toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

2007年春、ドイツ旅行の印象[ドレスデン編]


ドイツの州区分(Portal fuer Deutechlernen der Weg、http://www.derweg.org/mwbuland/bulantoc.htm)より


ドイツの主要都市(ウイキペディアより)


ドイツの河川図(ウイキペディアより)


ドレスデンの俯瞰図


君主たちの行列(Der Fuersternzug)


代々のザクセン選帝侯は、14世紀頃からドレスデン城に居住していました。この城のアウグスト通り沿いの外壁には歴代君主たちをヴィルヘルム・ヴァルター(Wilhelm Walther/1826−1913/ドレスデンの建築家)が1872年〜76年にかけ描いた凡そ長さ100m、高さ8mにわたる壁画「君主たちの行列」(約2万枚のマイセン陶磁の手法で焼成したタイルで出来ている)が現存しています。


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ザクセン史の概観)


ザクセン(現在のザクセン州の位置につては上の『ドイツの州区分』図を参照/中世初期ごろのザクセンは現在のニーダーザクセン州ブレーメンノルトライン・ヴェストファーレン州の北部を合わせた地域)における支配者(君主)の始まりは、フランク国王(カロリング朝カール大帝(Karl(仏Charlemagne)/位768-814/800年にローマ教皇レオ3世/ Leo III/位 795−816))に服してキリスト教化し、ザクセンの支配者の地位を安堵されたザクセンの首長ウィドゥキント(Widukind/caAD8世紀)であり、その孫にあたるリウドルフ(Liudolf/806 - ca864)は、フランク王ルードヴィヒ1世(Ludwig 1/仏Louis 1/778-840)から爵位(伯爵)を許されたのでザクセン公(リウドルフ家)の始祖とされています。なお、カール大帝ザクセンの支配で最も力を注いだのはキリスト教の布教と教会組織の導入で、そのために伝道の拠点として各地に修道院を建てる一方で、ブレーメンをはじめとする一連の司教座教会を相ついで建設しました。このため、フランク国王・ルードヴィヒ1世(敬虔王、Ludwig 1/ 位814‐840)治下の831年までには改宗してまだ日の浅いザクセン全域が9つの司教区で覆われて教会組織の基礎が固まったとされています。


911年に東フランク王国カロリング朝)が断絶したあと(ノルマン人の首長ロロが西フランク(同じカロリング朝)王シャルル3世(単純王、Charles 3/879-929I)からセーヌ下流域を得てルーアンを首都とするノルマンディー公国を建てたころ)、ゲルマン諸部族から選ばれる形でフランケン(フランケンは部族名でもあるが、歴史的地域としはマイン川中流・上流域のバーデン・ビュルテンベルク州とバイエルン州にまたがる地域)のコンラート公がドイツ王国のコンラート1世(Konrad 1/位911-918)として即位しており、これが最初の「ドイツ王国」の誕生です。


しかし、これを実質的な意味で統一国家としたのはザクセン大公であった国王ハインリヒ1世(捕鳥王、Heinrich 1/位 919‐936/既述のザクセン公・リウドルフの子孫)です。ハインリヒ1世は、925年には西フランク王国領となっていたロートリンゲン(現在のフランス北東部の地域)を奪回し、東方遠征でも辺境地域に多数の城塞を築いてスラブ人の侵入に備えました。そして、当時の最大の脅威であったマジャール人ハンガリー人のルーツである遊牧民)追討のためスラブ地方へ出兵した折(928〜929頃)に、現在のザクセン(Sachsen)州・マイセン辺りのエルベ川に面した丘の上に城を築きますが、その城の名が都市マイセン(マイセン辺境地/Mark Meissen)の名の起こりと繋がることは既に述べたとおりです(参照/http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070428)。


やがて、ハインリヒ1世は933年にドイツ諸部族の協力を得てマジャール人に大きな打撃を与えますが、これがザクセン朝の王権と中世ドイツ王国の基礎を固めるため大いに貢献します。また、それまでフランク王国で行われてきた分割相続の慣例を廃止して、世代を越えた永続的な王国領域を形成するための基礎を築き上げました。このため、ハインリヒ1世は「ザクセン朝・初代のドイツ国王」とされています。


