(夢想的象徴主義の画家)の超理念(形式外へ高く飛翔する、いわば抽象化への原理的・高踏的な飛翔)とは違い、鑑賞者との間での音楽演奏(エネルゲイア)的なハーモニーの共鳴を大切にしたという意味で、おそらくモローらとは異質であった。

・・・ともかく、この「多くの人々と普通に共感できる音楽演奏(エネルゲイア)的なハーモニーの感性」を大切にするということが、デュフィの芸術をして「あり得ないことの彼方へ、より先鋭的に飛びあがり、遥か彼方の天空の世界へ多くの人々を連れ去ろうとする」のを押しとどめさせたと言えるのではないだろうか。これは“薄紙一重”の如くとても微妙な問題ではあるが。

<参考>ラウル・デュフィ展― 絵画とテキスタイル・デザイン ―/パナソニック留美術館、2019100520191215 https://panasonic.co.jp/ls/museum/exhibition/19/191005/

雲谷等顔「花見鷹狩図屏風」(桃山時代の風流/江戸期『風流』のルーツ)

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・・・雲谷等顔(1547‐1618)は戦国時代末期〜江戸初期にかけ活躍した画家で幕末まで続く雲谷派の祖。桜の季節になると中世の日本人は花笠をつけ笛・太鼓で“やすらいはなや”と囃し花の下で踊る慣わしがあった。それは「やすらい花」と呼ばれ、今も多くの神社などに残照が遺る(出典:池上英子『美と礼節の絆』‐NTT出版‐)。これが「風流」群舞の美であり、それはドロボー・詐欺師・暴力組織までもが国費(歳費/税収)で招待される『一強アベ様のサクラ見物まつり』&『シュレッダー方式の消去で何が悪いの? et <忖度>でええじゃないか,ええじゃないか!踊り』が大歓迎される? <日本会議ご推薦>の今の日本の風景とは余りにも異なる本物の麗しい日本の姿である。/当画像は http://urx2.nu/DlPQより)


Maurice Ravel - Gaspard de la nuit Performance:Jean-Efflam Bavouzetm、picture:W.M.J. Turner, "Norham Castle, Sunrise".

 

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https://mitsubachi-enrai-movie.jp/

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO48886760S9A820C1000000/

・・・【映画/蜜蜂と遠雷】4人の若き天才たちの魅力的なピアノ演奏の競演!美しい「映像+音」の描写に加えて、大いなる自然の中を激しく疾走する黒い荒馬と雷鳴・稲妻・波頭・・・、そしてプロコフィエフバルトークの大音響がそこで醸し出す、ある種の共鳴・干渉(コヒーレンス)するようなイメージ!彼らが善悪の価値観を超えた底知れぬ“大自然”のパワーに挑むドラマ!その黒い馬は勇気ある若者たちが果敢に挑戦するアドベンチャーの象徴であるように思われる。そして、この点は原作者・恩田 陸とは異質な感性の石川慶・監督のユニークな解釈に因る映像化の精華であると思う。

 ロローグ)

・・・3~4歳児へ先祖返りするが如き自閉<鏡像ナルシス>男が恰も神サマの如く君臨する日本!言い換えれば、傲慢なカルト狂人や嘘つき犯罪人共の頭領こと安倍晋三によって一強(超然君臨)支配されるバカリの日本は「“非シャフツベリー的な主体的な経済の美学(美的価値判断の意識)が不在”ゆえ“に幻想(中動態“忖度”)啓蒙主義”の昂進という重篤な異常観念の病理に蝕まれている!・・・

・・・

<注>シャフツベリーについては、委細を後述する。また、そもそもインド・ヨーロッパ語族の言語に存在した「中動態」文法(サンスクリット文法では反射態)は、中枢権力(王権)が確定するプロセスで抑圧され消滅したが、人間関係のパターン化ないしは慣習化したそれは欧州でも(厳密に言えば欧米でも)社会の日常には文脈上の表現作法として些かは遺ってきた。約300年前に、その「中動態」文法的な文化(政治・社会・文化的な風潮)を敢えて抽出し、それが社会・経済的に悪影響を及ぼす危険性があると警告したのがマンデヴィル『蜂の寓話』の意味だともいえる(委細後述)。日本語そのものの中動態的な文脈構造は能動態と受動態の中間であり、それが、あらゆる言説の主語・主体は誰であるかを常に曖昧にするのが最善の美徳だとする価値観を日本の社会に定着させてきた。つまり、初めから文脈全体が中道態とも言える日本社会ではその典型たる「お上への忖度!」と「主流の空気を読む!」が満ち溢れており、その弱点を突いた安倍政権の「内閣人事局で全官僚の首根っこを押さえる政策」が見事に成功し、遂には「倫理・法律・憲法よりも、まず忖度してアベ様へ『へつらう』のが一番!」という空気が日本中に溢れかえっている。今や、司法・官憲・主要メディアまでもが悉くアベ様をへつらっているのは、そのためである。

Cf.『私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」/「する」と「される」の外側へ:國分 功一郎・哲学者、東京工業大学教授』、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51348

・・・ここで解説されている「中動態で、するとされるの外側の世界へ入る」ということは、別に言えば「主体と客体を曖昧化する(orさせられる)ことで、“主体の何かを行為しようとする意志(しようとする主体的な心の道理的で理性的な判断)”を主体の意図とは懸け離れた原初的な“例えば善と悪のように両義的な性質が共存するコヒーレントで不分明な混沌たる感情・情念の世界のエルゴン”へ押し込んでしまう(orそのようにさせられてしまう)事を意味すると考えられる(toxandoria)。

<参考>メジャー国民の篤い支持でファッション化した?安倍サクラ内閣の『私益すなわち公益』宣言/やがて、それが高じファッシ(真性ファシズム)化するのも指呼のうち?

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「グローバル透明甲殻リバイアタン、AIネオリベ・ナルシス怪獣」の蠢きとご都合主義的に連携する<アベ強行「改憲」のプロローグを意識した“私益すなわち公益”式のアベ様のサクラを見る会>開催の動因は、明らかに日本会議ことアナクロ御仲間なる「鏡像ナルシス権力」への没入政治の現れである!(“グローバル透明甲殻リバイアタン”の委細は後述する)。

常在的な作為であるのか否かはともかく、このおぞましい光景が綺麗サッパリと自らの魂を売り払ったマイファースト知識人or同・ジャーナリストらの“悪(入?)知”恵に因るシナリオの振り付けである可能性も高い。しかし、  このような時であるからこそ巷(浮世)に溢れかえるおぞましい時流の空気と対峙しつつ17世紀科学革命の息吹をも背景とする自律市民社会の希望を逆説的に説いたマンデヴィル『蜂の寓話』の風刺の真意を正しく理解すべきである。

無論、それは啓蒙思想初期においてホッブスらにも窺われる感情の政治学の重要性を再提起したマンデヴィルに関わる致命的誤解と言っても良いだろう。因みに、啓蒙思想の歴史を顧みると、この感情の問題(つまり、善と悪のように両義的な性質が共存するコヒーレントで不分明な混沌たる感情・情念の世界のエルゴン)に関わる一定の冷静な理解の確保は、カントによる“情念統制理念、論理構成理念”の考え方の登場を待たなければならなかった。

それは、下記a、bの意味であるが委細は下記↓★を参照乞う。

a:情念統制理念:たとえ実現の可能性から離れているとしても、持続的に目指すべき“方向性”(一定の統制された情念に基づく )

b:論理構成理念:論理と実践によって徐々に実現されるべき内容

★カント「情念統制、論理構成」の峻別、それは「普遍」観念を培地とするリベラル共和主義の理解と深化に必須の条件、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180307/p1

・・・

そもそも、経済史上でアダム・スミスの“レッセ・フェール”、つまりその自由原理の思潮(それは、抑制的であったはずのスミスの自由原理と、科学革命後の完全合理主義の安易な癒着とも見なせる!)の流れを汲むことを自負する「新自由主義ネオリベラリズム、自由原理主義」は、むしろ悪徳「エルゴン(プレデュナミス潜在性・潜勢態の悪徳の部分/委細、後述)」を強調したマンデヴィル『蜂の寓意』の、18世紀~現代までの長きにわたる曲解に淵源を持つと見るべきである。

<注>スミスはグラスゴー大学スコットランド啓蒙思想の中心人物、F.ハチソン(F. Hutcheson/1694 - 1746)の下で道徳哲学を学んだ。なお、ハチソンはグロティウスらの自然法思想(自然に基礎をおく普遍的な法/実定法の対概念)を継承する道徳哲学者であるスミスもこれらの思想的潮流から大きな影響を受けている。

・・・

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<参考>安倍政権は「日本会議」指定の「戦前型ファシズム国家/アンチ自律市民社会」を目指す!

・・・これぞ、妄想“英霊顕幽論”教徒たる安倍晋三・一派のアベ型「改憲」(国民主権の剥奪が目的)の強行で、そのマンデヴィル『蜂の寓意』が曲解されたことに由来する「新自由主義」(ネオリベラリズム)がもたらす「格差」の一層の助長を作為で謀る、アベ自民党なるナルシス(戦前型自己陶酔/美しい愛国玉砕戦争へのアイロニー(没入、現実逃避)@橋川文三

・・・その無気味な「アベ・サクラ政治」は紛れもなく現代日本に着床したゾンビ「透明甲殻リバイアタン」、いわば“穴“グロテスク”「鏡像ナルシス権力」である。

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・・・中欧がドイツ支配圏に戻った」は同感だが、古い資本主義が蘇ったというよりも カーサ・デル・ファッショ(@ジュゼッペ・テラー二)型の「ポピュリズムを装いつつ恰もワイマール共和国時代の退廃バビロン化したドイツ(or同時代“政治経済”激混迷期、プレ・ムッソリーニ時代のイタリア)を彷彿させる「甲殻リバイアタン」が仕込む「“ポピュリズム極右”独裁&新自由主義ネオリベ)が野合したネオファッショ」、いわば全く新しいタイプの透明な壁>(つまりファッション流儀で、それが透明な民主主義である如く装うこと)で“グローバルな防弾・甲殻ガラスの壁”」に世界中の市民社会が囲われ追い込まれつつあるのではないだろうか? ⇒冷戦終結共産主義が崩壊し古い資本主義が蘇った(エマニュエル・トッド) - 大野博人20191108論座https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019110600012.html?page=1 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1193778208044285959

1  イタリア・モダニズムの建築家、ジュゼッペ・テラー二「カーサ・デル・ファッショ/倒錯の合理主義=非人間的な“小さな機能主義”」の現代的意味

・・・テラー二の建築プラットフォーム、「透明甲殻ファッショ建築」のイメージが意味するのは自閉性の「小さな機能主義」の病理・・・

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・・・画像は、G.Terragni Archive https://misfitsarchitecture.com/2014/07/13/architecture-for-fascists-by-fascists/1022-6499_la-casa-del-fascio-co/  より。

 f:id:toxandoria:20191127175109p:plain

・・・画像「カーサ・デル・ファッショ」(コモ)はウイキより。 

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・・・画像は、G.Terragni Archive https://misfitsarchitecture.com/2014/07/13/architecture-for-fascists-by-fascists/1022-6499_la-casa-del-fascio-co/  より。

(1)ファシズムは『例外的なもの(あるものは無い、ないものは在る)への抽象的同一化/倒錯的合理主義、鏡像ナルシスの小さな機能主義』、いわば「亡霊的」権力の病理

 

思想としてのファシズム(fascism)は、ベニート・ムッソリーニ(Benito A. A. Mussolini/1883 - 1945)が率いる国家ファシスト党イデオロギーに始まるとされ、その最大の特徴は「民主制のプロセスで、一強化した政党による強固な一党独裁制が確立したもの」とされているようだが、現実的な政策面では実に多様な側面(例えば軍事侵略主義、マイファースト倒錯合理主義(小さな機能主義)、強権統制経済、果ては市場原理主義(現下・日本の安倍ファッショ政権のケース)など)が現れており、その全容を正確に把握するのは容易なことではない。https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196428168837488640

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196428168837488640

敢えて一言で、その特徴を言うならば「例外的なもの(あるものは無い、ないものは在る/果ては、都合に応じて、その真逆である“ないものは在る、あるものは無い”へ強権的に自在に転換させるようなこと)への抽象(観念)的同一化」の超然権力による強制(つまり、有体に言えば限定的な合理主義を小ばかにしつつ、強権主義で“ご無理ごもっとも!”の同調と忖度を強いるバカリの、昔から存在するバカ殿さまの倒錯合理主義の政治・経済)ということである。さぞかし、現代日本の「安倍サクラ内閣が強制的に推し進める、今や酩酊状態の極みにも等しいアベノミクス政策」などは、その典型というべきであろう。

そして、例えば強権的な統制によって一般国民層の普通の『日常生活』のあり方(ヒトに必須の“生命の論理”)を完全に無視した倒錯の合理主義政策、つまり経済的付加価値の湧出源である「『日常』のエルゴン(死静態)、デュナミス(潜在性・潜勢態)、現勢態(エネルゲイア/特に、生命エネルギー通貨の重要な意義)」を完全に無視するという異常な権力の暴走(態度)である。その意味では、行き過ぎた新自由主義による大格差拡大の放置、又は準汎用AI機械抽象的生産性とヒトの“日常”に必須の“生命の論理”の乖離、つまり前者と現勢態(エネルゲイア)の乖離、準汎用AI抽象的生産性が必然的にもたらす『人間の壁』(委細、参照↓◆)を放置・無視するような“AI‐IT経済”立国主義なども明らかにファシズムのジャンルに入る。

チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済(第4次産業・AI革命)に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

しかも、それはやがてヒトラー・ドイツのナチズム(Nazism)の概念(イデオロギー)と融合したこともあり、益々、一般的には分かり難いものとなっている。そのため我われがナチズムとファシズムの言葉の定義を厳密に使い分けて議論することはなかなか困難である。因みに、このファシズムの語源はラテン語のファスケス(fasces)で、それは共和制ローマの統一シンボルである、領域で割拠する諸権力を強い共和制国家の紐で縛る意味を表す「束ねた杖」(諸権力の分散を統制する強力な団結力の象徴)のことだ(添付画像)。

ここから、ファシズムの特徴は過去における「一定の国家の栄光と民族の誇りの権力表象(タイプ/Type)」を過剰なまで誉め讃え、それをこの上なく美化しつつ祀り上げる、いわば過去(ここでは共和制ローマローマ帝国時代の)において嘗て一定の目標(理想)に到達したと想定される「美しい国」の理念(ドグマ化した)を熱烈に希求する、ある種の強烈なロマンチシズム的情念(自閉ナルシズム的な愛国心への没入を強制する、一強化した政治権力による統治形態)でもあることが理解できる。因みに、ムッソリーニは熱心にプラトン(“普遍的な希望の理念”と“あり得ない妄想”とのご都合主義的な同一視のための誤った粗雑な論理のためにを研究していたともされる。

<補足>現実認知に関わる「タイプとトークンの峻別」が意味すること・・・パース(Charles Sanders Peirce/1839 – 1914/米国の哲学者、論理学者、数学者、科学者/プラグマティズム創始者)が提唱したタイプ(そもそも脳内で超時間的に、かつ自由に変容し得る概念そのもの)とトークン(その概念と対峙する関係にあるリアル/内外のエトノス自然環境と共鳴しつつも確固たる実在として因果、つまりリアル時間の連鎖に沿って流れ続ける一回性で特定・個別の対象)を区別する考え方があり、これは「Type-token distinction」と呼ばれる。

・・・

注意すべきは、政治体制の如何を問わず何時の時代でもこのような意味での情念のファクターは人間であれば誰でもが普通に内心に抱えているという現実があることだ。従って、この「権力者によるナルシズム的な愛国心への没入を強制する、一強政治権力による統治形態」(まさに現代日本の一強、安倍政権はこれに当たると思われる)の核心的なエルゴン(ergon/死静態/既出:普段は休眠状態にある両義的な情念・表象で、何らかの契機で活性化するとそれらの何れかを表現する言語活動となる)は、一体何か?という問題になる。

そこで想起されるのが、『政治の美学‐権力と表象‐』の著者である田中純(東大大学院総合文化研究科教授/思想史、表象文化論)が指摘する、ファシズム(ないしはナチズム)が持つ、一種の抽象急進主義のジャンルと見るべき「例外的なもの(又はあり得ないこと)への抽象的同一化/亡霊的権力or権力の亡霊」の問題である(日本会議、安倍政権らが信奉する“靖国(英霊)”顕幽論などは、その典型であろう)。

この「例外的なもの(あり得ないこと)への抽象的同一化」は、必ずしも、おどろおどろしい「文字どおり恐ろしげに見立てた姿やイメージ」で立ち現れるとは限らず、むしろ実際には大衆受けがし易い美しいイメージや伝統であるか、あるいはむしろ「ファッショナブルで格好が良くてステキ―!」とか、又は「とても洗練されていて美的センスが良い!」と、その見かけは好感をもって受け止められるケースが多いようだ(例えばジュゼッペ・テラー二の『透明甲殻ファッショ建築』、あるいは『盾の会』で散華した三島由紀夫の高踏な文学など(三島の画像は、http://history365days.blog.fc2.com/blog-entry-895.html より)

そして、後者は日本国民の無意識に深く浸透するファシズム美学の秀作へ昇華している訳だが(田中純は、これを文学の世界における“死に損ないの原理”と呼ぶ/無限後退的に敗戦のトラウマに飲み込まれた儘で、成仏もできず宙づりのゾンビとなっている深層心理の残滓の謂い)、おそらくその宙づりゾンビたる日本会議の指南に沿って、これを薄っぺらに“オレ・アベ様の巧妙な政治利用”と気取った『(美しい?wアベ様の)桜を見る会』は、むしろ無気味な安倍晋三・首相とその同類のドヤ顔(いわゆるサクラ)バカリを見せつられるトンデモ“亡霊的権力”であったようだが?w)。.

(2)ファッショ(ファシズム政治)に回収された現代建築家テラー二「小さな機能主義」の傑作、カーサ・デル・ファッショ

今もインダストリアルデザインの世界に大きな影響を及ぼすイタリア合理主義と、ファシズムの結び付きは、モダニズムの運動をイタリアに普及させようとジュゼッペ・テラーニが1926年に「グルッポ7」(Gruppo 7、https://www.idesign.wiki/tag/gruppo-7/)を設立した時から強まったとされる。そして、グルッポ7の建築宣言はフランスの建築家ル・コルビュジエの著書『建築をめざして』(1923)の影響を受けており、コルビュジエが訴えたフレーズは「住宅は住むための機械」ということであった(画像は、https://www.idesign.wiki/giuseppe-terragni/より)。

 が、そもそもル・コルビュジエ(Le Corbusier/1887 - 1965/フランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に“近代建築の三大巨匠”とされる)のフレーズ「住宅は住むための機械」が意図したのは「住宅は人が住むための機械と見るべきで、それは一般の人々の暮らしに合わせて使いやすく、しかも彼らが購入しやすいリーズナブルな価格で量産可能なものであるべきだ」いう、あくまでも建物の中で暮らし、そのなかで生活と仕事を創造する人々のためのもの(ヒトの生命の論理に貢献すべきもの)、つまり其処に住まう人間を最重視するということであり、ひたすら外形表象の美を求めて、その世界へ没入することではなかったのだ

そして、特に数学そのものに高い関心を持ち続けたテラーニが、その「現実にはあり得ない抽象性の典型」である<数学的抽象美>をリアルな建築造形へ昇華させる仕事の追求、つまりその高度抽象性なる超合理性の美の表現と関連づけて最もこだわったのがファサード・デザイン(建築物の正面部分のデザイン)である。必然的に、そこからはロマネスク、ゴシック、ルネッサンスバロックロココらの建造物のファサードデザインの特徴である「幾何学的な要素と自然造形的な諸要素(何らかの生命の論理を反映した装飾・文様等)とのバランスをとりつつ配置する」という視点は除かれることとなった。

無論、このような特徴が現代でも合理主義的なモダニズム建築の一つの魅力となっていることは確かなのだが、テラーニでは、それが徹底されるあまり自らの手本としたル・コルビュジエの建築美学(建築の基本構想部分)から“人間性の最重視”という最も肝心な基本ファクターを根底部分で一掃してしまうという、一種の倒錯的な美学へ没入するループ回路に嵌ったことになる。当然ながら、それはテラーニだけの責任と見るべきではなく、それこそファシズム時代の<忖度・同調>が強制される空気というステージ上での出来事であった訳だ。

それと同時に、このジュゼッペ・テラーニのモダニズム建築がファシズム政治の更なるファシズムとカーサ・デル・ファッショ」がイメージ表象を共有することを示す、このテラー二自身の言葉は非常に重要なヒントを我々に与えていると思われるので、同書『政治の美学‐権力と表象‐』の中から、田中が強調しつつ説明している部分を」以下に転載しておく。(P416~426/裏返された“ガラスの窓”―カーサ・デル・ファッショ―)

・・・

・・・前、省略・・・では、テラー二の「家」はどこに位置するのか。それはどのような「住まい」を目指しているのか。カーサ・デル・ファッショにおいて追求されているのは文字通りの透明性ではない。内と外の単純な関係はそこにはない。トーマス・シューマッハーは、この建物がほかの多くのイタリア合理主義建築とも、いわゆるインターナショナル・スタイルの建築とも異なり、奇妙な両義性(見かけの開放性と閉鎖性の)を持っていることを指摘している。・・・途中、略・・・

カーサ・デル・ファッショは、これら前者二つの建築よりも遥かに堅く閉ざされているように見えながら、しかし同時にはるかに透明な感覚もまた与えるのである。堅い直方体をくりぬいた彫刻にも似た印象と共存して、大理石の被膜、コンクリート・フレーム、そして水平に並んだ窓の列といった要素が加算的に結合された結果としての、解体寸前の危うい均衡状態にあるかのような独特な透明性がそこには感じられる。・・・途中、略・・・

そして、このように内部/外部が逆転し、分裂してしまうとき(この奇妙なパースペクティブのもとで)、カーサ・デル・ファッショの外側に身を置く者は、実は既に何ものかの内側にいることになるだろう。逆に、建物内部はもはや閉ざされ限定された空間ではなく、はるかに広大で無限に近い外部空間(しかも、内と外が倒錯的に逆転した)であることになるだろう。・・・途中、略・・・

シューマッハーが指摘するように、ガラス扉はいわば「聖別」されており、この正面口(アトリウム側面の)からの移動(特別に配置された動線の一定の誘導による)が連想させるのは、ファシスト党員がアトリウムに集結し、十六のガラス扉が一斉に解放されて、黒シャツ姿の党員たちが一団となって広場の中央へと向かう場合にほかならない。・・・途中、略・・・

カーサ・デル・ファッショがファシズム革命に殉じたメモリアルでもあったとすれば、テラー二のダイアグラム(特別に仕掛けられた一定の動線の流れ)で表されているのは、この死者の家という彼岸から広場へとなだれ込んでくる、亡霊たちの殺到のようにも見える。(つまり、シューマッハーによれば、カーサ・デル・ファッショは内骨格が外骨格化する形で倒錯した、しかもその倒錯感覚が無限の反復を繰りし、その中心へ収斂する(飲み込まれる)ように感じられる、新種の不気味な甲殻生物の如きであることになる。←toxandoriaの解釈的な補足的)・・・後、省略・・・

・・・ 

つまり、テラー二の建築は第五章で取りあげる「リアル触覚遊牧民、小さな人間」の建築、つまり小国フィンランドのアルヴァ・アールトが創造した「小さく、ひ弱な人間のための建築(一回性の命を日々に紡ぐリアルな生命の論理)」とは全く異質なアールトの最も特徴と言える「大きな機能主義/人間性を包摂する、人間のための機能主義」の正反対に位置する、大仕掛けな見かけとは異なり異界に住む亡霊やゾンビたちのための閉鎖的な、つまりナルシス鏡像的な「小さな機能主義」(マイファーストも此のジャンル)の建築プラットフォームである。まさに、それは「透明甲殻リバイアタン・ファッショの建築美学」とでも呼ぶべきものかもしれない。

2  17世紀(初期啓蒙思想期)は科学革命と仏モラリスト(只管、感情と論理の泥試合的な綱引きの場と化した宗教への批判)の時代に重なる

・・・17世紀(啓蒙幼年期)は「モラリスト、“脱ドグマ”啓蒙市民社会、“オランダの光”が象徴する“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)と“機械”生産デュナミス潜在性の発見」が鼎立する、いわば今のAI時代のコンシリエンスの先取りともいえる画期の時代であった・・・

 (1)科学知の深化とモラリストの出現は感情と論理の泥仕合の場と化したキリスト教への冷静な批判

 (“機械”生産デュナミスの発見に繋がる科学革命と“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)の発見に繋がるモラリストの17世紀)

 <注記>デュナミス(潜性態・潜性態/dynamis)

・・・潜勢態(デュナミス)は現勢態(エネルゲイア/energeia)に先行的に対応(いわばプレエネルゲイアの謂いで)するアリストテレスの用語。当記事の冒頭で記したエルゴン(ergon/死静態)が、普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことを意味するのに対し、それがリアル活性化すると両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。つまり、ヒトの『日常』(日々のリアル生命活動)は「デュナミス(プレエネルゲイア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(entelecheia)」のプロセスに支えられている訳だ。

・・・従って(+)のデュナミスが何らかの機械処理ないしは消費活動等で言語(経済活動)的に表現され、それが形式化され(例えば契約などの形で)「現勢態」化するとそれが新たに創造される経済価値(付加価値)のデュナミス(潜在性・潜勢態)というリアル可能性の創造物となり、その貨幣化による分配と蓄積がヒト・企業・国家に必須の富の形成力(エネルゲイア)となる。

・・・つまり、このプロセスを真逆に見れば自然エトノスおよび人間社会のネットワーク網(生命の論理たる生命エネルギーの交換・代謝・展相が多次元的に連鎖する世界)における両義的なエルゴン(±、善・悪の表象らが無意識レベルの感情の海のなかで入り混じつ混沌の世界/おそらく後述するザハヴィの無媒介的認知的自己意識に重なる)が一回性の邂逅で発火・燃焼する所在を絶えず、日常のなかでリアルに探索することが、先ず非常に重要であることが理解できる

 ・・・

 英国の歴史学者ハーバート・バターフィールド(Herbert Butterfield/1900 - 1979)は、1949年の著書『近代科学の誕生』の中で近代の画期として、17世紀を「科学革命の時代」と名付けている。具体的に見ると、それはN.コペルニクス、J.ケプラー、G.ガリレイ、A.ニュートンらによる科学研究上の大きな変革のことを指すが、その影響を受けた哲学上の変化も含め、この時代は「17世紀科学革命の時代」呼ばれることもある。

しかし、この時期の科学者が宗教の頸木、または羅針盤から完全に解き放たれていたと見るのは大きな誤解を生むことになる。例えば、後で委細を述べるフランスの思想家で「宗教的自由主義」を主張したピエール・ベールは、デカルトRené Descartes/1956 - 1650/数学者、合理主義哲学と、近世哲学の祖)の物理学に従って、処女作『1680年の彗星に関する随想』を書いたが、そのデカルトの物理学には“神によって保証された法則”との注釈が付いていた(@平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/京都大学・経済論叢:第89巻‐第2号』)。

それは17世紀後半~18世紀にかけての欧州「啓蒙思想」期の前半(初期啓蒙思想期)にほぼ重なり、この時代の主な思想家では英国のホッブス、J.ロック、スコットランドのD.ヒューム、フランスのヴォルテールディドロモンテスキュー、J.=J.ルソーらが先ず想起される。それは「聖書・教会、神学、王権」ら諸権威のドグマ(固定観念)から脱し、理性により人間の意思(意識)と権利の「普遍性」を定義し、その保全のための政治体制(民主主義社会)を創造する思想活動であった。

そこで、これから以下の章で述べるマンデヴィルへ大きな影響を与えたという意味で、17世紀フランス“啓蒙思想の先駆け”の思想家ピエール・ベール(Pierre Bayle/1647 - 1706)について少し触れておく(委細は第3章で詳述)。フランスの思想家ではあったが「宗教的自由主義」を主張したピエール・ベールはカトリックの国であるフランスから、リベラルの空気が濃厚だったオランダのロッテルダムへ移住している。

丁度その頃にロッテルダムエラスムス学校にマンデヴィルが在籍していた。そもそもベールは、1675年からフランスのセダンにあるプロテスタント系アカデミーの教授を努めていたが、1681年のルイ14世の勅令によって同校が廃止され、フランスにおけるプロテスタ ント迫害が過酷となってきたためフランスを逃れ、オランダへ移りロッテルダムでの教授職を得 て、オランダにおいて著作活動に専念するようになっていた。

ピエール・ベールがフランスで活躍していた時にほぼ重なる頃から、フランスにモラリストたちが現れる。モラリスト(moraliste)とは道徳家(moralisateur)とは異なる概念(というか、厳格な道徳家とは真逆で自由な発想を持つ人々)であり、彼らの思考は主にエッセイや文学・箴言などの形で表現される。その感情・感性の要素を重視しつつも、一方では大局的で冷静な視座で論ずるモラリストの思考は人間の日常における意識活動の多面性・多様性を様々な角度から深く思考するという、フランス文化に特有な知的伝統の一つの柱となっている。

特に大きな特徴と見るべきことは、それが宗教や道徳の厳正主義(厳格主義/rigorism)から解き放たれた自由であるが故の「両義性」という点にある(むしろ、多義性と言うべきかもしれない)。また、モラリストの発祥については諸説があるようだが「フロンドの乱/1648 - 1653」~「アンリ4世/フランス絶対王政の確立期」の間において「既存の政治体制と既成の価値観」(アンシャンレジーム)が崩壊する過程に入ったという点に求めるのが妥当と考えられる。

ところで、現代の「宗教的自由主義」は「宗教原理主義」(キリスト教の場合は主にプロテスタント聖書原理主義(聖書(福音)主義))と正反対の立場で宗教的リベラリズムと呼ばれることもあり、それは現在にも繋がる中々デリケートで難しいテーマである。なぜなら、今では「キリスト教での宗教原理主義」と言えば主に米国のプロテスタント系「エヴァンジェリカルズ(福音主義派)」を指すが、聖書原理主義カトリック系にも、又は神の唯一性(三位一体否定)を主張するユニタリアンでもあり得るからだ。

例えば、今の米国で「エヴァンジェリカルズ(プロテスタントキリスト教福音主義派/聖書原理主義派)Vs(宗教的)リベラリズム」の対立の形で現れており、今のところトランプ岩盤支持(約40~50%)の中核をプロテスタントエヴァンジェリカルズ(推定総数ca1億人/米全人口の約1/3)が占めており、トランプ大統領の再選へも相変わらず大きな影響を与える可能性がある。尤もこの構造の“背後霊”はペンス副大統領である(ペンスはカトリックエヴァンジェリカルズを自称し二股をかけている?苦w)。

(2)“脱ドグマ”啓蒙市民社会の曙、“オランダの光”が象徴する“機械”生産デュナミスと“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)の発見

(“脱ドグマ”啓蒙市民社会の曙を準備し開花させたネーデルラントのエトノス環境

 <注記>エトノス(ethnos)とは?

・・・[世界大百科事典 第2版(平凡社)]によれば、「そもそもエトノス(ethnos)は、ギリシア語で民族を意味する。民族学の用語としては,ロシア系の民族学者S.M.シロコゴロフがはじめて本格的に論じ,ドイツの民族学者ミュールマンW.E.Mühlmann(1904‐ )などによって,この概念の重要性が明らかにされた。それは,同一の文化的伝統を共有するとともに,〈われわれ何々族,何々人〉という共属意識をもつ最大の独立した単位集団をいう。したがって,一つのエトノスは場合によっては,バンドでも,氏族でも,部族でも,さらにカーストでもありうる。」ということになるが、ここでは更に、その後の自然科学・歴史・地球環境・民族等に関わる研究と人間社会における意識上の変化等を反映させつつ、さらにエトノスの概念を拡大して定義(仮に)しておく。

・・・つまり、それは<ethnosは古代ギリシア語に由来しており、村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団のことを意味するから、エトノスの意味は、そこに置かれる人々の立ち位置が変われば正反対になり得るので、そもそも絶対的で画一的な評価を伴う言葉ではなかった。おそらく、それは「生命」現象そのものと同じく、永遠に揺らぎつつも各アイデンティティーの持続性を必死で繋ぎとめるべきものであるのかも知れない。従って、エトノスとは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”となし得る開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化(マイクロバイオーム世界、量子物理学世界の理解など)を常に受け入れつつも、その伝統的なヒューマン・スケールの全体性の“持続”を最も重視する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となるローカルの風土』を意味する。>ということになる。

 ・・・

 

・・・Rembrandt「The Night Watch」1642 Rijksmuseum 、Amsterdam , Netherlands

・・・ Vermeer「 Girl with a Pearl Earring」c.1665. Mauritshuis, the Hague, Netherlands

近世のネーデルラント地方(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3か国、いわゆるベネルクスとも呼ばれる低地地域)は近代資本主義の誕生の地であり、その繁栄のピークを代表するのが「レンブラントの時代」とも呼ばれる17世紀のオランダである。因みに、光と影の画家とされるレンブラントは、キリスト教への賛歌に留まらず市井の普通の人々のリアリズム感覚に限りなく接近していた、フェルメール、カラヴァッジョ、ルーベンス、ベラスケスらと並びバロック絵画を代表する画家の一人である。

ネーデルラント(低地)の呼び名のとおり、この地域はヨーロッパ北西端の最も低い土地にあり、アルプスから発しドイツを南から北に流れるライン及び北フランスの山岳地帯から流れ出るマースとスヘルデの三つの川が、ここで北海に注ぐ。 このように平坦な土地を流れる河川の歴史は、必然的にこの地域での人流・物流を活発なものとしてきたうえ、ほぼ欧州の中心の位置でもありネーデルラントはヨーロッパの文化・言語・政治権力が出会い、交流し、激しく衝突する場でもあった。

今でも、当地域にはEUユーロポート(ロッテルダム)、ブリュッセルEU本部、ハーグ国際司法裁判所など欧州と世界の民主主義にとり重要な中枢機構が点在し、ゲルマン文化とラテン文化、オランダ語フラマン語ワロン語、フリースラント語、独・仏・英語がモザイクのように点在する形で共存している。つまり、その特徴を一言で言えば“絶えざる人的交流と流動的な異文化の坩堝”といえる。

およそ16~17世紀の近世史の流れのうえでも、このような人文・自然地理および歴史環境(いわば欧州の中央部に位置する低地地方というエトノス環境の中でも、北方ネーデルラントとも呼ばれるオランダは広い意味での欧州の紛れもない先進地であり、特に強大なハプスブルク支配から独立したばかりの17世紀のオランダ共和国において、新しい近代的な法思想や科学知識が深化しており、また新興市民階級(指導層はレヘントと呼ばれる、主に商人が出自の都市貴族)の勃興パワーと初期資本主義の発展が著しかった。

例えば、迫害を逃れるためポルトガルからオランダのアムステルダム(当時、アムステルダムはヨーロッパで有数の国際商業貿易港で自由と寛容の空気が流れていた)へ亡命した裕福なユダヤ商人の家に生まれたスピノザ(Baruch de Sponoza/1632〜1677)の事績がある。ここでスピノザは温厚なユダヤ神秘主義の精神とルネサンス以降の合理精神(スコラ哲学的論理学、デカルト哲学、数学、自然科学など)を統一して、独創的な哲学体系(寛容の哲学体系)を築いている。

あるいは、デルフトの有力市民(市長や参事会員を輩出した家系)の子として生を受けたグロティウス(Hugo Grotius/1583〜1645)は、14歳でライデン大学を卒業し、15歳でオランダ連邦共和国の施設団の一人としてフランス国王アンリ4世(1553〜1610/ブルボン王朝フランスの始祖/新教徒(ユグノー)と和解するため1598年の“ナントの勅令”で一部の信仰の自由を認めフランスの宗教戦争を終らせた)に謁見する機会を与えられている。

21歳の時に、グロティウスはマラッカ海峡で起こったポルトガル船による拿捕事件でオランダ東インド会社から委嘱を受けて『捕獲論』を書き東インド会社の立場を擁護しているが、更にグロティウスはその一部を『海洋自由論』として出版(1609)し、いかなる国の国民でも「自然法」の原則で海洋を自由に航行し、他国民と自由に交易をする権利があることを説いた。

18世紀に入ってからこの海洋自由論は広く世界的に承認されるようになり、現在の「公海」と「領海」の概念が成立したという海洋法に関わる歴史がある。なお、「自然法」は、ストア派の宇宙の理法(今で言えば自然計算の観念?Cf.↓)に由来し、中世ではキリストの啓示がこれに代わり、啓蒙思想のころから普遍的な法則性と規範性の二義性が意識されるようになった、実定法に優越する法理のことである。

♨ 想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか? それは「アナログ/自然計算(“暗黙知”ワールド?)」と「デジタル/AIディープラーニング(“形式知”抽出マシンワールド?)」の溝の深さによる?(仮説)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

・・・

現在から逆照射すれば、それは殆どエトノス自然環境(地球環境内における生命の論理、地球温暖化の問題意識からそれは凡ゆる生命を含めた意味での倫理へと拡張しつつある)の考え方に重なると思われる。

また、1618年のオランダ移住後に「三十年戦争」へ参加しドイツの各地で過ごし、更にイタリアとフランスの各地を旅したあと、再び1628年にオランダに戻ったデカルトが、その後、21年間にもおよびアムステルダムで研究を続けている。そして、その間に、にガリレイの地動説を論じた著作がローマ教皇庁の宗教裁判で有罪とされたこと(1633)に大きな衝撃を受け、彼自身が天体を論じた著作『世界論』の公刊を断念する事件が起こっている。

(17世紀オランダの新興市民らによる『“機械”生産デュナミスと日常礼賛の意義の発見)

 

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196562627746390019

現代世界は、米国「トランプ政権」と日本「安倍政権」という二つのニュー・タイプの“ある意味で奇妙な”ファシズム権力(透明甲殻リバイアタン・ファッショのジャンル?)の暴走に脅かされつつあるとも言えそうであり、この両者を手玉に取る位置に立つのが中国(習 近平・主席)だ。これら三国のトップ(トランプ、安倍晋三、習 近平)は、外形的に“三者三様”に見えるが、実は宗教原理主義中国共産党一党独裁は、いわば宗教もどき!)絡みの<異様権力原理主義>という意味では共通した「人権に関わる深刻な宿痾」を抱えている。Cf.「米中新冷戦の「いい湯加減」?試金石は香港 編集委員・滝田 洋一/核心1118日経」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52230160V11C19A1TCR000/

つまり、それが前段で“ある意味で奇妙な”と述べたことに関わる訳だが、それは、夫々にヘイト・ステルス宗教(権力基盤たる“背後霊=守護神”)問題が絡むあまり、肝心のエトノス(観)を見失っている上に、最も重視すべき真の「経済生産デュナミス」と「日常生活のエルゴン(プレ生産デュナミス潜在性)」の視点を完全に見失っているという意味だ(米:エバンジェリカルズ(プロテスタント福音派/ca.1億人、対国民比ca.3割強を占有/副大統領ペンスを介しトランプの守護霊ともなっている!)、日=日本会議国家神道復活派/国民比では僅少ながら自民党保守系議員(国政・地方共に)の占有率が異常に大きく安倍内閣では、ほぼ独占状態)、中国=上で述べたとおり宗教もどき中国共産党一党独裁)。

一方、世界の歴史を振り返ると、17世紀の欧州の中心地ネーデルラント(ほぼオランダ連邦共和国に重なる)では「新しい時代の光と空気」(今で言えばエトノス観)、具体的に言えば17世紀科学革命、モラリスト啓蒙思想(前期)、オランダ典雅法律学(フット/J. Voet/1647-1714)が代表する人文主義的な広角の法解釈)などに共鳴した新興ブルジョワ市民層らの間から、更に日々の生活を充実させようとする気風が高まっていた。

より具体的に見れば、それは低地ネーデルラントオランダ)の中世から引き続く国土干拓の歴史、それに伴う機械・土木建築・造船・航海などに関わる技術開発の進化、そして金融・証券市場の創設と東インド会社の設立、内需(消費)市場の成熟、芸術創造の活性化(レンブラントフェルメールらの活躍、本格的画商の登場、果てはチューリップバブルの崩壊)etcとなる。

つまり、世界で最初の市民革命(商人ブルジョワ層中心の)でもあった「オランダ独立戦争」(1568-1609)によって、中世自由都市の面影を残しながらも英・仏に先駆け逸早く市民による活発な交易活動社会を実現した17世紀のオランダ(その黄金期を、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガ(J.Huizinga/1782-1945)は『レンブラントの時代』と名付けた)は、新興ブルジョワ階層(レヘント(Regent)と呼ばれる主に大商人を出自とする都市門閥貴族)を主体とする市民社会を創りあげた。

彼らは、その地の利と他国に先駆けて芽生えた「17世紀オランダ近代理性主義」(16世紀のエラスムスを源流とするグロティウス、スピノザなどの系譜)の知的遺産と欧州の十字路と呼ばれるマルチリンガル個性的文化を十分に活かして、このネーデルラントの地で、現代的な意味合いに近いグローバルな初期資本主義と呼ぶべき活発な経済活動を展開した。

