toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「民衆の力」を左右する「国語力」の問題(2/2)


<注>この記事はB/Nです。

  本日、第二次小泉内閣がスタートして、愈々、護憲か?改憲か?創憲か?の論議が本格化する時期にさしかかります。日本国憲法についてどのような立場から議論をするにせよ、最低限度のこととして次の6つの点を押さえるべきだと思います。

(1)社会的な階層(階級)、利益集団などの間で成立する社会関係とは、つまるところ人間関係のことだが、この人間関係で作用する力には「物理的な力」と「脳内表象へ作用する力」の二つがある。国家というものは何らかの統制力がなければ存在できないので、その国家に一定の「統制的な権力」が必要であることは当然のことである。そして、この「統制的な権力」に一定の基準を与えるものが「憲法」だと考えられる。(絶対知的な存在として憲法を定位する視点=規定的契機(prescriptive))

(2)どのように厳しい刑罰を定めても殺人事件を皆無とすることができないように、どのように先制攻撃論的な内容を理念とする過激な憲法をつくったとしても戦争を皆無にすることはできない。また、どんな内容の憲法であっても、そんなものは破ってあたりまえという暴政論者が政治権力を掌握した場合は憲法など存在しないに等しくなる。

(3)現代の民主主義国家では、歴史的な経験から学んだ知恵を生かして人間関係へ作用する二つの力のうち「物理的な力」、つまり暴力(戦力、警察力など)の行使を最小限度にするよう、合理性と人権尊重の意識を十分調和させなければならない。これは、人間が過去の歴史から学ぶべきだという意味である。これが、正しい意味での「現実的な政治感覚」(政治的リアリズム感覚)の土台である。(相対知から学ぶという視点=記述的契機(descriptive))しかし、それでも「公正」や「公共善」に対する適切な配慮を失った暴政による極限状況が浮上する可能性は絶えずつきまとっている。

(4)従って、最高裁判所違憲立法審査権の補強または憲法裁判所の創設も併せて検討されなければならない。
・・・本年5月頃、小泉首相靖国神社参拝を憲法違反と断じた福岡地裁の判決に関して、与野党の間から「憲法裁判所」を創設すべきだとの意見が出たことがある。この「憲法裁判所」とは、国会が作った法律や、それに従う行政の行為が憲法に違反していないかどうかを専門の立場で判断する機関と考えられる。与党・自民党が「憲法裁判所」の創設を求めることの背景にある思惑の一つは、内閣法制局の“集団的自衛権の行使は憲法違反である”という解釈を否定することにあると考えられる。つまり、憲法9条をめぐる内閣法制局の解釈を「憲法裁判所」の裁定によって否定することを狙っているわけである。また、改憲の発議に必要な“国会議院の2/3の賛成”という厳しい条件を、例えば“過半数で可”まで緩和するという思惑もある。それは憲法改正を容易にしてしまおうとする思惑であろう。つまり、与党の思惑には、「憲法裁判所」で違憲判決が乱発されるような事態になる可能性を予想し、「憲法裁判所」と「国会」の権限をバランスさせる必要性を根拠として“国会による憲法改正の手続き条件を緩和しようとする意図”が隠れているのだと考えられる。逆に、野党側の思惑は、現在の最高裁判所違憲立法審査権が形骸化(政治問題に関する判断の留保)していることの補完・補強ということであろう。このように、同じ「憲法裁判所」の創設という問題にしても、与野党の立場の違いで、全く異なる「政治的リアリズム」が想定(認識)されている。一方、ヨーロッパ各国で「憲法裁判所」に期待される最大の役割は「人権の保障」ということである。例えば、ドイツの「憲法裁判所」には、ナチズムなど歴史上の苦い経験から「民主主義における多数の横暴」や「独裁政権」による「主権在民の原則」の無視を厳しく監視することが期待されている。つまり、政治から独立した「憲法裁判所」が、独立公正な立場(法の支配の原則)で「憲法違反」を見張るわけである。このように、同じ「憲法裁判所」という制度に関しても異なった三様の「現実」が想定されるが、我われ一般国民(市民)は、余程の関心を持つ国民でなければ、これらの「政治的リアリズム」の違いに気が付かないであろう。結局、どのような制度を創り、工夫するにせよ、一般国民の「批判・監視の眼」(主権在民を尊重する意識)が働かなければ、結局は「政治権力の暴走」を許すことになってしまうのである。

