toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

人間心理における「戦争」と「平和」の葛藤


<注>この記事はB/Nです。(posted 2004.7.28、News-Handler


近年の文化人類学・考古学などの実証的研究によると、残念なことですが、人間は遠い大昔の類人猿の時代から暴力・殺戮・虐待の歴史を繰り返してきたというのが厳然たる事実のようです。分子生物学者・柳沢桂子氏によると、人間に特有の「内集団・外集団偏向」という固定観念が存在するそうです。(出典、2004.7.27・朝日新聞・文化総合記事/宇宙の底で)つまり、人間はどこでも集団を形成しますが、彼らは各集団内の仲間どおしで、ある共通の感情を持ち、外部の人間に対して攻撃的になります。この気質的な固定観念が「内集団・外集団偏向」と呼ばれます。この気質的な偏向は異なる年齢や性別などのグループでも起こりますが、特にその内部の結びつき(団結力)が強固となるのは、この結束力が宗教や民族を中心に形成された場合です。この場合の固定観念は特別に強固なものとなります。


戦争の歴史を概観すると、今回のイラク戦争に限らず、このように偏見的な固定観念が開戦の名目上の大義と上手くすり変えられている事例の枚挙には暇がありません。つまり、殆どの場合、戦争の直接的な理由としては、このように偏見的な固定観念と無関係な事件などが口実とされているのです。そして、一旦、このように強固な偏見が形成されると自分たちの仲間以外の人々は人間とは見なされなくなってしまいます。もはや仲間以外の人々は“人間とは見なさない”ので彼らを虐殺しようが暴行・虐待しようが好き放題ということになるのです。


1257年の秋、フラグが率いるモンゴル軍は40日間の攻防戦の後にバグダードへ侵入しました。翌年1月、猛火に包まれた都は20日間にわたり炎上し、バグダードの守備隊は最後の一兵まで殲滅されました。この時、200万のバグダード市民のうち160万が殺戮され無数の婦女子を含む無辜の人々が暴行と略奪を受けました。このため、ティグリス川は膨大な流血で数キロにわたり赤く染まりました。アッバース朝で最後のカリフ、ムスターシスムは、無残にも皮の袋に入れられてバグダード中を疾駆する馬に引きずり回され、その袋の中で息絶えたのです。これは、エジプトまでも迫る勢いを見せたモンゴルのフラグ遠征軍が、バグダードへ侵入して「アッバース朝イスラム帝国」が滅亡した時の戦いの様子です。そして、これにも増す残虐な戦争を人類は数限りなく繰り返してきたのです。そして、今回の“大義なきイラク戦争”です。ともかくも、今回のイラク戦争での米兵による真におぞましいイラク人虐待も、この人間の強固な偏見に満ちた虐殺のシナリオを前提にしてこそ理解できることなのかもしれません。


また、柳沢桂子氏によると戦争の三大要因と考えられるのは、この「内集団・外集団偏向」、「人間の残忍性」そして「人間のプライド」の三つであり、これらは人間の本性に深く根ざすものなので簡単に取り除くことが難しいのだそうです。従って、柳沢氏は、1989年12月16日の第25回ユネスコ大会が「戦争が人間の本能であるという考えは科学的に間違っている」という命題を前提として採択した『暴力についてのセビリア声明/平和の土台を準備しよう』は、必ずしも正しいと言えないのではないかと述べています。このセビリア声明が前提とするのは次の五つの命題です。


