toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「ヴェネツィア派の誕生」と歴史的リアリズムの意味(3/3) 

第三章 「ヴェネツィアの光、その現代的意味」

 フィレンツェヴェネツィアの交流という観点から、14〜15世紀の美術史を概観すると、まず『絵画論』の著者として名高い画家チェンニーノ・チェンニーニが「芸術の基本はディゼーニョ(素描)と色彩にある」と述べたことから始まります。チェンニーノはこの著書で、14世紀イタリアの画家たちの技法とジョットとの関係について論じています。ジョットはイタリア・ルネッサンス美術の先駆者で、静謐ながらも独特の生気に満ちた空間と現実感を創り上げた画家ですが、彼は、初めて従来の生硬な人物像から脱皮して人間的な動作と感情をもつ現実的な人物像の表現に成功しました。また、その人物の背後の建築物や風景も立体的で、彼以前の時代のものと比べれば、より現実的な空間を構成しています。

 チェンニーノは、ジョットが新時代のイタリア絵画の基礎を築き、その後のイタリア全土の画家たちに多大な影響を与えたと述べています。その後、ギベルティ(イタリア初期ルネッサンスの代表的な彫刻家の一人)、アルベルティ(美術理論家として15世紀の第一人者、著書『絵画論』、『建築論』)らも、基本的な美術の要素として<空間と物体の境界を示す線>を強調しました。このような基盤の上で15世紀にフィレンツェルネサンスが大きく開花したのです。また、これらの美術理論や描画技術の変化を後押しした背景には、ローマ教皇権の凋落傾向、ハンザ自治都市や北イタリア諸都市の繁栄と中産市民意識の萌芽、諸都市間における交易・交流活動の活発化などヨーロッパの中枢地域における本格的な近代への胎動があったのです。

 更に、イタリア文化の先進地フィレンツェの天才彫刻家ドナテッロの影響を受けた巨匠マンテーニャが、たまたまパドヴァで活動しており、そのパドヴァに逃避してきたカルロ・クリヴェリは、マンテーニャの大きな影響を受けることになったのです。やがて、クリヴェリがマンテーニャから学んだフィレンツェ流の理論や技法とヴェネツィアムラーノ島)の風土に根ざした伝統的・土着的な色彩感覚(ローマン・グラスのスペクトル光から派生した色彩感覚)を融合して、あの独特の“鋭い描線及び精緻な装飾”と“鮮やかな固有色”を併置することで、驚くべきほど斬新で個性的な発色技法(コロリスト・外光派などへ接近する技法)によるクリヴェリの個性的な作風を創造したのです。

 初期ヴェネツィア派の画家クリヴェリの恐るべきほど精確(細部まで正確で合理的な構図)でありながらも人間的な「リアリズムの視覚」の背後には、宗教・美意識・経済活動・市民生活などの見事な「融合と調和」ということがあります。その象徴として現れたのがクリヴェリの『受胎告知』の中の聖母マリアの“溢れるばかりの寛容と優しさを漂わせる若い女性の姿”です。ここに描かれている聖母マリアからエキセントリックで原理主義的な“狂気の宗教観”(歪んだ、狂気のリアリズム)を感じることはあり得ません。また、その文化・経済的な「融合と調和」の前史として、イタリアの画家アントネッロ・ダ・メッシーナネーデルラント地方に旅をし、その折に彼がヤン・ファン・アイクの強い影響を受けてイタリア(ヴェネツィア)に帰国したという歴史的事実が隠れています。

 このように美術史の上で決定的な意味を持つ文化交流のプロセスには、自然・風土・市民社会という広い意味でのローカル環境に根ざした個性的な二つの「文化の光」、つまり「オランダの光」と「ヴェネツィアの光」が極めて重要な役割を果たしていたのです。言い換えれば、ここでいう二つの「文化の光」とは、「歴史・伝統」と「目前の現実」(内外の世界環境)を同時に直視することが可能な、「理性と感性」に裏打ちされた「現実認識能力」という意味での「リアリズム感覚」のことです。

