toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

“民主主義進化論”の象徴「オヴァートンの窓」を偽装する記者クラブ・メディア「買弁ジャーナリズム化」の犯罪

toxandoria2011-01-06




<注記>民主主義進化論について


・・・「民主主義進化論」とは余り一般的でなく馴染みのないコトバであろうが、特に約10数年前の「小泉政権」の胎胚期ごろから目立ち始めた日本ジャーナリズムの超劣化現象の深層(その原因たる記者クラブ・メディアの堕落と罪業)を抉りクロ―ズアップするために意図的に使った、いわば当記事のための「意志表出語」(吉本隆明が名著『言語にとって美とはなにか』で提起した、もっぱら自分の意志や考えを伝えるためのコトバを指す用語/参照⇒http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2009/06/post-cf33.html)である。


・・・ところで、民主主義進化論とは『フランス革命は、啓蒙主義の落し子の典型であるとともに、絶対王政アンシャン・レジーム(旧体制)・封建的諸特権に代わる近代的所有権と自由・平等・友愛の理念の確立、斬新な近代的諸制度の創設など、いわば人類が理想とすべき民主主義の頂点を極めた歴史的大事件だ』とする教科書的解釈を180度転換する考え方である。


・・・つまり、<フランス大革命>といえども、それを「指示表出語」(上と同じく吉本隆明が提起したコトバで、例えば何らかの“固有名詞”の如く特定の何物かを指す記号的性質に傾斜している)と単純に理解する限り「民主主義の概念」は歴史の流れに伴う風化に身を任せざるを得ないが、いったん、それは民主主義発展の未完のプロセス上の一里塚に過ぎぬと見なすや、これは、まさにコペルニクス転換的な視点移動になるという考え方の勧めである。


・・・このような観点に立てば、おそらく、どの向きでも、あの独特の分かり難い空気に満ちたフランス革命史の中に潜む<民主主義の本質と可能性に関わる未完の問題>を絶えず再発見し続けることになるのではないか。


【プロローグ動画】LARA FABIAN - CLOSE TO YOU




【プロローグ画像】フランチェスコ・デル・コッサ『受胎告知』

・・・Francesco del Cossa(ca1435-1477)「Annunciation and Nativity (Altarpiece of Observation)」1470 tempera on panel 137 x 113 cm Gemaeldegalerie Gallerie, Dresden, Germany


この絵は初期ルネサンス期におけるフェラーラ派の画家フランチェスコ・デル・コッサの傑作で、聖母とマリアに突然訪れた“神聖なる受肉の瞬間”を描いた作品である。美術史家ダニエル・アラスは、コッサの絵を理解する場合には“過度にアカデミズム化したイコノロジー”(Iconology/図像解釈学/歴史的、社会的、文化史的な総合的観点から絵画の内面的意味を研究する手法でパノフスキー創始者)に頼り過ぎることは、それが我われ人間の「眼」(リアリズムを認識する総合的な感受性(sensitivity))を曇らせるので危険だとしている。


<注記>ダニエル・アラス(Daniel Arasse /1944-2003)

ダニエル・アラスは、ヨーロッパで著名なイタリア・ルネサンスを専門とする美術史家/人文学的な知の先端を担うフランス社会科学高等研究所(EHESS/Ecole des Hautes Etudes en Sciences Sociales)の「芸術の歴史と理論」部門で活躍した/このEHESSは、大学制度から距離を置いた、より自由な教育・研究環境であることで知られる)


・・・・・


ダニエル・アラスは、先ずこの絵がそれほど大きなものではない(137 x 113 cmの祭壇画)ことを指摘する。次に、その絵の大きさに比べ右下の縁(ふち)に沿ってユックリ歩む(ように見える)、約8cm(天使ガブリエルの靴の約1/3程の長さ)という異常な大きさの「カタツムリの謎」に目を向ける。なお、この“カタツムリ”については、聖母マリアの象徴としての解釈などイコノグラフィー(図像学/美術表現が表す象徴・意味・由来などの研究フィールド)あるいはイコノロジー(既述)による研究が行われているが、未だに定説はない。


この絵は同時代の他の作品と同様に厳格な線遠近法で合理的に描かれているように見える。しかし、ダニエル・アラスの検証では消失点の設定に無理があるので天使ガブリエル(左手前)とマリア(右中央)の位置関係やマリアの背後にある寝室などの配置に矛盾が生じている。結局、アラスはコッサが描いた世界は人間が目でみて理解し易いように有限で閉じられた、一見合理的な空間になるよう演出されたものだという。


もともと、「受胎告知」(Annunciation and Nativity)とは、神から受託させられたマリアの受肉の瞬間で、それは人間の目には見えない<無限で不定型なもの>から<尺度あるもの(現実世界)>への降臨ということだ。言い換えれば、それは形象不可能(不可視)なものの形象への降臨(可視化)なのだ。


ところで、アラスは、この“一見、科学的遠近法風の絵画”の下の縁(ふち)をゆっくり歩む“カタツムリ”が、実は、この絵の鑑賞者に対し「あなたがたは、そのまなざしで本当は何も見てはいないのだ」と警告しているという。これは、まことに驚くべき発見だ。


しかも、カタツムリは「視覚」を殆んど持たない生き物なので、彼(あるいは彼女?)は“一見、科学的遠近法で描かれた絵画”の下の縁(ふち)をゆっくり歩みながら、もっぱら「嗅覚」と「触覚」を働かせている訳だ。従って、これはまことに驚くべきほど「ユニークな視点の発見」(=見えない者が見える者に警告を発する視点の発見)だということになる。


ダニエル・アラスの見解では、フランチェスコ・デル・コッサだけでなく、初期ルネサンス期の一部の画家たちは、余りにも分かり易く見えすぎる合理的手法(線遠近法)による見えない世界(神的な世界、あるいは人間の内面世界)の描写的説明が、一見分かりやすく合理的な説明に見えるものほど、実はその奥に作為による狡猾きわまりない演出が潜む故に、とても危険なものであることを予感していたようだ。つまり、この絵はそのような意味での警告を描いたものだということになる。


フェラーラ派の画家フランチェスコ・デル・コッサが絵の縁(ふち)に描いた、「大きなカタツムリ」は、一見分かり易く見える科学合理主義的な説明よりも、時には、<のろまでゆったりとした嗅覚や触角による現実認識>の方が、より重要であることを暗示(というよりリアルに明示)しており、それは時代を超えて我われに「何事につけ、自分の意志と感覚で現実を確かめることの意義と重要性」について、重大な警告を与え続けているように思われる。


