toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

朝日新聞が騙る鳩山個(故)人献金はそんなに感動的な国会の争点か?

toxandoria2009-10-12



<注記>初出(2009.10.12)の表題が難解だったので改題し、若干の補足を加えて再UPします(2009.10.13)。


【画像1】オーストリア、アルベルティーナ美術館あたりの風景(2009.3.23、撮影)








アルブレヒト・デューラー『野兎』

Albrecht Durer. A Young Hare 1502  Watercolour and gouache on paper. Graphische Sammlung Albertina Vienna 、 Austria


・・・1776年にコレクションを創設したアルベルト・フォン・ザクセン・テシェン公爵(マリア・テ レジア女帝の娘婿)に因むアルベルティーナ美術館は、デューラーの『野兎』で有名だが、そのコレクションはクリムト、モネ、ピカソから現代美術の名作に及ぶ。 この建物はハプスブルク家の宮殿だったものでホーフブルク王宮の南端を構成しており、ウィーンの古い城壁の一部に組み込まれている。 ⇒ 美術館公式HP、
http://www.albertina.at/jart/prj3/albertina/main.jart?rel=en&reserve-mode=active


【画像2】ジャン・フランソワ・ミレー『落ち穂拾い』

Jean-Francois Millet (1814-1875)「Gleaners」1857 Oil on canvas 83.5×110cm Musee D'orsay 、 Paris


ミレーは、ドーミエ(Honore Daumier/1807-1879)、クールベ(Gustave Courbet/1819-1877)とならぶ19世紀フランスの写実主義(レアリスム/Realisme)を代表する画家であるが、1814年10月4日にノルマンディー地方の北端の寒村グリシー(Gruchy)で生まれている。ここは、港湾都市シェルブール(Cherbourg)から西へ約17kmにあるグレヴィルの町はずれ辺りで大波が荒れ狂うイギリス海峡の断崖(Cliff of Greville)に面している。


ミレーは裕福な部類に入る農民の家に生まれたが、8人兄弟の第2子であったうえ内気で人見知りする性格でもあったため、シェルブールとパリを行き来するこの修行時代(およそ19〜31歳頃/1833〜1845)は、必ずしも順調ではなかった。が、この時代のミレーはルーブル美術館(当時は王立)で、ミケランジェロ、マンテーニャ、プサン(Nicolas Poussin/1593-1665/クロード・ロランと並び、精神世界の高みと自然の融合をキャンバスで実現した17世紀フランス最大の画家)らの影響を受けていた。


やがて、ミレーは1846年にバルビゾン派(Ecole de Barbizon/パリの東南にあるフォンテンブローの森の西北隅の小村バルビゾンで活躍した風景画の一派)の画家(トロワイヨン、ディアズ、テオドール・ルソーなど)、及び後に彼のパトロンとなりミレーの伝記も残すアルフレッド・サンシェ(Alfred Sensier/?−1877/内務省2等書記官)らと親交を結んだ。


ちょうど、この時代は、オルレアン公ルイ・フィリップの「七月王政(1830-48)」の反動化(立憲議会制であるが大ブルジョワジーが政治の中枢を占めた)に対する労働者と小市民による市民革命であった「二月革命(1848)」が起こり第二共和制が成立する時で、また、その余波がドイツ(三月革命)、イタリア、イギリスなどヨーロッパ中へ拡がるという、まさに19世紀ヨーロッパの一大画期の時であった。


ミレーの故郷グレヴィルの大地を描いた『落ち穂拾い』は、明澄な朝の陽の光に照らされた三人の貧しい農民の妻たちが、地主の畑にこぼれた麦の穂を集めている静寂な光景である。背景に遥かに見える“豊かな収穫の景色”と殆どボロに近い粗末な衣服を着た“三人の女たちの貧相な姿”との対比は、それらが矛盾するどころか、ミレーがルーブルで身に着けたプサン風の豊かな色彩と壮麗な様式でとても美しく、むしろ見る者にとっては心地よく纏められている。