(5)一般の法律でも同じことだが、特に憲法の制定内容を検討・審議・討論するにあたっては、それにかかわる議論が、情報公開の原則に則って文字通りオープンに、民主的かつ公正に進められなければならない。また、その決定プロセスが民主主義のルールで行われなければならないのは当然のことである。

(6)(1)〜(5)の全てにかかわる関連情報を正確に国民へ伝達し、難解な法律用語や法制関連の知識を正しく、わかり易く一般国民へ解説し、最終的な手続き(国民投票、選挙など)までの行政手続のプロセスを評価・監視するのはマスコミの重要な役割である。横暴な一部の政治権力者や、情報源と思しき特定の側近に平伏しながら取材するスタイルを是とする、現在のようなサラリーマン・ジャーナリズムの姿では、このような重責が全うできるとはとても思われない。

  以上のような日本の民主主義の現況とアルダ-ティ・ロイの講演内容を照らし合わせて考えさせられるのは、やはり「『民衆の力』を左右する『国語力』の問題」ということです。先に述べたとおり、現代の民主主義国家では、歴史的な経験から学んだ知恵を生かして人間関係へ作用する二つの力のうち「物理的な力」、つまり暴力(戦力、警察力など)の行使を最小限度にするよう十分配慮されているはずですが、それでも「公正」や「公共善」に対する適切な配慮を失った暴政による極限状況が浮上する可能性は絶えずつきまとっています。そして、もし、そうなった場合にはどのような民主主義国家であるとしても「脳内の表象へ作用する力」という指導・指示・命令的な統制権力だけでは制御不能な民衆側からの反発が噴出する可能性を内包しています。これは、普段の生活の中では、あまり考えたくもないことですが、人間も動物の一種として生きている以上は絶対に避けられない原点、いわば生物個体に埋め込まれた『逆鱗』(生物個体としての自己防衛本能)のようなものです。誤ってこの『逆鱗』を踏んだ権力者は直接的な反撃を食らう恐れがあります。

  アルダーティ・ロイが上の講演で“このような反民主主義的な状態を放置すると、いずれは真の自由を取り戻すために革命が必要となるような深刻な事態が到来するかもしれない。”と言っているのはこのことを指している訳です。まことに厳しいことながら、これが現実です。また、民主主義国家における政治権力者といえども、このような現実社会の原理・原則的メカニズムをリアルに、かつシビアに認識しなければなりません。だからこそ、現代の民主主義国家では貴重な歴史体験から学び取った議会制度、選挙制度など人間の英知を結集した政治システムが工夫され採用されている訳です。逆に言えば、現代の民主主義国家においても、現在の政治状況に対する無関心や単にシラケた心情から選挙権を放棄することは、このような『最悪の修羅場』(政治権力と国民の意志が過激に衝突する場面)が生じた場合に、自分が政治権力的な暴力的統制手段によって危害を加えられたり、あるいは、逆に自分が他人を殺戮する羽目になったり、他人へ危害を加えたりする事態を了承したことに等しい行為なのです。だからこそ「選挙権の行使」は民主主義社会を維持するための最低限度のルールであり、かつ「自分の命を守ることに次いで大切な権利」だとされている訳です。ここまで突き詰めて厳しく考えてみると、日本の国政選挙の度に異常に低い投票率が問題視され続けているのは実に嘆かわしいことです。

  参考まで、国政選挙に関する日本と主な国々の直近の投票率データを列記すると下記のとおりです。
(外国データの出典はInternational IDEA、Stockholm、Sweden/http://www.kh-web.org/links/stat.htm
<日本>衆議院・総選挙(2003.11.9)59.86% 衆議院補欠選挙(2004.4.13)・・・東京6区40.63%、山梨3区54.5%、茨城7区53.8%、
参議院選挙(2004.7.11)56.57%
アメリカ>議会選挙(2000)63.76%、大統領選挙(2000)67.39%<カナダ>議会選挙(2000)61.18%
<イギリス>議会選挙(1997)71.46%、議会選挙(2001)59.38%<スウエーデン>議会選挙(2002)80.11%
<ノルウエー>議会選挙(2001)74.95%<フィンラ,ンド>議会選挙(1999)65.27%、大統領選挙(2000)76.8%
デンマーク>議会選挙(2001)87.15%<オランダ>議会選挙(2003)80.04%<スペイン>議会(総)選挙(2004)77.22%
<イタリア>議会選挙(2001)81.44%<ギリシア>議会選挙(2000)74.97%<ドイツ>議会選挙(2002)79.08%
<フランス>議会選挙(2002)79.71%<オーストラリア>議会選挙(2001)94.85%
<韓国>議会選挙(2000)57.21%、大統領選挙(2002)70.83%<台湾>議会選挙(1998)68.09%、総統選挙(2000)82.69%
<マレーシア>議会選挙(1999)68.65%<インドネシア>(1999)93.3%<タイ>議会選挙(2000)69.95%
シンガポール>議会選挙(2001)94.61%、大統領選挙(1993)94.48%
<インド>議会選挙(2004)55.0%、大統領選挙(2002)70.8%