(プロローグ)


記者クラブメディア(各新聞・TV等)が報じるところによると、1日午後、約5時間にわたり首相公邸で首相主催の新年会(祝賀会)が行われ、閣僚・民主党幹部らほか衆参約45名の議員が参加し、そこで菅首相は『今年は自分らしさをしっかり出したい、臨時国会は守りに徹したが通常国会はそうはさせない、やりたいことをやるために権力(是が非でも)を掌握する』と宣言した(参照⇒http://www.asahi.com/politics/update/0102/TKY201101020093.html)。


しかし、菅政権の支持率の異常低下傾向が続くなかで、いったい菅首相はどのような国家像へ向かって何をするのか、したいのかということについての明確なメッセージが一向に一般国民側へ伝わってこない。その一方で、既に日豪、日米で締結済みの物品・輸送などを参加国の軍隊が互いに融通しあう『物品役務融通協定(ACSA/Acquisition and Cross-Servicing Agreement)』を日韓の間で早急に締結させようとする動きが顕著となりつつある。


つまり、この動向に透けるのは、北朝鮮の暴走(朝鮮半島有事可能性拡大)の<奇禍>を利害関係者ら(現代日本のアンシャンレジーム=実効権力ゾンビ連合)の<奇貨>へ転じつつ、武器輸出三原則の見直しと徴兵制導入への布石、および軍事特需経済への財界等の思惑を軸とする自民党ら野党との連携可能性(偽装“市民プラットフォーム”形成への仕向け戦術)をメディア・プロパガンダの環境下で強く推し進めようとする菅政権の野望(あるいは、これはまことに忌々しいかぎりだが、司法・検察・記者クラブメディアらも加担する、“前原総理&救国大連立内閣誕生”への裏シナリオの可能性が大きい)ということだ(関連参照、下記★)。


★前原外相、14日訪韓で調整 日韓の安保連携強化へ、
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/110103/plc1101032100006-n1.htm


また、2011.1.4付・日本経済新聞は『日本経済研究センター・本社共同宣言=2年でデフレ克服を、成長と金融緩和同時に、法人税率10%超引下げ』のヘッドライン(一面トップ記事)を掲げ、日本経済再生のためとして“法人税10%超引下の実現、TPP(環太平洋経済連携協定)への早期参加による新たな開国、政府・日銀による1〜2%の物価上昇率目標の共有による一段の大幅な金融緩和”などを提言しており、何故かは知らぬが、日本経済新聞ら主要メディアは必死で<超低支持率に喘ぐ菅政権を浮揚させるためのブースター役>を引き受けているようだ。


しかし、ここには肝心の<企業間格差問題(GDP貢献比9割超の中小企業再生&活性化問題の放置)、賃金(利益分配)構造の硬直化等による格差問題を解消するための取り組み、および歴史的に劣化してきた現行税制・財政問題・農林業問題等の抜本改革への意志、そしてフリンジ(fringe/実は、コレが最重要なのだが・・・詳細は後述する)への配慮>は微塵も見られない。だから、喩えるならば、この日本経済新聞の提言は、超格差拡大という一種の栄養失調型肥満(一物全体食型のバランス失調型肥満)という深刻な病に取り憑かれた日本経済の根本治療のための処方箋書きの努力を放置しつつ深刻なメタボ構造を抱えた日本の病体をそのまま米国型市場原理の流れに乗せて異常肥大させようとするようなものだ(関連参照、下記ツイッター情報)。


hanachancause 2011.01.04 06:45
RT @gushou: 消費税増ありき(&法人税引下至上主義)は国民騙し、海外比較では個人所得課税増が筋、個人所得課税負担率および直間比率(個人所得課税負担率÷消費課税負担率)とも、日本は先進国の中で低い方に入る| 晴耕雨読
http://sun.ap.teacup.com/souun/3931.html


新年早々における、このような日本メディアの傲慢とも見える論調や社説の数々にはうんざりさせられるが、その背後にあるのは、相変わらずのことであるが、未だに米国政治の主流を牛耳る米国型ヤヌス像(ヤヌスローマ神話の出入口・扉に置かれる二つの顔を持つ神)の片面(米国型の民主主義と自由原理主義経済を人道的戦争で実現するという、一定の米国民に取り憑いた“狂信的で非人間(ゾンビ)化した権力側の意志”=キリスト教原理主義、内向的保守主義市場原理主義が癒着し、ネオコン的に独善イデオロギー化した米国型狂信ナショナリズム)の影響でもあることを心しておくべきだ(ヤヌスの画像はウイキメディアより)。


しかし、少数派とはいえ、アメリカにも冷静な政治哲学と本来的な意味での民主主義のあり方を信奉する人々が立派に存在することを忘れるべきではないだろう。いわば、あの米国型ヤヌス像のもう一つの顔として健全な「民主主義進化論の信奉者たち」と「そのリーダー的役割を担う指導層の人々(例えば、後述するJ.P.オヴァートン、W.V.O.クワインサラ・パレツキーら)」が存在することを忘れるべきではないだろう。独善と一国主義に塗れたブッシュ・ジュニア的あるいはネオコン的政治からの軌道修正(チェンジ)を声高に主張するのはオバマだけではなかったのである。


だから、ここで大いに問題視すべきは、日本の主要記者クラブ・メディアが、これら「米国における民主主義進化論」の存在と「その指導層に連なる人々の活動実績」などを一般日本国民向けに積極的に詳しく伝えようとしないことである。それどころか、新聞・TV主要記者クラブ・メディアは、米型「民主主義進化論」の象徴たる「オヴァートンの窓(相対的かつ最大公約数的な世論支持の大きさ・・・詳細は後述する)」を作為で「偽装オヴァートンの窓」化してきた節があり、その典型事例が「今もって延々と続く小沢の政治とかねに纏わる連続マイナー・キャンペーン」、「連続世論調査」、「サクラ型ワイドショーTV&ニュース・ショー」などである。


(日本社会ゾンビ(非人間)化の自画像)


日本のメディア・政党・財界・学界・労組らが“激しく劣化”して菅内閣の如きゾンビ(非人間的)政権を出現させてしまった奥底には、『自由・平等・友愛』よりも先ず『民主主義の根本として誠意(信用)、論理、国民主権』を重視すべきであることを忘れ、自己利益のためズル賢く交尾(つる)んだ彼らが、ひたすら安易に“大衆迎合”してきた(というよりも、彼らが野合して巧妙に大衆意識をパンとサーカスプロパガンダ操作してきた)という現実がある。


