toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「オランダの光」の伝説(revised、5/6)

toxandoria2005-03-23



【画像】Rembrandt(1606-1669)『Hendrikje in Bed/ベッドの中のヘンドリッキエ』ca.1648


 17世紀のもう一つの「オランダの光」の典型は、いうまでもなくレンブラントです。2000年にセザール賞の「美術賞」部門グランプリを受賞した、映画『レンブラント』(1999、蘭・独・仏合作、原題・レンブラントへの贈り物/シャルル・マトン監督/http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=29536)によると、画家レンブラントはサスキア、ヘ−ルティエ(愛息ティトウスの乳母)、ヘンドリッキエという三人の女たちと、まるでロンド(回旋曲)でも踊るかのように次から次へと結婚、同棲、結婚を繰り返す生涯を送っています。


 しかも、その人生の殆どは三人の女たちとの人間関係に悩まされ続ける苦渋に満ちたものでした。サスキアを早々と病気で失い、10年近く愛人関係にあったヘールティエに契約不履行で訴えられながら、ヘンドリッキエと再婚します。最後は、ヘンドリッキエの死に続いて溺愛したティトウス(サスキアとの間に生まれた長男)の夭折と家計の破産という大きな不幸に見舞われ、その上、晩年は貧民街に移り住むことになります。この映画の中では、レンブラントの晩年の不遇がヘンドリッキエが生んだ娘コルネリア(レンブラントの母、およびサスキアとの間に生まれた次女も同名のコルネリア)によって語られています。


 それにしても、この映画を見終わった時に先ず感じたことは、何という“闇”に満ちた映像の世界だということです。確かに、レンブラントの絵画のほとんどは“闇と光”の絶妙なバランスに満ちており、しかも、いささか闇の方が勝っているという印象を受けるはずです。従って、この映画そのものがレンブラントの芸術を見事に再現していることになります。また、このようなレンブラント芸術の原理は、アリストテレスが『感覚論』で、“色彩は白と黒が基本であり、色彩は白色光が媒質を通過することによって暗くなるときに発生する”と述べたことを思い出させます。このアリストテレスAristoteles/BC384-BC322/古代ギリシアの哲学者/プラトンイデア論を批判して、イデア現実界の形相に内在すると考えた)の色彩に関する考え方は「変化説」と呼ばれており、アリストテレスによる色彩は「白→黄→赤→菫→緑→青→黒」という明るさの序列で体系化されています。


 このようなアリストテレスの色彩に関する考え方は、ニュートン(Isaac Newton/1643-1727イギリスの物理学者/万有引力の発見、光のスペクトル分析等の実績)以前の色彩論の基本となっていたのです。しかし、レンブラント絵画の芸術性は、“闇と光”の絶妙なバランスがもたらす、いわゆる「レンブラント・ライト」の効果だけに特徴づけられる訳ではありません。レンブラントのキャンバスには、天才的な画家の才能と技術というありきたりの評価を超えて遥かに聳え立つような、きわめて高い精神性と奥の深さが共存しており、それがレンブラント絵画の不思議な魅力となっているのです。


 「光の画家」とも呼ばれてきたレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn/1606-1669)は、1606年7月15日にアムステルダム近郊の地、オランダの中西部に位置するライデンに生まれました。この時代は,オランダがスペインから独立する戦争遂行の末期にあたり、その3年後の1609年にはオランダは事実上の独立(引き続く三十年戦争を経て、ウエストファリア条約で国際的に承認されるのは1648年)を勝ち取ります。オランダを含むネーデルランド(現在のベルギー、ルクセンブルグを含む)は長くスペインの支配下にありましたが、北部7州はスペインの厳格なカトリック政策を嫌って長い独立戦争(1568〜1648)に立ち上がっていました。


 レンブラント生誕の土地ライデンは、このオランダ独立戦争の契機をつくった都市でもあり、レンブラントが成長する時は、丁度、独立したオランダ連邦共和国プロテスタンティズムに基づきながら商業資本主義を発達させた時代です。それは、世界で始めて誕生した「市民社会」(ブルジョア層)に基盤を置く民主的な国家体制の誕生であったとされています。つまり、レンブラントが成人して画家の人生を送った17世紀前半は、正に「オランダの黄金時代」であり、近代オランダの歴史家ホイジンガはこの時代を「レンブラントの世紀」と名づけています。


