toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

原子村汚染「原発」の「縮小→廃止プロセス」に必須の「恐怖のリベラリズム型情報評価」の視点

toxandoria2011-04-20



【プロローグ動画】Libera - Ave Maria (Caccini) (真に美しいものへの憧憬)
…この画像『ベルギーの風景』はhttp://twitter.com/lcphotoofthedayより転載したものだが当記事の内容とは直接的には無関係である。



フラ・フィリッポ・リッピ(Fra Fillipo Lippi/1406-1469)『聖母子と二天使』 ca1465 「Madonna with the Child and two Angels」 95×62cm tempera on wood Galleria degli Uffizi 、Florence


(プロローグ0)


【動画】原発Nチャンネル14 原発なしでも電力足りてる 小出裕章・教授(京都大学


今更、懺悔されても?⇒原発推進学者が次々懺悔 「国民に深く陳謝する」 (J-CAST)http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_nuclear_power_plant_2__20110416_81/story/20110416jcast2011293099/
・・・元原子力安全委員長の松浦祥次郎氏や前原子力委員会委員長代理の田中俊一氏ら原発推進の学者16人がこのほど、異例の緊急提言を行った。・・・田中俊一氏は「原子力の平和利用を進めて、まさかこういう事態、これほど国民に迷惑をかけるような事態は予測していなかった。結果的にこういうことになっていることについて、原子力を進めてきた人間として、国民に謝らなくてはならないという気持ちは、みんな持っていると思う」と心境を明かした。・・・


何を隠したいのか?⇒東電、発電実績データを密かにHPから削除http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110417-00000301-alterna-soci


日本、原子力発電不足分補う石油火力発電の余剰ある=IEA(国際エネルギー機関http://bit.ly/fikEEJ


福島避難住民「俺たちは原発に食べさせて貰ってる」と語るhttp://www.news-postseven.com/archives/20110417_17701.html


原発は必要でした(原子マフィアの洗脳効果?)、首都圏のために電気を送って地域はその代わりにあらゆる恩恵を受けました。でも、やはり、原発はもう要らない。」http://d.hatena.ne.jp/ayua/20110411/1302526954


こんな狭い日本で、自分のことだけ考えても逃げる場所があるのか?⇒《地方選・後半》…原発の街・訴え苦心、(柏崎)推進だが増設は封印、(敦賀)経済に配慮、共存姿勢、(六ヶ所村)雇用優先で反対控え→白い目で見られるから反対と言えず、反対したいが入れるべき候補者がいない、いざとなったら遠い親戚の所へ逃げようと思う。・・・(2011.4.18朝日)


(プロローグ1)…(プロローグ2)より一部分を抜粋・・・


毎日新聞が実施した意識調査(2011.4.9)では<30年後に原発が減っていることを願う人の割合が7割を超え>、あるいは環境系シンクタンク「幸せ経済社会研究所」の意識調査でも<約72%の人が30年後には現状より原発の割合が減っていることを希望する>という結果が出ている(出典:http://turezureysd.blog24.fc2.com/blog-entry-1126.html


大震災以降、「政府のエネルギー基本計画が2030年までに14基以上の原発増設を目指している」ことを前提とした原発問題について継続的に行われているロイター・アンケート(ネット調査/4/26)の結果では「計画通り、原発を増設 11%、計画を見直し、原発を減らす15%、原発を全廃 74%」で、実に7割強が「原発の全廃」を支持し、「原発の縮小・見直し」を加えれば、9割の人が「従来の原発政策の根本的改革」を求めており、その傾向は日々に強まりつつある(出典、http://jp.reuters.com/


また、海外のメディアが詳報するとおり、今回の福島第一原発事故を契機に「原発ルネサンス地球温暖化ストップを大義名分とする原発増設政策への傾斜)」の流れにブレーキが掛ったドイツは既に「脱原発」へ回帰したが
http://astand.asahi.com/magazine/wrpolitics/2011040700001.html)、国内総消費電力量の約8割を原発に頼るフランスでも、4月初めに行われた世論調査では<原発へのエネルギー依存度を減らすべきと答えた人が8割を超えた>ことが報じられている(出典、
http://jp.reuters.com/


(プロローグ2)


深刻な福島第一原発事故の原因となった「巨大地震→大津波襲来」の可能性については、数年前の時点で、既に東電内部で調査(2007年発表の関連報告書は15メートル超の大津波発生の可能性とアクシデント・マネジメントの必要性の検討(原子炉暴走等の過酷事故対策の必要性)の指摘があったことを2011.3.15のロイターが報じている。


しかし、当調査報告書は福島第一原発事故の防止に生かされるどころか、事後の相次ぐ巨大余震の連続発生が地震大国・日本における原発立地の大きな現実的リスクを日々に暴きつつあり、我われ日本国民は、今や命が縮むが如き過酷な思いに苛まれる日々を送らざるを得ないという悲惨極まりない現在状況となっている。


そして、その背後には最悪のシナリオを避けつつ「原発の絶対安全神話」を巧妙に演出してきた日本政府(その殆どが自民党政権時代だが、民主党にも多くの原発マフィア議員が存在する)と電力会社の不可解な凭れ合いの姿が見え隠れする。このような背景を概観すると、3/13の記者会見で東電の清水社長が「今までベストを尽くしてきたし、原発事故発生後の今でもベストを尽くしている」と発言したことは一体何を意味するのであろうか?


また、ウイキリークスはウイーン(IAEA本部がある)の米国大使館がワシントンへ送った一つの公文書を公開した(情報源:同じく2011.3.15ロイター)が、そこには旧通産省出身のIAEA事務次長(原子力安全・核セキュリティ担当)を務める谷口富裕氏について「特に日本原発の安全対策について厳しく日本側へ対決するという点において彼は非力な提唱者であり、かつ非力なマネージャーであった」と記されている。


ここには、原子力平和利用に関する世界への警鐘機関の顔としての谷口富裕氏の取り組み(日本の原発地震津波・噴火・洪水・台風などの自然災害を十分に視野に入れていない危うい姿勢)に満足できないアメリカ側からの厳しい見方が現れている。


今や、「原発安全神話」を巧妙に演出してきた日本政府と関連業界の甘い凭れ合いの姿(原子村(原発マフィア)=政官財学癒着体/内閣府原子力安全委員会経産省保安院、電力業界、連合(特権安住型御用労組)、関連学会、関連メーカー各社/これらは各種選挙での強力な集票マシンでもある)は諸外国からも見透かされることとなったが、何故か、そのイメージは奇しくもあのリーマンショック金融危機の構図にもソックリ重なるのだ。


そして、特にその核心と見なすべき病巣は、一民間企業でありながら<絶対的な地域独占を許されつつ電力供給を担う電力会社>という世界的に稀な、日本電力会社の異常に特権的な姿である。既に、欧米諸国では良い意味での電力の自由化が進んでおり、発電会社と送電会社は別会社となっている。


一方、日本型原発村の総凭(もた)れ合いの構図では、今回のように深刻な原発事故が起こってしまったという<この段に至っても>いまだに日本政府(国)と電力会社(東電)が責任を押し付け合うことで、残念ながら、<核心的問題点の徹底解明>と<日本のエネルギー政策にかかわる抜本改革への契機>は次々と先送りされ、責任の所在が霞みつつあるかに見える。