この「ザクセン朝・ドイツ王国」の第2代のドイツ国王はオットー1世(Otto 1/ 位962-973)です。オットー1世は、父ハインリヒ1世の後をうけて王朝の基礎を確立した人物であり、ドイツの国家統一を強力に推進しました。先ず、オットーは超部族的組織(一種の官僚組織)である教会勢力との提携に転じました。つまり、彼は側近聖職者を大司教・司教・帝国修道院長等の教会要職に任命するとともに、彼らに国内行政に関する大きな権限を与えました。これは「帝国教会政策」と呼ばれますが、ザクセン朝および初期ザリエル朝によって継承されることになります。


対外的には、東方スラブ人対策のためハインリヒ1世に引き続いてザクセン東方に辺境領(Mark)を設置し、侵入を繰り返していた(9世紀以来)マジャール人アウグスブルク近郊の「レヒフェルトの勝利」(Sieg ueber die Ungarn auf dem Lechfeld/955)で決定的な打撃を与えたため、これ以降はマジャール人の侵入が跡を絶ちます。また、西方では内政が不安定であったフランスに調停者としてしばしば介入し、南ではイタリア(ロタリンギア/Lotharingie/870年に東西フランク王の間で締結された分割条約(ベルダン条約)によってロタール1世に帰属した中部フランク)王ロタール2世(Lothar 2/位 ca825-869)の寡婦アーデルハイト(Adelheid/高貴を意味する女性名)の救援要請に応え、951年に「第1回イタリア遠征」を行いますが、オットーは彼女と結婚してイタリアに対する権利を基礎づけました。


オットー1世はイタリア王ベレンガーリオ2世の南下に脅かされていた教皇ヨハネス12世(Johannes XII/位 955-964)の要請を受け961年に「第2回イタリア遠征」を行いベレンガーリオを破って北イタリアも支配下に置くことになります。その結果、962年にローマ教皇から「神聖ローマ皇帝の帝冠」を受けることとなり、これが「神聖ローマ帝国」の始まりです。972年にはビザンティン王女と息子の結婚を実現させて神聖ローマの皇帝権を「ビザンティン帝国」にも認めさせました。また、オットーは文芸の振興にも心を配り「オットー朝ルネサンス」と呼ばれる時代を招きました。このような偉大な功績から、オットー1世は「オットー大帝」と称されるようになった訳です。その後、ザクセン朝系の神聖ローマ皇帝は11世紀初頭のハインリヒ2世(Heinrich 2/位 1014-1024)まで続くことになります。


ザクセン大公オットー2世(936-961、神聖ローマ皇帝オットー1世/962-973)以降のザクセンでは君主の家系が幾多の変遷を経ます。やがて、神聖ローマ皇帝カール4世(Karl 4/位 1346-1378)の「金印勅書」(Die Goldene Bulle)によってアスカン家(Askan)のルドルフ2世(Rudolf 2/1356-1370)の時からザクセンの君主は「ザクセン選定侯」と呼ばれるようになります。11世紀になると、マイセン地方はザクセンとチューリンゲンを支配し、特にこの地域で支配力を強めていたヴェッティン家(Wettin)に与えられることとなり、同家はマイセン辺境伯の地位を獲得します。


やがて、このヴェッティン家 がザクセン地方の更なる興隆の基礎を築くことになります。ヴェッティン家は辺境伯領を世襲するとともに、ここを拠点として領土を拡張します。1423年には、フリードリヒ1世(好戦公、Friedrich1/1422-1428)がザクセン公国(公爵領)とザクセンにおける選帝侯という二つの権威を獲得します。こうしてヴィッテン家が15世紀にザクセン選帝侯となった頃から、その領土全体に対して「ザクセン公国」の名称が使用されるようになりました。このヴィッテン家のザクセン支配は、「ザクセン王国」(1806〜1918/1806年、ナポレオンによる神聖ローマ帝国の解体でザクセン公国は独立王国となる)の時代を経て1918年のドイツ革命でホーエンツォレルン家の「ドイツ帝国」(Deutsches Reich/プロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿・鏡の間でドイツ皇帝に推戴されて成立した、ドイツで二番目(神聖ローマ帝国に次ぐ)の帝国)が崩壊するまで続くこととなります。


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エルベ河畔から三王教会を望む、ドレスデンの風景


ドレスデン(Dresden/人口約50万)の都市名は、既に6世紀ごろからこの地に定着していたスラブ系のソルブ人(Sorben/西スラブ族の系統で、次第にドイツ人に同化したとされる)がスラブ語で『森に住む人』と呼ばれていたことに由来するようです。12世紀にマイセン辺境伯がエルベ左岸にドイツ人の町を建設したころには、未だその右岸にはソルブ人の町が存在していたとされています。


