toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「オランダの光」の伝説(revised、3/6)

 映画『オランダの光』(制作2003年、94分、11/3〜12/17に東京都写真美術館で上映)のピーターリム・デ・クローン監督によると、「オランダの光」という概念が広く人々に認識されるようになるのは19世紀半ば以降のことで、それは17世紀のオランダ絵画が再評価(再発見)されるようになったことと関係があるようです。例えば、今や、レンブラントと並び17世紀オランダの二大巨匠の一人と称される“オランダを代表する風俗画家”フェルメール(Jan Vermeer van Delft/1632-1675)は、19世紀にトレ・ビュルガー(T. Thore Burger or William Burger/1807-69/亡命生活をしながらドイツなどで活躍した仏出身の美術史家)によって再発見されました。


 17世紀オランダの大画家としての名声が今やゆるがぬように見えるレンブラントですら、同時代に大きな影響力を持っていたドイツの美術史家で画家でもあったザントラルト(Joachim von Sandrart/1606-1688/ドイツ美術史学上の最初の重要な典拠とされるTeutsche Akademieの著者/TeutscheはDeutscheの古称)らによって金銭にこだわる“吝嗇家”レンブラントという悪いイメージが意図的に作られた(一説では、ザントラルトがレンブラントの才能と名声に嫉妬していたので)ため必ずしも初めから評判が良かったわけではなく、レンブラントが本格的な評価を得るようになるのは、やはり19世紀に入ってからのことです。そして、現代オランダの中世史・文化史家J.ホイジンガ(Johan Huizinga/1872-1945)が『レンブラントの時代』(1941)の書名で、17世紀オランダの黄金時代を著したのは余りにも有名なことです。


 また、ドイツの現代美術家ヨーゼフ・ボイスが主張するとおり、ある土地の光を光たらしめる要因は“水と水面”が存在することだというのも正しいことのように思われます。大きな雲の塊、見晴るかす低い地平線、そしてその前景が一面見渡すかぎりの広い水面から構成されるオランダの風景から、もし一定量以上の水面が失われたとしたら・・・その「光の質」に変化が生じるに違いないことを映画『オランダの光』は実験装置で検証してみせます。従って、過度な干拓事業の進展はオランダの風景の個性と魅力を大きく損なうことになると思われるのですが、幸いなことに一定の枠に留めざるを得ない国家予算の限界と環境団体の圧力で制御されつつあるのです。

 考えてみれば、「水(分)と風景」の関係が個性的な景観をもたらすのは、必ずしもオランダに限ったことではありません。例えば、中国の黄土高原に降る大量の雨が長い時間をかけて気化し続け、その結果つくられる多量の薄い水蒸気が中国内陸部へ季節風とともに運ばれますが、その微妙な割合の水蒸気を含んだ空気の存在が、古来から「気の存在→風水学」という特別な概念を中国人たちに意識させるようになったと考えられ、それが中国の都市計画にヨーロッパとは異なる独特の個性的な景観をもたらしてきたのです。しかし、オランダの場合の「水と風景」の関係は「水面と歴史的時間をかけて干拓された土地」という稀に見る個性的な関係であり、これはいわばウオータ・フロントにおける「水面と陸地の絶妙なバランス」だといえるでしょう。その土地の「光と景観」が醸し出す個性の意味という点では全く異質ですが、ウオータ・フロントに生まれオランダに匹敵する国家はヴェネチア都市国家)ぐらいのものではないでしょうか。


 既にみたとおり、一般的な意味でヨーロッパ人はルネサンス以前に「自然の風景」を意識することは殆どなかったようです。ヨーロッパ中世の人々は、キリスト教の教えに従って城壁に囲まれた都市(町)の外に広がる鬱蒼たる森の中には悪魔が住んでいると信じていました。彼らは、そのような暗黒の森に「光」を与えるため森林を伐採し畑地を開墾し、牧場を広げながら人口の増加に合わせて都市(町)の領域を拡大していったのです。12〜13世紀のヨーロッパは「大開墾の時代」です。例えば、イギリスでは15〜16世紀頃には原生林の約9割が失われてしまっており、現在の美しいイギリスの自然(景観)は、その後の時代に人工的に創られ(再生され)たものです。つまり、ルネサンス以前のヨーロッパでは「恐ろしい悪魔が住む環境としての森林や山」はありましたが、その存在を「美しい景観」と見る意識が存在しなかったのです。