 一方、当時のヨーロッパで随一と見なされるほどの政治・経済的な活力に満ちた「レンブラントの世紀」は、市民個々の精神生活という生き様の側面から見ると、必ずしも持続的な発展の「光」を浴びるというだけではなかったようです。むしろ、この時代の少し先(17世紀後半〜18世紀)には、近代から現代へ向かう疾風怒濤のような大変革の時代(エポック期=商業資本主義から産業資本主義の時代への転換期)が待ちうけており、オランダ市民社会の住人たちは、着実に近づきつつある未知の時代の雷鳴を予感していたのです。レンブラントの“闇と光”の芸術の秘密は、他のヨーロッパ諸国に先駆けた、このような17世紀オランダ独特の時代背景にも一因があったと考えられるのです。


 レンブラントの父、裕福な製粉業者であったハルメン・ファン・レインはプロテスタントに改宗していましたが、母コルネリアはカトリックのままであったとされています。また、最近の研究では、レンブラントが少年時代、その家族はライデン市を二分するレモンストラント派(ライデン大学神学者アルミニウスに起源を持つ反カルバン主義神学を信奉する一派)とカルバン派の政争に巻きこまれています。この抗争では、オランダ総督マウリッツがカルバン派を信奉したためレモンストラント派は市の行政職から一掃されてしまいました。レモンストラント派に与するレンブラントの両親がその余波を受けたことは十分想像できることです。


 そして、この辺の事情がレンブラントライデン大学中退と関係がありそうだということになってきています。レンブラントライデン大学を中退して画家の道を歩み始めた背景に、このような事情が絡むとすれば、レンブラント芸術の根本にキリスト教信仰に関する大きな葛藤のようなものが存在したことが想像できます。一方、近年の研究によると、レンブラントが多数の弟子を抱えながら大きな絵画工房を経営し、しかもかなりの弟子たちを総動員しながら、相当に速いペースで絵画の大量生産を行っていたことが判明しています。この当時の画家の弟子たちは親方に授業料を納める立場であったので、レンブラント工房の最盛期の羽振りの良さが窺える訳です。


 レンブラントの才能を見ぬいていた画商のアイレンボルフがアムステルダムの外科医組合から注文を取ってきて描かれたのが『 テュルプ博士の解剖学講義』(1632/HP、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/nikki3.htmの画像、参照)ですが、それはレンブラントが26歳の時の作品です。この絵はレンブラントの最初の集団肖像画であり、彼の出世作となりました。その頃、オランダの集団肖像画は既に1世紀以上の伝統がありましたが、その絵の中の人物たちは動きがなく堅苦しい表情で横一列に並ぶものでした。


 ところが、『テュルプ博士の解剖学講義』では、半円形に近い形でまとまった人物群が、やや斜めで横向きの死体の周囲をグルリと取り囲んでいます。処刑されたばかりの犯罪人の解剖に取り組むテュルプ博士は痩せぎすで背が高く、顎ひげを生やした立派で優秀な医師像として描かれています。テュルプ博士の視線と表情はグループ全体の威信を代表するよう、特に力強く描かれています。また、博士の周囲で解剖を見物する人々は医師だけでなく、街の名士たちも加わっています。テュルプ博士は、1653年までアムステルダムの外科医組合の解剖学講師の地位にありました。ライデン大学医学部(1575年、創設)に始まるオランダ医学の伝統と実績は、当時のヨーロッパで最も先端的なものでした。そして、この絵の成功によってレンブラントの名声も一挙に街の名士たちの間で広がることになったのです。やがて、レンブラントは、アイレンボルフの従妹(姪の説もある)サスキアを最初の妻として迎えることになります。


 1633〜37年にかけて、チューリップ・バブルがオランダを中心に発生しましたが、ハールレムとアムステルダムから始まったバブルの影響は、オランダ国内のみならずヨーロッパ中に広がりました。それが、どの位の規模の経済的影響をもたらしたかは諸説があります。ここでは、マイク・ダッシュ著『チューリップ・バブル』のデータなどを参考にして、一つの試算を示してみます。(ここでの円表示は、当時の大衆酒場で飲めたジョッキ1杯分のビールの価格を基準にした現価換算です。)まず、17世紀の世界の総人口は約5.5億人、ヨーロッパの人口は5,000万人程度、そして当時のオランダ共和国の総人口は約200万人と推計されます。1633〜37年のバブル期の4年間における、オランダ全土のチューリップ球根の取引額は4,000万ギルダー(8,000億円)〜8,000万ギルダー(1.6兆円)の範囲と推計されます。


