toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

自然法則に従う「いろいろ」/晴れた空はなぜ青い?(2/2)


<注>この記事はB/Nです。


夏の空にせよ、秋の空にせよ、高く晴れ上がった天気がよい日の青空ほど我われの気持ちを爽快にしてくれるものはありません。西欧キリスト教世界の伝統では、青の象徴的な意味は「天上の愛、希望、正直、誠実」でした。ところで、空はなぜ青く見えるのでしょうか?それについては次のような科学的説明がなされています。・・・雲が見られないほど十分に高い上空では水素・酸素・炭酸ガスなどの空気成分の分子(可視光線の波長全体の長さ[約400〜800nm/ナノ・メートル、1nm=10億分の1メートル]より十分に小さい)に太陽の光が当ることになり、ここでは「レイリー散乱」と呼ばれる現象が起こっています。この時、可視光線の波長は、固有色の違い(波長の違い)によって異なり、その散乱の度合いの大きさは“波長の4乗に反比例する”(この現象を発見したのがレイリー)ことが知られています。従って、赤い光(波長が相対的に大きい)より青い光(波長が相対的に小さい)の方が散乱される度合いが大きく、その大部分は地上まで到達します。


しかし、赤い光は散乱の度合い(散乱光のエネルギー)が小さいため地上に届くまでに減衰してしまいます。このため、高い空の色は青く見える訳です。一方、相対的に低い高度の上空には雲や霧などの大きな粒子(光の波長と同程度の大きさ)があり、ここでは「レイリー散乱」は起こらず「ミー散乱」と呼ばれる現象が起こります。この散乱の大きさの度合いは光の波長の大きさと無関係であり、すべての固有色の光が同等に散乱するので、雲や霧があるところでは光の固有色の加算混合が起こり白い色となります。そのため、雲や霧は白く見えるのです。なお、雲が厚くなれば散乱光のエネルギー全体が減衰するので黒っぽく見えるようになります。また、相対的に高いところの空気の層を斜め方向の低い角度から見上げれば、空気の層が厚くなり、空気の層が厚くなれば青い光の散乱光が減衰して消滅し、少ないながらも残りの赤い光だけが地上に到達することになります。このため夕焼けや朝焼けは赤く見えるのです。・・・


 高度が1万メートル程度の対流圏界面成層圏の下)を飛行するジェット旅客機の窓の外を見ると青い色よりも紫に近い、深く暗い色に見えることがあります。それは、対流圏界面が薄い空気層(空気成分の分子量が少ない)であるため、そこでは青よりも“より波長の短い光”が散乱しており、また、その光量そのものが少ないため黒っぽい紫色に見えるのです。更に、全く空気が存在しない宇宙に飛び出せば、そこは強烈な白い光を発している太陽以外は真っ黒な宇宙空間です。なお、ESO(ヨーロッパ南天天文台)の電波望遠鏡VLAとハッブル宇宙望遠鏡の観測結果によると、現在の宇宙の色はベージュ色だそうです。しかし、現実の宇宙では、その光の量があまりにも少ないため、地上の人間はこの色を感じることができないということです。


http://www.astroarts.co.jp/news/2003/12/24color_universe/index-j.shtml)また、人工衛星「WMAP」の観測データを解析したNASAの最近の発表によると、宇宙に存在するエネルギー密度の内訳は、光を発している通常の物質が僅か4%で、光を発していない「暗黒物質」(Dark Matter/正体不明の物質)が23%、残りの73%も「暗黒エネルギー(宇宙項)」と呼ばれるものであることが判明しています。これらのことから、「光」に満ちた地球上の生命圏がいかに希少で、貴重なものであるかが分かります。(http://www.kenjm.cst.nihon-u.ac.jp/rik_news/newtra_nihei.html


 光の研究の最も古い事例は古代ギリシアの哲学者ソクラテス(BC5〜4世紀)、プラトン(BC4世紀)、アリストテレス(BC4世紀)そして「新プラトン主義哲学」のプロティノス(AD3世紀)あたりまで遡るようですが、彼らのテーマは「光の形而上学」でした。現代で言う科学的な意味での研究の始祖は、記録に残る限り13世紀のイスラムの物理学者イブン・アルハイサムと、その影響を受けたとされ、その博識によって『驚異博士』と呼ばれた英国のロジャー・ベーコン(Roger Bacon/ca1219-92/スコラ哲学者、科学者)です。しかし、色彩の観点から光を意識的に研究した最初の科学者は英国のニュートン(Isaak Newton/1643-1727)です。ニュートンは1704年に太陽光をプリズムで七色に分光し、すべての色を加算すると白色になることを実証しました。逆に言えば、ニュートンは色彩が光の中に隠れていることを実証した訳です。