  この一連の投票率の比較から、近年における日本の国政選挙の投票率の異常な低さ(少なくとも欧米・アジアの民主主義国の標準よりも10ポイント程度は低い!)という真に悲しむべき現実が浮かび上がります。日本の政権を担当する与党政治家たちと責任政党自身は、このような日本の民主政治の現実をどのように見ているのでしょうか?かつて、某・与党大物政治家が、選挙期日を目前として「多くの選挙民は眠っていてくれると有難い」というホンネを漏らしたことがありますが、この辺に「日本の民主主義政治の実像」があるようです。ただ、善良なる日本の一般民衆は、その問題の深刻さに気付かされていないだけなのです。これはアルダ-ティ・ロイがインドの問題として指摘したのと同じことです。つまり、これが日本における「民衆の国語力」の問題であり、このことが国政選挙の投票率が低くなる大きな原因だと思われます。

  ここ2〜3年の間にマスコミがワンフレーズ・ポリティクスなる不可思議な言葉を流行らせたのも「民衆の国語力」の問題は放置した方がマスコミ人の身のためだという自戒からではなかったのか、と疑いたくなります。幸いにも、日本の場合は義務教育就学率が世界でもトップクラスという有利な基礎条件があるので、更なる教育方法の工夫とジャーナリズムの自覚と奮起があれば「民衆の国語力」をレベルアップして、正しい意味での市民参加型の民主主義を実現するための自覚を高めることは可能だと思います。やり方次第ですが、このような点では日本の場合は未だ希望が持てると思います。

  むしろ、この問題が深刻化しつつあるのは、約1ヵ月後に大統領選挙が迫っているアメリカの場合だと思われます。「9.11N.Y.同時多発テロ事件」の後遺症ともいえる特別な「恐怖心パラノイア」に取り憑かれたアメリカの「一般民衆」の心にに大きな影響を与えると言う意味で、また現実的に大統領選挙の結果を左右する力(選挙の投票数を確保する力)を持つといういう意味でブッシュ政権を支える大きな政治的圧力の一つが、アメリカの「キリスト教原理主義」(Fundamentalism)、または「キリスト教右派」(キリスト教保守主義)と呼ばれる一大勢力です。様々な統計データがあるので判然としないのですが、この「キリスト教右派」勢力は、アメリカの有権者総数の少なくとも3〜4割程度(4,800〜6,400万人)は占めているようです。現実に、彼らも様々な分派に分かれていますが、ブッシュ政権を支えるという一点で大きく纏まっています。恐るべきことですが、彼らアメリカのキリスト教右派勢力には色濃くカルト(狂信)の臭いが立ち込めています。

  例えば、彼らの共通な信仰の原点にデイスペンセーショナリズム(dispensationalism)という考え方があります。それは、“父なる神の絶対的な摂理による新しい統治制度(dinpensation)を、この現実の世界で実現し、新たな神の国を創る”という強固な信念です。その手段は武力(聖戦)によって新イスラエル王国を建設し、その新生イスラエルを中心として、この地球上の世界を再構築するという信念です。もう一つ、ブッシュ政権を支持する基盤が選挙登録者総数の3〜4%(500〜700万人)に過ぎないながら、前回の「ブッシュ対ゴアの大接戦」が予想される来月の大統領選挙の結果を左右する決定権を握る立場に立っているのがユダヤ人たちです。また、アラブ・テロリストに対する「先制攻撃論」を標榜するネオコン一派がブッシュ政権の方向を左右していることは周知のことですが、彼らのルーツはコミュニスト共産主義者)から転向したインテリ・ユダヤ人たちです。キリスト教徒とユダヤ教徒は同じ「啓典の民」であるため、現実的な利害関係から、今のところ(将来は?・・・「啓典」どおり原理的に理解すれば、これらユダヤ教徒たちとキリスト教原理主義者たちの間で殺戮戦争が起こる可能性もある)は強固に結びついているようです。

