toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

王女マルゴの文化戦争(日本の詭弁政治の対極)


(注)これは、下記・Blog記事(■)の書き込み(▲)への「返事」を採録したものです。


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▲今少し、宗教戦争について調べているのですが、王妃マルゴとの関連性を知りたくてコメントしてみました。もしよかったら宗教戦争とマルゴの生き方についてコメントいただけないでしょうか? よろしくお願いします。



■「映画『イザベル・アジャーニの惑い』と「自由」であることの戸惑い(2/2)」
http://blog.goo.ne.jp/remb/e/f7404b5dbded29844b0a75c190723121


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「もしよかったら/フランスについて研究中」さんへ(返事)


 書き込みありがとうございます。それに、大変に興味深いご質問をいただき感謝します。構想なしで書き始めたため、とりとめないご返事となりますが、思ったことを書いてみます。


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 宗教戦争は「文化戦争」と言いかえた方が分かりやすいのではないかと思っています。なぜなら、我々は民族性、部族的伝統・慣習、政治・経済的支配力、学問・芸術的支配力(アカデミズム)などが渾然一体化した社会環境という現実の中で生きており、この事実は永遠に変わり得ないことです。一方、我々には過去の人々が体験した歴史遺産という貴重な財産があります。所詮、その遺産から解釈された歴史などは後知恵のフィクションに過ぎないという立場もあるでしょうが、一方で我々には可能な限り詳細でリアルな歴史的事実を裏付ける歴史資料(ドキュメント、一次資料)に接近しつつ、そこで悪戦苦闘した人々の「真の姿」を観察し、その中から人間の可能性にかかわる「知恵と真理」(インテリジェンス)を取り出して未来へ伝えてゆく役割があると思います。


 アンリ4世のフランス、ユグノー戦争時代(1562-98)のフランスを超俯瞰図的に見れば、洗練されたフィレンツェの「イタリア・ルネサンス文化」と未だにフランク王国(ゲルマンの部族王国)の残滓を引きずる「ヴァロワ朝オルレアン家)・フランス文化」との葛藤の時代です。それは、マルゴ(マルグリット・ド・ヴァロワ)の祖父フランソワ1世がフランス・ルネサンスの父であると自称し、イタリア・ルネサンスの天才レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスへ招いた頃から始まります。マルゴの母カトリーヌ・ド・メディシスは、フィレンツェの(小)ロレンツォ・デ・メディチウルビーノ公)の娘カテリーナ・デ・メディチとして生まれ、フランソア一世の次男アンリ・ド・ヴァロア(オルレアン公)の元へ14歳で嫁いでいます。カトリーヌ・ド・メディシスは、フランス宮廷へ洗練されたイタリアの風習・料理・衣装等を取り入れ芸術を新興する一方で毒薬(自然科学、化学)の研究や占星術天文学)にも凝っており、1558年にフランス国王に捧げられたノストラダムスの『予言書』(完全版)がカトリーヌ・ド・メディシスの目に止まっています。そして、翌1559年に国王アンリ2世は馬上槍試合の負傷がもとで死去します。


やがて、シャルル九世が即位すると彼女が摂政となり、以後30年にわたりヴァロア王家に君臨します。このように、彼女の周囲では血生臭い権謀術数が繰り返されたためカトリーヌには悪女のイメージが定着しています。


 確かに、彼女の周辺では不慮の事故や原因不明の死などが多発していますが、一方で彼女にはイタリア・ルネサンス文化の光彩と精花を文化の後進地・フランスへもたらしたという功績があります。このカトリーヌ・ド・メディシスの三女がマルゴで、あまり風采が上がらず悪女とされた母カトリーヌと異なり、彼女は絶世の美女であったとされています。母親のカトリーヌ・ド・メディシスの画策でマルゴはプロテスタントのナヴァール王アンリ・ド・ブルボン(後のアンリ4世)と政略結婚させられます。この結婚の当日に、祝福に集まったプロテスタントたちを宮廷に近い旧教徒勢力が虐殺した事件が1572年の「聖バルテルミーの虐殺」です。この結果フランスの宗教戦争が国中に拡大して16年に及ぶ内乱となりますが、アンリ4世が「ナントの勅令」(1598)を発したことで、この宗教戦争は終息します。