私企業の立場では到底全責任を取り得ない原子力発電の如き超リスキーでありながらも「非常に重要な基盤的社会共通資本」については、政府管理下で事実上の国有とすべきであろう。発電から分離した送電(電力供給/送電料金は規制価格)を担う純然たる私企業の電力会社は今の特権的地域独占を排し、適度な競争原理の下で公正な価格とサービスが提供できるよう(市販の電力価格は市場需給で決定するよう)努力すべきである。


<参考>河野太郎ブログより転載http://www.taro.org/2011/04/post-979.php
・・・経団連の会長や自民党の一部の議員が東電の国有化反対を唱えている。最初から東電の国有化に反対するというのはおかしい。してはいけない国有化は、福島だけを切り離して国有化すること。これは東電救済以外の何ものでもない。


殆どの欧米諸国では原則的に一般の発電事業(原発は国営・特殊会社などの別ケース)に民間企業の参入を積極的に認めており、送電線は国営または半官半民で管理・運営されており、民間企業が送電する電力価格は市場の需給で決まるため電力が不足する場合には需要サイドに節電の動機が生まれやすい。今回の需給不均衡の停電騒ぎで、東電は電力供給の意志と能力があるメーカー・商社等が設立した電力会社への電力まで一律に切ってしまうという不合理な判断を行った。


しかし、直近のウオルストリート・ジャーナル(WSJ)単独インタビュー記事(ネット版)で日本経団連の米倉会長は、原発(東電ほか)の国有化と「原発の縮小→廃止」の可能性を一蹴した。また、二酸化炭素と経済性、あるいは安全の観点から「原発の必要性」について国民を再説得する努力が必要で、従来の原発計画を根本から見直すべきでないと答えている。まさに原発村の“名誉村長”らしく余りに単純明快過ぎる<迷解答>であるが、そこに透けるのは<財界トップレベルまで深く浸潤し殆どカルト化したとさえ言える日本の原発病>が極めて重篤であることだ。


更に、同インタビューで米倉会長は「渦中の福島農業が全国に占める割合は僅少だし、政府による今回の大震災の被害総額25兆円も下駄を履かせた数字であり、実額は10兆円程度と見なされるので、付加価値レベルで見れば、それはGDPを1%程押し下げるに過ぎない」と語っている。このことは、<日本の財界癒着型原発病>が、まさに『病膏肓に入る』
(http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/koukou.html)ほどの深刻な末期的病状であることを示しており、原発事故の重篤さとイメージが重なり何か背筋が凍りゾッとする思いにさせられる。


新自由主義思想に依る過剰な自由原理への暴走は望ましいことではないが、資本主義社会である限り健全な経済活動(フレームと成長)を支える市場機能が重要であることは論を待たない。つまり、自由競争による電力等の基盤的ライフライン(中核的社会共通資本)の活性化を適切に維持しつつ、一国の社会共通資本全体に対するフィデュシアリー(fiduciary:政府(国)に対し主権者たる国民が与える信用・信託/出典:宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書))を高める努力に日々精進することが日本政府の最も肝要な仕事の筈だ。しかし、残念ながら我が日本政府は、そのような意味での、本来、政府がやるべき仕事をやってこなかったのだ。


今回の大震災と、そこから派生した深刻な原発事故の行き先は未だに予断を許さぬ危機的状況の連続であるが、少なくとも、我われは、今回の“この国難的で悲惨な大事件”を我が国の<エネルギー政策と電力産業についての革命的構造改革>へ確実に繋ぐ契機とするための覚悟を決めるべきである。なぜなら、それこそが<日本の社会共通資本全体の最も枢要な基盤である電力供給システムに関するフィデュシアリーの本格的復権>を意味するからだ。


因みに、毎日新聞が実施した意識調査(2011.4.9)では<30年後に原発が減っていることを願う人の割合が7割を超え>、あるいは環境系シンクタンク「幸せ経済社会研究所」の意識調査でも<約72%の人が30年後には現状より原発の割合が減っていることを希望する>という結果が出ている(出典:http://turezureysd.blog24.fc2.com/blog-entry-1126.html


大震災以降、「政府のエネルギー基本計画が2030年までに14基以上の原発増設を目指している」ことを前提とした原発問題について継続的に行われているロイター・アンケート(ネット調査/4/26)の結果では「計画通り、原発を増設 11%、計画を見直し、原発を減らす15%、原発を全廃 74%」で、実に7割強が「原発の全廃」を支持し、「原発の縮小・見直し」を加えれば、9割の人が「従来の原発政策の根本的改革」を求めており、その傾向は日々に強まりつつある(出典、http://jp.reuters.com/


また、海外のメディアが詳報するとおり、今回の福島第一原発事故を契機に「原発ルネサンス原発政策への傾斜)」への流れにブレーキが掛ったドイツは既に「脱原発」へ回帰したが(http://astand.asahi.com/magazine/wrpolitics/2011040700001.html)、国内総消費電力量の約8割を原発に頼るフランスでも、4月初めに行われた世論調査では<原発へのエネルギー依存度を減らすべきと答えた人が8割を超えた>ことが報じられている(出典、http://jp.reuters.com/


<関連参考情報>


再生エネが原発逆転http://bit.ly/gUuilT
・・・2010年の世界の発電容量は、風力や太陽光などの再生可能エネルギー原発を初めて逆転したとする世界の原子力産業に関する報告書を、米シンクタンク「ワールドウオッチ研究所」が15日までにまとめた。報告書は、福島第一原発事故の影響で廃炉になる原発が多くなり、新設も大幅には増えず、再生可能エネルギーとの差はさらに開くとみている。


然るに、記者会見(3/13)に臨んだ東電の清水社長は、福島第一原発事故が起こったものの原発頼みは変わらぬので柏崎3号機の年内再開を目指すとともに、福島第一原発事故廃炉は1〜4号機に止めたいと述べた(つまり、5〜6号機は活用する意志)。事故に伴う賠償金についても仮払方式のアイデアを語るものの、その金額と時期については一切の明言を避けた。


その後、菅政権に促される形で漸く東電の清水社長は4.15に原子力災害対策特別措置法の規定に基づく指示に従い避難や屋内退避を余儀なくされている人に対して「仮払補償金」を支払うことを決めたと発表する。が、一方で、元資源エネルギー庁長官が東電に天下ってい事実の発覚(原発マフィアの存在証明)については、“東電は有な人材には門戸を開くのみだ”と開き直ったのである(出典、http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110415/t10015334611000.html
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110415/biz11041514210013-n3.htm


ここには<特権的地域独占にデンと胡坐をかく特異な一民間巨大企業>の社長としての職責(経営利益極大化を図る役割に徹することのみ)に拘りつつ主権者たる日本国民が<原発に対する根本的疑義と恐怖心を訴え得る自由の権利(恐怖のリベラリズム)>を侵し踏みにじる傲慢さが露呈している。それにしても、かくの如き不埒な東電トップの危機的現実への認識の誤りを、この地獄絵図の如き現実に対峙してさえも、殆ど真っ当に批判できぬ主要メディアの腑抜けぶりにも驚かされるばかりだ。