 このため、ヨーロッパ中世では絵画の背景の一部の要素として木々や山などが描かれることはあっても、独立した「風景画」は存在しなかったのです。また、これも先に述べたことですが、ドイツ語のLandschaft(陸地、ある地域の住民、国家などの意味/オランダ語でLandschap)という言葉を、初めて“風景”という意味の絵画用語として使ったのは15〜16世紀頃のネーデルラントの画家たちであったとされています。既に、1400年代のネーデルラント(オランダ、フランドル/ブルゴーニュ公国)のミニアチュア絵画(写本装飾画)には風景描写がしばしば現れていました。その理由として考えられるのは、ネーデルラントには、そもそも鬱蒼たる暗黒の森があるわけがなく、そこにあるのはウオータ・フロント環境ゆえの大きな「水面」でした。


 無論、この水面つまりネーデルラントの内海、河川、湖沼、湿地などは暗黒の森林に劣らず恐ろしい存在であったので、ネーデルラントの人々は、この恐ろしい「海水面を始めとする多様な水面の脅威」と700年以上にわたって闘い続けざるを得なかったのです。従って、14〜15世紀には既に干拓地づくりが始められており、併行して、そのわずかな土地に植林された木々を中心とする稀少な新しい自然が創られていたのです。このようなネーデルラントの人々の目にとっては、他のヨーロッパの人々に先駆けて自らが創り出した客観的「景観」は、近代を先取りするほど“合理的に意識された自然環境”であったのかもしれません。やがて、このような「景観」に、ネーデルラントには存在するはずがない山や丘陵地が画家たちの奔放な想像力によって付け加えられるようになったのです。


 ところで、オランダの干拓の歴史は同時に排水技術と灌漑技術の長い歴史でもありました。当然ながら、いったん干拓で造成された土地は排水しなければ再び水没するし、灌漑で清潔な水を導かなければ生活も農作物も牧畜も成り立たないわけです。また、生活廃水や屎尿などの汚水処理についても特に意識的な取り組みが必要であったはずです。現在、オランダ南西部に位置するロッテルダム郊外のキンデルダイクはオランダ国内で最も多くの水車が見られる場所として名高い所です。ユネスコは、1997年、このキンデルダイクからエルスハウトに連なる風車ネットワーク地帯を「世界遺産」に認定しています。この地域にある風車は、中世以来、農地や牧草地に水を導く灌漑や余分の水を排水するための灌漑・排水設備として建設されてきたものであり、現在までに開発されたあらゆる関連技術が保存・活用されています。それは、まさに水と共存してきたオランダの人々の悠久の歴史の積み重ねです。


 地下水道や下水道の歴史は古いものではメソポタミアのウル、バビロン遺跡やインダス文明モヘンジョダロ遺跡あたりまで遡るようですが、これら古代の下水道は、その末端が都市の外部の遠くまでは伸びておらず、途中の沈殿池から地下へ自然浸透させたものであったようです。しかし、ネーデルラントでは、現代のような完全に科(化)学的な汚・排水処理システムではない(つまり、最終的には海や河川へ流すものであった)にしても、既に中世の頃から汚水を専用に排水する排水溝が作られていました。このため、15、16世紀頃のパリやロンドンなどの市街で糞尿まみれの汚水が垂れ流され臭気芬々たる有様であった時代に、オランダの都市では、舗装が行き届かなかったため泥まみれではあっても糞尿まみれにはならなかったとされています。ただ、低地であるため絶えず浸水と汚泥の侵入には悩まされており、ヤン・ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』(1434年/テンペラ画/ロンドン・ナショナルギャラリー/HP「レンブラントの眼」INDEX-Ⅰ、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/の画像、参照)の画中に描いてあるような木靴(靴の上からサンダルのように重ねて履き、道路を歩くときに汚泥を防ぐ)が利用されていたようです。