例えば、「オヴァートンの窓」の応用ともされるコミュニケーション技法の一つである「Door in the Face Technique」(初めに難題や大きな予算を問いかけ、後で易しい内容や低い予算を問うパターンで行われる効果的説得技術)も、もし当事者である主客相互の間に『誠意(信用)、論理、相手の立場の尊重』の保全・死守についての強い意志が存在しなければ成功せず、仮に上辺で成功したとしても、それは単なる詐術的トリックと化してしまうだろう。


ところで、現代日本人の多くは(そして政党人や政治家自身も)理想主義、新自由主義、自由原理主義市場原理主義あるいは社会主義共産主義など<米国・旧ソ連など一定の権力・権威筋から下賜されたコトバ>に対し、教条的に、かつ過剰に囚われ過ぎているようだ。それが、共産党社民党たちあがれ日本(極右)などイデオロギー政党の停滞をもたらしている節がある。そして、ここで言う<コトバ>とは、吉本隆明が名著『言語にとって美とはなにか』で提起した「指示表出語」(個々の人間の意志というよりも、特定の何物かを指し示すコトバ/参照⇒http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2009/06/post-cf33.html)のことだ。


問題は、これらのコトバ(指示表出語=自分の意志の代弁ならぬ特定の何物かを指し示すコトバ)を絶えず上から目線を意識しつつ理解し記憶することがノーマルな言語・文化・政治活動だと誤解させられていることである。しかし、国民一人ひとりの意志と主体的行動という「自己表出語」(これも吉本隆明の用語/『言語にとって美とはなにか』−角川ソフィア文庫−より)に対応するイデア、つまりプラトニックでなくアリストテレス的な個々人の心の中にあるイデアを積み上げること(≒自分自身の考えに纏わるイメージ・クラスターを膨らませ堆積させてゆくこと)が、実は肝要なのだ(画像はhttp://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2009/06/post-cf33.htmlより)。


更に、その自己表出の仕事をシッカリ支えるのが国民一人ひとりの誠意(相互の信用・信頼関係)と鋭敏な感受性(Sensibility)であることについての理解も欠けており、その根本には深刻な我が国の「教育」についての誤謬と誤解が巣食っている。いまだに日本社会で幅を利かすのは相変わらず偏差値教育(その場で直ぐ答えを欲しがる拙速解答主義か、あるいはバラエティ・ショーかテレゴング番組型の検定試験またはクイズ感覚)だけというお寒い環境だ。


その結果、今の日本で起こっているのは<民主主義のあり方、あるいはその進化論的理解の重要性>にかかわる<コミュニケーション回路=一般国民のDoor in the Face>のDoor(誠意に支えられたSensibilityの出入口)の狭隘化、いわば非人間的硬直(ゾンビ)化ということだ。本来であれば、記者クラブ・メディアは、<一般国民のDoor in the Face>に影響が大きいという意味でも重大な責任を負うべきはずであったのだが・・・。


しかしながら、我が国のテレビ・新聞ら記者クラブ・メディアは、この自らの「重大な責任を負うべきと言う意味で強い立場」を逆に悪用してきたのだ。というよりも、TV・新聞などの主要記者クラブ・メディアは、ジャーナリズムとしての精神と良心を捨て去ったばかりでなく、自己利益のため自ら進んで非人間的に硬直(ゾンビ)した存在と化し、<Door in the Face>のDoorを率先して“狭隘化”してきたという訳なのだ。


これこそが、菅ゾンビ政権と硬直(ゾンビ)化した記者クラブ・メディアの共存を支持する、忌々しきアーキタイプ集合的無意識連合=放置しておくと悪化するばかりで見過ごすことができない、彼らの内心に巣食う病巣)なのだ。そこに同じく非人間(ゾンビ)化した政党・官界・財界・学界・労組らが“たかり”的に屯(タムロ)しているのだ。まさに、この<国民主権を無視した、談合的な隠れ利益共同体の姿>こそが“激しく劣化(ゾンビ化)”した日本民主主義のおぞましい自画像である。


(“フランス革命”のコペルニクス転換的な意味での再評価、ポーランド型民主主義進化論(シュラフタ民主主義)が現代日本へ問いかけること)


フランス革命の評価についてのコペルニクス的転換とでもいうべき現象が専門歴史研究者のフィールドで流行り始めているようだ(参照⇒http://ci.nii.ac.jp/naid/110000195561)。我々が学んだ教科書的知識による理解では、“漸く、この大革命で近・現代市民社会啓蒙思想に基づく理想の民主主義が完成した訳で、その原動力はヴァスチューユ牢獄の攻撃へ颯爽と先陣を切ったサンキュロット(sans-culotte/貴族層のボトムスである“半ズボンを穿かない人”、つまり最下層の無産市民に属する人々が原義)と呼ばれる人々であった、というようなことであるだろう。


しかし、実はフランス革命の主役であった筈の赤いフリジア帽(古代ローマの奴隷を象徴するものであることから革命では隷従打破を叫ぶサンキュロットの象徴として使われた)のサンキュロットたち、つまり最下層の労働者階層の人々は、1793年のジロンド派粛清とともにフランス革命の主役から引きずり降ろされ、取って代わった大革命の主役は開明派貴族層らと有産ブルジョアジーであった。


従って、自由・平等・友愛を具現する理想の民主主義はいまだに未完成と見なすべきで、仮に我々が少しでも努力を怠れば現代民主主義は頽廃へ向かう恐れがあるということになるだろう。つまり、あのフランス革命は民主主義へ向かう契機となったエポックメイキングな事件の一駒に過ぎなかったという訳だ(一般の解釈に従い、1789年7月14日のバスティーユ襲撃ナポレオン・ボナパルトによる1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターまでとしても約10年という長い時間であったが)。


因みに、伝統のシュラフタ民主主義に比べ現代の民主主義は不十分だなどと屁理屈を騙り「民主主義の赤字」をもたらすポーランド経済はナンセンスだとして「小さな政府、新自由主義、民営化」を強く支持する財政理論(公共経済学)の立場から、ジェームズ・M・ブキャナン(新自由主義公共経済(財政)学の泰斗)にケチをつけられた現代ポーランドが、ギリシアアイルランド発のソブリンリスクとも無縁の形で、OECD加盟29カ国中で唯一の健全な国の姿を見せつつあるという現実は、たとえ相対的に見れば現代ポーランドが小国だからと言って、見逃すべきでことではないと思われる。


