toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

アーカイブの役割とは何か?(Ⅲ)

[3]−1現代社会におけるアーカイブの役割(ガバナンス正統(当)性維持の意味)
   
 帝国であれ、絶対王政であれ、議会主義民主制であれ、「国家権力」にとって重要な要素を一つだけ挙げるとすれば、それは「国民(市民)の生命」ということです。また、年貢であれ、税収であれ、兵役であれ、健康な「国民(市民)の生命」の存在が前提となります。同じ意味で「国家権力」が次に求められるのは、その権力の「ガバナンス正統(当)性を維持する」ということです。「ガバナンス正統(当)性 の維持」にとって必要なことは、その正統(当)性を証明できる証拠を一般国民の眼前に示すことです。

 まず、この証拠の役割を果たしたのが宗教(神の権威)であり、それは、例えばアメリカのブッシュ政権を支える「キリスト教右派勢力」の存在のように、現代の民主主義国家でも重い矛盾(ジレンマ)を引きずる問題となっています。ともかくも、やがて誓約・協定・談合などの証拠として「公文書」(条約・誓約等の文書)が重視される時代に入ります。現在、国家の権威(ガバナンス正統(当)性)、または歴史アカデミズム(歴史学会の権威)にとって重要視せざるを得ないのが「歴史資料・史料」としての古文書(公文書、民間資料)であることは世界で広く認識されていることです。これは19世紀後半以降の実証重視の傾向(論理・実証主義)を反映したもので、これは歴史アカデミズムだけのことではなく近代の諸科学に共通のものです。

 残存する過去の遺物(古文書等)は歴史的な事実を解明するための手掛かりという意味で「史料」と呼ばれていますが、欧米では、これを「Documents or Sources(前者の原義は『知らせる』で後者は『湧水』のこと)」(英米仏)、または「Quellen/原義は『湧水』のこと」(独)と呼んでいます。先に見たとおり、近代的な意味でのアーカイブ公文書館)の制度が確立するのは、「フランス革命」(1789)後の1794年にアンシャン・レジーム時代(anciens regimes)の公文書や諸記録を保存・管理する目的で創設された「フランス国立中央文書館」に始まりますが、それ以前の時代は図書館・図書室と公文書館の区別は曖昧のままでした。(ただ、以下で述べるように、9世紀のカロリング朝フランク王国カール大帝の下でアーカイブ制度の先進事例が生まれています)

 近年の歴史アカデミズムの世界的な傾向は、人間の営みが生み出した凡ゆる痕跡を公文書と区別せずに等しく史料として取り扱うようになっていることです。少し前の歴史学ではほとんど無視同然であった絵画・彫刻等の芸術作品、あるいはドラマ・詩・小説等の文学作品、聖人伝や人物事跡禄などが注目されるようになっています。例えば、シェークスピア(William Shakespear/1564-1616)の『ヘンリー5世』、『ヘンリー6世』などの作品を歴史史料の観点で読み解き、「百年戦争」等の実像に少しでも近づこうとする取り組みなどが行われています。このような「史料」が評価されるのは、記述内容の真偽もさることながら、その「史料」の“存在自体が何らかの歴史的事実を反映している”と考えられるようになったからです。これは、後に「Appendix」で述べる「生命に刻印されたエクリチュール」の意味の重要性が漸く理解されつつあることでもあります。しかし、このような傾向が顕著なのは未だ欧米諸国に限られています。特に日本では、官民とも、この点に関する意識レベルが低劣なまま放置されています。

 また、このような意味で多角的に「史料」を評価した結果として歴史の実像が姿を表したとしても、それが実際にアカデミズムの世界で公認される迄には非常に複雑な手続きを踏む必要があるようです。例えば、これから述べる「ガロ・ロマン時代〜フランク王国」(およそ4〜9世紀頃)のヨーロッパ史、いわゆる中世前期の歴史が学校教科書で詳述されていないのは、この時代の歴史記述について未だこのような意味での手続きが必要なためだと思われます。それはともかく、この時代の歴史の概要を一瞥することは、アーカイブ制度の意義を考えるために必須と思われるので、フランク王国の歴史を中心に、この時代を概観してみることにします。

・・・ここから「『ガロ・ロマン時代〜フランク王国』(およそ4〜9世紀頃)の概観」の(始まり)・・・・

 西ローマ帝国が滅亡(476年)したあと、西欧世界は言語上の大混乱期に入ります。それは、ローマ帝国の政治権力体制が瓦解したことによって、今まで支配と統治のための言語として使われてきた古典ラテン語(ローマ時代の公式な文語)の権威が次第に弱まることになったからです。

 この時代に先行するガロ・ロマン時代(Gallo-Roman period/BC3世紀末〜AD476年)、つまり共和制ローマから帝政ローマ時代の滅亡までに至る約700年間の西欧世界の公式な言語(行政用語)は古典ラテン語でした。無論、この間のガリア地方(現在のフランス全土及びドイツ西・中部を中心とする地域)では、現代のフランス語・ドイツ語などにつながる地域言語・部族言語の変化が進行していました。そこで大きな役割を果たしたと思われるのが俗ラテン語(口語として使われていたラテン語)です。つまり、俗ラテン語は、この間にケルトやゲルマンの部族言語の変化に対して大きな影響を与え続けていた訳です。

 やがて、5世紀頃になるとガリア地方のケルト語は俗ラテン語の中で消滅したと考えられています。一方、イタリア半島に残った俗ラテン語はイタリア語の中核(原型)を形成することになるのです。そして、このような言語状況が進むガリアの地において、次第にフランス語とドイツ語の輪郭が立ち上がってきますが、このような変化が著しく進んだ時代は、フランク王国が成立・発展し滅亡するまでの時代にほぼ重なります。