 このような訳で、オランダはヨーロッパ中で最も港湾土木技術及び排水施設関連の技術が発達していたのです。このため、20世紀に入ってからもオランダでは真空式集落排水システムや酸化溝構造などの近代的な科(化)学的排水処理施設を備えた下水道が世界で最も早く整備されています。また、日本の明治維新・政府がオランダの技術者を招聘して港湾・下水道整備などの近代的な土木技術を学んだことは周知のとおりです。現在でも世界の下水道普及率はオランダ98%、イギリス96%、スウエーデン93%、ドイツ92%、カナダ91%、アメリカ71%、日本64%となっており、オランダの普及率が郡を抜いています。


 なお、明治維新期の土木技術史の1ページには、次のようなオランダの最先端の港湾土木技術を導入した事跡が記されています。(以下はHP「産業技術遺跡探訪」http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2003/nobiru/nobiru.htmより、一部転載)


 東北地方の開発のために、明治政府は宮城県桃生郡野蒜村(現在の宮城県桃生郡鳴瀬町)を拠点とした近代的な港湾計画と、運河による交通網の整備を計画しました。石巻湾に注ぐ鳴瀬川の河口に内港をつくり小型船舶の繋留地とし、野蒜と宮戸島の間の入江を外港とする大型船舶の停泊地を設ける計画でした。また、北上川から内港へ通じる運河と、内港から松島湾へ通じる運河をつくり、阿武隈川とも結ぶことによって、野蒜港を拠点とした東北地方の岩手県宮城県福島県山形県を経済圏としてまとめようとする構想でした。

 この築港計画のために、1876(明治9)年9月、お雇い外国人技術者(内務省雇長工師)オランダ人、ファン・ドールン(C.J.van Doorn)によって調査が開始されました。1877(明治10)年2月 ファン・ドールンは、野蒜が港湾に適地であることを内務省へ報告し、1878(明治11)年5月に野蒜築港第一期工事の関連として「北上運河」建設が決定し、蛇田村高屋敷(現在の石巻市)に「土木局出張所」が開設されました。この「北上運河」は、鳴瀬川河口の内港と北上川(現在の旧北上川)を結ぶ運河で、1878(明治11)年6月に開削工事が始まりました。1878(明治11)年10月には、北上川分疎(閘門)の起工式が行われ、土木局長の石井省一郎にちなんで「石井閘門」と命名されました。


 1879(明治12)年7月、野蒜内港が着工し、突堤工事がオランダ式工法(粗朶沈床工)によって着手されました。海底に敷いた「粗朶沈床」に石を積み上げていくオランダ式工法による突堤工事は急深な海底の地形と荒波のために非常に難航し、初期の計画を縮小して3年以上かかり1882(明治15)年10月に竣工しました。内港に鳴瀬川からの土砂が堆積するのを防ぐため、1879(明治12)年11月に新鳴瀬川の開削工事を着工し、鳴瀬川、新鳴瀬川、北上運河に囲まれた湿地は埋め立てられて市街地(現在の鳴瀬町浜市桶場)として造成されました。1881(明治14)年10月「北上運河」12.8kmが完成し、1882(明治15)年8月には小蒸気船「米沢丸」が石巻−野蒜−塩釜間に就航しました。


 1883(明治16)年3月には内港と松島湾を結ぶ「東名運河」の開削工事が着工し、1884(明治17)年2月に「東名運河」3.6kmが竣工しました。 第一期工事が落成してまもない1884(明治17)年9月、台風の襲来で東突堤の1/3が崩壊し内港が閉鎖されてしまいました。1884(明治17)年11月、野蒜内港の被害を調査した雇工師ムルデル(A.T.L.R.Mulder)らは、外港の築港がなければ内港は使えず、さらに外港の建設には数百万円(当時)の予算が必要であることを報告し、この報告をもとにして第二期工事の予算も計上されることなく野蒜築港計画は中止が決定しました。

 こうして野蒜港を拠点とした近代的な築港計画は挫折せざるを得ない結果になりましたが、日本初の近代港湾計画や現在も使われている運河・閘門など当時の近代的な土木技術を示す貴重な土木遺産がほぼ当時の状態をとどめて保存されています。


(2004/04/13/News-Handler、初出)