toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「ヴェネツィア派の誕生」と歴史的リアリズムの意味(2/3)

<注>この記事で取り扱う絵画、アントニオ・ヴィバリーニ『玉座の聖母および聖者たち』、カルロ・クリヴェリ『受胎告知』、ティツァイアーノ『マグダラのマリア』については、HP『レンブラントの眼』の中のIndex2(http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/index2.htm)の画像をご参照願います。また、この後のヴェネツィア派の展開についても、同じHP『レンブラントの眼/Index2』の記述をご参照ください。

  

第二章 初期ヴェネツィア派の誕生



【画像】Carlo Crivelli(1430-1495)「Maria Magdalera/マグダラのマリア」ca.1487


 15世紀ルネッサンス期以降に最盛期を迎えるヴェネツィア派絵画の歴史はヤコポ・ベッリーニ(Jacopo Bellini/ca1400-ca1470)を開祖とするのが一般的な説明です。しかし、この初期ヴェネツィア派の時代で忘れることができないのが、ムラ-ノ島に工房を持ったアントニオ・ヴィバリ-ニ(Antonio Vivarini/ca1415-1476/85?)とムラ-ノ島出身の[カルロ・クリヴェリ](Carlo Crivelli/ca1430-1493/1500?)の二人です。


  アントニオ・ヴィバリ-ニは、いわゆるムラーノの一族で形成された画家集団「ヴィヴァリーニ派」で最初に登場する人物です。また、アントニオ・ヴィバリーニは、「国際ゴシック様式」(参照、Index1の記述)を代表する画家であるジェンテーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano/ca1370-1427)とピサネッロ(Pisanello/ca1395-1455)の影響を受けたと考えられています。しかし、アントニオ・ヴィバリーニは、その代表作とされる『玉座の聖母子』の前に立った鑑賞者ならば誰でも納得できることなのですが、国際ゴシック末期の様式から既に抜け出していたという意味では紛れもない“ヴェネチア派”の画家であったのです。


  この絵は、もともとヴェネチアのカリタ修道院(その一部が現在のアカデミア美術館)のための祭壇画として描かれたものです。画面の中央部分を大きく占めて金色に輝くマリアの玉座と装飾的で美しく、しかも右手からの射光が室内空間で乱反射しつつ共鳴し合うような繊細きわまりない静謐な細部描写を見る限り、国際ゴシック様式に特有のスタティック(形式的、固定的)な装飾表現が未だに残っています。また、線遠近法を無視した人物像の配置によってもゴシックの残滓を強く意識させられます。


  しかし、一方で玉座の上に掲げられた天蓋の支柱を支える4人の天使の仕種と表情は語らいながら街をそぞろ歩きする少女たちのようであり、何にもまして、幼児キリストをしっかり左手で押さえる聖母マリアの表情は柔らかな丸みを帯びた若い母親のものとなっており、しかも聖母子の顔には明るい光が射し込んでいます。また、画面の右側には豪奢な衣装を身に着けた教父アンブロシウスと聖アウグスティヌスが、左側には聖ヒエロニムスと聖グレゴリウスが立っていますが、彼らの表情も人間的で個性的な表情を見せています。そして、このように人間的で生きいきとした人物たちの周囲には煌くような色彩が、まさに妖しくもフラジャイルな「ヴェネツィアの色彩」が満ちています。


  同じく、ムラーノ島出身のカルロ・クリヴェリ(Carlo Crivelli/1430/31?-1493/1500?)は、1457年、船乗りの妻を誘拐したため姦通罪で6ヶ月の刑を宣告され、ムラーノ島を去りパドヴァに移り住むことになりましたが、その時パドヴァ派の巨匠マンテーニャの大きな影響を受けたとされています。


(注)マンテーニャ(Andrea Mantegna/1431-1505)
・・・1460年以降はマントヴァ公・ロドヴィコ=ゴンツァーガの宮廷画家となる。フィレンツェの天才彫刻家ドナテッロの影響を受けており、北イタリア初期ルネッサンスで最も優れた画家とされる。作風の特徴は、荘重、明確な描線、解剖学的で彫塑的な人体構成、空間幻覚(イリュージョン効果)の表現、古典・古代美術的表現など。初期の代表作がヴェローナのサン・ジェーノ寺院の祭壇画『玉座の聖母および聖者たち』であり、これは北イタリア美術で扱われた初めての「サクラ・コンベルサツィオーネ」(Sacra Conversazione/聖なる談話)の作例である。“広い景観を背に聖母が聖者たちと談話する”この集団図像は、15世紀以降、特に北イタリアで好んで描かれた一種の聖母図の典型となった。1474年にマントヴァ宮廷のスポーシ議場(宮廷会議室)(Camera degli Sposi)の壁画を描いたが、ここでは、美術史上で初めてイリュ-ジョン効果を用いる天井画を完成した。また、この天井画には美術史上で初めての「群像肖像」が見られる。更に、マンテーニャは銅板画でも優れた仕事(現存する真筆作品は少数だが・・・)をしており、イタリアの銅板画はマンテーニャによって大きな構図が初めて実現した。このため、ドイツ・ルネサンス最大の画家・銅板画家デューラー(Albrecht Duere/1471-1528)もマンテーニャから大きな影響を受けた。


