toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

『薔薇の名前』の時代、「1439年・東西統一公会議」の現代的意味(2)

toxandoria2005-05-05



<注>この記事はB/Nですが、内容は大幅に書き換えてあります。(posted 2004.2.10 News-Handler


【画像】Benezzo Gozzoli(1420−1498)、ゴッゾーリ『東方三博士の礼拝/Processin of Magus』(部分) 1459


  ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の舞台となった「1327」年から113年後の1439年に、ビザンツ東ローマ帝国)皇帝ヨハネス・パレオロガスを筆頭に、多くの司教・神学者・官僚たちの700人を超える大集団がコンスタンチノープルからフィレンツェにやってきました。これは、1434年に政敵アルヴィッツイの国外追放に成功して、フィレンツェの実質的な支配者となっていたメディチ家の(大)コジモが、深謀遠大な政治的配慮から「東西統一公会議」をフィレンツェに誘致したためです。コジモは、ラテン語ギリシア語・ヘブライ語アラビア語・ドイツ語・フランス語を学び人文主義的な高い教養を身につけた人でした。また、彼は権謀術数の政治感覚と稀に見る商才に恵まれた人物でもありました。コジモの政策の根本は大衆(ポーポロ・ミヌート/小市民/ポピュリズムの語源)の味方であることを表面上は徹底的に装うことでした。この点で(大)コジモは、大いなる偽善者であったともいえるでしょう。それは、表向きは絶対に大方の公衆(国民の過半を占める小市民たち)の反感・羨望・嫉妬を招かないように仕向けるということです。それがルネサンス文化を創造する活力源でもあったことを考慮すれば、あまりにも軽薄すぎる日本のポピュリズム政治と単純に比較するのは(大)コジモに失礼になると思いますが、上辺だけ似ているという意味に限れば、こんなところに現在の日本における、大衆の心を掴んで離さない『パフォーマンス政治』のお手本が見つかるように思われます。


  それはともかく、そこでコジモが採った戦略は、現代風に言えば「情報操作」(メディア・コントロール)です。政治形態に関しては、表向き・形式的な(建て前上)の「共和制」を絶対に破ることがないように気を配る一方で、各種の専門・審議委員会や行政機関が親メディチ派で占められるように背後から徹底した人選に目配りを(財政・資金面が絡む人事権を独占)する一方で、ゲシュタポ的な働きをする秘密警察組織を効果的に活用しました。また、「情報操作」のために最も有効な手段が「メコネサンス象徴」としての芸術・文学及び学問の活用ということであり、そのための大きな手段の一つが御用学者たちを動員することでした。(メコネサンスの詳細については、以下のBlog記事を参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050419)このような政治的配慮の下に、コジモは1439年の「東西統一公会議」をフィレンツェに誘致したのです。そして、その具体的目的は下記(●)のような点にありました。


キリスト教・東西教会の融和の仲を取りもつことで、ヨーロッパにおけるフィレンツェの政治的・文化的地位を高める


ビザンツとの親交を背景にして東方貿易に有利な立場をつくる


  いずれにしても、この会議を誘致した効果は絶大で、作戦どおりにコジモの名声が一挙に高まりました。一方、ビザンツ側には、ひしひしと迫り来るオスマン・トルコの脅威に対抗するため西方(カトリック)教会側、つまりヨーロッパ諸国の支援を求めるという背に腹を変えられない本音部分の事情(目的)があったのです。つまり、ティムール帝国(15世紀前後に中央アジアから西アジア辺りを支配/建国者はティムールで、イスラム化したモンゴル人とされる/シルクロードを結ぶ東西貿易の利益で栄えたが内紛とウズベク族の侵入で衰退)の滅亡後に勢いを増していたオスマン・トルコがビザンツの攻略を虎視眈々と狙っていたのです。しかし、このような努力もむなしく、1453年にコンスタンチノープルオスマン・トルコの第七代スルタン、メフメット2世によって滅ぼされることになります。その時、哀れにも誇り高い皇帝ヨハネス・パレオロガスの首は円柱に高く吊されました。また、15世紀末頃にはヴェネチアの画家ジェンティーレ・ベッリーニヴェネチア派の画祖とされるベッリーニ一族(父ヤコポ、長男ジェンティーレ、次男ジョバンニ)の中で最も優れていた)がヴェネチアの友好使節としてトルコを訪問し、エキゾッチックなメフメット2世の肖像画を描いたというエピソードがあります。

