toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

シリーズ「民主主義のガバナンス」を考える(1/3)


第一章 市場原理主義の道具と化した「ネオ・コーポラティズム


 ガバナンス(Governance)の一般的な意味は“統治・管理・制御”ということです。しかし、近年の政治学用語では、もっと広い意味で使われるようになっています。それが単に“統治”という意味であれば、国家権力(政治・行政サイド)が一方的に国民を支配し、管理するというイメージです。しかし、今や世界では国家または国家群の統治の典型的な形として、アメリカ型の「超国家主義」(ユニラテラリズム)と拡大EU型の「ユーロ・コーポラティズム」の二つの典型が浮き彫りとなっています。当然ながら、どちらも自由民主主義社会であることを前提としていますが、そのガバナンス方法の根本的な違いが、人間社会と地球環境の未来に大きな影響を与える問題であることが次第に広く理解されつつあります。その切欠が「2001.9.11、NY同時多発テロ」であり、そこから派生した「アフガン・イラクの両戦争」であったことは間違いありません。「ユーロ・コーポラティズム」と呼ばれるガバナンスの特徴は、EU統合までの道筋だけでなく、これから本格化する「拡大EUの政策」そのものにも加盟国の一般市民たちが大きくかかわり、影響を与えることになるということです。このような訳で、国家権力という上からの統治だけでなく、地方政府・地域・市民・住民などが国家(群)の統治にかかわるというあり方が真剣に議論されるようになり、現在のガバナンスの意味する範囲が拡大してきたのです。

 ここ数年のあいだ、多くの日本国民は小泉純一郎首相が掲げる「官から民へ」の合言葉の下で「構造改革」が本当に進むものだと期待してきました。そして、今でも大方の国民にとっては、その期待がかなり大きいようです。例えば、3月18日に発表された「時事通信社世論調査」の結果は『日本国民の約7割が、今でも小泉構造改革の手法の継承を支持している』ことを報じています。しかし、冷静に現況を観察してみれば、このような国民一般の期待は見事に裏切られていることが分かります。日本国民は、その実態が「官から民へ」どころか第二次世界大戦後の約60年間に営々と築かれてきた「絶対的官僚優先社会」の基盤が更に一層強化されてきたことを知り愕然とするはずです。ここには明らかに一般国民に対する欺瞞があります。「官から民へ」という耳障りが良いキャッチ・フレーズの下で行われているのは、国民一般の反官僚意識を巧みに誘導して、高級官僚と財界トップの主導による「政・官・財の談合癒着構造」を巧妙に深化させることです。


 例えば、道路公団改革や国立大学等の独立行政法人への衣替えが茶番劇であることは少し真剣になって資料とデータを点検すれば化けの皮が剥がれて分かるはずです。また、“格差は活力を生む”という「新自由主義」(Neo-Liberalism)と「グローバル市場原理主義」の理念を標榜しつつ行われているのは、「構造改革」という大義名分の下で「巨大資本の行動の自由化」と「公的業務(公共)の市場化・企業化」(民営化路線)の推進ということです。その派生的な弊害として、就労機会の拡大やアウトソーシングなどの美名を冠せられた「雇用差別の奨励」という深刻な事態が発生しています。これは、「オランダ・モデル」の象徴とされるタイム・シェアリング政策などとは程遠い、陳腐で黴が生えた「下請業務の外注化」(昔懐かしい?“女中さん”方式の働かせ方)の手法に過ぎないのです。


<注>これら「官から民へ」の名の下で行われつつある諸政策の現状分析(その驚くべき惨憺たる実態)については、下記のBlog記事(●)を参照してください。


●高すぎる日本の「民主主義のコスト」
http://takaya.blogtribe.org/entry-e3b3dad62cace8d8dd30f7493180a96d.html


●捩れた「日米経済同盟」のツケを一身に背負わされた、お人好しの日本
http://takaya.blogtribe.org/entry-81540261923380e497b1cb3a881b4ffa.html


●目的地が見えない「無責任な増税策」を進める日本の悲劇
http://takaya.blogtribe.org/entry-a32764cb786fb70516ca03da8ad8a5d2.html


●「大格差時代」の上に、国の「社会保障的義務」も放棄するのか?
http://blog.melma.com/00117791/20050319163849


●「混合診療」(生命(いのち)の沙汰もカネ次第)の怖さをご存知ですか?
http://takaya.blogtribe.org/entry-03426b99ef4a16ccf82798bbea3d04b5.html