ともかくも、ここで観察されるのは、シュラフタ民主主義の伝統を誇るポーランド・エリート層の卓越した「観念同時」的な精神環境(一種の“民主主義進化論”的な意識←おそらく欧米および日本でも“単純な中道右派”と誤解されているか、あるいは“取るに足らぬと無視”されている、が実像は“絶対or超権力懐疑&国民主権尊重”型の中道的・持続的革新派)が今も重要な役割を果たしているというポーランド政治についての現実の姿だ。


それは<未だに、殿上から下賜された民主主義を下々へ伝達する仕事に甘んじる現代日本の中央高級官僚に代表されるエリート層の政治文化的な意味で凝り固まった被虐的劣等意識の惨めさ、あるいは“偽装的市民派”菅政権による“偽装市民プラットフォーム”形成への非人間(ゾンビ)的野望>とは大違いである(シュラフタ民主主義の伝統・意義らの詳細については下記◆を参照乞う)。


◆点描ポーランドの風景/グダンスク編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)(第二部)(2/2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101022


そして、そのようなポーランドの政治・経済の現実が評価されたためか、もはや、一つの「プラトー(停滞)から混迷状態へ突入した(加盟国の財政・経済格差が拡大中)」とさえいえる今のEU欧州連合)自身が、その東欧における地政学的役割をも含めて、今後のポーランドの持続的発展と国家ポーランド(および、そのシュラフタ民主主義の伝統を踏襲するエリート層)の役割分担に大きな期待をかけていることが指摘されている。なお、ポーランドは2011年度・後半期におけるEU議長国でもある。


それは、「社会主義体制崩壊(レフ・ワレサの『連帯』結成)→円卓会議→自由選挙実施→共産党独裁政権崩壊→非共産党政権誕生→急激な自由化政策と財政改革(副作用としての格差拡大)→中道左派へ回帰(社会的弱者への重点的配慮)→中道政権(市民プラットフォーム政権=ポーリッシュ・モデラティズム=ポーランド型自由原理)へ回帰→EU加盟と現代民主主義確立→現在に続く欧州でトップクラスの経済成長を確保」というプロセスで機能した現代的意味で国民主権へ十分配慮したシュラフタ民主主義の伝統(=未完の民主主義を持続的に進化させ得るという、いわば民主主義進化論的で、実は非常に先見的知見であること)が欧州先進諸国によって認められた結果であるともいえる。


なお、ポーランド型自由原理は、アメリカ・ネオリベラリズムの自由競争型の自由原理とは全く異なる概念である。それを敢えて集約的に言ってしまうならば<社会の指導層の人々(ポーランドではシュラフタの伝統を帯びた指導層)には、自らの絶対的責務として権力機構(政府および実効権力)が未完のプロセスに過ぎない現代資本主義の奴隷と化していないかを絶えず授権規範的な「民主憲法(1791年5月3日憲法の伝統を引く共和国憲法)」下で監視しつつ諸政策に取り組み、現政権の活動自体を未完の民主主義の進化過程へ強制的に貢献させることが許されるという意味で徹底した指導的主権者としての自由の権利が与えられている>ということだ(この点の詳細は、下記▲を参照乞う)。


▲ディアローグ的論考、米国型自由原理(連帯分解・孤立型)を一気にコペルニクス的転回させ得るポーランド型自由原理(連帯持続・深化型)のユニークな意義、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101115


アメリ政治学の民主主義進化論的な知見『オヴァートンの窓』)


政治学の世界で次第に重要視されつつある「オヴァートンの窓(Overton Window)」という概念がある。これは、J.P.オヴァートン(Joseph P. Overton/1960-2003/ミシガン州の州都ミッドランド市にある中立系シンクタンク、マキナウ・センター(Mackinac Center for Public Policy)元副所長)が着想した、「現時点における一般世論の中で、ごく自然に受け入れられ得る政策領域の広さ、あるいは担当政権による諸政策の受け入れ易さの度合い」を示す“相対的概念”(⇒絶対的かつ客観的に計測可能な広さを持つ“窓”ではないということ!)で、この「窓」が相対的な意味で広く大きいほど、当然視され実現される諸政策の数は多くなる。


特に注視すべきは、この「オヴァートンの窓」から外れたものは一般大衆にとって“常識外”となり、殆ど絶対的に拒絶・排除され、箸にも棒にも掛からぬほど徹底的に一般社会(最大公約的な一般世論)から無視されてしまうという厳しい現実があることだ。例えば、あの「郵便詐欺に関わる村木冤罪事件」で検察の不正が徹底的に暴かれたにも拘わらず、まったく同じ構図の「小沢の政治とかね事件」が一向に一般世論によって正しく理解されず認知されないのは、作為的なメディアスクラム・キャンペーンがもたらした、この「オヴァートンの窓」効果のなせる技(わざ)によるものだ。無論、厳密に言えば、それは「偽オヴァートンの窓」効果であるが・・・。また、ポーランドシュラフタ民主主義(ポーランド型自由原理)の現代資本主義社会(グローバル市場原理主義社会)における重要性が殆ど無視され、あるいはそんな面倒でバカげた屁理屈は聴きたくもないと、主要な教条的アカデミズム(共産主義社会主義あるいは極右派などに凝り固まったアカデミズム)からさえ罵倒され無視され続けるのも同じ理由によるものだ。


しかし、「オヴァートンの窓」は六つの構成要素の個々の作用を考慮することで、「窓」の広さ自体を<恣意的に変化させ得る可能性>があるとされる。ただ、そのとき大前提となるのが<信頼(持続的な“信用に満ちた場の空気”)、客観的で公正な論理、主格相互間における相手の立場の尊重(国民主権orお客様第一主義)>というキーワードの尊重である。そして、その構成要素とは「Unthinkable、Radical、Acceptable、Sensible、Popular、Policy」の六つだ。この「窓」を一枚の絵画に喩えるならば、Unthinkable=フレーム(額縁)、Radical=革新的モチーフ、Acceptable=古典化したモチーフ、Sensible=共感可能なモチーフ、Popular=一般化した共通のモチーフ、Policy=いつでも安心して受け入れられるモチーフ」ということになるだろう。ただし、もし、先に挙げた三つのキーワードが該当しない場合、そこで生まれるのは「偽オヴァートンの窓」であり詐欺的・偽善的なものとなってしまう。例えば、あの「小泉劇場」での異常な高支持率は詐欺的メディアキャンペーンがもたらした「偽オヴァートンの窓」効果に依るものだ。