  ところで、この会議に参加した文化的先進地・ビザンツからの来訪者たちはギリシア語を使っていたため、会議では通訳が必要でした。しかし、これが契機となってフィレンツェではギリシア語のブームが起こり、ギリシア語の学習とギリシア文化の研究が盛んに行われるようになりました。この時に来訪した学者たちの中にはベッサリオン、ゲミストス・プレトンなどのきわめて優秀なギリシア哲学者(古代ギリシア哲学の研究者)たちがおり、特にプラトン学の最高権威であったプレトンはコジモから引き止められたこともありフィレンツェに、暫くの間、逗留することになります。このため、“ギリシア語の原典”に基づくプラトン派とアリストテレス派の熱烈な対立論争が沸き起こり、それは、やがてヨーロッパ中に大きな波紋となって広がることになります。特に、フィレンツェでは哲学的な分野での古代ギリシア研究が熱心に行われ、やがて、コジモは1440年にプラトン・アカデミーを創設しました。この学園の中からマルシリオ・フィチーノに代表される「フィレンツェプラトン主義」(新プラトン学派)のアカデミズムが興隆し、やがて、それが煌びやかな「フィレンツェルネサンス文化」の開花を促す原動力となるのです。


  この会議のために東方からやってきた一行をモチーフに描いたとされる絵画が、パラッツォ・メディチメディチ宮殿)の中のメディチ礼拝堂の壁面にゴッツォーリが描いた『東方三博士礼拝』(この絵の大きな画像は、HP『レンブラントの眼』日記6で見ることができます、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/nikki6.htm)です。ゴッツォーリはフラ・アンジェリコの弟子としてローマで仕事をした経験があり、その影響を受けたとされていますが、しだいに独自の画風に目覚めていきます。ただ、ゴッツォーリの作風は当時のフィレンツェ派のリアリズムとは異なっており、どちらかというと、より古い時代の国際ゴシック様式の流れを踏襲する絵画です。その意味では、好んで光度が強い薔薇色や金色などを採用した装飾性が強いフラ・アンジェリコの影響が残っています。なお、同じモチーフの絵にジェンテーレ・ダ・ファブリアーノが大銀行家パッラ・ストロッツイの礼拝堂のために描いた『三博士の参拝』(1423/テンペラ画、ウフィッツィ美術館)があります。このゴッツォーリの絵の前に立つと、コジモが生きた時代のフィレンツェの空気がそのまま伝わってくるような錯覚につつまれます。絢爛豪華な色彩と形象、洗練された優美で煌びやかな装飾的画面が圧倒的な迫真力をもって見る者の周囲を取り囲みます。そのような意味で、この絵は時間さえも飛び越えて眼前に迫ってくるようなゴッツォーリの個性的リアリズムの力量を見せてくれます。


  この絵では二つのテーマが同時に描かれています。その一つは1439年の「東西公会議」のためにフィレンツェに来訪したビザンツの要人たちとメディチ家の人々を交えた行進の姿を描くことであり、もう一つはキリスト生誕の祝いのために東方からやってきたと伝えられるガスパール(老年)、バルタザール(中年)、メルキオール(青年)の三博士の描写です。ガスパールはロレンツォ豪華王、バルタザールはビザンツ皇帝ヨハネス・パレオロガス、メルキオールはロレンツォ豪華王の弟ジュリアーノの肖像としてそれぞれ描かれています。例えば、表記の画像では中央で右向きに馬に乗り、鞍にチータを乗せている青色の服の少年がロレンツォの弟ジュリアーノ(メルキオール)だとされています。近年の研究によると、フィレンツェでは14世紀末頃から、毎年、1月6日のキリスト公現の祭日に「星の三博士の行列」という祭りが行われていました。この祭りを主催する「東方三博士礼拝集団」という組織ができたとき、それに行政も加わるようになり、次第に政治的な色彩が濃い盛大なフィレンツェの祭りに発展しました。やがて、ドメニコ会や「東方三博士礼拝集団」と繋がりをもつメディチ家は、この祭りを主催するようになったのです。従って、「東西公会議」が行われた頃には、この祭りがメディチ家のカリスマ的な政治力の象徴(メコネサンス象徴)となっていたのです。