加えて、与謝野・経済財政担当相は4.15の記者会見で、<福島第1原発事故の評価が最悪のレベル7になったにも拘わらず「原子力発電は電力供給のため大事なものだと今も思っている。推進してきたのは決して間違いでない>と述べ、<事故の厳しい評価にも拘わらず今後も原発を積極的に推進する>と強調した。また、与謝野大臣は、自民党政権時代に通産相として原発を推進してきたことを踏まえ、<今回の重大事故発生でも、私は一切謝罪するつもりはない>と断言した(開き直った?http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2011041500293


おそらく、自民・民主の別を問わず、1970年代以降の時代に原発推進に積極加担してきた日本の政治権力者らの多くの心境は、今や地獄絵図の如き悲惨な原発事故(日本国民の“恐怖のリベラリズム”、つまり“日本国民の不条理な残酷さの恐怖から逃れ得る自由を求める権利”を侵す恐るべき原発の暴走)を目前にしてさえも、与謝野・経済財政担当相や経団連・米倉会長、あるいは東電・清水社長らの如き「非人間化(ゾンビ化)した政財界人=原子・原発マフィアの領袖」のカルト的レベルまで重篤化した“原発への狂信”は微動だに揺るがぬように見える。


また、この如何にも偉そうな人物が正真正銘の御用学者なのかどうかは不勉強にして詳らかでないが、某ブログ(http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51696334.html)の主(似非学者風の某ブロガー)が「発電量の3割を占める日本の原発を廃止する訳には行かぬ。それは、2009年の<総合資源エネルギー調査会>が太陽光発電のコスト(49円/kwh)が原子力のほぼ10倍だと報告しているからだ」と述べていることにも驚き呆れかえるばかりだ。


<関連情報>


毎日(ネット):原発は安価ではないどころか、国民にとっては最も割高であることが明らかになった(上)http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20110403ddlk26040355000c.html


毎日(ネット):原発は安価ではないどころか、国民にとっては最も割高であることが明らかになった(下)http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20110410ddlk26040370000c.html


現状の仮見積りですら福島第一原発事故の被害額が軽く10兆円を超すと見なされることからも分かるとおり(原発事故の更なる深刻化と拡がり次第では10兆円程度に止まるとは言い切れない、仮に、更なる直下型大地震、あるいは大津波や巨大台風の襲来などを考慮すれば原発ほどリスキーで高くつくものはないとさえ言える。しかもこれは福島原発だけの懸念ではあり得ない筈だ)、この<総合資源エネルギー調査会の試算モデル>自体がとっくに破綻していることは火を見るより明らかだ。


しかも、原子マフィアが求める原発(原発利権&既得権益保守システム)へ1970年代以降に投入された歳出額は年当り平均0.5兆円で、その累計額は実に約20兆円超に及ぶ。これに予想される福島第一原発関連の補償額等だけを加えても、それだけで30〜40兆円を超える。更に、結局その負担は全国民の分担として跳ね返ってくる。これで、なぜ「絶対に安全で、絶対に安い電力を供給する原発です!」などと言えるのか?!


<関連参考情報>


海江田氏「原発補償は最終的に国民負担」、http://say-move.org/comeplay.php?comeid=161090


だから、いま肝要なのは<疾うに破綻した総合資源エネルギー調査会(日本原子村(原子マフィア)配下)のエネルギー費用試算モデル>などに未練がましくウジウジ拘り続けることではなく、日本のエネルギー政策の根本を、一旦、根本からリセット(ご破算に)して、全ての日本国民らの総意に基づく<日本の電力供給と関連産業についての革命的構造改革>へ、即刻、着手することである。もはや「クリ―ン&絶対安全で安価な原発による地球環境の保全と持続的経済成長」などは非現実的な夢物語であることに早く気づくべきなのだ。


ともかくも、このような日本国内と海外の国民意識の変化を背景としつつ、仮に我が国が<エネルギー政策と電力産業についての革命的構造改革>へ着手するとしても、そこで絶対見過ごすべきでないのが「恐怖のリベラリズム型情報評価」の視点(今や常識化したと見なすべき市民革命の発展プロセスで深化してきたリベラリズムとは異質な発想に依る、全く新しい人権についての考え方の採用)ということである。


1 原子村汚染「原発」がもたらす恐怖の実像=“想定外”の言い訳と軽水炉高速増殖炉が「原爆・水爆」製造に必須のプルトニウム239を生成するという現実


(恐怖の実像1=原子村(原発マフィア=政官財学癒着体)が原発事故で“想定外”の言い訳を繰り返す理由、それはマフィア自身が苛烈な原発のリアリズムを直視できなかったため)


そもそも原子力発電(原発)は“論理&因果臨界連鎖系なる苛烈現実”と見なすべき存在である。それが具体的に意味するのは、これは周知のとおりのことの筈なのだが、先ず、第一に原発は高度かつ精緻な最先端の科学的知見(論理)および科学経験的な技術知に支持されつつ作動していることだ。そして、その第一次元の内側に限るならば「原子力発電が安全である」という原子村の住民(原発マフィア)らの言説自体が論理的に決定的間違いだとは言えないだろう。


しかし、その原子力発電所ニュートン力学的な意味での絶対仮想空間的トポスという仮説的・机上の空論的に仮設された、物理的な意味で安定した理想環境下に立地することはあり得ない訳で、実際には、複雑でカオスに満ちた地球環境の一部である現実的空間に、言い換えれば、自然空間なる外部環境から、絶えず、変幻自在で(論理的繋がりだけでなく非条理な因果連鎖系の)過激で混沌たる影響を蒙る宿命にある、非常に不安定で、しかも、その意味で“まことに苛烈な自然環境”の中に必ず立地せざるを得ないのだ。


つまり、これが第一次元の外部環境から襲来する第二次元の“苛烈現実”ということである。謂わば、それが、因果的な意味で予期し得ぬ外部環境からの非常に大きな、そして到底論理的には予期し得ぬ巨大な影響(地震津波・台風など地球環境が本源的に持つ自然破壊力、あるいはテロ・軍事攻撃など)を受けざるを得ないのは至極当然のことなのだ。つまり、その意味からすれば「原子力発電が安全である」とは絶対に言えない筈なので、この意味での外部苛烈条件を<想定外>とするのは、自然の摂理に対する、人間の愚かな傲慢さの現れ以外の何物でもない。


それにもかかわらず、日本の最高の英知を自負する「原子村」の住人(許認可権を持つ政府・政治家および経産省関連機関・原子力系学者・電力各社・関連メーカーに連なる学者・財界人)らは「第二次元を含む原発の苛烈現実」を無視(あるいは軽視)しつつ「原子力発電は安全である」と国民向けに、もっともらしく専門知識に関するリテラシーを言明し、国民一般を説得してきたとするならば、それは正真正銘の嘘(ウソあるいは無責任な机上の空論)で無辜の日本国民を騙してきたことだ言わざるを得ないだろう。


語呂(ゴロ)合わせではないが、本来であれば「原子村」の住人らは第一次元の“原子炉内での臨界(原子炉内における核分裂連鎖反応が一定範囲でコントロールされ維持された状態)”と第二次元の“自然空間がもたらす混沌たる破壊力とのパワーバランス”なる二つの“苛烈臨界の場であるという恐るべき現実”こそが「原発」のリアルな実像と見なすべきであった筈だ。