ミレーの「画家としての誠実な眼」は、この時代のフランス農民たちの貧しさや苦しみを、避けることができない一つの歴史的現実として見事に捉えている。このため、二月革命の影響を受けた革新的な批評家たちは、ミレーの作品の中に“不当な権力への闘いの意志”を読み取っていたようだ。一方、それ故に、ミレーは保守的な立場の人々から危険視されることもあった。しかし、ミレーのレアリスム絵画(農民画)の価値は、このようなイデオロギーの対立を遥かに超えた、人間と芸術への深い愛にあったと見なすべきだ。


このミレーの絵には、日本の画家が農民を描いた絵を見る感覚では理解できない独特の敬虔で美しい雰囲気が漂っている。一つの理由は、“落穂を拾うのは畑(土地)の所有者でなく貧しい農民たちで、その畑の所有者は落穂を拾ってはならない”というキリストの愛の教え(申命記・第24章 19節ほか)”がヨーロッパ社会に存在することだ。ミレーには、そのような貧しい人々へのキリスト的な愛を描きたいという心があった。そして、ミレーのこのような“人間と芸術への深い愛の心”は、<現代のどこかの国の元宰相>が語る“ひどく屈折した倒錯的な愛”(=真実の“うそ”は感動的だ、権力もオペラの愛の前にはむなしい・・・/参照、下記URL★)とは全く異次元のものである。


★2008.5.9・朝日新聞・小泉元首相インタビュー記事=総理はつらいよ(自著『音楽遍歴、真実の“うそ”は感動的だ』のPR記事)、http://www.asahi.com/politics/update/0508/TKY200805080304.html


ロマン・ロラン(Romain Rolland/1866-1944)によれば、もう一つの理由は、プサンがローマの平原に見た田園詩と同質の、とうてい人間(人知)の力が及ばぬ自然(環境)への愛をミレーがバルビゾン(フォンテーヌブロー)の森と平野に見ていたということにある。この時代は、イギリスに遅れをとったフランスの産業革命が本格化する時でもあり、また、それ故にフランス革命の弛まぬ余韻がフランスの民主主義と資本主義経済を成熟させつつある時代でもあった。


前にも述べたが、ミレーが生きた時代のヨーロッパは、フランスでは「二月革命」(1848)で第二共和政(〜1852)が成立し、その波動が各地へ伝播し、市民階級が未成熟であったため結果は失敗ながらも、ベルリンほかドイツ連邦各地およびウイーンほかオーストリア領内およびハンガリーなどでも自由主義民族主義的な革命のうねりである「三月革命」が拡がった。


そして、この時代に各国の市民層に共有されつつあったのが「人間は、その能力が不十分であるが故にこそ、文化的・歴史的存在として生きるため他者との連帯が必要である、そして人間は自己の相対性を自覚するべくキリスト教など超越的なものとの絶対的距離を保つ中で謙虚さを身につけるべきだ」という現代市民意識の源流となるものであった。


それは現代民主主義社会における「人権」意識まであと一歩の時代であった。因みに、ミレーが死んだ1875年は「フランス第三共和国憲法」が制定された年である。つまり、これ以降のフランスでは、言論・出版の自由が保障され、政教分離が進むなど自由主義的諸改革が進み、共和政の象徴として自由の女神像が公舎に描かれるなど、国民の間に共和政の理念を普及させる試みが推進されるようになった。


つまり、ミレーは、このように本格的な「人権意識」が萌芽する時代の空気の中で、無限とも思える自然の驚嘆すべき広がりを、生きいきした表情で描くことに心身をくだき、そのため自らの心眼と手の技術を、身体と精神の全てを、そして持てるだけの知性と感性とイマジネールを彼のキャンバスに捧げたのだ。このため、ミレーの絵を見ると、我々は目の前に広がる大地と地平線の美しさがしみじみと心に染みわたるような体験をする。家族や友人らとの愛や友情、労働や日常生活、あるいは農作業など大地との触れ合いで感じる人と人との繋がりや季節感を分け合える喜びまでもが、我々の心の奥深く沁みこんでくる。


(自民による脱税型世襲政治という名の大罪)