注意すべきは、「オヴァートンの窓」が決して“無感動で無機質”なものではなく、生きた一般大衆が共感する集約意志の大きさ、あるいはその広さ(個々人の考えに纏わるイメージ・クラスターが膨らみ堆積し、融合・集約化した空気、つまり相対的かつ最大公約数化した世論支持の大きさ)であるということだ。また、「オヴァートンの窓」を絶えず開放しておくため、これら六つの構成要素がアンテナの役割を担いつつ“反応”し続けており、それは、まるで生身の“生き物”のようだ。そして、その意味からすれば、これら六つの構成要素の中で中核を成すのは、やはり「Sensible=共感可能なモチーフ」ということになるだろう。


因みに、この「オヴァートンの窓」から連想されるのが、ポーランドの鬼才スタニスワフ・レム(Stanislaw Lem/ 1921- 2006/ポーランドの小説家・SF作家・思想家/ポーランドSFの第一人者であり、20世紀SF最高の作家の一人)がSFの傑作『ソラリスの陽のもとに』(名匠アンドレイ・タルコスキー監督が『惑星ソラリス』の題名で映画化)でモチーフとした“意識する惑星”だ。その惑星ソラリスに接近しつつある宇宙船内の個々の乗組員の意識の変化や想起される記憶が、彼らが観測する惑星ソラリスの形状に無限の変化を与え続け、しかもその想起記憶が現実化するという奇抜な着想は、まさに「オヴァートンの窓」そのもののイメージだと思われてくる(画像はhttp://www.karuishian.com/catalog/product_info.php/products_id/5773より)。


ところで、Unthinkableに相当する「フレーム(額縁)」の役割は、実際の家の窓枠がれっきとした窓の一部であり、美術館に展示される絵画の額縁が“事実上、絵画の一部である”ことからも想像し得るように、実は、その「窓あるいは絵画」を提供するホスト的な意味合いでの、つまり、その「場」の空気を統治し仕切るための、一種の「権力」または「権威」を象徴することだ。


ともかくも、政治的次元に話を戻すならば、「オヴァートンの窓」のUnthinkable(窓枠、額縁)は“まあ、オレの話を聞けよ!”と一般大衆(国民、市民)へ呼びかけ、自分の方へ半ば強制的に視線を向けさせる「権力(あるいは権力機構)」側からの呼びかけ部分に相当することになる。もし、どこの馬の骨かも分らぬ人物が、大通りの真ん中でにょきっと立って、“まあ、オレの話を聞けよ!”と演説をぶち始めたとしても、よほど彼が珍奇なパフォーマンスをするか、大声と武器をちらつかせて恫喝でもせぬ限り、なかなか彼の話をまともに聴こうとする人は集まってこないだろう。


この<大声と武器(強大な軍事力)をちらつかせての脅迫>を見当違いの証拠を根拠に臆面もなく実行したのが、他でもない「9.11」で総毛立ったブッシュ・ジュニア米大統領であったことは、あれから既に約8年を経たとはいえ、未だ記憶に新しいのではないか。


しかも、その背後には<蒙昧なイスラム諸国に絶対的に正しい米国型民主主義を広めるための聖戦も厭わぬ>という、言い換えれば<米国型の完全な民主主義と自由原理主義経済を人道的戦争で実現する>という、米国特有の一定の“狂信構造”(キリスト教原理主義、内向的保守主義市場原理主義が癒着し、かつネオコン的に独善イデオロギー化した狂信ナショナリズム)が存在している。


しかしながら、「オヴァートンの窓」の六つの構成要素の中で最も重要なのが「Sensible=共感可能なモチーフ」であると思われることから明らかなように、絶対的・客観的意味での万民共通の「オヴァートンの窓」が存在する訳ではなく、国ごと、宗教ごと、地域ごとに多様な形で、そして相対的な意味合いで「オヴァートンの窓」が存在すると見なすのが自然である。また、これら多数の異なる「オヴァートンの窓」は、民主主義進化論的な観点からすれば、絶えず相互に交流しつつ共鳴し合う可能性が高くなる。


そして、このような視点が、ブッシュ・ジュニア米大統領と、それを無条件・無反省に支持し続ける小泉政権以降の日本政府の<態度>(2009年の政権交代で今や菅民主党政権に辿りついたが、殆ど何も変わらぬどころか逆に状況悪化の一途を辿りつつある)、あるいは機密費汚染で身を落した日本記者クラブ・メディアの<狂信>と全く異質であることは論を待たぬであろう。


因みに、「オヴァートンの窓」の発想には、「還元主義にかかわる分析/総合の区別」というドグマの摘出で「論理実証型経験主義」を批判(具体的経験とアプリオリ命題で現実を完璧に分析でき得るとする手法の限界を指摘=数学と論理学の厳密な体系の上で真実の姿をただ一通りに捉えることはどんな認識・言語をもってしても不可能であることを証明し、非常に人間的で謙虚な科学哲学を構築)した、20世紀アメリカを代表する哲学者・論理学者の一人とされるW.V.O.クワイン(Willard van Orman Quine/ 1908- 2000)の影響が窺われて興味深い(参照⇒http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/quine.htm)。


クワイン哲学の肝心な(そしてオヴァートンの窓を連想させる)部分を記述したと見なすべき“くだり”があるので、中山康雄著『科学哲学』(人文書院、p88)から下に引用・転載しておく。


・・・この全体論のイメージを提示する際に、クワインは次のようなメタファーを用いている。すなわち、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る私たちの知識や信念の総体は「周縁部(フリンジ/fringe)でのみ経験と接する人工の構築物」あるいは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされるのである。この描像の下では、理論(あるいはイデオロギー)と合致しない観察結果が得られたときに生ずるのは、なんらかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分なのであり、そこには多くの選択の余地があることになる。


<注記>フリンジ/fringe
・・・「房飾り、周りを飾るもの、周辺的な、へり、ふち、境界、 外辺、二次的なもの、二次的なこと、反主流派、反主流派の人、過激派、、急進派、偏向的人物、動植物のふさ毛;、女性の額に下ろした切り下げ髪」などの意味がある。


