toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

アーカイブの役割とは何か?(Ⅴ)

toxandoria2005-03-10


[4]記録文書を廃棄しても「心のエクリチュール」は消せない


 今、最先端をきわめつつあるノイマン型コンピュータがチューリングマシン・テスト(Turing Machine -Test)の壁に突き当たっています。しかし、このような状況の中で、人工知能認知心理学の分野でコネクショニズム(connectionism)という考え方が注目されています。チューリングAlan M. Turing/1912-54)はイギリスの数学者で、第2次大戦中はドイツ軍の暗号(エニグマ/Enigma)解読の仕事に携わりました。戦後は国立物理学研究所(PL)やマンチェスター大学で計算機の設計や数値計算法を考案しています。ノイマン型コンピュータの基本原理は「計算主義」ということであり、そこにフランスの数学者・思想家であるパスカル(Blaise Pascal/1623-1662)が確立したとされる「確率」の概念を応用して高度なコンピュータの機能を引き出し、それを活用しながら人間の脳と同じような働き、つまり“人間並みの思考能力モデル”を探究するのが人工知能研究の仕事です。


 人間の思考能力レベルに到達した仮想コンピュータはチューリング・マシンと名づけられているのですが、人工知能研究の最先端では現在の「計算主義」に偏った研究手法の限界が意識されてきました。つまり、現状では、チューリングマシン・テストに合格するコンピュータは出来そうもないのです。因みに“人間らしい脳の働き”(人間らしい考え方)の特徴は何かと言えば、それは“エンドレスに代替案(無限に近い多様な考え方の選択肢)を生み出すことができる”ということです。そこでは、どうやら人間の心の働きに特徴的な“感情、情念”の要素を無視することができないようなのです。また、この“感情、情念”こそが“意志・創造力・想像力”などの原因となっている可能性のあることが少しづつ分かりかけています。この辺りの説明にピッタリの数場面を描いて見せたのが、スタンリー・キューブリックの古典的映画『2001年、宇宙の旅』です。ともかくも、最先端の脳科学・脳研究の成果によると、人間の脳の働きは「計算主義」とは全く異なる原理で機能しているらしいことが次第に分かりつつあるのです。


 「コネクショニズム・モデル」とは、脳の神経回路モデルを使って「記憶、パターン認識、推論、学習」などの人間らしい認知機能をコンピュータの中で実現しようという考え方です。その中核となるアイディアは「ニューロンクラスターの発火」という概念です。ここでは「発火」を「興奮」という言葉に置き換えてもよいと思われます。いずれにせよ脳が働く基本となっているのは膨大な数の神経細胞です。従って、脳を構成する主役はこの「神経細胞」なのですが、これは電気信号を発して情報をやりとりするという特殊な働きをしています。その数は大脳で数百億個、小脳で約1千億個、脳全体では千数百億個という膨大な数です。一つの神経細胞から長い「軸索」と木の枝のように複雑に分岐した短い「樹状突起」が伸びています。この突起が別の神経細胞とつながり合って複雑なネットワークである「神経回路」を形成しており、神経細胞の接合部位とその構造がシナプス(synapse)と呼ばれます。また、細胞体と軸索と樹状突起が一つの神経細胞の単位と考えられ、これが「ニューロン(神経単位)」と呼ばれています。
<注>軸索:受け取った電気信号を出力する機能を持つ「樹状突起の末端部分」の装置


