toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

『薔薇の名前』の時代、「1439年・東西統一公会議」の現代的意味(1)

toxandoria2005-05-04



<注>この記事はB/Nですが、内容は大幅に書き直してあります。(posted 2004.2.10 News-Handler


  ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の舞台は1327年のヨーロッパです。この頃、先ずイタリアでは大詩人ダンテが出現して『神曲』(1321)を出版(イタリア・ルネサンスの曙光)し、フランスでは詩人・作曲家フィリップ・ド・ヴィトリがアルス・ノヴァ(新芸術)運動によって音楽の中に“伴奏をともなう旋律”のかたちを発見し、美術史の上ではドウオーッチョ、シモーネ・マルティーニらに代表されるシエナ派や北イタリアで活躍したジェンテーレ・ダ・ファブリアーノ、ピサネロらが代表する、国際ゴシック様式(ネーデルラントブルゴーニュ公国時代)の優れたミニアチュア(写本装飾の細密画)の影響を受けた/1370〜1420年頃)の絵画が全盛期であった時にほぼ重なります。また、イタリアのフィレンツェでは、中世美術様式の枠を脱して新時代のイタリア絵画の基礎をつくった天才画家・建築家ジョットが活躍しており、1334年には、このジョットがフィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」(花の聖母教会)の鐘塔の設計に取りかかっています。一方、この時代のヨーロッパは、やがて「英仏百年戦争」(1339-1453)と、全人口を1/4にまで激減させた「ペスト大流行」(1347-51)がもたらす大混乱に巻き込まれて行く運命にありました。


  余談ですが、直木賞作家・佐藤賢一の傑作小説『傭兵ピエール』の物語は、この「英仏百年戦争」の末期ごろの1430年代を舞台に進行しています。また、聖(教皇権)と俗(王権)の対決では教皇の「アヴィニョン捕囚」(1309-1377)によって、ローマ教皇権が衰退の兆しを見せ始めており、それから、約20年後のフィレンツェでは、ボッカチオが近代文学の先駆けとされる短編小説『デカメロン』を、そしてペトラルカが詩集『カンツォニエーレ』を発表します。ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオの文学の“近代性の意味”を一口で言うなら、それは中世イタリア語の様々な方言による口承型(吟遊詩人型)の文学から共通イタリア語(フィレンツェ方言が基盤となった)によって書かれる文学を確立したということです。いずれにしても、14世紀のヨーロッパはイタリア・ルネサンスの曙光がさし始めた時期ですが、それと同時に成熟度の頂点に達した封建制度の大きな矛盾(制度疲労)がしだいに顕わになり、その内側から芽吹こうとする新しい時代精神への予兆が胎動し始めた時でもあったのです。


 イタリアの記号学ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』は、ジャン・ジャック・アノー監督、ショーン・コネリーイングランドのパスカヴィル出身の修道士ウイリアム役)主演によって見事な映像美の世界に脚色されました。これも余談になりますが、1986年制作のこの映画(http://d.hatena.ne.jp/asin/B0002GD4HIhttp://www.actv.ne.jp/~yappi/eiga/EB-03baranonamae.html)によって、俳優ショーン・コネリーは「007のスター」というステロタイプから脱皮して新しい個性的で魅力的なキャラクターを創りあげ、今も精力的に活躍しています。ところで、この時代の修道院スクリプトリウム(scriptrium/写本室)と図書館(書庫)はまさに中世の「知識の宝庫」でした。なぜなら、中世末期からルネサンス期になって知の中心施設としての大学が整備されるようになるまでのヨーロッパでは、修道院が知識情報の中心地的な役割を担ってきたからです。東ゴート族の王テオドリック(ca473-526)に仕えたローマ人カッシオドルスは、古代アレクサンドリアのムセイオン(図書館兼博物館)をモデルに大学と図書館とを兼ねるような施設の建設を考えていました。それが540年ころに完成した図書館を併置するヴィヴァリウム( Vivarium /養魚池の意味)修道院です。その写本(字)室ではギリシア語の文献をラテン語に翻訳する作業が行われていました。