しかし、1810年(60歳の時)にドイツの文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe/1749-1832)は、還元論的なニュートンの実験結果を否定する目的で大分の著書『色彩論』を発表しました。ゲーテの立場を強いて言えば、古代ギリシアの「光の形而上学」以来の伝統である“闇と光の中から色彩が立ち上がってくる”という認知心理学的な現象を科学的に把握するということです。別に言えば、人間が色彩を感じたとき、それによってどのような精神作用を受けるのか、ということの論理的な解明です。これは17世紀オランダの画家、レンブラントが生涯をかけて立ち向かった実践美学(芸術学)のテーマでもありました。ゲーテの論考と実証によると、色彩は光と影の境界に発生します。驚くべきことに、これは20世紀の前半にアメリカの認知心理学者ジェームス・ギブソン(James J. Gibson/1904-1979)が提唱したアフォーダンス理論のテーマに重なります。しかも、色彩の科学は極めて学際的な性格のものであり、コンピュータの発達に伴い広がりつつあるヴァーチャル・リアリティの壁(限界)の問題やベンヤミン(Walter Benjamin/1892-1940/ドイツの思想家)の「アウラ」(芸術作品の一期一会の価値)の問題にも重なってきます。


また、色彩の科学は、ドイツ現象学創始者フッサール(Edmund Husserl/1859-193)が「現象学的還元」を説明するために“この瞬間における人間の根源的な現実体験”、つまり直接的・主観的な光景のことを「本質直観」(Wesensschau)と名付けたことにも重なります。ここでフッサールは、“この本質直観という言葉に神秘的な意味を与えてはならない”と明言します。まして、狂信やカルトのような超感覚的な能力への接近も避けています。大事なことは、我われが自分たちの具体的な経験のなかでの「本質直観」によって、そこにある偶然的な事実以上のものに関する、ある一定の「知的な構造」、つまり論理的に説明可能な「一つの新たな認識」を発見することだ、とフッサールは言います。このような立場に立ってこそ、我われは自分たちの特殊な内輪の生活に閉じこもることなく、あらゆる人々に開かれ、妥当する知識や共有可能な認識に接近することができるのです。別に言えば、フッサールの「本質直観」とは、人間の生き方において未だ主題化されていない「未知の価値」を発見することなのです。このような意味で、ゲーテの『色彩論』は、今、最も注目されるホットで学際的な研究テーマとして見直されつつあるのです。


 “一見神秘的な『色彩象徴』の意味”、“『色彩中心の描画法』の歴史”、“地球環境をとりまく『色彩現象』の様々”という三つの観点から光と色彩について概観して分かるのは、これら「いろいろな光と色彩をめぐる現象」の根底には「自然法則の論理」(抽象論理ではなく、観察可能な現象展開としての因果律)が深く根をおろしているということです。だから、人間社会の綾を表現する「いろいろ」という「言葉」(シニフィアン/signifiant)の「意味内容」(シニフィエ/signifie)の深層には、そのような意味での「論理性」がシッカリ根をおろしているはずです。だから、それを聴衆を煙に巻くために便利な不条理で曖昧な誤魔化しの言葉として使うべきではないのです。だからこそ、人は何か論理的な弁明を求められたときに必死になって「いろいろ」という言葉を使って真剣に答えようと努力するのです。


このような観点からすると、最近、日本の政治家が使う「いろいろ」という表現が困難な局面を打開するための屁理屈として、つまり誤魔化しに役立つ重宝な言葉として使われているのは誤りで、まことに由々しき事態です。そして、最近、その極めつけのような出来事が起こっています。2004.8.10付・毎日新聞等の一部マスコミの報道によると、日本政府は、10日、小泉純一郎首相が会社員時代に勤務実態がないまま厚生年金に加入していた疑惑を国会で追及され“人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ”と答弁したことについて、“この発言を公式に撤回すべきではない”とする答弁書を「閣議決定」したそうです。これで、この小泉首相の“いろいろ発言”は失言ではないとする政府の立場が公に確認されたことになる訳です。この報道内容については、ほとんどの一般国民もマスコミも大きな関心を向けなかったようです。しかし、このことは、実は日本の国家としての有り様の混迷の度合いがますます深まっていることを象徴する出来事です。


なぜなら、この発言内容は明らかに現実に起こったことを誤魔化すための“いろいろ”発言であるにもかかわらず(先に述べたとおり“いろいろ”発言をそのような誤魔化す意図で使う、そのこと自体が根本的に誤りなのですが・・・)、つまり、民主主義国家の国民から信任を受けた最高の行政意志決定機関が、総理大臣の虚偽発言を不問に付すことを公式に決めたという、真に道理に反する出来事だからです。これは、恐るべき「暴政」の現れです。最高位の政治権力者の発言に一切の責任が伴わない仕組みは、古代ギリシアの僭主政治か王権神授説を担いだ絶対王政、あるいはナチス等の独裁政権以外では通用しなかったことです。しかし、今や、“民主主義国家・日本”では、このように「自然(宇宙)の論理(道理)」さえ無視するような政治を一般国民が平然と受け入れる「悪政の時代」に深く嵌っているのです。どうやら、いつの間にか日本の閣議決定は、“白は黒である”あるいは“1プラス1は5である”というような首相の発言を不問に付す、英国チューダー朝・ヘンリー7世時代(15世紀)の悪名高き「星室庁」(真偽を問わず、王権に反抗する者を公式に処断する王の直属機関)のような恐るべき機関に変質してしまったのです。