 このような脳の「神経回路」の中には、特にニューロンが数多く集中して房のような形状(cluster)になっている部分があり、これが「ニューロンクラスター」(neuron cluster)と呼ばれます。各細胞体の大きさは、大きいものでは1/10ミリ以上ありますが小さなものはわずか1/200ミリしかありません。そして大脳には1立方ミリに約10万個の神経細胞が詰まっており、脳全体の神経細胞から出ている軸索や樹状突起をすべて繋ぐと100万kmの長さになります。これは地球の周囲(赤道)の長さ(約4万km)の25倍もの長大なスケールとなります。このように巨大で限りなく複雑な神経細胞のネットワークを電気信号がミリ秒単位の速さ(有髄神経で1秒間に約100mのスピード)で瞬時に駆け巡ることで、脳の高度な機能が営まれているのです。この「ニューロンクラスターの発火」という脳内での生理現象は脳神経についての科学的な観察の成果ですが、コンピュータの分野でも、この「ニューロンクラスターの発火」の原理と見做される「コネクショニスト・モデル」と名づけられたニューロン内部で働くアルゴリズムニューロンの軸索でフィードフォワード・タイプの情報伝達が機能する原理)でチューリング・マシンの限界をブレーク・スルーできるのではないか、と注目されているのです。


 もう少し詳しく、この「ニューロンクラスターの発火」の原理で情報が伝達される様子を見るためにニューロンクラスターの三つの階層モデル(入力層、媒介層、出力層)を想定してみます。この三つの層で行われる情報処理は、ある一つの層の上で実現されたニューロンクラスターの興奮(発火/活性化)パターンが次の層での活性化パターンに変換される(次の層を同様に変形させる)ことです。この時、入力層からの刺激(電気信号)によって変形した媒介層の興奮パターンは、媒介層における重み付け(媒介層に与えられる入力条件)によって形が決まります。同様にして出力層へも興奮パターンが伝わりますが、やはり、その形がどうなるかは出力層に与えられる入力条件によって決まります。結局、層から層へ伝わるニューロンクラスターの興奮の形状は、身体的な、あるいは脳全体の条件から各層へ“配分される重み付け”によって決定することになります。


 別の言い方をすれば、ノイマン型コンピュータの局在的なネットワークでは、それぞれの命令に対応する各部分が機能的に異なるものとして存在するため、ある特定の命令に伴う表象(この場合はニューロンクラスターの形状)は因果的な連鎖を保持する必要があります。ところが、このような 「コネクショニズム・モデル」では、特定の命令を表象するために必要な特定の部分や特定の状態は存在しません。そのネットワーク全体にコード化された命令情報は、ネットワーク全体に対して全体的に保持され、各部分には重み付けが配分されるのです。これは、分子生物学者・清水博氏が唱え、今や生命現象の中核的な概念として大いに注目されている「関係子」と「場の情報」の関係によく似ています。清水氏は、人間の存在を広範な生物界全体に位置づけて捉えなおし、生命の働きについては、その全体とのかかわりの中で生成的、関係的、多義的に理解すべきだと考えており、そのためのキーワードが「関係子」で、この関係子が発生させる生命のリズムの「引き込み現象」(スピノザの“延長”または認知心理学の“クオリア”(詳細は次の段落で・・・)との関連性?)に“いのち”というものの秘密を発見しようとしています。(「関係子」についての詳細は、Blog「http://blog.goo.ne.jp/remb/e/19ec7466a47885087e83ead0838e4ccf」を参照)


 今、「コネクショニズム・モデル」との関連で「クオリア」(Qualia/感覚質)という哲学的・認識論的な概念が認知心理学の分野で注目を浴びています。クオリアとは、我われが何事かを感じているときに伴って実感される、一定の持続的な独特の質感のことを意味する言葉です。分かり易い例を挙げれば、例えば我われがフェルメールの絵画を見たときに感じる、あの一種独特の持続するような質感(生命感、宗教感、美意識、生活感?)のことです。無論、フェルメールレンブラントの絵画だけがクオリアという価値を持つという意味ではなく、実は、我われは周囲の環境についての多様なクオリアを次々に“感じながら”日常生活を送っているのです。読書に疲れ、ふと窓の外を見ると果てしない青空が広がり、少し下に目をやれば風にゆらぐ新緑が視野に入ります。やがて、気がつくと周囲が元気な鳥たちの夥しい囀りで満ちていることに気づきます。あるいは、気が合う友人と久しぶりに街のカフェで、ブルーマウンテンのフレーバーを楽しみながら語り合っています。このような場面で我われは、空の青い色、そよぐ風、木々の緑、鳥たちの合唱、楽しげな友人の表情、コーヒーの香り・・・と、次々と変幻するクオリアを感じているはずです。このように考えてみると、この世界と森羅万象がクオリアという、ある種の“質的な情報”(スピノザが物的な性質の延長と言うもの)に満ち溢れていることが理解できるはずです。