我われは、ここで再び「オヴァートンの窓」の六つの構成要素の中核を成すのが「Sensible=共感可能なモチーフ」であることを想起すべきだ。それは、仮に「オヴァートンの窓」が一般国民層の<フリンジ>における共感可能性と相通ずるものがあると見なせるなら、でき得る限り、このSensibleと国民主権を重視しつつ、そこへ十分配慮することで民主主義進化論の象徴たる「オヴァートンの窓」を持続的に拡げる可能性が高くなるからだ。言い換えれば、それこそが<国民主権を現実的に実現する>ことの真の意味でもある。


因みに、これを真逆に言い換えることも可能だ。つまり、それは、ファシズム型・スターリン体制型・北朝鮮型の独裁者や王権神授説型の神憑り絶体権力者たる国王が君臨する政治体制のような場合には、具体的な形はどうであれ、そこで実効権力化した政治体制側は、強権的に「“偽装”オヴァートンの窓」を一方的に、かつ“詐術を弄してコジ開け、国民へそれを諸手で支持するよう無理やり強制する”ことも可能であるだろうということになる。


また、「オヴァートンの窓」で「Unthinkable=フレーム(額縁)」が一種の権力的役割を担うことの肝要な意義も、ここから理解できるはずだ。つまり、民主主義体制といえども国民一般の総意に基づく現実的権力構造(立法・行政・司法)が十分機能的に行使されなければ無意味なのだから、民主主義国家であるからには、多数派の国民主権(国民意志)が、現実権力化(総体化した主権を行使)しつつ、憲法上の約束事のルールに従って全ての国民に公平な納税義務を負わせるなど、「Unthinkable=フレーム(額縁)」の役割を担うことになるはずだ。


(『オヴァートンの窓』を偽装する日本記者クラブ・メディアの余りにも卑怯な買弁ジャーナリズム根性)


このように見て来ると、“まあ、オレの話を聞けよ!”と大衆一般に向かい大演説やマニフェストをぶちあげるにしても、実は何らかの初期的な意味での「権力」が必要になることが分る。従って、現実の政治的場面で「オヴァートンの窓」の「Unthinkable(窓枠、額縁)」へ一定の権威筋として影響を及ぼす役割を担うため登場するのが、実績ある政治権力者、マスメディア、政党、官僚・行政機構、アカデミズム(学界)、シンクタンク、財界、労組および各種の政治団体等ということになる訳だ。


ところが、特に我が国の場合は、戦後60年以上に及んだ超長期政権担当で傲慢化した自民党を中核とする実効権力が、市民社会における最も肝要な価値観として尊重すべき『信用(社会における信頼感の維持)、公平で客観的な論理、国民主権(主客相互における相手の立場の尊重)』という三つの基本的価値感を徹底的に蔑(ないがしろ)にしてきた。


このため、折角の「自民から民主への政権交代」にも拘わらず、現在の菅民主党政権は、戦後60年以上に及ぶ超長期政権担当で傲慢化した自民党政権を中核とする実効権力の補完的役割に甘んじてきた連合(民主党の最大支持母体)と財界(実効権力の強固な一角)に完璧に取り込まれて「小泉劇場」の犯罪を真正面から取り上げ総括しようとしないため、事実上、市場原理主義で舞いあがった自民党小泉劇場」の再来と化している。つまり、このような、まことに情けない実像こそが一連の「小沢の政治とかね」の大騒ぎの深層(メディア・スクラムによる小沢叩キャンペーンの実像)と見なすべきなのだ(関連参照、下記◆)。


◆2011年1月 6日 (木):秀逸な、本日の東京新聞こちら特報部」の「『小泉化』する菅政権」・・・」、「米に追随外交、構造改革回帰」、「専守防衛方針を転換」「沖縄に再び『アメとムチ』」「TPP、法人税減税…財界べったり」「抵抗勢力たたき求心力/劇場型政治」だ。http://web-kenpou.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-f7e2.html・・・・・以下は、このブログ記事『許すな!憲法改悪・市民連絡会』より転載・・・・・


・・・これだけでも、すぐれた批評の視点であることがわかろうというものだ。さっそく、東京新聞社に激励の電話をした。応対した読者担当の人もうれしそうだった。記事のリードにはこうある。


・・・政界は今年も「小沢」の2字で幕を開けた。正直、うんざり感はぬぐえない。政権交代から約1年半、気がつけば現在の菅政権は外交・安全保障から経済まで、かつての小泉(純一郎元首相)路線と大差ない。そこからの脱却が託された政権交代ではなかったのか。先祖返りすれば、支持率の低迷は至極当然。身内の「敵」をたたいて、求心力を高めようとする政治手法までそっくりだ。


・・・記事のなかでは早稲田の水島朝穂教授、慶應金子勝教授、ジャーナリストの齊藤貴男さんを登場させて分析している。


・・・水島さんは、菅内閣は安保・防衛政策で、十分な議論なしに専守防衛の方針を転換させた。「それなのに菅首相は重大な方針転換という自覚すらないようだ」と指摘、金子さんは「小泉・竹中路線で日本は貧しくなった。その失敗をきちんと総括できないまま、菅政権は『戦略は正しかったが、実行力がなかった』」と性懲りもなく突き進んでいると分析。


・・・齊藤さんは「民主党は小泉・竹中路線の批判票を集めて政権を奪取したにもかかわらず、株価がさがるやすぐさま『成長戦略』を口にし、さらに財界べったりに転換した」ときびしく批判する。


・・・結論として、金子、齊藤両氏がいう処方箋は「国民の生活が第一というマニフェストにもどるしかない」というものだ。最後のデスクのメモは「自民党時代には政権交代民主党、という保険があった。が、もはや保険は消えた。……政権交代を超えた根源的な転換が必要なのか」と結んでいる。


・・・この結論も賛成だ。私たちにとっては、しかし、こういうだけでは始まらない。根源的な転換の必要性という長期戦略をみすえて、足下のたたかいから出発することが肝心だ。(高田)


・・・


漸く、東京新聞が「小沢の政治とかね」の大騒ぎの深層(メディア・スクラムによる小沢叩きキャンペーンの実像)について、このように的を射た記事を書いたが、その他の主要記者クラブ・メディア(新聞・TV)は相も変わらず、飽きもせずに「小沢の政治とかね」の大合唱に血道をあげており、まるで現代日本の極悪人、小沢一郎を叩き潰しさえすれば、日本の未来はチョ―明るいと言わんばかりの異様な思考停止ぶりだ。