ヴェッティン家(辺境伯領を世襲)の支配下にあったドレスデンは、1539年に宗教改革を受け入れていたため「シュマルカルデン戦争」(1546-55/旧教を強要した皇帝カール5世とシュマルカルデン同盟(1530)を結んだ諸侯・諸都市との戦い)では神聖ローマ皇帝側に立ち、アルブレヒトザクセン選帝侯の都となります。「三十年戦争」(1618-48/不徹底であったアウグスブルクの宗教和議(1555)が原因で起こった宗教戦争/ボヘミアベーメンの新教徒の反乱が契機であった/政治的野心で参戦する列国が増えて国際動乱化しドイツ国土の殆んどが荒廃した/ウエストファリア条約(1648)で終結)で1635年によりラウジッツ地方(Lausitz)が選帝侯領に加えられると、ドレスデンはエルツ山脈の鉱山地帯と広い農村繊維工業地域を後背地として経済的に繁栄することになりました。


ポーランド王(=アウグスト2世)も兼ねたザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強王、Friedrich Augst 1/位1694-1733)の時代には、18世紀ドイツ・バロックの真珠と呼ばれる優美な姿のフラウエン教会、ツヴィンガー宮殿、日本宮殿などが建設されました。ツヴィンガー宮殿の一角にあるドレスデン国立絵画館は16世紀半ばのザクセン選帝侯の美術品陳列室にまで遡りますが、18世紀前・中期にフリードヒ・アウグスト1世、次いでフリードヒ・アウグスト2世が自らの権威発揚のため美術品収集の強化策を推し進めたため急速に規模が拡大しています。


ドレスデンにはザクセン選帝侯時代の豊富な財力で建てられた文化建造物が数多くありますが、その多くは「ドレスデン大空襲」(Luftangriffe auf Dresden)で破壊されました。これは、米軍・英軍により1945年2月13日〜14日に行われた無差別爆撃(現代ならクラスター爆弾バンカーバスター爆弾に匹敵するような猛爆撃)です。この爆撃でドレスデンの85%が破壊され、3万〜15万もの一般市民が死亡したとされています。これは、第二次世界大戦中に行われた都市に対する空襲の中でも最大規模のものであったようです。ソ連軍の侵攻を空から支援する名目はあったようですが現実には戦略的に無意味な国際法を犯す空爆であったという批判があります。そのため、「ドレスデン大空襲」は“ドイツのヒロシマ”と呼ばれることもあるようです。


米国と英国にとって、ドレスデンは「Deutsches Reich」または「Drittes Reich」の悪魔的な象徴にでも見えてしまったのでしょうか? それとも、ザクセンが遠いアングロ・サクソンの故地であった(4世紀後半〜5世紀のゲルマン民族移動期にザクセン族の一部がブリテン島に渡り、英米のルーツであるアングロサクソン人の基盤を形成した)ことを忘れ、ザクセンの人々に対する憎しみだけがひたすら募ったのでしょうか?


ともかくも、戦後は、ソ連支配下東ドイツ時代から爆撃で飛び散った瓦礫を再び組み合わせて元の建造物と町並みが修復されてきました。それは、気が遠くなるような困難な仕事であったことが想像されます。そして、復興の象徴とされてきたフラウエン教会も、漸く2004年に修復・再建されています。今も、ドレスデンでは東ドイツ時代に立ち遅れてしまったインフラ(道路・鉄道・空港など)整備などの仕事が続行しています。


ゼンパーオペラ劇場(Semperoper)


ゼンパー・オーパー(ゼンパーオペラ劇場)は新古典主義建築の傑作として知られていますが、同劇場のオーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデンドレスデン国立歌劇場管弦楽団」(Staatskapelle Dresden)は、1548年(アルブレヒト系ヴェッティン家モーリッツ選帝侯(Moritz/位1547-1553の時)にザクセン選帝侯の宮廷楽団として設立された世界で最古のオーケストラとして知られています。なお、ゼンパー(Gottfried Semper/1803‐79)はドイツの建築家で、30歳代初期からドレスデン王立芸術アカデミーの建築科教授として活躍しました。ネオ・ルネサンス様式の代表者とされていますが他の様式も手がけています。


フラウエン教会(聖母教会/Frauenkirche)