 また、もしクオリアが我われの心の中で生じる一種の質的な「感覚」でもあるとすれば、それは脳内の「ニューロンクラスターの発火」と何らかの関係がある、と考えられています。これは未だ仮説的な話題ですが、「ニューロン・クラサスターの発火」によってできる形状は無限(amorphous)のパターンに変形することが可能であり、そのパターンの一つひとつは、我われが周辺環境の刺激(つまり物的なものが発する刺激、情報)によって獲得する個々のクオリアと1:1の関係で対応しているはずです。そして、無限の形状変化の可能性を持つ「ニューロンクラスターの発火」が対応するのは、現在起こりつつある外界(周辺環境)の出来事や造形芸術・パフォーマンスなどについてのイメージ表象や音声表象だけでなく、過去の記憶(イメージ表象)や文字・文章・記号などの抽象的な表象にも対応していると考えられるのです。哲学者デリダ(詳細は後述)は、特に前者(過去の記憶/イメージ表象)が“延長”と強いつながりを持つことに注目すべきだと主張しています。


 更に、身体的な、あるいは脳全体の条件から各層へ“配分される重み付け”が「ニューロンクラスターの発火」の興奮の形状に影響を与えることが分かってきています。近代哲学の祖として、今、見直されつつあるスピノザ(Baruch de Spinoza/1632-1677/17世紀オランダの哲学者)は、物質の存在に根ざす独特の持続的な感覚のことを「延長」と名づけ、感覚や感情と身体の関係を重視する哲学(心身並行論)を著書『エチカ』(生態倫理学)で論じ、その上で人間のモラル(実践倫理、道徳)を説いていますが、このスピノザの「延長」は、ほぼクオリアに近い概念だと理解することが可能です。また、この辺りから「感覚、情動、意志、創造力、想像力”の関係について新しい視座(エピステーメ)が見出されるのではないかと期待されています。また、「ニューロンクラスターの発火」と「クオリア」という新しい概念についての更なる探求は、個々の人間の脳内表象の作用メカニズムの解明だけの問題に留まらず、経営学応用心理学分野における「コミュニケーション論」(狭く言えばプレゼンテーション論)にも大きな影響を与える可能性があります。更に、イスラムのタブー(例えば、女が男たちの前でヴェールを脱ぎ生の声で歌うことを禁じていること、など)の意味を理解する手掛かりとなる可能性もあるようです。


 現代フランスの哲学者デリダ(Jacques Derridas/1930-2004)が、1960年代末の思想史上のパラダイム転換の時代に“脱構築”(deconstruction)の方法として唱えた「エクリチュール」(ecriture)という概念があります。デリダの仕事は、フッサール(Edmund Husserl/1859-1938/ドイツの哲学者)の現象学ソシュール(Ferdinand de Saussure/1857-1913/スイスの言語学者)の言語学を批判することから始まり、ついには現前のすべての形而上学の矛盾を暴く必要性に迫られて“脱構築”(deconstruction)の手法に辿り着きます。エクリチュールとは、平たく言えば“人間が書くという表現活動、書かれた文字や記号”あるいは“生きた人間が残す生命の軌跡”というような意味で使われており、英語の単語で言えば「write」に相当するフランス語です。デリダが、エクリチュールという言葉で“脱構築”しようとしたことを手短に纏めることはなかなか困難ですが、最も特徴的な点を指摘することは可能です。


