toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

パパ、歴史は何の役にたつの?


<注>この記事はB/Nです。


 マルク・ブロック(Marc Block/1886-1944/仏の行動的な歴史学者/民衆の目線から歴史の意味を真摯に考え取り組みつつ第二次世界大戦レジスタンスに身を投じナチス・ドイツにより逮捕・銃殺された)とリュシアン・フェーブル(Lucian Febvre/1878-1956/パリ・国立高等研究実技学院、第6部門(社会・済部門)の責任者となって、人間科学の革新に絶大な貢献を果たした仏の歴史学者)が、1929年に創刊した歴史学雑誌『アナール』(Annales=年報)の目的は、喩えれば「パパ、歴史は何の役にたつのか教えてよ!」という幼い子供の声に答えることでした。「歴史的な事実を覚えておけば、受験競争や社会生活で役に立つよ・・・」では答えになりません。「そんなことは知らなくたって、仕事ができて自立さえしていれば生きていけるじゃん!」と言われて終わりです。


 それまでのフランスの歴史学は、“第三共和制史学”と呼ばれ、国家体制のサイドから政治的事件に偏った標準的なフランスの編年史を記述することが仕事であるとされてきました。当然ながら、このあたりの事情はフランスに限ったことではなく、他の国々にもあてはまることでしょうが、20世紀初頭のフランスでこのような先進的な動き、つまり自国にかかわる批判的歴史認識の意識が芽生えたということ自体に重要な意味が見出せるはずです。

 それは、民主主義意識の成熟度の問題だと考えることもできるでしょう。例えば、現在の日本における歴史意識のお粗末さと比較することもできます。日本では、未だに自国の近代史についての冷静な反省と批判意識が定着しておらず、それどころか、近年は、特に若年層を中心に過去の軍国主義ナショナリズムへの共鳴すら(その反対の立場からのアジテーションの先鋭化も)見られるようになっています。これは明らかに歴史認識の重要性を真剣に取り上げる教育を放棄してきたことのツケが回った結果だと思われます。


 それはともかく、ブロックとフェーブルは、19世紀末ごろからフランスの歴史学会を支配していた伝統的な歴史学の中から、その答えを導くことは不可能だと感じていたのです。このため、彼らは、創刊した歴史学雑誌『アナール』によって人間の生活や文化のあらゆる事象を視野に入れた、広範で総合的な新しい歴史学の創造を目指すことにしたのです。やがて、彼らは「アナール学派」と呼ばれるようになります。


 彼らが採用した歴史研究の方法規準には、様々な新しいエピステーメ(episteme/理性的認識のための視座)がありますが、最も特徴的な点を一つを挙げるならば、それは“歴史は個々の事件の経過としてでなく、個々の要素に意味を与えるシステムという意味での全体として理解されなければならない”ということです。別の言い方をすると“歴史が時間の流れに沿いつつ過去の人間の生きてきた軌跡を対象とする学問である限り、それは現在生きている人間にとっては、歴史家の精神によって何らかの価値評価と方向性が与えられない限り単なる陳腐な歴史資料にとどまってしまう”ということです。


 そして、歴史家の役割は、そのように絶えず新しく意味づけられる可能性を孕む歴史を学ぶことで、“多くの一般の人々が、人間や文化の多様性や、自分たちとは異なる人々(外国人、政治的・宗教的な立場の違い、貧富差、感受性の違いなど)の存在(個々の心のあり方)を理解できるような精神環境を創ること”だというのです。このような歴史認識が一般国民の間で広がれば、自ずから国民一人ひとりの意識の対象が周辺環境から地球全体へと広がり、多様で個性的な文化価値や宗教・政治・経済などの違いを乗り越えて世界の平和と豊かさを協働で実現しようとする、いわば「世界市民意識・連帯意識」(本物の民主主義意識)のようなものがうまれるはずです。

 ここで思い出されるのが、分子生物学者・清水博氏が唱え、今、生命現象の中核的な概念として大いに注目されている「関係子」と「場の情報」の関係ということです。清水氏は、人間の存在を広範な生物界全体に位置づけて捉えなおし、生命の働きについては、その全体とのかかわりの中で生成的、関係的、多義的に理解すべきだと考えているようです。そのためのキーワードが「関係子」であり、関係子が発生させる生命のリズムという「引き込み現象」に“いのち”の秘密を発見しようとしているのです。