やがて英仏両国から追撃を受け彼らの黄金時代は終わることになる。そして、このように「レンブラントの時代」が約100年足らずで終焉を迎えた背景には未解明の部分が多いが、一つはっきりしていることがある。それは「絶対王政の歴史経験がないオランダ連邦共和国(1580頃 - 1795/レヘントから選出される総督がトップで、同じくレヘントから成る市議会・州議会・連邦議会議員が政治を独占)では近代官僚制の発達が不十分であった」ということだ

他方、これを追撃した英仏両国は、それぞれの絶対王政時代を通して強大な近代官僚制を創り上げていった。このことから、歴史過程に照らしたその功罪の評価をともかくとすれば、近代国家を効率的に経営する条件として、確固たる理念をバックとするエリート指導層の形成と共に近代官僚制度の整備・充実は必要なことであったと考えられる。ともかくも、このように17世紀ネーデルラントの中心地であったオランダの近世史を概観すると、それは、紛れもなく「ネーデルラントに住む新興市民らによる『“機械”生産デュナミスと日常礼賛』の意義の発見」ということであった

特に後者の『日常礼賛』について見ると、当時の「各国が貿易収支の差額(黒字)により国富の増加をめざす重商主義(mercantilism/典型的な自国第一の保護主義)を採っていたこと」に照らせば、この『日常礼賛』を経済活動の第一義に位置付けるべきとする発想は、当時としては異端視される可能性すらあったと思われることを注視しておくべきだろうしかし、マンデヴィルはコレに気づいていた節がある。

つまり、この『日常礼賛』をストレートに「私益の飽くなき追求=悪徳」へと読み替えれば、後述するマンデヴィル『蜂の寓話』の風刺と重なることが興味深い。当記事は、それをストレートな風刺ではなく逆説であったと見ている。謂わば、この『日常礼賛』には単なる『私益』以上の深い意味があることに気づいていたからこそ、最もそれを重視すべきだ!ということをマンデヴィルは逆説で表現した!?と見ている訳だ。しかし、その重要な意味は当時の建前上の一般常識とは真逆であった。

ともかくも、言い換えればそれは機械・土木建築・造船・航海などに関わる技術開発の進化に伴う<“機械”生産デュナミスと“日常のエルゴン”(プレ生産デュナミス潜在性)の発見>ということである。因みに、デュナミス(潜在性・潜勢態/dy(u)namis)は、現勢態(エネルゲイア/energeia)に対応する、アリストテレスの用語であった。序に言えば、同じくアリストテレスによれば目的に到った状態のことはエンテレケイア(entelecheia/プラトンイデアに匹敵する)と呼ばれる。

エルゴン(ergon/死静態)は、記事の冒頭でも記したとおり、W.フンボルトの用語で普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことだが、それがリアルに活性化するとそれら両者の何れかを表現する言語的な意識活動となることが理解できよう。そこで、これら三者(四者)の概念を時間軸に沿って接合すると「エルゴン→デュナミス→エネルゲイア(→エンテレケイア」となることが分かる。

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また、このアリストテレスの相転換のイメージから、同様に段階的な転層の意義を説くフランス科学認識論の哲学者、G.シモンドン『個体化の哲学』(叢書・ウニベルシタス)が想起される。この著書でシモンドンは、“ミクロから宇宙規模のマクロにおよぶ大自然世界における相転移の問題意識”の連続リアリティ概念を説明しているが、又これは個体生命内の「ATP/アデノシン酸三燐酸(動植物に共通の個体内における生命エネルギー通貨)」創造の問題とも深く関わると考えられるので、これから益々重視すべき非常に重要な概念(認識)である。

以上のことから、そもそも今までの経済学が無視(又は見落としてきた)ファクターとして「『エルゴンの“未生の±価値”=プレ潜性(可能)態』」の重要性が認識できるのではないかと思われる

より具体的に言えば、それは<リアル経済価値(付加価値創造)に至る以前の「潜在価値」転層プロセスの問題>ということである。無論、17世紀科学革命の頃から意識されるようになり、そして今や本格的なAI時代に入りつつあるからこそ、益々、解決を急ぐべき機械高度生産性Vs労働生産性(ヒトの低生産性)(大格差の発生)=人間の壁>の問題があることは言うまでもない

ところで、それに加えて注目すべきは<17世紀『レンブラントの時代』に生きた新興市民層の人々が、それは殆ど無意識であったにせよ、資本主義が深化しつつあった17世紀ネーデルラントの『日常の生活』のなかで、そのことの重要な意義に十分に気付いていた節があること。ともかくも、それを見事に摘出してみせたのがブルガリア出身のフランスの思想家・哲学者、ツヴェタン・トドロフ(Tzvetan Todorov/ 1939 - 2017)である。

 

ツヴェタン・トドロフは、著書『日常礼賛』で「17世紀オランダにおける“自律意識が高い市民らの日常生活”充実への粘り強い拘りと好奇心に因る社会ネットワークの多様化」こそが、初期の近代資本主義が当地で発達した理由となっていることを見事に摘出している。れは、何事につけ強権ワンポイント主義で全てが解決することはあり得ないことを前提に、啓蒙思想を培地とした絶えざる『日常』(日々の生活)の充実を求める市民層の、多様性を求める強い自律意思(共生志向の主権者意識)にこそ、普通一般の人々の日々に新たな民主主義への希望を与え続けていたということだ。

別の言い方をするならば、「ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』は、絵画と世俗・日常の完全な融合を実現した17世紀オランダ絵画の意味を斬新な視点で抉ったものであり、同じトドロフの注目の新著『民主主義の内なる敵』と併せて、今こそ改めて読むべき内容だと思われる。それは、この時代が<政治・経済的には近代資本主義の幕開けを飾った「画期の時代」>であると考えられるからだ。」ということになる。

<注記>ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』のポイント(17紀オランダ市民層がフェルメールレンブラントらの絵画に惹かれた訳)

・・・「写実主義と寓意的意味という二つの狭い視点だけでしか風俗画とも呼ばれる17世紀オランダ絵画を見ることはできないのだろうか?」というのが、ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』の出発点(同書を書く動機、多元的な眼差し)であった。トドロフはそこに共通する<日常生活のジャンル>のなかに存在する、豊かさへの節度ある願望が持つ尊厳性ということに気づいたのだ。
・・・つまり、「写実、寓意(道徳、啓蒙)、画家自身の眼という三要素がもつれ格闘(entangle)する過程の中に画家たちは三つの夫々に還元できない、ある種の新しい人間的な美意識を伴うリアルな文化・経済価値を創造する作用を発見した」とトドロフは主張する。もっと言えば、これら三つの要素と中間層市民の『日常生活(の礼賛、へのこだわり)』という個々の異なるエトノス(世界観)の緊張関係の中で彼らは次々と「美意識と多元的な経済価値のフロンティア」(エルゴン)を発見し続けたのである。そして、17世紀オランダの市民層の旺盛な好奇心は、このような点に強く惹きつけられた
・・・より大きくとらえるならば現代にもつながる人間の営みの普遍性であり尊厳性
でもあると見るべきことで、それは<資本主義経済の持続性(および結果としての成長)を請け負い保証するプラットホームが普通一般の市民層の日常生活>の中にこそあるという発見であった。つまり、それは彼ら一人一人の、自分自身の中と見知らぬエトノス県境の世界の中に無限に存在するという、いわばそのような意味での「エルゴン」の発見であった
・・・更に言い換えれば、それまで圧倒的な宗教の支配に従属していた人間の本質的なもの、人間の自由意思と正統な宗教意識の適度な調和と距離感を実現する啓蒙思想(相互の信頼と信用を保全する共同主観性としての政教分離の理想)にこそ馴染む、多数派市民層を中心とする“日常生活”の意義の発見ということだ。無論、この当時のオランダの「政教分離」は未完の発展プロセスの途上ではあったが。
・・・そして、それに必要な一定限度の貨幣「量」およびその多数派層の市民(17世紀オランダの場合は各自治都市の自律意識を持つ市民層)の日常生活を支え得る、過剰(バブル)にならぬ程々の貨幣流通「速度」(経済学的には、同一の貨幣が一定期間内に何回持ち主を変えるかの平均で、貨幣の『所得速度』とも呼ばれる/実は、現代でも忘れられてきたが、彼のケインズがこれを最重視していた)の確保の意味(重要性)の発見ということだ。

・・・

今まで書いたことと一部重複するが、以上から理解できることを、経済価値(付加価値創造)に関わる「生産デュナミス(潜在性)→リアル付加価値創造エネルゲイア(現勢態=個人所得・企業利益・税収・国富など)」のフローとして概観すると、以下のとおりになる。

・・・(1)エルゴン(死静態/ergon/未生の“±価値”/プレ潜性(可能)態)→(2)デュナミス(潜性(可能)態/du(y)namis/未生の“+価値”(付加価値創造1))→(3)エネルゲイア(現勢態/リアル経済価値(付加価値創造2))

「Luddite movement」の画像検索結果

・・・画像は、https://www.history.com/news/industrial-revolution-luddites-workersより。

17~18世紀「産業革命」以前の機械力が殆ど介在しない段階での資本主義では、農業生産と商業市場および遠隔交易に関わる経済のパイが大きかったが、同革命後(進行プロセス期を含む)のそれでは、次第に(2)の段階における「機械デュナミス潜性態」の占有が大きくなってきたと考えられる。そして、そもそも[(2)]Vs[(3)]で発生する、技術革新(労働・機械両生産性の質的な差異)から発生する大きな格差の問題は「産業革命」の頃から意識されてはきた(Ex.英『ラッダイト運動( Luddite movement/機械打ち壊し運動)』、http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h28/hakusho/h29/html/n1131c02.html)。

しかし、AI革命が喧伝される現代では、(2)が徐々に全面的な「AI機械デュナミス潜性(可能)態(潜在的なAI機械高付加価値)」への移行が予想されることとなり、同時に[(2)]Vs[(3)「特に個人所得の部分」]の格差拡大(断絶の発生と固定化)が大きな問題となっており「ネオ・ラッダイト」の時代の接近も懸念されている訳だ。

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https://twitter.com/sakuhinsha/status/1195510132462895104

因みに、新刊のデヴィット・ハーヴェイ『経済的理性の狂気』(作品社)は大変興味深いが、マルクス資本論」が上部構造(宗教・カルト・道徳・芸術・法制・政治ら謂わば情念)の狂気をも指摘しており、それ故にラッダイト運動も機械(今で言えばAI-ITら)ではなくそれを悪用し私益を謀る政治的なもの(例えばアベ的お仲間政治など)を破壊すべきと主張した点も改めて重視すべきだろう。

しかも、このような切り口から見れば、特に無限の可能性さえ秘める[(1)エルゴン(死静態/ergon/未生の“±価値”/プレ潜性(可能)態)]に全く気づいていないか、あるいはそれを承知で無視してきた新自由主義が、実は経済思想とは似て非なるものであることが歴然とする。無論、新古典派以降の正統派の経済学も殆どコレは無視してきたと思われる。

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1196423460928360450

因みに、いま日本政府が「IPSストック事業(山中伸弥氏)」への支援を0レベルへ減額したことの大きな衝撃が拡がっているようだが(20191118日経)、これは日本政府がこのような意味でのエルゴン・レベルの、言い換えればプレ潜在価値(=未生の“±価値”/プレ潜性(可能)態)について全く無関心か、あるいは無知である(新自由主義の短絡である目先主義に嵌ったままでいる)ことの証拠のように思われる。実に勿体ないことだが、これでは、既にこのような視点に気づき先手を打っている海外との競争で負け続けるのが必至である。 ⇒ Cf.「iPS備蓄事業、予算減額案 山中氏「非常に厳しい」1118日https://s.nikkei.com/2pnWiXG

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199893666476675072

f:id:toxandoria:20191128124712p:plain・・・1~6の記述内容は下記URLをクリック!で読めます。https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199258765045813251

しかも、AI・IPSらの先端科学技術分野への理解に止まらず、これと似たような意味では、「日本の政治権力トップも、投資家も、経営者も、一般国民も、その悉くが『アナクロ安倍サクラ内閣』のノリで、致命的にピント外れの時代遅れ」となっていることは空恐ろしいバカリである。

ともかくも、重要なのは、このような意味での[(2)デュナミス(潜在性・潜勢(可能)態/du(y)namis/未生の“+価値”(付加価値創造1))]は無論のこと、ツヴェタン・トドロフが説く如く「日常」を最重視しつつ生きた17世紀『レンブラントの時代』の新興市民層の人々が、おそらく[(2)デュナミス(潜在性・潜勢態(可能)態/du(y)namis/未生の+価値(付加価値創造1))]へも気付いていた可能性が高いことを思うと非常に感慨深い思いがする。そして、その理解のためのキーワードが『オランダの光である

(3)17世紀『レンブラントの時代』から続くオランダの光は代替不能なエトノス環境の無限の可能性の象徴

・・・“オランダの光”は、“機械”生産デュナミスと“日常エルゴン”(プレ生産デュナミス)発見の培地・・・

 

・・・画像[オランダの光]は、ピーターリム・デ・クローンの映画『オランダの光』http://urx.blue/zoq3より


Hollands Licht (Documentaire)

 

オランダの干拓の歴史は同時に排水技術と灌漑技術の長い歴史でもあった。当然ながら、いったん干拓で造成された土地は排水しなければ再び水没するし、灌漑で清潔な水を導かなければ生活も農作物も牧畜も成り立たない。また、生活廃水や屎尿などの汚水処理についても特に意識的な取り組みが必要であった。

現在、オランダ南西部に位置するロッテルダム郊外のキンデルダイクはオランダ国内で最も多くの水車が見られる場所として名高い所であり、ユネスコは、1997年、このキンデルダイクからエルスハウトに連なる風車ネットワーク地帯を「世界遺産」に認定している。

この地域にある風車は、中世以来、農地や牧草地に水を導く灌漑や余分の水を排水するための灌漑・排水設備として建設されてきたものであり、現在までに開発されたあらゆる関連技術が保存・活用されている。それは、まさに水と共存してきたオランダの人々の悠久の歴史の積み重ねである。

地下水道や下水道の歴史は古いものではメソポタミアのウル、バビロン遺跡やインダス文明モヘンジョダロ遺跡あたりまで遡るようだが、これら古代の下水道は、その末端が都市の外部の遠くまでは伸びておらず、途中の沈殿池から地下へ自然浸透させたものであった。しかし、ネーデルラントでは現代のような完全に化学的な汚・排水処理システムではなかった(つまり、最終的には海や河川へ流すものであった)にしても、既に中世から汚水を専用に排水する排水溝が作られていた。

・・・「The Arnolfini Portrait」the National Gallery, London, 1434 (Wikipedia

このため、15、16世紀頃のパリ、ロンドンなどの市街で糞尿まみれの汚水が垂れ流され臭気芬々たる有様であった時代に、オランダの都市では、舗装が行き届かなかったため泥まみれではあっても糞尿まみれにはならなかったとされる。ただ、低地であるため絶えず浸水と汚泥の侵入には悩まされており、ヤン・ファン・アイク『アルノルフィーニ夫妻像』(1434/テンペラ画/ロンドン・ナショナルギャラリー)の画中に描いてあるような木靴(靴の上からサンダルのように重ねて履き、道路を歩くときに汚泥を防ぐ)が利用されていた。

このようにオランダはヨーロッパ中で最も港湾土木技術及び排水施設関連の技術が発達していた。そのため20世紀に入ってからもオランダでは真空式集落排水システムや酸化溝構造など近代的な化学的排水処理施設を備えた下水道が世界で最も早く整備されている。また、日本の明治維新・政府がオランダの技術者を招聘して港湾・下水道整備などの近代的な土木技術を学んだことは周知のとおりである。今でも世界の下水道普及率はオランダ98%、イギリス96%、スウエーデン93%、ドイツ92%、カナダ91%、アメリカ71%、日本64%となっており、オランダの普及率が郡を抜いている。

(4)17世紀ヨーロッパ大陸で日常のエルゴンに無限の多様性(可能性)をもたらすステージを提供した出版・新聞ジャーナリズムの概要

Picture of a copy of the Gutenberg Bibl owned by the US Library of Congress  ・・・画像はウィキ(USA)より

先ず出版につい見ておくと、1445年に近隣の都市マインツグーテンベルク活版印刷術を発明するや、途端に印刷・出版の大ブームがヨーロッパ中に湧き起こることになるが、まず他の諸都市に先駆けフランクフルトで「書籍市(ブーフ・メッセ)」が行われるようになり、それが今の「フランクフルト・ブックフェアー」(毎年行われる世界最大の書籍市)に繋がっていることを忘れることができない。

 

アントワープブリュッセルの北方約50kmに位置する、今は人口が約50万人のベルギー第二の都市)にあり、ルネサンスバロック時代にまで歴史が遡る「プランタン=モレトウス印刷所」の活躍も想起すべきであろう。現在、それは「プランタン=モレトウス印刷博物館」として残されている(画像はhttps://blog.goo.ne.jp/hidamari-reading-uk/e/8e9fc8cd0b04bbe224c7d1989d7dcd58より)。

当然、このような動きはネーデルラント(オランダ、ベルギー)、ドイツ、フランスなど欧州の中央部に留まることはなく、それは東欧へも及んでいる。例えば、1468年に“ボヘミア最古の本”とされる『トロヤ年代記』がプルゼニPlzen/今はボヘミア地方の西部にありプラハ、ブルノ、オストラバに次ぐ第4の都市)で印刷され1516世紀ボヘミアの印刷・製本術は非常に高度な技術に到達していた。16世紀のチェコではヤン・ブラホスラフ(Jan Blahoslav宗教改革家)がチェコ語文法の研究を進め、聖書のチェコ語への翻訳も完成させた。

このように16世紀のチェコではフスが形を整えたチェコ語(チェコ人の口語)ボヘミア公用語としての地位を獲得することとなり、フス、ヘルチェッキー、ボヘミア同胞兄弟団、ブラホスラフらの平和主義と高度な精神性が個性的なチェコ文化の実りをもたらした。無論、同様の出版に関わる傾向は欧州全体に広がり啓蒙思想や諸知識の深化・拡大に貢献した。

一方、インキュナブラ(incunabula/凡そ1500年より前に発行された金属活字の低精度の出版物)の時代から「かわら版」的な素朴な刷り物は出ていたが、世界で最初の「ほぼ今の形の新聞」は 1605 年にドイツのストラスブルグでヨハン・カロルス(Johann Carolus/1575-1634)が発行した「Relation aller Fürnemmen und gedenckwürdigenHistorien」とされている。欧州ではその後も各国で多数の新聞が刊行され,それらは欧州の歴史と文化を記録する貴重な資料となってきた(出典、画像(当新聞の表紙ページ)ともにhttps://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Carolus より)

最初のうち、その始まったばかりの新聞の利用者は主に商人であったが(フッガー家らの関係者によるビジネス通信(newsletter)としての利用)、やがて、それは商人以外へと、つまり貴族らの統治者、外交官、軍人、学者、聖職者らへと拡がっていった。元々、彼らは個々に秘密の情報交信の手段を持っていたのだが、次第に彼らも商人が通信員間の情報連絡の手段として使い始めた新聞を利用するようになったと考えられる。

フランスではブルボン絶対王政の統治(以降、1789年まで続くアンシャンレジーム)下でルイ13世の時に最初の定期刊行物(月刊、週刊、最後は日刊となる官報的性格の新聞)である「La Gazetteが創刊され(1631)、これが1789年の大革命まで続いた(発行部数は17世紀を通じ約1,200部)。民間では1777.1.1から1789年の大革命まで続いたフランス唯一の日刊新聞「Le Journal de Paris」がある(@フランスのジャーナリズム、http://pweb.cc.sophia.ac.jp/s-yuga/gakubu/FJ2lec15.htm#07)。

一方、フロンドの乱/1648 - 1653」を契機にパンフレット新聞「クリン」が発行され(おそらくフロンドの乱が象徴するアンシャンレジームの矛盾に対する反動?/補、toxandoria)、これがフランスの政治ジャーナリズムの始まりとされる。やがて、文学的ジャーナリズムや『学者新聞(Journal des Savants)』ほか多くの小プレスが現れるが、その頃からモラリストの活躍が活発になったと考えられる(@同上/モラリストの活躍、の部分はtoxandoriaの補足)。

<参考>16~17世紀ころの識字率についての考え方・・・全ての人々を統計対象とする、現代的な意味での識字率は不明であるが、例えばここで取り上げた「貴族らの統治者、外交官、軍人、学者、聖職者ら」を対象に考えれば非常に高度な識字率であったと思われる。また、ネーデルラントのオランダ共和国のように経済力を身につけた市民層が勃興した地域では、当然、フランスのモラリスト啓蒙思想(黎明期)の影響も受けつつ、平均的な識字率が高まっていったと思われる。因みに、記録の残っている都市部の男性に限定すれば、高い識字率を誇る都市は印刷技術の発明以前より存在しており、例えば16紀末のヴェネツィアでは33%ほどあったし,1530年のヨークでは20--25%ほどあった。が、やがてこのヨークの男性識字率は、16世紀末までには41%へと跳ね上がっている(参照資料↓★)。

★『hellog~英語史ブログ』16世紀イングランド識字率http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2017-12-02-1.html

・・・

なお、16~17世紀における欧州の新聞をめぐり非常に重要と思われる新聞の「そもそもの意義と役割」についての情報があるので、その内容をアレンジしつつ以下に部分転載しておく。[情報源:《研究ノート》ドイツ語圏活字メディアの歴史について ―新聞を中心に―北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 教授/江口 豊 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/53603/1/JIMCT_1701_eguchi.pdf・・・

・・・オランダ(1618~1620)、イギリス(1620~1622)、スウェーデン(1624)、イタリア(1643)と、ヨーロッパ各国に続々と「週間」新聞が広まった。当時の新聞の普及に関しては、平均すると350部から400部程度が印刷・配布部数であったこと(例外的に1,000部以上の多数もあるが)、また郵便での配達、独自の配達員の配達、売店・印刷所での手渡・販売の手段などがあったことが知られている。

・・・その後、新聞は一週間に一回から複数回へと刊行のペースを上げていき、1650年にドイツの都市ライプツィヒで日刊紙「Einkommende Zeitungen」が登場している。17世紀の段階ですでに読者層も「エリート層たる宮廷関係者、高級官吏、軍人、聖職者、学者」から「市民層たる医師、技術者、詩人、一般商人、兵士、船員など」に拡大したとされる。

・・・とはいえ、新聞の年間購読料は比較的高価(ほぼ職人の一週間分の賃金に相当する)なものなので「講読サークルが結成され二桁の構成員が共同で講読し分担する形がとられていたことも報告されている。(因みに、この時代の新聞が非常に高価格であった理由の主な理由は部数が少なかったのに加え、客観的な情報が拡散することを懸念した統治者側が情報統制の目的で,何らかの理由付けの上で 高率の税を課したことに因ると思われる。つまり、初めは検閲と威圧を兼ねスタンプを押していた?(Ex.18世紀初頭~の英国の印紙税など(委細、後述)←補、toxandoria)。

・・・17世紀後半には(北ドイツの)ハンブルクアルトナでは名望のある大学出で資質の高い人物が新聞事業で活動し始めている。情報に富んだ興味深い新聞を製作するためには、当然のことながら完璧に読み書きができるだけではなく、外国の通信や新聞を加工処理できるだけの外国語の知識をもたねばならなかった、と指摘する研究者もいる。

・・・17世紀に登場した新聞は、それに続く18世紀以降の量的な拡大・膨張にともない報道の質にも大きな変化が現れ始めた。例えば「18世紀後半で一週間にのべ30万部の新聞が読まれたが」、それは、「聖書とキリスト教の公教要理を除けばもっとも読まれた」ものであることを指摘した研究もある。まさにこうした状況こそ「新聞が啓蒙主義の時代を準備した17世紀の最も重要な媒体の一つだ」という指摘がなされる理由である。

・・・というのも、世界に関する知識と世界の認識に役立つ専門的な情報をタイムリーな時間経過の中で定期的・継続的に新聞が伝えることにより、国務や軍事を司るメカニズム、すなわち「ヨーロッパに関係する諸事件の関連を理解させる」というプロセスのなかで読者層の根本的変質を促したからである。1637年には「普通の人間が新聞により統治者を批判することを覚えたのだ」という記録がのこっていることが確認されている

 “曲解”された“逆説の風刺”?マンデヴィル『蜂の寓話』の真意を探る

 (1)『蜂の寓話』が出版された18世紀前半の英国(初期啓蒙主義)の空気

フランスでは「フロンドの乱1648 - 1653」を契機にアンシャンレジームに亀裂が入り始め、やがて、その17世紀の半ば頃からフランスに政治ジャーナリズムが出現しており、同時に文学的ジャーナリズム、『学者新聞(Journal des Savants)』など多くの小プレスも現れたことは前節で触れた

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重要なのは、同じその17世紀の半ば頃にフランスでモラリストたちが現れており、彼らが、そもそもイギリスの影響を受けて本格的に始まったと見るべき18世紀のフランス啓蒙思想(J.J.ルソーら)を深化させる先駆けとなっと思われることだ。マンデヴィル『蜂の寓話』(叢書ウニベルシタス)が出版された18世紀の初頭の頃は、そのような意味でイギリスとフランスの啓蒙思想が往還的に影響し合っている時代(啓蒙主義前期)であったということになる。

このような18世紀前半頃のイギリスにおける啓蒙主義前期の空気に満ちた時代のエトノス感を更に補強するため、歴史的な出来事について少し触れておくことにする。

・・・

三回におよぶ海戦中心の英蘭戦争(17世紀後半)で、英国が勝利しオランダは海洋権益を失いその黄金時代(レンブラントの時代)が終わる。しかし、名誉革命(1688)の後には縁戚関係からオランダ総督ウィレム3世イングランドウィリアム3世として迎えた。

  • 産業革命をめぐる状況・・・1709:ダービーがコークスによる製鉄法を発明、1710:ニューコメンが炭鉱での排水用の気圧機関を発明、1733:ジョン・ケイが飛び杼を発明、ハーグリーブスがジェニー紡績機を発明、アークライトが水力紡績機を発明、ジャーム ・ワットが蒸気機関を改良、etc

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White's Coffee House formed part of William Hogarth's series The Rake's Progress CREDIT: 2005 GETTY IMAGES/HULTON ARCHIVE https://www.telegraph.co.uk/travel/destinations/europe/united-kingdom/england/london/articles/surprising-history-of-london-chocolate-houses/

  • 17世紀の半ば以降のロンドンでは、18世紀がコーヒーハウス(新聞など現代的マスメディア活動の揺籃の場)のピークとなり、広く庶民へ行き渡る「新聞」情報の普及が見られるようになっていたが、その反面で言論の矛先になる権力者側からの反動もあって、印紙税(言論規制のツール)などをめぐり激しい攻防が繰り返されていた。

https://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/65/65-ch10.pdf

新聞の刊行をめぐる状況>・・・日刊新聞「London Daily Courant」が1702~発行/政党新聞、政党機関紙の登場(政論新聞時代の幕開け)/エッセーペーパー:文学的刊行物(literary periodicals)が刊行/1712~印紙税:Tax on Knowledge(知識に対する課税)が導入、1725~捺印税:Stamp Actが導入、1731~月刊雑誌 Gentleman's magazineが刊行、1738~議会での討論内容の掲載が禁止、1771年~今度は、議会報道が許される、etc


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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1198210327290105858

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1198404264462180352

【参考資料:QT/上の時代に続く、19世紀初頭~における「英国議会」Vs「新聞ジャーナリズム」なる激烈な“国民主権、国家に次ぐ第三権力たる新聞の批判力を巡る覇権闘争史”の一コマ

・・・一強アベ政権下の日本の最大の危機は、国民とジャーナリズムが“此の当然の主権を放棄している”こと!・・・

・・・1819年、議会は聖ピーター教会広場で開かれた政治集会を弾圧し(ピータールーの虐殺)、言論弾圧六法(Six Act)で統制を強化、数年のあいだに125のラディカル・プレスが罪に問われ、無害な新聞には補助金が与えられた。これによって「品のよい」新聞『タイムズ』の成長と「20年代の政治的平穏」が訪れる。

・・・だがラディカル・プレスは1830年代によみがえる。その象徴となった1ペニーの『プアマンズ・ガーディアン』(1831-1835)をはじめ、違法な新聞は5年あまりで500種以上、1日7万部以上にのぼった。これは合法な新聞を上回る数字であった。スタンプ税法反対、労働闘争、選挙法改正を掲げた運動は、1830年代以降の改革を先導する。第1回選挙法改正(1832)、工場法制定(1833)、救貧法改正(1834)、都市自治体法制定(1835)、そしてスタンプ税法下の広告税引き下げ(1833)、スタンプ税と用紙税の引き下げ(1836)と、労働福祉政策が相次ぐが、その改革の不十分さは逆に労働者階級の意識を高め、その後のチャーティスト運動の盛り上がりにつながっていくことになる」(伊藤[2014:95-96]) [種村 剛:社会情報学の基本資料、新聞、http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/3S/si_newspaper.html]より部分転載。

・・・

オランダ・ロッテルダム生まれの脳神経系統を専門とする医師マンデヴィル(Bernard de Mandeville/1670 - 1733)は、そのような時代の空気が流れる18世紀初頭のロンドンヘオランダから移住し(そもそもは英吾を学ぶのが目的であったとされる)、開業医(今で言えば心療内科医?/ライデン大学で哲学の学位と医学博士の学位を取得)となり、そこで結婚し、遂には永住することになった。

(2)『蜂の寓話』は「エルゴンへの気付きと指導層の覚醒を促す“逆説の風刺”」であると見るべき理由

 (マンデヴィル『蜂の寓話』の解釈で主流となっている考え方/当記事は、敢えてそれへアンチ・テーゼのスタンスを採る)

 

https://twitter.com/GoofySmile4/status/1197362574758531072

悪徳こそが、実は経済活力の充実・持続発展と、当時17~18世紀のマーカンティリズム(重商主義mercantilism/典型的な自国第一の保護主義)時代の国力の伸長のために、そればかりか慈善(社会厚生)のためにすら十分に役立っている”という事実について、それを人々が直視し理解できるようにとマンデヴィルが皮肉を込めて風刺的に書いたものだ、と一般的には理解されているようだ。普通に言えば、もっぱら“善”だけを評価せず、たまには“悪”の効用の側面にも目配りが必要だ!と辛辣に(しかも、シニカル(つまり、やや遠慮がち)に?苦w)皮肉ったということになる。

 

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そして、その何よりの証拠が、この『蜂の寓話』の副題が<私益すなわち公益>と、当時の常識の真逆になっている(無論、今も建前上はそうであるはずだが?)ことだ。驚くきべきことに、今の日本ではこのこと(マンデヴィルの私益すなわち公益)をマジで率先実行しているファッショ・スタイルのアベ一強政権が肩で風を切りつつ一強独裁支配しているようだ。w

 そして、“人間の内心に潜む私益(ここでは、私益と自愛が究極の悪徳だとされている!)をはじめ凡ゆる悪徳、すなわち功利、蓄財、あるいはこれらと全く異質な“他人を喜ばす忖度と諂い(おべっか、追従)”が、それだけで毅然とした自負心までもがマンデヴィルによれば悪徳に入る。しかも、今の安倍政権の「我が世の春を謳歌する日々で舞い上がる」が如きあまりにも醜悪(淫獣リバイアタン/レヴィアタン)化した一強ブリを此処まで見せつけられると、マンデヴィルが自負心を悪徳のジャンルに入れたことが驚くべきほどの慧眼に思えてくる!w

例えば、米田昇平・大阪産業大学教授(経済思想史)は、「マンデヴィルは宗教の羈絆を逃れ,功利主義的な社会認識を徹底しようとしたが、しかし他方ではアウグスティヌス主義に基づくリゴリスム(道徳的厳格主義)の人間観に囚われていたから、人間の悪が結果的に公共善をもたらすという逆説を弄せざるを得ない、それゆえ彼らの論説にはおのずからシニシズムの影がまとわりつくことになる。」と述べている(出典:経済学の起源とアウグスティヌス主義―17 世紀後半のフランス思想を中心に―米田昇平、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet/51/2/51_68/_pdf/-char/en)。

 そこで、自負心についてである。ここでは、一応、マンデヴィルの主張をそのまま書いておいたが、さすがに自負心を悪徳のジャンルに入れるのは可成り難しいと思われる。しかし、敢えてマンデヴィルが「自負心」を悪徳の仲間へ押し込んだのは、そこに何か隠された意図があるからではないか、と思われる。

(3)ピエール・ベール(啓蒙思想の先駆け/おそらく遥かに時間を先取りしたエトノス観の先駆者でもあった?)の系譜としてのマンデヴィル 

マンデヴィルに大きな影響を与えたともされる『歴史批評辞典』ほかを著し神学的な歴史観を懐疑的に分析した(無神論者ではなくユグノーピエール・ベール(Pierre Bayle/1647 - 1706/哲学者・思想家)は欧州「啓蒙思想」の先駆けとなった人物として知られる。因みに、わが国で初めて本格的にピエール・ベールの人物像などを紹介したものに、下記(◆)「メゾー,ピエール・デ著書の翻訳」(野沢 協/訳:叢書ウニベルシタス)がある。

 

◆ピエール・デ メゾー 、野沢 協 ・訳『ピエール・ベール伝』(法政大学出版会)・・・Pierre des Maizeaux, also spelled Desmaizeaux (c. 1666 or 1673 – June 1745), was a French Huguenot writer exiled in London, best known as the translator and biographer of Pierre Bayle.https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_des_Maizeaux

・・・メゾー,ピエール・デ(1673‐1745):フランスのオーヴェルニュ地方に牧師の子として生まれ、宗教迫害により12歳でスイスへ亡命、ジュネーヴ大学で学ぶ。卒業後、オランダを経てイギリスへ渡り、ロンドンに定住。途中、1699年にロッテルダムでピエール・ベールと会い、それ以後ベールが死ぬまで頻繁に文通して、晩年のベールの親友だった。イギリスではジャーナリスト、出版人として活動し、18世紀初頭からフランスやオランダの新聞雑誌にイギリスの文芸・思想を系統的に紹介、英仏間の文化交流に大きな役割を演じた。http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-00816-0.html

 ・・・

 第2章でも少し触れた平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/京都大学・経済論叢:第89巻‐第2号』によると、ベールはシャフツベリー(その委細は次節で)と同じく「宗教、理性、人間性一般」の三者は決して対等に適合し得るものではなく、いわば現代的なコンシリエンス(例えば、第2章で触れたG.シモンドン『個体化の哲学』など)の概念で言えば「異なる系が相転移する」ような関係性ということであった、と思われる。

おそらく、このことを人文・社会・科学・AI関連知などが深化したと言う謂いでの“現代的”な理解で更に読み直すと、「宗教、理性、人間性一般」の三者は、何らかの表象・概念の統合であるから、三者を優劣の比較で認知できるものではなく、これは一般の生物ならぬヒトの意識ゆえの賜物であるということになるかもしれない。

つまり、それはエトノス観念に置き換えることが可能となるはずである。同じく同論文によれば、重要なのはオランダ人でありながらロンドンへ移住(定住)したマンデヴィルと、それとほぼ同時期にオランダへ短期滞在した経験をもつシャフツベリーが、共に、そのようなピエール・ベールの思想の影響を受けていたらしい、ということである。

ところで、ピエール・ベールの思想で絶対に押さえるべきと思われる枢要なポイントは先ず宗教についての個所であろう。上掲の平井俊彦/論文によれば、ピエール・ベールは「経験と啓示宗教は全く異なる領域であり、例えば旧キリスト教(当時のローマ・カトリック教会)は原罪説や恩調説を人間性の自然に強制するに過ぎないが、一方で人間の本性は自然に根ざしている。」と述べている。

 しかし、ユグノー(改革派)のベールが実は無神論者だったと見るのは短絡である。そうではなくベールは「宗教、理性、人間性三者は何らかの表象の統合であるから三者を優劣の比較で認知はできない」と考える宗教的自由主義リベラリズム)であったと思われる。又べールは「人間性の自然」の表現で自然の一部の関係性の個体における一回性の現れが人間性の正体だとも説明する。おそらく前者は政教分離への長い道程の端緒で、後者は同じく基本権のルーツになったと考えられる。

だからこそ、ピエール・ベールは「これら種々の人間性の多くを占め、かつこれら人間性の諸相が浮かぶ海の如く流動的なプラットフォームである感情の作用」を最も重視したと考えられるのだ。そして、オランダでの生活と研究の経験によって、かつ何らかの交流の可能性すら窺われるマンデヴィルとシャフツベリー(委細は次節で書く)がピエール・ベールの「感情の作用を最も重視する」考え方を深く共有していた可能性が高いと思われる。

しかし、同じピエール・ベールの人間性(自然の一部としての)の要とでも言うべき「感情の海」を共有しつつ、マンデヴィルは自然の一部である人間性の「悪」の成分の分析へ、シャフツベリーは「善」の分析へと、何かを契機として、夫々の関心が異なる方向へ傾斜することになったようだ。

おそらく、その契機となったのは、シャフツベリーの貴族の系譜ゆえの「上からの美学」的な、つまり抽象論的・概念論的な視座であり、マンデヴィルの場合は生粋のオランダ人としての(それはそろそろ黄昏の時ではあったにしても)、あの栄光に輝いた時代(17世紀・レンブラントの時代)の残照の中で『日常のエルゴン=±を併せ持つプレデュナミス潜在性・潜勢態』という<活気の土壌>を経験したことではなかったか?と思われる。

因みに、それはおそらくピエール・ベールが気づいていたと思われる、現代で言えば「エトノスorコンシリエンス」的な視座から、つまり「人文・科学両知を統合的に適用しつつ内外自然のトータルまでをも取り込んだ広角の視点」から大きく俯瞰すれば、これからも啓蒙思想史のなかで新しい意味が発見され続けるのではないだろうかということである。

 啓蒙思想の先駆けと見なされるピエール・ベールがフランスで活躍したのは17世紀の後半であるが、それはフランスのアンシャンレジームに初めて動揺を与えることとなった「フロンドの乱/1648 - 1653」を契機に台頭した初期モラリストの時期と重なっている。モラリストたちの思考の特性は「定型化した論証や規範的な言説」を否定する点にあるが、それはベールの中世的・神学的な歴史観(神の意思や神の恩寵に因るドグマ)を否定する立場とほぼ同じである。

つまり、現実の世界は「キリスト教の定型化した論証や規範的な言説」で全ての説明がつくほど単純でないことが、アンシャンレジームの動揺や科学革命による知の深化・多様化によって理解されるようになってきた。同時に、神の視座から解放されることで、新たに歴史的・政治的に共通した歴史的・普遍的な構造があり得ることにも気付く人々が次第に増えていった。

しかし、これら歴史にも裏付けられた普遍的な概念(理想)と、今は普遍的と思しき国家制度(政体)であっても永久に完全無欠ではあり得ないので、絶えず、個々の現実的な、より厳しいリアル事象とエトノス観念の深化に照らし続ける必要がある。

このことに逸早く気づいたのが英国政治の動向に関心を向けアンシャンレジームを批判して均衡・抑制を重視する「権力分立制」を提唱したのがモンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu/1689 - 1755)である。そのためモンテスキューは普遍理念の次元を一気に高精度化することに努め、高精度の制度として「三権分立」(権力分立の典型)を着想した。

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つまり、モンテスキューにとり「三権分立」は只のお飾りの制度ではなく、喩えれば絶えず酷使されるべきエンジンの如き存在であるのだ。そして、国民も、主要ジャーナリズムも、肝心の政権政党の立場の政治家たちも、あるいは国民に奉仕する公僕であるべき官僚(司法・官憲もろとも)たちまでもが、ことごとく此のモンテスキューの根本(法の精神)を忘れ去っているのが「レンブラントの時代ならぬ?アベ様一強の時代」とかで我が世の春を謳歌しサクラ見物でうつつを抜かしている?、そして多数派層の国民が、何故か?そのアベ様へひたすら忖度し続けている>のが今の日本の現実(virtualならぬnominal reality?w)であるようだ(virtual reality=実在はしないが実質的に機能する意味での現実/nominal reality=名バカりの現実)。

風刺『蜂の寓話』の標的は、シャフツベリー「モラル・センス」を「社交術(忖度)」で弄び、「私益」のためそれを政治利用する指導層の怠慢

・・・シャフツベリーはモラル・センス派の創始者だが、マンデヴィルは英国の指導層を仏アンシャンレジームに匹敵する時代遅れ(日常エルゴンと“17C機械”生産デュナミス潜在性・潜勢態の無視)と見ていた可能性が高い。・・・

(1)マンデヴィル『蜂の寓話』の悪徳が意味すること(先端知に照らした解釈)

ニッコロ・マキャベリ(Niccolò Machiavelli/1469 - 1527)の『君主論』によれば、君主に求められる資質は少しでもフォルトゥナ(運命/Fortuna)に先手を打てる深い洞察力に裏付けられつつ決断し、それを確実に実行する力、つまりヴィルトゥ(virtu)であり、そこで更に必須となるものが、その実行力を保証する基(もとい)である「自負心」が重要となるという訳だ。