 ところで、「グローバル市場原理主義」と現在の「わが国の構造改革」路線を支える根本思想は「新自由主義」(Neo-Liberalism)の思想です。そのルーツは、シカゴ学派(Manetalism)の祖と看做されている反ケインズ論の祖・F. A. ハイエク(F. A. von Hayek/1899-1992)及び、それを引き継ぐミルトン・フリードマンMilton Friedman/1912- )らの経済学者たちです。彼らの際立つ特徴は“物価や名目所得の変動をもたらす最大の要因が貨幣供給量(Money Supply)の変動である”と主張することです。また、彼らは政府の財政的な介入を認める「ケインズ主義」や“付加価値の公平な分配”を重視する「福祉国家論」などは、社会科学的な無知と不勉強に基づくものだと厳しく批判します。


 その代わり、彼らが提唱する価値観は“自由原理と市場主義の融合”です。それは、国民の一人ひとりが「自己責任の原則」に基づき自由に“市場”へ参加することになれば、市場における経済活動を通じて自ずから最適な調整と分配が達成できるという考え方です。1993年、IMF世界銀行・米国政府などの関係者がワシントンに集まり、このような考え方を一定の合意に基づく戦略として取りまとめたものが「ワシントン・コンセンサス」です。このコンセンサスは“8つの基本合意”から成っており、それは「(W.C.に拠点を置く銀行等金融機関の)財産権の保護、政府の規制緩和、政府予算の削減、資本市場の自由化、為替市場の開放、関税の引き下げ、基幹産業の民営化、外国資本による国内企業の吸収・合併の促進」という8つの項目です。これは、アメリカが、1991年の「ソ連邦崩壊」後(ポスト冷戦構造)の世界を経済面から支配するための“新戦略”(既に色褪せたブレトン=ウッズ体制(第二次世界大戦後に計画されたアメリカ主導の世界経済復興戦略)に代わるスキーム)という意味合いがあったのです。このような“ワシントン・コンセンサスに基づく新戦略”のシナリオに沿って現在の「グローバル市場原理主義」が世界を覆いつつあるのです。


 1998年のノーベル経済学賞を受賞したインド出身のアマルティア・セン( Amartya  Sen/1933- )は「潜在的能力アプローチ」という概念を提唱して、このようなワシントン・コンセンサスの方向を具体化しつつある「グローバル市場原理主義」を批判しています。センが提唱する「潜在的能力アプローチ」の要点は“人間を開発や経済発展の『手段』や『道具』と位置づけてはならない”ということです。センの理論の源流はアリストテレスの哲学まで遡りますが、その理論はハーバード大学ロールズ(John Rawls / 1921-2002 )の「正義論」をも超えたとされ世界的に高く評価されています。一方、ワシントン・コンセンサスは、“自由の原理”を“市場の中で経済効率を実現するための“至高で絶対的な尺度”まで祭り上げた上で、それは経済的な利益(付加価値)を獲得するための“最も効率的な手段”だと定義しています。この点について、センは次のように語ります。
・・・個人の自由と責任だけで、すべての価値が実現できると割り切ったり評価したりすることはできない。なぜなら、その意識の有る無しにかかわらず、生まれた時いらい、個人は社会全体の、言い換えれば“地域社会等周辺環境の無数の責任”によって支えられている存在なのだから。・・・


 このようなセンの思想の核心には、『公正』を尺度とする『バランス感覚』と『寛容の価値観』が潜んでいます。「豊かな国」と「貧しい国」が存在する限り「開発」という経済行為は必要ですが、そこで「豊かさ」の基準はどうあるべきなのか?果たして、それは目先の金銭の価値だけで割り切れるのか?という問題意識をアマルティア・センは持っているのです。それがデリバティブ等の金融工学ヘッジファンドのような「拝金フェティシズム」(狂信的な拝金教)から程遠いものであることは明らかです。センの思想の要点は次のようなことだと思われます。つまり、有限な自然環境と社会環境を一体的に見る広い視野の中で“個々の人間に対する環境からの恩恵”を評価するとともに、“政府のガバナンス(国家統治)の方法”(特に社会的弱者への対応)を見直すべきだということです。有限な自然・社会環境を“富める者たち”だけが占有することになる「経済発展システムの設計」は間違いだという訳です。より具体的に言えば、地球上の自然・社会環境からの恩恵を平等に享受できる「人間の基本的権利」を認めるのが民主主義国家の正しいあり方だという訳です。別の言い方をすれば、それは、ある国の経済が発展するとともに、その国民の貧富の格差が拡大するような社会経済のあり方、つまり一握りの富裕層の経済レベルが上昇する一方で貧困層の割合が着実に広がるような「経済発展システムのあり方」は根本的に間違っているということです。