 結婚した後の混乱の中でアンリはパリを離れ、マルゴは、“上辺だけの家族”という仮面をかぶった母親や兄達の看視の中で囚人のような暮らしをすることになります。彼女自身はプロテスタントカソリックの仲介者としての努力をしたとされていますが、それがかえって陰謀と疑われ幽閉されたこともありました。奔放なマルゴには兄弟との近親相姦や多数の男性との性的関係の噂が多く残っています。兄のアンリ三世が亡くなると夫のアンリ・ド・ブルボンは国王アンリ4世として即位(1589)することになりブルボン朝が始まりました。しかし、この後、政治的に利用価値を失ったマルゴはフランス宮廷で必要とされなくなります。マルゴ自身は後継ぎの子供を産みたいと熱望していたようですが、夫アンリ4世は彼女との関係を拒み続けて、彼女と離婚することになり、もう一人のイタリア・ルネサンス文化の華であるマリー・ド・メディシスと再婚しています。その後マルゴはパリでの年金生活に入り、アンリ4世が暗殺(1610)された後になってからマリー・ド・メディシスとは友人関係を結びました。


 マリー・ド・メディシスは、ルーブル美術館の「メディシスの間」にあるルーベンスの大作『マリー・ド・メディシスの生涯』でよく知られていますが、大変に聡明で魅力的な女性であったようです。彼女は、メディチ家の傍系ながら絶対専制国家・トスカーナ公国(1537-1743)の君主として再生したメディチ家のコジモ1世の孫です(フランチェスコ1世の子)。このように見てくると、アンリ4世(1589〜)に始まり、17世紀の太陽王ルイ14世で絶頂期を迎えるブルボン朝・フランスの繁栄に光を与え続けたのが「フィレンツェの血と高度なルネサンス文化の光」であったことがわかります。マルゴ(マルグリット・ド・バロア)も母親カトリーヌに劣らずマルチ・リンガル(仏・伊・独・希・ラテン語など)であり、哲学・文芸・芸術など非常に幅の広い教養と国際感覚を身につけた女性であったようです。一方、この時代を政治力学の流れから見ればユグノー戦争に象徴されるように歴史の流れを大きく変えるエポック期(美術史のバロックにほぼ重なる)でもありました。そして、歴史上のエポックの重要性は、その余韻が遥かな時間の流れを超えて現代にまで及んでいるということにあります。


 そして、現代の世界では根本から見直し考え直すべきような事象や問題が次から次へと溢れ出しています。それは、今こそ、もう一度、我々が真剣に再考しなければならない思想、行動様式、愛情、勇気、文化などにまつわる多様な人間の情熱です。そして、このようなエポックの対比によって、我々は人間社会の定位点として役立つ知恵を学び、再発見し、新しい方向へ発展させることができるのです。それが、例えば「寛容」、「政教分離の原則」、「法の支配の原則」、「平和主義」、「自由主義」、「平等主義」、「民主主義」、「公益」、「市民社会」などの価値観です。ユグノー戦争、つまり「宗教戦争」の現実的な側面には「徴税権」をめぐる“王権と教皇権”の対立という、現代社会にも繋がることがあります。国の事情によって程度の差はあるものの、これが現代の世界では“政治権力者(与党政治家、官僚)と行動的市民層”との対決という図式にオーバーラップしているはずです。ところで、ユグノー戦争が終結する切欠となったアンリ4世の「ナントの勅令」の意義はどのような点にあるのでしょうか。