しかし、どうやら英知の塊であったはずの「原子村(政官財学癒着体)」の住人たちは、この“厳しい現実(原発のリアリズム)”をアッサリ見過ごしていたらしい。それこそが、彼らが福島第一原発事故についての言い訳に使う「想定外」なる言説が意味することだ。また、この“厳しくも苛烈な現実”を別の角度から見るなら、それは「リスク恒常性の問題」ということになる。そして、「リスク恒常性の問題」で肝要なのは<ヒューマン・ファクター>がもたらす<ヒューマン・エラー>の問題である。


「リスク恒常性の問題」とは、如何に高度な科学知や科学技術であるとしても、それが100%完璧ということは永遠にあり得ず、其処には必ず些かでも何がしかのリスクが存在するという、真に苛烈な現実を常に直視すべきだということである。そして、特に重要なのは、そのリスクが非常に単純で素朴な、あるいはタコ壺化した専門家の一方的思い込みなどによる「ヒューマン・エラー」である可能性が高いということだ。


従って、原発問題に関わる情報評価で最も重要な観点は「リスク恒常性の問題」であり、その中でも、特に<専門家・非専門家の別を問わぬヒューマン・ファクターがもたらす恒常的リスク>を回避するため、政府・行政・研究者・企業・メディアそして一般国民らが関連情報を正確に共有して持続的に双方向コミュニケーションを深めつつ相互の信頼感を日常的に最高位まで高める工夫を永続的に進めるべきだということになるのだ。


このような観点からすれば、現在の福島第一原発事故を巡る<現実的な恐怖>の一つが「原子村(政官財学癒着構造体)の住人らが原発事故について“想定外”の言い訳を延々と繰り返す」、まさにそのこと自体であるのがスッキリ理解できる。また、この<恐怖の実像1>が日本国内に立地する全ての原発(総数55基、37基が運転中)に共通して存在することも理解できる筈だ。


例えば、4月7日の深夜に起きた3.11東日本大震災の巨大余震による約400万戸の大停電(青森・秋田・岩手・山形・宮城・福島に跨る)で殆どの外部電源が遮断されたため、“あわや福島第一原発事故の二の舞か!”という超危機的な場面をもたらした「東北&東京電力東通原発青森県東通村)、女川原発宮城県女川町、石巻市)、日本原燃六ヶ所再処理工場(核燃料の再処理工場/1993年から約2兆1,900億円の費用をかけ青森県上北郡六ヶ所村弥栄平地区に建設中)に関わる現実的恐怖の襲来は記憶に新しいことだ。


しかしながら、多くの日本国民が、このような恐るべき状況に置かれた日本原発のリアリズム(現況)に対して、未だに殆ど無関心か、あるいは無知に見えること(というより、その余りにもリスキーな事実が殆ど正確に知らされておらず、今まで原子マフィアが巨額の広告費を費やして広報してきた原発安全神話から本格的に目覚めていないこと)自体が真に恐るべきことだ。


(恐怖の実像2=日本原発軽水炉高速増殖炉が「原爆・水爆」製造に必須のプルトニウム239を生成するという現実)


非常に概略的な話となるが、わが国の原発の殆どを占める軽水炉高速増殖炉福井県敦賀の『もんじゅ』と茨城県大洗町の『常陽』/日本原子力研究開発機構)も、ともに核分裂するウラン(現存ウランの0.7%の量に止まる希少資源)と核分裂しないウランが中性子を吸収することで副産物としてプルトニウム239を生成するが、このプルトニウムは原爆の材料となり得る。また、水素とその放射性同位体核融合反応を利用した超高性能爆弾である水爆は、この原爆を起爆装置として利用する。


このように軽水炉高速増殖炉もともに副産物としてプルトニウム239を生成するが、高速増殖炉が生成するプルトニウム239の量を100とすれば、軽水炉が生成するプルトニウム239の量は高速増殖炉の30%に止まる。


また、日本の『もんじゅ』と『常陽』で発電と実験が行われてきた高速増殖炉は、海外諸国がその取扱の困難さを理由に殆ど撤退した方式である。高速増殖炉核分裂の速度が速いため、その取扱いに失敗すると一瞬で制御不能となる可能性が高いものだが、それに加えて、冷却材として使われるナトリウムも反応が激烈なので取り扱いが非常に困難である。


このため、活断層上に立地する『もんじゅ』はナトリウム漏れ事故で既に10年以上も停止したままであり、その間の試運転でも再び事故が起きたため停止状態(原子炉に燃料交換装置が落下して燃料棒交換方法が絶たれたため、運転も廃炉不能な危機的状態で経過中/その後に辛うじて制御棒を炉内に入れ核反応を制御しつつ、しかも発電できぬまま年間で約500億円の経費が投入される状態)となっている。


『常陽』は日本で最初の高速増殖炉(発電設備がない実験炉)で、高速増殖炉の開発実験のために技術的経験を得ることを目的として建設されたが、燃料・材料等の照射実験なども行われている。そして、日本で2番目の高速増殖炉(発電設備がある実証炉)であるもんじゅの建設につながった。が、実用炉の開発は2050年頃とされるが開発計画は何度も遅延しており実用化は危ぶまれている。


この『常陽』は、2007年5月の定期検査時に照射試験用実験装置を抜いて原子炉容器内壁近くのラックへ移した時に、照射試験用実験装置の上部が引きちぎられる事故を起こした。しかし、高速増殖炉で冷却に使われるナトリウムは水と違って不透明であることが原因となり、この事故の発生自体が6カ月後の燃料交換作業の時まで気がつかずに経過していた。


照射試験用実験装置の上部の破損部(しかも、その破損部と試料部を繋ぐ微小な6本のピンの所在が不明となっている)の探査のため、原子炉内のナトリウム液位を炉心上面が裸になるまで下げなければならず、破損で炉内に紛失した6本のピンの所在(制御棒の動作などに障害をもたらす恐れがあるだけでなく、冷却剤の流れを塞げば炉心融解につながる)とともに非常に危険な状態をもたらす要因となっている。


ともかくも、『常陽』の事故は軽水炉とは異なる高速増殖炉特有の危険性を示している。そして、最大の問題は、このような高速増殖炉特有の危険性が原子村の内部で目立たぬよう、ほとんど秘かに処理されつつあるということだ。しかも、この破損した『常陽』の修理は少なくとも2〜4年の時間を要し、max100億円の費用が掛るとされている。


ましてや、小型の実験炉と異なり、活断層上に立地する大型実証炉である『もんじゅ』が同様の事故を起こした場合の甚大な被害(炉心溶融、毒性の強いプルトニウムの広範囲への放出など)は想像できぬほど甚大なものとなることが懸念される(以上、『常陽』の事故についての出典http://www.page.sannet.ne.jp/stopthemonju/home/0901joyojiko.pdf)。


2 “論理と自然環境(人知を超えた因果)の苛烈臨界の場である原発” 問題に必須の「恐怖のリベラリズム」的な情報評価の視点


(2−1)「恐怖のリベラリズム」とは・・・


「恐怖のリベラリズム」とは、自然の破壊力も含めた危機的・暴力的状況(地震津波・噴火・台風あるいは原水爆化学兵器・遺伝子操作などの如き危険要素が非常に大きい先端科学知&科学技術・戦争・テロリズム・ジェノサイド、又はレイプ・殺人・拷問・猟奇行為など非人間的で苛烈な阿鼻叫喚の地獄絵図さながらの残酷さがもたらす一切)の<恐怖から逃れる自由>が最大限に確保できる政治的・社会的条件の整備こそが、最も人間的(or人間環境倫理的)あるいは生物学的(人間も含む)な意味で、万般の社会的条件に対して最優先されるべき基本だという考え方である。