 デリダは、ジャック・ラカン(Jacque Lacan/1901-1981/パリ・フロイト学派を創設したフランスの精神病理学者)の精神分析学の批判でエクリチュールの概念を使っています。デリダは、まずラカン精神分析学がイメージ(図像・形態表象)とシンボル(記号・文字・象徴)を混同していることを指摘します。更に、ラカンシニフィアン(signifiant/文字の記号的な機能、能記)を現実界の物質的なもの(スピノザが言う延長/クオリア)から切断してしまったことを批判します。この結果、エクリチュールの役割があまりにも理念的・抽象的なものに偏りすぎたと言います。別の言い方をすれば、これはシニフィエ(signifie/文字が現す意味・内容、所記)が、あまりにも象徴的なものの世界に舞い上がりすぎているということです。そのためラカン精神分析学では“無意識の世界は言語として構造化されている”というような誤解が導き出されるのです。また、デリダは“文字(言語)の理念性は文字(言語)の物質性と切り離すことができない”と言います。この“文字(言語)の物質性”ということはクオリア(あるいは延長)を連想させます。デリダは“文字(言語)の物質性から文字(言語)の理念性が立ち上がるメカニズムをこそ解明しなければならない”と説きます。そして、この「文字(言語)が持つ両義性」(象徴界と物質界の間を揺れ動くという意味)の中にある相互批判(相互評価)的な作用(“審級”の働きと言う)がもたらす結果(軌跡)を「エクリチュール」と定義します。このように見てくると、デリダの「エクリチュール」の概念が、人工知能認知心理学)の分野における「クオリア」や「ニューロンクラスターの発火」の考え方に接近していることが分かります。


 一般に「意志と創造性」は人間の精神活動の中で最も高度なものだと理解されています。ところが、直近の認知心理学精神病理学の知見によると、この人間の「意志と創造性」に最も大きな影響を与えるのが「情動」(一時的な激怒・欲情などの激しい感情)であることが解明されつつあります。今、このフィールドで注目されているのは“感情、情動、そして生理的な作用を基盤とする身体が脳の働きにどのような作用を及ぼしているのか”ということです。脳の中には、身体の各部分及びその全体の状況を継続的にモニターする領域が何ヶ所かあり、例えば「情動」が起こるということは、モニターする領域が身体状況の変化をキャッチしたことを意味します。また、そのような「変化」が「その変化の原因である対象」と共に「表象」されたものが「感情」だということになります。いずれにせよ、人間の心の働きの根底では、生物としての生理的欲望が基本となっている、つまり身体状態についての生理的感覚こそが「自己意識」、「感情」などが発生する本源であるという訳です。ところで、この「情動」の大きな特徴は“過去・現在・未来についての時間性が不確実だということ”です。別に言えば、「情動」では時間の感覚が通用しないということです。これは、例えば“夢の世界では直線的な時間の流れが無関係であること”、“欲情に駆られて前後のことを考えられなくなり我を忘れる、という表現が存在すること”、“世界中に残る神話の世界(情動と理性的意識の間の審級のエクリチュール)では、殆ど合理的な時間の流れが無視されていること”などから容易に納得できることです。これら新しい研究分野のクオリアに触れると、スタニスラフ・レム原作、監督・脚本アンドレイ・タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』(下記URL)は、このような人間の「意志、感情、生理的欲望」の精妙な関係、生命についての的を得た解釈を先取りしていたように思われてきます。


http://www.pcs.ne.jp/~yu/sf/solaris.html、映画『惑星ソラリス』(旧ソ連時代の作品)
http://posren.livedoor.com/detail-8624.html、映画『惑星ソラリス』(アメリカ映画、リメイク版)