 比較のための数字を見ると、例えば、当時のオランダで最も羽振りが良かったある豪商がアムステルダムの銀行に同じ4年間に貯蓄した金額の合計は350万ギルダー(700億円)でした。また、当時のヨーロッパで最大の貿易会社であったオランダ東インド会社の総資産額は650万ギルダー(1,300億円)です。そして、最も高額で取引されたチューリップの一株には約3、000ギルダー(6,000万円)もの価格がつきました。 因みに、いささか強引ですが、様々な歴史的な記録データから当時のオランダ共和国の国内総生産GDP)を試算してみると約10兆円程度と推計されます。同じく国民一人あたりの所得(国民所得/NI)は約500万円と推計されるので、この点から見ると当時のオランダ市民社会の平均的な経済力は、現代日本国民所得水準より2〜3割程度はレベルが上だったといえるかもしれません。


 当然ながら、当時のオランダ国民の所得水準がヨーロッパ随一であることは他国から認められてていたことです。また、このチューリップ・バブルの崩壊は、その後のオランダ経済に壊滅的な打撃を与えることにはなりませんでした。その原因についても諸説ありますが、恐らくバブル市場にかかわったのは殆どが低所得者層であったという“逆説的な現実”があり、レヘント階級(都市の門閥貴族階級)や富裕層でバブルにのめり込んだ人の数は僅少であったと考えられています。低所得者層に属する市民であればあるほど一攫千金のチャンスとなったわけです。


 バブルにのめり込んだ人々の数は多く見ても国民総数の2%程度にしかならなかったと考えられています。テュルプ博士やレンブラントががチューリップ・バブルの取引に参加したかどうかは分かっていませんが、この取引に参加しなかったという証拠もないのです。従って、積極的なバブルへの参加はともかくとして、全く何の影響も受けなかったということも考えられません。しかも、テュルプ博士は、バブルが崩壊し始めた1637年を境として、自分の名前とこのバブル現象が結びつけられることを極端に嫌うようになっていました。厳格なカルヴァン主義者であったテュルプ博士がチューリップ・バブルの狂騒を軽蔑するようになったのは十分考えられることです。


 活発な経済活動を背景にネーデルラントでは、他に先駆けて、既に14、5世紀頃から画商が存在し絵画の売買が行われていたようです。ただ、レンブラントの時代になっても画商の仕事の方法は現代のものとは根本的に違っていました。ピーターリム・デ・クローン監督の映画『オランダの光』によると、17世紀に描かれた絵画の総数は少なく見ても約500万点以上で、その約3割(150万点)が風景画(厳密にいうと海景画が多い)だそうです。当時のオランダの家庭では少なくとも一家で2、3点以上の絵画を所有していたと考えられています。つまり、当時のオランダの市民たちは、現代の私たちがソファ・セット、テーブル、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、大型カラーテレビなどを買うような感覚で絵画を求めたのです。喩えれば、絵画は彼らにとって高級な家財の一種であり、優れた画家の絵画は自らの経済力を誇る高級な家具・調度品だったのです。ただ、レンブラントに限らず名声の高い画家は弟子を抱えた工房方式で“大量生産”を行っていたので、同じような画家の同じような作品が溢れていました。


 そこで、この時代の絵画の取引(価格決定方式)は、原則として“競り下げオークション”(ダッチ・オークション)、つまり“バナナの叩き売り”方式で行われていたのです。仲介役の画商は、まず高値を宣言して画家が望む指値(底値)まで競り下げて行くのです。いずれにせよ、17世紀のオランダ経済は現代のような意味での成熟した市場経済ではなかったこともあって、実態経済の規模が限界に達したところでチューリップ市場が天井を打ったと考えられます。晩年のレンブラントの破産の原因が“チューリップ・バブルに手を出したことか、絵画の商品価値の限界が見えたことか、あるいは世界的な経済規模縮小の煽りを受けたことか”のいずれであるかは、未だに解明されていないのです。


 ところで、かなり歴史を遡ることになりますが、4世紀頃のビザンツ圏を中心に「偽ディオニシウス文書」と呼ばれる一連の文書が出回りました。(「年表(環境)」http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/kannenpy.htm参照)この文書は、パリのサン・ドニ修道院に奉じられる聖人サン・ドニと同一視されてきたテオドシウス(1世紀、パウロの下でキリスト教に改宗したアテナイの最高法院の議員)の著書とされるものです。それは、初期キリスト教時代のギリシア教父たちの思想と新プラトン主義の思想を総合したものであり、その特徴は独特の「光の形而上学」にあります。これによると、私たちが「感覚的に受け取る光」は神的な超越を象徴するもので、万物は<光の父>たる神から光とともに放射し、再びそこへ向かって帰還します。