●私たちは、動物であった私たちの先祖から戦争をする傾向を受け継いでいる、という言い方は科学的に正しくない。


●戦争あるいはその他の暴力行動は、私たち人間の本性の中に遺伝的にプログラムされている、という言い方は科学的に正しくない。


●人間の進化の過程では、攻撃行動は他の種類の行動より選択される傾向が強かった、という言い方は科学的に正しくない。


●人間は脳の中に「暴力中枢」をもっている、という言い方は科学的に正しくない。


●戦争は「本能」あるいはなにか単一の動機によって惹き起こされる、という言い方は科学的に正しくない。


確かに、このように考えると「平和」という言葉を唱え続けたくらいでは、人間の本性に奥深く根ざした「戦争という名の暴力」を簡単になくすことはできないと思われます。ところが、最近出版された、デーヴ・グロスマン著『戦争における“殺し”の心理学』(安原和見・訳、筑摩学芸文庫、2004年5月刊)を読むと、まったくこれと正反対の人間の本性に関する考え方が導かれるのです。著者デーヴ・グロスマン氏は、一兵卒からスタートして下士官、将校へと昇進し、現在は中佐として米国のアーカンソー州立大学の軍事教授を務めている最精鋭の実践部隊での戦争経験者です。


グロスマン氏は、第二次世界大戦で実際に戦争を経験した膨大な数の元兵士たちへの面接調査を実施して研究を積重ねたところ、ほとんどの人間の内部には同類たる人間を殺すことに対する強烈な抵抗感があることが分かったというのです。特に第二次世界大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵は僅か15〜20%しか敵に向かって発砲していなかったという事実が分かったのです。しかも、そのような内面の抵抗感があまりにも強く、それを克服できないまま戦場で自らの命を落としてしまう兵士が少なくないことも分かったのです。更に、グロスマン氏は過去の戦史資料や証言記録などを検証したうえで「戦闘になれば誰だって人を殺す」という一般的な考えが誤った先入観であることを証明して見せます。グロスマン氏は次のように述べています。・・・殺人への抵抗が存在することは疑いを入れない。そしてそれが、本能的、理性的、環境的、遺伝的、文化的、社会的要因の強力な組み合わせの結果として存在することも間違いない。まぎれもなく存在するその力の確かさが、人類にはやはり(平和への)希望がまだ残っていると信じさせてくれる。・・・


更に、グロスマン氏はベトナム戦争(1960-1975)を経験した数多くの元兵士たちへの面接調査を実施して驚くべき現実を知ります。前に述べたとおり、第二次世界大戦で約8割のライフル銃手は敵にまともに銃を向けようとしなかったのですが、その数字がベトナム戦争では5%近くまで下がっていたのです。そして、それは、第二次大戦における戦場での発砲率の低さを把握していた米国国防総省が、ベトナム戦争へ送り出す兵士たちに対して、ある種の心理的条件づけを事前に行った結果であることも判明します。しかし、その特殊な条件づけの代償として、ベトナム帰りの兵士たちは重篤なトラウマを背負うことになりました。まして、泥沼化したベトナム戦争では米国内外での反戦運動が史上稀に見るほどの高まりを見せ、更に、現地へ命懸けで入った戦争ジャーナリストたちのスクープ写真がアメリカ兵の残虐行為を容赦なく映し出したため、ベトナム帰還兵に対する多くの米国民の視線は冷たくなっていました。むしろ彼らが帰還してみたら同胞たちから大きな非難の声を浴びせられることにさえなったのです。このためベトナム帰還兵たちの多くは長期的な精神障害を背負うことになりました。


ともかくも、このようにして、第二次世界大戦後の米軍は自国軍に対する心理作戦を実行していたのです。その作戦とは「脱感作、オペラント条件づけ、否認防衛規制」という三つの心理学的な方法を組み合わせた適応訓練です。脱感作(だつかんさ)とは、喩えれば免疫作用で抗体が作られるような働きを心理的な訓練で人為的に創り出すことです。例えば、“殺せ!”などの特定の言葉(命令)と発砲の動作を組み合わせて際限なくそれを繰り返し実行させると、次第に発砲という暴力行為に対する抵抗心が弱まって行き、究極的には発砲(殺人)が神聖化(至高目的化)されるようにさえなるのです。オペラント条件付けは、特定の感覚刺激と一定の動作(例えば、標的への発砲など)の連動を繰り返すことで動作の精度とスピードを限りなく高める訓練です。否認防衛規制とは、例えば発砲の抵抗感を減らすため、相手は人間ではなくただの的だ(あるいは悪漢だ、など)と考えさせる訓練のことです。実際の訓練では、これらの心理作戦の他に精神安定薬や抗精神病薬などの薬物も使われているようです。無論、このような訓練は兵士たちの精神的トラウマという高い代償を要求します。