言い換えるなら、それは従来型の<近・現代における市民革命の歴史>の中で深く認識されつつ進化してきた現代民主主義社会の発展プロセス基盤としてのリベラリズム(自由原理=王権等政治権力者の恣意的権力に対する精神的・経済的・人権&身体的な自由)とは異質な自由原理についての新しい認識だ。つまり、それは教科書的な意味での人権思想の成果というよりも、他の生物種と同様に“或る一定の限られた生態系の中”でしか生存できない我われ人間が、その自然環境そのものと同一視すべきアニミズム的自然環境への大いなる畏怖の念に繋がる、謂わば一般生物種の仲間たちと共有するベーシックな共通感覚である。


なお、このような考え方のア―キタイプ(オリジナル着想)は米国の政治学者ジュディス・シュクラー(Shklar, Judith N.)の「恐怖のリベラリズム」(The Liberalism of Fear"http://en.wikipedia.org/wiki/Judith_N._Shklar)である。が、<当記事が意味付けを試みる恐怖のリベラリズム>とは、ジュディス・シュクラーのアイデアを<今や最も忌むべき人類文明の成果であることが明らかとなり、人間のみならず地球上の全生物に対し根源的脅威を与えつつある原発から解放されるべき基本的自由>という水準まで“筆者が独断的に敷衍・拡大した”ものである。


<参考情報>「恐怖のリベラリズム」の理解は、「触知型崇高美」と「アーカイブ」の問題をも考慮することで、より深まると思われる。が、これら諸問題を此処で取り上げる余裕はないので、下に関連記事を紹介するに留めておく。


◆toxandoriaの日記[民主主義の危機]日本に欠ける「アーカイブとフィッシュ・アイ・リアリズム」重視の視点、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080630


◆2008-08-19 “「触知型崇高美」への無理解で「擬装右翼の暴政」に凌辱される日本、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080819


ところで、<原発の恐怖のリベラリズム>に関わる問題の特徴は、少し第二次世界大戦後の歴史を観察すれば直ぐに理解できることなのだが、それは明らかに<民主主義国家日本における、我われ日本国民一般の過去の政治的選択>の結果であるということだ。


これは余りにも不幸なことだと言わざるを得ないが、我われ一般の日本国民は、原子マフィアの暗躍に起因する真に悲劇的な人災と断ずべき福島第一原発事故が起きたからこそ、原発一般のアンチ<恐怖のリベラリズム>的意義に対し真摯な関心を向け得る健全な意識レベルへ到達できたという訳だ。その意味で、この余りにも恐るべき大震災が日本人へ齎したもう一つの不可解な奇禍(福島第一原発事故)は厳粛なる神の啓示(あるいは警告)とさえ言っても過言ではないのかも知れぬ。


しかし、我われの目前には、非常に困難で容易に治療し難い厄介な問題(原子マフィアの漆黒の病巣)が横たわっている。それは、ガン(既得権益)化しつつ全身へ広く侵潤し転移してしまった「原子村カルト汚染」という日本国内における邪悪な現象だけはなく、その恐るべき日本原子村の汚染・放射のおぞましき影響が、実は「CO2犯人説に基づく地球温暖化」対策という大義名分の下で、今や世界中に拡散・分布しているという真に恐るべき現実があることだ。


例えば、BRICS新興国における市場原理主義(トリクルダウン妄想)と原子カルトが複合化した超格差拡大主義による高度経済成長持続への意志、あるいはアメリカの如く民主主義政治の原理そのもの(市民革命史から発展してきた旧来のリベラリズム原理⇒オバマリベラリズムへ繋がる伝統)の限界という問題がある。


これは、まさに<21世紀型の新たな人権思想>である「恐怖のリベラリズム」への理解と啓蒙の世界的拡がりを図ることが急務であることを意味している。その意味では、米オバマ大統領といえども既に<過去の人>と言うべきである。なぜなら、世界第一の原発大国とされる米国でさえも対電力総需要量に占める原発の比率は20%程度なので、過剰な「CO2犯人説に基づく地球温暖化」の大義名分さえ引き下げれば、アメリカも原発なしで済ますことが可能なのだ。


<参考情報>


米原発業界を守るオバマ大統領の事情/やはり大統領には原子力発電業界を見捨てられない(水野 博泰/日経BIZ記者)、http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/437.html


電事連八木新会長「安全確保し原発推進」 、http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4701751.html


原発建設推進を維持/BRICS首脳会議が閉幕、 http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381959FE3E6E2E6E38DE3E6E2E6E0E2E3E39F9FEAE2E2E2


最も肝要なのは、先ず、原爆被爆(広島・長崎)と福島第一原発の被曝という三度にも及ぶ<人間の誤った原子力利用の結果としての阿鼻叫喚の悲惨な地獄>を経験した日本が、今こそ、全世界に向けて「核兵器原発利用の全面廃止」を明快に宣言することである。もし、今、このタイミングを逃せば、日本のみならず世界中の子どもたち(人類の未来世代)に対し日本国民が率先して果たすべき人道的・倫理的実践の機会を永遠に放擲することになるだろう。


そして、この最重要な観点を逸らす現下の「復興構想会議」は“群盲象を評す”(当用語を差別的なので排すべきだとの立場もあるようだが、toxandoriaはかくの如き薄っぺらな歴史・文化論的立場は採らない)となり、内外の人々に対し人道的レベルでの感銘を与えつつ、政府が言う「未来の世代に向けた有意義な創造的復興」を実現することなどは到底困難であるだろう。


(2−2)『原発』導入時の歴史的エピソード


(2−2−1)グランド・エピソード(ground episode)


宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書)によれば、20世紀における経済学史には「第一の危機」と「第二の危機」というプロセスがある。「第一の危機」は1930年代の大恐慌を契機とするものであり、当時の新古典派理論は理論と現実の両面で、その信頼性が殆ど失われた。しかし、この経済学の「第一の危機」はケインズ理論によって解決された。が、それから約半世紀経った1970年代に、世界の資本主義は再び大きな混乱に嵌り、その不均衡と不安定はケインズ理論から有効性を奪ってしまった。これが経済学の「第二の危機」である。


その経緯を少し具体的に見ると、世界の資本主義は1960年代の半ば頃から不安定化し始め市場の不均衡が一般化していたが、その直接の契機はヴェトナム戦争の泥沼化がもたらすインフレーション・失業増・国際収支悪化という米国経済のトリレンマであった。そして、この傾向は世界の主要な資本主義経済へ波及したため、いわゆるケインズ(オリジナル・ケインズ)主義的な財政・金郵政策は再び有効性を失ったと見なされることになった。


そして、1973年に起こった<石油危機>がこの経済学の「第二の危機」を決定的なステージ(宇沢弘文氏によれば不可逆的ステージ)へ追いやることになった。これは今からみれば真に不幸なことであったと思われるが、その後の世界の主流経済学が(特に米国の擬ケインズ主義≒新古典派マネタリズムなどから高度な金融工学技術の開発・利用へ)進む道は、ケインズ・サーカス(詳細参照→下記記事★)のジョーン・ロビンソンらの意図と全く異なるものとなってしまった。


