toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

レンブラント・バロックが教えるもの(1/2)


<注>この記事はB/Nです。(posted 2004.6.9 News-Handler


  現在のイスラエルの領土は、1947年の国連決議で確定されたものです。しかし、このイスラエルの領土を含めた西アジアの地中海沿岸地方、おおよそ現在のヨルダン川以西の地域が古代にカナーンCanaan)と呼ばれた地域です。それは、旧約聖書で神がイスラエルの民に与えたとされる約束の地であり「乳と蜜が流れる土地」でした。この地域は、BC12世紀頃にエーゲ海方面が出自の混成移住民〈海の民〉の一派であるペリシテ人が定着していたためパレスチナという地名になったとされています。ペリシテ人は鉄器を使う勇猛果敢な人々であり、イスラエルの民を悩まし続けますが、BC4世紀のアレキサンダー大王の東征で滅ぼされ、周辺民族の中に埋没し歴史から消え去りました。現在のパレスチナ人は、1948年以降、イスラエル領となった地域を除くパレスチナに住むアラブ人および周辺諸国に難民として逃れたアラブ人を意味することが多いのですが、イスラエル国内に住みイスラエル国籍を持つアラブ人を含める場合もあります。いずれにせよ、現在のパレスチナ人と古代のペリシテ人は直接の関係がありません。ただ、3千年以上の時間を経ても「イスラエルの民」と「パレスチナの民」が激しく対立し、とめどなく残酷な殺し合い続けるという悲劇的な関係が未だに続いているのです。


  旧約聖書の『士師記』によると、古代イスラエルの士師(=英雄のこと)・サムソンは、ペリシテ人の計略に嵌ってソレクの谷の妖艶な遊女・デリラに誘惑されます。そして、彼の怪力の秘密が、生まれてこのかた切ったことがない豊かな髪にあることを漏らしてしまったため、サムソンは眠っている間に髪を切られ、神から与えられた怪力を失ってしまいます。無力になったサムソンはペリシテ人に捕えられ、残虐にも両眼を抉り取られた上にダゴンの神殿で青銅の足枷をつけられペリシテ人たちのなぶりものにされました。このようにしてサムソンがペリシテ人の罠に嵌ったその瞬間を劇的に、かつ血腥く描いたレンブラントの傑作『目を潰されるサムソン』はレンブラントが30歳の時の作品です。そして、これは彼の絵のなかで最もバロック的な作品だとされています。(この作品の画像はHP「レンブラントの眼、グリーン版」の2004.3.2付・日記6/画像、レンブラント『目を潰されるサムソン』を参照、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/nikki6.htm


  これに先立ち、レンブラントは28歳の時にもう一つのバロック的な絵画『息子イサクの生贄を天使に止められるアブラハム』を描いています。(この作品の画像はHP「レンブラントの眼、グリーン版」の2003.7.12付・日記3/「『光の形而上学』とレンブラント[Ⅰ」」の画像を参照、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/nikki3.htm)はレンブラントが28歳の時に描いた作品です。既に、レンブラントは、その2年前の26歳の時に『テュルプ博士の解剖学講義』で巨匠としての大きな名声を得ていました。また、この28歳の時にレンブラントはサスキアと結婚し、アムステルダムの市民権を得ており、更にネーデルラントの画家組合(聖ルカ組合)にも加盟しています。このような20台後半における数年間のレンブラントの制作活動を見ると天才画家の面目躍如というところです。『息子イサクの生贄を天使に止められるアブラハム』のテーマも、やはり旧約聖書の一場面です。神がアブラハムの信仰を試すために我が子イサクを生贄として捧げることを命じました。アブラハムは神の命令に従順に従い、縛った息子イサクを薪の山に横たえます。彼がイサクの喉元をめがけて短刀を振り下ろそうとする、その瞬間に天使の手が彼の短刀を握った腕を払い退けます。神への信仰心を貫くため愛息イサクを殺そうと決心していたアブラハムは、怒りの眼で天使の方を振り返ります。その時、アブラハムの手を離れ宙に浮いた短刀は旧約聖書の歴史的瞬間を“現実の出来事”としてリアルに描いて見せます。同じように、鑑賞者がこの『目を潰されるサムソン』の前に立つと、その脳裏には旧約聖書の一場面がやはりリアルな出来事のように生き生きと表象します。ここで、レンブラントは絵画の描写力の限界を打ち破ることを試みており、それが見事に成功したといえます。それにしても、なぜレンブラントはサムソンが眼を抉られる瞬間をこれほどまで生々しく残酷に描いたのでしょうか?ごく普通に考えてみれば、できることなら残忍な場面や醜い光景はあまり積極的には見たくないというのが人情のはずです。