この『戦争における“殺し”の心理学』を一読して驚かされるのは、前半で見た文化人類学的な知見とまったく正反対の結論となっていることです。前者の場合は、「内集団・外集団偏向」、「人間の残忍性」、「人間のプライド」という戦争の三大要因が人間の本性に深く根ざすものであるため、人間の集団に対して、素朴に「平和」を求めてもほとんど無益だという悲観論が導かれます。一方、グロスマン氏の場合は、本来、人間には同類たる人間を殺すことに対する強烈な抵抗感があるということを実証しています。一体、この違い(矛盾)はどこから来るのでしょうか?どちらが真実なのでしょうか?大学の軍事教授であるグロスマン氏は、自らが導き出したこの結論に対して平和への希望すら感じているのです。


ところで、グロスマン氏は“このようにして自国軍に対する心理作戦で訓練された兵士たちも、実際の戦場では上官の命令がなければほとんど発砲しない(できない)”とも言っています。つまり、この言葉から、人間の残虐性についての文化人類学的な知見は「集団としての人間の本性」にかかわる問題であるのに対して、グロスマン氏の検証の対象は「個々の人間の心理」であることの違いだということが分かります。どうやら、グロスマン氏の検証によれば個々の人間の本性の7〜8割は「平和」的なものであると考えていいようです。しかし、心理的な訓練しだいで、それを95%まで「暴力」的なものに作り変えることができたとしても、個々の集団を仕切るトップの命令がなければ、その「暴力」は実行されないのです。


ただし、2%の割合で存在する異常な気質を持った人間は、訓練の有無に関係なく殺人を実行するそうです。グロスマン氏は、次のように述べています。・・・兵士たち(その証言が本書の根幹をなしているのですが)は戦争の本質を見抜いている。彼らは「イーリアス」に登場するどんな人物にも劣らぬ偉大な英雄だが、にもかかわらず、本書で語られる言葉、彼ら自身の言葉は、戦士と戦争が英雄的なものだという神話を打ち砕く。他のあらゆる手段が失敗し、こちらにその「つけがまわって」くる時があること、「政治家の誤り」を正すため、そして「人民の意志」を遂行するために、自分たちが戦い、苦しみ、死なねばならぬ時があることを、兵士たちは理解しているのだ。・・・


このように見てくると、デーヴ・グロスマン著『戦争における“殺し”の心理学』は、戦争という暴力を暴発させる、つまり殺人を実行させる責任の殆どが軍人ではなく「政治家」、「官僚」(文官)など国の指導的な立場の者(エリートたち)にあることを実証的に明らかにした驚くべ著書です。また、それは僅か2%(*)の割合で存在する、殺人に関する異常な精神的気質を持った政治家を我われが誤ってトップに選んでしまった時の恐ろしさをも示唆しています。


2001年5月に、かつてGHQ民生局スタッフとして日本国憲法起草にかかわったベアテ・シロタ・ゴードンさん(78歳/来日当時)が来日したとき、次のように語っていたことが思い出されます。・・・(日本国憲法は米国の押付けだという主張に反論して)押付けとは悪いものの場合に使う言葉です。アメリカの憲法には“戦争放棄(平和主義)”と“女性の人権”の条文がありません。誰が作ったかは問題でありません。中身が大切なのです。・・・(2001.5.21・中国新聞、記事)


今、日本人の多くは、自らが選出したエリートたちの言うがままになって、何も考えずに自らが搭乗している飛行機のフェイル・セーフ(自動安全装置=平和憲法)を破壊しようとしているのかもしれません。