 更にいうなら、14〜15世紀頃のイタリア、フランス、ネーデルラントの経済活動を支えたのは、これらの地域の国々が主に地中海を介在させて行ったレヴァント(Levant)貿易です。この他に、15〜17世紀頃のオランダは北海貿易の主導権を掌握しており、併行して13〜16世紀には、リューベックハンブルグなど北ドイツの諸都市をハブ拠点とするハンザ同盟の貿易活動も活発に行われました。レヴァントは、エーゲ海及び地中海東岸の地方、特にシリア・レバノンイスラエル地域を指すイタリア語に由来する言葉で、“東方”(オリエントとほぼ同義)を意味しました。

 しかし、既にこの時代には東地中海貿易が行われる地域全体を漠然と指すようになっています。この前後の時代を俯瞰すると、西ヨーロッパの国々は、11世紀頃からイスラム世界やビザンツ東ローマ帝国)との間で交易活動を活発化させ、いわゆる「商業の復活」(ローマ帝国時代の復活の意味)の時代に入っていましたが、その拠点となった地域が「北イタリア」-「フランス」-「ネーデルラント」のネットワークです。その活動の担い手となったのが、ヴェネツィアジェノヴァフィレンツェ、ピサ、バルセロナブリュージュアントワープなどの諸都市(自治都市、都市国家など)です。このレヴァント貿易は、ヴァスコ・ダ・ガマの「インド航路開拓」(1498)を契機として「大航海時代」に入ると退潮期に差し掛かり、世界は近世・近代への歴史を本格的に歩むにことになります。

 ヨーロッパ中世後期から近世・近代の入り口に至る14〜17世紀頃の社会・経済の大変革を象徴する言葉を探すならば、それは「時間革命」(時計時間の普及による、質的・主観的な時間から物理学の対象としての客観的な時間への時間認識の変化)、「空間革命」(国土・領土・領域等の拡大による、主観的空間から客観的・地図的な空間認識への変化)、「交換革命」(貨幣・有価証券等の経済価値に関する交換手段の多様化による、主観的・質的な贈与関係から社会の支配原理としての交換関係への変化)ということになるでしょう。更に、現象面から見て、これらを集約して表現できる言葉を探せば、それが、20世紀末頃から現代の我われが否応なく経験させられつつある世界の「グローバリゼーション」ということに他なりません。

 「中世末期〜近世初頭の時代」と「現代」とを比較すると、人口規模、経済規模、情報伝達手段、移動・交通手段及びそれらの基盤たる科学・技術水準の高度化等の諸条件には、強いて喩えれば“地球全体と地上を這い回るアリ”のようなスケール上の落差があります。しかし、「人間」の本性と「時間・空間・交換」という社会的、経済的変革の三つの必要条件の本質部分は何も変わっていないのです。つまり、時間・空間・交換についての受容主体が相変わらず人間であり、その受容主体たる「人間」と「三条件」の間に介在するのが「論理」、「感性」、「感情」なのです。このように見れば、生命ある人間にとっての「現実とのかかわり方」(リアリズム)は昔も今も変わりようがないはずです。また、人間にとっての「現実とのかかわり方」で重要なことは、「論理+感情」のコミュニケーション・レベルを「論理+感性」のコミュニケーション・レベルまで昇華し、ソフィスティケイトすることです。ここから「寛容」の精神と「公正」の価値などへの理解、及びアンチ「専制攻撃論」の立場や「平和主義」についての理解が深まり、これらの「公共善」的な価値観がやがて共有されるようになるのです。

 ところで、いささか古い話ですが、2003.12.25付朝日新聞に『(アメリカは)自らの民主化こそ必要という』という注目すべき内容の記事が掲載されていました。日本思想史を専攻するオーストラリア国立大学教授テッサ・モーリス・スズキ女史の記述によるものですが、1990年にアメリカ合衆国ミズーリ州にあるフルトンという小さな町で、レーガン大統領が冷戦の勝利を祝福する記念碑の除幕式に臨んでいました。「鉄のカーテン」の名付け親であったチャーチルの孫娘が、ベルリンの壁の破片でこの町に記念碑を作っていたのです。