 例えば、サッカーやラグビーなどの観戦で実感されることですが、微粒子(選手)が沢山集まってできる激しい動きには一種のチーム力のような、個々の粒子の能力を超えた、その場の次元とは異なるような力が発現することがあります。その時の“協働的な動き”を個々の微粒子(選手)が明確に意識しているかどうかは定かでありません。しかし、今も、たゆまず生成し続ける、そして生きた人間の活動が織りなす結果としての歴史についても同じような見方ができるかもしれません。今、医学の最先端では人間の全遺伝子解析プロジェクトが一応終了したことで「遺伝子アルゴリズム」なる用語が生まれており、恰も人間が遺伝子の設計図から立ち上がってくるかのようなイメージが喧伝されています。しかし、果たして機械製品などをパーツ(部品)から組み立てるように、科学合理的に理解できた遺伝子の組み合わせから人間を創ることなどできるのでしょうか?


 清水氏によると、「関係子」が作用する「生命の場」ではフィード・バックだけでなくフィード・フォワードと呼ぶ循環ループが形成されています。フィード・フォワードを比喩的に表現するならば、それは“まず個々の粒子(分子)が自律的な個々の立場(自律的な役割)を守りながら“協働”して未来の「場」を創り、その未来の「場」から現在へ向けてバック・スキャンの光が当てられる”という循環ループのイメージ(働き)のことです。

 清水氏が、初めて「関係子」の着想を得たのは、筋肉(骨格筋)におけるサルコメア(筋繊維の一単位となる筋節)の立体構造がミオシン分子(繊維の単位となる蛋白質の一種)の運動に与える影響を研究している時でした。大雑把にいうと、筋肉の中にあるミオシン分子が、アクチン分子(筋肉内で繊維を形成し、ミオシン分子とともに筋肉の収縮にたずさわっている)との空間的位置関係から、それぞれ差異がある場所に置かれており、そのことによって却って全体として筋肉を効率よくスムーズに収縮させているのです。ここでミオシン分子は、それぞれが差異(アイディンティティの違い)を認め合った上で互いに協力し、全体としてサルコメアの秩序の高度な動きを自己組織化(オートポエーシス)していることになります。


 このように、それぞれ自律的に働いているミオシン分子が集まり、全体の中で適切な役割を担い合っていくためには、まずその集まりであるサルコメア全体(これが「場」に相当する)の運動に関する情報が各分子に伝えられ、各分子がその情報に基づいて自らの態度(協働のための意志決定に相当する)を決めることになります。この全体の状態に関する情報こそが「場の情報」または「位置の情報」です。つまり、これは筋肉システムのフィード・フオワード制御に必須の「操作情報」なのです。そして、このような「場(位置)の情報」は、一般に位置と時間の推移によって変化することが分かっています。


 次に、問題は、どのようなメカニズムで「場の情報」が創りだされるか、ということになります。一般に環境は複雑で、その変化を事前に予想し概念規定することはできません。このため、総ての操作情報(ここではフィード・フォワード制御に使う情報)を予め用意することはできません。そこで、状況に応じた適切な「操作情報」を「自己創生」する必要が出てくるのです。一般に「場の情報」は環境・システム・関係子の順に上から下へ流れており、環境やシステムの状態を部分的な要素である関係子へ上意下達的に伝えられますが、「関係子」の新しい役割を仮定した考え方では、個々の関係子群からの情報創生の結果(まず先行的に個々の関係子の情報が環境全体へ伝えられる)が、今度は瞬時に個々の関係子の現在の状態が上から下へと“逆行する状態”(関係子の立場が変わり、いわば環境全体からの操作情報がバックスキャンの光のような役割を担う)で運ばれ、その結果として、絶えずシステム全体では新たな「情報の循環ループ」が形成され続けることになります。

 これまでのシステム論では、環境はシステムに対する固定された境界条件であると仮定され、その中でシステムと要素の相互不可侵的な関係、つまり要素と要素の孤立を前提とした関係だけが論じられてきました。しかし、それは環境とシステム、環境と要素の関係を意味的な面も含めて広く深く議論する方法を持っていなかったからです。今後は、環境の複雑さを前提として、「関係子」の概念の下で環境・システム・要素の三者の関係を取り扱うことができる新しい科学を創造し、環境の方から「関係子の立場に立つ人間」に送られてくる「場の情報」を、より深く読み取ることの重要性が認識されるべきです。