  故郷ムラーノ島を長く離れることになったにもかかわらず、パドヴァ派、特にマンテーニャの大きな影響を受けたカルロ・クリヴェリは、ヴェネツィアムラーノ島)の個性的な空気と伝統の中で培った感性から極めて特異な画風を作り上げてゆきます。そのクリヴェリの傑作の一つとされるのが、板絵からカンヴァスに移行し展示されている『受胎告知』(ロンドン・ナショナルギャラリー)です。クリヴェリが晩年を過ごしたマルケ地方のアスコーリ(Ascoli Piceno、Marche)は、1482年に教皇シクストウス4世(Sixtus Ⅳ)から自治権が認められましたが、たまたま、その知らせが「受胎告知の祝日」(Annunciation Day、3月25日)に届いたため、これ以降は暫くの間サンタ・アヌンツィアータ寺院(Basilica della Santassima Annunziata)に向かう行列行進が行われるようになります。クリヴェリの『受胎告知』は、それから4年後に、この寺のために描かれたものです。


  この絵で、何よりも先ず目を引くのが、天空の聖なる雲の渦の中から発した一筋の黄金の光が建物の窓の上の小さな穴を通って一直線にマリアの頭上に向かう光景です。窓の外では、アスコーリの守護聖人である聖エミディウスが教会の建築模型(立体パース)を抱きながら天使の方を向いてマリアへの告知を促しているように見えます。この主役たちに負けないのが二階の手摺に掛けられた豪奢なオリエントの絨毯、精緻な異国風の模様で飾り尽くされた壁面、これも異国に住むような孔雀やその他の鳥たち・・・これら画面を満たすエキストラたちは、このクリヴェリの画面を不思議なエキゾティズムの情感で満たしている。一方、これら全ての図像と絵柄はパドヴァ派(マンテーニャ)の影響を受けて研ぎ澄まされた明快な描線と透視図法を駆使して、合理的に、かつ明快な計算に基づく堅牢な構図で描かれています。


  一方で最大の主人公であるマリアの姿は、どこまでも柔和で慎ましやかで美しく、生命力に溢れ、一人の人間としての生活感がある若い女性の姿で表現されています。色彩面では、長い時間の風化による退色の傾向を割り引いて見ると、天空から直線的に屋内に射しこむ黄金の光、マリアの衣装の赤と青、建物のフリーズと柱の赤、室内に懸かるカーテンの赤、孔雀と絨毯の華麗な彩色、天使と聖エミディウスの光沢ある贅沢な衣服など、この絵が完成したばかりの時の驚くほどの色彩の饗宴と厳しい遠近表現が演出する巧みなイリュージョン効果に、目を眩まされ大いに驚いたであろう人々の姿が想像されます。


  なお、このようなクリヴェリの鋭い描線と精緻な装飾が鮮やかな並置された色彩と結びついて、驚くべきほど斬新な発色を印象づける作品がアムステルダムのマウリッツ・ハイス美術館の『マグダラのマリア』(ca1480)です。これは、油彩技法の前に普及していたテンペラ(tempera/顔料を膠・卵・樹脂などで練った不透明絵具)で描かれたため、当然のこととして微妙な色調の変化や淡い陰影表現よりも強いくっきりとした描線が目立っています。しかし、ここでクレヴェリの手による豊かなヴェネツィアムラーノ)の光(色彩)は強さと繊細さを同時に表現するという奇跡的なイリュージョン効果をもたらしているのです。


  ヴェネツィア派の頂点を極めたティツィアーノが、それから約80〜90年後に描いた傑作『マグダラのマリア』(1560年代)と比較すると、クリヴェリの個性的な表現が際立つはずです。一方、ティツィアーノには高度に洗練された「ヴェネツィアの光」とともにバロック初期への胎動が感じられます。ともかくも、ネーデルラントとイタリアの天才画家たちによる、このような試行・工夫・創意が繰り返されながら、「ネーデルラント(オランダ)の光」と干渉・共鳴することで新たな生命力を得た「ヴェネツィアムラーノ)の光と色彩」は、近世・近代の外光派と色彩派へと向かう長い道を辿ることになりました。