 また、次のような驚くべきニュースが同じ頃の新聞の片隅に小さく載っていました。・・・内閣府は、8月11日、昨年1年間の自殺者が過去最悪を記録したことを受けて、同府にある経済社会総合研究所に、背景も含めて調査・研究させることになった。・・・一方、同じ頃、小泉首相は次のような発言をしています。・・・自殺者増加の理由はなかなかわからない。これだという(対処の)特効薬はない。・・・また、同じ日の新聞の片隅に次のような内容が載っています。・・・昨年1年間の自殺者の内容を分析すると、特に年齢別では50代が1978年当時の2,753人から8,614人(約3.12倍)に、理由では経済・生活問題が1978年の1,703人から8,897人(約5.2倍)に増えている。・・・自殺者数の統計は厚生労働省というれっきとした国家の所轄行政機関が集計・分析した数字のはずであり、何故に小泉首相は“自殺者増加の理由はなかなかわからない”などという、まるで他人事のような発言しかできないのでしょうか?それとも、厚生労働省が推計した数字は全く信用できない(経済・生活問題を理由とする自殺者数が、こんな大きな数字になるはずがない?)ということなのでしょうか?ここでは、国家機関の野放図で非効率な縦割り行政の放置、マスコミの批判精神の欠如などの嘆かわしい問題点が次々と浮き彫りになっています。それにも増して恐るべきことは、政府の意に沿わない調査結果を意図的に操作するための“再調査”を命じたのではないかという想像が掻き立てられることです。


いずれにしても、このように安易に善良な国民を誑かすような一連の政治手法がまかりとおる原因の一つは、「批判力が劣化したマスコミの存在」という嘆かわしい現実です。もう一つの理由は、政権与党の「ポピュリズムを煽る政治手法」が図に当っているという現実です。ごく大雑把に見れば、一般国民の7〜8割程度は、何事につけ他人任せで、しかも政治に無関心な精神環境を持つ、いわゆる一般大衆です。良し悪しはともかくも、これが動かせない現実です。これらの人々の共通認識が消費動向、支持率、視聴率・購読率などに大きな影響力があることも事実です。従って、経営者、政治家、マスコミが一般大衆に照準を合わせること自体は無理もないことです。しかし、経営者、政治家、マスコミには踏み越えてならない一線(禁じ手)というものがあったはずです。消費量(売上)、支持率、視聴率・購読率などの目先の数字を上げることだけに目を奪われ、この一線を踏み越えることは最低限のモラルとして許されないことでした。しかし、ここ数年の間に、この一線は易々と踏みにじられてしまいました。その結果が、深く考えず、一方的に弱者に皺寄せする「安易な自己責任の転嫁」と「社会システムの底なしの劣化」というおぞましくも深刻な事件・事故の続発です。美浜原発で起きたばかりの悲惨な事故も、同じ性質の根本原因が潜んでいるはずです。驚くべきことに、国は2000年度の同原発の保守管理体制を“適切である”と公式に評価していたのです。

 このような深刻な事情には一切おかまいなく、日本政府は相変わらずミランダ(miranda)重視の政策推進に余念がないようです。悲しむべきことですが、政治家も経営者とマスコミ人の多くも、この路線を続ける限り“支持率安泰、売上安泰”だと信じているようです。ミランダとは、現代政治学の父とも呼ばれる米国の政治学者メリアム(Chrales Edward Merriam/1874-1953)の造語です。それは、“国旗・記念日・祭典・セレモニーなどのメコネサンス・シンボル(ナショナリズムを煽る政治的象徴)を意図的に使い、それらを国民の非合理的(情緒的)な面に作用させ、情動的な部分で人に大きな影響力を及ぼす政治手法”のことです。それは、国家による上からのナショナリズムの押付けであり、表面は柔らかい当たりを装いながら、内実は慇懃無礼、かつ動機不純で野心と悪意に満ちた強権支配型の政治手法です。一方、メリアムはクレディンダ(credinda)という政治手法こそが望ましいと述べています。それは“論理・理論・倫理観・イディオロギーなどによって、人の合理的側面や知的関心へ訴えかけ、啓発し続ける政治手法”のことです。また、それは人間愛を基本としつつ、歴史に学び人権を最大限に尊重する民主的な政治手法です。現在の「拡大EU」の理念は、これに近いものです。“いろいろ”などという言葉に翻弄されず、多くの日本国民が一刻も早く「自然を支配する道理」と「クレディンダ」の重要性に目覚めることを願うばかりです。