つまり、これまで見てきたとおり、民主主義進化論という仮説的視点から見れば直ぐ分かることなのだが、結局、現代日本の混迷の最大の責任者(というより真犯人)は、他でもなく、殆どデマゴーグに近いメディア・プロパガンダで一般国民を誑かしつつ、いかにも民主国家らしく「オヴァートンの窓」(実はヤラセ型支持率調査が主流であった!)を偽装してきた記者クラブ・メディアなのだ。


彼ら日本記者クラブ・メディアは、実効権力側がバラまいたオゾマシイばかりの機密費汚染のなかで、民主主義国家の主要メディアとしてあるべき姿(ジャーナリズムの公正な批判精神)を放棄し、更に時の内外の実効権力(自民党とソノ補完諸政党、官界、財界、学界、労組らの“たかり”的タムロで構成された国民主権無視・談合型の隠れ利益共同体と米国ネオコン一派ら)に隷従してきた「買弁ジャーナリズム」(植民地型で卑屈なイエロー・ペーパーまがいの三流ジャーナリズム)だったという訳だ。


繰り返しになるが、ここでもう一度、「買弁ジャーナリズム」に甘んじる日本記者クラブ・メディアが殆ど理解していないと思われる、ポーランド型自由原理に基づく「民主主義進化論」についての核心的な意味を振り返っておくべきだろう。なぜなら、そこには米国型「民主主義進化論」の象徴である「オヴァートンの窓」にも通ずるものがあると思われるからだ。


ポーランド型自由原理に従えば、社会の指導層にある人々(ポーランドではシュラフタの伝統を担う指導層)は、先ず自らの絶対的責務として、権力機構(政府およびソノ周辺に必ず形成される実効権力)が「貪欲な現代資本主義」(これも未完のプロセスに過ぎない)の下僕と化していないかを「民主憲法」の下で授権規範的な観点から絶えず監視・批判・評価しつつ諸政策に取り組むべきだということになる。また、同じく社会の指導層の人々は、現政権の仕事が民主主義の進化に対し十分貢献できるよう仕向けるために必要な徹底した自由の権利が与えられて当然だということになる。


つまり、このような観点からすれば、主要マスメディアの仕事として最も肝要なことは、例えば「ポーランド型自由原理」や「オヴァートンの窓」の如く、民主主義の持続的進化に必要な価値感が実際に十分生かされるような視点に立って、冷静かつ客観的で公正な批判活動に取り組むことであり、それこそが本来のジャーナリズムの仕事なのだ。ところが、残念なことに日本の主要マスメディアの実態は、まさに恐るべきことだが「買弁ジャーナリズム」の仕事に嬉々として現(うつつ)をぬかしているという訳だ。


アメリカにおける民主主義進化のための実践事例=作家サラ・パレツキーの情熱的な活躍)



・・・推理・探偵小説を得意とするサラ・パレツキー(Sara Paretsky/ 1947- /ポーランドリトアニアアメリカ人の女流作家、カンザス大学で政治学を学んだのちシカゴ大学で博士号を取得、その後は長くシカゴで活動中)は、元弁護士の女探偵V・I・ウォーショースキー (V. I. Warshawski)が活躍するシリーズで熱心なファンの心を捉えている(画像はhttp://www.saraparetsky.com/より)。


・・・民主主義を進化させるため、精力的な講演活動にも取り組むサラ・パレツキーは、2001.9.11から6年後の2007年に、エッセイ集『沈黙の時代に書くということ/ポスト9.11を生きる作家の選択』(山本やよい訳の邦訳が2010年9月に早川書房から刊行)を出版し、愛国者法が制定されたアメリカで生きる一市民としての恐怖と苦悩を熱く語っている。


・・・・・以下は、この著書の中から、当記事に関係すると思われる部分を抽出してテーマごとに要点を纏めたものである。・・・・・


【自由の国、米国の自負と傲慢は紙一重


自分たちは他所の国民と違う、自分達の方が優秀で信心深くて正しいという感覚が4世紀の間、欧州から米大陸へ渡った人々の暮らしに浸透していた。それは一部の人々にとっては、実験する自由、新しいことに挑戦する自由、しきたりに縛られない自由を意味していた。


が、全体主義国家の布告より強烈な市場の方が沈黙を強いる力を狡猾に発揮し、一握りの出資者利益の最大化のためメディア企業が記者の数を削る国、アメリカでは信頼できる情報が少なくなりつつある。


代わりに見つかるのは、あてこすり、口先のジョーク、真っ赤な嘘であり、最大の嘘は9.11テロの裏にサダム・フセインがいる証拠があるという嘘だった。そして、政策を称えるコメントの為に政府がメディアにカネを渡した事例が、この5年間(ブッシュ・ジュニア時代)に何度も露呈した。


例えば、TMS(米最大のメディア持株会社)を通じ記事を配信していた某コラムニストは24万ドルの報酬を貰い、ブッシュの<落零れゼロ法=裏口徴兵政策http://ww5.tiki.ne.jp/~people-hs/data/5249-2.html>を称賛した。やがて、その「某コラムニストは右派のヘリテージ財団サイトのコラム二ストとなり、政府でっち上げの数字で社会保障制度への攻撃を行った。


TV局と新聞社を所有する「メディアの巨人(メディア持株会社など)」が出版社まで所有すれば、今後、誰の声が真実か、どんな真実がその「巨人」の利潤になるのかを心配すべき時が来たといえるだろう。


【自由の国アメリカという幻想】


世界という牧場を駆け巡り荒らし回る無鉄砲なカウボウイ連中は今の時代に必要ない。孤高のヒーローとなる人物、つまりペテン師や悪党らが正義の女神に乱暴を働くときこそ、女神を支えていける人物らが心から求められる。


1930年代の悪名高きダイス委員会いらい、議会とFBIは公民権活動家と共産主義者を同一視してきた。1960年代にFBIがM.キング牧師共産主義のレッテルを貼ろうとしたのも同じ流れ上での出来事だ。


1930年代における米国の賃金水準は男性1ドルに対し女性が約0.12ドル、1977年では女性が0.595ドル、2000年では女性が0.79ドルであり、今や再び男性対女性の賃金格差が大きく開きつつある。