 この独特の「光の形而上学」は4世紀以降の長い中世時代を通してヨーロッパの人々の精神文化に深い影響を与え続けてきました。やがて、それが目に見える形となって物象化した建造物が、1140年7月14日(奇しくもフランス革命と同月同日)、パリのサン・ドニ修道院付属聖堂内陣の改築工事で姿を現した天空高く伸びる「尖塔アーチ」と「大きな薔薇窓のステンド・グラス」が特徴である、史上初の「ゴシック建築」です。しかし、16世紀に入るとオランダの人文学者エラスムス(Desiderius Erasmus/ca1466-1526/16〜17世紀オランダの人文主義者/宗教改革の精神には同調したが、ルターの教皇・教会批判には反対した)が「偽ディオニシウス文書」の信憑性に疑義を呈します。やがて、17世紀以降の近・現代的な意味での科学の時代に入ると「光の形而上学」は忘れ去られてしまい、それと代わって「光」についての「近・現代における物理学的理解」が普及するようになったのです。


 21世紀に入った現代世界は、コンピュータと先端科学技術がますます発達する傾向であるとともに、アメリカ発の「グローバル市場主義(自由市場における競争原理主義)」と「戦争拡大の原理」だけが一人歩きをしており、世界の人々の上に覆い被さる鬱陶しい闇は果てしなく広がりつつあります。また、それにつれて「未来の明るい光」が見失われようとしています。そして、世界中の人々の精神環境の混迷度は、底無し沼のような深まりを見せつつあります。特に、ニューヨークの2001.9.11事件以降は世界的な「政治の右傾化」が進んでおり、レンブラントが求め続けたような「平和の光」が世界人類の展望から消え去りつつあるように思われます。そして、今、私たちの目前には際限なく泥沼化する「混迷のイラク戦争」が立ちはだかっています。


 一方、「レンブラントの時代」は「オランダの黄金時代」とも呼ばれ政治・経済的には近代の幕開けを画す「革新の時代」でしたが、同時に、宗教上の葛藤だけでなく「17世紀オランダの黄金時代」の黄昏が着実に迫っていた時代でもあります。しかも、一人ひとりの国民レベルでは、明るい発展の時代というだけでは決して納得ができず、得体が知れぬ深淵が迫り来るという恐れのようなものがあったのかもしれません。まさに、それこそが“混迷のバロック時代”であったのです。つまり、このような混迷の時代を見つめ続けるレンブラントの絵画は、偉大な芸術家の眼が捉えた「闇と光の葛藤」(精神環境の光)を描いているのです。


 レンブラントは、そのような「光の形而上学」の果てに、パレット上で「光と闇のゴシック建築」を創造しようと苦闘していたのかもしれません。レンブラント絵画の本質を見せつけられる傑作が『ベッドの中のヘンドリッキエ』です。この作品はレンブラントが42歳頃(1648年)の作品です。この時、レンブラントは家政婦ヘールティエと長い間の愛人関係にありながら、新しく家政婦として雇ったヘンドリッキエと結婚を前提として愛人関係を結んでいます。そして、ほどなく第一次英蘭戦争(1652-1654)が勃発し、さしもの黄金時代のオランダ経済が破局への道を歩み始めます。


 この頃からレンブラントの家計も破産へ向かい始めます。それにしても、レンブラントの筆によるヘンドリッキエの成熟した豊満な肉体の迫力ある描写は凄ましいばかりの表現力です。この絵は、レンブラントの絵画にしては珍しく“闇の部分”が少ないのですが、あくまでも画家の視線の対象であるモデルを美しく描いたフェルメールの「光の描写」とは全く異なる「レンブラントの光」が満ち溢れているようです。それは人知の境界を超えようとする精神環境の「リアリズムの美」であり、レンブラントバロックの「内面の光」であるとも言えるでしょう。また、それは「肉体的な官能」と「精神的な官能」の葛藤とでもいえるのでしょうか、見る者の心へ永遠の何かを問いかけているようです。


(2004/04/16/News-Handler、初出 )