toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

自然法則に従う「いろいろ」/晴れた空はなぜ青い?(1/2)

toxandoria2005-04-09


<注>この記事はB/Nです。

[「固有色」の波長と「可視光線のスペクトル」の分布] 
400〜435nm(紫) 435〜480nm(青)   480〜490nm(緑青)490〜500nm(青緑)
500〜560nm(緑) 560〜580nm(黄緑)  580〜595nm(黄)  595〜610nm(橙)
610〜750nm(赤) 750〜800nm(赤紫)
Thanks to http://www.geocities.co.jp/AnimalPark/2699/hasyoku4.html 


 『減算混合の究極は黒くなる』というのが色素(顔料、染料)を混合した場合の発色原理で、『加算混合の究極は白くなる』というのは光(太陽光)を混合したときの発色原理であることがよく知られています。「顔料」は塗って使う色素であり、「染料」は染めるための色素を指す呼び名です。なお、「顔料」の「顔」(がん、かお)の原義は“ひたい、色”のことです。人間の内面(心理・生理の両面)の動き(動揺、錯乱、欲望、野心、上気、自律神経の不調など)は、必ず“いろいろ”に変化する微妙な色として顔に表れるものだということが『忍ぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問うまで』(百人一首)のよう に表現されています。また、『忍ぶれど色に出にけり長襦袢・・・』など寸鉄人を刺し(殺し)思わずドキッとさせられるような戯れ歌もあります。

 西欧キリスト教世界の伝統では、赤・青など個別の色に対応して、ある一定の象徴的な意味が与えられています。例えば、赤=「地上の愛、情欲、激情、創造」、橙(オレンジ色)=「完全、無限、貞節聖母マリアの色」、茶=「大地、秋、禁欲」、黄=「黄金、光、太陽、富と権力」、緑=「海、春、自然、生命、平和」、青・藍(欧米人は藍色と青を区別しない)=「天上の愛、希望、正直、誠実」、紫=「権力、崇高、名誉、知識」、白=「天界、光輝、神聖、純潔、啓示、真理、永遠」、灰色=「曖昧、無関心、無欲、保守」、黒=「始原、虚無、頑固、死」などです。街を散策しているとき、なんとなく落ち着かず気ぜわしい感じになったり、なぜか急に胸騒ぎがして不安に襲われたり、あるいはなんとなく爽やかな気分で歩いていたりすることがありますが、この場合、無意識のうちに街の色彩景観(色彩環境)が我われの内面に大きな影響を与えていることが多いのです。

 西欧キリスト教世界の伝統と無縁な日本人の場合は、先に述べた象徴的な意味と直接的に結びつくことは少ないと思われますが、我われは、非常に多様で、しかも社会的・家庭的・個人的な経験・体験・学習などの中から無意識に身につけたプラス・マイナスの色彩感情のようなものを持っているはずです。従って、色彩環境が自分にとってプラスの場合は癒され、マイナスの場合は精神的・心理的にダメージを受けることが考えられるのです。しかも、日常生活を単色環境の中で送ることは稀で、我われは、普通は様々な色彩が混じりあった“混合色彩”という現実の中で生活しています。

 ところで、内面の作用である人間の色彩感情(色彩に触発された感情)は、果たして減算混合(色素の混合/究極は黒)なのか加算混合(光の混合/究極は白)なのか、という問題があります。しかし、我われは外部環境の中で生成された混合色や単色を視覚を通してその都度受け入れているわけで、内面のパレットや内面空間で色彩表象の混合が行われるような現象は考えにくいことです。ただ、瞬時ごとの視覚の働きを神経生理学の回路で考えると、「眼球-網膜-神経回路-脳」という一連の色彩・情報処理のプロセスでは、網膜上の「明度」を感じる細胞と「光の三原色(赤、緑、青(厳密には菫色))」を個々に感じる細胞の役割分担のもとで加算混合のような処理(グラスマンの第一法則)が行われているようです。自然の光の明るさを求めた印象派の画家たちが絵の具をパレット上で混ぜることなく、固有色のままで細かな点に配置し、目の働きに任せて明るい色を再現しようとしたのは、このような理論的根拠に基づいていたようです。

 このように色彩の点々を併置して遠くから眺めることで網膜上で色を混ぜる印象派の手法は「視覚混合」と名付けられており、これは我われがカラーテレビの画面を見て色彩を感じる発色の原理とほぼ同じです。また、西洋絵画における描画法の歴史(西洋美術史)の観点から見ると、心象風景の再現描写(模倣、写実)から始まり、網膜処理的な色彩再現のレベルを経て、やがて脳内処理的なレベル(抽象化)へと向かって発展的に進んで来た、美の受容に関する大きな段階的な流れがクローズアップされます。

 イタリア・初期ルネッサンスの時代に書かれた『絵画論』(Trattato della Pittura)で、画家チェンニーノ・チェンニーニ(Cennnino Cennnini/ca1370-ca1435)は、“芸術の基本はディゼーニョ(素描)と色彩にある”と述べています。チェンニーノはこの著書で、14世紀イタリアの画家たちの技法とジョット(Giotto di Bondone/ca1266-1337)との関係についても論じました。ジョットはイタリア・ルネッサンス美術の先駆者で、静謐ながらも独特の生気に満ちた空間と現実感を創り上げた画家です。