フラウエン教会の前に立つマルティン・ルター


フラウエン教会はルター派プロテスタント教会で、1726年〜1743年に建設されました。しかし、1945年2月13日のドレスデン大空襲で崩壊しました(大空襲で大きな損傷を受け、更に内部の火災で支柱が燃えたため建物の膨大な重量が支えきれなくなり、2日後の2月15日午前10時ころに東側と北西部の壁の一部を残してほぼ全体が崩壊した)。1996年から再建が始められ、2004年7月、建物の外部が完成、2005年10月30日には教会の・修復・完成を祝う式典が行なわれました。ドレスデンが“北のフィレンツェ”(Florenz des Nordens )とも呼ばれるのは、このフラウエン教会を中心とする都市景観の美しさによるものです。


ツヴィンガー宮殿(Zwinger)


後期バロック様式の傑作として名高いツヴィンガー宮殿(Zwinger)は、18世紀初めにフリードリヒ・アウグスト1世(強王、Friedrich Augst 1/位1694-1733)が、ドレスデン城とは別に、このドレスデン城の近くに自らの居城として別に建設したものです。神聖ローマ皇帝ヨーゼフ一世が没したあと、アウグスト強王は1711 年に神聖ローマ帝国の摂政(Reichsvikar) となりますが、この頃から皇帝の座を狙っていたアウグスト強王はツヴィンガー造営に意欲を燃やすようになったようです。


このZwingerには“中世城郭の堀と城壁の間につくった中庭”という意味があります。この宮殿は、ドレスデンにある他の建造物と同じようにエルベ砂岩で建てられています。エルベ砂岸は、鉄分を多く含むため時間とともに錆びが見られるようになりますが、この黒錆びは建造物自体を保護する作用があるとされており、ドレスデン市街の独特の重厚な雰囲気が伴う景観を創っています。


王冠の門 (Kronentor/一枚目の画像) を通りツヴィンガー宮殿の中庭に入りますが、この門は凱旋門として建てられたものでヘラクレス門と呼ばれていました。宮殿の二階部分の屋根の上にはタマネギ型の巨大な「ポーランドの王冠」が乗せられており、四羽の鷲がこの王冠を支えています。アウグスト強王は“アウグスト2世”としてポーランド王(位1697-1706、1709-1733)を兼ねていました。


ドレスデン


ドレスデン城には14世紀ころからザクセン選帝侯が居住していたとされています。このドレスデン城は旧東ドイツ時代の1960年代から戦災被害の修復工事が始まっていました。しかし、本格的な再建工事が始まったのは東西ドイツ統一後であり、今も修復工事が続行しています。


このドレスデン城で重要なのは冒頭に画像を掲げた「君主の行列」の壁画です。ここで四枚目の画像は、その「君主の行列」の裏面につくられたイタリア・トスカーナ風のアーチ支柱が並ぶ美しい回廊です。


ドレスデン国立絵画館(Gemaeldegalerie Alte Meister Dresden)


ドレスデン絵画館内の「クラナハの部屋」 Lucas Cranach(1472-1553)


ツヴィンガー宮殿の一角にある「ドレスデン絵画館」の由来は既述のとおりですが、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、コレッジョ、ロイスダールフェルメールなど16〜17世紀イタリア絵画と17世紀ネーデルラント絵画に重点を置いた主要コレクションの殆んどは、フリードヒ・アウグスト1世とフリードヒ・アウグスト2世の時代に収集されています。18世紀後半には外国人旅行者や美術学生、19世紀には一般の人々も入館を許されており、ゲーテをはじめ欧州各国の詩人・文学者などがここを訪れ感銘を受けたとされています。特にラファエロの『シストの聖母』はロマン派の賛美の的となったようです。


絵画館で撮った名画の一部


Corregio(ca1494-1534)「Die Madonna des heiligen」


Paolo Veronese(1528-1588)「Die Hochzeit zu Kana」


Raffaello Santi(1483-1520)「Sistine Madonnna」


Rembrandt Harmensz van Rijn(1606-1669)「The Prodigal Son in the Tavern」


Johannes Vermeer(1632-1675)「Girl Reading a Letter at an Open Window」


Johannes Vermeer(1632-1675)「The Procuress」


Peter Paul Rubens(1577-1640)「Bildnis einer Frau mit Geflochtenem blondem Haar」


Bartolome Esteban Murillo(1617-1682)「Maria mit Kind」


ドレスデン、街の風景


(エピローグ=立憲意識が希薄な“日本社会の危機”の深層)