 フランク王国は、中世ヨーロッパの前半に成立していたフランク族ゲルマン民族に属す/フランケン族ともいう)の王国です。481年頃、クロービス(Clovis/ca465〜511/サリー支族の王子)はライン川の北に住むフランク族の一派で自らが属するサリー支族、その下流に住むレミ支族及びリブリア支族などを統一してライン川を南へ渡り、当時トキサンドリア(Toxandoria)と呼ばれていたあたり(現在の北フランスのシェルデ川とベルギー地方に跨る地域/およそフランドル地方に重なる/ローマ時代からの重要拠点でローマの主力軍団が置かれた地域)から北フランス(ほぼ現在のイール・ド・フランス(中心地パリ/古称ルティティア)、シャンパーニュ、ロレーヌ地方に及ぶ地域)でメロヴィング朝フランク王国メロヴィングはクロービスの祖父の名メロービスから命名)を建国しました。

 その後、クロービスはチューリンゲン族を攻撃してフランク北部(現在の中部ドイツ)を押さえ、ブルグンド王国と同盟を結び現在の中部フランス・南フランス・北イタリアあたりの政治環境を安定させました。なお、ドイツのフランクフルト(Frankfurt am Main/ドイツ中西部・ヘッセン州最大の都市)も、6世紀に入って早々にクロービスがアラマン族(ゲルマンの支族)を南方へ駆逐してマイン川を渡った地点という意味で、この都市名が付けられました。

 このようにして、全ガリアの政治状況を安定させたクロービスは、496年のクリスマスの日にランス(Reims/シャンパーニュ地方・レミ支族(Remi)の中心都市/Remi→Reimsに転訛)の司教レミギウス采配下のランス大聖堂(ca5世紀〜 )で約300人の配下の兵士たちとともに洗礼及び塗油の儀式を受け、異端アリウス派から正統アタナシウス派キリスト教に改宗しました。このようにしてローマ教会と手を結んだフランク王国は異教徒を撃退しながら、その領土を拡大してゆきます。

 732年、フランクの分国アウストラシア(フランク王国の東北部、現在のシャンパーニュ周辺でランスが中心地)の宮宰(本来はメロヴィング家の家政を仕切る執事的な存在/王権の凋落とともに行政の実権を掌握)のカール・マルテル(Karl Martel/ca689-741)が“トウール・ポワティエ(間)の戦い”(戦場は未詳)でイベリア半島からピレネーを越えて侵入したウマイヤ朝イスラム軍を撃退します。

 更に、カール・マルテルの息子・小ピピン(Pippin3世/
Pippin der Jungere/714-768)は、ローマ教皇よりメロヴィング家から王位を簒奪することについての了承を得てカロリング朝カロリング朝は後になってからカール大帝の名を取って命名された)を興します。更に、小ピピンは息子カール(後のカール大帝)に命じてランゴバルド王国(6世紀に北イタリアで栄えたゲルマンの一派、ランゴバルド族の王国)を滅ぼし、その中心都市であったラヴェンナ周辺の土地をローマ教皇ハドリアヌス1世へ寄進し、これが教皇領の始まりとなりました。

 800年、ローマ教皇レオ3世は教皇領寄進を始めとするローマ教会への貢献を評価して、小ピピンを継いだカール大帝(Karl der Grosse/Charlemagne/742-814/身長195cmの体躯から命名)に「ローマ帝国の帝冠」を授けます。その結果、名目上ではあるにせよ、ここでローマ帝国が復活したことになり、同時にそれはフランク王国東ローマ帝国ビザンツ政権、ビザンツ文化圏)の影響から脱したことを意味するとともに、ローマ・キリスト教文化とゲルマン文化が本格的に融合したことを象徴する出来事でもありました。

 このような激動の時代(5世紀〜9世紀頃)の中で、古典ラテン語(文語ラテン語)は単語や正書法が著しく変化し、乱れ始めていました。しかし、ローマ時代に辺境の地とされたイングランドアイルランドには古典ラテン語の文化がそのままの形で保存されていました。このため、カール大帝イングランドアルクイン(Alquin/ca730-804/イングランド神学者)らの学者を招聘し、トウール、サン・ドニ、アーヘンなどにラテン語学校を建設して正統な古典ラテン文化の復興をめざしました。このため、カール大帝の時代はカロリング・ルネサンスとも呼ばれています。

 やがて、カール大帝の子であるルードヴィヒ1世・敬虔王(Ludwig1/Ludwig der Fromme/Louis le Pieux/778-840)が死ぬと、カール大帝の4人の孫たちの領土争いが始まり、843年のヴェルダン条約で、東フランク王国(現在のドイツ地方を中心とする国/ルードヴィヒ2世が統治)、西フランク王国アキテーヌ地方(同じルードヴィヒ1世の子、ピピンアキテーヌ王が統治)以外の現在の北・西部フランスに重なる国/シャルル禿頭王が統治)及び中部フランク王国(現在のオランダ・ベルギー・ブルゴーニュ・スイス・プロヴァンス・北イタリアを中心とする国/長兄であるロタール1世が統治)の三つの国に分裂しました。

 更に、ロタール1世が死ぬと中部フランク王国の領土は870年のメルセン条約で東西に分割され、結局、旧フランク王国の領土全体が現在のフランス(西フランク)、ドイツ(東フランク)、イタリア(北イタリア地方)の三つの地域に分かれることになりました。

・・・・ここで「『ガロ・ロマン時代〜フランク王国』(およそ4〜9世紀頃)の概観」の(終わり)・・・・