  このような仕事のおかげでギリシア・ローマの古典的な学問がヨーロッパの深層にしっかりと積み重ねられてきたのです。その後、529年頃にはベネディクトゥス(ca480-ca547)がモンテ・カッシノに修道院を創ります。彼は厳格な「ベネディクトゥス会則」を定めますが、その中では読書と写本が日課として定められていました。やがて、このような修道院文化は特に大陸から遠く離れたイングランドスコットランドで熱心に営まれるようになります。800年に即位したカール大帝は、イングランドのヨーク出身の神学者アルクインをトゥール(この時代の中心地はアーヘン)に招聘して神学校と写字施設を設け、写本制作を命じました。これが名高い「カロリング・ルネサンス」時代(標準ラテン語とラテン文化の復興)の始まりです。中世の教育機関としては、修道院のほかに俗人にも開放された教会付属学校があり、イングランドのヨーク、カンタベリー、フランスのノートル・ダム、スペインのバルセロナなどの教会付属学校がよく知られています。13世紀に入って中世も終り近くになると、フランス、イングランドなどの王権が強化されるとともに知的活動の中心は教会から大学に移り始め、フランスではソルボン( Robert de Sorbon )が1250年に自分の名を付けた個人文庫をパリの学寮(ソルボンヌ大学の前身)に開設します。1289年の目録によると、この時代の蔵書数は約1,000冊程度でした。オックスフォード大学の場合は、各カレッジの図書館ができるのは、これより遅い14世紀に入ってからのことです。


  このような歴史的経緯から、中世ヨーロッパの知の中心地は修道院であり、知識人の殆んどは聖職者でした。また、ヨーロッパ中世のキリスト教研究(学問研究)の記述言葉はラテン語であり、しだいにギリシア語の理解はごく一部の知識人に限られるようになっていたのです。例えば、ペトラルカもボッカチオもギリシア語は殆んど分らなかったとされています。ところで、ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』は映画化されていますが、この映画(http://library666.seesaa.net/article/2465804.htmlhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0002GD4HI/250-1604082-4262608)は膨大なキリスト教ギリシア哲学・自然学などの知識が物語の流れとともに多重構造となって張り巡らされ、それらのネットワークがハイパーリンクのように飛び交い、情念と論理が目くるめくように交差する不思議で、しかも深い味わいのある世界を創りあげています。監督ジャン・ジャック・アノーは、この格別の「情念と知の世界」を映像美によって見事に描ききっているのです。しかし、敢えてこの小説のエッセンスを取り出して見ると(これは殺人事件の犯人探しのストーリーの背後に隠れている)、それは『隠された知の発見』ということです。12〜13世紀ころまでのヨーロッパのキリスト教学(神学)の根本には古代ギリシア哲学のプラトンアリストテレスが根付いていますが、この時代はアウグスティヌス神学と結びついたプラトン流の知が優勢でした。しかも、それはギリシア古典から直接学んだのではなく、あくまでもラテン語に訳された写本文献からの、いわば“又聞きの知識”に基づくものです。

  ところが、ギリシア語の原典からラテン語へ翻訳する流れとは別にアラビア語イスラム文化)からラテン語へ翻訳されるルートが、特に12世紀のヨーロッパへ大きな影響を与えたことが、近年の研究によって次第に明らかになっており、この歴史的な事実に対して「12世紀ルネサンス」という呼び名が定着しつつあります。「12世紀ルネサンス」の大きな影響力の一つは、13世紀以降における神学上の主流がプラトンからアリストテレスへ変わったということです。およそ10〜12世紀頃のことですが、バグダードを中心に9〜10世紀に大きく花開いた先進的なイスラム文化バグダードルネサンス)がヨーロッパの南から北へ流れ続けていたのです。主なルートはイベリア半島(スペイン)、南イタリアナポリシチリア)、ビザンツコンスタンチノープル)の三つで、バグダードルネサンスの精華(文献)がアラビア語からラテン語に翻訳され続けてきたのです。アル・フワーリズミーの『代数学』(8世紀)とイヴン・スイーナーの『医学典範』(11世紀)は12世紀のトレドで翻訳され、以降400年以上にわたりヨーロッパの各大学の中心的なテキストとして使われていました。因みに、コンピュータ・プログラムの基本知識である“アルゴリズム”(算術的論理)は、アル・フワーリズミーの読みが訛った言葉の転用だといわれています。


  「バグダードルネサンス」と「12世紀ルネサンス」のかかわりの研究で、今、世界の最先端を歩むのはパリ・第七大学のエジプト人教授ルシュディー・ラーシド博士です。現在、ここでは驚くべき歴史・文化的な再発見が次々と続いているようです。また、特にフランス政府はイスラム文化の研究に一層力を注いでおり、ごく最近ではルーブル美術館が新しい企画としてイスラム美術の収集・研究のため大きな予算を計上したと報道されています。