 レーガンは、この時の演説で「アメリカは“ある神聖な使命を帯びた特別な国”であり、世界中の神の子(人々)が、いかなる障壁もなしに生きられる日が訪れるまで我々は更に励まなければならない。また、その日こそ、歴史上最も偉大な「(アメリカ)帝国」が完成する時でもある。」と述べています。このレーガンの言葉には、現在、世界で起こっていることの予兆が見られるとテッサ女史は語ります。つまり、レーガンアメリカ民主主義の世界的な勝利(冷戦の終結)を宣言した時、そのアメリカの民主主義が持つ重大な欠陥が露になったのです。

 テッサ女史は続けて次のように語ります。
・・・だが現実に起こったのは、レーガンがフルトンの演説で称揚した「国益」構想による国連の無力化であり、国際法理念の事実上の無視である。すなわち、レーガン及びその後継者たちが定義する「アメリカの民主主義の勝利」とは、地球レベルでは「民主主義の不備の強制」に他ならなかった。そればかりかレーガンナショナリズムは、極端な貧富差の拡大が現れるなどアメリカ自身の民主主義をも侵食した。注目すべきは、レーガンは逆に移民受け入れの自由化に強力に反対した大統領でもあった点だ。アメリカの権力者たちが描く自画像は「我々が世界のリアリズム(現実)」なのであり、従って外部世界(アメリカ以外の多元的な世界)から学ぶ必要もなければ異邦の声に耳を傾ける必要もない。また、アメリカの民主主義は衰退していると『ダウンサイジング・デモクラシー』の著者M.クレンソンとB.ギンズバーグが示唆している。この本で著者は次のように指摘する。アメリカでは“公共領域にあるはずの政治が権力者たちにより私益化(私物化)される現象の進行が見られるが、レーガンパパ・ブッシュという二人の大統領によって、それが急激に加速された。そこでは、テロとの戦いイラク侵略といった出来事で見られる無定形な「愛国心」の発揚に「市民」たちは集合的に鼓舞される。“アメリカの社会に内在し、その社会の方向を転換しうる“異議申し立ての声”(dissent)を見つけ出し、国際(市民)ネットワークの構築によって拡声することは、外部世界に住む者にとってもきわめて重要である。アメリカで間断なく繰り返される「愛国心」の掛け声の下からは、まだ今でも、その“異議申し立ての声”が聞こえてくるのだ。しかし、レーガンとその後継者たちが継承した政策の多くは、超大国が、その属性としてもつ「傲慢」の永い伝統によって築かれたものだ。多くの“異議申し立ての声”(dissent)が、今は一時的に無視されているが、それはアメリカの永い伝統(アメリカという特殊な民主主義国家の伝統)の上にあるものなのだ。今のような「(不完全な)アメリカの民主主義を(正しい方向へ)民主化すること」は、外部世界に住む者たちの希望であるとともに、世界中の人々の義務でもある。冷戦は終結したかもしれない。しかし、冷戦後の(本物の)民主主義への長い長い道程は、今やっと始まったばかりである。・・・

 1990年代に入ったばかりの頃(レーガンを引き継いだパパ・ブッシュの時代)ですが、このような正鵠を射た「現実(リアリズム)認識」の声の拡大を危惧した「アメリカの保守主義者」たちは、意図的に「二つの敵」をつくる作戦を着想しました。無論、それは冷戦構造の終焉(ソ連崩壊)によって「共産主義」という強大な仮想敵に代わるべく着想されたものでもあります。一つ目の敵は「リベラル派」で、もうひとつの攻撃ターゲットは、そのリベラル派が支配する「文化」です。中岡 望著『アメリ保守革命』(中公新書ラクレ)によると、パパ・ブッシュを大統領候補に選んだ1992年の共和党大会で、パット・ブキャナン(レーガン政権を支えた二大保守勢力の一つペイリオコン(Peleo-conservatismの略称/彼らの祖先たちがヨーロッパを逃れて大陸に到達した時以来の古い伝統的な保守主義の立場/都会派のインテリで極左から転向したネオコンとは対照的な存在で、彼らの支持基盤は中西部と南部の保守層)を代表する人物)は次のように述べています。
・・・「わが国ではアメリカ精神をめぐって「文化戦争」が展開中であり、「文化戦争」は冷戦と同じくらいアメリカにとって重要である」・・・