  ところで、あまり一般的には強く意識されてこなかったのですが、1423年の「東西公会議」は当時のヨーロッパ世界に“計り知れぬほど大きな衝撃”を与えていたのです。当時の人々、特に一般の庶民たちは、それほど自覚的にとらえていなかったと思われるのですが、そのショックはボディーブローのように時間の経過とともにヨーロッパ全体へ深く染み渡って行きます。それは、ギリシア語で書かれた膨大なギリシア古典の文献・資料類、言い換えればプラトンアリストテレスらの原典及び解釈・注釈書等の非常に貴重な「知識・知恵情報」(Information&Intelligence)が「東西公会議」へ参加する一行とともにフィレンツェ(ヨーロッパ)へ怒涛のごとく流入したからです。やがてフィレンツェでは、それがコジモのプラトンアカデミー創設、フィチーノの新プラトン主義、各種ギリシア語学校創設ブームなどの形へと変容し、結果的にフィレンツェ(イタリア)・ルネサンスの開花を導いたことは既に見てきたとおりです。更に、1440年頃のことですが、マインツ(ドイツ)のグーテンベルグが発明した「活版印刷技術」がこの知的興奮の坩堝と化していたフィレンツェにもたらされ、火に油を注ぐことになります。次いで、フィレンツェの一介の紙屋から身を起こした「書籍・出版商」、ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチ(1421-98)が、1480年にグーテンベルグ活版印刷技術を導入してイタリアで最初の印刷本『十五世紀有名人列伝』を出版しました。


  これが契機となり、瞬く間に印刷術がヨーロッパ中に広がり始めます。このため、従来は手写本のため量産ができず価格も非常に高額であった出版物が急速に庶民の間にも普及し始めるのです。やがて、豪華本や愛蔵本もさることながら、ギリシア語やラテン語の古写本の活版印刷化が急速に広がり始めます。このため、ヨーロッパの学者や聖職者たちは望みさえすれば、いつでもギリシア語で聖書やキリスト教の研究書を読むことができるようになったのです。活版印刷の初期の代表的出版人としては、フィレンツェのビスティッチのほかに15世紀にヴェネチアで活躍した出版人アルド・マヌーツイオ(ca1450-1515)を挙げておく必要があります。アルド自身が教養人でもあったため、アルド書店はプラトンアリストテレスホメロス、イソップなどのギリシアの古典を次々に出版することになりました。また、16世紀に入ってからのことですが、ヴェネツイアのジョリート書店はイタリア語版の通俗的な小説やアリオスト、カステリオーネ、アレッティーノらの文学の廉価本(今で言えば文庫や新書に相当する)を数多く出版しました。これによって、中産層の人々も比較的安く本を手に入れて読むことができるようになったのです。


  このような「出版物の大量生産」という画期的な技術革新現象は、情報の歴史から見ると「第二次情報革命」と位置づけることができます。つまり、第一次情報革命は「文字の発明」、第二次は「グーテンベルグ活版印刷術」、第三次が「コンピュータの実用化」、第四次が「インターネットの普及」です。これらは、いずれも人間の精神に対して革新的な影響を与えてきました。この中でも、特に第二次の「グーテンベルグ活版印刷術」が到来したばかりのギリシア文化(ギリシア語の文献)と融合というコジモの時代のフィレンツェで起こった出来事、つまり15世紀フィレンツェで起こった『近代ヨーロッパ精神の黎明期』における知的・社会的な大変革現象は、“人間という存在”を根底から変容・変質させるという意味で人間の精神史に対して計り知れぬほど甚大な影響を与えたのです。人間の精神面における、このように巨大な地殻変動震源となった一連の事例の中から特に目立つ傾向をニ、三取り上げてみると、例えば、次のような点(下記●)を指摘することができます。このように僅かな出来事を概観するだけでも、仮にギリシア人たちがフィレンツェを訪ねることがなかったとすれば、そして、これらのギリシア人たちによる「偉大な知の貢献」がなかったならば、フィレンツェ(イタリア)・ルネサンス文化が開花することはなかったと思われるのです。