いわば、「自負心」とは「ヒトの内外の自然の本性において優勢な悪のパワーと、引けを取らずに対峙できる、換言すれば、その悪をも飲み込み滋養としてしまう先見性と実行力が君主たる人物の必須条件」だということになる。しかし、そこには「±、又は善・悪の両者が併存する“オランダの光”の謂いでのエルゴン(プレデュナミス潜在性)」の観念が未だ存在せず、その意味でのエルゴンの理解はマンデヴィル『蜂の寓話』の執筆を待たなければならなかっ、と考えられる

そして、その自負心とは「美徳をあわせもつ強い意志」のことであった。その美徳(virtue)には徳(性)・善・長所・貞節などの意味であるが、関連語virtuには“美術品”の意味が、同じくvirtualには“現実に存在しないが機能・効果としては実質的に存在する(今はIT用語としての“仮想現実の“仮想””→virtual reality)”および“虚な”の意味がある。因みに、virtualの反対語はnominal(名目上の)の意味である。

しかし、同じ18世紀初頭の啓蒙主義前期の空気を共有しつつも、マンデヴィルがシャフツべリ(第3代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー/Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesbury/1671 – 1713/哲学者)らと決定的に違っていたのは、マンデヴィルが啓蒙期の国家発展の「動因たるべきものへ的確に照準を定め点火し、その後の稼動の効果的な促進の見届け」に責任を持つべき支配層(特に立憲君主国の最高権力者)に此のマキャベリの意味でのヴィルトゥ(君主の資質条件の読み替え)を強く迫る点にある、と考えられる

おそらく、マンデヴィルはこの「美徳をあわせもつ」という自負心の性質に因って、「自負心」に纏わる善とも悪とも言い難い“両義性”について気づいていたのかもしれない。無論、それが19世紀後半~19世紀の博物学フンボルトの用語「エルゴン」の両義性(±を併せ持つプレデュナミス潜在性)の意味として捉えていたかどうかは定かでない。いずれにせよ、このことはマンデヴィルが“『蜂の寓話』(叢書ウニベルシタス)の不評に対する弁明”のために書いた『続・蜂の寓話』を読めば納得できるはずである。

つまり、この『続・蜂の寓話』は<正編が社会に与えた影響があまりにも大きく予想以上に批判が拡大したため(具体的には、出版された1723年に正編を誹謗する(『私益すなわち公益』などと主張し善良な人々を誑かすのは何ごとか、とばかりに!←<注>現下の日本なら、さぞかし『アベ様らの公費での私腹肥しすなわち公益』とは何ごとか!であろうか?w)C閣下あての書簡(ミドルセックス州大陪審が出したもの)の内容が「ロンドン・ジャーナル」に掲載されたこと>が契機となり、それへの弁明として書かれたものであった。

従って、マンデヴィル『蜂の寓話』は矢張りあくまでも悪徳のエルゴン的なもの(経済的な付加価値を持続的に創造する絶大なる、±が共存する潜在力の宝庫であること)を前面へ押し出しつつも、シャフツべリの楽観的で予定調和的な自然観がベースの世界・社会観(啓蒙主義前期の空気の主流)に対し、ホッブス自然権」と「オランダの光」(自身のオランダでの“日常”経験)を参照しつつ、自律的な美学を伴うヴィルトゥオーソ(virtuoso/女性形virtuosa/傑出した演奏の達人)への脱皮を求める、いわば産業革命期の「蜜蜂コロニーならぬ人間社会」に相応しい指導層の生き方を求める、そのような意味で逆説的な批判の書であった」と見るべきではなかろうか・・・以上のために参照した資料:内田義彦(経済学者)「社会認識の歩み」、ほか http://classic.music.coocan.jp/_book/shakaishiso/uchida/machiavelli.htm

f:id:toxandoria:20191129043350p:plain因みに、フンボルトの用語「エルゴン」の両義性(善と悪、又は ± を併せて持つプレデュナミス潜在性)との関連で無視できないのが現象学的「主観性」研究の分野で世界をリードする研究者、ダン・ザハヴィ(Dan Zahavi/1967‐ /デンマークの哲学者・現象学者)の『誠実さを蔑む“悪”魔的主観性の病理』という問題提起である(画像はウイキ)。

言い換えれば、これは<現代の世界で問題となっている、極右化のトレンドが共有する一般社会などの人間集団における内集団バイアスによる「無媒介的認知的自己意識」増幅の問題>ということになる。そして、「無媒介的認知的」とはほぼ「無意識」に相当

 

する概念と考えて間違いではないが、実際には、それよりも遥かに広大な概念であり、敢えて乱暴に比喩的な表現を使うならば。それはヒトの「内外エトノス環境下における、意識化される寸前の自己意識」ということになるだろう。

ダン・ザハヴィ『自己意識と他性/現象学的探求』(叢書ウニベルシタス)の訳者、中村拓也氏(同志社大学文学部准教授)の同書“あとがき”によれば、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)>は、往々にして哲学的思考などで見られる難解な概念の捏造ではなく、それは体験的な偏在性として誰にでも日常的に起こり得る主観的「自己—顕現」(個々人の内感フィールドにおける自己覚醒)レベルの問題、つまり個々人の「主観性の核心」を抉り、それを『感情の現象学』的な立場で説明し得る堅牢な言葉である

例えば、近年、世界的に問題となりつつあるネオ・ナチズムなど極右政治勢力(欧米各国の極右派、日本における日本会議(周知のとおり、それは靖国顕幽論の取り戻しと国家神道への回帰を謀る安倍自民党政権の守護神!)などが急速に台頭しつつある政治状況の深層には、M.アンリの「情感の現象学」のテーマとも深く関わる問題が潜む可能性があり、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識>が重要なテーマとして注目されている(《注記》無媒介的認知的は、言語等の意識的コミュニケーション介在が存在しない次元、いわば其れ以外の多様な回路でエトノス環境の影響下にある、無意識等の認知作用のこと、とも言える/この側面から見ると、この概念は言語哲学の選言説(論) or マクダウエル『リアリズム倫理』らの問題とも深く共鳴している。Cf.両者の委細は下記↓◆、参照)。

コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)/付、選言説とは?https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

因みに、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの作品「浮世の画家」が、実は、戦前・戦中期に日本全体を覆っていたアベ的なもの、つまり<怪奇極右幻想(追憶のカルト)なる特異な政治・宗教観念である『靖国顕幽論』>に潜む、戦前・戦中期日本人の心の闇を抉ったものである。

そして、その心の闇の奥に鎮座するのが、同じくイシグロの作品忘れられた巨人」が言うところの“復讐の先取りという感情の最深部の底流、いわば無媒介的認知的自己意識”の病理である。それは妄想的愛国心と復讐の先取りの情念に溺れる記憶の闇の奥底に揺蕩う、甘美で浪漫主義的なものでありつつも、実は、奇怪で異常な感情の流れであったということだ。

これは、古典的デカルトな立場での研究は絶対に承認しようとしないことであるが、ザハヴィは<ある一定のエトノス的な、別に言えば『大文字の“生”』の影響下にあるという意味で“先反省”的な複合性と多様性を、自我の「生」(個々の生命力の核心)に対する作用因として、ヒュレー(質量)分析の手法で帰属させたM.アンリの実質的現象学(情感の現象学/委細、↓★参照)を高く再評価している。更に、近未来を見据えるザハヴィは、無意識、催眠、記憶、倫理学・美学(レヴィナス、ガダマー、ディーター・ヘンリッヒなど)、先端AI研究、脳科学などもその視野に入れつつある。

★M.アンリ『情感の現象学』から見える『感情の政治学』の可能性 https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20171109/p1

ともかくも、これらコンシリエンスな先端知の成果なども十分に取り入れつつ、約300年前にマンデヴィルが“逆説の風刺”『蜂の寓話』で提起していた、「人間社会の無限の可能性を暗示するエルゴン(フンボルトの用語で言えば)の問題(源流は“オランダの光”の中における『日常の意義』の発見にある!)への気付きと新自由主義が「善と悪」に関わる現実を無視した虚偽(エセ経済理論)であることの暴露、およびネオ・ファッショへ走りがちな指導層の覚醒を促すことの重要性」を再考すべき時代に入ったといえるのではなかろうか。

(2)マンデヴィルが標的としたシャフツベリーのモラル・センス

・・・画像はウイキより。

・・・シャフツベリー『モラル・センス』とその底流となる多様な思潮・・

 

『続・蜂の寓話』の“訳者あとがき”を参照しつつ、委細は省くがシャフツベリー「モラル・センス」の要点を、下に箇条書きしておく。

前提:性善説(マンデヴィルの性悪説と対称、とされる)に基づく利他主義

人間の行為を規定する感情の分類:

(1)自然感情・・・利他的・生得的である。

(2)自己感情・・・利己的であるが、自然感情とバランスを保てる程度のものなら、悪徳とは言えない。このバランスを取っているのがモラル・センス。正邪の感覚と良心を先天的に備えている。モラル・センスに支えられる人は「宇宙全体と調和している。その調和的な世界は倫理的なので、道徳はキリスト教世界から区別され自律的となる。一方、神は宇宙に内在する原理となってスピノザ的な汎神論の世界となり、神的生命力にあふれる統一体をなしている。

(3)不自然感情(人間嫌いなど・・・論外)

 ・・・

ここで視点を変え、近代美学史の観点からシャフツベリーを俯瞰すると更にその特徴、つまりマンデヴィルとの違いが際立ってくるのではないかと思われる。それと同時にマンデヴィルがシャフツベリーの「モラル・センス」(端的に言えば精密な抽象論から成る!)を批判の標的とするに至った事情、いわばマンデヴィルの「情念のリアリズムを重視する先進的な心」に宿った、一種の危機意識のようなものが理解できると思われる。

そして、先ず「実は、シャフツベリーがJ.ロック(John Locke/1632 - 1704/英国の哲学者、イギリス経験論の父/その“王権神授説”否定を基本とする思想(社会契約・抵抗権など)が名誉革命、仏大革命、米国独立宣言へ多大な影響!/因みに、シャフツベリーはロックの家庭教師!)と共に18世紀イギリス啓蒙思想の始まり(初期啓蒙思想)を画した重要な人物である」ことを認識する必要がある。が、シャフツベリーの知名度が日本ではあまり高くないようだ。

しかも、シャフツベリーとは異なる意味で17世紀のオランダにおける『日常』(レンブラントの時代)の経験から、マンデヴィルは、同じように見える英仏の啓蒙思想(既述のとおり両者は特に仏のモラルセンスやピエール・ベールの影響を受けた)でも、マンデヴィルの「情念の作用を重視する、下からの美学的な視点」から見ることで「モラル・センス」には独特の脆弱性の空気が漂うことを嗅ぎ取っていた、と思われる

更に、シャフツベリーについては、もう一つ押さえておくべきことがある。それはシャフツベリーの「モラル・センス」が、フランシス・ハッチソン(1694– 1746/愛蘭出身の哲学者/スコットランド啓蒙思想の祖、モラルセンス理論を大成)、アダム・スミス、ルソー、ディドロ、レッシング、カント(カントの場合は、半ば批判的であったという意味合いだが)らへも影響を与えているという点である(要参照文献↓◆)

◆満足する理性:カント実践哲学への感情論的アプローチ/竹山 重光(和歌山県立医科大学医学部  教養・医学教育大講座。准教授)http://www.wakayama-med.ac.jp/med/lasphieth/zettel/manzoku.pdf

なお、このマンデヴィルの「下からの美学的な視点」は、(一般にこれは殆ど無視されているようだが?)『続・蜂の寓話』の<第一の対話>に登場する女性、フルヴィアの言葉(対話でオランダ絵画、おそらくレンブラントフェルメールらについて語る内容)の中に現れていると思われる。

ところで、ニッコロ・マキャベリが「君主に必須の資質であると見たもの「ヒトの内外の自然の本性において優勢な「悪」のパワーと引けを取らずに対峙できる、換言すれば、その「悪」をも飲み込み自らの滋養としてしまう先見性と実行力が君主たる人物の必須条件」としての「自負心」であったしかし、そこには「±、又は善・悪の両者が併存する“オランダの光”の謂いでのエルゴン(プレデュナミス潜在性=人と自然の無限の可能性)」の観念は未だ不在であった

そして、「エルゴン(プレデュナミス潜在性)」なる言葉こそ使っていないが、それに匹敵する“オランダの光=市民生活の日常”の意味をリアルに経験し、仮にそれを「悪」のジャンルへ入れざるを得なかったとしても、その「エルゴン的なもの」の重要性を深く理解していたのがマンデヴィルであったと思われる。だからこそ、マンデヴィルはそれと対極に置くべき、シャフツベリーの「上からの美学」的な「モラル・センス」を標的として、厳しく批判するために『蜂の寓話』を書いた、と思われる

 つまり(繰り返すが)、マンデヴィル『蜂の寓話』は、矢張りあくまでも悪徳のエルゴン的なもの(経済的な付加価値を持続的に創造する絶大なる、±が共存する潜在力の宝庫であること)を前面へ押し出しつつも、シャフツべリの楽観的で予定調和的な世界・社会観(初期啓蒙主義通奏低音の一部であった)に対し、ホッブス自然権」と「オランダの光」(自身のオランダでの“日常”経験)を参照しつつ、自律的な美学(下からの美学)を伴うヴィルトゥオーソ(virtuoso)への脱皮を求める、いわば「レンブラントの時代」~産業革命期初期の「蜜蜂コロニーならぬ深く変容する人間社会」に相応しいモラルに基づく指導層の新しい生き方を求める、そのような意味での逆説的な批判の書であった」と見るべきではないか。

一年足らずの時間ではあったもののシャフツベリーも「17世紀オランダ(レンブラントの時代)」での『日常生活』の経験から、ある意味では「美徳と悪徳があらゆる国とあらゆる時代にわたり偏在しており、それが永続的な実在である」という認識もマンデヴィルとほぼ共有していた筈だ。

また、この美徳と悪徳が「感情」と深く通底するものであると言う理解もほぼ共有しており、特にこれはオランダ時代のピエール・ベールの大きな影響に因るものであったと考えられる。しかし、更に仏モラリストの「より広角な視座」の影響がマンデヴィルへ与えた影響は無視できないと思われる。おそらく、この辺りがマンデヴィルとシャフツベリーの分かれ目かもしれない。

つまり、マンデヴィルはピエール・ベールに加えラ・ロシュフコー(La Rochefoucauld/1613 - 1680/仏のモラリスト)の影響を大きく受けていた(@平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)/既出)。ラ・ロシュフコーはフランスの非合理主義的な心理(つまり、感覚・感情・情念の作用)を重視する伝統から「いかにも知性ぶる人間の背後に潜む情念の大きさ」に関わるクローズアップ光景を抉りだし、これに鋭く鮮烈な皮肉を浴びせかける手法の作品を得意としたモラリストである。

(3)マンデヴィルのシャフツベリー批判の核心は「モラル・センスを悪用する指導層の怠慢」への批判ということ

 ・・・そもそもマンデヴィルの標的は“名ばかりモラル・センスと社交術(忖度)”を盾に私腹(私益)を肥やす指導層とお仲間たちであった筈だが、建前上であるにせよモラル・センスを評価して(特に社会の羅針盤と見なされていたキリスト教の絡みでそう強いられ、それが固定観念化して)いた一般多数派層をも敵に回してしまった。・・

ところで、たまたま「フランス語の習俗les mœursは,「善い方向もしくは悪い方向へ向かう人間の習慣」という語義に限定すれば,17世紀から現代まで 300 年以上定着した意味を持ち続けるように見える語である。」という興味深いくだりを下記論文★の中に発見した。

★フランス近代思想における習俗と自然法 : ジャン・バルベイラックの「習俗に関する学science des moeurs」田中大二郎一橋大学社会科学古典資料センター年報, 38: 1-15、2018-03-30 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/29236/1/koten0003800010.pdf

委細は省かざるを得ないが、当論文を概観して特に興味を惹いたのはフランス近代思想(自然法思想)と「習俗」という、常識的には全く相容れないと思われる概念がフランス自然法の底流にあることが分かったことである。それは、同じ様な抽象論理の賜物でありながらも、このような「習俗」(つまり多様な情念の坩堝)を視野に取り込んでいることがフランスの啓蒙思想の祖と見るべきピエール・ベールや、あるいはほぼ同時代以降のモラリストの情念を重視する視点と見事に重なる。

しかも、同時にそれは特にマンデヴィルの17世紀オランダ(レンブラントの時代)の『日常』におけるエルゴン(神学的観念とは全く異質な現前化している実在の意味)の発見(or現代のツヴェタントドロフによる同意義の発見!)と繋がっている。また、それは第3章ー(3)でも触れたとおり、ピエール・べールは「人間性の自然」という表現で自然の一部の関係性の個体における一回性(情念の相互関係)の現れが人間性の正体だとも説明しており、おそらく前者が「政教分離」の観念へ至るまでの長い道程の端緒であり、後者は同じく「基本権」のルーツになったと考えられるからだ。

因みに、「ライシテ/laicite」(フランスにおける、明確な政教分離の観念を表す言語表象)が初めてフランス共和国憲法の中に現れるのは、パリコミューン(1871)の後に制定された「第三共和国憲法」(制定1875)が、1884年明治17年大日本帝国憲法・公布、1889年から5年前)に改正された時(フランス大革命から約100年も後になって漸く!)である。

 無論、紛れもなくその創始者の位置に立つシャフツベリーとJ.ロックも、経験論と言う意味では矢張り「日常」における感情の要素を無視するどころか、そのスタートラインに感情を置いてはいる。が、特にシャフツベリーのモラル・センスは一気に抽象的な言語表象の世界へ飛翔してしまっており、そこで構築された論理は美学的な整合性を急ぐあまりか、所謂「綺麗事」と過剰な楽観主義へ(つまり性善説)へ流れてしまったと思われる。

しかも、「フランス語の習俗les mœursは,「善い方向もしくは悪い方向へ向かう人間の習慣である」という田中大二郎氏の指摘は、おそらくマンデヴィルも気づいていた『日常のエルゴン(死静態)=±を併せ持つプレデュナミス潜在性(経済的な意味での付加価値などリアル現勢態(エネルゲイア/energeia)の淵源)と見事に重なっている。

(4)ホッブスリヴァイアサン』は、政治権力の正体が「普遍(持続性)Vs情念」なる双頭のリバイアタン」であることの気付き

ところで、平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)』によると、ホッブス(T. Hobbes/1588 - 1679/英国の哲学者、社会契約説で近代的な政治哲学を基礎づけた)は、マキャベリの「運命に抗うべき変異性必須論/マキャベリズム」(君主論/君主に限定された役割)を抜け出し、そのマキャベリズムを近代自然法思想の中核(政治権力の正体に関わる解釈論視座)に密かに忍び込ませた、とされる。

 ・・・当画像は、https://wedge.ismedia.jp/articles/-/4836?page=3より転載。

その具体的なイメージ表象が上掲、ホッブスリヴァイアサンであるホッブスは、デカルトらと共に(というかデカルトの影響を受けて)機械論的世界観(結果から原因へと還元・構造的に考える、つまり自然発生的世界観への対概念)の先駆的哲学者の一人でもあり、スピノザ(Baruch De Spinoza/1632 - 1677/オランダの哲学者/デカルトライプニッツと並ぶ17世紀近世合理主義哲学者らと共に唯物論の先駆的思索者とされる)らと共に人工的国家論(キリスト教神学下での王権の定義から距離を置く考え方/このため現代でもホッブスは王党派・共和派的な相異なる立場から両義的に解釈される傾向がある)の提唱と社会契約説で近代的な政治哲学理論を基礎づけている。

「ギュスターヴ・ドレ製作の版画/レヴィアタン

f:id:toxandoria:20191129133632p:plain・・・当画像はウィキより。
17世紀の半ばにピューリタン革命(1642~1649)で国王チャールズ1世が処刑(王政⇒共和政への急激な転換が実現)されたとき、この動乱を逃れた亡命先のフランスで書かれたのが著書『リヴァイアサン』(1651)である。リヴァイアサンは、この著書の巻頭で国家の原理を象徴するものとして掲げられた銅版画である。その原型イメージは旧約聖書ヨブ記で現れる、そもそもは海の怪獣とされるレヴィヤタン(リバイアタン)である。

カール・シュミットが指摘したとおりこれは国家神話(善と悪の両義性)の表象である。このイメージを王権神授説と誤解する向きがあるが基本的な誤りである(そもそもレヴィヤタンは巨人、巨獣、人工機械(オートマタ)、可死の神という4つのイメージの融合であるので、死すべき寿命のある神が永遠の王権を授けるのには無理がある!w)。むしろ、その真意はマンデヴィルと同じく「善と悪が併存する自然・人間社会のリアル」の直視だと見るべきであり、そこには「対称性バイアス」の問題(参照↓★)すら潜む可能性があると思われる。

★対称性バイアスの必然性と可能性: 無意識の思考をどうモデル化するか/中野 昌宏, 篠原 修二、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/15/3/15_3_428/_pdf

有り体に言えば、このバイアスは「空気に流され、忖度へ走る」という場面で主導することになるメジャーな空気(多数派Vs少数派の社会の中で囚人のジレンマなる権力側への抜け駆けを禁ずるという逆接)の問題であるが、これは今まで馴染みがなかった新機軸の概念を獲得したり、ものごとを創造的に考えたり、発見的に推論したりする場合にはむしろ不可欠なものと考えられる。

だから、これはマンデヴィルの逆説(悪徳でも上手く使いこなしさえすれば有益!)のキモだとも言えるだろう。が、マンデヴィルも腐心したとおり、これが殆ど理解できないのが例えば現下のトランプや安倍信三らの如き芯からマイファーストの私益や御仲間益で凝り固まった権力者の類である。

ところで、「巨人、巨獣」はヒトの内部に宿る強烈な情念の象徴であり、「人工機械」が普遍的な持続性(というよりも、普遍的な持続性への希望と見るべきか?)の象徴であることは容易に理解できるが(両者で双頭のリバイアタン(レヴィアタン)となる)、問題は「可死の神」である。絶対王政では、永遠の生命を持つ神の保証が「王権神授説」の支えとなっているので「可死の神」では都合が悪い。

田中純一『政治の美学―権力と表象―』によれば、「王権神授説」の物語は「ローマ教会の教皇権の連続性」の借用である(近代国家論の重要概念はすべて世俗化された神学概念である。カール・シュミット『政治神学』‐)。教皇権の連続性を仲介するのが、完全な空位状態を回避するために行われる象徴的「儀式」であり、これによって「権力の三つの身体」(前教皇‐象徴的儀式‐新教皇)の永遠の連続性が確保される(その儀式の象徴性が教皇権の永遠の連続生命を保証している)。

「王権神授説」でもこれと同様の象徴的儀式を介在させる、いわゆる「権力の三つの身体」のプロセスで王権の永遠の連続性(連続生命としての王権)が保証されてきた訳だが、ホッブスリバイアタン(レヴィアタン)が「可死の神」であるのは、初期啓蒙思想の「社会契約」に因ると考えられる。つまり、神学的な王権の連続性より、やはり社会契約論による王権の保証が優先された訳である。従って、この点については異論もあるようだが、市民の「生存する権利」、つまり自然権を重視したホッブスにも抵抗権の考え方は存在したと見るのが妥当である。また、当然ながら「可死の神」には科学革命の影響もあるだろう。

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https://twitter.com/SamejimaH/status/1200401955945758720

それよりも、ここで懸念されるのは、生物社会が何等かの「永続性の原理(↓注記)に組み込まれていると想定され得るので、この「マンデヴィルの逆説」的な真理が理解できない多数派層が常に一般大衆の中で常在的に過半超を占有する可能性が高いと思われことだ。ところが、ここからは「人間社会」故の逆説となるのだが、そのような意味での世間一般と言うヒトの浮世の情弱で脆弱な空気の中では第三権力のジャーナリズムが余程シッカリしない限り(一般生物と異なり『宗教、知識文化、科学技術、破壊的な機械軍事力』などが伴うことに因って)、多数派ポピュリズムそのお仲間主義者らに対し常に弱い立場であり続け、それらに回収され易いのが普通ともいえることになる。このことから理解できるのは、おそらくファシズムによる国家統制のリスクは今でも常に存在するということである。

<注記>ダ―ウイン進化論の上位概念としての仮説「永続性の原理」について

・・・これは進化生物学者・長谷川英祐・北大大学院農学研究院・准教授の著書『働かないアリに意義がある』で注目された生物学上の仮説。蜜蜂や蟻などの社会では約3割弱の“働かない蜂や蟻”が常に存在しており、もし一定数の働き蜂や蟻が死滅すると、今度は彼ら少数派が働き始める。つまり、生物社会には此れに類する何らかのバッファーが組み込まれている可能性が高い。そのバッファーの狙いはリスク分散であり、ミクロな生存競争(ダーウイニズム)はマクロな「永続性の原理」(リスク分散)で補完されているのかもしれない。但し、人間社会の場合は一般生物と異なり「宗教、知識文化、科学技術、破壊的な機械軍事力」などが伴うため、必ずしも一般生物の場合と同じ「永続性の原理」として作動するか否かは分からない。しかも、恐ろしいのは、歴史を顧みれば、それが致命的な「滅亡の原理」へ転相する可能性がむしろ大きいことである。ともかくも、よく知られているものでは「カッコウの托卵」なども同原理でのリスク分散として理解できる。更に次元を上げて考えてみると、人間社会のポピュリズム問題(約7~8割ノンポリ層の存在)でも似たような原理が推測される。それは、どこの国でもほぼ同率でノンポリ層が常在的に分布することからも窺われる。また、仮にある社会が100%エリート集団であったとしても、矢張り、おそらくそこでも7割程度はノンポリ化する(健全なジャーナリズム等の外部情報インプットが正常に作動しない限り、矢張り何も自律的に考えられない人々の多数派層が形成される)と思われる。

 ・・・

また、ンデヴィルが『蜂の寓話』のなかで最も強調しているのが、この忖度の問題であるのは同書を一読すればよく分かるはずだ。無論、ズバリ忖度に当たる言葉こそ使っていないが、マンデヴィルは「空気を読み、権力者や支配層の立場の人に対する過剰な気配りと同調」のことを綺麗に言えば「社交術」、汚く言えば「おべっか、へつらい」だと書いている。しかも、その時に標準的な価値観として持ち出されるのがシャフツベリーのモラル・センスであることに大いに立腹し、危機感を抱いている 

 

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1198706232346828800

ところで、いまJPN「安倍サクラ政権」下で延々と繰り返される“忖度を巡る怪奇現象”、マイファースト権力者との口裏合わせが目的の「官僚による公文書等の廃棄処理」の多発問題は、実に情けないことだが<公正と正義のため場合によっては囚人のジレンマ(whistle-blowerの出現)を容認する秩序が日本社会に不在である、つまり来の『安心社会』から転じて、法と良識遵守の慣習を最も重視する“個々人が社会的知性を身に付けた新たな『信頼社会』”へ向かう努力が足りない>ことを示す一方、信頼社会にとって有用な正しい意味での名声の価値も未だに深く認識されていないことの現れである(要参照資料↓▲)。

▲RIETI Special Report/「安心社会」から「信頼社会」へ―山岸俊男氏(1948-2018)の死を悼んで/山口 一男・客員研究員、https://www.rieti.go.jp/jp/special/special_report/097.html

(4)ホッブスとマンデヴィルの共鳴的な警告、それは現代の新自由主義に繋がる経済原理の問題

新自由主義へ至るまでの流れ)

ここで一つ忘れてならないのは「12世紀頃~の欧州には自動機械人形(Automata)の伝統が存在すること」である。それは、やがて16~17世紀頃に科学革命の影響を受けるようになり、それは次第に現代で言うところのロボット的イメージを形づくるようになった。そこには遥か300年後の未来における「機械orAIデュナミス高度生産性」をめぐる「人間の壁」の出現による大「格差」発生の予感すらが窺われる。

ホッブスリヴァイアサンは「巨人、巨獣、人工機械(オートマタ)、可死の神」という4つの神話的な権力の正体(権力に潜む巨大な情念の危険性!)の象徴であった(@カール・シュミット著、長尾 竜一・訳『リヴァイアサン―近代国家の生成と挫折』‐福村出版‐)。オートマタ については、例えば16世紀には仕掛け噴水やオートマタを配置した人工庭園がヨーロッパで流行した。1615年にはフランスの技術師サロモン・ド・コーが『動力の原因』を発表したが、そこで紹介されている自動装置の設計図では、水力とともに歯車が動力として用いられていたことがわかっている。

更に、もう一つここで付け加えておきたいことがある。それは、このマンデヴィル『蜂の寓話』の逆接の風刺、「私益すなわち公益=悪徳こそが永続的な社会・経済発展のエネルギーである!」が文字どおりに解釈され(又は作為的に方便で悪用された節もあるが)、やがてそれは経済アカデミズムで箔をつけ独り歩きし始め、遂には現代の新自由主義の「経済イデオローグ・リヴィアタン(リバイアタン)」を誕生させたことである。

このように現代世界を主導する経済思想は新自由主義(Neo-Liberalism)であり、それが市場主義と結びついたのがグローバル市場原理主義だ。そのルーツから現在までの流れを概観すると以下のとおりとなる。

グローバル市場原理主義のルーツはシカゴ学派Manetalism)の祖であり、ケインズ論の祖ハイエクとそれを引き継ぐミルトン・フリードマンらであるが、その特徴は“物価と名目所得変動の最大の要因が貨幣供給量の変動だと主張する点にある。又、彼らは政府の財政介入を可とするケインズ主義や付加価値の公平分配を重視する福祉国家論は社会科学的な無知と不勉強に基づくとして厳しく批判する。

彼らによれば、福祉国家論は人間を堕落させることになり、その代案として彼らが提唱するのが“自由原理と市場主義の融合”だ。それは国民一人ひとりが自己責任の原則に基づき自由に市場へ参加すれば、市場活動を通じ自ずから最適な調整と公正な分配が達成できるという考え方である。簡単に言えばアダムスミスの古典派経済学、つまり経済・厚生・福祉活動における全ての調整を神の手が宿る市場へ任せる、あの自由放任主義が再び市場原理主義の理念の名で復活した訳である。

 1993年にIMF世界銀行・米国政府らの関係者がワシントンに集まり、この考え方を一定の合意に基づく戦略として取り纏めたのがワシントン・コンセンサスである。これは8つの基本合意”から成っており、その内容は「W.C.に拠点を置く銀行等金融機関の財産権の保護、政府の規制緩和、政府予算の削減、資本市場の自由化、為替市場の開放、関税の引下げ、基幹産業の民営化、外国資本による国内企業の吸収・合併の促進ということになる。

これには、アメリカが1991年のソ連崩壊後(ポスト冷戦構造)の世界を経済面から支配するための“新戦略”(既に色褪せたブレトン=ウッズ体制(第二次世界大戦後に計画されたアメリカ主導の世界経済復興戦略)に代わるスキーム)という意味合いもあった。現在、このコンセンサスに基づく新戦略のシナリオに沿って「グローバル市場原理主義」が世界を覆いつつある訳だが、日本の安倍政権のアベノミクスなる経済・財政政策も、このコンセンサスの枠内で進められてきた。

新自由主義へ至る流れの深部構造/全て承知の上で?マンデヴィルの逆接「悪の論理」を誤用してきた流れ)

更に、このストリームの上部構造と見るべきものがあり、それが「マンデヴィル(ホッブス)~古典派経済学(アダムスミスら)~新古典派経済学新自由主義」の流れということである。そして、経済アカデミズムはこの奔流の流れの上でマンデヴィルの<逆接「悪の論理」>を更に強化しつつ全て承知の上での『悪用』、ないしは『誤用』してきた節があるのだ。

これは「政治権力」と「経済価値に関わる表象操作」の間の怪しい関係であるのだが、より具体的に言えば<真のエルゴン&生産デュナミス潜在性に盲目のまま「マンデヴィルについての“誤解”=私益すなわち公益」を助長し「格差」拡大のタネを仕込んできた>ということである。

分野は異なるが、プロパガンダによる「定説」改竄の事例としてエピキュロス派哲学(快楽主義)の問題を挙げておく。ヘレニズム期ギリシアの哲学者エピキュロスに始まる学派は快楽主義として広く認識されているが、そもそもエピキュロスはa「快楽」よりもb「心の平安と苦痛がない状態」を目的としていた。ところが敵対するストア派からプロパガンダ・スキャンダルを大量に浴びせかけられaとbの認知が倒置し、遂には「エピキュロス派=快楽主義」が定着してしまったとされる。

さて、このストリームの上部構造の流れで特に注視すべき「認知バイアス」操作は二回あると思われ、それは新古典派経済学ワルラス一般均衡論=ラグランジュ解析力学(数学的には熱力学と同じ)の模倣)とグローバル市場原理主義新自由主義金融工学)である。

後者はリーマン・ショックに繋がった記憶が未だ割に新しいが、前者については更に静力学(化学系の均衡)散逸(同構造系の均衡/ブリゴジン)の問題が絡み、関連する収拾の先は見えないようだ。しかし、仮にこれら数学・物理学の援用に些かの問題があったとしても、そもそも此処まで巨人化してしまった経済理論のテンソル部(屋台骨)を根っこから弄繰り回し矯正を図るのはあまり現実的でないと思われる。

少し付言すると、こういうことではなかろうか?ヒトを含めた凡ゆる生命活動の根底が「一回性のリアル関係を支えるのがセカンドオーダー・サイバネティクス的なクオラムセンシング、触覚性の知覚機能」(委細は第4章で後述)の問題に近いと見なすことができるだろう。

とすればヒトの一回性のリアル(『日常』性がベース)に直結する経済(厳密に言えば政治経済)を語る、ミクロ(microtubule/最小現の生命活動?)~マクロ(フリードマンなどの宇宙モデルなど)を繋ぐ論理は、上の上部構造ストリームの議論に限れば散逸(同構造系のブリゴジン均衡)に近いと思われるものの、更に「量子論的・数学論的な抽象論理 ⇄ 一回性の生命活動(≒『情念』なる現勢体“エネルゲイア”)」を繋ぐ現場(リアル)で有効なのは、ATP(アデノシン酸三燐酸)やマイクロバイオーム・ワールド等を支える「生命経済の論理」の方が適切ではないか?と思われるからである(関連参照/↓▼)。

 

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コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然) https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

 ・・・

ホッブスが、権力に潜む巨大な情念の危険性の象徴である“巨人、巨獣、人工機械(オートマタ)、可死の神という4つのイメージの融合”を自然法思想の中に密かに仕込んだ可能性がある>という「平井俊彦/論文『マンデヴィルの人間像(1)」の指摘は、案外、この辺りの問題と深く関わっており、それは自然法思想を支える「国民主権」(自然権)導く当然の帰結であり、それは生命のリアル!)が王権と全く対等であるという論理を成り立たせる重要な根拠になるのではないか。「香港デモ」を巡る過酷な現況の出現は、おそらくこの「基本権の根底」部分の問題と関係があると思われるが、片や、今や犯罪者同然(というか、おぞましい犯罪者そのもの!?)と化した安倍政権の「サクラ型暴走政治」に対する一般日本国民の無関心ぶりには、驚愕するバカリである。

 ▼コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然) https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

従って、矢張りより重要なのは当記事で取り上げた「おそらく内外エトノスの自然計算or量子コヒーレンスとも広範に、かつ啓蒙思想のベースと見るべき『情念』(ピエール・ベール、シャフツベリー関連で取り上げた当記事の重要テーマの一つ!)とも深く共鳴するため無限の可能性がある、プレ・顕在化(現勢体/エネルゲイア/energeia)のエルゴン(死静態/ergon)」について、つまり「死静態(エルゴン)→デュナミス(潜勢態・潜在性/du(y)namis)へ遷移する部分」および「機械・AI高度生産性(抽象性)のエネルゲイア化」」にスポットを当てて、旧来の伝統経済学を補強するという発想の転換こそが、「新自由主義」の宿命である格差対策のためにも必要だと考えられる(機械・AI高度生産性については下記↓★参照乞う)。

4  透明甲殻リバイアタン・ファッショからのExodus!そのカギとなる「リアル触覚遊牧民、小さな人間(@アルバ・アールト)」

・・・準汎用AI経済の時代に必須となるのは「グローバル透明甲殻ファッショ」(“閉塞的”鏡像ナルシス)の天敵たる「リアル触覚遊牧民、小さな人間」の視点(@アルヴァ・アールト)・・・

(1)「安倍サクラ内閣」の正体は透明甲殻リバイアタン・ファッショ

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https://www.nikkei.com/article/DGXKZO51581510Q9A031C1KE8000/

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1200527562377576449

安倍サクラ内閣の正体は、先ず多数派の人々に照準を定め彼らを自らの内部へ連れ込み、それを効率よく消化・吸収(養分化)し次いでマイファースト専用の単体クラスター分泌という不気味な仕事に取組む、いわば自らのクローンを好き放題に増殖しようとするナルシス鏡像型のファシスト集団である。しかも、その不気味な単体クラスター分泌は恰も悪性腫瘍の浸潤の如くエンドレスに日本社会のなかで拡がってゆく。そのため、何よりも邪魔となるのが日本国憲法の授権規範性(=国民主権)の性格である。

しかも、それは面妖な自己愛の欲望に従いつつ底なしの合わせ鏡像に酔い痴れるナルシスの泥沼へ沈潜する自己イメージの完結のためである。欧州の極右トレンドが大いに懸念されているが、日本では既に安倍サクラ内閣こと「カルト極右=透明甲殻リバイアタン・ファッショ」が主要メディアを調教しており、その狡猾なプロパガンダで長期安定政権の記録を更新中である。まさに、これは<世界の極右ファッショ・トレンドの最先端をひた走る超弩級の大国難>に襲われた緊急事態ニッポンの異常な姿になっている。

 ・・・

「プロローグ」でも触れたとおり、「お友達内閣」とも揶揄される安倍政権の実像は日本会議こと「戦前型アナクロ・ゾンビ(英霊界派遣エイリアン)一派」のれっきとしたメンバー(安倍晋三氏はその特別顧問)であることで歴然としている。そして、日本会議の当面の最大の狙いは「“改憲”強行で日本国憲法から授権規範の性格を取り除き、明治憲法の時代の如く上が与える国民主権の形を強行<改憲>下で確実に取り戻す」ことである。 

だからこそ、その安倍政権が如何に“グロテスクな“英霊”の御仲間ご用達の巣穴(or“英霊”量産用の墓穴)”堀りの悪趣味を持っているかは、今からでも決して遅くはないので一人でも多くの日本国民が知るべきである(主要メディアは忖度して言葉を濁さずに、分かり易くハッキリとこの恐るべき緊急事態を記事で書くべきである!)。比喩的に言えば、このようにおぞましい日本会議の性格<多様性絶対否定の無限後退「鏡像ナルシス権力」集団、つまり繰り返しになるが「透明甲殻リバイアタン・ファッショ」とでも呼ぶべき“倒錯”政治意識に嵌った異常カルト集団である(更なる日本会議の委細は下記◆を参照乞う)。

◆「平和主義」放棄と「国家神道教育勅語アナクロ国策」復活のため強引な「改憲」を謀る安倍晋三萩生田光一日本会議らは「教育勅語」を起草した井上 毅らをめぐる、本物の「日本国民の未来」を考えた明治期・俊秀らの粒々辛苦の歴史を本気で学び直せ!https://www.evernote.com/shard/s440/sh/2f50b2a8-a879-46d5-9d58-f25f25ace999/6064574b9e2a5d59bb2b15b3ddae69d4

日本会議安倍晋三萩生田光一ら)の恐るべき正体!再び日本国民メジャー?の脳内(精神環境)に深く取り憑いた戦前型カルト「国家守護神制(亡霊(英霊)鎮護国家?)の残照https://www.evernote.com/shard/s440/sh/379c4eda-3097-4638-b26a-6c735e3fb1e9/03e623ec0959b29b3a08bc25e9860bf6

正統保守と偽装極右(安倍首相らが信奉する国家神道&尊皇テロ愛国妄想権力/日本会議、指南)の混同が多数派層の内心のネジレを増幅し、不要な『改憲』へ日本を連れ込みつつある!https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20170518/p1

・・・

(2)「利己心と自負心」(マンデヴィルでは同じ悪徳)の違いとは?

 ・・・その見分けこそが『透明甲殻リバイアタン』、ネオ・ファシズムへの決定的アンチテーゼとなる・・・

f:id:toxandoria:20191130052044p:plainゲーデルの画像は、https://analyticsindiamag.com/does-godels-incompleteness-theorem-question-the-possibility-of-strong-ai/より。

◆【「触覚遊牧民、小さな人間」が紡ぎ出す無限の関係性・多様性ゲーデル不完全性定理によれば我々が生きるリアル世界で基準とすべき健全な論理(論理式、人間・社会・自然の相互関係)には、それを解釈する世界に応じ常に複数の多様な意味がある!故に、一回性の証言or関係性を無視・隠蔽する政治的な行為等、例えば安倍政権が得意技とする議事録・閣議決定らの後出し的な“操作”(改竄・隠蔽・削除・消去、等)はナンセンス・詐欺行為ないしはカルト抽象性とリアル実在を同一視するである!