<注>*共産主義コミュニズム)とネオコン新保守主義者たち)の関係
・・・科学的社会主義共産主義思想/科学的社会主義による世界統一思想)を体系化したカール・マルクス(Karl H. Marx/1818-1883)の両親は共に由緒あるラビ(ユダヤ教の聖職者)の家系であった。古代ユダヤ思想の中心となるのはメシア待望論で、メシアとは超人的な英知と感性を持った存在だとされ、それが新約聖書ではキリストということになる。「旧約聖書」の根本、言い換えればユダヤ教のメシア思想の根本は、ダビデの星(メシア)の下に世界中の富(カネと財物)を集めて「新生イスラエル」を創り、そこから「聖戦」(先制攻撃)を仕掛けて異教徒を殲滅し、世界を再統一するという超原理主義的な考え方である。従って、仮に、実はコミュニズムと原理的なメシア思想が表裏一体のものであったと仮定すると、コミュニストからの転向者とされるネオコン一派の過激な「先制攻撃論、予防戦争論」の実像と、彼らがドイツ・フランスなどの「文化多元主義的な市民社会論」(国際法重視、国連中心の民主主義世界)を頑強に拒絶する意味がリアルに見えてくる。また、このような観点から約50年に及ぶ「米ソ対立の冷戦時代」を振りかえると、現代史の新たな側面が浮かび上がってくるはずである。このように考えると、ネオコンが「新保守主義者」と呼ばれるのは悪い冗談のようにさえ思われるはずである。なぜなら、保守主義(伝統文化尊重主義)とネオコン(多元文化破壊主義)は、このように水と油の違いの如く全くの別物だからである。(この点については、“伝統的保守主義者”の評論家・西部遭氏がどこかで語っていたように思われる・・・要するに゛サヨクだの、ウヨクだの”という議論はフランス革命の時の国民公会で、たまたまどちら側に座ったのかということであり、「そんなことは大した問題ではない!」という訳であり、ただ言えることは、貧弱な「国語力」の一般民衆を誑かすのには十分役に立っているという訳である)また、このような観点から考えると「ネオコンユダヤ原理主義コミュニズム)、キリスト教原理主義ユダヤ教右派」という狂信的(カルト的)な「原理主義三派」の結託によって、その「予防戦争論」が方向付けられている「ブッシュ政権の危険性」が恐ろしくリアルに見えてくるはずである。(なお、ネオコンのルーツとされるシカゴ大学レオ・シュトラウス派については「HPレンブラントの眼、日記2・2003.4.29『政治的無関心ネオコンリバイアサンhttp://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/nikki2.htmを参照のこと)

  ただ、アメリカ国内で貧富の差が拡大しつつあることを反映して、アメリカのユダヤ人社会も勝ち組(富めるユダヤ人層)と負け組み(貧しいユダヤ人層)に分かれつつあり、大統領選挙でキリスト教右派と手を携えてブッシュ政権を支持するユダヤ人たちは後者に、つまり貧困層に集中しているようです。一方、ジョージ・ソロスに代表されるような富めるユダヤ人たちは、ブッシュ政権とは距離を置いています。いずれにしても、本来は勝ち組層の支持が多いはずの共和党ブッシュ政権の選挙結果を左右するのは、アメリカ国民の中で「国語力」に問題を抱える「一般の貧困層ユダヤ人の貧困層」に属する人々なのです。このように自由と民主主義の先進国・アメリカでも、その貧困な「国語力」ゆえに真実の「政治的リアリズム」を知ることができない(敢えて知らされない)悲惨な「一般民衆」が存在するのです。つまり、自由と民主主義の国・アメリカ合衆国ブッシュ政権も、インドや日本と同様に、選挙結果を制するために一般民衆の「貧困な国語力」を利用している訳です。「帝国の時代」と呼ばれる現代社会の奥底には、このように中々解決の難しい問題が潜んでいるのです。
(2004.9.27 News-Handler、初出)