フィレンツェにおける最も古いギリシア語学校は既に1397年にできていたが、1439年の「東西統一公会議」を契機としてフィレンツェギリシア語熱が一気に爆発した。1460年には『ヘルメス文書』のギリシア語版の写本がフィレンツェにもたらされ、フィツィーノがそれを標準ラテン語で翻訳・出版し、これがプラトン・アカデミーの哲学と思想の貴重な土壌となった。この豊穣な土の中からサンドロ・ボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロなどの華麗なフィレンツェルネサンスの花が開花することになる。


古代ギリシア文化の「生命の風」を全身に浴びたポーランドコペルニクス(1473-1543)は「地動説」を唱えるようになり、この「地動説」を支持してローマ教会から異端宣告を受けたイタリアのガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、アルキメデスを自らの師と仰いでいた事実が確認されている。また、ベローナ生まれでありながらコンスタンティノープル(ヴィザンツ)でギリシア語を学んだ人文学者グアリーノ・ダ・ヴェローナ(1370-1460)は、ストラボンの『地理学』をギリシア語からラテン語に翻訳している。


  これら一連の文化面における画期的な出来事は、「本格的なイタリア・ルネサンスの発展・開花」、「地理上の発見」(大航海時代の始まり)、「宗教改革宗教戦争」、「市民革命」など16〜18世紀に次々と起こる大地殻変動に連鎖して行くのです。そして、これらの動向の中ですべてに共通するのが「宗教改革」及び「対抗宗教改革」という人間精神の根源で煮え立つマグマです。やがて、フィレンツェを中心地としたギリシア語による古典文献の研究が進むにつれて、従来のラテン語聖書の定訳に含まれる夥しい数の<誤訳>が発見・指摘されるようになったのです。しかも、これらの<誤訳>の中には『ローマ・カトリック教会にとって都合がよい意図的な意訳』(まさにメディア・コントロール!)が含まれていたことが明らかになってくるのです。このため、ヨーロッパの人々の信仰の原点である「ローマ・カトリック教会の聖書解釈」に対する信頼が音を立てて崩れ始めたのです。このため、カトリック教会とローマ教皇の権威も大きくぐらつき始めます。いわば、イタリア・ルネッサンスを準備した<知の精密化>によって、ローマ教会の「正統とカトリシズム(普遍性)」が崩壊し始めたのです。やがて、この出来事は、まるでWeb上のハイパー・リンクを伝播するネットワークの広がりのように全ヨーロッパに隈なく拡大し、それが「宗教改革」の起爆剤を準備することになります。


  後は改革の火を燃え立たせる導火線への点火が待たれるだけです。それがルター、カルヴァンらの「宗教改革運動」、そして「オランダ独立戦争」、「ユグノー戦争」、「三十年戦争」など宗教戦争の勃発です。しかし、これに対するカトリック側からの反動(対抗宗教改革)は、多くの場合、極端な狂気の姿となります。つまり、それは「異端審問」の弾圧や魔女狩りなどの残酷な悲劇となって現れます。これによって数多の人々が無実の咎で八つ裂きの刑や火あぶりの極刑に処されたり、虐殺されたりしたことを思うと感無量です。また、プロテスタント側の、特に熱狂的なカルヴァン派の抵抗運動は一部で超過激なものとなり、その所業の酷さは「異端審問」に引けをとらぬほど凄惨な地獄絵図を描きました。ありていに言えばブッシュのアメリカのような「先制攻撃論」による大殺戮と残忍な虐殺の応酬となったわけです。この状況は、現代風に言えば、事後の正確な情報収集と検証によって、“イラク戦争開戦の理由”であった「大量破壊兵器」の大義が脆くも崩れ去ったことに酷似しています。その本質は、「ローマ教会の普遍」も「イラク戦争大義」も、所詮は過半の一般大衆の眼を眩ますための巧妙で偽善に満ちたメディア・コントロールであったということです。そして、ここで最も際立つのは、両者ともに、全世界の覇権を握る「政治・軍事・科学的権力」と「宗教原理主義の狂気」が融合して、正義という名の下で“おぞましい地獄の苦しみ”をもたらしたということです。