 ところで、現代における優れたルネサンス研究者の一人と目される英国の女流美術史家リサ・ジャルディ-ヌ( Risa Jardine)は、著書『Worldly Goods』(1998、W.W.Norton)の中で、このクリヴェリの『受胎告知』の個性的な表現について次のように述べています。これを採録(部分訳)することで、前史を含めたヴェネツィア派の萌芽期における始祖たちへのオマージュとします。


・・・前部分、略・・・


 夥しいほど多くの貴重で高価な事物が、マリアが住まう建築物の外まで溢れている。見るからに貴重なものであることがわかる石や陶器製の壷には多くの植物が植栽されており、それらの高価な壷類は回廊の手摺の上に置かれている。右上の回廊の手摺にはオリエンタル風の敷物が掛けられており、それは回廊の外壁に装飾されたテラコッタ製の浮き彫りを部分的に隠している。その敷物の傍にはエキゾティックな孔雀が止まっている。


・・・途中、略・・・


  鳩の棲家だと思われる鳥籠の傍には、陶器製の壷に設えたもう一つの植栽が置かれている。遠方のアーチ橋の上では二人の人物がビジネス交渉を行っている。恐らく、彼らは仲買人か外国からやってきたビジネスマンなのであろう。この絵の前景では、神と神に選ばれた者(マリア)との間での精神的な交流(取引)が行われ、遠景の橋の上ではビジネス取引(交流)が行われている。そして、この遠景と前景の“交流・取引”(transaction)が、クリヴェリの絵の中ではイメージ的に共鳴し合い、合わせ鏡のような干渉の作用をもたらしている。


・・・途中、略・・・


  画中のトルコ経由で輸入されたペルシア絨毯は、このような絨毯を取り扱う商人の店先に吊るしてあった実物をモデルに描かれたのかもしれない。より現実的に考えれば、これらの絨毯類は、当地の親切な商人が貸し出した本物のペルシア絨毯を実際にクリヴェリが見て模写したものに違いないし、あるいは、その絨毯を貸してくれたのは、どこかの財産家のパトロンであったかもしれない。今では、このクリヴェリの絵は“ペルシア絨毯の歴史”についての貴重な証拠(記録)として、多くの専門家によって、よく利用されている。つまり、今日では、このクリヴェリの絵は“絨毯のデザイン”が15世紀中にどのような変遷を辿ったかを知るための貴重な歴史資料でもあることが理解されるようになった訳である。別に言うなら、この絵の中の「ペルシア絨毯」は、「聖母マリアの手と腕」を恰も生きた肉体のように見事に描いた技術と同等の力量を発揮して、画家クリヴェリが細心の精神力を注ぎながら巧みに写し取った『現実』(real)なのだということである。


・・・途中、略・・・


  たとえ専門家のような特別の関心を持たなくとも、これらの活きいきと描かれた珍しい事物の姿や形、そして豊かな装飾の中に我われの注意力はすっかり吸い込まれそうになる。また、この絵の中では聖母マリアの象徴的な属性がリアルに描かれている。例えば、棚に置かれたガラス製品はマリアの受胎の純潔さを表わしている。光そのものの性質を失わずに光がクリスタル・ガラスを透過する如く、聖母マリアは彼女の純潔を失うことなく子(キリスト)を宿したという訳である。


・・・途中、略・・・


  消費財に関する、クリヴェリのこの恐るべきほど正確な視覚リアリズムによる再現の対象は、イタリア半島の物産だけに限られてはいない。聖母マリアの身近には、世界中からあらゆるニーズの大きい商品が集められている。これらの様々な商品と物産は、およそ北フランスあたりからオスマン帝国にまで及ぶ広域な市場で活躍するイタリア交易商人たちの誇りを物語っている。そして、マリアの周囲には次のようなものが集まっている・・・イスタンブール経由で入ってきた使い心地がよさうなペルシア絨毯、部屋に架かっているアラス織りのカーテン、ヴェネツィア産の繊細で洗練されたガラス製品、スペイン半島内イスラム圏からやって来た金属製品、中国産の磁器と絹、ロンドンからやって来た広幅生地(broadcloth)など様々である。15世紀半ば頃までには財力(金銭)さえあれば手に入れることができるようになっていた貴重な日用品の数々を、クリヴェリは細心の配慮で描いている。クリヴェリの仕事の多くは、このようにエキゾティックでニーズが大きいものの世界を描くことに費やされている。多くの人々から祝福され支持された、当時の貿易商たちのグローバルな交易活動そのものがクレヴェリ自身にとっての実利に結びつくビジネスを提供していたのであった。つまり、この初期ルネッサンスの時代には、進取の心意気に溢れた「経済・交易・ビジネス活動」とピュアな「精神世界」の交流が、ごく当然のこととして日常的に行われていたのである。


・・・後部分、略・・・