toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

現代人の「自由意志」についての誤解(1/2)


<注>この記事はB/Nです。(posted 2004.6.15 News-Handler


  13世紀イタリア・アシジの聖フランチェスコ(Francesco d'Assisi/1182-1226)が、清貧な生活の実践と周辺世界に対するアニミズム的な愛の眼差しを注ぐことで当時の人々に対して見せたものは、まさに神の特別な恩寵の現実化(リアライズ)ということであり、それは聖フランチェスコという“最も優れた一人の人間”のバランスがとれた「純粋な意志の力」とでも言えるようなものではなかったでしょうか?プラトン主義に染まっていた、この頃までのスコラ神学(哲学)の考えでは、「人間の意志の力」は「理性による真理認識に従属する力」だと見なされていたので、初めの頃、聖フランチェスコは異端視されることになったのです。


  ところで、それより少し後の時代のスコットランドに、聖フランチェスコの実践を理論的に説明する神学者ヨハネス・ドウンス・スコトウス(Johanes Duns Scotus/ca.1265-1308)が現れます。彼は、フランチェスコ派のスコラ神学者で、後にパリ大学教授となる人物ですが、緻密な論理を身上としたので「精妙博士」と呼ばれています。スコトウスの立場を端的にいえば、アウグスティヌス神学とキリスト教の融合を徹底的に批判したということです。また、スコトウスは絶対超越的な神の存在を論理的に証明することを企てた最初の神学者とされており、これ以降のスコラ神学では、このような立場が伝統となるのです。


  スコトウスの説明によると、「絶対的に正しい自由意志」を持っている神は純粋にその意志のみから世界を創造し、その生まれた世界を見て「神の理性によって“善し”と判断した」というのです。それ以前のプラトンの影響を受けた考えでは、天界には様々なイデアが既に存在しており、神(デミウルゴス)がこのイデアを手本として世界を創ったとされていました。そして、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus/354-430/初期キリスト教西方教会で最大の教父/新プラトン主義哲学とキリスト教を融合した/著書『神の国』)は、このようなプラトンの世界創造説をキリスト教のなかに取り入れたのです。アウグスティヌスによると、神は自分の「知性」が元々持っていたイデアを見て、この世界を自らの「意志」で創った、ということになります。


  つまり、この場合にイデアが意味するのは「神の知的理解」が前提となっているということです。スコトウスは、この「神の知性の先行性」を無視して、神の「自由意志」は神の「知性」の判断とは無関係に世界を創ったと考えたのです。一方、スコトウスは、人間の「意志」は「絶対的な善」ではあり得ないから、人間の「理性」の判断を抜きにして、その人間の「意志」が正しい判断をすることはあり得ないと考えました。同時に、スコトウスは、「意志」は「理性」の判断力のおかげで自由なのではなく、「意志」それ自身が持つ力ゆえに自由なのだとも考えました。それまでの中世ヨーロッパの伝統的な考え方は、古代ギリシア奴隷制と対比される自由市民の立場が原点であるので、「自由」であるためには、まず正しい「理性」の判断が必要だということになっていましたが、スコトウスは「理性」に従属しない「人間の自由意志の力」を認めるという立場を取ったのです。そして、初めてこの時に近・現代的な意味での「人間の絶対的な自由意志」の概念が誕生したのです。


  しかし、このスコトウスの「人間の絶対的な自由意志」の概念には、ある厳しい条件が付いていたのです。スコトウスは、「理性」に従属しない「意志」の働きにこそ「自由」の根拠があるのだと考えた訳ですが、同時に、彼は「理性」の働きには「論理の罠」という本性的な必然が纏わり付くと主張しています。また、スコトウスは“「意志」は主要な原因であるが、「理性」は副次的な原因である。なぜなら「意志」は自由に動き、その運動によって他のものを動かすからである。一方、対象を認識する「理性」は本性的に一定の場でだけ働くものだから、方向性を示す「意志」との協働がなければ、決して「一定の方向へ向かう意欲的な働き」という意味での十分な能力は持つことができない。だから、「意志」こそが第一義的で主要な原因なのだ。”と主張しました。ここで、スコトウスは、人間の「自我」の根拠としての「自由意志の能力」と「理性による論理的な善悪の判断」(論理的・倫理的な判断能力)を切り離して見せるのです。その結果、人間は「善」と「悪」の両方向のベクトルを持つ「自己分裂」的存在であるということになります。


  そこで、スコトウスは、「三位」、つまり「『神』と『子』と『聖霊』」のなかの『聖霊』の重要な役割に注目します。スコトウスは、「聖霊」は人間の「自由意志」を指導する力、つまり「実践理性」の働きをするものだと説明します。人間の「自由意志」は、その「意志」を「正しく導く認識」を与えてくれる「聖霊」の助けが必要なのであって、それなしに「自由意志」は正しく作用することができないと主張したのです。つまり、スコトウスは、人間の自由意志を導くために「神がもたらす理性」ともいうべき「聖霊の能力(作用)」を「人間の理性」より上に位置づけたのです。