 アンリ4世は1593年にプロテスタントからカトリックに改宗しており、更に1598年の「ナントの勅令」でユグノーに大きな「信教の自由」を与えました。この時、アンリ4世の即位から「ナントの勅令」を発するまでの一連の政治的行為の権威的な裏づけとして使われたのが、古いゲルマン時代から続くフランク法典(厳密には、フランク王国の建設者サリ族のサリ法典)でした。新参のブルボン朝の箔付けにフランク族の古典的・歴史的な法典を持ち出したのです。ゲルマン法の解釈では、例えローマ教皇であっても、ゲルマン王の私有教会制度の下では一司教の立場に過ぎなかったのです。なぜなら、ゲルマン法では国王の権威が宗教的権威より上位ということになっていたからです。そして、この時こそカトリック教徒としての国王アンリ4世がカルバン派の新教徒(ユグノー)に信教の自由を認めるという、極めて画期的かつ効果的な『寛容政策』を演出することができた訳です。



 逆説的にいうと、この出来事は、それまでは如何に「政教分離」が困難であったかということの証です。つまり、宗教より上位に王権(政治権力)を立てなければ、全ての人々に対して説得力を持つ<宗教的寛容政策>は実行できなかったということです。無論、この時の政策は、「政教分離」そのものが目的ではなく、意図的にカトリックの国王となったアンリ4世がユグノーに信教の自由を認めるという苦肉の策を取ったのだと思います。この時、アンリ4世の内面では、いわば「王権信条主義」(「個人的な信仰」と「政治権力」を分離し、意識的に王権(政治権力)を信仰の上に置いた)の形で「政教分離」が実行されたのです。もし、アンリ4世ユグノーのままでユグノーに信教の自由を認めていれば、それは「政教一致」であり、なんら歴史的に画期的な意味が生まれないばかりか、カトリック側からの反発がもっと大きなものとなったはずです。だからこそ、この出来事は、その後「政教分離」の意義が広く認識されるようになるための第一歩であったと言えるのです。



 さて、王妃マルゴがこのような政治権力中枢のプロセスで、どのような役割を果たしたかは謎のままのようです。デュマの小説『マルゴ』などで、彼女はプロテスタントカソリックの仲介者としての努力を果たしたように描かれていますが・・・果たして事実はどうだったのでしょうか。しかし、少なくともカトリーヌ・ド・メディシス、マルグリット・ド・バロア(マルゴ)、アンリ4世などが生きたこのエポックの時代にこそ「寛容」と「政教分離」の意識がおぼろげながら姿を現してきたということが言えると思われます。無論、これらの価値が現代的な民主主義の根幹としての意味で使われたのではありませんが。



ほぼ同時代のネーデルラントでは「オランダ独立戦争」が進行していました。やがて、フランスの絶対王政太陽王ルイ14世で頂点(アンシャン・レジームの絶頂期)を迎えることになり、オランダ(独立宣言、1581年)のスピノザ哲学、グロティウスの国際法思想などが本格的に近代的な意味での「寛容」、「政教分離」、「市民意識」などの扉を開くことになります。しかし、政治的な演出に利用されたものであったとしても、このようなバロック期のフランスで「寛容」の意味が意識されるようになった背景には、カトリーヌ・ド・メディシス、マルグリット・ド・バロア(マルゴ)らによって伝えられたフィレンツェ・ルネッサンの文化の何らかの作用があったことが考えられます。


 ところで、今、筆者は、歴史を見る視点として、かつてリチャード・ドーキンスが著書『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店)で示した「ミーム」(meme/ドーキンスギリシア語のmimeme(模倣する)と英語のmemory(記憶する)から合成した造語)という概念に関心を持っています。この著書で、ドーキンスは次のように主張します。・・・遺伝子(ジーン/gene)は、自ら意志を持つわけではないが、永遠に自己複製を繰り返すという働きがあり、生物は、その遺伝子を運ぶビークル(乗り物)に過ぎない。また、遺伝子は細胞内の存在であるが、細胞の外の環境にも同じような自己複製の働きをするモノがある。・・・そして、ドーキンスは後者の概念を「ミーム」と名づけました。