 ここから我われは「開発と環境」という最も困難で基本的な問題に行き着くことになります。地球規模の環境汚染が深刻化する中で、先進諸国が周囲の地球環境悪化という現象には目もくれず餓鬼道に堕ちたような「拝金フェティシズム」の道をひた走る姿は、まことにおぞましい人類社会の未来図ではありませんか?そこで、浮上するのが地球環境と経済発展のバランスのために重要と考えられる「適正な国家統治(ガバナンス)のあり方」と「公正な付加価値の分配」という二つのキーワードです。ワシントン・コンセンサスのような単純で新自由主義的な発想では、いつまで経っても「地球環境問題」どころか、それと共通の病根を持つ「南北問題」も解決することはできません。今のままでは、解決するどころか「南北問題」を永久的な差別的分配構造として固定化する恐れがあります。


 その一例をあげるなら、伐採した木材の輸出以外に生きる術がない状態へ追い詰められて、地球環境悪化の原因であることを知りつつ森林の伐採を続けざるを得ない発展途上の国々があります。また、環境汚染物質が増大する原因になることを知りながらも一次資源の生産増強と輸出以外に生きる術がない立場に追い込まれた国々も存在します。が、それらの資源を輸入する先進諸国は“環境にやさしいクリーンな工場”で付加価値が高い製品を生産しています。また、科学技術分野では「ターミネーター」と呼ばれる遺伝子操作技術で地球環境の根本的な破壊(汚染)を拡大しつつあると指摘されており、世界的な巨大農業関連企業であるアメリカのモンサント社http://www.monsanto.com/monsanto/layout/default.asp)のような問題があります。「ターミネーター」とは、子孫(種子や子ども)を残すことができないように動植物の遺伝子を操作する技術で、育てた種から新しい収穫を得る「自然循環」を根本から破壊してしまう技術です。

 これは、まさに「市場原理主義の権化」のような恐るべ悪魔的な技術です。地球全体を一匹の蛸に例えてみれば、その蛸がひたすら金儲けだけのために自分の足を食い始めたような、おぞましいイメージが湧いてきます。同じく遺伝子操作による「ハイブリッド種」の問題も指摘され始めています。やはりこれも、例えば作物や家畜の生産性を上げるだけの目的で豚などの家畜に人間の成長を司る遺伝子を入れるというような“奇怪な技術”(フランケンシュタイン技術)です。この類の開発研究に取り組む人々は、このような遺伝子操作技術の果てに一体何を夢見ているのでしょうか?一説によると、アメリカの化学者の中で純粋に中立的な立場で研究している人の割合は5%に過ぎず、残りの95%は、何らかの形で関連するスポンサー企業側の立場に立って研究しているとのことです。他の分野の研究者たちについても推して知るべしです。日本の中央政府や中央官庁の周辺で常駐的にたむろする御用学者たちも、この類であるといえるでしょう。


 また、これらの悪魔的な技術を発展途上国に押しつけることにでもなれば、世界中の自然環境が再帰不能のダメージを受けるため、人類全体が地球の自然環境という何物にも代えがたい貴重な財産を永久に失ってしまう懸念があります。私たちは、もう一度「南北問題」がもたらされたそもそもの原因が“ここ数百年に及ぶ欧米先進諸国の植民地支配(Colonialism)という統治方式(ガバナンス方式)であったという原点”を思い出すべきです。いったん植民地化した地域は、世界中の経済発展がもたらす全地球的な付加価値の「分配率」を根本から変える仕組みが工夫・創出されぬ限り、その既定路線(歪んだ分配構造の枠組み)の中でいつまでも先進諸国に隷属するほか生きる術がなくなっているのです。しかも、そのために開発されつつある科学技術は、愚かなことにも、自らの足場でもある地球環境を破壊するような方向へ向かいつつあるのです。


 ここで、再び、論点を日米関係のガバナンスの問題へ戻すと、現在の日米関係(隷属的同盟・経済関係)も、実は上で見てきたようなワシントン・コンセンサスの指令に従っているだけであることが分かります。つまり、それは「グローバル市場原理主義新自由主義」で「国の構造を改革する」というスキームをアメリカ・ブッシュ政権の言いなりになって一方的に日本が受け入れていることに他なりません。ただ、殆どの日本国民は「形式的な民主主義」(擬制民主主義)というオブラートに目が眩んで、その実像をハッキリと見ていない(問題点を認識できない)だけなのです。


<注>隷属的な日米関係の実態については、下記のBlog記事(●)を参照してください。


●捩れた「日米経済同盟」のツケを一身に背負わされた、お人好しの日本
http://takaya.blogtribe.org/entry-81540261923380e497b1cb3a881b4ffa.html