 このように見てくると、「歴史」と「現在生きている人間」の関係も、この「環境・システム」と「関係子に相当する人間」の間で形成される「情報の循環ループ」に喩えることが可能かもしれません。無論、歴史は過去の事象の総体ですから“現在、生きている環境・システム”ではありませんが、仮に、歴史が生命体における過去の環境・システムを内包した遺伝子(及び潜在意識)のようなものであるとすれば、「歴史環境」は現在生きる個々の人間との間でフィード・バック&フィード・フォワードのループを形成し続けることになります。このように考えると、絶えず批判的な意識を活性化させることによって新しい歴史認識を発見し続けることが如何に重要であるかが容易に理解できるはずです。しかし、この「歴史環境」は、フランスのアナール学派のように意識的に取り組まなければ、読みたくもなければ面白くもない、単なる歴史資料として眠り続けるだけです。


 ところで、残念なのは、このような意味で歴史を学ぶことの意義(重要性)が、今の日本人の意識構造からスッポリと抜け落ちているように見えることです。この点に悪乗りしているのが小泉総理大臣の「靖国神社参拝問題」と「政教分離の原則」を徹底的に無視する姿勢です。これほど浅はかな歴史認識しか持てない、いわば詐欺師的(トリックスター的)な雰囲気を漂わせる総理大臣が、大多数の国民にとって唯一のホープ(日本の未来への望みを託すべき人物)とならざるを得ないところに、現代日本の「貧困な民主主義」の危機が象徴されています。それにしても、健全で成熟した日本の民主主義を実現するために必要な真摯な論点について、なぜ、これほどまで一般国民は無関心なのでしょうか?


<注>その詐欺師的(トリックスター的)な政治の果実が、今や際限のない『擬装とヤラセの発覚』で立ち往生している「安倍政権」の姿です。従って、この際限のない『擬装とヤラセ』の犯人が小泉前首相であることは言うまでもありません。


 一つの理由は、徹底的な儲け主義への傾斜を善しとするまで堕落した、過半のマスコミによる時の政権に迎合した世論操作(権力側に迎合しつつメディア・コントロールに加担するマスコミ)の存在です。また、主要な知識人(特に御用学者)たちの怠慢ということもあります。それは、アカデミズムの特権的な立場を維持するために専門的な知識や知恵を一般国民向けに分かりやすく語ることを拒絶し、トートロジー(同義語反復)で業界だけに通じる難解な論文の再生産に血道を上げるか、あるいは、一般的な意味での国語能力の不足が原因で自分の生きた言葉で分かり易く語ることができないという意味です。そして、もう一つは、世界でも稀な「日本人独特の民衆意識の伝統」のようなものが根強く存在することです。


 日本人の「平等」という考え方の中には二つの異なる思想が混在しています。一つは、明治以降に西洋から入ってきた正しい意味での啓蒙思想の影響です。この思想を真剣に受け継ぐ国民は、残念ながら日本では少数派のようです。もう一つは、奈良時代以降の長い伝統を持つ「神仏習合思想」(syncretism)から生まれた「葬式仏教」や「お払い神道」という、日常生活レベルの伝統・習慣の中に深く根付いている「民衆思想」です。特に江戸時代は厳しい身分・階層の差別社会であったにもかかわらず、意外なことに、これらの伝統・習慣の中には独特の人間平等観が存在したのです。ここで詳細に立ち入ることはできませんが、神仏の前に立つ日本人は平等であるという一種の仲間意識のような精神風土が存在したのです。その仲立ちをしてきたのが農作業・経済・宗教などの目的ごとに結成された「講」集団です。