ドイツ全体の歴史とオーバーラップするザクセン史の概観が示唆するのは、日独戦後史を比較・考量するとき、特に我われ日本人は「ドイツにおける有力王朝の歴史(神聖ローマ帝国からドイツ帝国に繋がる)はドイツ革命(1918/皇帝ヴィルヘルム2世の退位によるホーエンツォレルン家の崩壊)で消滅したこと、ヒトラー・ナチズム体制の公式名称が「(ドイツ)第三帝国」(Drittes Reich)であったこと、戦後の日本国憲法下では平和裏に象徴天皇が存続していること」が示す「歴史的な意味の重さ」を俯瞰的・通時的・客観的・形而上学的・倫理的・哲学的・法理的に捉えるべきということであるように思われます。


ドイツが日本と根本的に違うのは「人道に対する罪の意識」を戦後のドイツ国民が共有することに成功し、今もその状態が持続している点だと思います。もちろん、これはドイツでの国際軍事裁判のために連合国側が規定した「平和に対する罪」、「戦争犯罪に対する罪」、「人道に対する罪」のなかの一つです。しかし、ドイツの場合にはこれが単なる消極的な受身の意識に終わらず、この三つの罪についての反省的な思索を深めドイツ国民へ大きな影響を与えたカール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers/1883-1969/ハイデルベルク大学実存主義哲学者、精神医学者)の存在があります。ヤスパースは、その妻がユダヤ人である故のナチスに対する抵抗の貫徹で大学を追われ、妻の強制収容所送りでは自宅に2人で立て籠もり通したというエピソードがあります。


ヤスパースの偉大な功績のポイントは「ドイツ国民一人ひとりが、それぞれ自分が負うべき罪について身の丈に合わせて主体的・積極的に考えるべきだ」という前提を明快に示したことです。そして、ヤスパースナチス・ドイツが行った侵略戦争ホロコーストなどの「罪」を四つの次元に分けて考えます。それは、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上学的な罪の四つです。つまり、これで「政治的・法的な責任」(前者二つ)と「内面的な責任」(後者二つ)を区別して考えることが可能となったのです[出典:仲正昌樹著『日本とドイツ、二つの戦後思想』(光文社新書)]。


これによって、一人ひとりのドイツ人が自分の能力に見合った自覚レベルに応じて「人道に対する罪の意識」を具体的に表わすことが可能となり、是非とも自分はそうすべきだという人道に関する実践的な心と意志をドイツ国民が共有できるようになったのです。このように見ると、ドイツの人道に関する戦後の責任意識が日本とは比較にならぬほど高い地点に到達していたことが理解できます。このことはドイツと日本の政治家の品格の違いの第一原因ともなって長い尾を引くことになり現在に至っています。ともかくも、「日本の国会議員の品性の低劣さ」と「ドイツの国会議員のモラルの高さ」はあまりにも対照的です。


ところで、「ドイツ連邦共和国基本法」(Grundgesetz fuer die Bundesrepublik Deutschland、http://www.datenschutz-berlin.de/recht/de/gg/)は2000年末までに48回もの改正が行われており、その改正要件は「連邦議会議員数の三分の二及び連邦参議院議員の表決数の三分の二の同意を必要とする」ことです(同基本法79条)。これによって、NATO加盟のための再軍備・徴兵・国民の環境権など国民の人権にかかわる重要な改正が行われてきました。だから、日本国憲法も改正すべきだという議論を持ち出す政治家や識者が存在するようですが、ことはそれほど単純ではないと思われます。


何よりもまず、周辺諸国との歴史的・外交的関係を始めとしてドイツと日本が置かれた戦後の冷戦体制下での状況が全く異なることを前提としなければなりません。それに加えて、初めから「ドイツ憲法は政治権力に制度的な枠組みを与えるものである」こと、つまり“ドイツ憲法の授権規範性(立憲主義の視点)”が、先ず権力的立場に立つ者たち自身によって明確に意識され、かつ国民一般もこの立憲主義の意味を正しく理解してきたということです。もう一つ、ドイツ憲法の特徴的な性質をあげておくなら、それはナチズムをもたらした過去の歴史と厳しく対峙(ナチズムを完全否定)しているということです(この意味で過去のファシズム的感性への親近性を窺わせる妖しげなフレーズ“美しい国”には危険な匂いが付き纏っています)。そして、このことは主に同基本法の第1条、第20条、第79条の条文内容に明確に書かれています。


(第1条)人間の尊厳は不可侵なので、すべての国家権力はこれを尊重し保護することが義務づけられる。


(第20条)ドイツ連邦共和国は民主的な連邦国家であり、このことは第1条の規定とともに「憲法改正の手続き」によっても変更できない。(憲法改正の限界を明記)