 ところで、人間の様々な活動の中で最も強固な意志と創造的実行力(あるいは破壊的実行力?)が求められるのは政治権力者だと考えられます。従って、大方の政治権力者の「情動」の基盤である生理的欲求のエネルギーが野生の動物(野獣)に匹敵するほど強烈なものであることは想像に難くありません。そして、「情動」の性質が時間の流れについて不確実であることを考慮すれば、彼らの本性(本心)は「確実な過去と、まだ起きていない未来」という時間の順序などについては無頓着、無関心です。だから、我に返って理性が立ち戻り、自らの行為について“時間の合理性”が破綻していることに気付いた場合は、政治権力者として凡ゆる非合法的な手段を講じてでも、その「自ら招いた時間の矛盾」という「現実」を強引に捻じ曲げようとする意志が働きます。それは、政治権力者が自らの「情動」によって歴史的現実を捻じ曲げるか、あるいは消去しようとする、決して許すべきでない違法行為(法の支配の原則に逆らう反民主主義的な行為)です。しかしながら、このような“矛盾”を押し付けられた被権力的な立場の人間も心の中には権力者に負けない「情念」が存在します。従って、この弱い立場の人間の身体には「心のエクリチュール」を介して「強烈な負の情念」が沈潜することになります。悪徳と違法行為を犯した政治権力者の身体(物的・動物的現実)の「延長」がもたらす「ニューロンクラスターの発火」の共鳴・共振は、数多の人々に対する「負のクオリア」と化して広く国民(市民)一般の肉体(身体、脳)の中に「心のエクリチュール」を刻印することになります。やがて、この「強烈な負の情念」は、広く一般国民の肉体の奥深く(脳、身体)に沈潜することになります。しかも、それは決して“言語として構造化された無意識の世界”(ラカン)などではなく、“現実を強引に捻じ曲げた”政治権力者の「悪徳(政)のクオリア」が触発した「リアルな怨念の表象(エクリチュール)」なのです。従って、政治権力者たちは、国家的危機管理という観点からしても、このように、きわめてリアルな意味を持つ「心のエクリチュール」の問題を軽視すべきではありません。


 ここに、アーカイブ制度の重要な意味が立ち上がってきます。カール大帝時代のカロリング朝フランク王国(9世紀)でさえも、その「文書局」はフランク国王のガバナンス(統治権、統治能力)の正統(当)性を記した行政文書(公文書)を作成・保管するアーカイブ、つまり“現用・非現用の行政文書全体”を視野に入れて管理する権限が付与されたアーカイブであったのです。しかし、これは前にも述べたことですが、いつの時代でも、自らのガバナンス正統(当)性を誇示する意志と身勝手な政権維持の意図(情動、欲望)のために、政治権力者たちは、まずドキュメント(文書)に記録されたエクリチュールの操作(公文書、歴史資料などの廃棄・消去・書き換えなど)の可能性に目を凝らしているのです。そこでは、「現実の記録と事実の消去」だけに止まらず、政治権力者による積極的な「偽証の創作」(証拠のデッチあげ工作)さえ行われます。しかし、このような政治権力者による意図的で傲慢な「エクリチュールの操作」は、主権在民現代社会に生きる我われ一般国民の人間としての尊厳に対する冒涜であり、最も悪質な犯罪行為だと断言できます。