 いってみれば「講」とは、社寺等を中心とする一般民衆の相互扶助と助け合いのネットワークです。一方で、身分的な位階構造に組み込まれていた社寺の組織が、このようなネットワークによって民衆と結びつくことで、そこから一種独特の平等観が生まれていたのです。明治以降になると、このような民衆意識の傾向は「新興宗教」の中に根強く残り、現代に至っています。この民衆思想の「負の側面」と見做すべき特徴は、有体に言えば“政治権力者の性善説を前提とする親方日の丸的な一家意識”です。従って、このような「日本独特の平等観」は、ひたすら神仏や霊的・迷信的な世界を前提にして導かれるという意味で、近代啓蒙思想が説くイデオロギー的な「自由・平等・博愛」の「平等」とは全く異質です。このため、日本の一般国民(庶民)が靖国神社成立の歴史的な経緯を意識しない(知らない)限り、何の疑いもなく小泉総理大臣の靖国参拝に共鳴するようになることは当然であり、不思議なことではありません。


 このような民衆思想のもう一つの特徴は、それが普通は殆ど政治的な世界と触れ合うことがない庶民の習俗的生活に基盤を持ってきたということです。例えば、江戸時代の初期に存在した「富士講」(富士山信仰を基盤とした講)の教えの根本は「天下泰平、一家繁栄、病苦退散」という、きわめて現世利益的なものであり、視野が狭いと言えばそれまでのことですが、「政治に対する批判精神」のようなものが全く存在しません。これに対して、日本の知識人たちは、これら民衆の世界とは遠くかけ離れた上部の精神世界に住んできました。当然ながら、彼らには政治のメカニズムが見えていたのですが、これら知識人たちは自分たちの世界と自分たちの特権的な生活を守るために、決して庶民の目を政治批判へ結びつけようとはしませんでした。


 従って、日本の庶民が持つ「平等意識」は、伝統的に政治批判や反体制思想に直結することがなかったのです。無論、このように庶民が日常生活を支え合った日本独自の習俗的な側面は“和を大事にする人間関係、身近な弱者に対する思いやり、触れ合いと癒し、相互の助け合い”など、いわば「日本の庶民文化の美徳」として大いに評価されるべき点もあったと思われます。しかし、グローバリズム市場原理主義的な政治・経済環境が否応なく進む中で、この日本伝統の習俗や習慣の美徳の側面が「構造改革規制緩和の名目」と「小泉首相の詐術」で破壊され、残ったのは、きわめて現世利益的で自己中心主義(利己主義)な側面だけとなってしまったのです。このため、今や日本の国民・庶民の間では自己中心・自己本位的な意識だけが突出しています。このような状況の中で、巧妙に(姑息にも)日本政府が自衛隊イラク派遣に伴う「政府責任」の論点を「民間人の人質3人」へ転嫁したため、単純な「自己責任論」に安易に共鳴するという、あまりにも素朴過ぎる日本国民の「利己主義のマグマ(大衆心理)」が爆発したのです。このようなプロセスから“イラク人質事件”の冷酷な人質バッシングが行われたと考えられます。


 また、知識人やマスコミ人の多くは、江戸時代以前の知識人たちと同じように、現代においても、未だに庶民とは異なる上部の精神世界に安住し続けて下界を見下しているのです。このため、彼らにとっての民衆(一般国民・庶民)の存在はメシの種か商売道具以外の何物でもないのです。このように見てくると、日本の近代民主主義が完成するまでには、これからも相当の時間を覚悟する必要があります。今回の「イラク人質事件」では、「イラク戦争の当事者」である肝心のアメリカ政府関係者や欧米のメディアからさえ、日本における「人質バッシングの異様な風潮」を強く戒める声が聞こえてきたのは当然かもしれません。


 また、去る4/25に実施された衆議院議員補欠選挙(埼玉、広島、鹿児島)は、過去最低の投票率(約30〜50%)で連立与党が大勝しましたが、これは半年前のお粗末な衆議院議員選挙の繰り返しに過ぎなかったようです。ここに見られるのは、一般国民の危機感の欠如(命の次に大切な選挙権を安易に放棄して平然としている精神構造)、真摯な政治的批判精神の欠如、身勝手で他人任せの安易でボケーッとした精神です。これこそが、一般国民の「平和ボケ」と「自己責任意識の欠如」です。


 そして、何よりも恐ろしいのは日本の一般国民の中に「公共善」を重視し、「為政者の不正」を厳しく批判し糾弾する意識が殆ど育っていないことです。それどころか、現実はまったく逆であり、“長い物には巻かれろ!、お上のご意向には逆らうな!、錦の御旗に逆らうのは国賊だ!”のようなきわめて低劣な意識が広がりつつあります。なぜ、一般の日本人の倫理観は、このように未熟なレベルで停滞しているのでしょうか?