かつて、マスゴミが総掛りで煽りまくった小泉劇場の主が日本経済新聞社から小泉純一郎著『音楽遍歴、真実の“うそ”は感動的だ』(新書/日経プレミアムシリーズ/表記の2008.5.9・朝日新聞が小泉元首相インタビュー記事で大きく取り上げた)という“オジャラケ本を出版したが、その中に『“言わぬが花、聞かぬが花”を心得ている人には深みがある』という、まことに“深みがあり含蓄に富んだ”コトバが書いてある(参照 ⇒ http://www.nikkeibook.com/premiere/0201.html)。


しかし、このような“名言”(国民一般を小馬鹿にした世迷言?)を吐く人物が、戦後六十年になんなんとする自民党政権を代表する典型的な世襲政治家であるところに日本民主主義の“切なさ”と“やるせなさ”が漂うのだ。そして、そのゾンビ議員世襲の仕組みの要諦は、自民党の議員たちがお手盛りで作った「政治資金規正法」の条文に則り、“公正”の監視人たる検察も歯が立たぬほど完ぺきに“合法” 的だという点にある。つまり、現在の政治資金規正法は「大罪」を合法化する(=日本国民一般を欺く)という意味で、明らかに大きな欠陥を抱えているのだ。


その意味で、今も“かつての暴政化した自民党政権の道具”の役割を引きずる検察は、小泉・安倍・福田・麻生・中川ら世襲シロアリ議員が繁茂する悪徳・自民ゾンビ(死霊)政権の“暴政”を維持するための“古(いにしえ)から”の七つ道具の一つに過ぎず、その仕事が完璧なまで公正・中立だというのは、まことに残念なことではあるが幻想に過ぎないと思われる。


そして、その挙句の果てに出現したのが、マスゴミを操りつつ『大衆の狂気』(戸惑うばかりで不安な現実感覚)を煽るウソづくしで竹中平蔵らの悪党が跋扈した小泉劇場であり、その計略に嵌った多くの日本国民が、ラディカルな貧富差の拡大と労働環境の破壊、止め処ない凶悪犯罪の増加、郵政改革にその典型が見られる権力中枢における暗黒・利権政治の放蕩三昧、後期高齢者医療制度が象徴する医療・福祉・年金制度の崩壊など、今や日々に日本国民が塗炭の苦しみを味わう地獄絵図であったことは周知のはずだ。


それはともかくとして、“合法的”であるという制度上の問題は、親族が地盤を引き継ぐことを放置しているにとどまらず、政治資金の受け皿たる資金管理団体を親族間で継承することを可能としている点にある。これで世襲政治家相続税の“合法”的脱税が可能となり、“合法”的に後継者の政治資金へ巨額家産の殆どを“無税”で繰り入れることが可能となっており、その結果は、例えば下◆のような余りにも心が寒々とする由々しき事例をもたらしているのだ。なお、この政治資金の「合法的脱税システム」の詳細(法的解説)については、下記▲を参照乞う。


小泉進次郎氏:団体収入の99%は元首相側の寄付、
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090918k0000e040074000c.html


◆懲りない “世襲シロアリ寄生議員のブログ”=政治より食べ歩きの日々http://gendai.net/?m=view&c=010&no=22730http://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/7a8668e41eb8fc601aa54ebc4b5691ff


▲議員だけは相続税を脱税できるままにしておこう、という自民党に投票するのはいったいどういう人?(byヤメ蚊)、http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/d1bc527f72cecc9a5dc67b8540110e12


(小罪にこだわるには人生は短すぎる)


<注記> キリスト教的な解釈に従えば、“大罪=霊魂の死、小罪=霊魂の病気”である(参照 ⇒ http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_catholic/51.htm)。


下記★によって、朝日新聞天声人語」(10月11日付、
http://www.asahi.com/paper/column20091011.html)が、〈小事にこだわるには人生は短すぎる〉の名言を掲げた上で、“大まかが小事で済まない地位もある”ので“政権交代を受けての国会で論ずべき大事は山ほどあるのに、攻守ところを変えた<政治とカネ>が争点とは寂しい。首相は捜査を理由に口をつぐむが、ここは民主党の金銭感覚が問われている。大いにこだわりたい”。ので、“寂しいことだが、朝日の特ダネである「鳩山故人・個人献金問題」こそが国会の争点だ”と主張していることを知った。