 「ミーム」は、文化的価値評価とは一切無関係で、遺伝子と同様に“活力の優れたものだけが生き残る”(弱肉強食の論理)という唯一の原理に従って、自己複製の作業を繰り返します。ただ、「ミーム」は遺伝子と異なり、実に多種多様に変化・拡大・縮小しながら自己複製をします。しかし、私たちは、それを遺伝子のように形があるモノとして認識することはできません。なぜなら、それは脳の神経細胞の電気的刺激として存在するだけだからです。その主役は脳内表象による「模倣」という働きです。そして、21世紀に入った今、この「ミーム」はコンピュータなどの先端科学技術を介して、遂に「ジーン」(遺伝子)を支配する段階にまで到達したという訳です。



 また、リチャード・ブロディは著書『ミーム/心を操るウイルス』(講談社)で、ミームの種類を「識別ミーム」、「戦略ミーム」、「関連づけミーム」の三つに分類しています。考えてみれば、このようなミームの働きは人間にとって古典的存在である「ヒトの心の働き」そのものに他なりません。従って、ミームとは「環境」、「文化」、「宗教」、「経済」、「科学」、「政治」、「芸術」などと呼ばれる多種多様な形態の「言語情報」や「イメージ情報」としてヒトの心の外部世界にも広く存在する一次情報(文書・映像等のドキュメント情報)と二次情報(一次情報を効率的に検索するために工夫・加工された情報)に他ならないのです。 



 ところで、このようなミームの最も核心的な作用は何かといえば、それはヒトの「自我意識」の働きということになります。「ミーム」は、進化という偶然の累積がもたらした生物の「知覚系」と「記憶系」が脳神経回路の中で辛うじて絶妙なバランスをとりながら「自我意識」を中心に据えて、際限なく「模倣をくり返す働き」なのです。そのような、きわめて危うく、フラジャイルな(fragile/とても弱々しく壊れやすい)作用こそが「自我意識」の本質なのです。



 そこで、注視すべきことは、この弱々しく、きわめて不安定な「自我意識」を安定化させるのに必要なものこそが「歴史から学ぶ知恵」という基準点(歴史から学びつつ累積された価値観の総体)だということです。我々はこのような「歴史から学んだ基準点」をメジャー(尺度)として、現在の「自我意識の働き」を制御する必要があるのではないでしょうか? そして、この基準点なるものの代表的存在が「寛容」、「政教分離」、「法の支配の原則」、「平和主義」、「自由権」、「平等権」などの価値観なのです。そして、16世紀フランスのバロック時代のような「歴史のエポック」期こそ、これらの基準点となる価値観に揺籃の場を提供するのです。目を転じて近代日本の最大のエポック期と言えば、それは幕末〜明治までの時代です。安政の大獄桜田門外の変、長州征伐、大政奉還江戸幕府滅亡、戊辰戦争神仏分離令版籍奉還廃藩置県、学制発布、征韓論、地租改正、秩禄処分、金禄公債、西南戦争自由民権運動、国会開設の詔、大日本帝国憲法発布、帝国議会開催、教育勅語日清戦争、三国干渉、日露戦争・・・と歴史の項目を列挙するだけでも、この時代が大エポックであったことがわかります。



 特に、現在の我々は“王政復古で明治新政府が誕生したことの意味”を再考する必要があるようです。黒船という外交圧力によって大慌てで天皇統帥権の最高責任者に祭り上げたのではなかったか? 外交政策を進める視野も知恵も持たないまま、また「確固たる国家プラン」も描けぬままに、ひたすら外圧に弱い日本というイメージだけが残ってしまったのではなかったのか? その傾向を後押ししたための結果が、むやみやたらの西欧主義(福沢諭吉脱亜入欧)です。見方によっては、この時、日本の指導層(政治家、官僚、学者、財界人)は真剣に日本のアイデンティティを追求する意志を失っていたのかもしれません。そして、その行き着く先が天皇天皇の存在そのものには何の罪もない)を都合良く祭り上げる「官僚専制国家」(有司専制国家)、「ファシズム軍国主義」であり、そして「偏狭なナショナリズム」です。