★2011-02-07toxandoriaの日記、「財務省の論理」に洗脳されポピュリズム扇動で日本滅亡への先棒を担ぐ記者クラブメディアの無責任、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20110207


その決定的ステージとは、1970〜1980年代の半ば頃まで主に米国で進められた主流経済学の新たな研究方向で、それは反オリジナル・ケインズ主義的なものであり、端的に言ってしまえば既述の<擬ケインズ主義(ケインズ主義の一派を騙る擬装ケインズ主義)>と呼ばれるものであった。そして、その典型が<新自由主義(自由市場原理主義トリクルダウン理論マネタリズム、サプライサイド経済、合理的期待形成仮説など)>である。


ところで、実は、そもそものオリジナル・ケインズ主義が重視したのは、市場の合理的期待についての抽象的で過剰な推論・シミュレーション型の論理ではなく、むしろ地域社会・自然風土などとの歴史・環境的な繋がりや、それらがもたらす地域個性的な、言い換えれば、それは数学的論理や科学的推論では十分に掬い切れない、ある意味で非常に人間臭くメゾスコピック(mesoscopic/中間規模)なる存在論的な(関連参照→下記◆)経済要素の因果的繋がりということであった。


◆2008-08-13toxandoriaの日記、「触知型崇高美」への無理解で「擬装右翼の暴政」に凌辱される日本国民、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080813


しかし、米国の主流経済学が生み出した擬装ケインズ主義(≒新自由主義市場原理主義トリクルダウン理論マネタリズム、サプライサイド経済、合理的期待形成仮説など)は、市場における生産手段の私有制の徹底と自由原理主義的な資源配分メカニズムが持つメリットを最大限に評価しつつ、それを最大限に活用しようとするものであった。


それらの中でも、特に注視すべきはトリクルダウン理論(意図的に格差拡大を煽ることによって経済の持続的発展(上から下に滴り落ちる経済価値の拡大)を促すという特異な考え方=これは、小泉・竹中改革劇場の中核シナリオを支える理論でもあった)であり、その最大の弊害こそが、金融市場原理主義(高度な金融工学技術の成果)の暴走が巨大な破壊力を見せつけた、あのリーマンショックによる世界金融恐慌であったのだ(関連参照→下記記事▼)。


▼2011-03-02toxandoriaの日記、 国民・国庫ヒーヒー、大企業・高額所得層ウハウハの財界・財務省・マスコミ仕掛の舞台で踊るカラ菅内閣貧困ビジネス的断末魔、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20110302


このような意味での市場原理主義的(トリクルダウン理論的)な経済政策への過剰な傾斜は、1970年代の後半頃から世界的に顕著となるが、例えば、それは米国のレーガン政権、英国のサッチャー政権、日本の中曽根政権(→その完成期は小泉政権)では「新保守主義、民営化活力の利用、労働力の流動化(労働力のマリアビリティ/malleability)」なるキャッチフレーズの下で強力に押し進められることとなった。


そして、この「新保守主義」(新自由主義市場原理主義トリクルダウン理論)の強力な推進力となる出来事が<1973年の石油危機⇒対資源・エネルギー枯渇危機意識、地球環境意識の萌芽>と<経済学の第二の危機⇒その解決策としての米国における偽ケインズ主義の誕生>であることは、一般に余り意識されていないようだ。しかも、実は、原発の世界的普及・導入も、ほぼこの様な手段による「経済学の“第二の危機”のブレーク・スル―期」にほぼ重なることを我われは明確に自覚すべきだと思われる。


また、一般に原発の世界的普及の切欠となったのは地球温暖化対策に象徴される地球環境と有限な資源エネルギー保全のための原子力の平和利用であるとされてきた。が、近年において地球温暖化とCO2の因果に疑義が出始めたこともあるので、特に「世界的な原発導入」と「新保守主義新自由主義・自由原理主義市場原理主義トリクルダウン理論の導入⇒電力など基盤的な社会的共通資本についての政府による信用構築義務の放棄」という二つの出来事にオーバーラップする独特の胡散臭さ(自由原理・民営化の影に潜む既得権益の増殖傾向⇒原子マフィアによる原発利権の肥大化など)へも目を向けるべきと思われる。


例えば、これは周知のことであろうが、日本の原子力政策は「旧日米原子力利用協定(1968〜)」及び「新日米原子力利用協定(1982〜)」という強い縛りの下で進められてきた。そのため、1980年代において次世代(第4世代)型原子炉として有望視されていたトリウム熔融塩炉(脱プルトニウムチェルノブイリ型の如き重大事故は原理的に起きないとされる)の採用が「ロン・ヤス時代の日米関係」の友好関係維持のため政治的に排除されたらしい、というエピソードがある。


トリウム熔融塩炉についての客観的な技術レベルの評価はともかくとして、真相は原爆製造に役立たぬ脱プルトニウム原発では冷戦構造時代の盾として日本の役割が果たせぬとされたためらしい(出典、http://homepage2.nifty.com/w-hydroplus/info00b2.htm/関連参照→下記◆)但し、究極的にガラス固化するため原理的に重大事故を起こさぬとされる一方、過激反応するナトリウムを冷却に使う高速増殖炉を技術的に評価できる能力をtoxandoriaは持ち合わせないので、此処では情報紹介に止めておく。


◆2006.07.19・toxandoriaの日記、『原発革命』の著者、古川和男・博士が「フランス・パリのGIFフォーラム」で行った講演の要旨、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060719


◆2006.7.20toxandoriaの日記・トリウム熔融塩炉エネルギー協働システムに関する発展的なコレポン、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060720


ともかくも、このように1970年代以降の資本主義発展史のグランド・エピソード(ground episode)を概観すると、地球環境と有限な資源エネルギー保全大義とする現行の世界的な<原発の導入・拡大傾向>の影に潜む、ある特定の隠された意図が浮上してくる。


つまり、そこでは、リーマンショックで破綻し世界金融恐慌へ突入した金融工学技術の狂気の如き暴走パターンと同様に、経済学(第二次世界大戦後の資本主義経済)の“第二の危機”のブレーク・スル―を目指す新自由主義思想(市場原理主義トリクルダウン理論)をより有効化するための好都合な先導ツール(=多くの一般国民層をリーズナブルに説得できる切り札)として、非常に用意周到な計画の下で、原発が狡猾に利用されてきたという裏シナリオの存在疑義が膨らんでくるのだ。


(2−2−2)独・仏の関連エピソード=欧州における先見的な『恐怖のリベラリズム的』情報評価の視点の芽生え


<ドイツ>


国内発電量の約3割を原発に頼るドイツは、1998年に成立した「社会民主党(SPD)」と「緑の党」の連立政権が、その公約に従って脱原子力政策に取り組んできた歴史がある。その背景には、当時の世論調査で“原発を危険視するドイツ国民の割合が約8割に達していた”という現実がある。


その後、2005年9月の総選挙の結果を受けて「キリスト教民主同盟キリスト教社会同盟(CDU・CSU)」と「社会民主党(SPD)」の大連立で成立した新政権は、メルケル首相(CDU)の下で、経済政策ではSPDが大きな影響力を持つ体制で出発しながらも、「原子力ルネサンス」(地球温暖化防止を大義名分とする原発増設への回帰)へ傾斜する気配が台頭しつつあった。


