toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

現代人の「自由意志」についての誤解(2/2)


<注>この記事はB/Nです。(posted 2004.6.16 News-Handler


  スコトウスは「自由意志」に関する考察の中で、“一つの方向の可能性が実現しても、その同じ瞬間に他方の可能性も排除されずにあると考えなければ、可能性の現れである「偶然」は説明できない”と主張しています。確かに、目前にある実現した可能性しか可能性でないとするなら、それは可能性ではなく必然性だということになってしまいます。我われは、折にふれて強い運命的な感慨を持たされることがありますが、それは、このような“意識上のトリック”に嵌った時で、このような時に「原理主義という罠」が大きな口を開けて待っているのかもしれません。


  このように、スコトウスの特徴は“可能性と現実は別ものであり、可能性はそれはそれとして存在する”と考える点にあります。言い換えれば、スコトウスは「可能的世界」と「現実世界」が共存し得ると主張したのです。現実とは異なる世界が「あり得る」と見ることが「現実の世界の存在可能性」(本質的に偶然的な存在)を理解することだと主張した訳です。そして、良く考えてみると、これは現代人にとって、ごく当たり前の世界観であり、このような考え方こそが近代科学を成立させてきたのです。現代の我われが、世界中の世界市民が、いま現在、時を同じくして地球上で共存しているという認識を持つことができるようになったのはスコトウスのお陰であるのかもしれません。


  また、現代における最先端の宇宙物理学では、理論的に構想することが可能な無数の宇宙のなかで、現実のこの宇宙は、その一つとして存在しているものだと考えられています。 とにかく、今まで見てきたスコトウスの「自由意志説」が近代的な「自我」をもたらす原動力となったことは間違いがないようです。また、スコトウスは「人間の自由意志」そのものは自らの自由によって自らがどの方向へ向かうべきかを決定することはできないと主張します。そのために必要なのが、「神の意志」の代弁者たる「聖霊」によって正しく導かれた「中庸な人間の理性」(人間の理性そのものの驕りを取り除き、神の意志に対する謙虚さを条件とする知的認識)の働きです。すなわち、「人間の自由意志」は生来的に「正しい導き」を必要とする能力なのであって、その導きが無ければ「人間の自由意志」は、まさに「自由」そのもののなかで溺れてしまうしかないのです。このため、神は預言者やキリストをとおして「人間が生きる意味、目的、生き方」などを人間に教えてくださり、それが聖書と教会というコードとシステムによって伝えられているのだと、スコトウスは主張したのです。


  アメリプロテスタントの一派を占めるキリスト教保守(原理)主義も正しい神の導きとしての「宗教的倫理」の必要性を強調しています。(2004.6.16・朝日新聞、記事『テキサス大教授、ルイス・グールド氏談/2004米大統領選挙:分断の底流(下)』、参照)しかし、この宗教原理主義とスコトウスの立場は決定的に異なっています。その違いは、宗教原理主義が「聖書の一字一句」が描く世界を「唯一の現実」(神が認める、現実的な正義の世界)と見なす一元的な狂信性(カルト的な視野狭窄)に囚われているのに対し、スコトウスの思想では“可能性と現実は別ものであり、可能性はそれはそれとして存在する”と考える「寛容と中庸」の価値観が厳しい前提となっていることです。この点については、詳しく既述してきたとおりです。


  しかし、現代の哲学の殆どが、このようなスコトウス本来の考え方に気付かず、その本質を誤解したまま、スコトウスの精妙な論証結果の一部だけを受け取ってきました。そして、近・現代の哲学・倫理では“ともかくも人間の意志は自由で”あり、“その自由は何ものにも束縛されない自由なのだ”という、いわば「自由原理主義」とでもいうような不可思議な考え方が前提とされてしまったのです。


  このため、近代ヨーロッパ市民革命を準備した根源的な哲学とされ、現代の科学技術の発達と歩調を合わせつつ発展してきた資本主義経済の原動力、つまり「自然法」の哲学そのものの性格が矛盾に満ちた(初期定義の時点で矛盾を内蔵する)ものとなってしまったのです。これが、現代のアメリカを跋扈する「自由経済原理主義」、「市場原理主義」、「キリスト教原理主義」、「科学原理主義」等のルーツなのです。フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国は、その後の市民革命、宗教紛争で度々繰り返されてきた悲惨な大殺戮(大戦争)の経験から、多様な価値観や多様な世界が存在することの意味を十分に学んできました。しかし、アメリカ合衆国は、ピルグリム・ファザーズが入植して以来のユニークな地政学上の条件や、その国土が戦乱に巻き込まれる戦争を殆ど体験したことがないという特殊な事情もあって、「自由経済原理主義」、「キリスト教原理主義」、「科学原理主義」などの素朴ながら恐ろしく矛盾に満ちた価値観が突出し易い、ある意味で異常にエキセントリックな社会を築き上げてしまったのです。