(第79条)第1条、第20条で定められた原則は、憲法の番人たる「ドイツ連邦憲法裁判所」によって厳しく監視される。


このように置かれた環境条件の違いからドイツは明快な形で再軍備を実現してきましたが、一方で根本的には憲法の中で侵略戦争を明快に拒否しており、その意味では「平和主義」に徹しています。もう一つ見逃すべきでないのは、ドイツも「フランス革命」に相当する「ドイツ革命」(1918)で明確に重い歴史に繋がる帝制を政治的な次元から消滅させたということです。冒頭で述べたとおり、ナチスヒトラーはこの帝制を復活して自らが皇帝となるつもりであった訳です。この点に関して言えば、日本が進んできた道は「太平洋戦争を経験した戦後の日本」しかできなかったという意味で掛け替えなく世界中でもユニークなものです。それは「象徴天皇制の下での平和主義の徹底」ということですが、このこと自体は決して恥ずべきではなく、むしろ世界に向かって堂々と誇るべきことだと思われます。


仮に、「国民の総意」が「ヤスパースの反省」のような観点を十分に理解できていたとすれば、そして立憲主義の意識が日本国中に満ちているとするならば一般国民の総意に基づいて「ドイツ型の憲法運用体制」へ移行することは形式論理的に(“人間の尊厳と歴史経験の一回性ということ”を無視して)捉える限りでは可能かも知れません。しかし、今のように政治家も一般国民も立憲意識がきわめて希薄(軽薄)な社会・政治状況のなかで「日本国憲法の授権規範性」を安易に緩めることは甚だ危険だと思われます。なぜなら、比喩的な意味で今のドイツが歴史から真っ当な知恵を学ぶことが可能な「正統保守政治」とするならば、日本の現況は過去の歴史から何も学ばない「衆愚ポピュリズム政治」だという違いが歴然としているからです。このような日本の社会・政治環境下で、これから“日本のヒトラー”が絶対に出現しないという保障はないのです。


このため、まず日本国民は、「お坊ちゃま型寄生・世襲議員」と「メロドラマ型チンドン屋議員」を安易に“自分の好みのタイプで選ぶ”という下劣な選挙意識を改革しなければならないでしょう。また、日本の殆んどの国会議員はノーブリス・オブリージュ(高い身分に応じた義務感)以前の下劣な存在であるので、日本はこの辺りの改善についてもドイツから学ぶべきです。それは、今でもドイツの連邦議会議員・連邦参議院議員らはモラルとノーブレス・オブリージュを持ち続けているからです。


また、「新ドイツ憲法」(ドイツ連邦共和国基本法)下のドイツ大統領の位置づけは、ワイマール時代と異なり国民から直接選ばれることがない仕組みとなっており、連邦議会(第1院)と各州議会の代表者(連邦参議院議員)によって間接的に選挙されます。ここには、ワイマール時代にヒトラーを総統(第三帝国皇帝)に任命してしまった大統領の地位の危うさへの反省の思いがあり、同時に大統領の地位が国民による“美人投票”のような一時の激情(又は憤怒)の感情に流されることを防ぐ意図があると考えられます。そして、このように精妙な政治システムが可能となるのは、ドイツの連邦議会議員・連邦参議院議員らがモラルとノーブレス・オブリージュを自覚・実行してきており、一般国民がそのことに対して信頼を持っていればこそです。


ともかくも、日本のように低俗なワイドショーやバラエティ番組に出まくって売れ筋の芸能人たちとイチャついたり、弱い立場の者や利害が対立する人々を高圧的に恫喝したり、手品師かペテン師のように政治資金をチョロまかしたり、あるいは破格の袖の下を薄汚く集め捲くったり、あるいはアメリカにとってはプラス・マイナスゼロの問題と見做せる集団的自衛権のような政治課題で一般国民の不安心理を煽ったりするような、謂わば「国営泥棒&暴力組織の組員のような国会議員」(それでも国民の代表か?/参照→下記“参考”)の恥ずべき姿はドイツでは見られないようです。


<参考>


一部の報道によると「与野党を問わず、国会議員の公設秘書が採用される条件として給与の一部を議員へ寄付(上納)するように強要されていたこと」が明るみに出ています。おおよその金額は分かっているだけで「過去3年で205人、総額約3億円」となっています。


このことからも、日本の国会議員たちが国民の代表としてのノーブレス・オブリージュを意識するどころか専ら暴力団組織かヤクザ集団の“恫喝、脅迫、ゆすり、たかりのノウハウ”を政策運営の手本としてきたことが分かります。


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