 また、ネオコンたちも“ソ連崩壊後も全体主義思想が死んではいない。経済的自由、ブルジョア的な価値観、コミュニティの連帯は実現していない。リベラルな思想に染まった文化的エリートたちが、依然、文化を支配している”と主張して「文化戦争」の必要性を説くようになっていました。つまり、この頃からアメリカ国内に「狂ったリアリズム意識」が広がり始めたといえるのです。

 このような、アメリカにおける「狂ったリアリズム意識」の最も目立つ形での帰結(成果)が、今や、ますます混迷を深めつつある「イラク戦争」です。また、あまり目立ちませんがブッシュ政権下のアメリカ国内では「アーキビスト問題」という「文化戦争」が起こっています。(この問題の詳細についてはBlog『ベスのひとりごと/現代市民社会の現実(リアリズム)を考える』http://takaya.blogtribe.org/entry-2ff7664ef5d89c31e4f549022bc7fe06.htmlを参照)つまり、アメリカのブッシュ政権が「国際刑事裁判所」(International Criminal Court)、「国連」(United Nations)あるいは全地球的な環境基準たる「京都議定書」などの国際協力(国際法)に基づく枠組み(諸制度)を無視して強引に「一国主義政策」を進める背景には、この「文化戦争」を神(キリスト)の名において戦い抜くという「狂ったリアリズム意識」(キリスト教原理主義)に基づく基本戦略が存在するからです。ネオコンが信奉する「リバタリアニズム」(自由原理主義、グローバル市場経済原理主義)とペイリオコンが信奉する「キリスト教原理主義的な宗教信念、官僚的ヒエラルキー信奉、権威主義信奉」は、本来ならば矛盾・敵対するはずの価値観なのですが、この点は奇妙なこと(ご都合主義的?)にネジレており、いわば歪んで倒錯した形で病的に癒着(談合)しているのです。

 そして、このように病的に歪んだ「文化戦争」の行く先にあるのは地球上の多元的な「文化の殲滅」(カルチャー・クレンジング/Calture-Cleansing)であり、やがて、それは「民族浄化」(地球上のあらゆる異端者の殲滅)につながる恐れがあります。なぜなら、文化を構成する根本を個別要素的に捉えて見れば、それは宗教・哲学・倫理・美学などの価値体系に他ならないからです。また、それは「民族」が“文化的な個別要素の集合概念”であることからも必然の帰結だといえます。このような訳で、ブッシュ政権ネオコン&ペイリオコンの癒着政権)の「先制攻撃で世界を民主化するという論理」は本質的に非人間的で「狂ったリアリズム意識」がもたらしたのだといえるのです。また、「文化戦争」は、数多の人々の脳内表象を敵に回すことであるため、具体的な敵が目に見えるはずがなく、まことに絶望的な戦争となります。それ故にこそ、具体的な敵として「テロリストの存在」が必要になったともいえるのです。

 いわば、「テロリスト」や「悪の枢軸」は“文字どおり”の「必要悪」なのかもしれません。テロリスト発生の予防のためには、本来ならば資本主義の欠陥を自覚しつつ地球上の経済格差(貧富差の拡大)を防ぐ手立てに取り組むことが先決であり、それが最短コースのはずなのですが・・・。例えば、フランスには、“資本主義は各国や地域の制度や習慣の上に育つべきものだ”という視点から、アメリカ発のグローバル市場原理主義に異議(アメリカの資本主義には欠陥があるとの異議)を唱える「レギュラシオン理論」の立場から新たな資本主義を模索・追求する学者グループが存在し、その代表的な学者がロベール・ボワイエ教授(フランス数理経済計画予測研究所)です。彼らは、資本主義を生み出す様々な社会的制度(基盤)を重視し、労使関係、国家制度、法体系などの「制度」(レギュラシオン)の調整を経て経済は機能するのだと主張しています。(詳細については2004.12.19付・朝日新聞の記事を参照)