  天才画家レンブラントが活躍した17世紀前半は美術史の上ではバロックと呼ばれる時代にほぼ重なります。それは、1580年頃〜1730年頃にかけてのヨーロッパの美術様式を指します。バロックという言葉の起源は“疵もの真珠”を意味するbaroccoというポルトガル語だとされますが、そもそも一般的な用語としては“異常な、奇妙な、あまり趣味が良くない”という意味で使われていました。従って、この用語が本当に意味するのは“できれば、一般の人々があまり見たいと思わない視覚描写”ということであったと考えられます。まず、18世紀の末頃のフランスでバロックという言葉が古典主義的理想美に相応しくないと考えられる建築を軽蔑する意味で使われるようになりました。やがて、19世紀後半のドイツでは、この言葉があらゆる美術領域に対して使われるようになり、次第に否定的な意味がバロックという言葉から消えてゆきます。このようなバロックの意味の変化には特にカント(1724-1804)の「美的判断力批判」の存在が影響していると考えられます。


  カントは「美の批判の学」(通称、カント美学)の概念を確立し、主著『判断力批判』(1790)の前半「美的判断力批判」で、「先験的感性」(悟性(先験的論理)と表象によって何かを直感的に認識すること)、「先験的論理能力」(論理的、合理的な能力と知恵)、「先験的な美についての批判力」(美的判断力/何かある対象を主観的に美しいと思い、そこに創造的な価値があると認識する想像力)の三つのア・プリオリ(先験的、生来的)な哲学的認識に対等な位置を与えました。そして、カントの「美的判断力」の構成要素は“悟性、感性、批判(想像)力”という万人共通のア・プリオリな根拠であるため、それは多くの人々に対して正当に同意を求めることが可能となるのです。なぜなら、これら“万人共通の構成要素の働き”によって美についての“普遍性”が獲得されることになるからです。その意味で、カントの美的判断能力が批判的にとらえる実在概念(対象)は、単に美的な存在というよりも“ある種の独創的真理”を想定するのが妥当であるということになります。このようにして、カントは「美的判断力」の原理を様々な芸術に適用し、各芸術の本質が“美的判断の対象となるべきもの”であることを認めた上で、「芸術」は“天才による独自の美的表象(理念)の表現”であると規定しました。漸く、これによって「芸術」は、それまでのような中途半端な取り扱いを逃れることができるようになったのです。つまり、カントの時代になって、初めて芸術は職人の技術や実用性とは無関係な固有の“独自な美的価値”をもつことになり、芸術としての自立的な位置を確立したと言えます。しかし、このように先進的なカント美学は、理想美だけを追求した18世紀末〜19世紀前半の新古典主義ロマン主義にとっては馴染みにくいものであったかもしれません。だから、カントの死後半世紀以上の時間を経て、一般的な目で見ると必ずしも美しいとは言えないような自然主義やリアリズム(写実主義)の作品が社会一般で受け入れられるようになり、そこで漸くカントの慧眼(先見性)が広く理解されるようになったと言えるのです。つまり、この時になって初めて「バロックという芸術上の時代様式」の存在が追認されたと言えるのです。


  ところで、“悪・醜悪・愚鈍・貪欲・怠惰・欺瞞・残酷”など人間存在の負の側面をリアルに描いた15〜16世紀・ネーデルラント(北方ルネサンス期)のボッスやブリューゲルなどの絵画は、既に、18世紀のカント美学(美的判断)の評価を受けるに相応しい芸術美の水準にまで到達していたと考えられます。この点で、北方ルネサンス絵画はヨーロッパ諸国の中で遥かに先進的な位置に立っていたのです。その理由の一つとしては、中世末期以降のネーデルラントで活発な商業自治都市が成立していたため経済活動を中心とする市民社会が他に先駆けて発展していたことが上げられます。そして、当然ながら17世紀オランダに生きたレンブラントバロック的絵画も、このような意味で先進的なネーデルラント絵画の伝統の中にあります。なお、バロックに先立つ1530〜1600年頃のポントルモ、ブロンツィーノ、パルミジアニーノらに代表されるマニエリスムは、盛期ルネサンスバロックを繋ぐ様式です。その明暗の変化が激しく落ち着きがない色調や法外に長く伸びた形態など、マニエリスムの不安定な心的態度の表出は宗教改革・反宗教改革宗教戦争・市民革命と引き続く当時のヨーロッパ社会の混乱を反映したものとされており、当然ながら目くるめくようなバロックの精神はそのような時代精神の延長に位置するのです。