 彼は、初めて従来の生硬な人物像から脱皮した人間的動作と感情をもつ現実的な人物像の表現に成功しました。その人物の背後の建築物や風景も立体的で、彼以前の時代のものと比べれば、よりリアルな空間を構成しています。チェンニーノは、ジョットが新時代のイタリア絵画の基礎を築き、その後のイタリア全土の画家たちに多大な影響を与えたと賞賛しています。その後、ギベルティ(Ghiberti Lorenzo/1378-1455/イタリア初期ルネッサンスの代表的な彫刻家の一人)、アルベルティ(L.A. Alberti/1404-1472/美術理論家として15世紀の第一人者、著書『絵画論』、『建築論』)らが、基本的な美術の要素として<空間と物体の境界を示す線>を強調しました。

 特に、彼らが<線>を重視したということは“空間と個々の物体の関係を明晰に認識し、<線>によって輪郭を明瞭に表現するのが芸術の基本だ”という美意識がこの頃に生まれたことを意味します。また、彼らの心の中には、“物体と空間は幾何学的・数学的に把握できる”という確固たる理念が定着していたのです。この基本理念は17世紀のニコラス・プサン(Nicolas Poussin/1593-1665/フランス・アカデミズムを確立した古典主義の大家)や19世紀のアングル(J.A.D. Ingres/1780-1867/ラファエロを賛美した19世紀古典派の代表者)などの西欧古典主義の根本として後世の芸術全般に大きな影響を与えてきました。そして、ある意味では現代もその多大な影響を受け続けているのです。

 ところで、1400年代の初期ルネサンス(クアトロチェント)を代表する画家の一人であるピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero dellaFrancesca/ca1416-1492)は、このような古典主義の本質的な根本理念、つまり<線による素描の重視>を実践した最初にして最大の代表者だとされています。フランチェスカは戸外で絵画を制作する「外光派」の先駆者でもあり、精確な<線>とともに色彩と明暗の濃淡を駆使して描く「空気遠近法」の技術を使って、人物と背景が調和した力強く統一的な絵画空間を創ることに成功しています。いささか動きの乏しいところがありますが、その人物像も巧みな陰影と独特の短縮法によって現実的な量感を出すことに成功しています。このような新しい絵画技術を確立したピエロ・デッラ・フランチェスカは後の多くの画家たちに計りしれない感化を及ぼしました。

 同様にクアトロチェントを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci/1452-1519)はチェンニーノの影響を受けて著書『絵画論』を著しました。その著書でレオナルドは“物体と物体を区切る線は想像上のもので実在しない”という謎めいた言葉を残しています。レオナルドが言いたかったのは“私たちが現実空間の中で物体の形を認識できるのは、個々の物体の間に色彩や明るさの違いがあるからで、現実を冷静に観察すれば明瞭な輪郭線などは存在していない”ということです。しかし、こう理解したとしても、一方では“そこに線があるように見える”ということも事実です。なぜ、このような矛盾した現実認識が存在し得るのでしょうか?実は、私たちの視覚的な認知メカニズムの中では、周辺の環境情報を簡略化することによって認知速度を速めるという驚くべき機能が作用しているのです。

 私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。無論、私たちが少しでも目の位置をズラせば、これらグループ間の関係は瞬時に変わってしまいます。従って、どのようにリアルに描かれたとしても、絵画上のリアリティは様々な人々が動きながら個々に認識している現実とは異なることになるのです。このような考え方は、近年、再評価されつつある20世紀前半のアメリカの認知心理学ジェームズ・ギブソンアフォーダンス理論に近いものがあります。

 レオナルドによって完成された「線遠近法」(輪郭処理)と「空気遠近法」(色彩の面的処理)による現実空間の表現は、盛期ルネッサンスの二大巨匠ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti/1475-1564)とラファエロ(Raffaello Santi/1483-1520)で頂点に達し、その伝統は17世紀以降のフランス・アカデミズムに引き継がれ、更に洗練されて行きます。この過程で人間の視覚的な記憶や文脈的な記憶が繰り返し再現・定着されるようになり、カラヴァッジョ(M. Caravaggio/ca1565-1609)などのバロック絵画、ルーベンス(Peter Paul Rubens/1577-1640/フランドル絵画)、レンブラント(Rembrandt/1606-1669/17世紀オランダ絵画)などを経て、その成果はダヴィッド(J.L. David/1748-1825)、アングル(J.A. Ingres/1780-1867)らのフランス・アカデミズムの新古典主義絵画、そしてジェリコー(Gericault Theodore/1791-1824)、ドラクロワ(F.V.E. Delacreix/1798-1863)らのロマン主義絵画などにつながります。