 生命ある人間にとって昔も今も変わりようがない「現実とのかかわり方」(リアリズム)のヴァリエーション(人間と社会・経済環境とのかかわり方)の可能性は無限のはずであり、これが「文化」の多元性を保証し、人間社会の無限の発展可能性を保証するのです。従って、アメリカ・ブッシュ政権の病的に歪んだ「狂気の文化戦争」(テロとの戦い)の行く先にあるターゲットは、必然的に、地球上の多元的で多様な「文化の殲滅」(カルチャー・クレンジング/Calture-Cleansing)とならざるを得ないのです。これこそが、「思いやりの保守主義」を標榜するブッシュ政権の大いなる自己矛盾です。

 このように見てくると、アメリカの民主主義(アメリカの資本主義社会)が持つ重大な欠陥が、実はレーガン政権以降ずっと引きずってきた「現実との歪んだかかわり方」、つまり「誤ったリアリズム観」であることが明らかになります。ところが、このことについて、少なくとも約半数のアメリカ国民は気づいています。そのため、今回の大統領選挙でブッシュが再選されたとはいえ、見方次第では、一期目と同様に約半数に近い国民の批判を浴びている訳であり、その厳しい国民の監視の眼の中で第二期目のブッシュ政権がスタートしたことになるのです。

 ところで、時の政権を批判する国民(市民)の目、言い換えれば主権在民の権利意識に目覚めた行動的市民層の存在が重要であることを認識しているのはアメリカ合衆国の約半数の国民だけではありません。イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、オランダを始めとする殆どのヨーロッパ諸国では、このような本物の民主主義意識が、いわば深く地中に根を張った普遍的な「文化」として根付いています。また、そのような市民の良識の受け皿となっているのが社会民主党労働党系の政党です。これと比べてわが国の現状は恐るべきことになっています。政治的な意味で無自覚な無党派層(無自覚で他人まかせなポピュリスト層)が増えるばかりで、肝心の「自覚的な権利意識」と「行動的市民層」の存在感は希薄であり、社会民主党系政党の支持基盤も弱体です。マスコミが煽ったため「自民・公明連立与党」対「民主党」という二大政党を期待させるような構図が一応ありますが、アメリカやヨーロッパ諸国に見られるような、政権与党に対する厳しい批判の目が政権与党との間で拮抗するような場面は殆ど見ることができません。それどころか、時折、政権与党と民主党が見えないところで馴れ合って(談合して?)いることを疑わせるようなシーンを見せつけられることさえあります。

 このように見てくると、日本だけが、ある程度以上の経済発展を伴う先進諸国の中で「行動的市民層」の存在が異常に小さいことがわかります。そればかりか、「世界市民」意識のネットワークを創り、国際法中心の世界政治を実現するための前提となる「討議デモクラシー」(市民社会の討議がある程度は政治に影響を与えるべきだとする考え方、及びその実践のこと)の必要性を意識する市民層が、わが国では皆無に近いといえます。ユルゲン・ハーバーマス(J・gen Habermas/ 1929〜 /フランクフルト学派・第二世代のドイツの社会学者)によると、「討議デモクラシー」に期待される役割の一つに「市民的不服従の権利」(中枢政治権力の暴政化を抑止するため、一般市民・国民が合法的・民主的に政治へ参加し抵抗できる権利)ということがあります。テロリズムだけが「社会的弱者や最貧者」の抵抗手段ではなく、「民主主義政治への直接的な参加プロセス」の中で彼ら「弱者」や「一般市民」が自らの意思を政治に対する大きな影響力として実現する手段はあるのです。この点について人間としての、あらん限りの知恵を絞るべきです。

 しかし、日本政府(小泉首相)が軽薄なワンフレーズ・ポリテクスを繰り返して「テロとの戦い」と「市場原理主義&民営化」一辺倒のままでブッシュの異常な「狂気のリアリズム」に追従し、無節操・無責任なマスコミに煽られた日本国民(市民)の7〜8割がいともたやすく右へ傾斜し続けるかぎり、この世界に間違いなく存在する、もう一つの「真のリアリズム」は目に入らず、近未来の日本は、いま台頭しつつあるネオ・ナショナリストやネオ・ファシストの餌食になる恐れさえあるのです。まことに愚かであり悲しむべきことです。このような世界に跋扈する「狂気のリアリズム」 を批判するためにこそ、今、我われは「ヴェネツィアの光」 の意味を学び直すべきだと思われます。