しかし、ドイツ国民の約半数が「原子力ルネサンス」への傾斜に躊躇するなかで起こった福島第一原発の事故は、その風向きを完璧に逆転させてしまった。それどころか、ドイツ国内での反原発の動きに止まらず、欧州各国でも「緑の党」などの環境政党や市民団体が原子力発電への依存軽減を求める脱原発運動が活発化しつつある(情報源、
http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20110314k0000m030080000e.html


原発懐疑派が同様にかなり存在するドイツ(欧州)と日本の根本的な違いは、残念ながら日本には欧州における「緑の党」のような反原発政党が生まれなかったことだ。また、ドイツと比べ最も対照的なのは、日本では、ふんだんに巨費を投じメディアを巻き込んだ形での原子村(原発マフィア)サイドからの巧妙な広報活動が積極的に行われてきたという点だ。それは、例えば「日本広報学界」の会長を東電社長が務めてきたことが傍証している(関連参照→下記★)


★日本広報学界・組織図ほか、http://jsccs.jp/about/organization.html


我が日本では、このような原子村(原発マフィア)サイドからの巧妙な広報活動が功を奏してきたため、「原発の絶対安全神話」が広く国民一般のなかに浸透する一方で、緑の党的な市民活動などは、ともすれば、極左共産主義者アナーキストなどの偏見と白い目を周囲からぶつけられ、一般市民を巻き込む政治活動や緑の的な政党の誕生、つまり建設的な意味での原発を巡る議論には結び付きにくかった。これは真に不幸なことである(関連参照→下記▼)


▼反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク、http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?P=4&rt=nocnt


このような原発を巡る日本の偏った状況(⇒その典型事例は(プロローグ0)で引用した“白い目で見られるから反対と言えず、反対したいが入れるべき候補者がいない”という我が国の原発関連施設が立地する市町村住民の切実な声だ!)に対し、ドイツを始めとする欧州諸国には、反原発政党としての「緑の党」が存在する。


しかも、彼ら反原発あるいは環境政党の影響力は反原発に対してだけではない。ドイツでは、例えばフライブルクの如く太陽光発電を主軸とする電力分散供給型(今回の地震直後の度重なる広域停電の発生で日本の9電力会社による中央集権型の電力供給システムは、巨大地震等の自然災害に対し非常に脆弱であることが露呈した)の先進的な分散型エネルギー供給システムを備えたエコ・シティの実験などが活発に展開されている(関連参照→下記◆)


◆ソーラー都市フライブルク市と環 境、http://www.global-g.jp/paper/2-06.pdf


以上のようなドイツに代表される<アンチ原発を巡る欧州一般の健全な政治状況と一般市民意識の存在>は、別の言葉で言えば、それは既述の「恐怖のリベラリズム」意識の一部先取りということだ。そして、そのような状況は、米ソの覇権力に対峙するというド・ゴール主義の伝統下で原発大国を成立させたフランスでも、日本の如く、ひたすら一般の市民意識を洗脳するだけという訳には行かず、やはり、そこには「環境リスクコミュニケーション」(詳細後述)という形での「恐怖のリベラリズム」意識の先取り的な活動が存在してきたのである。


<フランス>


電力需要の約8割を原子力に頼る原発大国と認識されているフランスだが、実は対全発電容量(対全発電能力)で見れば約57%を原子力に頼っていることになる(出典、http://markethack.net/archives/51706272.html。フランスが原発利用へ大きく傾斜するようになった現実的契機は、他の欧米諸国や日本と同様に1970年代のエネルギー危機である。


しかし、それだけではない。つまり、その傾向を強く支えたのは、第二次世界大戦後のフランスが独自の核戦力を保持しつつ米ソに次ぐ第三勢力としての覇権力を維持しようとするド・ゴール主義(第二次世界大戦における救国の英雄、ド・ゴールが存在したことへの誇り)へのフランス国民一般の熱烈な支持にあったのだ。


これは既述のことだが、ウラン濃縮とプルトニウム関連の技術が核戦力の製造・保持能力と通底するのは周知のとおりである。つまり、世界第一級の原発大国となることは、独自の核戦力も保持可能な「戦時・平和利用両睨みの原子力大国フランス」として世界第一級の威信を構築することでもあったのだ。そのため、過去1000年に約1700回起こったとされる中で最大規模地震の約5倍の衝撃にも耐えられるようにフランスの原発は設計されてきたとされる(出典、同上)


しかし、そのフランスでも、近年は「高レベル放射性廃棄物の最終処分」と「より安全な次世代型原子炉の開発」なる二大問題への国民の関心が高まり、これらの課題に関わる原発リスク回避を巡って、市民一般の意識が二分されつつあった。従って、このように微妙なタイミングでのフランス国内状況に対する福島第一原発事故インパクトは無視できないものがある。


ともかくも、近年のフランスには、より広い観点から近未来の原子力利用のあり方について、「環境リスクコミュニケーション」という概念に従いつつ政府・行政・研究者・企業・メディア・一般国民らが、関連する情報を正確に共有し、スムースな相互理解を可能とする新たな制度の更新・創出へ腐心してきたという実績がある。この辺りの事情は、日本で見られる如き、原子マフィアが一方的にメディアを巻き込む邪険な広報戦略で国民一般を都合よく洗脳する構図とは異質である。


フランスの「環境リスクコミュニケーション」は、専門バカと揶揄されることすらある<タコ壺化or針の穴化した「専門家集団が犯すヒューマン・エラー」>に対し、衆知を活かしつつ厳しく持続的に検証することだ。いわば、それは専門バカが引き起こしかねない甚大な事故や災害を視野に入れた、一種の「恐怖のリベラリズム」の先取りということであった。言い換えれば、それは「人的なリスク恒常性の問題」を回避する究極の方法は<双方向コミュニケーションによるチェック以外にあり得ない>という余りにも常識的な視点の再確認である。


また、フランスでも「緑の党」や市民の目線に立つ中立的評価機関の役割が重視されており、その役割が政府によって公認されてきたという実績がある。例えば、原子力利用についての中立的評価機関(NGO)であるACRO(Association pour le Controle de la Radioactivite de l‘Ouest、http://www.acro.eu.org./accueil.htmlは、1994年に閉鎖された「ラマンシュ核廃棄物貯蔵センター(CSM)」の調査のためフランス政府が組織したCSM調査委員のメンバーに任命され、その調査結果を情報開示している。


ともかくも、福島第一原発事故の波紋はフランス国内でも原発反対デモなどの形で拡大しつつあり、サルコジ政権とアレヴァ社(世界一の原発メーカー)などフランス原発推進の枢軸は市民レベルからの厳しく鋭い批判への防戦に追われつつあり、一部では原発の是非についてのレファレンダム(国民投票)を求める声が高まっているようだ。そして、4月初めに行われた世論調査で<原発へのエネルギー依存度を減らすべきと答えた人が8割を超えた>ことは既述のとおりである。


<関連参考情報>


来年のフランス大統領選挙でも、原発問題はおおきな論点となるはずです(ね式)、http://bit.ly/elAR7B


(エピローグ)ポスト福島第一原発事故を考えるために・・・


当記事では、様々な角度から日々に発信される福島第一原発事故に関わる情報を取り上げつつ、可能な範囲でそれらを整理してみた。無論、このような記事が目前の深刻な原発事故の解決に役立つ筈もなく、今は、その非常に過酷な現場で、原発事故の終息へ向けて、命がけの仕事に日々取り組む勇敢な方々へ心からの応援をする以外に我われ一般国民には為す術がないことが残念である。