 ファン・アイク兄弟を油絵具の創始者とする説が(ヴァザーりの『美術家列伝』)ありますが、ともかくも、この油絵具は、15世紀後半にフランドルからイタリアへ伝わったとされています。やがて、明暗の強い対比表現を好んだイタリアの画家たちは、それまでの「白色下地」に代えて「有色下地」の技法を考案します。初めに「白色下地」の表面全体を褐色で着色し、これを“中間調”として最明部を白、暗部を暗灰色として全体の明暗の調子を大まかに整える技法です。特に鮮やかな発色を要する部分は、宗教上の約束事などに従った固有色を薄く半透明に塗っておき、このような下書きの上に透明なグラッシ(光沢と深みを出す技法)を何回も塗り重ねて仕上げてゆくようになります。

 やがて、この新しい技術は、特にジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini/ca1430-1516)、ジョルジオーネ(Giorgione/1478-1510)、ティツィアーノ(Tiziano/1476-1576)らのヴェネツィア派の絵画に大きな影響を与えることになります。なお、ジョヴァンニ・ベッリーニヴェネツィア派の開祖、ジョルジオーネは初めて情感的な風景画の要素をヴェネツィア派に取り入れた画家、ティツィアーノは独自の色彩美によってヴェネツィア派の頂点を極めバロック絵画への橋渡しの役を担った画家とされています。ヴェネツイ派の絵画は、色彩感覚に特別の関心を向けたという意味で、どちらかというとデュゼーニョ(素描)中心のフィレンツェ絵画とは対照的であり、盛期ルネサンスのイタリアで極めて個性的な位置を占めており、後の時代のイギリス風景画や印象派などの外光派の歴史的流れに大きな影響を与えました。16世紀になると、絵具以外の技術上の変化といえるキャンバスの導入が行われました。イタリアで16世紀後半から、フランドルでは17世紀早々(レンブラントの時代)からキャンバスの使用が目立つようになります。一説では、ヴェネチア派の画家たちが艦船用の帆布を転用したのが最初だともされています。

 また、このころから絵画の流通商品としての性格が強まり、その輸送上の事情も影響を与えたと考えられています。17世紀初頭までには、絵画需要に応ずるため油の乾燥促進剤の研究がかなり進んでおり、1630年代には油絵具の粘度はかなり調整ができるようになっていました。17世紀半ばになると、硬塗り絵具の先駆が発生して小さいヘラやコテを使った絵具の盛り上げやブラッシュ・ワーク(Brush-Work/筆運び)の痕跡を残すこと、あるいは絵具が盛り上がった谷間にグラッシを繰り返して意図的に色のムラをつくるなどの技法が使えるようになりました。そして、このような高度な油絵の技法を始めて駆使したのが17世紀オランダの画家レンブラントです。18世紀フランスの絶対王政下では宮殿を飾る王侯貴族の肖像画が流行するようになり、それに相応しい大きさの木枠キャンバスが作られます。

 やがて、自然主義が台頭して明るい外光の自然美が評価されると、再びキャンバスの「白色下地」が好まれるようになり、イギリスでは、18世紀後半の産業革命期になると、白い下塗りをしたキャンバス用の麻布が商品として開発されて“機械練り”の絵具も生産されるようになりました。イギリスの産業革命は徐々に欧州各へ波及して行くのですが、それから19世紀末頃までの約100年の間に、顔料化学にも革命が起こり“Zinc-White(亜鉛華、亜鉛白)、クローム黄、アリザリン・レーキ(鮮やかな紅色色素)”などの「新しい色」が次々と誕生します。これによって、画家たちは絵具を混ぜ合わせたり、グラッシの工夫に取り組むなどの手間から解放されるようになったのです。このように見てくると、18世紀後半の「印象派」の成立が、このような「白色下地」と「色彩科学(化学)革命」の申し子でもあったことが理解できるのです。

 マネ(Edouard Manet/1832-1883)の『草上の食事』(1863)の官展落選に始まるとされる印象派絵画の特徴の一つは、遠近法と顔料の塗り込み技術を駆使して再現・描写される「心象風景の絵画」のレベルを脱し、初めて、本格的な「網膜絵画」を完成したということです。これは、キャンバス上に併置された固有色(ローカル・カラー)を視覚の働きが瞬時にとらえられた上で、「眼球-網膜-神経回路-脳」という色彩・情報処理のための生理的プロセスで処理される、つまり網膜上の「明度」を感じる細胞と「光の三原色(赤、緑、青)」を個々に感じる細胞の役割分担のもとで加算混合処理が、主に網膜の上で行われるということです。そのような網膜上の処理プロセスを経て、我われの視覚は自然界に満ちた明るい色彩と光が織りなす微妙なニュアンスをキャンバス上に発見することになったのです。やがて、この視覚上のメカニズムの実践的な研究は、カンディンスキー(Vassilii Kandinskii/1866-1944)、ピカソ(Pablo Picasso/1881-1973)らの天才画家の出現によって、更に「脳内処理の絵画」(抽象絵画)の段階へ押し進められて行くのです。
(2004.8.15 News-Handler、初出 )