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1193294570102018049

◆@itaihito2さん/プラズマの研究者のHPの記述にこういうものがあった。・・・「周囲の状況を察し不安定な領域を乗り越えてあるべき場所に意志を持ってたどりつく」、そこで周囲の状況との相関関係の複雑さに時間が追い付けないから量子論的なカオス(手現時間の共存関係?)が生まれる。量子論というのはそういう事だと思っている。

 ⇒ to @tadanoossan2/●遺伝の信頼性・・・これは、DNAの分子レベルにおける量子力学に依存している。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/

 ⇒ to@itaihito2さん/面白い!プラハに住むユダヤ人としてドイツ語で小説を書く経験をしたカフカが、意図せずして?「言語の非領域化」(恰も量子“確率分布”論的な意味での、複数の“一回性としての時間の共存”の如き触覚性の感覚)を体験したとのエピソードを想起!ドウルーズetガタリ(@田中純一『政治の美学―権力と表象―』)@tadanoossan2 https://twitter.com/itaihito2/status/1193434682462859265

・・・

 国民主権の形」の根本を考えるに当たりヒントとなりそうなのが、かつて水田洋氏(名大名誉教授/世界的に著名なアダム・スミス研究者)が述べた「それは上(神や君主など)から与えられたものではなく、(蜜蜂の群生コロニーならぬ)ヒトの社会に生きる人間自身の意識が創り出したものだ(マクダウエル『リアリズム倫理』をも連想させる!)」という言葉である(@水田洋『近代人の形成』(東大出版会))。

この水田洋氏の含蓄ある深い意味の言葉はマンデヴィルにおける「利己心(自愛なる悪徳)と自負心(自愛のジャンル)」の差異(マンデヴィルではこれら両者の差異があまり判然としない?)を考えるヒントも与えているようだ。因みに、マクダウエルの『リアリズム倫理』を短く言えば、それは「人間の意識の存在を自然界や社会的事象のリアルと全く対等に位置付けて理解する両者を同一視するカルトとは全く異なる健全な認知的理解である!」ということだ(委細、下記▼参照)。

バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)/@マイファ―スト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主要TV・新聞・国民>の「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る「想像力」消滅 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

従って、この「それは上(神や君主など)から与えられたものではなく、(蜜蜂の群生コロニーならぬ)ヒトの社会に生きる人間自身の意識が創り出したものだ」という田氏の」言説における“それ”「多様性に満ちた自然世界と人間社会における一回性のリアルな関係」を意味するコノテーション(connotation/含意・内包=個人的・情感的・状況的な意味のことで、外示(denotation/辞書に登録されている語の最大公約数的な意味)の対語)であることに気付きさえすれば、<ただのナルシス的な「利己心」ならばそれは悪徳へ傾いたものであり、一方で「自負心」というものは、むしろ顎りなく多くの他者との善意に因る関係性に近づく>という意味で全く異なった方向性(ベクトル)であることが分かるはずだ。

(3)触覚性「知覚機能」の核心:クオラムセンシングは一回性のリアル関係を支えるセカンドオーダー・サイバネティクスのジャンル

‐セカンドオーダー・サイバネティクス

R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著)によると、我々の体内に棲む膨大な数の細菌類がマイクロバイオーム(Microbiome)という宇宙的な規模の纏まり(ウイルスまで入れると、それは超100兆個の新世界(宇宙規模!)の発見を意味する!)であり、彼らの全て(そのDNAも含む)が刻々とヒトの細胞やDNA、およびエトノス環境と直接的な遣り取り(水平移動・交換・交流・共感・妥協)をしつつ我われの生理機能を調整し個体のアイデンティティ持続させている(セカンドオーダー・サイバネティクス(orノントリビアルサイバネティクス)で言うobserver情報を取り込みつつ?)ことが、ここ数年来の研究で急速に解明されつつある(委細は↓◆参照)。

◆20170320toxandoriaの日記/マイクロバイオームが拓く新世界への希望/DNA観察から見える「“民族主義レイシズム=非合理”http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320 

 ・・・フェルスターの画像はウイキより

Heinz von Foerster(1911–2002)Austrian American scientist combining physics and philosophy, and widely attributed as the originator of Second-order cybernetics. https://en.wikipedia.org/wiki/Heinz_von_Foerster 

ここで注目すべき重要なファクターがH.v.フェルスター(↑画像)のセカンドオーダー・サイバネティクスだ。つまり、それは従来のファーストオーダー・サイバネティクスを「普通のサイバネティクス」(トリビアルサイバネティクス/下図1)とすれば、セカンドオーダー・サイバネティクス(普通ではない2nd.オーダー・サイバネティクス/下図2)型の自己言及システムがあり得ること、それがヒトを含む生命体のそもそもの起動因となっている可能性が高いという発見である。

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3Trivial machines、4Nontrivial machines http://web.asc.upenn.edu/usr/krippendorff/secorder.html

・・・Trivial machines :As shown in Figure 3, trivial machines are driven by their inputs. Describing something as a trivial machine is to focus on the predictability of its behavior, o, from the conditions that impinge upon it, its input i. This is accomplished by formulating a relation between the two observables, ideally in the form of a mathematical function F : o = F(i). Functions do not offer choices.

周知のとおり、サイバネティク(ファーストオーダー・サイバネティク)は20世紀中ころにノバ―ト・ウイナー(Norbert Wiener/1894-1964/米国の数学者)らにより情報と通信に関する制御理論(自己言及的フィードバック・システム)として定式化されたものである。

このファースト.オーダー・サイバネティクスの特徴を端的に言えば「結果をインプット(原因)側に返すことで原因側を自己言及的に調節し続けること」である。例えば、電気回路では出力による入力の自動調整機能、生体では代謝・内分泌の自己調節機能などを挙げることができる。

因みに、このファーストオーダー・サイバネティクスをモデルとする西川アサキ(AI研究・情報哲学者)らの「意識創生に模したコンピュータ・シミュレーション」では(セカンドオーダーでないことに注目!)、そこで創生された“コンピュータ上の意識もどき”(最小単位モジュール)が「対外部的な超閉鎖化と読み替え得るような動き」が観察された、という報告があることを注視すべき、と思われる(参照⇒『西川アサキの基礎情報論』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104)。

おそらく、これはプラットフォームの大小の問題ではなく、あくまでも“情報フィードバックのあり方”、換言すれば、基本となる“性質または性格”の問題なので、例えば、安倍政権の基本プラットフォーム(基本となる政治姿勢)の特徴である透明甲殻リバイアタン・ファッショ』性の問題は、たとえいくら壮大な政策構想を持つとしても、そのスケールとは全然無関係に、その無気味な透明甲殻リバイアタンは安倍政権の仕事のトータルの凡ゆる局面で偏在することになる。まさに「暗い雰囲気の安倍政権の悪徳は細部と全体に遍く宿る」という訳だ。

一方、H.v.フェルスターのセカンドオーダー・サイバネティクの活動モデルでも、その起動因は先ずシステム内“観察者”に仮設することで得られることになるのだが、そこでは<外部環境(それはカント的な普遍の表象ないしは最広義のエトノス環境とも言える)というフリーハンドの外部から入ってくる多様なエンドレスの影響があるからこそ、いわば「平等な個性(主権)」を持つ個々の外部環境との水平な一回性の関係の持続を確保できることで「起動因」自身も常に自由で開放的な自己言及のエルゴン(ergon/±、又は善・悪両面のファクターを併せ持つ死静態)が確保できることにな

なお、最初に取り上げた個々のマイクロバイオームが、生体内において「平等な個性(主権に読み替え得る?)」を持つ個々の外部環境のそれとの間で、水平な一回性の関係を持続的に確保することに匹敵するような生理活動(あるいは、より正確には情報活動と言うべきか?)の典型事例としてクオラムセンシング(定足数感知)がある。

‐ クオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)‐

クオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)とは、例えばある一部の細菌らが「未知で正体が知れぬ相手に対して先ず仮の名づけ(ネーミング)を行い(AI‐DL教師なし学習クラスタリングに似ている?)、次に、その仮の見立てに応じて自らのシグナル伝達要素(分子)、または自由誘導因子(オートインデューサー/autoinducer/同種菌が生産するシグナル物質)などの分泌(フェロモン様の物質であるクオルモンらの産生)を調整するシステム(その結果、バイオフィルムが形成される)のことである(画像はウイキより)。

この定足数感知の概念をザックリ概念的に言えば、それは「一定のマイクロバイオーム環境内において、ある個体(バクテリア・細菌・ウイルスなど)が、初遭遇であるため未知で得体が知れぬ相手側の個体が自らに対し、その恰も多変量解析の如く非常に複雑な環境下において、果たしてどれ程の有害性または無害性を持つかを物理・化学的かつ定量的に測り知るための殆ど触覚に喩え得る程デリケートなやり方で化学信号を相互交換する生理的“調整”作用」ということになる。

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因みに、近年の研究で「この生理的“調整”作用で形成されるヌメリのあるバイオフィルムの中には驚くべきほど多数の菌種が生息しており、その菌種が更に非常に複雑きわまりない多様な社会を創っており、例えば、そのバイオフィルム内部の菌密度が外部の数千倍におよぶこともある!」ことが分かってきている(▼1/画像は▼2より)

▼1 目に見えないヒト常在菌叢のネットワークをのぞく:太田 敏子/宇宙航空研究開発機構 宇宙飛行士運用技術部 宇宙医学生物学研究室、http://www.sasappa.co.jp/online/abstract/jsasem/1/049/html/1110490301.html

▼2Biofilm developmental stages 

1ttps://www.researchgate.net/figure/Biofilm-developmental-stages-1-Quorum-sensing-EPS-and-microcolony-formation-2_fig1_309201414 

<補足>AI‐DL教師なし学習について(部分転載@↓★)・・・教師あり学習で行っていたのは「分類」問題を解いていたのだが、教師なし学習が行うのは「クラスタリング」(グループ化)である。両者は似ているように思えるが、「分類」はあくまでも個体のラベリングであり、「クラスタリング」は各「個体」の属性を目星とし同じ仲間と思しき「複数の個体でグループを作る」(クラスター化する)ことだ。別の角度から言えば、教師なし学習で行うのは、多変量のデータが大量にあって、どういうクラスタ分割ができるのか分からないので、とりあえず、それをやってみるという様な場合に有効な手法である。重要なのは、クラスタリングで得られた複数のクラスターの夫々がどのような特徴を持つデータ集団(仲間)であるかを、その教師なし学習の結果しだいで、今度は人が類推的に理解(今度は人が、その複数クラスターを見分けて評価)する必要があることだ。・・・以下、省略・・・★ AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができるhttps://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125003

以上の概観から理解できるのは「生命圏トータルの一部としての我われヒトの体内エトノス空間と外界である自然エトノス環境との仕切りについても、これまで考えられてきたほど明確で強靭な壁が築かれている訳ではないらしい。そして自己アイデンティティーの保全は、問答無用で来訪者を拒絶する強靭・強固な壁の厚さよりも、先ず個々のファクターの個性(主権)が平等に保全されると同時にコミュニケーションの一回性の関係をしなやかに編み上げ続ける強かさで実現されているらしいということだ。

(4)アルヴァ・アールトの核心は、内外のエトノス環境を意識する人間的な「大きな機能主義」

・・・当画像は『国際巡回展「アルヴァ・アアルト展-もうひつの自然-」(2019.2.16-4.14 @東京ステーションギャラリー)』パンフレットより

A.Aalto 1935 Viipuri Library(ヴィ―プリの市立図書館/ロシア)
A.Aalto 1935 Viipuri Library 

・・・第2次大戦後ヴィープリ市はソ連領となり、情報がほとんど入らぬ状況が続いて居ました。ソ連崩壊後は日本からの見学者も増えたとは言え、「建物の痛みが激しく悲惨な状況は見るに忍びない」との感想を漏らされる方が数多く居られました。ヴィープリの図書館はパイミオのサナトリウム1928〜33とほぼ同時期にアアルトがインターナショナルスタイルを取り入れて二つのコンペを勝ち取り、国際的な評価を受けた記念碑的な建物と言うことが出来ます。と同時に、その後のアアルトの作品にしばしば用いられるデザインモチーフをあちこちに見ることが出来る大変興味深い作品と言えます。@北欧建築ゼミ アアルト:多摩美術大学 環境デザイン学科 (旧)平山研究室のページ https://hokuouzemi.exblog.jp/568611/

・・・

 フィンランド出身で20世紀を代表する世界的な建築家・都市計画家・デザイナー、アルヴァ・アールト(1898‐1976)の独特の個性(人間主義の建築)を表す言葉は「小さな人間」である。つまりアールトの建築とデザインの特徴はモダニズムに対する人間的なアプローチということであり、そのことからアールトは「フィンラン・モダニズムの父」と呼ばれている。そして、そのデザインは、自然との深いつながりを大切にする「地さな国」、フィンランド国民性に根付きつつ今も世界中の人々を魅了している(アールトの画像はウイキより)。

学芸出版社編集部が運営する建築・都市・まちづくりのウェブマガジン「まち座」のHP(↓★)を参照しつつ、「アルヴァ・アールト建築」の特徴上のポイントを、より具体的に抽出しておくと以下の通りとなる(同社出版、小泉隆 著『アルヴァ・アールトの建築/エレメント&ディテール』“まえがき”の案内より)。★http://book.gakugei-pub.co.jp/mokuroku/book/2277/ato.htm

人間のための「大きな機能主義」 ─ アールトが語る建築の理想 ─

 ・・・前、省略・・・具体的な作品紹介に先立ち、ここではエレメントやディテールが生みだされた背景にあるアールトの設計思想、作品の特徴について、アールト自身の言葉に即して記していきたい。

大きな機能主義

 「建築は科学ではない。それは何千もの、はっきりした人間的機能を結合する総合的な大プロセスであり、依然として建築である。その目的は物質の世界を人間の生活と調和させることである。建築を人間的にするということは、それが良い建築であることを意味し、そして単なる技術的なものより、はるかに大きな機能主義を意味する。

 アールトの作風は、初期の古典主義様式から機能主義様式を経て、独自のスタイルが確立された後も発展、変化していくが、「建築を人間的にする」「物質の世界を人間の生活と調和させる」という大きな目的は一貫して変わっていないそれこそが、時期やスタイルを超えて、アールトが生涯追求した最も重要な事柄であったといえるだろう。

 ここで「大きな機能主義」という言葉を用いている点にも注目したい。近代建築の台頭を後押しした「機能主義」は、技術や経済の合理性を偏重し、それが主として装飾が排除された幾何学的な形態表現と結びつくことで、建築の新たな一様式として世界的に広く波及していった。しかしながら、建築における本来の「機能主義」は、「建築の形態は実際の機能や目的によって規定される」というものであり、ここでいわれる機能には、技術面や経済面に限らず、人間の心理や生理に関わる機能までもが含まれる「技術の機能主義は本源的な建築をもたらさない」とも語るアールト、当時の「機能主義」が建築の発展に大きく貢献したことを認めた上で、その機能を人間の生理的・心理的な側面にまで拡張して捉え、「建築を人間的にする」「物質の世界を人間の生活と調和させる」=「大きな機能主義」というテーマを掲げた・・・以下、省略・・・

遊びの必要性

 アールトはまた、「建築を人間的にする」ためには、技術や経済の合理性だけでなく、「遊び」が必要だと語る。

 「われわれは、実験的な仕事を遊びの気分に、または遊びの気分を実験的な仕事に結び付けるべきである。建築の構造物、それから論理的に導かれた形態や経験的知識が、まじめに遊びの芸術とよぶことのできるものによって色付けられて、初めて、私達は正しい方向に進むことになるだろう。技術や経済性は、常に、生活を豊かにする魅力と結び付いていなければならない。」・・・以下、省略・・・

人間のための「大きな機能主義」 ─ アールトが語る建築の理想 ─

 アールトの作品は、人間を中心に考えることを起点として、内側から外側に向けてデザインされる傾向が強い。内部では、そこに居る人間の活動や求められる機能に応じて空間が形づくられ、窓の配置や形状が決められている。・・・以下、省略・・・

<注記>アルバ・アールトの人間を中心に考えることを起点として、内側から外側に向けてデザインされる傾向が強いアルバ・アールトの“大きな機能主義”」は、第1章で取りあげた イタリア・モダニズムの建築家、ジュゼッペ・テラー二の「倒錯の合理主義=非人間的な小さな機能主義」と正反対である。つまり、テラー二の小さな機能主義”はムッソリーニのファッショに呑み込まれる形で見事に回収され、それはイタリア・ファシズムの表象を代表する建築である「カーサ・デル・ファッショ」を創造したが、実は、その正体が「透明甲殻リバイアタン」なる妖しげなナルシス“自閉”怪獣であり、その特徴が「無限後退的に際限なく無辜の国民の生存権を脅かすものであったこと」は、既に述べたとおりである。

自然環境との共生

 「われわれは建築の理想的な目標を次のように定義できる。つまり、建物の役割は、人間(住民)に自然のよい影響をすべて与える装置として働くことあり、またそれは、人間(住民)を自然や建物がつくり出す環境に現われるすべての悪い影響から保護することである。そして今、私はこれ以上によい定義を見つけることができないのだが、建物もそれが緊密に所属している自然と同様に豊かなニュアンスをもっていなければ、その役割を果たすことができないということも、われわれは認めるべきである。」

 アールトの建築作品のうち約9割が母国フィンランドに建つ。それらの作品からは、高緯度ゆえの特異な気候風土、厳しい自然環境に抗うことなく、人間の生活を守りながらうまく共生していこうとするアールトの思想が垣間見える。・・・以下、省略・・・

時と場所を超えて

 建築家の仕事は、調和を生み出し、未来から過去までの糸をひとつにつなぎ合わせることに向けられている。その根本に存在するのは、無数の感情の糸を持つ人間と、人間を含めた自然である。」

 フィンランドという北の地で、土地の気候風土や伝統に根ざした作品を生みだしたアールトローカルな建築家」「ヴァナキュラー(地域や集団の暮らしに根差す)な建築家」と言われることもあるが、それはアールトの限られた一面を捉えたにすぎない。「ナショナルとインターナショナルの概念の結合が現代世界に必要な調和ある結果を生み出し、それらの概念は、互いに分離されることはできない」と語り「近代的か伝統的な表現か」という問いにも意味がない とするアールトの作品には、古典的なモチーフや地域の伝統的なモチーフが見られ、時にイタリアや日本などの他国のスタイルが持ち込まれることもあるが、それらは近代的なデザインと融合しながら、アールト独自の表現に昇華されている

 このようにして様々なエレメントが結びつけられたアールトの建築では、単なるスタイルではない、時と場所を超越した一つの「調和」が実現されており、ここにアールトが生涯追い求めた「大きな機能主義」が結実した形を見ることができるだろう。

(5)アルヴァ・アールトの触覚性の建築から学ぶべきこと

『政治の美学‐権力と表象‐』(東大出版会)の著者である田中純によれば、「アールトの人間主義の背景にあるのは、機械文明のなかで脅威に晒されている、か弱く、保護されるべき存在としての人間という認識であり、そのような特質が『小さな人間』というアールトの言葉には込められている」ということになる。つまり、アールトにとって、「人間のスケール」は決して建築のための物理的モジュールなどではなく、あくまでも世界のなかで人間が占める矮小な、それ故にこそ建築というシェルターで守られるべき地位(自然権、つまり生き抜くべきヒトの権利/補、toxandoria)であるという認識を示すもである。

従って、弱肉強食の新自由主義ネオリベラリズム)と相性が良いグローバルスタンダードとして人間の規格化(モジュール化)を建築・都市計画あるいは社会設計のための尺度とするのは許されるべきでないことになる。その意味で「普遍的人間性」なる言葉を、たとえそれが一面(言葉上)では近代啓蒙思想の「普遍」の観念(J.J.ルソー)と相性が良さそうだと見て、安易に新自由主義の経済観念や社会設計に接合するのも誤りであることになる。

つまり、アールトの思想からすれば、宿命的に自然エトノス環境のなかで生きる矮小な人間は、必然的にローカルな個性と結びつかざるを得ないのであるから、科学・機械文明の進化に伴い益々暴力(一方で、グローバル経済的な意味で強権)化する傾向を見せつつある「普遍」への圧力からは毅然として守られるべきなのである。

因みに、このように人間的なアルヴァ・アールトの目線から連想させられるのがマーティン・オルブロウの社会の茎(socio-scapes)である。これは、新自由主義ネオリベラリズム)(および、それがファッショ的な政治権力と癒着する傾向にあること/渦中の世界的極右ポピュリズム・トレンドの根源にある問題!)への対抗軸として、ローカル生命モデルから構想された「ヒトを幸せにする“社会的共通資本”たる新マクロ金融の創造!」ということである(委細、↓▲参照)。

▲チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済(第4次産業・AI革命)に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!

https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

<補足>マーティン・オルブロウ(Martin Albrow/英国の社会学者(ドイツ出身))について・・・オルブロウは、トランスナショナルな分業を巡って組織される、国家など一定の地理的な領域を持たないコミュニティ>のことを「社会の茎」(socio-scapes)と名付けているが、ウルリッヒ・ベック(1944 - 2015/ドイツの社会学者)は著書『世界リスク社会』(叢書ウニベルシタス)の中で、これをグローバリズム時代における新しい「帝国」(国際金融資本など)へ対峙し得る、“グローバル市民のための全く新しい共有基盤”(いわばグローバルな社会的共通資本)になり得るもの>として注目している。

・・・

ところで、「プロローグ」でも触れたが格差問題の深刻化というグローバル市場原理主義の限界に悩まされる現代世界は、今や東西の別なく「極右ファッショへの回帰」を求める過激なポピュリズム・トレンドに煽られ

つつ多数派層が構成されるという共通の難題を抱え込みつつある

しかも、これは、所詮バカの量産現象だと揶揄し静観することが許されぬほど危機的状況となっている。しかも、その上手を行かんとするバカリの“我が偉大なる?安倍サマがやることならば、渦中の「サクラ祭り(見物)」式の国家犯罪であれ、凡ゆる公文書の廃棄であれ何であれ”、安倍サクラ内閣の蛮行に対し何故かあまりにも寛容すぎる日本は、今や異常を遥かに凌駕する「超常オカルト国家」同然となりつつある!w

しかし、目先主義を煽る甘美な大衆迎合プロパガンダに対し極めて脆弱なポピュリズム派の目には、いずれもが(1)AI‐SNSや(2)主要メディアの巧みな政治的利用(後者(2)は特に忖度の空気に溢れる日本で著しい!)、または美学的・心理学的な表象操作を伴う悪質な洗脳工作(例えばステマステルス・マーケティング)戦略の応用etc)の利用などで激しく鎬を削る時代であるだけに、このA-アールト的「プラットフォーム視線の方向」とB極右ファッショ的「プラットフォーム視線の方向」の違い(政治的に仕込まれるベクトルの向き)が非常に見えにくくなってきている。

その「政治的意志のベクトルの向き」とは、建築用語で言えば「建築アーキテクチャ(基本構想)が志向する方向性」のことであり、Aアールト的「プラットフォーム視線の方向」が「人間のための大きな機能主義を志向する、ローカルで小さな人間の目線」だとすれば、B極右ファッショ的「プラットフォーム視線の方向」は「無気味な内心の霊界を無限に志向する異常ベクトルの強制、いわば属人的で併せ鏡(鏡像)的な異界ナルシスト・ループの目線」ということになる。

・・・

Aジュゼッペ・テラー二のカーサ・デル・ファッショ

Bヴィ―プリの市立図書館f:id:toxandoria:20191130102408p:plain

Cアベ「桜を見る会」(↓)の深奥に潜む「異界ナルシスト・ループのイメージ(↑)」

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2019.11.19 Business Journal /「桜を見る会」に反社勢力が参加か…半グレや詐欺グループ関係者の目撃談 https://biz-journal.jp/2019/11/post_128749.html

 ・・・

そして、Aの事例が「第1章で取り上げた『ジュゼッペ・テラー二のカーサ・デル・ファッショ』であり、Bの事例がここで取り上げた『アルヴァ・アールトの最も特徴と見るべき作品で、アールト建築の核心でもある大きな機能主義の建築の代表事例、ヴィ―プリの市立図書館』である

問題は、AとBが外面的に殆ど見分けがつかないことだ。そして、両者ともにその仕掛けは内部の動線計画と諸施設の配置方法(ゾーニング)の工夫などにある。つまり、既述の繰り返しとなるが「Aが悪質なのは透明なガラスの採用(つまり、見栄えだけで騙すための如何にも分かり易そうに見える外形的工作の工夫)によって、一見では恰も自らの内部の全てを曝け出しており、その内臓までをも包み隠さず過剰に露出しているかの如く、いかにもオープンで開放的に見えることだ。

 

しかし、その開放性が実は分厚く強固な防弾ガラスで覆われており、ふと気がつくと何時の間にかその内臓の深奥に悪徳が潜むファッショ権力の非常に貪欲で超閉鎖的でグロテスクな消化器官に取り込まれている!ということだ

 まさにファッショ建築、つまり日本の場合は、英霊界(日本会議)の代理人たるアベ様と呼ばれる『政治的甲殻生物』の罠である。特に主要TV・新聞・国民の共依存係(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」が一般社会における「想像力」の消滅を一層助長しつつある日本では、今やその安倍ファッショ政権の暴走が過激化(基本となる国家観のパースペクティブ、そして動線計画とゾーニングが狂暴化)し、驚くべきことに国家犯罪行為(例えば、歳費・公金が凡ゆる野望とお仲間益のため浪費されるアベ・サクラ祭り!)が罷り通るまで重篤化しつつある(関連参照/↓★)。

★マイファ―スト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主要TV・新聞・国民>の「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る「想像力」消滅 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255 

・・・

そもそも、当記事をやや分析的な視点で書いたのは「自らの明らかな国家犯罪行為である「サクラ・スキャンダル」すら物ともせず「不遜の強欲悪鬼」と化したJPN一強権力こと<肝心のエルゴン問題など全く眼中にない安倍サクラ政権>が、愈〻、本物の「透明甲殻リバイアタン・ファッショ」と化しつつあり、無辜の日本国民の身ぐるみを剥ぎ取り、そのあげくに残り僅かな産毛一本までを根こそぎに抜き尽くそうとしている 」という危機感ゆえである。   

そして、一見では回り道のように見えるかもしれぬが、「マンデヴィル『蜂の寓話』を介在させつつ『日常』とホッブスに潜むエルゴン(格差の天敵)」を具体的に発見する努力こそが、やはり『魅惑するファシズムファシズムの美学@スーザン・ソンタグ』の精華(文字どおり“悪の華”)と見るべき「透明甲殻リバイアタン・ファッショ・アベ」の更なる暴走の天敵となり得ることが確認できたと思われる。

<注記> ファシズムの美学、アフォリズムジャン・ジュネ泥棒日記』より

・・・以下3件の出典/田中 純『政治の美学‐権力と表象‐』、P2~8・・・

ファシズムの美学/“芸術は行われよ、たとえ世界は滅びようとも”(@ベンヤミン『複製時代の芸術作品』

ファシズム」の“魅力”とは、「ナルシズム権力⇄ナルシズム国民」なる併せ鏡像式の相互凭れ合いによる、恰も汲めども尽きぬかの如くに無限退行する、非常に居心地が良い倒錯エロティシズム(2-3歳児“鏡像段階”@ラカン)の空気である。―スーザン・ソンタグ『魅惑(誘惑)するファシズム

アフォリズムジャン・ジュネ泥棒日記より(フィーチャー:( )内は原文)

・・・ただ、日本人(ドイツ人)だけが、安倍晋三ヒトラー)の時代に、同時に「警察・検察」(警察)であり「犯罪」であることに成功した。この反対物の壮大な総合、この真理の大塊は恐ろしいものであった。そして、それに満ちていた磁力は今後長いあいだ、我われを熱狂させ続けるだろう。

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    (完)

 

(エピローグ)大澤昇平・東大准教授の「中国人は雇わない」発言&同炎上事件

 

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f:id:toxandoria:20191202180752p:plain・・・苦、の後に「w」が漏れました!w

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199258765045813251 

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1200868393638715392

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1201426273920118784

・・・大澤昇平氏によれば「炎上商法は成功した!」と言うことらしいが、矢張り、その脳内メカニズムの何処かに何らかの象徴的な意味での欠損(一般教養的な表象の欠落?/これを放置すると、見えないことや、ありえないことと、リアルを同一視するカルト罹患の懸念)があるかもしれない?加えて、問題は新自由主義の賜物と思しき「特任准教授/有期雇用」なる待遇(肩書制度)そのものにもあるの鴨神社?ともかくも、当炎上事件の経緯は、下記★が詳しいようだ。

f:id:toxandoria:20191201055345p:plain

★「中国人は採用しません」「金子勇は犯罪者」「HTTPSなら90%安全」東大特任准教授、その炎上の流れ/篠原修司  | ITジャーナリスト、https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20191127-00152659/

f:id:toxandoria:20191201055808p:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1199257532260220928

・・・以下は、1~7「全文内容」の転載(一部補正した)。

大澤昇平氏(東大最年少准教授)の「水平思考(意外な解を発見する発想法)の重要性、文理融合型の教育方法の提言」などは理解できるが、コレ(中国人は採用しません!宣言?)は頂けない。

そのAI・IT系アタマは超一流かも?しれぬが、その認知能力の形成過程で何か欠陥(or欠損かノイズ)を抱え込んだのではなかろうか」?その結果としての<疑似「若年性認知症」症>のジャンルかも?(←認知症の方々への差別発言ではなく比喩表現です)

これからでも遅くないので、真の文理融合(コンシリエンス)とは何か?真のリアルとは何か?いわば、「virtual reality=実在はしないが実質的に機能する意味での現実/nominal reality=名バカりの現実」というリアルの意味について真剣に学び直して欲しい(これが一般教養なるもののキモです)。それに加えて、コノ種の断定的でストレートなヘイト発言は、人間の感情・情念についての理解不足から生じている可能性があると思われる。

例えば、今の日本も恩恵を受けている啓蒙思想(その普遍観念)にしても、そもそも初期の啓蒙思想の段階では情念に関わる深い理解(自然法の根源)から出発しており(Ex.ホッブス、ピエール・ベールあるいはマンデヴィルら)、そこから基本権(人権)、社会権三権分立政教分離などの抽象論理へ深化してきたといえる。

また、如何にずば抜けた理系アタマであっても“一皮剥いたらそれは情念の海の上に咲いた花だった!”というのがアンドロイドならぬヒトの正体であり、この真理は人種やジェンダーの差異とは無関係なことである。

未だまだお若いので此の機会をクスリにして、より説得力があり、より普遍性のあるヒューマンでグローバル(というよりもグローカル)な観点から今度こそ本物で“万人のため”になる「新AI救国論」を書いて欲しいと思う。

くれぐれも“万人へ【忖度】を求める”あまり今や<犯罪者&詐欺師ら嘘吐き共の巣窟>同然!と化した、わが【安倍サクラ内閣】の国策ヘイト&国策お仲間主義の醜悪なホンネ(悪徳の情念/私益すなわち公益!の嘘/@マンデヴィルの駄洒落を真に受けたおバカさん?!w)だけは学ばないで頂きたい。  以上

 

 

 

 

マイファースト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主要TV・新聞・国民>の「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る「想像力」消滅

マイファースト&ポピュリズムで“流動化”する世界、特に日本で目立つ<主要TV・新聞・国民>らの「共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)」に因る<想像力>消滅

(Cover Images)

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ボッティチェリプリマヴェーラ』(Primavera/春の寓意)』Sandro Botticelli(1445- 1510)「Primavera」c. 1482 Tempera on panel 202 cm × 314 cm Uffizi Gallery, Flore

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ボッティチェリヴィーナスの誕生(Related image)Sandro Botticelli(1445 – 1510)「The Birth of Venusc」1485 Tempera on Canvas 172.5 x 278.5cm Galleria degli Uffizi, Florence

 ボッティチェリに係わる二つの発見)

ー形式的イマージュの発展(想像力の泉1)ー

ギリシャローマ古典の意味を見直すことで人間の復興と新たなヒューマニズムの可能性を期待し、それを大いに賛美するルネサンス芸術の代表者とされているボッティチェリであるが、一方で彼の絵にはメディチ家周辺の後期ゴシック(中世末期)的な美意識が深く投影されている。そのため、この<春>という愛の季節を讃える初々しい感性にあふれているはずの『プリマヴェーラ(春の寓意)』でも、その絵の全体にはなぜか“やや暗め”の霊気のようなものが漂っている。無論、それもボッティチェリの美学を引き立てる魅力の一部ではあるが。

その人物像を取り巻く繊細な風景描写のなかに、おそらくボッティチェリは、その後期ゴシック(中世)的な霊気のようなものを殆ど無意識に塗りこめているはずだ。だから、彼が描く自然の風景には変化に富み生きいした自然の風景が必ずしも反映されてはおらず、むしろそこには綴れ織り(京都の西陣織/一説で、その起源は古代エジプトコプト織にあり、中国・朝鮮半島経由で古代の機内(京都)へ伝来したとされる)のような感触のやや暗みを帯びた自然物が描かれいる。やがて次第にボッティチェリはそれらの形象を更に装飾的なものへと変遷させて行った(形式的イマージュの発展)。

ー新たな物質的イマージュの創造(想像力の泉2)ー

一方で、これは逆説的なもの言いとなるが、ボッティチェリの絵から、その霊気を帯びた暗さと、恰も綴れ織りの如く過剰に装飾化した自然描写にもかかわらず、その「絵」全体の印象ではボッティチェリ的な空気とでもしか言いようがない不思議な瑞々しさ(その正体は様々な花や樹木らの植物群と黒い土のなか、およびやや暗めの霊気(空気)のなかに漂う“水”の成分の印象/厳密には、そのボッティチェリの絵を見たことによる共感が励起し鑑賞者の心に宿るエトノス感)を鑑賞者は感じさせられるはずだ(新たな物質的イマージュの発見)。

そのことは『プリマヴェーラ(春の寓意)』から約10年後の作品となる、直接的に海の「水」をモチーフとして描いた『ヴィーナスの誕生』では、より分かり易く現れる。瑞々しく美しい裸体に恥じらいを宿すヴィーナスは、青みがかった緑の海原に散る花々、風になびくエロチックな長い髪、あるいは色濃く茂る神秘の樹木、それらの全てが、恰も「水」の成分の仲立ち(物質環境的想像力)によって、ルネサンスの美意識を背景としつつギリシャ・ローマ古典古代と後期ゴシック(中世末期)の二つの美意識が、新たな息吹と新たなエトノス感に目覚めたルネサンス期の人間の心のなかで和解したかの如きである。

(モネ『カピュシーヌ大通り』は、到来する市民社会に相応しい『“斬新な視覚”と“色彩混合”、“水の想像力”(市民社会エトノス感)』の発見)

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モネ『カピュシーヌ大通り』Claude Monet,(1840 – 1926)「Boulevard des Capucines」1873-74 Type Oil on canvas 80.3 cm × 60.3 cm Nelson-Atkins Museum of Art, Kansas City, Missouri

我われがいま最もその批判対象と見て警戒すべきは、エンドレスで格差の再生産へと大暴走し、もはや正統な資本主義とは言えぬまで、そして殆ど統制不能のレベルまで怪物化した<グローバル市場金融資本主義>に悪乗りして、妖怪カルト守銭奴(その象徴がアベノミクス!)と化した、正統保守を騙る偽装極右(偽エトノス)派)の跋扈&一強支配である。現在の日本でいえばそれは1%派の利権保守で原子村らの御仲間と諸利権(カネ、カルト、排他的ネポティズム構造)絡みで日本社会の深部に浸潤する 日本会議神道政治連盟神社本庁らを意味する(浸潤=本来その組織固有でない細胞が組織の中に出現すること)。

一方、血みどろの凄惨な戦いが繰り返されたフランス革命など「市民革命」の意義(極言すれば応報・連鎖したテロ同然の内戦・闘争の歴史的意味)を表層的or勧善懲悪的に理解するのは危険である。

それは、ここで正しい歴史認識と歴史への反省及び自由・平等・国民主権、あるいは憲法の授権規範性や立憲主義の意味が正しく読み取れ(理解でき)ない限り、新たな世界規模の危機状況の到来(特に、マイファースト権力・刹那的ポピュリズム・主要忖度メディアの共依存的な癒着構造の暴走による大パニック出現?)が囁かれる昨今の状況下では、ほんの僅かな情勢の読み違えから、我われ普通の世界市民が再びエンドレスの血みどろの応酬戦争を繰り返す、愚かな過去の時代と同等の煉獄の罠に易々と嵌りかねないからだ。

ところで、カピュシーヌ大通りはオペラ座を正面にして左右に伸びる大通り(オペラ座ルーブル美術館を結ぶオペラ通りとクロスする)であるが、そこにはモネがこの絵を描いた1873年頃は未だ「パリコミューン(1871)」の惨劇(内戦、テロの応酬)の生々しい空気が残っていたはずだ。しかし、このモネの絵から、その不穏な血生臭い空気は一切感じられず、それどころか急速に賑わいを取り戻しつつある繁華街と、そこで未来への希望を手に入れたパリ市民らの新たなエトノス感の発見に因る未生の活力と生命力が感じられる。

その「明るい希望」への急速な意識転換のエポックを感じさせるこの絵の秘密はどこにあるのだろうか?まず考えられるのは、「ある種の心地良さを感じる適度な俯瞰の視点(ふわりと浮いた適度な高さの鳥の目線による、一定の中立的で普遍的な視座の確保)」ということだ。具体的に言えば、それは1874年に第一回印象派展の会場となったナダール写真館(3階)から俯瞰した構図の発見であり、その後これは活性化した市民意識(特に、新興の中間ブルジョアジー層)の活躍を感じさせる「大都会の群衆」(その草創期における希望に満ちたより良い意味でのポピュリズム感覚/例えば、現代日本の安倍政権下における衆愚ポピュリズムとは全く異質・異次元な!)を描く印象派の一手法(いわば、それは矢張り形式的想像力の新たな発見)として定着する。

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モネ『水連』1914(Related images)   Claude Monet「Water-Lilies」 1914. Oil on canvas. 200 x 200 cm National Museum of Western Art, Tokyo, Japan.

もう一つは、印象派の画家たちが創り出した色彩混合(視覚混合/並置した二つ以上の色彩が遠くから見ると混じり合って一つの色に見える光学現象を応用した)の技法だ。特に色彩の鮮やかさとイマージュ的感性で捉えた光の煌きの一瞬の同定を粘り強く追及したモネはこの手法に優れており、周知のとおり、それは漸くジヴェルニー庭園に落ちつき、そこで晩年に描かれた水連の連作に結晶している(後述するバシュラールに通じる水に関わる物質的(環境的)想像力の新たな発見!)。

この絵の色彩的な特徴を端的に言うなら、それは<その殆どが地味な黒とブルー、そして少々の茶色と白色で描かれているだけであるにもかかわらず、なぜか晩年の連作「水連」にも通じる「水」にまつわる瑞々しいバシュラール的な斬新な感性、言い換えればエトノス感覚的なイマージュの印象、いわばその奥深い背景に潜む未生のパワーを連想させる生き生きと果てしなく広がる、自然界に生きる諸生命の根源としての水の波紋の印象が強く鑑賞者の心に残ること>である。

   Erik Satie: Gymnopédies & Gnossiennes (Full Album)


Lara Fabian – Ma vie dans la tienne (Official Video)

・・・

 (プロローグ)「マイファースト&ポピュリズム共依存の漂着先・・・

・・・それは、ヒトの歴史と現実が崩壊する「人類文化デコヒーレンス」なる過激<歴史修正主義>の席捲かも?そして、そのお先棒を担ぐのは近親憎悪的な?TV等メディアの率先で今や<嫌韓>一色に染まるアベ・ニッポン鴨?・・・

f:id:toxandoria:20190903055852j:plain・・・当画像は。20190516国立遺伝学研究所プレスリリースhttps://www.nig.ac.jp/nig/ja/2019/05/research-highlights_ja/pr20190516.html より

f:id:toxandoria:20190901153300j:plainhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1166878265916743681

【ジョンソンは米トラ・日アベらと同質の歴史的に過激な“歴史修正主義者”の典型となる鴨?!】・・・スコットランド連合王国から抜ける?更に北アイルランドでも英国からの分離とアイルランドとの南北統一を問う住民投票を止めることは困難になる。⇒ 英ジョンソン首相の暴走で「連合王国」は崩壊か903 岡部 伸、JB.プレス https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57490?page=2

f:id:toxandoria:20190904051356j:plainhttps://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57490?page=2 

f:id:toxandoria:20190904051431j:plainhttps://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57490?page=2

 

 1  “混迷”日本の克服に有効な“バシュラールの(a)形式的想像力と(b)物質環境的想像力”についての気付き

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ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard/1884 – 1962/フランスの科学哲学者、詩的想像力の研究にも業績)の著書『水と夢/物質的想像力詩論』(及川 馥(かおる)訳、法政大学出版局)によれば、我われ人間に備わる想像力は大いに異なった二つの軸に沿って展開する。因みに、想像力の一般的な意味は「ヒトゆえの、共有世界の感覚認識に由来する諸要素から、心の内側で部分的または全体的な個人の意識の中核的な領域(しかも、それは諸環境下における個性的な一回性のもの)を生み出す能力」ということになるだろう。

その一つは観念的な形象イマージュであり、それは絵画的で多様な変化、偶然の出来事の連鎖や組み合わせなどから「新しい楽しみや発見の形」を取り出す傾向(spring、beginning)があり、この想像力は絶えず美しい春を描き出し様々な花を生み出すとされ、バシュラールはこれを形式的想像力と名付けた。そして、いみじくもそれはボッティチェリプリマヴェーラ(春の寓意)』を想起させる。

もう一つの想像にかかわる能力群は、リアルな存在(物質)の根底を掘り進み、その根底のなかで絶えず原始(初)的・始原的なものと永遠なるものを同時に見出そうとするる。つまり、こちらの能力群(想像力)は歴史(Ethnos&History)と季節(Season)を支配している。

それは我われの外である自然のなかで、あるいは我われ内部の自然のなかでも、絶えず様々な未生の萌芽を発見したり、あるいは作り出し続けたりしている。それゆえバシュラールはこれには物質的想像力の名を与えており、そのなかでも特に「水」に関わる物質環境的想像力を重要と考えた。

視点を変えれば、この二つの想像力は恰も「論理・推理による観念的・抽象的構想力」と「自然・エトノス環境の因果(律)に関わる観察眼と皮膚感覚による感性的な発見」に対応すると考えられる。

<注>エトノスとは?