女性に対する共和党右派からの攻撃はすさまじいが、この三十年で女性蔑視からプラスへ変化したものがある。たとえば、女性が融資を受けるとき、漸く男性の共同署名が不必要となってきた。


男性作家の本が書評で取り上げられる回数は女性作家の7倍で、女性作家の本が絶版になるまでの平均期間は男性作家の1/3だ。このような女性差別の現実が女性作家の生計維持の困難さを助長してきた。


アメリカではサディズムビデオゲームなどで成長産業化している。例えば、いうことをきかない娼婦をゲームプ上のプレイヤーがレイプしたうえ、手足を切断し、殺してしまうという凄まじいゲームまでが出回っている。


また、アメリカでは、私たち(米国女性)の約六人に一人がレイプされており、この種の暴力が女性に与える傷について論じると、そのことがアメリカのレイプ文化を生み出し助長してると非難される。


実際、レイプには女性を怯えさせ黙らせるだけの威力がある。女性の発言権の拡大につれて、映画などは“女はレイプされるべき”と告げる代わりにレイプの場面をリアルに描写し、その後の屈辱で女性たちが社会から締め出される様子を見せつけるようになっている。


メディアによる女性へのサディスティックな扱いの実例を挙げれば、TV四大ネットワークであるCBS,ABC,NBC,FOXが流すクレジットカードのCMで、男性が自分のカードの磁気ストライプを読み取り装置ならぬ女性の尻に通すというものがある。


アメリカ民主主義の劣化】


米国では公共の利益のため税を支払うのは言語道断だと見なすようになりつつある。例えば、公共図書館の予算が繰り返し削減され、今や公共図書館の書籍購入費は20年前の1/3まで縮小してしまった。


英国ヴィクトリア時代の課税反対運動では公立図書館と公立学校が社会主義だと貶されたが、今のアメリカはそれに似ており、学校・医療とともに公共図書館の被害が大きくなっている。


いかなる理由づけにせよ愛国者法はろくな審議なしで可決され、そしてFBIと国土安全保障局(NSA)には市民と一般犯罪者を攻撃するために絶大な権力を持つ物騒な武器が与えられた。


つまり、愛国者法のもとで警察は令状を申請する理由を説明する必要がなく、例えば、州検事に対して私(サラ・パレツキー)の名前が浮かんできた、と主張するだけでよいのだ。愛国者法によって、いかなる個人の本、書類、ハードディスクも没収できるし、注文された本などをは図書館からでも書店からでも没収できる。


年間3万通に及ぶ国家安全保障局NSA)が発する通告は、図書館、書店もしくはホテルを含む凡ゆる事業主に対して、全顧客に関する記録を残らず提出するよう強要できる。また、国家安全保障局NSA)の通告のおかげでFBIはターゲット人物のメール・電話のみならず彼や彼女が接触した相手のメールと電話までも追跡が許される。


NSAの通告を受けた書店や図書館はユーザー記録を提出しなければならず、次にFBIは無断で私のパソコンに侵入し私が遣り取りした全メールを手に入れ相手のメールも盗聴することが許される。


愛国者法と国家安全保障局NSA)の特徴となる武器は緘口令だ。愛国者法の名で通告を受けたら、そのこと自体の口外が許されず、それに違反すれば懲役5年の刑となる。また、愛国者法はプライバシー保護の権利を崩壊させた。それは政府が図書館などに対し貸出記録、ネット使用記録ほか凡ゆる媒体に保存されている個人情報の提供を強制できるからだ。


イリノイ大学の調査によれば愛国者法で米政府は全国の図書館の最大で約30%から貸出カードやインターネット使用の記録を押収した事実があり、もし、これらの個々の事実を口外すればその司書は逮捕・投獄される。


私たちは、アメリカでは個人主義と個人の自由な表現が尊重されており、人々が脅しに屈するのは全体主義国家だけだと思いたがっているが、私はそこまで楽観的になれない。それは多分、私の育った場所が1950年代の中西部カンザス州の田舎町で、その頃はアメリカが共産主義の脅威に神経質になっていた時代だったからだろう。


例えば、国家安全保障局NSA)が米国民の電話やネット使用記録を令状なしで盗聴したことをニューヨークとロスアンジェルスの『タイムズ』編集者らが暴露したとき、右派のラジオ番組は彼らに対して殺しの脅迫を行ったという事件が起こっている。


【しかし、全てのアメリカ人が愛国者法に平伏してはいない】


このエッセイ集は、私が愛国者法と図書館をテーマにして、各地の図書館と州立図書館協会でおこなった講演から生まれたものだ。アメリカがイラクに衝撃と恐怖をもたらした日の前夜(イラク攻撃の前夜)に、たまたま私はオハイオ州立図書館で講演する予定だった。そして、図書館側がこのテーマでの講演の中止を頼んできたが私は予定通り行った。


しかし、その講演中、私は膝の震えが酷かった(内心は怖かったのだ)。しかし、その夜の私は幸運だった。私の話を聞くため暴風雨のなかを出かけてきた約500人の聴衆が大喝采を送ってくれたからだ。


自分の自由を守る方法はただ一つ、発言することだと思っている。悪質な法律によっても、暴徒の叫びによっても、沈黙させられてはならないのだ。また、私の作品は現実の世界を大きな拠り所にしているが、私のヒーローたちは現実世界に生きる私たちと同様に苦難に耐えるべく設定されている。


秘密主義で侵略好きな政府に何をされるか分らないという恐怖から国民がささやき声で話すような国へと、我が愛する祖国(アメリカ)が変貌しつつあるとき、私は傍観してはいられない。V.I.ウオーショースキーは信念のため死ぬことはないし沈黙させられることもない、また彼女は友人を売ることもしない。これが私からV.I. ウオーショースキーと世界の読者にさし出せる最高のものだ。


私達を沈黙させ、私達の声と大切な真の自由を奪おうとする権力に対して、私の言葉が、そしてサッフォーの言葉が、さらには憲法の言葉が、そう、これら全ての言葉が口から吐く只の息に過ぎなくとも、抵抗を続け勝利を収めることに私は、ひたすら希望をかけている。


2600年前、“スズメが引く戦車で天から降りてきた女神”を見たという女流詩人のサッフォー(参照⇒http://www.ffortune.net/social/people/seiyo-greek/sappho.htm)は、こう書いている。・・・『これは、只の息にすぎないが、私のつかう言葉には、永遠の命が宿っている』と(画像はウイキメディアより)。