 一つ考えられるのは、国家としての日本が国土の全てを失って滅亡したという歴史的経験がないことです。そのため、異民族の支配を受け、あるいは異民族と混在して日常生活を営むというような過酷な歴史的経験が殆どありません。異民族支配の下で暮らしたり、異民族との混在生活を長く経験したことがあれば、必然的に時間的・空間的な異質性や多様性を乗り越えて普遍的な人間性を追求せざるを得なくなります。なぜならば、その「普遍的人間性を基準値」として「一定の社会的規範」を創らなければ国家としての協働生活が成立しないからです。


いずれにしても、このように未熟な日本の民主主義の実態が世界中に知れわたれば、 日本は世界中の笑い者です。しかし、端無くも政府と一部マスコミが音頭を取った“イラク人質バッシング騒ぎ”によって、日本の未成熟な民主主義の実態が世界へ向けて発信されてしまいました。それにしても、このような愚民政策を甘んじて受け入れる日本の「貧困な政治基盤」の上にのうのうと安住する政権与党の精神の退廃は恐るべきです。「国民年金の保険料未払い騒動、絶えることがない贈収賄疑惑、政治家と闇の世界の交流疑惑」などは未だまだ可愛らしいものに見えます。それよりも、天文学的な数字の「年金保険料積立金の不正流用問題と巨額の貸し倒れ金疑惑」の顛末はどうなったのでしょうか?「巨額の機密費不正使用疑惑」の追及はどうなったのでしょうか?肝心要のことは、かくのごとくムニャムニャで終わり、綺麗サッパリと忘れ去られるのが「現代の日本政治」の姿です。このような点については、与野党とも同病相哀れむかのようであり、マスメディアも殆んど無関心です。

 本来は、日本政府自身が「健全な歴史教育重視の観点」から本格的な民主主義意識の普及に真っ先に取り組むべきだと思いますが(イラク戦争のように、その民主主義の実現のためには武力を行使したり、巨額の税金を無駄遣いしなくてよいのだから!)、本物の近代民主主義(立憲議会制民主主義)を確立することで、現在の与党政権が自らの墓穴を掘るようなことはできないのかもしれません。そして、何故か「憲法改正」へ向かう動きだけが急がされています。これが、日本の未来を真剣に思う政治的配慮だとすれば、まさに今の日本の民主主義政治の実態は、世にも稀な「愚民助長政策」(mobacracy)に徹しているに過ぎません。


 イラク戦争」突入直前のホワイトハウスのドキュメント風描写で下記(★)の本が、少し前に、アメリカで話題になりました。この本の中で、ブッシュ大統領の拙速な開戦論を、中道派のパウエル国務長官が“イラク人の立場(歴史・文化など)を十分考えて、もっと時間をかけて対応すべきだ”と諌める場面がありますが、このパウエルに対しブッシュは次のように答えています。・・・「イラクの歴史なんか関係ないよ、時間が経てば、みんな死んでしまっているさ」[★Bob Woodward著『Plan of Attack』]


ここにはブッシュ大統領の浅はかな歴史認識が露呈しています。また、彼が、ホンネでは異文化・人間性・人権などを軽視していることが現れています。そして、このような点でブッシュ大統領小泉首相は似た者どうしです。情けないことですが、これら日米両国トップの歴史と文化に関する低劣な意識の共有は、現在の日米関係が低次元な結びつきであることを意味します。まさに「日米・愚者同盟」です。


 言ってしまえば、これら日米両首脳(ブッシュ&小泉)に共通する特徴は、先ず“根本的・核心的な問題を自分の頭で考えられない幼児性”です。また、彼らは、自分にとり不都合なことについては、その一切の結果責任を他人に押し付けるという卑怯で小ずるい精神の持ち主でもあります。その上、この両人は、自らの権力を嵩(かさ)に着て弱い立場の人々を悪人に仕立て上げることが得意なタイプの腰巾着だけを好んで味方にする典型的な暴君(タイラント/tyrant)の本性を共有しています。