 現代の日本では「NHKの放送内容への政治権力による圧力」、「省庁再編時の旧大蔵省等中央官庁による公文書の廃棄」など、次々と政治・行政権力の暴走によるマスコミやアーカイブへの違法な「消去の圧力」が発生しています。しかし、政治権力者が最も恐れるべきことは、“現実を捻じ曲げた”政治権力者の「悪のクオリア」が触発した結果として、先ず被権力者(一般国民、市民など)サイドの脳内に押印される「怨念の表象のクオリア」は、一般国民(市民)の身体の奥深くに巣食う「表象の塊り」(重層的なニューロンクラスター発火パターンのエクリチュール)と化して沈潜・蓄積し、やがて、それは必ずリベンジ(revenge)のマグマとして発火し、煮えたぎることになるということです。為政者も国民も「フランス革命」(1789)前夜の「アンシャンレジーム」という、全人類に対する教訓的な時代の歴史を、もう一度想起すべきです。仮に政治権力者が「ドキュメントのエクリチュール」(公文書・歴史資料等の記録・データ)を神の名において、あるいは権力維持の野望から強引に消去できたとしても、人間の身体の奥深く刻み込まれたエクリチュール(現実と固く結びついた表象の軌跡)を消去することは絶対にできません。このような意味でのリアリティ(生命に刻印されたエクリチュール)は、地上の全人類が絶滅せぬ限りこの世界から消滅することはあり得ません。これこそが「情報の価値」を公理的に定義する場合の重要な意味なのです。逆に言えば、人類が滅亡した暁には“神の権威も情報の価値もヘッタクレも無くなる”ということです。


 かつて、アメリカのブッシュ大統領は“神の名において、「悪の枢軸イラク」を攻撃する”と発言しましたが、17世紀オランダの哲学者スピノザは、“汝はこの木の実(りんご)を食べてはならぬという神の言葉にひたすら恐れを抱いたアダムの理解は間違っている、なぜなら、全知全能である神の言葉の意味を人間であるアダムが理解できるはずがないではないか”という主旨のことを述べています。もし、神が全知全能であるとするなら、人間は全く歯が立たず、神の定めた運命をひたすら生きるしか術がないはずです。従って、もし神の前に立つ人間がいるとするなら、神の言葉を理解しようとするのではなく、全知全能の神の前で“寛容”の意味を噛みしめながら、自らの判断による自らの行動の結果に潔(いさぎよ)く責任を取る覚悟を決めるしか術がないはずです。そして、たとえ権力者であっても彼が人間である限りは同じ立場のはずです。従って“神の名において”などの神憑りな言葉を軽々しく口にする権力者は、詐欺師・ペテン師か狂人のいずれかということになります。


 従って、仮に全知全能の神が存在するとしても、現実の世界における「情報の価値」を左右できるのは、ささやかながらも貴重な生命を与えられて日常生活を送る人間たちです。このような意味で「情報」は人間が作り、人間が利用し、人間が評価すべきものです。というより、人間が作り、人間が利用し、人間が評価する以外に「情報」の存在に特別の意味はないのです。ましてや全知全能の神が「情報」など必要とするはずがありません。その「人間の情報活動」(人間のあらゆる活動が情報活動と考えられる)の軌跡こそが「文字のエクリチュール」であり、また「生命に刻印されたエクリチュール」です。現代社会における「アーカイブ制度の役割」は、このような意味でのエクリチュールの記録の中で、特に行政と国民のかかわりの領域での諸活動についての「ドキュメント」を公正な立場で管理・保全し、必要に応じて、国家の主権者たる一般国民(市民)に対して情報公開の形でサービスを提供するという役割を積極的に担うべきなのです。他方、非常に多義的で人間の生き様の中で多様に変幻する「生命に刻印されたエクリチュール」の方は、一般図書(文学作品等)及び芸術作品のような形で図書館、美術館などで保全・公開されることが望ましいということになる訳です。


[P.S.]


 これは関連論考(Ⅱ)でも触れたことですが、「SAA」(Society of American Archivists/アメリカ・アーキビスト協会)は、電子記録の保存だけでは今のところ不安があるので紙にプリント・アウトした記録文書を保存するようにとの勧告を出しています。このように電子記録とネットワークを積極的に生かしながら、電子記録媒体の永久保存という最も困難な課題に挑戦しつつあるのがアメリカの文書館の現在の姿です。