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・・・エトノス(ethnos)とは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”となし得る開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化(マイクロバイオーム世界の理解/関連参照 ⇒ マイクロバイオームが拓く新世界への希望/DNA観察から見える「民族主義レイシズム非合理”の発見」, https://toxandoria.hatenablog.com/entries/2017/03/20、ロブ・デサールほか著・斉藤隆央訳『マイクロバイオームの世界―あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち』‐紀伊國屋書店‐、https://honz.jp/articles/-/43555)を常に受け入れつつも、その伝統的なヒューマン・スケールの全体性の“持続”を最も重視する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となるローカルの風土』を意味する。

・・・しかし、そのethnosは古代ギリシア語に由来しており、それは村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団のことを意味するから、エトノスの意味は、そこに置かれる人々の立ち位置が変われば正反対になり得るので、そもそも絶対的で画一的な評価を伴う言葉ではなかった(関連、http://u0u0.net/EyB6)。おそらく、それは「生命」現象そのものと同じく、永遠に揺らぎつつも持続性を必死で繋ぎとめるべきものであるのかも知れない(委細参照 ⇒ https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20170713/p1

・・・

無論、殆ど刹那的に生きているかに見える一般の動物ならぬ我われ人間の場合は、その精神のなかの全く異次元のフィールドでこれら両者が個別に機能しているとは考え難く、この二つの想像力は絶えず相互の影響や浸透によって多少のぶれを見せつつも、歴史や記憶の蓄積と生きいきした感性的イマージュの再生産を繰り返しながら、それらが精神にもたらす交感・交流、あるいは共鳴のプロセスで絶えず「中立的」な判断力や豊かな感覚的イメージが生み出されていると考えられる。

言い換えれば、我われの内面で行われるその「中立的」な未了の精神活動こそが、我われ人間に対して絶えず<健全でアグレッシブな思考と新たな生命力と活力>を与え続け、健全な前進へのパワーを供給してくれることになる。

さらに少しだけ付け加えれば、その「中立的」な精神活動は決して日和見的なものではありえず、いわば自然・エトノス環境と人間社会の間の<未了の相克>を持続させるための批判的意思がそのための必須条件となっている。又、あくまでも相対的な比較であるが、どちらかといえば皮膚感覚に近い(b)物質環境的想像力の方が、(a)形式的想像力よりも、地球上の自然エトノス環境との関わりが深いと考えられる。

しかも、これら二つの想像力、つまり「形式的想像力」と「物質環境的想像力」には、それぞれ「善と悪」(あるいは生と死)の相反する要素が常に潜むのが当然なのだという自覚(我われ自身もその二つの成分、「善と悪」(あるいは生と死)からできていると理解する謙虚さ)を先ず持つことが肝要である。

それは、より広く捉えてみればたとえ「形式的想像力」と「物質環境的想像力」といえども、その内側で我われ自身が無意識の内に誕生していた生来の自然・エトノス環境の賜物であり、いくら高度なAI・コンピュータを使いこなすことが出来るとしても、その自然・エトノス環境との調和を抜きにした人間の力だけでは絶対に「善と悪」(あるいは生と死)は支配できない現象であるからだ。

ともかくも、この<それぞれに「善と悪」(あるいは生と死)の要素を潜ませた(a)形式的想像力と(b)物質環境的想像力の二つの想像力が、絶えず相互の影響や浸透、又は共鳴によって多少のぶれを見せつつも、我われは一回性の歴史や記憶の蓄積と生きいきした新たなイマージュの再生産を繰り返すことが可能となる訳である。

しかも、それら広義のエトノス(自然・文化・社会環境)が個々人の精神との間で交わす交感と交流のなかでこそ、「中立的」で豊饒なイメージや新たな判断力を絶えず生み出すことができる>というバシュラールの豊かな想像力についての考え方を理解することが重要であるだろう。

そして、このような点を援用すれば、先に取り上げたボッティチェリプリマヴェーラ(春の寓意)』に関わる新たな解釈としての水の想像力」も、あるいはプロローグで取り上げた「モネの絵画における水の想像力(つまり、新たなエトノス感を想像する水の能力)の発見」も、十分腑に落ちることになるはずだ。

 2 コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/  バシュラール形式的想像力物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然) 

・・・その「リアリズム倫理学」の核心は、マクダウエルが“露骨な自然主義と居丈高なプラトニズムの共犯関係”といみじくも名付けて摘出してみせた、一般的な「リアリズムに係わる理解の混乱」の問題である!・・・

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無論、マクダウエルがここで言う“露骨な自然主義”(マクダウエルが言うところの第一の本性、第一の自然)とは、限定的な意味合いで言う、ごく普通の意味での地球上の自然(環境)だけを指すものではなく、いわゆる唯物論・物的還元論(ヒトの客観的・科学観察的・経験論的な態度を支持する条件で成立する次元で対象である「物質世界」(凡ゆる意味での宇宙・世界に内包されるPhysical World)と理解すべきであるだろう。

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<注>ジョン・マクダウエル/John McDowell(1942‐ )・・・ピッツバーグ大学教授. オックスフォード大学講師を経て 1986年より現職/研究分野は多岐にわたりプラトンアリストテレスに代表される古代ギリシア哲学, 倫理学言語哲学, 認識論, 心の哲学,ヴィトゲンシュタイン研究などで大きな影響力のある論考を発表している。.カント, ヘーゲル研究でも知られるが、日米および欧州などで跋扈するマイファースト・自己責任論・多様性否定主義あるいは表層的なAI万能論が囃される昨今(関連参照↓ブログ記事★)であるからこそ、そのユニークな「リアリズム倫理」(道徳的実在論/自然と対比的に、それを第二の本性(自然)と位置付ける)が注目されている。つまり、ジョン・マクダウエルは、かつてヒト(人類)が理解していた筈の根源的かつコンシリエンス的な“想像力”(人文・科学知の融和・和解的統合)に因るリアリズ/コンシリエンス・リアリズムとでも呼ぶべきか?】の自覚(復権)こそが、愈々、必須になると警鐘を鳴らしていることになる(委細、後述)。マクダウエルのイメージはウイキより)。

AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができるhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

・・・

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・・・当画像は、http://archive.boston.com/bostonglobe/ideas/brainiac/2011/06/plato_applied_m.htmlより。

他方、いささか否定的な印象を受ける「居丈高なプラトニズム」(マクダウエルの用語)も普通に言うところの観念論に止まらず、それはR.ペンローズが言うところの「数学」概念(いわゆる只の非常に優れた計算能力に非ず!)が代表する「プラトンイデア世界」Platonic World/第二の本性/但し、一般的には“そもそも絶対的・究極的な観念・概念の極致”とされてきたプラトンイデア)は、このマクダウエルの実在論(第二の本性)によって、実に見事に自然物質と同等の実在として逆転・倒置されていることになる。

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そして、一見、これは常識的な意味では奇異に映るかも知れないが、よくよく考えてみれば、「それは量子力学ニュートン力学(伝統物理学)の統一理論の存在を探るR.ペンローズの視座(同じく、量子重力理論に至る可能な道としてのペンローズツイスター理論)に接近していることが分かる(仮説上の素粒子であるgraviton(重力子)は未発見!)」と、理解すべきであるだろう(Cf.R.ペンローズ『心は量子で語れるか‐21世紀物理の進むべき道をさぐる‐(講談社)』)。

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<注>ロジャー・ペンローズSir Roger Penrose1931‐  )・・・イギリスエセックス州コルチェスター生まれの天才的な数学、宇宙物理学者、理論物理学者(画像はウィキより)

・・・

つまり、「数学・物理学・ヒトの心」の共通原理の解明に挑むR.ペンローズに因れば、これは一般的な常識には反することのように思われるが、最も厳密な科学である「抽象数学」(それは生きたヒトの脳内で創生される!)は、如何に高度AI化・大容量化したコンピュータ上でもプログラムが不可能であり、このことはゲーデル不完全性定理の変形で証明される(出典:R.ペンローズ『心は量子で語れるか』(講談社)。

因みに、巨大量子メモリを持つスケーラブル量子コンピュータ(scalable quantum computer)を夢見る研究者の多くにとって、目下のところ、波動関数現在では量子論における状態(より正確には純粋状態)を表す複素数値関数のことを指す)は言わば量子情報(様々な物理量の確率分布の束)そのものとなっているようだ(出典 ⇒ http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/05/094917)。 

しかし、R.ペンローズ『心は量子で語れるか』(講談社)によれば、量子論・数学論の立場からヒトの思考や意識の特色を探り、それらを前提に「物質から精神が生じるさま」の説明を試みるペンローズは意識の生ずる場所として生体中の微小管(microtubule)をその候補に挙げている。しかし、それに止まらず量子力学を用いて説明できる現象が我われの周囲に偏在していると主張している。

以下にその事例サンプルを纏めておく。要は、量子力学の重要な意義と役割は、我われが生きる日常生活の至る処に偏在しており、決して一般に広く信じられているような意味に留まるものではなく、ましてやそれがスケーラブル量子コンピュータ計算の専従ツールなに特化すべきものではない!ということだ。

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当microtubuleの画像は、 
https://dev.biologists.org/content/144/17/3012?rss=1 より。

<注>生体中の微小管(microtubule)・・ 微小管は真核生物における主要な細胞骨格の一つ。チューブリン分子量約5万のα-チューブリンとβ-チューブリンがあり、これらが1個ずつ結合したチューブリンダイマ(d-ダイマー/血管損傷からの止血作用として形成されるフィブリン血栓から派生する作用/なお、ダイマーは化学分子構造的にサブユニットがカップリングしたものであり、3‐ダイマー、4-ダイマーも存在するが直線上に重合し微小管のプロトフィラメントを構成するヘテロダイマーを基本構成単位とする中空の円筒状線維で、外径は約25 nm。重合と脱重合を繰り返す非常に動的な構造物で、細胞の形態維持や変化、細胞分裂、細胞内物質輸送、鞭毛や繊毛の運動等の多様な細胞機能に重要な役割を果たしている。さまざまなタンパク質と結合したり、翻訳後修飾を受けたりすることにより、その構造や動態が調節され、多様な機能を発揮する(出典 ⇒ https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%BE%AE%E5%B0%8F%E7%AE%A1)。

<注> 1nm(ナノメートル)=10の-9乗=10憶分の1メートル

 

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https://www.cosmobio.co.jp/product/detail/antibodies-for-er-stress-pgi.asp?entry_id=33180

(関連情報)【アベ式「憲法“改悪”」は“小胞体” ストレス応答システムの破壊と酷似!w】“小胞体”内の異常蛋白蓄積が“同”ストレスで是が様々な病因(殺戮・破壊・戦争状態)になる!「“同”ストレス応答」は此の異常発現の制御システムで、喩えれば<平和「憲法」>! ⇒(科学の扉)小胞体ストレスって?細胞内蛋白質工場、不良品たまると病気に916朝日 https://www.asahi.com/articles/DA3S14179000.html

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1173783014762921984 

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(関連情報)水を差すわけでないが、「わずか二種類のタンパク質要素に因る<in vivo>(量子世界など無限の多様性、換言すれば“無数の因果の空間(偶然)と理由の空間(論理)が創生する多様性の影響下にある”!(@ ドナルド・デビッドソン)”無限の可能性にに満ちたリアル生命環境内)ならぬ<in vitro(計算機&実験環境内)>の“モデル”の意義に止まる!との自覚と謙虚さが必須。さもなくば、汎用AI“信仰or妄想”と同じく<悪徳orカルト政治権力の好餌>となるダケの恐れがある。  NICTが僅か二種類のタンパク質、モータ・キネシンと微小管を一定比率で混合しATPを加えるだけで自発的に様々な空間秩序構造を創ることを発見!https://twitter.com/tadanoossan2/status/1174095800156086272

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f:id:toxandoria:20190918120217j:plainf:id:toxandoria:20190918120252j:plain・・・当イメージ画像は、https://www.nict.go.jp/data/nict-news/index.html より転載。

[タンパク質モータと微小管に学ぶ自然知からの応用=分子通信という情報通信の新概念を提唱]鞭毛をつくり出すという究極を求めて/生き物が「動く」ってすごく不思議:20181005大岩 和弘(未来ICT研究所 主管研究員 NICT(国立情報通信研究機構)フェロー)http://www2.nict.go.jp/advanced_ict/oiwa/index.html

・・・タンパク質モータの機能を、物理学的視点から、最少要素を用いて試験管内で再構築、その解析を行う「in vitro 再構成実験系」と、一つのタンパク質モータ分子を捕捉して、その力学・酵素特性を計測する「単一分子計測手法」の発展に大きく寄与し、分子通信という情報通信の新概念を提唱することで、世界的な新しい潮流を生み出すに至っています。

・・・微小管とキネシンが創出したネットワーク構造=星状体の中心にキネシンが集積している。

【関連】微小管-タンパク質モータ相互作用によるネットワーク構築とその数理モデル化に成功~細胞の形や硬さを決める細胞骨格の操作技術につながる成果~20160727国立研究開発法人情報通信研究機構https://www.nict.go.jp/press/2016/07/27-1.html

・・・[研究成果/要点]今回、私たち研究チームは、わずか二種類のタンパク質要素、タンパク質モータ・キネシン(キネシン-5)と微小管を、一定の比率で混合してエネルギー源であるATP(アデノシン三リン酸)を加えるだけで、自発的に様々な空間的秩序構造を創り出すことを見いだしました。10マイクロメートルほどの長さしかない微小管が、キネシン-5と相互作用することで、1000倍に及ぶセンチメートルサイズの実験槽全域に広がる安定なネットワークを形成し、それが大域的な収縮を起こして崩壊することなど、これまで報告されていなかった現象を発見しました。つまり、微小管とタンパク質モータ・キネシンが自己組織的に形成するネットワークの振る舞いを定量的に明らかにして、その数理モデル化に成功したことになります。

・・・微小管とキネシンは、細胞の形態形成、細胞分裂や細胞内物質輸送などの重要な生命機能の基盤を担う細胞骨格の主要要素です。このネットワークの動態観察システムの構築と理論モデルの確立は、生命現象の様々な場面で現れる細胞内秩序構造の形成メカニズムの解明とその秩序構造の操作技術につながることが期待されます。

・・・本研究は、国立研究開発法人科学技術振興機構JST) 戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)「生命動態の理解と制御のための基盤技術の創出」研究領域における研究課題「細胞間接着・骨格の秩序形成メカニズムの解明と上皮バリア操作技術の開発」(研究代表者: 月田 早智子)として実施したものです。

・・・

・・・非論理的、非科学的、非人間的、かつ非立憲民主主義的な<アベ「カルトor悪徳」権力>がもたらした、しかもその由々しき影響が今後も日本国民を引き続き抑圧し続ける恐れがある、直近の深刻被害の事例(2件)・・・

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1173980218102468608

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 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1173980218102468608

  

(我われの周囲に偏在する量子力学を用いて説明できる現象・事象のサンプル)

  • 原子の安定性・・・古典的な説明では、電子が原子核に落下するはずであり、安定した原子は存在するはずがない。
  • スペクトル線・・・原子の中には量子化されたエネルギーが存在し、その準位間で電子が遷移すると、正確に定義された波長を持つ輝線が観測される。
  • 化学的な力・・・分子を統合させる力は、量子力学的な性質を持っている。
  • 黒体放射・・・黒体放射https://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/68303163.htmlのスペクトルは、その放射自体が量子化されるときにのみ理解される。
  • 遺伝の信頼性・・・これは、DNAの分子レベルにおける量子力学に依存している。
  • レーザー・・・レーザーの働きは、分子の量子力学的な状態間における励起した量子遷移の存在と、光の量子的性質に依存している。
  • 超伝導超流動・・・これらは非常な低温で起こる現象だが、様々な物質中に存在する電子と電子の間(および他の素粒子との間)の、遠距離量子間相関に関係している。

・・・

f:id:toxandoria:20190904101746j:plain

・・・当画像は、https://news.mynavi.jp/photo/article/20100208-a061/images/011l.jpg より転載。

なお、著書『心は量子で語れるか』(講談社)のなかでR. ペンローズ量子力学がいかに古典物理学と異なるかの典型的な事例(量子力学のミステリー)として以下の二つ、A【量子論非破壊検査(量子的爆弾検査問題)の限界?】とB【量子的非局所性(量子もつれ)を利用した量子テレポーテーションの限界?】を挙げている(ペンローズはAについて、それは古典物理で言えば零位測定(零位法/天秤や電位差計と同じ考え方による測定方法)に相当する、とも述べる)。

それは、これら両者が共に現実的な意味で(実用の面で)は信頼性が未だ十分に確保されたとは言い難いからである(個々の説明にあるとおり、夫々は研究手法の側面で様々な改良・工夫が行われているが・・・)。

 f:id:toxandoria:20190901121725j:plain・・・当イメージ画像はwikiより。

 A【量子論非破壊検査(量子的爆弾検査問題)の限界】現実には理想的な実験は困難であり、爆弾のときにも弱い干渉が起きる(あるいは、不発弾のときにも干渉が完全でない)可能性があるため、1個の光子で確実な判定はできない。しかし、爆発させずに爆弾を選び出す確率を高めるため、偏光面の回転を利用することが提案されている。これによって100%まではいかないがそれに近い確率が実現されているが、たまには爆発が起こる(だから実用には耐えられない!苦w)。現実の実験では、ミラーに取り付けられた爆弾の代わりに特定のエネルギー準位にある原子などが用いられる(出典:Q&A科学と技術の諸相、http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/qa_a97.htm)。

 

f:id:toxandoria:20190904105350j:plain・・・当画像はhttps://nazology.net/archives/44167より

 B【量子的非局所性(量子もつれ)を利用した量子テレポーテーションの限界】

(1)先行する論文はチャールズ・ベネットらのものがあるが、2004年に古澤明(現、東大大学院工学系研究科教授)らが3者間での量子テレポーテーション実験に成功しており、更に2009年には9者間での量子テレポーテーション実験を成功させたため、これらの実験の成功で量子もつれを用いた情報通信ネットワークを構成できることが実証された、とされているが実験の成功率は?

(2)続いて、2013年8月に古澤明(当時、東大工学部教授)を中心とするグループが、完全な量子テレポーテーションに成功したと発表されたが、それは波の性質の転送技術を改良し、従来の100倍となる61%の成功率であったとされる。

(3)更に、2017年7月には中華人民共和国の研究チームが地上・宇宙間の量子テレポーテーションに成功したらしいがその実験の成功率は不明?(結局、通信セキュリティを高めることが目的となるか?/以上、(1)~(3)の出典はウイキほか)。

 ・・・

 f:id:toxandoria:20190901121852j:plain・・・当画像は、https://www.gizmodo.jp/2019/04/there-may-not-be-objective-reality.htmlより。

この点について、R.ペンローズは従来の量子力学の描像には何か物理学上の基本的な要素が二、三、欠けていると確信しているようだが、ペンローズが期待する新しい理論には不可欠の要素として「波動関数の収縮」(又は、波動関数の崩壊)と呼ばれるものが含まれる筈だ。そして、この新しい理論は従来の量子力学や場の原子論に還元されるべきだが、同時に新しい物理現象の発見をもたらしそうでもある。 

f:id:toxandoria:20190901122105j:plain

<注>量子力学における「波動関数の崩壊 (収縮)」 とは?

・・・初めはいくつかの固有状態の重ね合わせであった波動関数が、(観測によって)ある1つの固有状態に収縮(へ崩壊)すること。量子測定の本質をなし、波動関数と古典的なオブザーバブル(位置や運動量など)との間を繋げるものである。波動関数の崩壊は、量子系が時間発展する2通りの方法の1つであり、もう1つの方法はシュレーディンガー方程式に従う連続的な時間発展である。

・・・

そして、この理論(ペンローズが期待する、古典物理学量子力学を統一する新しい物理現象の発見)の中には重力の量子化(未知の重力子の発見の問題)や初期宇宙の物理学の問題に関係する解答が眠っているかも知れないし、或いは後述する<人文・科学知の融和・和解的統合(コンシリエンス/consilience)=堀田昌寛氏(2019年度: 東北大学, 理学研究科, 助教)が言うところの“波動関数(量子状態)についての” 実在論的解釈(ontological intepretation)ならぬ認識論的解釈(epistemological interpretation)の問題>が必然的に深く関わることになるのではなかろうか?

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1165012047194554368

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例えば、in vivoイン・ヴィボ/リアル生命環境内/in vitro(イン\ヴィトロ)は、試験・実験環境内)における「電気化学的勾配によるカルシウム・イオン、ホルモン・酵素等の“内分泌系”情報伝達物質の脳などにおける移動・伝播、細胞蛋白質や細胞小器官との間で情報伝達的かつ物理的な橋渡し役を担う細胞骨格(マイクロフィラメント等(直径で約約5~9nm以下の超マイクロ・スケール!)の超微細組織)の働き、という驚くべき事実(リアル生命環境内における生命の姿)はこの新しい理論に深く関わる可能性がある。しかも、それは宇宙規模のブラックホールとも通底する!(ワイル曲率仮説↓☆)

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ペンローズ『皇帝の新しい心』(みすず書房)は ホーキングが「ビッグバンとビッグクランチ(無次元の特異点)の相違は前者がワイル曲率の極小で後者は極大であり、その差こそが重力場エントロピーの大小を決める決定的要因で宇宙論的な時間の矢は宇宙の両端の境界条件で定まる」と説いたことを紹介している。 

<参考1>ワイル曲率

・・・R.ペンローズによれば、ワイル曲率はリーマン曲率テンソルtensor)の一部で、それは「閉じたフリードマン宇宙」(現時点における宇宙の時空の実態を記述する有力な仮説モデルの1つ)のイメージとして、ペンローズの著書『心は量子で語れるか』(ブルーバックス)の中で解説が加えられている。なお、量子力学ニュートン力学(伝統物理学)の統一理論の存在を探るR.ペンローズの視座は、このフリードマン宇宙仮説の妥当性の保証に接近しつつある。

・・・言い換えれば、ワイル曲率は一般相対性理論における数学的な宇宙の時空世界であるが、テンソルとは線形的な幾何概念を一般化したイメージ概念であり、これで多次元の配列が表現できる.。また、ライプニッツに由来するとされる、ベクトル束線形代数で言う、一定の方向性を持つ独立な線列の束)の原点である基底を決めれば、そのテンソルのイメージは作図できる。なお、数学的な意味でのテンソル自身は、特定の座標系によらないで定まる対象である(右下、数学的なテンソルのイメージはwikiより)。

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・・・当「閉じたフリードマン宇宙」のイメージ画像は『ブログ:科学と技術の諸相/第3章.膨張する宇宙~動的世界観の復活~』http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/L1_03.htmより転載した。

・・・ラグビーボール状のイメージの上端をビッグバン(エントロピー極大/ワイル曲率0)とすれば下端がビッグクランチエントロピー極小/ワイル曲率∞)となる。また、ラグビーボール状イメージの中間の下端に近い領域にホワイトホール(white hole)が存在し、真逆に上端に近い領域にブラックホールが存在することになる。

・・・これらは、ブラックホール解を時間反転させたアインシュタイン方程式の解として、一般相対性理論で理論上で議論される天体である。ブラックホールが事象の地平を越えて飛び込む物質を再び外部へ逃さずにすべてを呑み込む領域であるのに対し、ホワイトホールは事象の地平線から物質を放出すると考えられる。

・・・興味深いのは、このラグビーボールの全体から、更に「輪廻」(・・・→誕生→生成→消滅(死?)~再生・・・)という象徴的な意味での円環のイメージが想像的に理解できることである(Cf.↓▼)。言い換えれば、それは、このことから「ヒトと世界」のリアリズムについて、更に、新たな「認識論的解釈(epistemological interpretation)」の可能性が拡がるのではないか、と思われることである。

f:id:toxandoria:20190930071731j:plainf:id:toxandoria:20190930071911j:plainf:id:toxandoria:20190930071957j:plain          

維摩経」の良循環と真逆の「靖国原発ダブルス顕幽論カルト」、それは「第3の矢=超格差拡大・原発推進・武器輸出・戦時体制強化」なるアベ一派・反知性主義の賜物https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20140502/p1

 

 f:id:toxandoria:20190917043107j:plain

 <参考1>史上初、ブラックホールの撮影に成功 ― 地球サイズの電波望遠鏡で、楕円銀河M87に潜む巨大ブラックホールに迫る20190410国立天文台・・・イベント・ホライズン・テレスコープで撮影された、銀河M87中心の巨大ブラックホールシャドウ。リング状の明るい部分の大きさはおよそ42マイクロ秒角であり、月面に置いた野球のボールを地球から見た時の大きさに相当します。(Credit: EHT Collaboration) オリジナルサイズ(643KB)https://www.nao.ac.jp/news/science/2019/20190410-eht.html

 

 f:id:toxandoria:20190905025945j:plain

<参考2>ビッグ‐クランチ(Big Crunch)は、現在において想定される宇宙終焉の三つ(Big Crunch(噛み砕き圧し潰される) 、Big Chill(冷え切る)、Big Rip(引き裂かれ粉々になる))のシナリオの一つ/ナショナル・ジオグラフィックhttps://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/102

<参考3>

太陽系外の地球型惑星で「水」を初確認!=興味深い! ∵ 更に何らかの‘生命’の痕跡が見つかれば単なる第一自然型のフロンティア発見の意義に止まらず、マクダウエル≪リアリズム倫理≫自体の相転換(第三の自然の発見!?)により、AIシンギュラリティ妄想など比較にもならぬ人類文明の更なる更新・持続の可能性が拡がる。https://twitter.com/tadanoossan2/status/1172627136366039040

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1172627136366039040 

 ▼マクダウエル『リアリズム倫理学』の核心はヒトの意識を“第二の自然”と見なし、それを“第一の自然”(地球環境)と同等に位置づける点にある 点にある   f:id:toxandoria:20190916215351j:plain

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・・・

 (マクダウエル倫理学の核心=近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシャプラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだという主張)

ところで、一般に我われは人間の心について、普通<それはコギトエルゴスム(cogito、ergo sum/我思う、故に我あり)デカルトが考えたような物理的世界には何ものをも負わない実体とされるか(マクダウェルの言う『威丈高なプラトニズム』)、逆に物性物理的・還元論的な性質に還元されて説明されるか(同じくマクダウェルが言う「露骨な自然主義)という二者択一に常に迫られるというジレンマに陥っていることになる。

マクダウェルは、このような「威丈高なプラトニズム」と「露骨な自然主義」とが実は共犯関係にある(普通、我われはそれにより騙されている)ので、今やAI‐コンピュータがほぼ万能視されるような時代になったからこそ、そのような近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシャ的(プラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだと主張している(これが、マクダウエル・リアリズム倫理学の核心!/出典:現代独仏圏の哲学的人間学とジョン・マクダウェルアリストテレス自然主義岩手大学、音喜多信博/KAKENhttps://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-17K02156/

マクダウェル言う「今こそ我われが範に採るべき“近代的二項対立に陥る以前のアリストテレス的な世界観”」ということを言い換えれば、それは「ガダマーディルタイ生の哲学のなかに再発見したとされる“”古代ギリシャ・ローマにまで遡る「現代人がすっかり忘れ去ったリベラル・アーツ的な観念でありそれこそがヒト故の豊かな想像力の源泉」(その流れの二大潮流がプラトンアリストテレスの和解・融和ということ/そして、これは見方次第のことながら、アリストテレス主義(徳の倫理学二コマコス倫理学)がプラトン主義を批判的に受け止めつつも深く理解し、同様にプラトン主義(敬虔(謙虚さ)の倫理学アリストテレスの徳の倫理学を批判的に受け止め深く理解していたと考えられること)であったのではないか?と思われる。(Cf.https://kimihikohiraoka.hatenablog.com/entry/20120422/p1 、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

(マクダウエル『リアリズム倫理学』の核心はヒトの意識を“第二の自然”と見なし、それを“第一の自然”(地球環境)と同等に位置づける点にある)

 

f:id:toxandoria:20190901140804j:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166906719974244352

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166906855035035648

たまたまのことだが、<20190827朝日「文化・文芸」欄の『スマホ・AI、言語を変える/コンピューターは想像が苦手?』という記事>は興味深い内容であった。

それは、我われが<スマホ・AIによって言語の質そのものが根本から変わりつつある(話し言葉が書き言葉の中に入ってきた?!ヒトの意識と異質なコンピューターは文脈的・文法的な意味は分からないが、それは人間同士の言語の使い方とは全く異なるコミュニケーションの形を創造しつつある?)時代に入ったというユニークな指摘に加えて、コンピューターはヒトの最もヒトらしい特徴と見るべき「想像」 imaginationが苦手である!?(従って、益々、これからの時代において我われヒトの会話と文章、つまりその意識から想像力が失われて“我われが動物化”する宿命にあるのでは?)という、当ブログ記事のテーマでもあるヒト故の想像力のユニークさ(重要性)を本格AI化の時代に入りつつある今こそ再認識すべきだ!という問題意識」と重なる論点を提供しているからだ

 【補足】『人間の壁2』と「選言説」について

f:id:toxandoria:20190905112403j:plain・・・「選言説」(intentionalism)は、知覚・感覚ひいては感情こそがヒトの日常言語における固有名の一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る、言語哲学の立場であり、一般的には概念説(表象説、概念相対主義/relativism)と対置されるが、マクダウエルでは、これが「ヒトの意識=第二の自然と定義し、それを第一義の自然と等置する考え方」のベースとなっている。

・・・「マクダウエルの選言説に因る意味論」でも、その第二の自然たるヒトの意識はそもそも胎盤的な謂い-の環境である第一義の自然の影響を当然のこと受けている(諸感覚を経由して)はずなので、たとえ固有名詞であっても初めから固有の価値を持つとは考えられない‐ということになる。

・・・『人間の壁2』は、準汎用AIの高度機械生産性の角度から見れば『人間の壁1』の問題そのもの(AI抽象化デュナミス潜勢態(生命体のヒトにとっては、抽象化である限り、それはあくまでも可能性の次元に留まる/大黒岳彦)に重なる(委細参照 ⇒ (1)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938 , (2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

6・・・つまり、上の記事(2)で述べた『人間の壁2』(“感じる”ヒトは高度デジタル抽象的なビジネス・サービスだけでは十分に満足できないという)問題は、<知覚・感覚ひいては感情>こそがヒトの日常言語における固有名の一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る「選言説」と関りが深いことになるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/42/1/42_1_1_29/_pdf/-char/en)。

<参考>マクダウエル自身は概念説(表象説)と選言説の結びつきについて明確な論述を施していないが、われわれは、ひとまず両者の関係を次のように整理することができる

・・・概念説と選言説はそれぞれ対立する立場との間に論争を巻き起こしつつ、現代の知覚の哲学における中心的な関心領域の一部を形成している。マクダウエル自身はこれらふたつの説の結びつきについて明確な論述を施していないが、われわれはひとまず両者の関係を次のように整理することができる。

・・・一方の「概念説」が確保しようとするのは、「知覚経験においてわれわれの信念は合理的な制約を獲得する」という論点であり、他方の「選言説」が確保しようとするのは、「知覚経験においてわれわれの心に提示されるのは実在の在り方そのものである」という論点である。

・・・したがって、これら二つの見方は、相伴うことで「経験は信念に対して実在からの外的な合理的制約を与える」という論点を構成すると考えることができる。換言すれば、選言説と概念説の両者はそれぞれ、「実在から経験へ」および「経験から信念へ」という二つの道筋を整備し、それらを正当化の序列のなかに正しく位置づけるために相補的に機能すると捉えられる(出典:知覚経験の選言説と概念説/小口峰樹(東京大学総合文化研究科科学史科学哲学/現・玉川大学脳科学研究所、特任助教)。https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/members/pdf/知覚経験の選言説と概念説.pdf

f:id:toxandoria:20190905130837j:plainf:id:toxandoria:20190905130905j:plainf:id:toxandoria:20190905131026j:plain

【補足】「選言説Vs概念説」の緊張関係がヒントとなる「AI時代の民主主義の新たな可能性」について(小論)

f:id:toxandoria:20191001061954j:plain

・・・パース(Charles Sanders Peirce/1839 – 1914/米国の哲学者、論理学者、数学者、科学者/プラグマティズムの創始)が提唱したタイプ(脳内で自由に変容する可能性がある概念そのもの)とトークン(その概念と対峙する関係にある、確固たる実在としての因果の連鎖に縛られる特定・個別の対象)の区別(Type-token distinction)という考え方がある。

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・・・デイヴィドソン(Donald Herbert Davidson/1917- 2003/米国の哲学者/最も著名な論文は『行為、理由、原因(1963)』)によれば、現実的には、個々人の心理面におけるこの両者の対応関係は一筋縄では行かない。

・・・そこで、例えばある固有名詞(特定タイプの言語表象)ら多様な言語表象の組み合わせに因る一定の言語表現(厳密に言えば、それによる或る人の心的理由の説明)は、必ずしも因果論的ないしは論理的に首尾一貫性を確保するとは限らないことになる。いわば、個々人の内心それ自身は常に多様性に満ちていることになる。(画像は、https://www.s9.com/Biography/davidson-donald-herbert/ より)

・・・別に言えば、如何に客観合理性を謳うとしても、安定的に、それが中立性・公平性を担保するのは非常に困難であることが理解できるはずだ。ましてや、何か絶対的に梃子でも動かぬソリッドな固定観念か何かが自己の中核的で、個性的な生命力の正体だと理解することはできないといえる。逆に言えば、個々の個性的な一回性は個々の関係性にこそあることになる。

・・・実は、このような点にこそ、マクダウエルが「選言説」(intentionalism/必然的に脳内外の諸環境の干渉の影響下にある感情こそがヒトの日常言語における固有名の一義的な意義と概念の形成に先行すると見る立場/その極致が、いわば“恰も感情と表象が一体化”しているが如き純粋経験としてのアプリオリで居丈高なプラトニズム)と「概念説」(表象説、概念相対主義/relativism/その極致が、いわば露骨な自然主義)に関わり、これら二つの視座の融和・和解に因る真のリアリズムの自覚を取り戻すこと(それによって真のリアリズムを復権させること)が、愈々、必須である!と警鐘を鳴らす根本的な理由がある。

・・・しかも、この論点は現実的に現下の国際政治の局面(言い換えれば、世界の民主主義と世界経済の行き方を占う!?)にも絡んでいることが理解できるはずだ。

・・・それは、例えば今や混迷を極める隘路に嵌ったかに見えるBrexit、又は米トランプ政権の「自国(実はトランプ自身?)第一主義」の暴走などにしても、果たしてこれらは「英国⇔欧州」を巡る諸問題の解決策として、あるいはトランプ流の格差解消策として有効なのかどうか?等の次元よりも、格段に重要なことのあることが世界的に共有されつつあるということだ。

・・・つまり今まで有意であった筈の民主主義そのものが今後も存続ために必須と見るべき第一条件は何か?ということ、言い換えれば、このパース、ディヴィドソンらに由来する<根本的な人間理解(人間社会・人間文化などをより深く理解するため)のベースとして選言説を採るか、概念説(表象説、概念相対主義)を採るか、そしてこれ等と「いまや、益々、流動化しつつあるAI時代の民主主義」の新しい在り方とを、どのように結び付け、どう理解し、更に、どう議論を深めて行くべきか?という重要な課題を最優先させるべきであること>が、悪化するばかりの格差拡大や地球温暖化、あるいはあまりにも悲惨な移民問題などを目の当たりとして歴然としつつあるからだ。

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・・・因みに、『ネット階級社会ーGAFAが牛耳る新世界のルールー』(早川書房カズオ・イシグロ推奨)の訳者(中島山華氏)の“訳者あとがき”によると、この本の著者アンドリュー・キーンは英国生まれのIT起業家(シリコンヴァレーのインサイダー)であるが、キーンは前著二冊の主張(ユーザー生成コンテンツ(日常言語主義がベースとなる)への過度な依存となることに因るネット・メディアの質の低下と、フェイスブックツイッターSNSが促す“超可視性/hyperbisibility”(見た目&表層的分かり易さ重視)の危うさを指摘)を踏まえ、以下のように<我われが準汎用AIがもたらす『人間の壁』に囲い込まれる危険性>について警鐘を鳴らしている。

・・・『更に、インターネットを万能の解決策のようにとらえる現代人のものの見方、ズバリ言えば、その民主主義の特異な在り方への傾斜の危険性、換言すれば「一般社会の『非選言説』的な思考への傾斜によって、我われは『第一の自然』と『第二の自然』(両者ともマクダウエルの命名)の双方から過剰に乖離しつつある。いわば、それは我々が“準汎用AI機械化経済化によって【人間の壁】(過剰な抽象世界における只の可能性に過ぎないAI高度生産性)の奴隷と化しつつある”ということだ。』(委細は下記★を参照乞う)。

AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができる https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

・・・

【補足】試される民主主義/ヤン・ヴェルナー・ミュラー

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1170440578519031808

・・・以下では、日本でも量子力学等の先端科学フィールドを軸として、特に若手研究者の中に理系・人文系の垣根を超えた、人間そのものへ新たな理解が深まりつつある!?と思しき事例を少し取り上げておく。・・・

<注>人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス/consilience)の委細についてはコチラを参照!⇒20161107toxandoriaの日記、http://urx3.nu/AH4L 

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松岡正剛『千夜千冊』https://1000ya.isis.ne.jp/0004.htmlによると、R.ペンローズ『皇帝の新しい心』(みすず書房 1994)には「コンピュータ・心・物理法則」という副題がついている。そのため、「コンピュータは心を表現できるのか」との積年の疑問への解答か?との期待を持つ向きもあったようだが、その期待はあっけなく裏切られる。

しかし、「心の科学」の観点からペンローズは同書の中で「コンピュータ(AI)に対峙する人間の心の特性(換言すれば全宇宙におけるヒトの心の特異性?(換言すると一回性的な意味で)のヒトのスケールのユニークさ(例えば“対数目盛”に換算して見る限り人間の寿命は殆ど宇宙の年齢と同等に長いとも言える!)を発見しており、奇しくも此の観点がマクダウエルのリアリズム倫理と深く共鳴することに驚かされる。/補、toxandoria)」を解き明かしたとも言える(関連参照 ⇒既出の ペンローズ『心は量子で語れるか?』(講談社)。http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000226689

また、量子力学量子的な絡み合い、量子もつれ)によれば、起こり得たかも知れないが実際には起こらなかった過程についての情報を得ることができる(関連参照 ⇒既述の量子的爆弾検査問題http://www7b.biglobe.ne.jp/~fortran/education/Doshisha/bomb.pdf

[事例1]波動関数の収縮(崩壊)はパラドクスではない!20140405堀田昌寛/2019年度: 東北大学, 理学研究科, 助教http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/05/094917 

f:id:toxandoria:20190901143945j:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1165459574897299456

1 【メモランダム/QT】波動関数の収縮(崩壊)はパラドクスではない!20140405堀田昌寛/2019年度: 東北大学, 理学研究科, 助教・・・以下、部分転載・・・コペンハーゲン解釈を学ぶ時、一番最初にひっかかるのは「波動関数の収縮(崩壊)」という概念ではないだろうか。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

2 ある量子系を測定して結果を得た途端、その状態は瞬間に別な状態へと変化するという、あの話だ。古い教科書で学んだ先生方からは、「そんなことは気にするな。まずは計算ができるようになれればいい。と親切なアドバイスを受けた人もいるだろう。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

3 それでも何か気持ち悪い感じが残っている人も多いらしい。従来の教科書ではコペンハーゲン解釈の本質的パーツの説明が抜けているから、こういう消化不良を起こすのだと思われる。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

4 「コペンハーゲン解釈では波動関数(量子状態)は物理的実在ではなく、認識論的情報概念であるとしっかり理解すれば何も問題は起こらないのだ。観測者が持っている系の情報量に応じて、1つの量子系に対する波動関数は人によって異なってもいい。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