このような訳で、現代の世界は、アメリカ発のデジタル技術(デジタル合理主義?)に支えられた現代科学と市場原理主義的経済が目覚しく進歩・発展するなかで、そこに住む一人ひとりの人間は、自分の進むべき方向を探しあぐねて悩まなければならなくなっています。本来は、このような問題への答えを探求することが哲学の仕事であった筈ですが、現代の人間が自分の根源を探しまわっても、最早そこには捉えどころがない「無」の底なしの暗黒が見えているだけです。なぜなら、スコトウスによれば、小賢しい「人間の知性・理性」は「純粋な論理可能性」であるに過ぎず、そこに「実質的な核となる内容」が初めから存在することはあり得ないからです。更に、「人間の自由意志」は「自由である」ことのみを根拠とする能力であり、それ以外の根拠は何も存在しないのです。還元論的な研究でクオーク・レベルまで到達した現代の量子物理学者の多くが、“この段階に至ると、今や幻惑感を覚えるのみだ!”という心情を正直に吐露するのは、恐らくこのような理由によるのかもしれません。


  物質を究極まで還元した量子の世界では、数学的・確立論的な性質の電子やクオーク粒子が見せる波動的なカオスの世界のなかで、プラトン哲学のイディアのメタファーを真剣に語らざるを得なくなっているのです。(京大理学部教授・佐藤文隆著『科学と幸福』(岩波現代新書)、参照)また、スコトウスを見過ごしていたと思われるニーチェハイデッガーは自我の根底に潜む「無」を発見してニヒリズム実存主義を語るようになりました。そして、キリスト教文化の背景と伝統が殆ど存在しないままに欧米の近代科学を受け入れ、その結果としての成功と繁栄に酔うばかりの日本人は、「神を死なせた」まま上っ面をなぞっただけで手に入れた経済的繁栄という「報酬」の陰に潜む「闇と狂気」(血迷った原理主義思想、立憲主義を否定する超国家主義イデオロギー、そして増大する一方の社会的・経済的・技術的リスク)によって復讐されているのです。それが、今、我われが目前にしている「テロとの戦い」とよばれる21世紀の新しい戦争の根底に潜むものかもしれません。


  アメリブッシュ政権キリスト教原理主義に染められたエゴイスティックな狂気の政策(米国一国主義、先制攻撃による平和と民主主義の実現)と、只管それに追従するするしか能がない、日本政府の背任的(対国民)なダブル・スタンダード政策の決定的な誤謬の意味(原理主義に嵌り易い人間の恐ろしさと、その原理主義者に追従するばかりの人間の恐ろしさ)がリアルに認識できるはずです。ここでいうダブル・スタンダードとは、実態は対米追従であるにもかかわらず、あたかも“お客様第一主義”(国民第一主義)であるかのように上辺を装うだけの欺瞞に満ちた彌縫策に終始する、まことに情けない政治手法のことです。


  例えば、論理的・実証的に応答すべき国会という議論の場で“人生いろいろ、社会もいろいろ、会社もいろいろ・・・”というような不真面目なハグラカシの言葉を総理大臣が投げ返し、国会議員たちも、国民もそれで“善し”として見逃すようなことは、いやしくも民主主義国家であるならば許されない筈です。また、本日の新聞報道によると、「自衛隊イラク多国籍軍参加」の問題に関連して、日本政府は「unified commmand(統一の指揮下)」の邦訳を「統合された指令部を持つ」と解釈すれば“自衛隊多国籍軍に参加するが、その指揮下には入らない”と理解できるので、これを政府見解の根本に据えて「憲法違反の論議」を回避する方針が決められたそうです。

 
  こんな子ども騙しの屁理屈が現代の先進民主主義国家のオフィシャルな論理とされることには呆れるばかりです。今、三菱自動車重篤な企業犯罪が司直の手によって追求されていますが、政治の世界でもこの位の厳しさが無ければ嘘ではないでしょうか? 仮に、嘘つきの社長がいたとして、その社長が“自分は明日から天地神明に誓って絶対に嘘をつかないことにした”と公式に宣言した途端、その会社の社員たちは明日から業務命令をどのように受け止めるべきでしょうか? 恐らく、真面目に働く社員の殆どは、社長の業務命令の真偽の判断に迷うばかりで、多くの社員は心労のあまり精神的に深刻な板ばさみ状態へ追い込まれ、遂にはその会社は業務が成り立たなくなり廃業への道を歩むことになるでしょう。


  これが、この論の冒頭で述べた“今、日本ではエリートたちの見掛けだけの矛盾に満ちた言動が、人格形成期にある小・中・高校などの子どもたちを預かる教育現場に大きなインパクトを与えつつあり、それは政治権力による矛盾(二律背反)論理の強制(ダブル・バインドの精神的圧力)という形で子どもたちの精神環境に深刻な悪影響を与えて発達障害などをもたらす恐れがある。”と述べたことの意味です。原理主義に取り憑かれ易い人間は、まことに恐ろしい存在ですが、自分より大きな権力(政治・宗教等の権力)を握る「原理主義者」に追従するしか術を知らぬ人間はもっと恐ろしいといえるのではないでしょうか?このように見てくると、「神の恩寵を期待しつつ謙虚な心がけで現実社会を誠実に生き抜く、厚い宗教心と正しい倫理観を持つ人間」と、いわゆる熱狂的な「宗教原理主義者」が、いかに異なった精神構造の持ち主であるかが理解できるはずです。当然ながら、嘘つきや詐欺師の類は、この論の埒外です。