 今、島崎藤村の長編小説『夜明け前』が特に注目されつつあります。これは幕末から明治に至る、まさに近代日本のエポック期、大動乱の時代に生きた木曾馬籠宿の旧家の当主・青山半蔵の苦難の一生(モデルは島崎の父)を描いたものです。実は、藤村がこの小説で探究したのは、この近代日本の動乱期に日本が見失ったものは何であったか、何故にこの時代の日本の指導者たちが西欧に学びながら「正しい国家像」を描くことができなかったのかを追求したものだと考えられるのです。ともかくも、歴史体験として貴重なエポック期に育ちつつあった本当の意味での近代化への芽は、無残にも二度に渡り、ことごとく摘み取られるか、無視同然の仕打ちを受けたのです。何やら、この辺りの経緯は今の日本の姿と政治状況にピタリと重なるようで不気味です。もし、今の日本が同じ過ちを犯しつつあるのだとするなら、二度目に体験したもう一つの近代のエポック、つまり第二次世界大戦という悲惨な歴史からも、我々は何も学ばなかったことになってしまいます。



 カトリーヌ・ド・メディシスやマルゴが洗練されたフィレンツェルネサンス文化をバロック期のフランスへ伝えた時、それは、ユグノー戦争下のどのようなプロセスで「寛容」の価値観をもたらしたのか? それは単に近代の精神がもたらした幻想に過ぎなかったのか? あるいは、史実に照らしたマルゴの実像はどのようなものであったのか? 当然のことながら、これらはすべて歴史資料(信頼性が高い一次情報を提供するドキュメント)次第だと思われます。欧米の歴史研究では、公文書館修道院、大学、王立アカデミーなどに対して、公文書を主体とした一次資料の公正な管理を要求するという意味でアーキビスト(archivist)の職業的な地位が高く評価されています。このように欧米ではアーキビストの存在(あるいはアーカイブ(archive)整備の問題)が国民一般に広く共有されているという良き伝統があります。一方、日本では近年の情報公開法が成立する時期に合わせて、多くの公文書が廃棄されたとされています。これでは、これからの日本の歴史の客観性など信頼できなくなります。



 現在、騒ぎになっている「NHK問題」など、いわゆるマスコミに対する政治権力側からの圧力の問題も、突き詰めればアーキビスト問題と根が同じです。“それはNHK内部の問題だ!”という政治権力者・トップの一声で、事の本質をカムフラージュしようとする動きが出ていることは、昨年のイラク戦争「日本人人質事件」関連で起こった「自己責任論」の暴発を彷彿とさせるものがあります。



 しかし、“騙されてはなりません! これは政治権力とマスコミ(NHK)の問題”なのです。つまり、日本の場合は、とにかく「政官の権力」が絶大で「政官の権力」は正義である、あるいは絶対であるというドグマから抜け切れていないのです。これは、近・現代の日本が「幕末から明治維新期の動乱」、「第二次世界大戦後の大混乱」という二大エポック期の経験から「民主主義」についてのインテリジェンス(知恵)を何も学習してこなかったということです。そして、今の日本では三度目の「誤ったナショナリズム」(ネオ・ファシズム)の不気味な産声が聞こえています。しかも、恐るべきことは、今の日本では17世紀フランス・バロック期の宗教戦争ユグノー戦争)で微かに芽生えた「寛容」の意味を理解できる人が殆ど存在しないと思われることです。



 このような意味で、マルゴ(マルグリット・ド・バロア)についての歴史的な真実を探ることは、きわめて現代の日本にもかかわりが大きいことだと思っています。



  本当に長く、とりとめない文章になりましたこと、お詫びいたします。



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フランスは移民を同化吸収する点では、現代の西欧民主主義諸国の中でもっとも寛容な国である。


そして、その対極にあるのがアメリカ合衆国である。


こうした現象を理解するためには、表面的なイデオロギーの領域を離れて、


人々の無意識的心性を規定する習俗体系の人類学的システムの分析から出発しなければならない。


エマニュエル・トッド著「移民の運命」より=




2005-3-14