★永田町異聞、http://ameblo.jp/aratakyo/entry-10362304195.html


たしかに、法に照らせば(1)「二重虚偽記載」は犯罪であり、一国の総理の地位にある者であっても“犯罪”が見逃されるべきではない。それに、「鳩山故人・個人献金問題」の根本には(2)相続税法違反の問題が隠れている。しかし、下記の情報▼によれば、国会で「鳩山故人・個人献金問題」を追及するために設けられた「自民党プロジェクトチーム」は、(2)を追及すると一般国民サイドから“超法規的な意味での返り血”を浴びる懸念があるの(上で見た小泉前首相の“合法”的な脱税のケースなど)で、作戦的に(1)に照準を当てつつ、鳩山疑惑を来年の参院選まで引っ張ろうと、マスコミを使って煽っているそうだ。


▼判明!自民党が狙う“鳩山献金疑惑”の核心、http://netallica.yahoo.co.jp/news/96222


しかしながら、より広い視野から俯瞰すると、このような「自民党プロジェクトチーム」の作戦は、まったく自らのゾンビ性(暴政=腐れ自民党の政治)に対する反省の欠片(かけら)もなく、主権者たる一般国民の“公正・中立な眼”からすればまことに噴飯もの以外のなにものでもない。


尤も、ゾンビ(死霊=腐れた自民党政治)が現世で元通りに蘇生することは絶対にあり得ないので、このように異様で怪異なオドロオドロした流れとなるのは無理からぬとも言えるだろう。仮に、「鳩山故人・個人献金」の犯罪性が(1)「二重虚偽記載」に絞られようが、(2)相続税法違反に絞られようが、現役の総理大臣が何らかの法益にかかわる形式犯で逮捕されたことはないので、会計責任者らの立件が落とし所となると考えられる。


仮に、それ以上の犯罪性が立件されるか、あるいは責任者についての形式犯の立件では国民感情が許さぬという事態になったとしても、鳩山首相が退陣し首相交代すれば済むことでなかろうか。それで、民主党そのものへの支持が急落することは、今のところ考えられない。むしろ、鳩山首相が率直に自らの不明を国民の前で謝罪し、自民党の「“合法”的(まことに不埒な!)な世襲問題」も視野に入れた改善対策のための「政治資金法」改正の方向を打ち出せば、むしろ国民からの理解と支持が高まるのではないか。


そもそも、今回の政権交代で国民が大きく支持し、その実現を望んだ対象は「民主党マニフェストによるゾンビ自民党政権の大失敗を根本から修復し、自民党の腐れ切った政権基盤を根こそぎチェンジすること」であった。今回、国民一般は、決して「ペテン師小泉元首相」に誑かされたごとく「鳩山首相(+幸夫人)の宇宙人的カリスマ性」に熱狂した訳ではなかったのだ。


然るに、マスゴミは、「鳩山故人・個人献金問題」と「鳩山首相(+幸夫人)のセレブな宇宙人的カリスマ性」をネタにしつつ“空疎な粉飾アドバルーン”を自らの商売ネタとして意図的に煽りまくったふしがある。もはや、このようなマスゴミの戦略は見え透いているため、テレビなどのマスゴミ民主党へのダメージを意図に煽れば煽るほど、むしろ民主党に対する支持が微増する傾向すら窺えるではないか。マスゴミは、実にバカげた方向にエネルギ―を費やしているとしか思えない。


更に少し引いて見れば、検察が執拗に「鳩山故人・個人献金の犯罪性」に拘るには別の訳があるとも考えられる。それは、その検察の拘りそのものが「腐れ自民党ゾンビの道具」であった“かつての検察”自身が現世へ蘇生し、再び有能な検察として仕事をするための唯一の裏ワザ(=一種の禊ぎ)だと思われることである。


所詮は“個人的欲望と利害関係”のゲゼルシャフト集団である「政党=自民党」と「官僚機構の一部である優秀な検察官僚」の違いが、それを解くカギになる。つまり、飼い主たる自民党がゾンビ(死霊)と化しても、あくまでもその道具に過ぎない検察は、その方向性が変われば再び立派な使い物に生まれ変われるということだ。