ただ、我が国における今後の原発政策のあり方について些かの展望を持つ位のことはできそうだ。そして、その根本に置くべき視点は、当記事の中でその輪郭が浮上してきたと思われる「恐怖のリベラリズム」という、現代民主主義国家の一員として必須の新たな主権者意識のことだ。


そして、肝要なのは(以下は、既述の繰り返しになるが・・・)、この「恐怖のリベラリズム」が、自然の破壊力も含めた危機的・暴力的状況(地震津波・噴火・台風あるいは原水爆化学兵器・遺伝子操作などの如き危険要素が非常に大きい先端科学知&科学技術・戦争・テロリズム・ジェノサイド、又はレイプ・殺人・拷問・猟奇行為など非人間的で苛烈な阿鼻叫喚の地獄絵図さながらの残酷さがもたらす一切)の<恐怖から逃れる自由>が最大限に確保可能な政治的・社会的条件の整備こそ、最も人間的(or人間環境倫理的)あるいは生物学的(人間も含む)な意味で万般の社会的条件に対し最優先されるべき民主主義政治の基本だという考え方であることだ。


それは、従来型の<近・現代における市民革命と資本主義経済の歴史>の中で深く認識されつつ進化してきた現代民主主義社会の発展プロセス基盤としてのリベラリズム(自由原理=王権等政治権力者の恣意的権力に対する精神的・経済的・人権的&身体的な自由)とは異質な<自由原理に関わる全く新しい認識>である。


つまり、それは、従来型の教科書に見られる人権思想と同義ではない。それは、先ず我われ人間が他の生物種と同様に“ある一定の限られた生態系”の中でしか生きられないということを前提とする。また、それは、アニミズム的な自然環境との一体感を感じ取ることができるか、あるいはメゾスコピック(mesoscopic/中間規模⇒個々の生物ごとの生存条件を規定する空間の大きさのこと。つまり生態学的に見れば各生物種が適応可能な自然空間はそれぞれ個性的なものとなる。従って、各生物種あるいは個体ごとに各中間規模が規定する現実について認識は異なるものとなる。)という意味で、身近な自然環境へ大いなる畏怖の念を抱く意識でもある。それは、我われが一般の生物の仲間たちと共有すべきもの、言い換えれば生物種の一員としてのベーシックな共通感覚であるとも言えよう。


このような意味で、新たに発見され明瞭に意識されるようになってきた自由の原理(新しく画期的な人権思想の発見)である「恐怖のリベラリズム」への理解を前提としつつ、原発政策の新しいあり方について幾つかの流れを凝視すると、例えば、以下に述べる如く非常に重要な方向性が浮かび上がってくる。


●日本政府は、新しい原発の設置計画を中止するとともに、福島・浜岡・敦賀・女川・伊方など<大地震の巣>に隣接・立地する既設原発&使用済核燃料処理施設(六ヶ所村)、および制御が非常に困難な“もんじゅ”型の高速増殖炉利用&開発方針の中止と即刻廃止を決断する。


●政治権力者(与野党の別を問わぬ)、電力会社、財界人、学者、官僚、大労組(特に民主党を支える連合は時の政権と交尾(つる)んできた原子マフィアの補完システムであり猛省すべき)、メディアら原子マフィア(原発に年平均0.5兆円の巨額税金を持続的に注入してきた既得権益保守システム)と日本国民は、今まで信じ込まされてきた「絶対安全でクリーンな原発でCO2を削減しつつトリクルダウン型日本経済の持続的発展が可能だ」という狂信(リーマンショック型金融パニックに通じる擬装ケインズ主義、新自由主義思想の詭弁に嵌った考え方)を捨て、エネルギー政策の革命的発想転換による健全な資本主義経済の発展土壌を創る。


●もう一つのカルト的信仰ともいえる「原発が最も廉価なエネルギーだ」という錯誤&詐欺的な考え方(CO2悪玉原理主義⇒つまり、廉価な原発による電力供給など実は嘘っぱちであり原子村(原発マフィア)の利権構造それ自体が累計で約20兆円規模の不良債権(0.5兆円×40年=20兆円)と化している<この恐るべき現実>を直視すべきだ/しかも、原発事故被害の巨額補償金等を含めれば、その不良債権規模は少なくとも30兆円超の巨額に膨れ上がる、これが何で安くて安全な原発の発電だと言えるのか!))を捨て、太陽光・風力・地熱・水力・バイオマスなどの利用を促進するとともに、現行の9電力会社による集権的で独占的な、しかも地震等の対自然災害で脆弱な<電力中央供給システム>を改め、地域分散供給システムかスマートグリッド型供給システムへ転換し、わが国のエネルギー安全保障と真にリーズナブルな電力供給体制を確保する。


●日本の科学技術の総力を結集して新技術開発ターゲットを省エネ技術へ思い切って特化し、先端科学技術開発の側面から世界でトップクラスのエネルギー(電気エネルギー需要)の省力化・高度効率化の実現を目指す。


●殆どの反原発関連訴訟を退けてきた日本の裁判所は、原発関連の訴訟で、今まで悉くさらけ出してきた<日本の裁判官自身の“原発の危険性”に関わる余りにも低劣な理解ぶり、不勉強ぶり>を猛省し、原発および原発関連施設周辺の活断層の存在、あるいは大地震発生可能性等についての地震学者・地質学者・歴史学者らの警告を素直に受け入れるべき。⇒同じ司法・法曹であるが、日弁連の下記の警告(◆)を無視してはならない。


東北地方太平洋沖地震による福島第一原子力発電所の事故に関する日弁連会長声明、http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/110325 2.html


●原子マフィア傘下の日本広報学会(会長=東電社長)の影響下で、連合(民主党支持基盤の大労組)と同じく同マフィアの補完システム役に甘んじて、CO2削減原理主義を梃子に原発の積極推進の旗振り役を担ってきた主要マスメディア(新聞・テレビ等)の責任は非常に重い。例えば、福島第一原発の過酷な事故の悪化傾向が日々に報じられているにも拘わらず、朝日の定例世論調査(4/16-4/17)の結果が未だに「原発を減らす・やめる41%」、「現状程度にとどめる51%」という結果が出たことに驚かされる(参照、下記▲/無論、この調査が固定電話方式であることを考慮すれば、対象標本が殆ど頑迷固陋化した高齢者層へ偏った結果だと思われるが・・・)。この危機感の希薄さは一体何か?それとも、朝日は、この段に至っても原子マフィア広報部の旗を振り続ける気なのか?ここに見られるのは、目前にある過酷な原発事故の責任の一端が自らの責任でもあるという事実と、日本国民必須の新たな主権者意識である「恐怖のリベラリズム」を先導し、かつ啓蒙するのが主要メディア本来の役割であるという自覚に欠けた、恐るべきほど堕落・荒廃した日本ジャーナリズムの精神環境のおぞましさだ。日本の主要メディアは、即刻、<原子マフィアの広報部→本来のジャーナリズム精神>への本格回帰のため徹底した意識改革を断行すべきだ。


原発「現状程度にとどめる」51%、原発「減らす・やめる」41%、 朝日新聞世論調査http://www.asahi.com/national/update/0417/TKY201104170324.html


【エピローグ動画】Cavatina - Piano Solo(Stanly Myers)