●近づく「日米、抱合心中型・経済同盟」の破綻
http://takaya.blogtribe.org/entry-fcaaa41b352ed67aec83dc076ed775c9.html


 まことに驚くべきことですが、ワシントン・コンセンサスとは、「新自由主義の理念」と「グローバル市場原理主義」の理念を掲げる、新種の「帝国型植民地支配」による「世界統治戦略」(ネオ・コーポラティズム/新たな世界統治方式)に他ならなかったのです。3月7日にブッシュ大統領が新しい国連大使ネオコンボルトン国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)を指名したと発表されたこと、続いてブッシュ大統領が新たな米国の通商代表に議会有数の自由貿易論者として知られるロブ・ポートマン下院議員(共和党)の指名を発表したことなどの一連の動きは、愈々、アメリカ(ブッシュ政権)が“新戦略”の総仕上げに取り掛かる強い決意を示したということです。


 特に、ウルフォウィッツ米国防副長官を次期「世界銀行総裁」に就任させようというブッシュ大統領の意向表明(3月16日)は、米国主導の新戦略(世界新秩序構築)を押し進める強固な意志の表れです。今後、「世界銀行」の発展途上国支援がブッシュ政権の軍事・安全保障政策と密接に連動することで、よりハードな強硬路線へ「変質」する可能性があります。因みに、通称『ステグリッツ・経済学』の3部作と呼ばれる『入門経済学』、『ミクロ経済学』、『マクロ経済学』の著者としても知られるジョセフ・E・ステグリッツ(J. E. Stiglits/現スタンフォード大学教授)が、突然、世界銀行・副総裁を辞任したという事件(2000年)がありましたが、その理由は、ワシントン・コンセンサスが過度にアメリカ一国主義のシナリオに偏っていると批判したため辞めざるを得ない立場に追いつめられた結果だとされています。しかし、日本のマスコミは、このニュースをひっそりと小さく流しただけでした。


 ところで、コーポラティズム(Corporatism)という言葉を初めて政治用語として定義したのはイタリアのカトリック系社会理論家トニオーロ(Giuseppe Toniolo/1845-1918/ピサ大学経済学部・教授)です。トニオーロが定義するコ−ポラティズムは、自由主義社会主義の両者を否定して中世の同業組合(ギルド)のあり方に「社会秩序統治(ガバナンス)の理想」を求めるものでした。20世紀に入るとドイツ、イタリアなどでファシズム的なガバナンスを理想とするコーポラティズム(独裁的社会統治システム)が台頭します。この時、日本では「神格天皇を中心(中心帰一/これは今も政権与党に大きな影響力を及ぼす某宗教教団(神道系の新興宗教)の中心的な理念です)とする政治システム」(天皇中心の大政翼賛型政治システム/日本型ファシスト・コーポラティズム)が形成されました。しかし、周知のとおり、これは第二次世界大戦の敗戦で潰えました。近年になって、日本の理想的な国家統治のあり方として再び政権与党の中から「中心帰一」を理想とするガバナンスを求める声(ネオ・ファシズム的統治への期待の声)が台頭しつつあることを注視すべきです。


 それはともかく、このような重い歴史を引きずる言葉(コーポラティズム)を近代民主国家のガバナンス(統治のあり方)を示す政治用語として、つまり「ネオ・コーポラティズム」として再定義したのがフィリップ. C. シュミター(Philippe C. Schmitter/1936- /元シカゴ大学スタンフォード大学各教授、現フィレンツェ・ヨーロピアン大学名誉教授)です。近代民主国家(自由主義諸国)の社会内部には様々な政治的圧力集団が存在しており、これらが多様な形で制度化されています。例えば、それは経営者団体、業界団体、労働組合、消費者団体、NGO等の各種市民団体などのことです。シュミターによれば、近代民主国家における正しい統治のあり方とは、これら制度化された多様な圧力団体の力(群雄割拠する政治権力)を「政党と選挙制度」を媒介として国家の統一的なガバナンス・パワーまで引き上げることです。そこで最も肝心なことは、その国家内に存在する多様なイデオロギー的立場を承認し、それらによる相互監視と相互評価を受け入れる「寛容」の精神の存在が必要だということです。そして、このような意味での「寛容」を見失った国家ガバナンスこそがファシズムということになるのです。ところが、世界における民主主義のリーダーを自負する肝心のアメリカ(特にブッシュ政権下の)では、この「ネオ・コーポラティズム」が市場原理主義の道具と化してしまっているという、驚くべき現実があるのです。