  ここには、本来ならば人間の魂の救済であるべき宗教が、最高の政治権力と融合・合体することで<悪魔的な暴力装置>と化すという、避けがたい歴史的な原理(歴史的事実を繰り返す姿)が開示されています。このような“人類全体の腐臭に満ちた狂気”に抗えるものは、唯一「平和主義の信念」だけです。これも、歴史を捻じ曲げずに正しく学べば理解できるはずです。一旦、このように“全世界的な狂気”の宴(うたげ)が始まってしまうと「科学の知」も「哲学の知」も「法の支配の原則」も無力です。しかし、今、これらの中で、唯一、希望を託せるのが「科学の知」です。なぜなら、現代の「科学の知」は、事実上、人類全体の命運を左右する決め手を握っているからです。従って、アメリカ・ブッシュ政権が、今、推進しつつある戦術的な「小型核爆弾の実用化計画」のような非人道的でバカげたプランは、純粋に科学的・合理的・論理的な見地から徹底的に批判することが可能なはずです。既に、アフガン戦争やイラク戦争で使われてしまった劣化ウラン弾の問題も然りです。「アフガン・イラク戦争」に邁進したブッシュ政権の背後では、明らかに産軍複合体や巨大化学・エネルギー産業が糸を操っています。


  だから、このような悪魔的な企みに対して、科学者たちは自らの良心に従い勇猛果敢に、かつ徹底的に抗い批判すべきです。しかし、一部のアメリカにおける調査が明らかにしているように、科学分野の研究者たちの凡そ90%は何らかの形でエネルギー産業など大企業からの「紐付き補助金」に頼って研究活動が進められているのが現実です。日本でも、いわゆる御用学者たち(職を得るためなら何でもアリのトンデモ学者たち?)が急速に増殖しつつあります。これは、少子化を背景とする「大学等高等教育機関」の困難な経営事情とも関係する問題であり、やがて、その悪影響が、より深刻化することが懸念されます。これらの問題は凡ゆるアカデミズム分野の人材育成をどのように進めて行くのかという国家戦略の問題に尽きる訳であり、結局、それは如何にして「平和主義の理念」を国の政治(民主主義のガバナンス)に反映させ得るかという、国民一人ひとりの「政治参加意識の問題」に繋がっているのです。つまり、このための回答は、国民一人ひとりの積極的な意志の表明(モラル・ハイグラウンドな選挙行動)にあるのです。


  この点から考えてみると、未来は必ずしも悪夢が広がるばかりではありません。現在は16世紀のヨーロッパと異なり、より希望が持てる地平が見えるのです。それは、今や高度なWeb社会が確実に実現しつつあるということです。ここから、人間社会の未来に関する「市民社会の連帯」について新しい展望が見えてくるはずです。また、このように「健全な市民意識」を積極的・意欲的に媒介する役割が、改めて従来型のメディア(新聞、テレビ、ラジオ、雑誌など)にも求められているのです。このように見てくると、商業主義に甘んじたマスメディアが娯楽提供型の報道姿勢に安易に傾斜したり、あるいは“市場原理主義型の経済合理性と現実の辻褄合わせの必要性”を唯一の根拠として憲法など法の理念部分を無視しつつ安易に法の枝葉を加除・修正するような「反立憲主義的傾向」に迎合したりする一方で、過去の帝国主義時代の日本を理想とするアナクロニズム的な精神論(万世一系の支配を理想とする、歴史を無視した懐古趣味的な国風文化論)や意図的に軍神を奉った宗教カルト的イデオロギーを煽るなどの行為は、きわめつきの愚行だということになるのです。