それは、実在論的解釈(ontological intepretation)ではなく、認識論的解釈(epistemological interpretation)の問題なのであるhttp://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

6 また、猫や人間を含む有限自由度のマクロ系でも量子力学は適用できるという点も認めれば、コペンハーゲン解釈のどこにもパラドクスは生じない。シュレーディンガーの猫の思考実験もパラドクスではないのだ。http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

量子コンピュータの概念が多くの研究者に浸透するとともに、マクロ状態の線形重ね合わせを原理的に否定する考え方は廃れてきた。もちろん「デコヒーレンスを抑えれば」’(関連参照 ⇒https://www.weblio.jp/content/%E3%83%87%E3%82%B3%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9 )という前提があるのだが、http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

8 マクロ系でも量子コヒーレンスをうまく保つ(デコヒーレンスを抑える)方法があの手この手で模索されている。実用に耐える巨大量子メモリを持つ、スケーラブル量子コンピュータ(scalable quantum computer)を夢見る研究者の多くにとって、http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

波動関数は言わば量子情報(様々な物理量の確率分布の束)そのものなのだ。現代的コペンハーゲン解釈での波動関数の収縮(崩壊)は、測定による量子系の知識の増加に過ぎない。・・・以下、省略・・・http://mhotta.hatenablog.com/entry/2014/04/

[事例2]<研究ノート> 「コペンハーゲン解釈」とは何か : ニールス・ボーアと崩壊解釈は両立するか:森田 紘平、京都大学大学院文学研究科・科学哲学科学史研究 (2014), 8: 77-87 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185330/1/phs_8_77.pdf

 f:id:toxandoria:20190901145703j:plain

 1 はじめに

量子力学の哲学におけるテーマの一つに解釈問題がある。解釈問題とは,その名の通り,量子力学の理論をどのように解釈するべきかという問題である(補足、toxandoria/[事例1]で堀田昌寛氏( 東北大学, 理学研究科, 助教)が指摘するとおり、それは実在論的解釈(ontological intepretation)ではなく、認識論的解釈(epistemological interpretation)の問題!愈々、この領域は理系・人文系の垣根を超えたコンシリエンスの視座が必須であると、特に若い研究者の間で共通理解されつつある!)。

・・・以下は、同論文より部分転載・・・

量子力学の解釈としては,van Fraassen の様相解釈や,DeWitt の多世界解釈,Bohm の隠れた変数理論などが挙げられる。中でも,最も有名であり標準的な解釈とされているのが,コペンハーゲン解釈である。一般に解釈問題を扱う際には,標準解釈とコペンハーゲン解釈は区別して用いられるが,量子力学を波束の崩壊を認めるか否かで二つに分けるとすると同じグループに属すと言える。波束の崩壊を認める立場では,量子力学における状態の時間発展に射影公準(射影仮説)を認め非連続的な変化を認める(後述)。コペンハーゲン解釈はこの波束の崩壊を認める立場であり,多世界解釈などはそれを認めない立場である

<参考>マクダウエル「リアリズム倫理」(コンシリエンス的な心の哲学フェーズ)で留まり、下(◆2、◆3)の世界へはあまり踏み込まぬ方が無難かもしれない?(苦w)

◆1「使われない公理」扱いされているが、実は「射影仮説」は重要である http://as2.c.u-tokyo.ac.jp/~shmz/zakkifiles/01-11-07.html 

◆2量子言語は、(A1)と(A2)の折衷案 http://chanelkant.blog.fc2.com/blog-entry-191.html 

・・・(A1):射影仮説を採用しない(したがって、波束の収縮はない)、(A2):射影仮説を採用する(したがって、波束の収縮はある)

◆3"量子言語入門:量子力学の言語的解釈" http://www.math.keio.ac.jp/~ishikawa/QLEJ/indexj002.html

・・・

コペンハーゲン解釈はその名の通り,コペンハーゲンで生まれたとされる解釈であり,デンマークの物理学者Niels Bohr が発案者とされることが多い.また,1930年代前後にBohr を支持していたとされる幾人かの物理学者たちもコペンハーゲン解釈の支持者と考えられている。例えば,Werner Heisenberg やWolfgang Pauli,Ernst Jordan,L`eon Rosenfeld などがコペンハーゲン解釈を支持し,発展させた物理学者であるとされる(Camilleri 2007,pp. 27–28).中でも特にHeisenberg とBohr は20 世紀前半の量子力学の議論をリードしてきた物理学者である。

この二人の量子力学解釈はコペンハーゲン解釈と呼ばれることも少なくない。このような立場では,例えば相補性や全体性といった概念に対する態度や,崩壊過程を肯定する態度はBohr とHeisenberg に共通する量子力学解釈であるとみなされている。しかし,このような捉え方に反して,Heisenberg とBohr との間に解釈の違いがあることは1970 年代前後から指摘されてきた。後述するが,崩壊過程(量子崩壊、波動関数の崩壊)を認めるか否かという問題でさえ,Bohr とHeisenberg は異なる立場にある。とはいえBohr とHiesenberg が異なる解釈をとっているとしながらも,20 世紀の量子力学史研究ではコペンハーゲン解釈は存在するはずで,その核となる主張が曖昧なだけであるとされてきた。つまり,Bohr とHeisenbergの主張は合致していない部分もあるが,それでもコペンハーゲン解釈なるものが存在し,その内容を明らかにするという研究方針が20 世紀には主流であった。

しかし,このような研究の方針自体をHoward は否定している(Howard 2004).Howard はそもそもコペンハーゲン解釈は虚構であり,その内容を探究する試みは無意味であると考えた。Camilleri はHoward と同じ立場をとり,現在では有力な立場の一つと言っていいだろう。一方で,旧来の方針を踏襲するGomatam のような立場もある。どちらの立場が正しいかという問いは本論では扱わない。しかし,このGomatamの議論は波束の崩壊に関する議論において決定的な問題がある。本論では,その問題点を指摘する。

本稿の構成は以下の通りである。第2 節ではHoward(2004)までのコペンハーゲン解釈研究を概観する。加えて,Kragh(1999)やJammer(1974)といった量子力学史,および量子力学の哲学の標準的な本においても,コペンハーゲン解釈の内容が曖昧であることが指摘されている点を確認する。続いて,第3 節では科学史的な側面から現代のコペンハーゲン解釈研究を見る。特にCamilleri はコペンハーゲン解釈の誕生に関する説得的な議論を展開している。第4 節では,波束の崩壊に注目し,Bohr の解釈との整合性に関する議論を見る。そこではHoward(2004)とGomatam(2007)を扱う。そして,第5 節においてGomatam の議論に対する決定的な反例を提示しよう。・・・途中、省略・・・      

4 Bohr(Henrik David Bohr/1885 - 1962/デンマーク理論物理学者) と崩壊解釈

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<補足>「量子力学の育ての親」とも呼ばれるニールス・ボーアは、特にブッダ老子ら東洋の思索家が直面した認識上の問題に関心があり、「ヒトの存在は観客でもあり演技者でもある」(toxandoria補:おそらく、 波動関数の収縮を認めていなかった可能性が高いボーア(委細、後述)は“マクダウエルのリアリズム倫理にも似た厳格リアリズム(in vivo)認識論的な量子論”の立場であった?と考えられる )ことに関心を向けていた(INTHETIC『量子力学と東洋思想』https://inthetic.com/about_attracting)。 ・・・ボーアは、次のように言っている。⇒「原子物理学論との類似性を認識するためには、我われはブッダ老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題(認識論的解釈(epistemological interpretation)の問題)にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

・・・

ここまでで,コペンハーゲン解釈の研究に関する,いくつかの重要な論文をまとめてきた。この節では,崩壊解釈とBohr の解釈が一致するのかという観点から検討する。コペンハーゲン解釈が虚構であるとされる根拠の一つとして,コペンハーゲン解釈の特徴とされていた波束の崩壊を認めるというアイディアが,支持者の中心人物であるはずのBohr と両立しないという点が挙げられている。これ以外にも,この解釈の支持者の間で解釈が一致しない概念があり,結論として,コペンハーゲン解釈が虚構であるとされている。例えば,相補性や全体性などがその好例であるが,ここでは波束の崩壊に絞って議論を進める。

最初に波束の崩壊を定義しよう。Howard(2004),Gomatam(2007)において波束の崩壊と射影公準は区別されていないので,本論でもそれに倣う.波束の崩壊とは,ある系(その状態を| ⟩ と表すとする)が観測機器と相互作用することで,この系 は観測しようとした物理量A に対応する固有状態|a⟩ に変化することとする。また| ⟩ , |a⟩ とする。波束の崩壊を認めるか否かによって,量子力学の解釈を分類できることはすでに述べた。コペンハーゲン解釈は一般的に崩壊解釈であるとされている。しかし,Bohr は波束の崩壊を認めない。この点に注目してHoward とGomatam の議論を追って行く。∗・・途中、省略・・・・

Bohr が波束の崩壊という言葉を一度も使っていないという点はHoward,Gomatamによって指摘されている(Howard 2004,pp. 670–671;Gomatam 2007,p. 738)。ただし,Bohr が波束の崩壊やそれに類する主張をしていないことは,Teller(1980)やKragh(1999)でも指摘されている。Howard はBohr が崩壊を認めなかった根拠として,観測の標準的な扱いに関する議論を提示する(Howard 2004,p 671).Howard によれば,量子力学の観測過程がどれほど新奇なものであれ,観測は物理的なプロセスであるとBohr は考えていた。一方,波束の崩壊を認めるということは観測に通常とは異なる時間発展を認めることに他ならない。これはつまり,観測過程が特殊な物理的なプロセスだと考えていることになる。Bohr は1927 年のComo 会議で以下のように述べている。

量子仮説は,原子的現象のすべての観測には,観測装置との無視することのできない相互作用がともなうということを意味している。それがために,現象にたいしても観測装置にたいしても,従来の物理学の意味における独立した実在性なるものを付与することはできなくなる。(Bohr [1927]1999,pp. 54–55,邦訳pp. 20–21)この引用は,Bohr が独立した実在を認めていないことを意味している。さらに,Bohr は観測による擾乱を生涯認めることはなかった(Howard 2004,p. 672)。

<注記>「Bohr が独立した実在を認めていないこと」の重要な意義(epistemological interpretation的な理解)

・・・この「Bohr が独立した実在を認めていないこと」は、マクダウエル『リアリズム倫理』の考え方に似ている!つまり、そもそもある自然事象(社会的事象に非ず!)に善か悪かの差異はなく、その差異はヒト故の意識的な理解に因ることになる。しかし、マクダウエルでは、それ故にこそリアリズム(実在)としてのヒトの意識のリアリズム(実在)が非常に重みをもつことになる訳だ。しかも、そのような意味でのリアリズム意識を持つのはヒトのみに限られていると考えられるので、ヒトが作る社会・文化・政治・経済のあり方については、まさにヒト自身(しかも、ヒトだけ)が此の奇跡的とも言えるエトノス自然環境のなかで責任を負っていることになる。特に、そのヒトの中でも為政者のそれが非常に重要であることは論を待たないと考えられる(補、toxandoria)

・・・

観測機器は古典的に記述して,対象系は量子力学的に記述するという機器と対象の二元論をBohr は否定する。むしろ,Bohr の立場では機器と対象はエンタングルメントを起こすのであるから,この二つは分離不可能である(Howard 2004,p. 675)。古典力学の範疇ではエンタングルメントは生じないので,観測機器が対象とエンタングルメントを起こすなら機器も量子力学的に扱うべきであるというのが理由である。

Howard によればBohr は観測過程を物理学における相互作用の一種とみなし特別扱いを認めず,加えて,分離不可能性を用いて波束の崩壊を認めていなかった。この分離不可能性は,機器の扱いと対称系の扱いを区別することを禁じている。

 

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・・・当画像は、http://maruyama097.blogspot.com/2017/05/epr.html より。

<補足>分離不可能性について

・・・A. Einsteinらが提起した分離不可能性とは、量子も含む物理量が「分離不可能」な一つの系を成していると理解すべきなので、そもそも“完全な理論には、実在のそれぞれの要素に対応する要素が、理論自体の中にあるべきだ!”とする、いわゆるEPR論文(A. Einstein, B. Podolsky, and N. Rosen、http://as2.c.u-tokyo.ac.jp/lecture_note/kstext04_ohp.pdf)の立場である。

・・・そして、ボーア(ブッダなど東洋の思想・哲学に関心を持っていたとされる!/既述)も同じ考え方であったのでは?とするのが、当「森田紘平」論文の立場でもあると思われる。

・・・因みに、このボーアの考え方は、“現在の量子理論(コペンハーゲン解釈)には何か二、三の基本的な公理の如きものが欠けているのでは?と見るR.ペンローズの疑問、あるいは「“第一の自然”と“第二の自然”を等置しつつマクダウエルが説くリアリズム倫理」(同じく既述)の考え方とも共鳴する点があるように感じられて興味深い(関連参照↓ブログ記事▼)。

▼世界中の天才たちを悩ませた「謎」とは? 物理学史上最大のドラマ/科学ジャーナリスト:Louisa Gilder(訳:山田 克哉、窪田恭子)https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49977?page=4

・・・

続いてGomatam の議論も確認しよう.Gomatam もHoward 同様に,波束の崩壊がBohr の解釈と両立しないと論じている。しかし,Gomatam は崩壊を量子文脈性と分離不可能性を用いて議論している点で異なっている。

さらに,Gomatam はコペンハーゲン解釈に様々なバージョンがあるとしながらも,コペンハーゲン解釈には核(中心となる理論構造)があるとして議論している点も特徴的である。このGomatam の立場は,Howard やCamilleriが明らかにコペンハーゲン解釈なんらかの核を認めないこととは対照的である。以下で,詳しくみていこう。

 Gomatam は量子文脈性について以下のように定義する(Gomatam 2007,pp. 738– 739)。量子文脈性とは,波動関数は個々の系を記述しているが,物理量の明確な値は 観測の文脈(ヒトの意識の視座?/補、水のイマージュ)でしか予測されないというアイディアである。つまり,固有状態・固有値 は観測によって,かつ観測が行われた時に作られるとする立場である。この量子文脈性こそがコペンハーゲン解釈を特徴づけるものである。これは Gomatam において波束の崩壊がコペンハーゲン解釈の要素であることを示していると言えるだろう。

f:id:toxandoria:20190907133240j:plain・・・当イメージ画像はhttps://quantumleap.fandom.com/wiki/Genesis:_Part_I_(episodeより

<補足>量子文脈性の問題を、一挙に、いわゆる“クォンタムリープ(量子的飛躍science-fiction)”なる怪しげな?カルト概念(orサイエンス・フィクションの世界)へ結び付けるのは危険である(苦w)。そのように一気にleapしたいという人々の気持ちが分からぬ訳ではないが、例えば、ボーア・ペンローズられっきとした科学者、又はマクダウエルら哲学者の如く、あくまでも「実在論的解釈(ontological intepretation)と認識論的解釈(epistemological interpretation)の相剋」というコンシリエンス・アカデミズムの領域に止まるべきである。因みに、AIに因るシンギュラリティ(画期の新時代)への劇的な相転移が出現する!なるサヴォナローラ風の預言?も、此のクォンタムリープのジャンルに属する、一種のハイな酩酊意識(喩えれば“何でも「改憲」で解決!”一本鎗へムリクリ突っ走る安倍政権 や#日本会議 らの(オ?)カルト観念は是に似ている鴨神社!w)だと考えられる

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<蛇足1>【現代日本のクォンタムリープ!(量子的飛躍)こと“共依存シンドローム”の土壌?】・・・現代「勲位制」にしぶとく遺る、戦中・戦前期「英霊界位階制≒神階制」なる国家守護神制(国立亡(英)霊鎮護国家?)の残照・・・

・・・位階(神階)は、著しい業・功績をあげたと評価される政治家・大学名誉教授・財界人らの著名人に対し、主にその死後に日本政府から下賜される“従四位正四位・・・”らの叙位称号のことを指す。

・・・日本国憲法第7条では、栄典の授与を内閣の助言と承認のもとに行われる天皇の国事行為と規定しており、勲章や位階などは天皇の名により授与する形式をとっている。

・・・又、この規定は「天皇以外の機関(国会、内閣総理大臣都道府県知事、市町村長ら)が授与を行う栄典の制度を設けることを排斥するものではない」とされる。

・・・日本における位階制は古代律令制に基づく政治行政制度とともに中国から輸入し、爾後に独自の発展を遂げたものである。

・・・他方、一般に律令の位階と混同されることが多い神階(神位)は、神道の神に授けられた位階のことで、「神道と日本人」(春秋社)の著者・葉室頼昭氏(故人/春日大社宮司・医師)によれば、「国家神道(国家英霊を尊崇する)は明治政府の大きな誤りで、そもそも伝統神道には“英霊”に連なる神位の考え方はなかった」とされる。Cf.

http://www003.upp.so-net.ne.jp/tomoiki/kokkasintou.htm

・・・そして、「国家神道」イデオローグの下で「英霊に連なる神位」を創作すること、換言すれば「一強官邸(>司法・検察・官憲)麾下の顕彰教義に埋め込まれた侵略への“総忖度・共依存”型の大政“翼賛“動員という政治目的を、聖戦教義(聖戦を煽るアベ様から下賜された嫌韓の呪文に溺れ、かつ浮かれ舞い上がる現在の日本世論の空気にも似た(苦w)日本人の“情”を擽るこのみいくさ論/Cf.↓)・英霊教義の似非宗教トリックで粉飾(クォンタムリープ(量子的飛躍)化)する」ための国家宗教施設として制度化されたのが靖国神社である。

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【戦後JPNクォンタムリープ一強超然権力の元祖!/半島“極右権力”と同根/聖戦を煽る社会的“共依存”の空気は小さな風穴から吹き始める!】「名にかへて このみいくさの正しさを 来世までも語り残さむ」 岸 信介(安倍晋三・祖父)、https://mie-net.hatenablog.com/entry/20140105/p1

<蛇足2>日・韓(安倍・朴)両政権が共有する“カルト超然権力”の核心は旧日本軍(関東軍/旧満州統治)方式の『軍事国家主義

・・・https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20160109/p1 より、部分転載・・・

 ・・・朴槿恵の父・朴正煕は日本の陸士出身で関東軍・陸軍中尉の経験があった。その朴正煕(岸と同じ満州国人脈!/韓国第三共和国大統領)が米国(米産軍複合体)支援の下で行った経済開発の手法は旧日本軍(関東軍)仕込みの「軍事国家主義」政策であった。

・・・ところで、韓国の反共理念が米国の基本利益に一致するとの判断から「韓米経済軍事援助協定、http://ur0.xyz/q9Nq」が締結されたのと同年、1954年の5月1日に「世界神霊統一協会(明らかにカルト教団!)」が韓国で設立されており、この符号は不気味である。

・・・しかも、《霊的なもの、あるいはカルト》が暴走的な政治権力と軍事パワーに対し支配的に関わり(場合によって、その影響力は原子力などの科学技術や文教・文化政策にまで及ぶ)、その「一般市民・庶民層に対する買弁的な抑圧の構図」は作為で創られるという意味で、そこから<中東においても、米産軍複合体がアルカイダ・ISらイスラム原理主義テロ集団の草創期に関わっていた>ということ(事実)が連想させられ空恐ろしくなる。

・・・やがて、70年安保の直前にあたる1968年には、「世界神霊統一協会」の政治活動部門である「国際勝共連合」が韓・日の双方で発足しており、日本では岸信介、ほか判事経験者など法曹界系の国会議員らがその活動に参画したことがよく知られている。(ウイキ情報あり)

・・・発足時から日本「国際勝共連合」が掲げてきた主要目標の中には、≪改憲(9条放棄ほか)・軍事力強化(三原則放棄など)・原発推進≫などがあり、これらはまさに現在の安倍政権が躍起になって取り組む重要政策となっていることだ!(ウイキ情報あり)

・・・現在の朴槿恵には韓国の経済再建という絶対的な命題が伸し掛かっており、その意味でも「漢江(ハンガン)の奇跡」(http://ur0.pw/qeDj )を実現した父・朴正煕の偶像化と再評価に縋りつくという思いが強いと考えられる。

・・・つまり、安倍晋三朴槿恵の両者は、日韓両国の「民衆・市民レベルの歴史」とは全く異なる、殆ど異次元と言っても過言ではない特異な、米国(米産軍複合体)が“公式にではなく戦略的に公認”する私的歴史観(=関東軍仕込みの軍事国家主義史観)を共有していることが理解できる。・・・以下、省略・・・

・・・

 Gomatam における崩壊の記述を確認する。Gomatam は波束の崩壊に対して定義を 与えていない。しかし,崩壊仮説に対する説明は加えている。そこでは,崩壊が観測によって生じることと,崩壊仮説に基づけば波動関数は,個々の状態と関連している ことを述べている(Gomatam 2007,p.738)。量子文脈性は,この崩壊仮説を含む形で 定義されている。なので,ここでは量子文脈性に注目して議論しよう。

先の引用でも見たように,Bohr は対象と観測機器を区別するということを認めない。 このことを Gomatam は分離不可能性と呼ぶ。ここでの分離不可能性とは,個々の系 の記述と量子力学的な形式を関連付けることを認めないということである(Gomatam 2007,p. 739)。言い換えると,量子力学の形式の対象である量子系を観測系と被観測系の全体として捉えることである(Gomatam 2007,p. 738)。

Gomatam は,この意味での分離不可能性と崩壊解釈が両立しないと論じている。 換言すると個々の系に対して波動関数を割り当てるとする量子文脈性は,Bohr の分離不可能性と両立しない。分離不可能性に基づけば,個々の系に対して波動関数を 割り当てることは許されない。

したがって,Bohr の立場と量子文脈性は両立しない。 Gomatam によれば,Bohr の分離不可能性に基づく解釈は,崩壊仮説を回避している。 なぜなら,Bohr は個々の粒子に波動関数を関係づけることを認めていないからである (Gomatam 2007,p. 747)。つまり,波動関数は対象だけを独立に記述することが出来 ないとする Bohr の立場は,対象だけに波動関数を割り当てることができないとする量子文脈性とは両立しない。この議論は量子文脈性にのみ適応されるものではなく, 波束の崩壊にも応用できる。

Gomatam の議論を引き継げば,波束の崩壊における二つの時間発展と分離不可能性が両立しないと言えるだろう。 このように Howard,Gomatam はともに崩壊解釈と Bohr の量子力学に対する立場 が両立しないと主張している。結論は同じであるが,そこで用いられている議論が異 なっており,Howard の議論に比べ,Gomatam の議論には直ちに反例を与えることが できる。その点については次節で確認しよう。

5 Gomatam の問題点 

f:id:toxandoria:20190907154942j:plain・・・この参考画像「固有値固有ベクトル」は、ウイキより。

Gomatam(2007)の議論は,分離不可能性によって,波束の崩壊を回避できるとい う主張であった。しかし,分離不可能性に反せずに波束の崩壊を認めることができる例を提示できる。 Bub が述べているように,観測機器との相互作用による時間発展では,

観測機器と の相互作用によって生じるユニタリ(補・toxandoria/直交行列を複素数体へ拡張した/ごく平易に言えば、複素数体上の内積空間より抽象化された(実数→複素数の各空間より更に一次元だけ抽象度が深まった)内積空間(その定義の範囲における元の無限集合)と言うべき鴨?))な時間発展(補・toxandoria/固有値ないしは固有ベクトルを持つヒルベルト空間での)と,非ユニタリな時間発展(補・toxandoria/固有値の不在があり得る実数空間での)の二つがあ る(Bub 1999,pp. 34–37)。

<注>量子内における波動関数ヒルベルト空間、について

・・・「ヒルベルト空間は、厳密な数学上の定義を置くとすれば、とりあえず実数・複素数の計算に適応できるベクトル空間」として、また「量子内の波動関数は、無限次元複素(数)ヒルベルト空間内のベクトル」として、夫々が定義できる

ert.htm )

・・・

したがって,波束の崩壊を回避するために被観測系に波動関数を割り当てることができないという分離不可能性を用いても,観測機器と被観測系の複合系において崩壊過程が生じうる。よって,Gomatam の議論は成立しない。

より正確には,分離不可能性だけでは,波束の崩壊を否定する根拠たりえない。した がって,Bohr が分離不可能性を支持していたことだけでは,Bohr が波束の崩壊を否定していたことを導けない。それでは結論も否定されるのだろうか。

つまり,観測機器との相互作用によって生じるユニタリな発展と,非ユニタリな発展の二つの時間発展があるという点をBohrは認めるだろうか。Gomatam の用いる分離不可能性の議論だけでは,この点を十分に 否定できない。

しかし,Howard の議論を用いればこの点にも反論できる。つまり,前述した通り Howard によれば,Bohrは観測機器の相互作用を特別扱いすることを認め ない。Bohr は特別な時間発展を,この場合では非ユニタリな時間発展を量子力学に認めることを否定しているからである。

従って、Bohr は波束の崩壊を認めないと言えるだろう(補・toxandoria/しかし、同時にボーアは波束の崩壊を認めていたとも言えそうだ。それは、この二者択一の決着は“観測”によらざるを得ない筈だが、その先では再び“観測問題”が登場することになり、このアポリア状況の連鎖が“入れ子”構造的に連続する筈であるからだ。)。

 6 おわりに 

本論では,2000 年代以降のコペンハーゲン解釈研究について見てきた。現在は Howard(2004)の影響もあり,この解釈が虚構であったとする立場が優勢である。し かし,彼らが共通の概念を使っていたことも明らかである。例えば,相補性や全体性などの概念は Bohr らに特徴的である。

とはいえ,彼らが同じ意味で用いているとは 言い難い(Cammileri 2009,pp. 45–48)。そこで,Bohr らを総称してコペンハーゲン学派と呼ぶことは問題ないだろう。むしろ,コペンハーゲン解釈という言葉よりも, より正確な呼称ではないだろうか。いずれにせよ,コペンハーゲン解釈という言葉を無批判に用いることは非常に危険であると言わざるをえない。

Bohr の解釈はいまだに議論の的であるが,歴史的な分析が十分に行われているわけではない。例えば,Gomatam は本論でも指摘したように,議論には根本的な問題点が ある。Bohrの解釈を再定式化しようとする試みは少なくないが,歴史的な分析は少な い。今後は,歴史的な分析に基づく Bohr 解釈を構築していく必要もあるだろう.・・・以下、省略・・・

[事例3]絶縁体の量子振動の観測に成功 ‐金属でも絶縁体でもない前例のない電子状態を発見‐20180906京都大学・研究成果

・・・佐藤雄貴 理学研究科博士課程学生、および笠原裕一 同准教授、松田祐司 同教授、伊賀文俊 茨城大学教授、杉本邦久 高輝度光科学研究センター主幹研究員、河口彰吾 同研究員らの研究グループは、米国ミシガン大学、英国オックスフォード大学、米国ロスアラモス国立研究所と共同で、本来電子を流さない絶縁体であるイッテルビウム12ホウ化物(YbB12)において、強磁場中で量子力学的効果により電気抵抗と磁化率が磁場とともに振動する現象(量子振動)を初めて観測しました。本研究成果は、2018年8月31日に米国の科学雑誌「Science」のオンライン版に掲載されました。

・・・【研究者からのコメント】私達の身のまわりにある物質は、絶縁体と金属の2種類に分類されると考えられてきました。本研究成果はそのような従来の常識を覆すものであり、絶縁体とも金属とも区別できない新しい状態があることを示しました。このような新奇電子状態の研究を今後さらに進展させることで、従来の枠組みを超えた新現象の発見が期待されます。

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http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2018/180831_2.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

【概要】

・・・物質には電気を流す金属と流さない絶縁体の2種類が存在します。金属では「量子振動」という現象が起きることが知られています。この量子振動とは、強磁場中で量子力学的効果により電気抵抗や磁化率が磁場とともに振動する現象で、量子振動が観測されることは金属状態が実現していることを意味します。

・・・ところが、近年「近藤絶縁体」と呼ばれる希土類元素を含んだ化合物サマリウム6ホウ化物で、磁化の量子振動が観測され注目されています。ただし、この絶縁体では、電気抵抗では量子振動が起きず、量子振動の起源や解釈を巡って大きな問題となっていました。

・・・本研究では、別の近藤絶縁体イッテルビウム12ホウ化物(YbB12)に着目し、大型放射光施設SPring-8で結晶構造とその純度(単相性)を確認しました。続いて、高感度磁化測定(磁気トルク測定)および精密電気抵抗測定を、米国立強磁場研究所において極低温かつ高磁場中で行いました。

・・・次いで、高感度磁化測定(磁気トルク測定)および精密電気抵抗測定を、米国立強磁場研究所において極低温かつ高磁場中で行いました。その結果、このYbB12において、磁化だけでなく電気抵抗における量子振動を世界で初めて観測しました。

・・・さらに、この量子振動をもたらす電子状態が、通常の金属と同様のふるまいを示すことも明らかとなりました。本研究成果により、YbB12は絶縁体とも金属とも区別することができない前例のない電子状態をもつことが示唆されます。

【関連情報/研究情報 2016大阪大学  トポロジカル近藤絶縁体の特異な2次元電子状態を発見】https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166166585045700608

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【参考】近藤効果は磁性を持つ極微量な不純物がある金属では温度を下げ続けるとある温度以下で電気抵抗が上昇に転じる現象で、これは金属の一般的な性質とは異なる。1930年頃から知られていた当現象の物理的機構は1964年に近藤淳が初めて理論的に解明した。・・・最近では、プルトニウムの普通でない金属δ相(面心立方格子構造)を理解するためには近藤効果の現れが必要であると考えられている。・・・近藤の業績を引用する論文も増えていて、ノーベル賞の候補とされている https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91

3  日本政府のAI兵器に係わる惚けた意思表明は総国民と忖度メディア(主要TV・新聞)等が共依存の関係で<普遍情報“共有環境”劣化シンドローム>に罹患した証左

f:id:toxandoria:20190901152734j:plain

<注>共依存Co-DependencyCo-Addiction)の核心は、アイデンティティ又は確固たる自意識の自閉的な溶解・希薄化!

・・・ある特定の物質、出来事、行動、人間・社会関係(パートナーや周辺人物、又はナルシズムの対象としての自己らとの共鳴・交感・交歓・交流)等を特に好み、それら特定の関係性(関りのバイアス)に頼り切る双方向的な性向(嗜癖、習慣・心理的傾向、社会的風潮or傾斜的関係性など)に引きずられ、そもそも自己の核心であるべきアイデンティティや信念、あるいは客観視が可能な確固たる自意識が崩壊(溶解・希薄化)した相互対人・対自己関係という意味での超閉鎖的なループ共存状態。端的に言えば、それは「自分自身に開放的・客観的な自意識の光が当たらない水準まで精神環境が溶解・希薄化・内向化した繰り返しループ型の異常な双方向的関係性」である。・・・

f:id:toxandoria:20190901152846j:plain

Cf. http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~nabeyama/works/nenpou.htm#2 http://www.purelight1111.com/co-dependency-the-addiction-of-fake-love/https://twitter.com/Nikkan_BizLine/status/1165578802392522752

マイファーストG7/2019」でリアル化した「マイファースト、ポピュリズム」&「共有情報環境劣化」なる現代世界における二大マイナー・トレンドの根源(熱源)と見るべきものは、意外と思われるかもしれないが、愈々、恐るべき現実と化しつつある「AI兵器」の問題である。

f:id:toxandoria:20190901153101j:plain

マイファーストG7/20190827日経、https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166066376462630912

f:id:toxandoria:20190901153300j:plainhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1166878265916743681

f:id:toxandoria:20190920175600j:plainhttps://twitter.com/metatetsu/status/1164280308021075968

f:id:toxandoria:20190920175638j:plain

 f:id:toxandoria:20190901153835j:plainhttps://twitter.com/rockfish31/status/1163224542325567491

以下1~3は、平成31年3月22日付けの外務省「報道発表」(=AI兵器に関わる“日本政府、つまり安倍政権”の見解)より部分転載したものであるが、その要点は@tetsuさんがTwで纏めたとおり(上の画像)、以下の3点((1)~(3))である。https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_007229.html ←外務省「報道発表」

・・・

f:id:toxandoria:20190901154047j:plainhttps://gigazine.net/news/20170822-elon-musk-ban-killer-robots/

★AI兵器について日本政府の意見

(1)日本は完全無人兵器を開発しない

(2)メリットもあるため完全禁止とは言わないが、厳格なルールが必要

(3)"軍事利用の可能性がある"というだけでの自律化技術の研究規制を行うことは厳に慎むべき

・・・

1 3月21日,我が国は,特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)の枠組みの下で,自律型致死兵器システム(LAWS)に関する政府専門家会合(GGE)の2019年第一会期が同月25日から29日まで開催されるに当たり,作業文書(英文)(PDF)を提出しました。

2 我が国は,通常兵器に関する軍備管理・軍縮に積極的に取り組んできました。今回の作業文書は,本年のGGEにおいて,人道と安全保障の観点も勘案したバランスの取れた議論を行い,国際社会が将来目指すべき取組の方向性を示すことに貢献すべく提出したものです。

3 我が国としては,国際社会において共通認識が得られるよう,LAWSに関する議論を更に深めていく必要があると考えており,我が国の安全保障の観点も考慮しつつ,引き続き,国際的なルール作りに積極的かつ建設的に参加していく考えです。

[参考1]作業文書のポイント

(1)目的: 国際社会が将来目指すべき取組の方向性を示すことに貢献。

(2)議論の整理: 過去の議論を踏まえ,関係者間で認識共有すべき事項を指摘。

(3)日本の考え方:日本は,完全自律型の致死性を有する兵器を開発しないという立場。有意な人間の関与が確保された自律型兵器システムについては,ヒューマンエラーの減少や,省力化・省人化といった安全保障上の意義がある。

  • ア LAWSの定義: 致死性や人間の関与の在り方等の議論を深めることが必要。
  • イ 致死性: 致死性を有する自律型兵器システムのみについて議論を進めることが望ましい。直接的に人間を殺害する設計がなされた兵器システムをルールの対象とすることは一案。
  • ウ 有意な人間の関与: 致死性兵器には,使用される兵器に関する情報を十分に掌握した人間による関与を確保する等,有意な人間の関与が必須。兵器のライフサイクルにおいて有意な人間の関与が必要な段階と程度について議論を深めるべき。
  • エ ルールの対象範囲: 致死性兵器に用いられる可能性があるといった安易な理由で,自律化技術の研究・開発の規制は厳に慎むべき。ルールの対象範囲は,致死性があり,かつ有意な人間の関与がない完全自律型兵器とすべき。
  • オ 国際法や倫理との関係: LAWSを含め,武力の行使に当たっては,国際法,特に国際人道法を遵守することが必須。国際人道法違反に対しては,通常の兵器と同様に使用する国家や個人の責任が問われるべき。
  • カ 信頼醸成措置: 透明性の確保のため,兵器審査の履行体制をCCW年次報告に加える等,いかなる仕組みが適切か検討することが適当。

(4)あり得べき成果: 主要国を含む,国際社会で広く共通認識を確保した上でルールについて合意するのが望ましいが,意見の相違があるため,法的拘束力のある文書を直ちに実効的なルール枠組みとすることは困難。現状においては,GGEにおける議論を踏まえた成果文書が適切なオプションの一つであり,今後,他の関係者と協力する

・・・

先ず、ズバリ言えば“余りにも善良な多数派の日本国民と全世界の人々を煙に巻く”という点に明らさまに照準を定めた、それ故にこそ斯くも“ひどく煮え切ぬ表現にした”安倍政権の<AI兵器に関わる曖昧で分かり難い意見>が公式に表明されたこと、しかもそのこと自体に関しさしたる批判的な意見が主要メディア等から出されていないという点にこそ、世界の中でも、特に今の日本社会トータルが悪しき「マイァースト、ポピュリズム&情報環境劣化」に激しく汚染していることの証左である。

しかも、絶対に見逃すべきでないのは@tetsuさんがTwで纏めた「政府意見」のポイント(1~3)の中の(2)と(3)である。それらを以下に再録(+補足)しておく。

(2)メリットもあるため完全禁止とは言わないが、厳格なルールが必要(論理矛盾!)

(3)"軍事利用の可能性がある"というだけでの自律化技術の研究規制を行うことは厳に慎むべき(論理矛盾のみならず、マグダネル・リアリズム倫理に抵触(“人間の壁”無視)の謂いで非人間的!)