 一方、2005.3.2付・朝日新聞等の報道によると、バチカン教皇庁・図書館と凸版印刷㈱が共同で「パリンセスト」(再生羊皮紙/palimpsest)に書かれた古文書からデジタル解析技術で最初に書かれていた文字を再生するプロジェクトが開始しています。(下記URL、参照)「パリンセスト」から文字を再生する技術も注目すべきですが、エクリチュールを半永久的に保存する媒体についてのヒントが生まれる可能性もあるようです。デジタル時代の最先端にいるアメリカでも、エクリチュールを半永久的に保存する媒体は、なお未解決で困難な問題となっています。

<補足、2005.7.12>


 この短い論考から人間の「倫理」についての新たな視点が見えてくるように思われます。もし「ニューロンクラスターの発火モデル」やこの概念に近いと考えられる「関係子」(清水博)、「メディオン」(中村雄二郎)、「延長」(スピノザ)、「クオリア」などが人間の認知機能を十分に説明するものであるとするなら、例えば“どのような科学技術の進歩も容認してしまうための倫理”ではなく“人間社会のあるべき姿のための科学技術についての倫理”が考えられるはずです。また、同様に“当事者である二者間の取引上の正義を最重視する市場原理主義経済”ではなく“多数の第三者のための公正を重視する経済”が構想できるはずです。どうやら“人間は孤立して存在できない社会的な動物だ”というアリストテレス政治学』の古典的知見が、脳のはたらきに関する考え方の根本のために役立つようです。


 このような視点からすれば、あらゆる孤立した権力(政治権力、軍事力、警察力、経済力、アカデミズム、暴力的優位性、ジェンダー的優位性など)が、何故に倫理的観点を忘れ去り、やがて腐敗・堕落した状態に必ず堕ちてしまうのかが理解できます。そして、その原点に位置するものこそが「社会性を見失った脳のはたらき」ということです。しかし、希望はあります。それは、最先端の認知科学によると「関係子」、「メディオン」、「延長」、「クオリア」などの働きを通して新たなコミュニケーションの可能性を探ることが可能だということです。


 今の世界では引き続くテロに怯えるあまり“他の人を思い遣り、相手の立場でモノゴト考える”という精神環境が著しく傷つけられています。しかし、今こそ必要なのは心の温かさです。ただ、ここで注意すべきことがあります。それは、このような心の温かさをニューロンクラスターの発火を通して周辺へもたらすことができるのは、我われのような普通の人々だということです。あらゆる意味で追い詰められた立場にある「権力者やテロリスト」に“心の温かさ”を求めることは本末転倒です。普通の人々(一般市民)こそが“心の温かさ”を発信する主体であり続けなければならないのです。考えてもみてください、追い詰められて猜疑心の塊と化した権力者やテロリストが“心の温かさ”を先ず初めに持つことなどできるはずがありません。そのようなイニシアティブはバランス感覚を維持できる普通の人々の役割です。そして、これこそが「民主主義社会における異議申し立て」ということの一つのリアルな相貌であり、最も重要な“心の働かせ方”なのです。


<補足、2006.7.16>


日本通運、文書を電子化し原本と同時保管の業務を開始」(出典:2006.6.28、日本経済新聞


日本通運は企業が扱う契約書や顧客情報などの文書を電子化して原本と一緒に厳重保管する事業を7月から開始する。PUF(富士通の子会社/文書の電子化を分担)、トラステッド・ソリューションズ(情報保護サービスを分担)と共同で実施し、企業から引き取った文書の原本は日通が倉庫に保管する。


2008年から施行される「金融商品取引法」は、上場企業が経営判断の過程を記録した文書を保管することが求めている。利用企業はインターネットで容易に検索と閲覧ができる。


7月7日に成立した金融商品取引法(投資サービス法)は、投資家保護の徹底を目的とし、投資ファンドの規則や不公正な株式取引の罰則を盛り込んだ法律である。新会社法により、一般の上場企業も四半期ごとに財務諸表などの開示を義務付ける内部統制の強化が求まられている。情報開示によるアカウンタビリティの強化も求められるため、更に文書の電子化が進むと考えられる。