因みに、同じく政治権力の暴力装置としての役割を担うように見えても、軍と検察・警察の立場は本質的に異なる。フランス革命の流れで観察されるとおり、軍は時の政治権力よりも国民一般の意志の範疇に親近性があり、検察・警察はあくまでも時の政治権力によるコントロールの直下にある。このことは、43回企てられたヒトラー暗殺計画の大規模なものの殆どに軍が加担していたことも傍証している。


いずれにせよ、朝日新聞天声人語ではないが「小事(罪)にこだわるには人生は短すぎる」のだ。今回の政権交代で民意が選んだのは「鳩山首相個人」ではなく、「民主党の政策方向」であることを忘れるべきではなかろう。そして、いま我われが目を凝らすべきは民主党の小沢一朗・幹事長が頑として拘る「脱官僚を理由とする内閣法制局による現行憲法解釈の否定の可能性の問題」である。


それは、下記ブログ◆が指摘するとおり、内閣法制局(官僚)が作ってきた歯止めさえ取っ払ってしまえば、日本の立憲主義を骨抜きにすることも可能となるからだ。うっかり油断すれば、改憲論を信奉するヒトラー型のカリスマ政治家がポピュリズムを煽って日本政治の実権を手中にする可能性も否定できなくなる。「鳩山故人・個人献金の犯罪性」への拘りではないが、良い意味での復元力を持たせた官僚制は、むしろ国民監視システムを充実させつつ活用すべきものなのである。


内閣法制局長官よりも恐ろしい改憲政治家の憲法「解釈」(上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場、http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51257494.html


・・・以下は[2009-10-08・toxandoriaの日記/ 日本を「ガリバーの逆さま世界」にした「鳩山・民主vs検察・マスゴミ・自民」の暗闘、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091008]へのコメント&レスの転載です・・・


もえおじ (125.54.8.126)


『「情報の非対称性」を商売道具としつつある報道産業に、情報の非対称性の再生産を行なっているという自覚があるのかどうか、それ自体が疑がわしいと思います。 おそらく、現場においては「視聴率、スポンサーの利益、政治的圧力」という次元でしか情報発信を考えられなくなっているのが現実なのでしょう。


御指摘の「三つの格差」における情報の非対称性は、権力闘争の捻じ曲げられた縮図ですが、それに対する一般国民全般の「無自覚/無感覚/意識の低さ」こそが問題です。 私自身は、むしろ国民の一人としての解説者・記者個人(彼らの驚くべき資質・見識の低さ!)の総体としての報道産業の劣化を指摘したいです。


ところで、村上春樹に関して言えば、”アンダーグラウンド”以降は、 平易な文章で訳の解らない物語を書く作家から、「政治的意識に目覚めた」まともな作家に変身したというのが私の評価です。 海外でも人気は非常に高く、原文を読むために日本語の勉強を始めたという米国人にも会いました。』


toxandoria


“もえおじ”さま、コメントありがとうございます。


次回の記事では、やや異なる角度からのマスゴミ批判となります。詳しく分析した訳ではありませんが、マスコミ人の資質劣化は新自由主義的なマスコミ経営と高度IT化の問題が係るのではないかと思っています。


製造業の請負委託と似たマスコミ産業におけるアウトソーシング不定期雇用問題と経営そのものの劣化がじわじわとメディアの現場へ悪影響を与えつつあるような気がします。


村上春樹がそのように変質しつつあるとすれば合点できるように思います。最近、ノーベル賞候補としてのランクが上がったとかの噂をどこかで聞きましたが、何か関係があるかも知れませんね。


年代が少し村上より若い人ですが、スティーヴン・ミルハウザーなどの翻訳で知られる柴田元幸と村上のフィーリングの違いに興味が湧き調べ始めており、歴史・社会・政治などへの感性の違いのようですが、未だよく分かりません。


(関連参考情報)


マスゴミ&国会議員双方の劣化現象? ⇒ 【資産公開】テレビ出演、100人超 議員のタレント化進む?、http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090630/plc0906301029007-n1.htm


【エピローグ画像】


Lara Fabian−You're not From here