先ず、「(2)メリットもあるため完全禁止とは言わない・・・」のメリットとは何を意味するのか?想像力を逞しくするまでもなく思い出されるのが先ず「AI兵器研究・開発&関連ビジネス」の推進・展開(特に、同輸出関連)による経済的メリットということであろう。

つまり、このような日本政府(安倍政権)の発想は、現行の兵器・軍需ビジネスの只の延長として「AI兵器」を古典的な国家間戦争のツールとして理解していることに他ならず、まさに安倍政権がホンネでは19~20世紀的な「帝国主義・植民地資本主義時代の資源蕩尽型の死の商人」ビジネスの延長上に「AI兵器」を位置付けていることの現れである(関連参照↓▼ロジェ・カイヨワ戦争論』)。

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▼現代におけるマイファースト権力者らの多くが古典的な「資源蕩尽(スクラップ&ビルド)型のビッグ戦争経済」の信奉者であるという忌むべき現実がある一方で、一縷の“救い”は、資源蕩尽の点で祭りと戦争が共通性を持つと共に、戦争と祭りの決定的な違い(後者=他者への思いやり、共感、自然と世界に関わる情報の共有、を目的としている!)を同じカイヨワが指摘していること! ☞ 2019-08-21HATENAブログびぼうろく/NHKEテレ100分de名著「カイヨワ「戦争論」「第3回 内的体験としての戦争」」 https://amagomago.hatenablog.com/entry/2019/08/21/160947?_ga=2.243834117.1077550725.1566286849-988706385.1566286849 

加えて、これはなにも「AI兵器」に限ることではないのだが、そもそも「軍需・兵器」に関する研究が先端科学(特に、原子力・バイオ・医薬学等の分野)において、絶えず新たな展望(先端的な新機軸の開拓)をリードしてきたのは歴史的な事実である。

しかも、「AI兵器」については、おそらく一般国民も此の点については遍く周知のことである筈だが、従来の先端科学に関わる研究とは全く異質な次元である『人間の壁』の問題に到達しているのが現実である(だからこそ、『AI兵器フィールド=自律化技術の開発・研究』の一言で割り切るべきでない!ハッキリ言えば、これはリアルな人類存亡の危機(身近に言えば、国家・日本の存亡の危機)と言うことに他ならないのである!/≪AIがもたらしつつある『人間の壁』≫の委細については下記▲1、2を参照乞う)。

▲1 『人間の壁』、デュナミス経済化を助長する“間主観性⇔AIロボ・クラウド汎知”断絶問題(チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済(第4次産業・AI革命)に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!/第6章‐1https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

▲2  ディープラーニング(多層機械学習(計算)を導入するに当たっての留意点(『人間の壁1』と『人間の壁2』について(AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができる/第3章)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

因みに、このような実に由々しき日本政府(安倍政権)の「AI兵器に関する曖昧で惚けた意思表明」は、ヒロシマナガサキに照らせば、全世界に対して実に恥ずべき“ヒトとして最低限の倫理観”不在のおぞましさである!しかも、それが彼の「核禁止条約参加」を頑なに否定し続ける安倍政権のホンネ(究極的には、日本の核武装も厭わぬという、世界で唯一の被曝国のトップにしては殆ど狂人同然の“戦前型軍国主義者”の実に恐るべき本心!)に通底しているのは火を見るよりも明らかだ。

しかし、ごく一部の例外を除けば、今や深刻罹患した「共依存」関係の居心地の良さ?に甘んじるあまり、相変わらず「主要メディア(TV・新聞)」は、かくの如き安倍政権のおぞましくも唾棄すべき実像を堂々と批判的に報じることに対して距離を置いている。

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◆首相、核禁止条約参加 あらためて否定(東京新聞)/安倍首相が広島“原爆の日”にまた冷酷対応! 広島市長の核兵器禁止条約参加の訴えを無視、原爆養護ホームも訪問せず(リテラ) 20190806東京新聞/20190806リテラ、(1枚目の画像は、リテラ、二枚目はアフロ(2018)より)https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201908/CK2019080602000303.html https://lite-ra.com/2019/08/post-4886_2.html https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180806-00000001-storyfulp-soci.view-001

・・以下、東京新聞記事の転載・・・

・・・ 安倍晋三首相は六日午前、広島で行われた平和記念式典であいさつした後の記者会見で、国連で二〇一七年七月に採択された核兵器禁止条約について「現実の安全保障の観点を踏まえることなく作成されたために、核兵器保有国が一カ国として参加していない」と指摘し、参加に否定的な見解をあらためて示した。

・・・首相はその上で、核軍縮の進め方について、核保有国や非保有国との間で「立場の隔たりが拡大している。各国の橋渡しに努め、対話を粘り強く求める必要がある」と語った。 

・・・式典後の被爆者団体代表との面会では、条約について「アプローチは異なるが、条約が目指す核廃絶という目標はわが国も共有している」とも語った。

・・・式典のあいさつでは、核兵器禁止条約や、ロシア、中国に対抗して核戦力の増強を進めるトランプ米政権の動きには触れず「唯一の戦争被爆国として、『核兵器のない世界』の実現に向けた努力をたゆまず続ける」と語った。

・・・東西冷戦を終結に導いた米国と旧ソ連のINF廃棄条約が二日で失効したことへの直接的な言及はなかったが、核軍縮を巡る現状について「近年、世界的に安全保障環境は厳しさを増し、核軍縮を巡っては各国の立場の隔たりが拡大している」と指摘した。(中根政人)

(関連情報)プルトニウムをため込みながら世界に非核化を訴える、日本の矛盾(ピースボート共同代表、川崎哲氏)

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https://twitter.com/yurikalin/status/1170609430569738240 

・・・以下、globe記事「2019.09.06World Now」https://globe.asahi.com/article/12687093

の転載・・・

「核の夢 二つの世界」連続インタビュー⑤

日本は原発から出る使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、再び燃料にする核燃料サイクルを推進している。ただ、プルトニウム核兵器の材料に使われるため、再処理に批判的な意見も少なくない。核兵器廃絶と同時に「脱原発」の立場をとる国際交流NGOピースボート」の川崎哲(あきら)共同代表(50)に、日本が大量に保有するプルトニウムの問題点を聞いた。(聞き手・構成=渡辺志帆)

――川崎さんは、2017年にノーベル平和賞を受賞した国際NGO核兵器廃絶国際キャンペーンICAN)」の活動で知られています。ICANも「脱原発」の立場なのでしょうか。

ICANは世界の500以上の団体が加盟し、原発に対する意見も様々だ。そのためICAN原発について賛否の立場を取っていない。ただ、ウラン採掘への反対運動から反核運動に発展したオーストラリアの団体は、核兵器原発も、両方だめという立場。英国も、伝統的に反原発反核運動の親和性が高い。

私は「脱原発」を、ピースボートと個人の立場で訴えている。

――なぜ川崎さんは原発に反対なのですか。

原発の燃料に使うプルトニウムや濃縮ウランは「核兵器の材料」にもなる。つまり原爆につながる問題ということだ。

ピースボートの活動で、私たちは被爆者の方々と世界を回ってきた。被爆者の中でも、ずっと原発に賛成だった人や、原子力産業で働いてきた人が多くいた。その中で3.11(東日本大震災東京電力福島第一原発事故)が起きた。その後は、被爆者が原爆の証言をすると、原発についても尋ねられる。「日本は原爆で苦労したのに、なぜ原発をつくったの」と。大きな問いかけになっている。

――日本が再処理したプルトニウムを国内外に約46トンを保有していることが問題になっています。

日本だけが特別にプルトニウムをため込んでいる。他にプルトニウムを大量に保有している国は核保有国。それも褒められたことではないが、一応は理解できる。核兵器の材料なんだから。でも核兵器を持っていないし、「造らない」と言っているにもかかわらず、なぜ日本はプルトニウムをため込むのか。原発で消費する見通しもないのに。合理的な説明がつかない。

―日本が核兵器保有を目指すおそれがあるということですか。

中国はそういう批判を繰り返しているが、国際的孤立を選んでまで日本に核兵器をつくる気があるとはとても思えない。核兵器をつくるとなれば、核不拡散条約(NPT)を脱退して北朝鮮のように経済制裁を受けることになる。

――では、どんな問題がありますか。

イランや北朝鮮に対して核開発を「やめて」と言わないといけないときに、日本が問題解決を複雑にする。「日本が認められているならいいじゃないか」「日本のように平和利用に取り組みつつ、高度な技術でプルトニウムを作れるようになりたい」と言われたら、今の日本の態度では、認めないという説明がつかない。世界が目指す「核の脅威」の封じ込めを妨害し、核拡散の温床になる。

また、保有プルトニウムのうち約9トンは国内にある。米国では核兵器と同じように武装して守られているというが、日本の防護体制はきわめて弱いし、テロ対策も不十分。そうした問題を早く解決しないといけない。

――それでも日本がプルトニウムを手放さないのはなぜでしょうか。

核燃料サイクルを断念すると)中間貯蔵施設のある青森県が(国の約束に反して)最終処分場になるという「パンドラの箱」を開けたくないから、という説明もありうるが、疑問が残る。

プルトニウムの生産能力を持っていること自体に、一定の価値を見いだす計算が日本政府の中にあるのではないか。1988年発効の日米原子力協定で、(核保有国でない)日本のプルトニウム保有を例外として米国に認めさせたことが、いかに素晴らしい外交的成果だったかを説く日本人外交官に会ったことがある。イランにも北朝鮮にも韓国にもない、ある種の「特権」をみすみす手放していいのか、と。最終的に核武装能力につながるものを、一定の価値、あるいはアセット(有用なもの)として見ていると感じる。

ーー世界の原子力政策を見ると、先進国で撤退の動きがある中、インドや中国など新興国で新たに原発を建設する動きも活発です。

核兵器の開発や使用を法的に禁じる国際条約「核兵器禁止条約」が2017年に採択されたことで、「核兵器を持つことが大国である」という議論にくさびを打つことはできてきた。だが、条約に賛同した多数の国にとっても、「核技術はグレート(偉大)なもの」という考え方はいまだに根強い。そして、その延長線上にある原発などの技術も偉大ですごいという価値観を壊さない限りは、この問題は続く。

NPTの議論でも繰り返されてきたが、開発途上国の「核の平和利用の権利」の主張は、多分に「メンツ」の問題だ。先進国から指図されたくない、負けたくない、自分たちも発展して大国になりたいという願いや競争意識がある。だから、多くの開発途上国は「核兵器は悪だ。しかし、核技術は善だ」というNPT的思考をいまだに抜け出せていない。

私としては、「核兵器は非人道的である」と価値観を転換させた上で、「核技術も、危険で、恐ろしくて、悪いものである」というところへもっていきたい。

――日本は「アプローチが違う」として核兵器禁止条約は批准していません。米国の「核の傘」に守られているという現実もありますが、日本にできることはありますか。

核兵器禁止条約が発効した後、たとえ日本が批准していなくても、条約加盟を隠れ蓑にして核兵器開発を企てる国が現れないよう、検証方法の強化を提案することはできる。締約国会議に参加して、建設的な議論に参加することが期待されている。

川崎哲 かわさきあきら 1968年東京都出身。東京大学卒業後、2003年より国際交流NGOピースボート」共同代表。ICANでは10年に副代表となり、その後、共同代表。14年からは国際運営委員。

・・・

(関連情報)経済・軍事覇権ファクターだけが世界政治のリアリズムとの理解は、全人類に対する冒涜では?専門コンサルか何だか知らぬが、核戦争をリアルに想像してるのか!? ⇒ ボルトン解任で日本の核武装が現実に!913吉川圭一/コンサルティング事務所グローバルイッシューズ総研代表

f:id:toxandoria:20190917123512j:plainttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1172785640510877697

 

(エピローグ) 「共依存シンドローム(日本社会の想像力の消滅)」がもたらす最大の悲劇は、AI「人間の壁」に抗し得る最後の砦としての憲法問題 

・・・AI「ヒトもどき意識」(意識なし差別)の観点はリアリズム倫理(マクダウエル)の問題に深く関わることになる!・・・

 AI(特にDLディープラーニング)がやっているの(特徴量の予測という仕事)は、「ある事象の典型パターン」の予測的な抽出であり、それは一定の説明的な(個々の異なる母集団の上で、それぞれ特定の母集団に関わる性質等の説明を目的とする)統計とは本質的に異なるものである。

 つまり、それは「仮想ビッグデータ空間」であるから中立的だと見る現象(事象)に関わる確率の大きさ(推測値)を意味する(DLではそう想定することが大前提となっている)以外の何物でもないのである。

 だからこそ、安倍政権が手を染めてきた如き統計パラメータの操作・改竄などは絶対に許されない行為である!これは、このような意味での統計とDLの正体(それらの根本的な違い)を考量した上での逆説的・相対的な視点から十分に理解できることである(つまり、一事が万事だが、アベ政権がやっているのは非科学的な個々の事実の隠蔽・改竄・消去!)。

 従って、AI‐DLが弾き出した推測値(特徴量、内部表現、潜在表現は、決してそれ以外の残余の現実(時間の流れに沿う無限の因果に因り全方向の空間へ繋がるリアル現象の全体、つまりマッハ感覚論的素材性が表象するヒトの世界のリアリズム(現実のアナログ世界における自然計算の全容)と全てのエルゴン(未生の可能性も含め、そこから未来へ繋がる活力源の全て)を示すものではなかった。

 なぜならビッグデータの仮想母集団に関わる膨大な計算処理プロセスで、その殆どが機械計算処理の過程でデジタル的に捨象されているからだ。しかも、そのデジタル的に捨象された“リアル・アナログ”ワールドは、<AI“ビックデータ”ディープラーニング>の“印象操作”が与える領域よりも、実は遥かに広大なリアル世界なのだ。

いわば、地球という生命環境の一部である我々の日常生活を取り巻く「自然・社会・精神・生命」現象のリアル・アナログワールドは、ある目的で抽出された「推測的な特徴量」らの如く、ビッグデータ故に中立的であると想定されたような意味の素材性(抽象的デュナミス潜在性の要素)からだけ出来ているのではないということだ(いわば過去と未生から成るキャンバスとしての内外環境トータル、そして何よりもエルゴンと絡みつつ、変容し続ける量子世界とも連動する因果の干渉・共振こそがリアル世界である!。

ところで、特に日本のマスメディア、与党政治家、多数派財界人らがAI‐DL(ディープラーニング)技術に対し過剰に忖度する(苦w)、あるいは短絡的な目先主義でそれを自己利益のために利用しようとする、つまりその意味で《ドラえもんなんでもポケット》風のマイファースト主義を採るようになった背景には、おそらく此のようなリアル(AI機械経済化に因る『人間の壁』の問題)についての無関心(ないしは統計とAI‐DLとの決定的な違いに係わる無知、又はその不都合な事実を隠蔽しようとする作為)があるのかもしれない。

そして、その先に透けるのは、あの<新自由主義の跋扈によるもの以上の更なる重篤化症状を伴うグレート・デカップリング(Great Decoupling)に因る超格差の拡大>、換言すれば『人間の壁』が巨大化するマクロ経済的な意味で重篤な業病に冒された暗黒社会デストピア)が襲来する懸念である。そこで重要となるのが(下記ブログ記事の第三章‐『ディープラーニング(多層機械学習(計算)を導入するに当たっての留意点』で見てきたとおり)、AI技術をリアル世界で応用する場合に留意すべき基本的な観点ということだ。

<注>グレート・デカップリング(Great Decoupling):スキル偏向技術進歩(技術イノベーション)に因る“雇用一人当たり生産性向上(GDP総額増加)と一家計当り所得減少”の大<乖離>問題(特に中間層の没落に繋がる主な原因)のこと(委細は。下記ブログ記事★を参照乞う)。

★チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済(第4次産業・AI革命)に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

つまり、それは「そのAI技術の応用・活用・利用対象となるフィールドがどの程度の深さまで、ヒトを含む多様な生命に満ちたリアル世界において「生命・人権・倫理・哲学・平和主義・多様性・教育など人類と一般の生物にとって最も重要な価値観の根幹と、どのような意味で致命的に深く切り結ぶ関りがりがあるか?を絶えず粘り強く考え、そのような側面から常在的に検証しながらAI技術を有効活用するという観点」であった。

(『人がやるべき仕事』のベースとしての憲法問題) 

ところで、仮に、AIの内部で何らかの意識のようなものが生じるとしても、「AI兵器」の主役となると予想されるアンドロイドらの原始的な“感情もどきはヒトと同様の意味での内外の地球型自然環境を必要とはしない。しかし、その“感情もどき”は、いやしくもそれが<知能>であるからには、必ず自らが対象とするものを分類し、あるいは区別・区分して認識することが基本となると思われる。

〈参考画像>日本のSkeletonics Incが開発した装着型ロボット:

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http://externalstorageunit.blogspot.com/2017/04/より、右(軍事ロボ)はウイキより転載

しかし、AIには歴史観も倫理観も不在なので、そのヒトの意識に相当するAIの認知機能にはヒトの場合で言う「区別」と「差別」が混然一体化して存在することになるだろう。そこで懸念されるのが「ヒトの場合の意図的な善悪の倫理観などとは全く異質(換言すれば人間的な感情とは無関係)な、ヒトから見れば“実に冷酷なマイペース”or“超異常な忖度”(感情を伴わない機械的な差別)が出現する可能性があることだ

また、特異な価値観を持つ研究者やプログラマーが差別的・排他的な、又は好戦的で憲法上の平和主義を否定するアルゴリズム・プログラムを作為で(あるいは彼らが異常な権力を忖度して)実装するリスクも生ずると見ておくべきだろう。AIロボ兵器や戦士らによるヒトの感情抜きの殺戮・戦争タスクが如何に恐るべきほど凄惨なものとなるかは想像に難くない。それは、AI兵器ロボ化する近未来の戦争がヒトを巻き込まぬ戦闘で終始するとは限らないからだ。

また、関連筋からの伝聞によれば凡そ2000年あたりから始まった第3次人工知能ブームの中での日本は、残念ながら欧米・中国に比べ人材と財政の両面において、今や立ち遅れた位置にある。その背景となっているのが、AI技術にも関わるコンピュータ技術者やソフトウエア開発者らを特殊なアーティストのジャンルと見なす欧米と中国に比べ、日本では一部の研究者を除き、彼らの多くは低俗な職人のジャンルとして見下される風潮が伝統と化してきたことにあるようだ。

しかし、今や彼らもディープラーニング・ブームの到来で急に脚光を浴び始めたことになる。このため、一部の研究者やAI技術関係者らの中には、研究費の獲得や目先の成功を焦るあまり過剰にこのブームの空気を煽り立てたり、極端な場合では「AIもどきの装備」で先端AIシステムを装ったり、それを騙ったりする悪徳ケースまでが現れている。しかも、驚くべきことに日本政府のお墨付きがある場合でさえ、この悪しきケースの事例が出現したのは未だ記憶に新しいはずだ。

古いものではP2Pファイル共有ソフトWinny開発者・故金子勇氏の事件、直近では理化学研究所(RIKEN)や大学共同利用機関法人高エネ加速器研究機構(KEK)ら大手研究機関が巻き込まれた、PEZY社(齋藤元章氏/中国を日本の脅威と見る超保守系論者で2017経済財政諮問会議“2030年展望と改革タスクフォース委員メンバー”として安倍政権下で国家戦略にも関与)の事件などがある。https://www.businessinsider.jp/post-

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・・・

(関連情報)◆「生命・人権・倫理・哲学・歴史」などとも深く通底する日本国憲法を見据え「AI社会の在り方にも憲法議論」が必要!との意思のもとに、憲法を守る立場の研究者らで作る「全国憲法研究会」が、2019年5月3日に開かれ、およそ1200人が集まったことの意義は大きい。(以下、20190503NHKニュース&関連サイトの転載)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190503/k10011904711000.html

 f:id:toxandoria:20190901163926j:plainf:id:toxandoria:20190901164226j:plain

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https://www.nhk.or.jp/d-navi/sci_cul/2019/05/column/column_190507/

・・・憲法記念日の3日、AI=人工知能が普及する社会の在り方について憲法の視点から考えようという講演会が都内で開かれました。この講演会は、憲法を守る立場の研究者らで作る「全国憲法研究会」が開き、およそ1200人が集まりました。

・・・この中で、慶応大学の山本龍彦教授はAI=人工知能の普及によって、個人の好みや健康状態、信用力などが分析され、企業の採用活動などにまで利用されていることを紹介しました。

・・・そのうえで、山本教授はAIによる個人の分析は、プライバシーや自由を脅かすおそれがあるほか、個人の点数化で低い点数をつけられ、理由がわからないままはい上がれない新たな被差別集団が生まれかねないと指摘しました。

・・・山本教授は「欧米ではAIによって生じうる課題について憲法の視点を踏まえた制度面での対応が進んでいる。日本でも憲法の問題(特に、≪人権の“保全”≫と表裏一体と見るべき、≪AIの利・使用“責任”≫の視点が重要になる!/←補足、toxandoria)として人工知能とどう関わっていくかについて議論を進める必要がある」と訴えていました

・・・研究者などおよそ1200人が集まった講演会場で、壇上に立っていたのは慶應大学の山本龍彦教授。人工知能が膨大なデータを学習することで、個人の好みや健康状態、それに信用力まで分析できるようになり、企業の採用活動のほか、海外では犯罪捜査にも活用されていることを紹介しました。しかし、こうした人工知能の分析は、あくまで学習したデータから導き出した「予測」に過ぎません。元のデータがゆがんでいれば分析もゆがむことになると、山本教授は指摘します。

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もうひとつの問題は、人工知能が膨大なデータから自動的に規則性を読み取って判断を下すため、「なぜそう判断したのか」が外部から分からないことです。このため、人工知能が個人の点数化に使われた場合、低い評価を受けた人がどうすれば評価を高められるかも分からず、再挑戦の機会が奪われかねません。山本教授が最も懸念しているのは、これによって「バーチャルスラム」と呼ばれる新たな被差別集団が生み出されてしまうことです。山本教授は、私たちの人権と人工知能との関わりについて、おおもとの憲法まで立ち返って考える必要性を訴えています。

「欧米では、人工知能によって生じうる課題について、憲法的な議論を踏まえて制度面での対応が進んでいる。日本でも、人工知能憲法の問題として議論を進める必要がある」

どのようなAI社会を目指すのか

一方で、人工知能が人事面接を行うことの是非について、山本教授が学生に聞いたところ、賛成と反対とが半々に割れたということです。

山本教授は、「これまでの人間社会の方がよほど不公平で、人工知能は公平に判断してくれる」といった思いが背景にあると分析しています。私たちの社会をより便利なものにする力を持つ人工知能。私たち一人ひとりが、人工知能とともにどのような社会を築くのかを考えるべき時が来ているのかも知れません。 

 

(『共依存シンドローム(日本社会の想像力の消滅)』がもたらす異様な風景、アラカルト)

・・・<「韓国なんていらない=日本なんていらない」>のブーメランであるリアルが(科学・歴史・現在の関係性について)≪想像≫不能?となったアベ政権・メディア・国民の相互忖度“もたれ&もつれ”合いの共依存シンドロームこと、JPNお笑いポピュリズム社会化なるお笑い? w・・・

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・・・[関連/要参照資料](日本文化のルーツを形成した渡来系弥生人に加えて/補、toxandoria)縄文人もウルチ、韓国人、台湾先住民、オーストロネシア系フィリピン人と遺伝的に近かった(図)。/遺伝子から続々解明される縄文人の起源~高精度縄文人ゲノム~:20190516国立遺伝学研究所プレスリリースhttps://www.nig.ac.jp/nig/ja/2019/05/research-highlights_ja/pr20190516.html

f:id:toxandoria:20190903060331j:plainhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1168598389723783170

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1168598389723783170

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1168598389723783170

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1168598389723783170

 ・・・

f:id:toxandoria:20190902025150j:plainhttps://twitter.com/BARANEKO0409/status/1167629402294767616

安倍内閣は、20180830の閣議で「読売新聞グループ本社白石興二郎会長をスイス大使に充てる異例の人事」を決めたが、現職報道機関トップのあまりにも異常(メディア出身者の起用は5人目)な人事である(20180831朝日)。 f:id:toxandoria:20190902025425j:plain

 https://twitter.com/jcast_news/status/1167692002453909504

明らかに、これは「主要TV・新聞・国民の共依存(相互忖度“もたれ&もつれ”合い)の空気をリードして、安倍内閣の高支持率に貢献したた主要メディアらに対する「露骨な褒章人事」であり、一般国民が徹底的に舐められていることの現れである。また、このことが、くだんの「日本報道検証機構がGoHooを解散した動向」と無関係ではない、と思われる。

・・・以下、J-castニュース記事「日本報道検証機構が解散 ツイッターで明かした運営サイトGoHooの今後」の部分転載・・・ 

「苦渋の決断」と説明

 8月30日の発表文によると、「諸般の事業から事業継続が困難」になったとして、29日をもって解散、30日から清算手続きに入ることになった。「皆様にご厚情をいただいているなか苦渋の決断となりましたが、(略)」とことわった上で、解散への理解を求めている。以前は寄付や会員からの会費で運営していたが、17年4月に「運営体制の縮小等」に伴い会員制度を中止していた  。

また機構ツイッターの8月30日更新分によると、「GoHoo」は、「現在、一時非公開」になっているが、14年10月分までの旧サイトは閲覧可能だとして、リンクも貼っている。機構解散後も「これら検証記事はアーカイブ公開することも検討しております」としている。

 さらに、「Peing 質問箱」サイトの機構(GoHoo)ページでは30日、寄せられた質問に対し、文末に楊井氏の署名がある文章で回答している。回答文では、「GoHoo」は米国デューク大学研究室のデータベースに日本で唯一のファクトチェックサイトとして登録されていたが、今回の機構解散に伴う事業終了で、国内登録サイトがゼロになってしまうとして、「新たなファクトチェックメディアはぜひとも必要ですので、楊井個人として立ち上げの準備もしています」と明かしている 。

回答文が触れたデューク大研究室のサイトをJ-CASTニュースが31日昼に確認したところ、「GoHoo」はまだ掲載されており、日本国内では「GoHoo」だけだった。参考に周辺国を見ると、中国では1サイト、韓国は5サイトが掲載されていた 。

「GoHoo」はこれまでに、加計学園問題をめぐる政治家発言に関する報道などを検証する多くの記事を配信してきた。テレビニュースのコメンテーター発言に統計的事実の誤認があったことを指摘するなどし、メディア側が謝罪や訂正に至るケースもあった。

(関連情報)

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https://twitter.com/kageshobo/status/1167277517293539328

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https://twitter.com/SamejimaH/status/1167767054168002560

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【日本メディアが殆ど報じようとしない“事実”】

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https://twitter.com/kikko_no_blog/status/1168099491683004417

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https://twitter.com/ChizuruA1/status/1168118470132695041

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https://twitter.com/masaru_kaneko/status/1167941111731519489

(『共依存シンドローム(日本社会の想像力の消滅)』にもめげぬ希望の風景、アラカルト)

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デカルトからベイトソン――世界の再魔術化 モリス・バーマン 柴田元幸

定価:本体3,800円+税 発売日:2019年07月25日 ジャンル:ノンフィクション

17世紀、デカルトニュートンパラダイム成立によって、世界から魔術が失われた。幣による資本主義と合理的な科学思考によってできあがった近代的な世界。魔術は科学に置き換えられてしまった。しかし、科学的に再編成される過程で色あせていったパワフルな知を取り戻すために、今こそ「世界の再魔術化」が必要だ!デカルトパラダイムに反旗を翻し、1960年代のカウンター・カルチャーの空気をひっさげ、「世界の再魔術化」への道筋を探った知的冒険の書、待望の復刊!オカルト学の山々を乗り越え、たどり着いたひとつのヒントはグレゴリー・ベイトソンロボティクス、アンドロイド、VR的な現実世界の出現を前に、今こそ再読されるべき書。

・・・以下、朝日書評(都甲  幸治氏/早稲田大学教授・アメリカ文学)転載ブログ『好書好日』https://book.asahi.com/article/12670324 より“転載”

近代科学の成立によって、世界から魔術が失われた。大きなパラダイムチェンジを経て登場したのは、資本主義と科学思考によってできあがった単色の近代である−。歴史的なパラダイムの…

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166451143133687808

デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化 [著]モリス・バーマン

 人生がうまくいかない。生きる意味がわからない。こうした苦しみこそ気づきのチャンスだ、とバーマンは本書で言う。どういう気づきなのか。強い自己はすべてをコントロールできる、という西洋近代の前提が間違っているという気づきだ。
 彼は代わりに弱い自己を導入する。弱い自己とは何か。世界という大いなる循環の中の一要素でしかない、という謙虚さとともにある自己だ。たとえば、アルコール依存症者はどうか。酒を止めようとする意志に身体は抵抗する。意志が強固であればあるほど抵抗は強まり、ついには意志を砕く。
 なぜ上手くいかないのか。それは、意志が身体をねじ伏せようとするからだ。だがアルコール依存症更正のための団体である「AA」の考え方は違う。定期的なミーティングの中で、参加者は自分が無力であることを認め、大きな力に身を委ねることを学ぶ。そして、かろうじて今日だけは飲まないでおこうと誓う。
 大きな力とはなにか。神かもしれない。あるいは動植物すべてを含めた命の拡がりかもしれない。それがなんであれ、無力の自覚とともに、自己は身体と和解する。そして世界と和解する
 文化人類学ベイトソンの「AA」に関する議論を引きながらバーマンは言う。こうした弱い自己こそが、現代の多くの問題解決へのヒントになるのではないか。
 きちんと身体の声を聴きながら動くとき、自己は身体とともに一つのシステムを作り上げる。身体だけではない。周囲の人々、そして環境へと自己を開いていくとき、システムは拡張し続ける。こうした循環システム全体を〈精神〉と呼んでみてはどうか。敵対ではなく和解を、制圧ではなく傾聴を。真に世界とともにあるとき、自己は最も強くあり得るだろう。
 本書の情報量は膨大だが、その議論は思いのほかシンプルだ。「本当に生きること、黄金を獲得することは、自分自身の本性の命じるところに従って生きることによってのみ成し遂げられるのであり、そのためにはまず魂の死の危険に真向から向きあわなければならない」
 強い自己など表層的なものでしかない。その死をくぐり抜けることで、人はより深いところにある、弱い自己と出会う。かつて多くの物語が、こうした魂の旅を描いてきた。だがその意義は古びてはいない。
 いや、環境汚染や地球温暖化といった巨大な危機に人類が直面している現代にこそ、こうした自己のあり方が必要とされているのではないか。近代を超える生き方を模索するバーマンの粘り強い思索に圧倒された。
    ◇
 Morris Berman 1944年生まれ。社会批評家。北米の複数の大学で教えた後、執筆活動に専念。著書に『社会変革と科学的組織』など。本書の原書は81年刊行、89年に邦訳され、訳文を手直しして復刊。

(補足、toxandoria)

きちんと身体の声を聴きながら動くとき、自己は身体とともに一つのシステムを作り上げる。身体だけではない。周囲の人々、そして環境へと自己を開いていくとき、システムは拡張し続ける。こうした循環システム全体を〈精神〉と呼んでみてはどうか。敵対ではなく和解を、制圧ではなく傾聴を。真に世界とともにあるとき、自己は最も強くあり得るだろう。> ← まさに、コレは当記事・本文中[第2章:バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)]のマクダウェルが言う「今こそ我われが範に採るべき“近代的二項対立に陥る以前のアリストテレス的な世界観”」ということを言い換えれば、それは「ガダマーがディルタイ生の哲学のなかに再発見したとされる“”古代ギリシャ・ローマにまで遡る「現代人がすっかり忘れ去ったリベラル・アーツ的な観念でありそれこそがヒト故の豊かな想像力の源泉」(その流れの二大潮流がプラトンアリストテレスの和解・融和ということ/そして、これは見方次第のことながら、アリストテレス主義(徳の倫理学二コマコス倫理学)がプラトン主義を批判的に受け止めつつも深く理解し、同様にプラトン主義(敬虔(謙虚さ)の倫理学アリストテレスの徳の倫理学を批判的に受け止め深く理解していたと考えられること)であったのではないか?と思われる。>と共振・干渉(恰も絶縁体の量子振動の観測 or 量子コヒーレンスの如く)する!!

・・・

(関連情報)

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https://twitter.com/Nao_Maeda_Asahi/status/1166136004148748288

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1170721909870219264 

・・・任期満了に伴う岩手県知事選は8日投開票され、現職の達増拓也氏(立憲民主、国民民主、共産、社民推薦)が元県議の新人、及川敦氏を破った。参院選後、埼玉県知事選に続き野党共闘の候補が与野党対決を制した(20190909毎日)。

 

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1168246149200797696

・・・以下、河北新報・記事の部分転載・・

仙台市議選>立民躍進、3選挙区でトップ 参院選の勢い持続

初当選し、万歳する貞宗氏(中央)と岡本県連代表(右)=26日午前0時5分ごろ、仙台市太白区の事務所

 25日に投開票された仙台市議選(定数55)で、初参戦となった立憲民主党は新人4人を含む6人全員が当選し、躍進した。5選挙区のうち青葉、宮城野、泉でトップを飾り、党新人が自民党現職を破った7月の参院選の余勢を駆った格好。宮城県議選を10月に控え、県政界に吹き荒れる立民旋風は続くのか。
 太白選挙区(定数12)に立候補した立民新人貞宗健司氏(33)は2位で初陣を飾った。2015年の前回、同選挙区でトップ当選し、国政に転じた岡本章子党県連代表(衆院比例東北)の後継だ。
 貞宗氏は「知名度不足は否めず、党の看板で勝たせてもらった。風は確実に感じた」と振り返った。
 「(旧民主党時代の)07年以来の波を感じる」。岡本氏を市議時代から支える貞宗氏の陣営幹部は前回の亥(い)年選挙と重ね合わせた。
 07年市議選で旧民主党は3議席を増やし、擁立した9人全員が当選。岡本氏は市内最多得票だった。同年の参院選は当時の民主現職が自民現職に大差をつけて1位当選。2年後の政権交代の足掛かりを築いた。
 7月の参院選宮城選挙区では全国32の1人区で唯一、立民公認の新人が野党共闘の枠組みで勝利した。市議選期間中、枝野幸男代表が地方選では異例となる2度の応援に入り、党を挙げての支援態勢を敷いた。
 「参院選の流れが非常に大きい」と陣営幹部。「立民の看板で出れば当選するような風が吹いている。まるでバブルだ」と息巻く。
 10月18日告示、27日投開票の県議選が迫る。勢いが続くかどうかは今後の候補者選びや戦略が鍵を握る。
 立民県連の鎌田さゆり幹事長は「自民独占区には、野党間で調整して候補者を擁立する」と攻めの姿勢を強調。「この勢いを追い風にしなければならない」と気を引き締めた。

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166451143133687808

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1168698286846275584

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1168698286846275584

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1168698286846275584

[国民は覚醒すべし!今や【年金枯渇】が明白ゆえ準汎用AI時代に適応可能なベーシックインカム設計が必須!]

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166451143133687808

  https://twitter.com/tadanoossan2/status/1166451870174310400

 ★国民・官憲・主要メディアらの共依存で、日本が<普遍情報“共有環境”劣化シンドローム>に罹患した証左! ⇒「わめき散らす声はおかしい」文科相への抗議で大学入試改革への反対を訴えた大学生を警察官が取り囲んで遠ざける騒ぎ!朝日

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 AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができる

 AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができる

  (表紙画像)

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・・・所有者からの寄託を受け、2015年3月から『聖プラクセディス』を展示している国立西洋美術館は、研究者の間で意見が一致していないことを理由に、作者名に関して「フェルメールに帰属」と表記して展示している(画像・文ともウイキより転載)


Maurice Ravel - 夜のガスパード


GabrielFauré - 夢の後、チェロとピアノ

・・・

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 ・・・AIの客観視にも有意と思われるため記事の後半で取り上げる『真理と方法ー哲学的解釈学の要綱』
(1960)の著者、ガダマーが少年期~青年期の初めまで(~1919)を過ごした、ポーランドヴロツワフの風景・・・
             

            f:id:toxandoria:20190429052203j:プレーンf:id:toxandoria:20190429052230j:プレーン

            f:id:toxandoria:20190429052426j:プレーン

  f:id:toxandoria:20190429053951j:plainf:id:toxandoria:20190429052515j:プレーン・・・左端はブロツワフ大学の夜景(The main building of the university/ガダマーの画像、と共にウイキメディアより転載/この二つの画像を除きtoxandoriaが撮影)

・・・伝説によると、中世以来の琥珀ロード上の交易中枢都市ヴロツワフには異邦人や異教徒あるいは身体的な形質や特徴が異なる人々を温かく受け入れる伝統があった。このため、その居心地の良さを求め特に沢山のコビトたちがヨーロッパ中からヴロツワフへ集まったとされる。

・・・そのためか、画像のようなコビトおよびソノ仲間たちの像(つまり、異民族と異言語らの象徴)が街中で見られるが、彼らはヴロツワフに幸福を呼び込むと信じられている。

・・・因みに、中~近世におけるポーランドリトアニア国家(1386~1569:ポーランド・リトアニア連合王国はマルチ チリンガル(多言語が共存する状態)であり、特にヴロツワフにはその伝統が長く遺った。

<注>当記事を書いた目的について

 興味深く視聴中の[人間ってナンだ?超AI入門 - NHKhttps://www4.nhk.or.jp/aibeginner/]から、その企画のそもそもの意図はともかくとして、相変わらず新自由主義なるエセ・イデオローグの影響下にある「紛いものAI」(そもそもは自由・平等を実現するツールと目されたIT・AI‐インターネットの筈だったが・・・)の広報・宣伝の印象というか、又は視聴率稼ぎで些かセンセーショナルな喧伝に加担しすぎでは?との印象を受けている。

 そのため、ワン・イッシュー政党「NHKから日本国民を守る党http://www.nhkkara.jp/」の真似ごとではないがw、一歩引いた観点から、もう少し冷静にAIを観察しヒトの幸せや福利厚生と日本国民の日常生活を豊にする経済のため上手くそれを活用するという視点が必要ではないか?との思いから、この記事を書くことになった。

 「AI高付加価値“機械経済”のヒトに役立つ経済への貢献(マクロ経済の展相)」の必要性については、既に下のブログ記事★で詳述したので、ここでは主にa「想定される“AIの意識”がヒトとは全く別物と思われること」、b「ディープラーニングについて(機能、統計との違い、活用のあり方)」、c「AI批判としてのガダマー哲学」、そしてd「“AIで消滅の危機に瀕する(とされる)ヒトの仕事の復権”への方向性」の四点について、その概要を記す。なお特にc関連で「マクダウエルのリアリズム倫理」も必須となるが、これについては次回の記事へ送る(なお、当記事と下の記事★の内容は『補完関係』にあるので、併せてご参照ください)

 チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済(第4次産業・AI革命)に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

 (プロローグ)AIが「ヒトの感情」を理解する日はやってくるか?

f:id:toxandoria:20190429060453j:プレーン

f:id:toxandoria:20190429060534j:プレーン・・・フューチャリスト(未来学者)、F.R.ヨンク(F.Richard Yonck)は次のように語っている ☞ そもそも地球自然環境との関係が深いと考えるべき感情と基底で繋がるヒトの知とAIの知は異質なので,AIは感情(決して感覚に非ず!)に基づいた判断はしない。遠い将来、感情モドキのAIに感情移入するヒトの出現はあり得るかも知れぬが、又、それでも個人差があるはず?なので、結局は個々のヒトが何に幸せを感じるかの問題になると思われる![〈AIが感情を理解する日はやってくるか?/連載『動物と機械からはなれて』(部分抽出、転載)] WIRED.jp https://wired.jp/series/away-from-animals-and-machines/chapter4-1/ ・・・

f:id:toxandoria:20190429060719j:普通

・・・感情言語科学の研究者であるリチャード・ファース・ゴッドビーヒー博士は、AIが人間の感情を読み取ることは想像以上に難しいのではないかとの見解を明らかにしている。ゴッドビーヒー博士によれば「感情とは動的なもの」であり、人間の脳はこの動的なもの(マッハ感覚論的素材性、エルゴン・・・委細、後述・・・/補、toxandoria)を柔軟に捉える能力にたけている。

・・・これに対し、ゴッドビーヒー博士は「コンピューターの記憶(保存データ)は事実(デジタル抽象化情報)を完璧かつ確定的に保持できるものではあるが、柔軟性がないゆえに、場合によっては相反する事実に折り合いをつけつつ結合させるというような作業は苦手である!」とも述べている。

・・・コンピューター上の抽象化情報はデジタル・ナルシス(西垣 通)、あるいは AI抽象化デュナミス潜勢態(生命体のヒトにとっては、抽象化である限り、それはあくまでも可能性の次元に留まる/大黒岳彦)である。その具体例は「(1)AI‐Webの検索」や「(2)AIディープラーニングが抽出する特徴量)」等であるが、 いくら大量のデータを使って鍛えても、ヒトと全く同等の“生”の水準でAIが動的(ヒトの生命活動的)な感情をパーフェクトに正しく判断することは、難しいと言えそうだ。cf.[参照資料]『AIに感情を通わせるのは想像以上に難しく不可能かもしれない』Dr Rich Firth-Godbehere/Centre for the History of the Emotions(London) ・・・https://projects.history.qmul.ac.uk/emotions/

<注>AIディープラーニング(DL)の特徴量などは「AI抽象化デュナミス潜勢態」(orデジタル・ナルシス)であり、それとヒトの間には断絶(絶対的な壁)がある!/つまり、あくまでもAIは道具(ツール)のジャンルである(参照 ☞ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180701

・・・例えば、DLの特徴量は、確かに「ある事象の典型パターン」の抽出(予測的な)ではあるが、それは一定の想定された巨大空間における特定の現象に関わる確率の大きさ(抽象的推測値/“形式知”に馴染む世界)を意味するに止まり、それ以外の残余の現実(時間の流れに沿う無限の因果で全方向の空間へ繋がるリアル現象(マッハ感覚論的素材性ら)の全体、言い換えれば絶えず地球の自然エトノス&生命環境と同期しつつ生成し続ける、“暗黙知”が持続的に優先するアナログ世界のトータル)を示すものではない(“暗黙知”と“形式知”に関連する委細は後述)。

・・・なぜなら、ビッグデータの機械(自動)計算処理プロセスでは、アナログ暗黙知が優勢なリアル現象トータルの殆どが“形式知”に馴染む抽象的推測値を集約(推計)する機械(自動)計算の過程で切り捨てられているからだ。このことを、より厳密に言えばAIディープラーニング(DL)は、<論理的に説明ができない深層学習プロセスの部分で、その処理に関する暗黙知の部分をソックリ自らの内部に吸収(内部化/厳密に言えば内部に“内生”しているあくまでもリアル暗黙知の宿主であるヒトと徹底的に断絶した儘で、謂わば“全体の意味”から切断された遊離デジタル抽象化して、不条理に(諸矛盾を抱え込んだ状態で寄生/委細後述)することが出来るので、それに関しては形式知化する必要がない>ということである。

f:id:toxandoria:20190520055041j:プレーン

・・・しかし、この一見“長所であること”はDLの根本的な弱点とも見える。例えば、セル生産工場の現場(作業者一人が受け持つ範囲が広い生産システム)では、その製造工程のDL調教のためにQ&A構造化した自然言語データベースと組み合わせるなどの工夫が必要になる(野村直之『人工知能が変える仕事の未来』‐日本経済新聞社‐) 

・・・つまり、「自然・社会・生命・精神」現象のリアルは、ある目的のために抽出した特徴量の如く、特定の目的等のため集約されたものだけから成っている訳ではない因みに、ここで言う“アナログ的な暗黙知が優勢なリアル現象トータル”の、ある瞬間ごとの切り口がマッハ現象学における「マッハ感覚異論的素材性マッハの内面的表象常世界で凡ゆる内外環境と共鳴しつつリアル意識が漂うアナログの海の表層)と見ることが出来るだろう。

・・・・・絶えず切り捨てられている、その数多のリアル残余の歴史的なトータル(我々が生き続ける日常生活のリアルの殆どが浮かぶアナログ的な暗黙知の宝庫たる内外世界の古層から現在への流れ/言い換えれば、歴史と時間に沿った個々のリアル過程における意味の全体)を絶えず謙虚に参照することこそが、特に我われ地球の自然環境のなかで進歩しつつ未来の地平を目指して生き続けるヒト(人類)の生命と文化にとっては重要なことだと考えられる因みに、このような「ヒトをめぐるリアル世界の描像」は当ブログ記事の基本コンセプトと位置付けている「W.Ⅴ.O.クワインのネオプラグマティズム」とも重なると思われるので、以下にその内容を転載しておく。

《W.Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「数多の境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)》

・・・

 結局のところ、やがてAIは非常に原始的な“感情モドキ”を身に着けることにはなるかも知れないが、それはヒトの感情とは全く異なる何ものかであるだろう。それは、恰もAI機械学習AIディープラーニングの特徴量らが過去・現在・未来のどのリアル事象とも全く別物であることに呼応すると思われる。

 何故なら、ヒトの場合は個体が子から子へ、子孫から子孫へと連綿と持続させる生命連鎖が絶えず地球環境及び内面の生命環境(これも外界に劣らぬほど膨大なスケールで連鎖・交流・持続・共振する“地球型自然環境の延長”である!)と多面的・重層的に非常に複雑な交流・共鳴・反響を持続させており、ヒトの感情なるものはその瞬間の内外の複雑な反響の持続的反映(上で述べたマッハ感覚論的素材性http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180701)であるとの意味でゴッドビーヒー博士の指摘どうりに動的なエルゴン(生命エネルギー活動のリアルな側面)であるからだ。