  神の恩寵を享受するという、キリスト教を信仰する人間にとっての究極の目的は、このような「人間を導く聖霊の力」を謙虚に受け入れ敬虔な心と中庸な精神環境を整えながら、誠実な信仰生活を実践することで漸く達成できるものだというのです。これが、スコトウスの「人間の絶対的な自由意志」に付帯する厳しい条件だったのです。精妙博士と呼ばれたスコトウスの緻密な論証がたどり着いた「人間の自由意志」についての正しい理解は、実は、このような意味での謙虚さを人間に対して厳しく要求するものでした。それにもかかわらず、スコトウスがせっかく導き出してくれた「人間の自由意志」についての正しい結論は、主に次の三つの方向に沿って、歴史の展開とともに甚だしく誤解されることになるのです。


(1)王権神授説の誤解
・・・「神の意志の絶対性」の過度な強調が、「絶対王政」の理論的根拠となり「王権神授説」をもたらします。スコトウス自身は、人間の自由意志は絶対的な善であり得ないので、王も人間である限り理性(特に、神が与えてくれる理性としての聖霊)の助けなしに正しい自由意志を持つことはあり得ないと考えていたのですが、後の時代になってからイギリスのロバート・フィルマー(Robert Filmer/ca1588-1623)らの思想家によって誤解されたのです。


(2)「暗黒の中世」への単純なアンチ・テーゼとしての誤解
・・・例えば、フランシスコ派のスコラ哲学者で、その博識により「驚異博士」と呼ばれたイギリスのロジャー・ベーコン(Roger Bacon/ca1219-92)は、スコトウスと同じくアリストテレスの影響を受けており独特の「経験主義の哲学」を主張しました。ベーコンは、イスラム(現在のイラクのバスラ出身)の物理学者、イブン・アルハイサム(Ibn al-Haytham/ca956-1059)の影響を受けて、特に光学(光による形象の伝播形式)の研究に没頭しました。ベーコンの経験主義的な科学研究の態度は近代科学の源とされるほど重要なものですが、この頃からスコトウスの“人間の意志は、その意志のみで自由である”という側面だけが強調されるようになったのです。


  つまり、人間の意志の自由という側面だけが、スコトウスのもう一つの条件である“人間の意志は理性の助けが必要であること”(正しい目的や方向を示してくれる聖霊の働き/森羅万象のなかに偏在(ユビキタス)する聖霊が与えてくれるものとしての理性の力)から切り離されてしまったのです。アウグスティヌス的なキリスト教の支配がもたらす「暗黒の中世」へのアンチ・テーゼの役割をスコトウスの神学が担わされることになったため、ある意味で、それは仕方のないことでもあります。しかし、人間の自由意志についてのこのような側面を、その後の哲学者たちが余りにも囃し立てたため、人間の思想は、次第に「善」であり続けるための根拠を見失ってゆくのです。


  やがて、人間の思想は「神をも畏れぬ傲慢さ」を身につけるようになり、このようなスコトウスへの決定的な誤解は後の時代になるほど拡大され、遂にはパスカル(Blaise Pascal/1623-62/フランスの科学者、思想家)の思想の中に見られるように、近・現代の人間は、特有な「不安意識」を持つことになります。つまり、パスカルは近代合理主義(聖霊から切り離された自由意志と人間の理性だけが支配する精神環境)と人間中心主義が行き着く先は“人間が生きる意味の喪失”(神の死)であることを予感していたのです。


(3)自然法についての誤解
・・・16世紀オランダのグロティウス(Hugo Grotius/1583-1645/オランダの法学者/国家・宗教を超えた自然法的合理主義に基づき、国際法を体系化し国際法の父と呼ばれる)らによれば、「自然法」はあらゆる「実定法」に先立つ、人間のためにアプリオリに存在する公理的な法です。このような「自然法」を仮定することで近代的な自我の土台となる「自由権」と「平等権」が着想され、更に、そこから「市民権」が強烈に意識されるようになったのです。そして、今や、このような「自由意志こそはすべて」という現代人の固い信念に疑いを挟む者はほとんどおりません。


  しかし、グロティウスの時代には、例えばスピノザ(Baruch de Spinoza/1632-1677/オランダの哲学者/神は自然であるという汎神論を主張し、このような神を直観することの自足感を道徳の最高の価値とした)の哲学のように「自然法」に先立つ根本として「キリスト教的な福音と中庸」の価値が未だ評価されていたのです。そして、ほとんどの近・現代人は、スコトウスの誤解とともに、これを見失ってしまったのです。古代ギリシアにおいては、自由であることは自由市民であることと同じであり、市民権は市民の義務と表裏一体でした。従って、自由を誇り、それを謳歌するためには、まず人間としての最低限度の義務の意識(つまり、これが正義の基準点)を誇らな
ければならなかったのです。それ故にこそ、自由には倫理(道徳)が伴っていたのです。


  やがて、中世後期頃にスコトウスが誤解され自由意志が倫理と切り離されてしまうと、近代の哲学は「キリスト教的な福音と中庸の価値観」としての神学を捨てることになります。残された原理主義的「哲学」と原理主義的「神学」だけで人間と神に関するすべての領域を解決しようとしたため、人類の大きな悲劇がもたらされることになるのです。そして、今また、アメリカ・プロテスタントの狂信的な宗教原理主義一派に先導されたブッシュ政権の「米国一国主義」が、スコトウスの誤解を繰り返しているのです。


<注>ヨハネス・ドウンス・スコトウス(Johanes Duns Scotus/ca.1265-1274)の理解については、下記(★)の著書を参照しつつ管理人としての解釈を加えたものである。


八木雄二著『中世哲学への招待』(平凡社新書