 一方、AIの原始的な“感情もどき”(機械意識?機械感情?)は(仮に、そこで何らかの意識のようなものが生じるとしても)、それはヒトと同様の意味での内外の地球型自然環境を必要とはしない。ただ、そのようなAIの原始的な“感情もどき”はそれがいやしくも<知能>であるからには、必ず自らが対象とするものを分類し、あるいは区別・区分して認識するということが基本となる。そしてAIには歴史観も倫理観も不在なのでそこ(ヒトの意識に対応する?AIの認知機能)にはヒトの場合で言う「区別」と「差別」が混然一体化して存在することになるだろう

 そこで懸念されるのが「AIによる、ヒトの場合の善悪の倫理観とは全く無関係な(換言すれば、人間的な感情とは無関係で超ハードボイルドな?w)“差別”や“マイファースト”or“異常な忖度”などが出現する可能性があることだ。米マイクロソフトがインターネット上で一般人と会話させた人工知能(AI“Tay”)がヒトラーを肯定する発言をするようになり、実験が中止された事件?w↓▲等はその典型事例である

f:id:toxandoria:20190429065951j:プレーンf:id:toxandoria:20190429070009j:プレーンf:id:toxandoria:20190429070034j:プレーン

▲【AIがヒトラー礼賛】「教師」(ディープラーニングのパラメータ・チューニング?/補、toxandoria)しだいで右翼にも左翼にも(森羅万象の神さまにも/補、toxandoria)なる 人工知能は子供と同じだ 2016.3.26産経、2016326 https://www.sankei.com/life/news/160325/lif1603250029-n1.html

f:id:toxandoria:20190429070138j:プレーン(『不気味の谷』の画像はウイキより)

 だから、むしろ懸念すべきは、いやしくも<ヒトを超える高度な知能のジャンル>を持つAIの「外部観察的に窺われる感情もどき」に対し、それを冷静に上手く道具(只のツール)としてヒューリスティック(限定合理的)に使いこなすべきヒトの側が過剰に、片思い的に一方的かつ多大に感情移入してしまう可能性の方である。

 おそらく、ヒトの意味での感情など一切持たず(ヒトとは全く別物の感情もどきを持つ)、AIがそれこそ<“機械的”に差別(区別)したことを真に受ける>おバカなヒトビト(人々)が数多く出現するリスクの方である。それどころか今の日本では「本格的なAIの実装」を騙るに等しい“AIもどきのお笑い商品”↓★などが広く巷では持て囃されているようだ。つまり、これこそ本物の『不気味の谷』(ないしは『不気味の崖』)の出現だと言えるのではないか?w

f:id:toxandoria:20190429070413j:プレーン

大喜利をする人工知能大喜利β」(オオギリ・ベータ)がスゴイ!https://soyokazesokuhou.com/ogiribeta/

 そもそもヒトや動物の感情(痛み、泣き、笑い、喜び、苦しみ、怒りなどの感情/無論、それはセンサーを介し反応・発生しがちだという意味で感覚との関係は深いのだが決して“感覚=感情”ではない!)について、その実態が何であるかが殆ど未解明であり、近年になって漸く例えば下の例◆の如くヒトを含めた動物の脳内の感情発生の在り処(様?)が理解されつつあるレベルなのだ。

f:id:toxandoria:20190429070529j:プレーン

フンボルト大学ベルリン校の神経科学者、ミヒャエル・ブレヒト教授と石山晋平氏(在独の脳科学者)は、くすぐったいという感覚が脳でどのように扱われているかを初めて明らかにし、2016年11月11日に科学誌サイエンスに論文を発表した。/『特別寄稿】なぜ(コチョコチョ)くすぐられると笑うのか? 脳内にくすぐったい場所を発見~実はねずみも笑う?w 20161114PC‐watch石山晋平https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1029670.html

f:id:toxandoria:20190429070638j:プレーン

(参考)「ヒトと別物の知能を持つカラスも空気を読み知能が高い奴らほど上に忖度?つまりアベ様への<忖度>高級官僚らはカラスなのか、それともAIなのか?ということになるの鴨?w ☞カラスも「目上のカラス」に忖度する、知られざる社会模様/カラスにはカラスが必要とする知性があり人間とはパターンが違う!427現代ビジ https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190427-00063531-gendaibiz-life

1 重要なのは「アナログ領域」の縮小(仕事の消滅)への怯え、又はAIスゴイ!一辺倒ではなく「ヒトの幸せのためAIを活かす」視点

 これは下記★でも書いたことだが「欧米で活躍するフランクフルト学派・第3世代でドイツ出身の哲学者、アクセル・ホネットは著書『見えないこと』(叢書ウニベルシタス)の中で、「想像を超える、自己内部の多様性」についての気付き(を内心で見えるようになること)があってこそ、客体として広く外部世界(社会と自然環境のなか)に存在する人々の姿が真に開放(個々のドグマ観念から解放)され双方の眼差しでリアルに見えるようになる。」と言っている

 つまり、それは「そのような意味で、普通は殆ど見えて(自覚して)いないが、実は自己の内部に潜んでいる“想像を超える規模の意識の多様性”が先ず見えるようになること」が、社会における人々の相互主体性の第一の入り口(第一の必須条件)だということになる

★チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』((第4次産業・AI革命))経済に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex. BI型“社会的共通資本”」金融への展相が必須!https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

 そして、例えば多数決で何らかのことを決めて欲しいと提案を出した権力者サイド(内閣提案にせよ、議会提案にせよ)の意思には、つまり一般的に言えば「権力」にはベクトルがあると、ホネットは言う。更に、その提案を承認(提案に賛成)することには、たとえ外見上同じ賛成または反対に見えるとしても、実は内容的にはそれを「(1)自分の属性(それに関わる是非の意思のいずれ)を相手に付与する行いと理解するか?」、あるいは「(2)真逆に、相手(この場合は権力側)の属性(その是非の意思のいずれ)を受容するだけの行いと理解するか?」の違いがあるというのが、そのベクトルの意味である。 

 従って、現代の民主主義国家では<仮に多数決で決まった内容(事案)であっても、内容的にはこの様な意味でベクトルの完全一致ではない(具体的に言えば、内容的にその真の姿を正確に特定できないので、たとえ議決後であっても議論を更に尽くすべきだ!)>というのが常識である。

 だから日本の安倍信三・首相のように強行採決を多発したり、厳しい批判の対象とされ得る事柄や自らの失策(失政)について“丁寧に説明する”との形だけの上っ面な言葉で常に誤魔化し続けたりするのは、“常に見えない意識の世界が何処にでもあり得ること”を前提とするという現代民主主義の意味を全く知らないか、敢えてそれを無視(又は知らないふりを)する邪な意思に因る実に不埒な行為である。

 しかも、それを承知でそのような横暴を繰り返すのは確信犯的な暴政であり、ある程度の関連する法制さえ整っていれば、例えば米国のトランプ大統領如く「弾劾」検討の対象となることすらあり得ることになる(現実には、様々な要因が複雑に絡み難しいことだが・・・)。しかも、日本の場合はそれだけではなく、彼の由々しき、異常な「忖度」の問題がある。

 日本の官僚らによる安倍政権に対する過剰「忖度」は、上で見たホネットの二つのベクトルの内で、たとえ外形的に民主主義ルールでの決定であるとしても、結果的にそれは「(2)相手側(この場合は権力側)の属性を受容するだけの行いと理解する」ことが絶対正しい高級官僚の仕事のあり方だ!と彼らが自信をもって確信していることなので、それは今の日本で欧米先進諸国並みの民主主義が全く機能していないことになる

 つまり端的に言えば、これら高級官僚たちが行なっている「忖度」は形式知的な「デジタル言語処理」(ラング)の行為なのであって、それは決して“意識”を持つヒトがやるべき「アナログ言語行動」(ランガージュ)ではないことになる。

  量子コンピュータ機械学習ディープラーニング)、ヒトの意識研究」などに関わる内外の先進的動向

 <コンピュータ機械計算、統計物理学のイジングモデル強磁性モデル)等による「自然計算のごく一部を模した自動計算+適切な変換を実行するアルゴリズム」で特定の最小解(予測的“特徴量”抽出の基になるデータ)を得る>のが機械学習であるが、この最小解を<量子コンピュータ量子アニーリング方式:シミュレーテッド・アニーリング(分子間の結びつき方を調整する冶金工学の“焼きなまし法”の援用)での多層構造化計算、つまりディープラ―ニング・プロセス(ブラック・ボックス!/委細、後述)>で深化させることで、より汎化性能が高い予測的“特徴量”(最小値)が得られることが判明!https://quantum.fixstars.com/introduction_to_quantum_computer/quantum_annealing/

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 そして、この汎化性能(未知のテストデータに対する識別能力)に関し<ある程度の強度のまま「量子揺らぎ」を残すこと(温度調節圧力、化学組成などで)が重要であることが確認された>とも発表されている。⇒《東北大ら,量子アニーリング(冶金工学の焼きなましの考え方の応用/分子レベルでの)で機械学習の効率化に成功 》20180704 optronicshttp://www.optronics-media.com/news/20180704/51866/ https://qiita.com/YosukeHoshi/items/927d233408346b41e524

 なお、古典理論では温度は系の構成要素の運動エネルギーの尺度で絶対零度は運動が停止することを意味するが、量子力学では絶対零度でも運動が停止することはなく、いわゆる零点振動が残る。量子力学的な粒子は波動(遍歴)と粒子(局在)の 2 つの「顔」を持っており、ポテンシャルエネルギーを得ようとするせめぎ合いの結果、両者の「顔」をほどほどに立てるところで折り合いをつけようとして零点振動が、すなわち「量子ゆらぎ」が生じる(https://www.jps.or.jp/books/gakkaishi/2016/04/71-04trends.pdf)。

 また、この波動と粒子の二重性を古典的な立場から理解するためハイゼンベルクが導いたのが不確定性原理であり、同原理は量子レベルの微視的スケールでは粒子の位置と運動量を共に正確に知ることができないという現実を定量的に明らかにしニュートン力学決定論的世界観を覆した!(http://www.math.cm.is.nagoya-u.ac.jp/~ozawa/Kagaku_201207_Ozawa.pdf

  f:id:toxandoria:20190429071520p:plain

 ところで、ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』(亜紀書房)の<AI研究とクロスする最先端の脳研究(ヒトの意識研究)>の解説によると、人間の頭蓋骨内にはmin.約1000億個のニューロンがあるが(宇宙で想定される銀河のmin.数に匹敵!、その内訳は「a意識の在り処と見るべき視床‐皮質系”(大脳皮質と視床)/min.200億個」、「b小脳&基底核/min.800億個」である。特に驚くべきはb(脳内ニューロンの8割を占める小脳と基底核)が「今のところ、意識とは殆ど無関係と思われるゾンビ状態(機能が未知)」であることだhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518

 また、意識の発生については殆ど未解明のままである一方で、この「脳内ニューロンの8割がゾンビ(機能が未解明)状態である」ことも含めて以下の点(●)が明らかとなりつつある

・ヒトの脳をモデルとする「意識」探求の原点は、脳内ニューロンの活動量と同期発火を前提とするニューラルネットワークだが、近年、その両者(意識とニューロンのネットワーク)が直接的には意識と無関係である現象が発見されている。(ニューロン・モデルAI(ディープ・ラーニング)の限界?←補足、toxandoria)

・意識(頭蓋骨内aに関わる部分)が、実は「無数の可能性のレパートリー」(同bに関わるゾンビ、つまり未解明の“脳内ニューロンの8割を占める小脳と基底核”部分)に支えられている可能性がある?・・・(これは想像だが)この「同bに関わるゾンビ部分/ニューロン・モデルAIの限界?」は、当記事の(プロローグ)で触れた「AIによるヒトの感情の取り扱い(模倣・再現)の困難さ、あるいは創造性などヒトの無限の可能性」の問題と関わる可能性がある。もし、そうであれば、AI「意識」探求の原点でもあるニューロン・モデル(ディープラーニング)そのものの見直しの必要性があるかもしれない。それは、全く別種の個体内における生理(免疫)機能に関わることだが、このこと(一見、無駄とすら見える脳内の8割を占めるゾンビ・ニューロン)が、あの“殆ど役に立たない領域と見なされてきたDNA全体の98%を占める非コードDNAが実は無尽蔵なほどの重要な役割を担うことが判明しつつあるという驚くべき事実”を連想させるからだ(↓参考&補足/参照)。

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<参考>)「芸術大学(および人文・社会系/補、toxandoria)の存在意義は『平和のため』と考えます。効率優先ではないものを貴び、そこに美的価値を感じ取る精神作業は平和でなければできない。芸術(おそらく、脳内ニューロンの8割を占める小脳と基底核”のゾンビ部分と関係がある?/補足、toxandoria)は違う表現や言葉を理解しようとするコミュニケーションの手段にもなる。他者への想像力は思いやりにつながる」と松尾貴史さん ☞(文化の扉)美術系大学、育む創造力 時代とともに広がる専攻、社会を生き抜く力に20190422朝日、https://www.asahi.com/articles/DA3S13987536.html  https://twitter.com/tanutinn/status/1120115156942352384

↑(関連Tw)松尾貴史さんに共感!それに伝聞では「欧米および中国」のIT系企業では、創造・想像力!で敢えて芸術・人文系の人材を重視採用とか!脳科学&AIの知見ではニューラルネットブラックボックスの小脳‐脳幹系(細胞数は大脳と大逆転する)が今後のフロンティア?芸術・人文系の役割と深く関連ある鴨!?20190427/@ソラリスの海(toxandoria)https://twitter.com/shinkaikaba/status/1122052114425868288

<補足>『小林武彦・東大分子細胞生物学研究所教授・箸『DNAの98%は謎』(講談社)によれば、「全体の98%を占める非コードDNA」は“遺伝子の発現、DNA複製の開始”などの染色体の上で起こるイベントの全てを制御・維持する機能を担っていると理解されていたが、“タンパク質をコードしていない”という意味では、その点に関する限り殆ど役に立たない領域と見なされてきた。ところが、近年の研究で、この領域がヒトの進化、免疫、老化、形質、ガン・遺伝病発生など非常に多様な分野において、殆ど無尽蔵なほどの重要な役割を担っていることが理解されつつある。』・・・https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938より部分転載・・・

・・・

 よく知られた事例では「免疫グロブリンの遺伝子再編成」の問題がある。免疫グロブリンは抗体を作るタンパク質で、普通は「1種類の抗体がある特定の異物(抗原)だけを攻撃する」という“特異性”を持つ。一方、生命個体の外部から侵入する抗原の種類は殆ど無限大に近いといってもよいので、進化のプロセスでグロブリン再編成(ごく一部の小さな可変領域におけるリフォーム)の仕組みが編み出された。

 ところで、新種の異物(抗原)に対処するためのグロブリン再編成の材料となるタンパク質はDNAでコードされるため、殆ど無限大に近い新種の抗原に対処するためには膨大な数のDNAが必要となるはずだ。しかし、ヒトゲノム・プロジェクトで確定したDNAの数は有限(約2.2万個)である。そこで、進化の過程で編み出されたのが「一見では何の意味も持たないDNAの墓場的な領域を設ける」という戦略であった。

 つまり、その「殆ど無意味な、一見では役に立ちそうもないDNAの墓場=全体の98%を占める非コードDNA/偽(ギ)遺伝子と呼ばれる壊れた遺伝子のリピート配列(従来はジャンク、つまりゴミと呼ばれていた)」からランダムに1つずつの材料が選ばれて、それらの組み合わせで、新しい免疫グロブリンの再編成が行なわれていることが分かったのである。

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 直近の研究成果から「これら98%の偽(ギ)遺伝子が、実は“ヒトの個性、個体形質、体質(糖尿病、ガン、遺伝病など特定の疾患に対する耐性を担っている)”ことが分かりつつある。(情報源:20190505NHKスペシャル シリーズ人体Ⅱ「遺伝子」 あなたの中の宝物"トレジャーDNA(偽(ギ)遺伝子)"、https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_967.html

 比喩的な言い方をすれば、「全体の98%を占める非コードDNA」の巧妙(絶妙?)なメカニズムは、短絡的な目先主義からすれば甚だしいムダにさえ見えかねない「社会的共通資本たる“社会の茎”」(ヒトを幸せにするsocio-scapeshttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938)」そのものだとさえ言えるのではなかろうか。

 つまり、生命モデルから得られる新たな知見からすれば「例えば、新古典派経済学にシッカリ取り憑いた新自由主義の如き“合理原理主義”(ヒトまでモノ扱いする物象化フェチに嵌っている!)こそが“非合理”であり、“万一の時に備えるムダも一定の視野に入れる“限定合理”(ヒューリスティクス)こそが、ある意味で合理的であることが分かる

f:id:toxandoria:20190519071055j:plain因みに、これら98%の偽(ギ)遺伝子は「新たな生命(子)の誕生の時には、必ず、約80の突然変異をもたらしており、その結果として多様性がヒトの社会に生まれ続けている(無論、ヒトだけではないが・・・)ということも、近年の研究で発見されている(情報源:シリーズ 人体Ⅱ遺伝子 第2集 “DNAスイッチ”が運命を変える20190512https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190512

・・・

意識の基本的特性二つ(統合情報理論)⇔(1)情報の統合/ほぼaに対応、(2)情報の豊富さ/ほぼbに対応(おそらく感情の要素も含む?)・・・結局、ヒトの意識は(1)と(2)の統合で完成すると考えられる

その意識統合のため脳内では非常に効果的で限定効率的(ヒューリスティック)な情報圧縮作業が進行している(これは機械学習ディープラーニングとは異なり、やはり+αの別の未発見の要素が加わる?)

 おそらく、その処理計算プロセスはシャノンの「対数関数計算に因る情報圧縮?+αの別の要素が加わる?」が近い?(シャノン情報理論では2を底とする2進対数関数でビットに合わせている)のかもしれないが、一方で知覚可能な情報量は「無数の可能性×無数の組み合わせ」なので莫大になり、知覚的な観察だけでは対応しきれず脳内では凡ゆる方法での揺さぶり(究極のデフォルトモード・フラッシュ?(一種の量子アニーリングに似た効果)+αの要素が加わる?/関連参照⇒http://ur2.link/Dpgi)が行われている。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20140502

 ところで、現代は量子コンピュータ(深層学習DLと量子アニーリン量子トンネル効果を応用する非常に効率的な超ビッグ多変量回帰分析/量子コンピュータ駆使)で最適解を求める手法)等による「“模倣”天文学的スケールの超高速計算」(しかし、それは約1000億個の銀河の数に匹敵する宇宙規模の天文学的スケール(≒ヒトの脳内ニューロン数)とは未だまだ雲泥の大きな落差がある!)が実現する時代へ入りつつある。別の言い方をすれば、それは1%派と癒着し易いIOT、AI‐インターネット技術がより強靭な社会プラットフォームとして他の凡ゆるものを根こそぎに支配し得る時代、いわゆる<AI‐Web機械経済Vs人間の壁”の社会構造が新たに形成される時代>に入ったということであるが、我々は、そのような意味で「AIの進化がヒトの幸せを脅かす」というパラドクスに此のまま嵌り続けることになるのだろうか?ttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

<注>量子トンネル効果・・・江崎玲於奈が発見した量子物理現象。量子力学の分野でエネルギー的に通常は超えることのできない領域を粒子が一定の確率で通り抜けてしまう現象のこと(厳密には、通り抜けたかに見える現象)http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/tunnel.htm

(日本の量子コンピュータ研究・開発の現況/残念ながら、日本は“本質の部分”で立ち遅れている)

・・・ともかくも、ディープラーニングや先端科学研究などの精度(信頼性)のより一層の高度化のため、今や優れた量子コンピュータの研究・開発が必須となっているが、残念ながら日本のそれは立ち遅れている。(以下は『日経サイエンス/2018年2月号の転載)・・・

文部科学省はこのマシンを,今後の量子コンピューター研究の中核に据える構えだ。もしそうなったら,量子コンピューターを研究していると標榜しながら,実際には古典コンピューターの性能向上を進めるという,名と実の乖離が起きることになる

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・・・日本の量子コンピュータの現況!/日経サイエンス(日本版「量子」コンピューターの選択) 2018年2月号 http://www.nikkei-science.com/201802_054.html

  2017年11月20日内閣府の革新的研究開発推進プログラム(ImPACT) は,NTTなどと共同で,「世界最大規模の量子コンピューター」を開発し,誰でもインターネットを通じて利用できるクラウドサービスとして提供すると発表した。

   量子コンピューター研究は3年前、米国の研究グループが発表した1本の論文をきっかけに様相が一変した。グーグルはこのグループを引き抜いて研究を本格化し、IBMほかIT大手やベンチャー企業、有力大学が研究を加速。それまで20年間にわたって数個にとどまっていた量子ビットの集積度は、今や50ビットに届く勢いだ。中国、米国、EU、オランダ、英国、スウェーデン、オーストラリアも、相次いで大型の研究開発投資を進めている。

 

  今回の発表で日本もいよいよ量子コンピューターの開発競争に参入したと思った人も多いだろう。だが、それは事実と異なる。この「量子」コンピューターは量子を利用した計算はしておらず、現在のCPUと同じ古典的な計算をするコンピューターだというのが専門家のほぼ一致した見解である。量子コンピューターの別タイプではなく、むしろ新規の光アナログコンピューター(メタマテリアルの特異な性質と光という連続アナログ量の変化を利用するという意味で高速化を実現するという意味であり、古典的なアナログコンピュータのその儘の復活ではない。)だといえる。

<注>メタマテリアルの光アナログコンピューターへの応用について ・・・自然界ではありえない振る舞いをする人工物質がメタマテリアルだが、そのメタマテリアルの内部には光の波長よりも小さな構造が無数に配置されており、それによって光の屈折方向を変更するといったことが可能になる。例えば、ある規則に従い、光の波形で曲線を表現する。この光を特別に設計したメタマテリアルに照射すると、内部で波形が変形されて、別の波形を持った光となって出力される。例えば、放物線(y=x²)を表す波形の光を照射すると、微分した直線(y=2x)を表す光が出力されるということができるわけだ。それこそ、光のスピードで演算が行われることになる(だから、これで自然界のアナログ情報が光アナログコンピューター上に取り込まれるということはあり得ず、その情報はあくまでもデジタルコンピュータ上のものと同じくデジタル抽象化されたものである(以上は、https://www.tel.co.jp/museum/magazine/news/111.html より部分転載)。そして、おそらく此の光アナログコンピューターも古典的デジタルコンピュータを介して翻訳され、実際に利用されることになると思われる(補足/toxandoria)。

   だから無意味だというわけでは決してない。量子コンピューターは研究が加速しているとはいえ、いまだ実験段階だ。実用機ができるまでには数十年かかるだろう。量子でなくても現在の半導体コンピューターより高速に動作するマシンなら意義は大きく今回のマシンは、まさにそこを狙っている

 

  だが、量子コンピューターの代わりにはならない。AIの進展とともにコンピューターが扱うデータ量は今後爆発的に増えると予想される。医薬品や新材料などはいずれ、すべて原子レベルで設計されるようになるだろう。その基本となるのは量子力学であり,量子コンピューターは,あらゆる量子力学過程を効率的に再現できる汎用コンピューターであることが理論的に示されている。技術的なハードルが極めて高く、いつ実現できるかわからないにもかかわらず、量子コンピューターの研究が拡大している理由はそこにある。現在のコンピューターと同じ土俵にいるImPACTの「量子」コンピューターとは比較できない。

 

3 想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか? それは「アナログ/自然計算(“暗黙知”ワールド?)」と「デジタル/AIディープラーニング(“形式知”抽出マシンワールド?)」の溝の深さによる?(仮説)

f:id:toxandoria:20190430041845j:plain(映画『エクス・マキナ(2016)』の画像は、https://deskgram.net/p/1965314503818192166_13432762より)

 いま、下のニュース情報★を目にしているが、おそらくこれなどは「インフルエンザウイルス 研究用の細胞開発のハーネス調教的な利用(限定調和的、かつ経験的な自然計算の活用)」と言えるだろう(<注>ハーネス調教=馬の自主性(自然計算)を尊重しつつ轡(くつわ)で統制・訓練し手なずける手法)。

★インフルエンザウイルス 研究用の細胞開発:効果的なワクチンの生産などにつながる成果/インフルエンザウイルスを、変異があまり起こらないようにしながら効率よく増やすことができる研究用の細胞を新たに開発した東京大学医科学研究所などが発表した。20190430NHK https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190430/k10011900951000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_004

(自然計算はアナログ暗黙知ワールド?/超デフォルトモード・フラッシュ? ) 

<注>暗黙知形式知について

・・・ともにマイケル・ポラニー(1891-1976/ハンガリー出身の物理化学者・社会科学者・科学哲学者)が提唱した概念で、暗黙知は言葉や数式に置き換えて表せない「知」であり、形式知はそれが可能な「知」と定義できる。委細は、後述するが此の両「知」の差異の問題は、特にAI(ディープラーニング/DL)をビジネス・製造・軍事・医療・教育・司法・行政支援等で具体的に利・活用する場面で非常に重要な意味をもつことになる。

f:id:toxandoria:20190430050340j:plain南方熊楠の画像はウイキより)

 自然計算の全体像を論理的に説明するのはなかなか難しいが、日本では「やりあて」(おそらく無意識に自らの脳の働きを一種の特殊な自然計算と見立てた上でそのハーネス(調教)的な使い方を自らの研究活動の成果に結びつけていた?/ネイチャー誌に掲載された論文の数が約50報で日本人最高記録保持者博物学者・南方熊楠の実践事例(https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-09J01168/)を始めとして、特に医学の世界などでは経験的(おそらく殆ど無意識)にそれを使ってきている鈴木泰博氏(名古屋大学准教授)によると、例えば「幼児性中耳炎(好発は 2 歳)の治療(炎症の原因菌と戦う常在菌を選抜し両菌を混在させた上で後は“武運長久”祈願!w として敢えて放置する治療戦略が成功している)」、あるいは「最新のがん免疫療法」などが挙げられる(出典:自然計算/201505人工知能30巻3号https://www.ai-gakkai.or.jp/my-bookmark_vol30-no3/ )。また、下・画像の事例「人間の細胞、拒絶しないブタ 免疫の一部抑え成功、再生医療研究に活用 慶大:522朝日」も、自然計算の調教的な利用のアイディアに因るものだと思われる。

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https://twitter.com/shinkaikaba/status/1130972481890611205

 因みに、同じ鈴木泰博氏は自然計算を詳細に論ずるのが難しいのは自然計算ではアルゴリズムを与える主体と計算を実行する主体が同じになって しまうことに因ると説明している。それは仮に生命現象を含む“森羅万象”(“同”神を自負する安倍晋三氏のことではない!w)に関わる自然計算のアルゴリズムの全指定ができるプログラマーがもしいるとするなら、彼は人間が神と同然化したと言えるだろうからだ。

 しかも、これは「プロローグ」で触れた「ヒトの感情とAIの感情もどき」の間に横たわる『不気味の谷』とも重なる問題になると思われる。が、それどころか現実はおそらく「リアル・アナログ世界」と「デジタル世界(コンピューター上の抽象化で実現するAI抽象化デュナミス潜勢態世界」が完全一致する(ユヴァル・ノア・ハラリが言うところの『ヒトが神になる)とは思えないので、おそらく人文「知」による何らかのルネサンス的な新たな知恵(クワイン、マクダウエル、ガダマーら“意味の全体論”(委細、後述)の立場の更なる先にあるetwas?)が創造されなければ、むしろ下で見る事例の如き意味で『リアルの崖』となりかねないだろう

 また、例えば「電気化学的勾配によるカルシウム・イオン、又はホルモン・酵素等の“内分泌系”情報伝達物質の脳など生体内における移動・伝播、細胞蛋白質や細胞小器官との間で情報伝達的かつ物理的な橋渡し役を担う細胞骨格(マイクロフィラメント等(直径で約約5~9nm以下の驚異的なマイクロ・スケール!)の超微細組織)の働き、という驚くべき事実もある

 あるいは、“もし、プラトン的な観念が不在であれば数学の概念を我々は理解できない”と見るR.ペンローズ(英国出身の天才的な数学者・理論物理学者/1931- https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58525)の主張、同じくペンローズが強い関心を寄せる重力量子(これは未観測だが)と生命体(特に脳)との関係性の可能性の問題」なども、ヒトの脳機能を支える重要な要素と考えられるため、到底、脳の全ての働き(つまりヒトの意識トータル)は電子デジタル・ニューラル・ネットワークだけで模式的に説明できるものではないと思われる。

 従って、この様な意味でも「脳のニューロンのネットワークを模したディープラーニング自動計算」と、そのトータルが殆ど「暗黙知」的な「自然計算」の間には大きな落差(断絶)があることが理解できる(そもそも宇宙の銀河数1000億個を超えるともされる莫大なニューロンの規模に加え、数え切れぬ程のシナプス(イオン系、化学系、混合系から成る)なども存在するため、脳内の情報処理ネットワークを100%再現することは到底不可能と思われる)。

 なお、このような意味での自然計算はフランス科学認識論の哲学者、G.シモンドン『個体化の哲学』(叢書・ウニベルシタス)の“ミクロから宇宙規模のマクロにおよぶ大自然世界における相転移の問題意識”の連続リアリティの概念にも重なると理解できること)および個体生命内の「ATP/アデノシン酸三燐酸(動植物に共通の個体内における生命エネルギー通貨)」創造の謎の問題とも深く関わると考えられるが、此処でそれらを深堀りする余地はないので、以下に事例◆を列挙するだけに止めておく。

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◆シモンドンによれば、ミクロ~マクロに至る世界の総体は<存在の特定の相(情報、形相、特異点)>という概念に比肩できるが(これらは相転移閾値(特異性)で繋がっている)、それは一定の系が「強度intensitéとしての情報」の連続する多層構造(~量子物理学“スケール”~物理・化学“同”~生命“同”~宇宙論“同”~)を意味する。今もって重力と磁力の本性が未解明であることを連想すると興味が尽きない!/参考資料:ジルベール・シモンドンとジル・ドゥルーズの「特異性」の概念―「情報」の形而上学的な問い直しのために―堀江郁智(日本学術振興会 特別研究員http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2018/04/88_6.pdf

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◆【ATP合成酵素分子モーター/人間の場合、ATP合成酵素ミトコンドリアの内膜にあり、水素イオンの流れでATPを作っているが、その役割は発電所の仕事に喩えることができる)のメカニズムは解明されつつあるが、なぜ、あらゆる生物が簡単な機構ではなく、複雑なナノモーターを使用しているのか?は未解明である!その回転には何らかの宇宙的な普遍性があるかも!?/京都産業大学、総合生命科学部 生命システム学科 吉田賢右教授、https://www.kyoto-su.ac.jp/project/st/st11_06.html 】・・・Cf. 「分子モーター」を人為的に回して「ATP」の合成に成功(基礎研究最前線)伊藤博康(浜松ホトニクス(株)筑波研究所研究員(専任部員))戦略的創造研究推進事業「タンパク質分子モーターを利用したナノメカノケミカルマシンの創製」研究代表者http://www.jst.go.jp/kisoken/seika/zensen/06ito/ 

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 これは直近の出来事であるが、日本の安倍晋三内閣総理大臣は自らが森羅万象の神だ!と自覚している<貴人ならぬ奇人>であることを国会で白状した!? のは周知の通りである。だからこそ、「完璧なAIアンドロイド」ならぬ安倍晋三氏に『不気味の壁』(自らを“神様”だとマジに自覚している?w 故の独特の胡散臭さ)の空気が漂っても不思議ではないことになる。(『不気味の崖』の画像はウイキより)

(人間のニューロン神経の活動のごく一部を模倣した機械学習手法の一種ディープラーニング(深層学習)の登場)

 ここで「人間のニューロン(神経)の活動を模倣した機械学習手法」の一種であるディープラーニング(深層学習)の登場ということになるのだが、その嚆矢は意外にも、やや古く1940年代の米国にまで遡る。(以下は、『ディープラーニングニューラルネットワークの歴史(株)電通国際情報サービス:⼩川雄太郎https://book.mynavi.jp/manatee/detail/id=89172より部分転載)

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・・・ディープラーニングニューラルネットワーク/多層機械学習)の原形となったモデルは、米国で考案されたマッカロック・ピッツモデル(The McCulloch-Pitts Model/Warren S. McCulloch、Walter Pitts)。形式ニューロンとも呼ばれ、ニューロンの活動を数理的に最も単純な形で模倣したモデルであり、1943年に発表された。マッカロックは外科医、かつ神経科学者でありピッツは数学者だった。つまり、神経科学者と数学者の共著論文でこのモデルが誕生した訳だ。

マッカロック・ピッツモデルを数式で表すと以下の通り。 ・・・11shiki01.jpg (ここで引用は終わり)

 

 (多層機械学習ディープラーニング(深層学習)の概要)  

f:id:toxandoria:20190430081942p:plain(画像は、Leap Mind Blog https://leapmind.io/blog/より)

f:id:toxandoria:20190501130550j:plain(画像は、

ディープラーニング】深層学習とは何か〜学習編〜、https://su-gi-rx.com/archives/960より転載)

 (1)ディープラーニング(2006~)の登場で、第三次ブーム下にあるAI(人工知能)の現況と未来

f:id:toxandoria:20190506161628j:plain(画像はウイキより)

・・・ジェフリー・ヒントン(1947- /英国出身のコンピュータ科学・認知心理学の研究者、トロント大学とGoogleに在籍)が オートエンコーダ(ニューラルネットワークを使った自己符号化アルゴリズムhttps://deepage.net/deep_learning/2016/10/09/deeplearning_autoencoder.html)によるディープラーニングを発明した(2006)が、これは人手を介さず特徴量(そもそもは機械学習で最初に入力する必要がある学習モデルの数値化)が抽出できるため、人間による知識表現であるアルゴリズムの役割が大幅に減少して(それがゼロとなった訳ではない)人工知能(AI)の大きなブレイクスルーとなった。

・・・既述の通りディープラーニングニューラルネットワーク)の原形は、1940年代に米国で考案されたマッカロック・ピッツモデルまで遡るのだが、そもそも機械学習とは「データ、パターン、ルールをコンピュータ自らが学習し、かつ柔軟にそれらを抽出できる」ようにする自然計算(南方熊楠の関連で既述)のごく一部分を模した「自動計算」技術のことである。

・・・ところが、2006年にジェフリー・ヒントンが オートエンコーダ(ニューラルネットワークを使った自己符号化アルゴリズム)を発明した以降のディープラーニング(多層機械“深層”学習)を喩えてみれば、それは「具材をそのまま鍋に放り込んだら、勝手に美味しい料理ができ上っている」と言う様なものだが、後述する通りその論理的プロセスの核心部分(おそらく、それは既述のとおり南方熊楠らが直感していた“自然計算”のごく一部分の再現であるため?)は今も「ブラックボックス」の状態(委細、後述)となっている

・・・しかも、「AIはゼロから1を生み出すこと」ができない!ということが現実である。つまり、《ヒトや自然の“現存在(ハイデガーが名付けたDasein/生命持続の活動エルゴンなる自然計算のトータル》、言い換えれば《地球自然環境そのもののリアルとその歴史の全体》の大前提なしでは、いくらAIと雖も何か新しい自然の存在を創造する」ことはできない。

・・・それにもかかわらず、AIが単独で機械的に、それができるようになると主張する点がシンギュラリティ論の怪しげなところである。つまり、いくらAIと雖も「いわゆる“意味の全体論”派(委細、後述)が主張する真理(クワインヒューマニズム哲学やマクダウエル、あるいはガダマーらの最新のリアリズム倫理・哲学などに沿った解答」を導き出すこともできはしないのである。

・・・だから(個人的な感想であるが)、案外AIの未来は「アナログ自然状態(自然計算)のままに放置し、何も一切の小細工は(ディープラーニングなどの深堀なども?)せぬ方が得策だし、結局、その方が経済的にも社会厚生の側面でもリーズナブル(限定合理的でヒューリスティック)であり、その方がヒトはより幸せになれる!?」というブラックユーモア風味の未来へヒトは突き進むのかも知れない?(苦w)

(2)“広義の機械学習”の種類と概要

・・・そもそもAI機械学習(現在の機械学習はニューラル・ネットワークであり、その更なる進化系の深層学習が多層機械学習、つまりDL(ディープラーニング)である)の得意技のベースは「大量のデータを分類しラベル付けする」ということであり、これが「ヒトが与えたでたらめなデータから、自らジャンル分け出来るように微調整しつつ学習する」という、機械学習の稼働原理の基本となっている。・・・

機械学習]-1教師あり学習(得意は分類すること/最初に正解モデル・データを与え、そこから分類ベースのルールやパターンを電子機械的に自動調整で学ばせる手法)

・・・その応用例は「迷惑メール判定、画像選択(必ずそれらデータの中に正解があるもの)」など(概ね人が正解を判断できるもの)だが、その前提条件は「教師データ数が十分に多いコト、例えばメール判定でも数万件のオーダーが必要!」ということになる。

・・・教師データを学習したコンピュータは自らの中に「未知のデータを予測するため/予測フェーズ」のルール(=稼働の土台となるモデル・アルゴリズム+教師データから学んだルール学習フェーズ・モデル)を保持している。

・・・また、教師あり学習は新たな場面での教師データ(新たに学んだルール)を時系列で学習し累積させ、その都度の微調整で少しづつルールを更新する。いわば教師あり学習では教師データ(正解)との差を微調整することが学習そのものなので何回も繰り返すと洗練度が高まる訳である。

・・・出力パターンは確率の表記となることが多いが、「データの作り方の工夫」と「データ数の大きさ」が、その結果の性能を左右する。

機械学習]-2 教師なし学習(得意は分割(クラスタリング/グルーピング、分割)すること教師データを与えずに行う機械学習の手法)

・・・教師あり学習で行っていたのは「分類」問題を解いていたのだが、教師なし学習が行うのは「クラスタリング」(グループ化)である。両者は似ているように思えるが、「分類」はあくまでも個体のラベリングであり、「クラスタリング」は各「個体」の属性を目星とし同じ仲間と思しき「複数の個体でグループを作る」(クラスター化する)ことだ。

・・・別の角度から言えば、教師なし学習で行うのは、多変量のデータが大量にあって、どういうクラスタ分割ができるのか分からないので、とりあえず、それをやってみるという様な場合に有効な手法である。

・・・重要なのは、クラスタリングで得られた複数のクラスターの夫々がどのような特徴を持つデータ集団(仲間)であるかを、その教師なし学習の結果しだいで、今度は人が類推的に理解(今度は人が、その複数クラスターを見分けて評価)する必要があることだ。

・・・クラスタリングでは凝集型クラスタリングボトムアップクラスタリング最も近いものどうしを順番にまとめるやり方)など様々な手法がある。いずれにせよ「何で似ていると判定するか?」「クラスタどうしをどの様な基準で比較するのか?」などの条件設定しだいで、様々な目的に応じ使うことになる。これは教師あり学習の分類でも同じことだが、機械学習を使っても目的に応じそれを使う人が試行錯誤する必要があるということである。

・・・因みに、教師なし学習ではクラスタリング(グループ分け)の行為そのものが学習することの意味になる。

機械学習]-3 強化学習(得意は決定の行動パターンを学習すること/ある状態における多様な行動を評価し、よりよい行動を自動的に学習する手法)

・・・これは、特に囲碁・将棋・チェスなどのゲームやロボットの動作制御(デシジョン・ツリー選択での

確率を決める)などで高い性能を発揮するが教師あり学習教師なし学習に比べて使い方のハードルが高い

・・・別に言えばある環境内のエージェントが現在の状態を観測し今後の取るべき二者択一の行動を決定するという問題を扱う機械学習」であるが、そこでエージェントは行動の選択に応じて環境から報酬シグナル
(選択した割引累積報酬)を得ることになる。

・・・ポイントは、右か左かを単純に決めるのではなく先ず右の確率と左の確率を決め、その確率の結果を介して得た報酬シグナル(電子的なパラメータ数値/脳内ニューラルネットの対神経“快感賦与”物質であるドーパミンの量に相当する)の大小を比べる学習経験を何回も繰り返し、最終的に得た割引累積報酬(累積パラメータ数値)から逆算して得た最終累積報酬が最大となる(将棋などの勝負の場合は勝ちを得る)ように各選択段階の個々の確率をバックプロパゲーション(下記/注)で波状的に決定しつつ、それを繰り返して、そのつどの経験値(知)を累積して行くことにある

・・・つまり、最終の累積割引報酬シグナルを最大化するよう意思決定(先行かつ遡行的に選択)するという確率の決め方)の技術「経験知」を電子的に学習・累積するところが強化学習特徴である。

[補足]GAN:敵対的生成ネットワークとは何か ~「教師なし学習」による画像生成(リアルをフェイク化する“教師なし学習”のジャンル?w)・・・以下、https://www.imagazine.co.jp/gan%EF%BC%9A%E6%95%B5%E5%AF%BE%E7%9A%84%E7%94%9F%E6%88%90%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%80%EF%BD%9E%E3%80%8C%E6%95%99%E5%B8%AB/ より部分転載・・・

 近年、いわゆるAI を構成する要素技術として機械学習の発展が著しい。とくにディープラーニングはその火付け役であり、画像分類、物体検出、セグメンテーションなどの画像領域をはじめ、自然言語処理音声認識といった分野にまで広く応用されている。その表現力の高さから、今や従来の機械学習