toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「幻想民主主義の国」日本(2)


<注>


 この記事はB/N(posted 2004.1.5 News-Handler)ですが、大幅に書き換えてあります。約1年数ヶ月前の記事を読んでみると、日本の社会・経済状態が以前より良くなるどころか、ますます後退しており、もはや大方の日本国民は上下の別も覚束ない空間識失調状態に入っているようです。ただ、その五里夢中の靄々の上に浮かび上がり上機嫌の様子で世界を股にかけたパフォーマンスの日々を楽しむ人影らしきファントム(Phantom/幻、幽霊、外見だけで実績がない人、錯覚、架空やデッチアゲの仕事で高給を食む人/典拠:大修館ジーニアス英和辞典)が見えるだけです。


 ところで、このような自分のBlog記事との往還の中から新たな問題点に気づくこともあります。そこで、今回気づかされた、社会が虚構化(幻想化)しつつあるという意味を込めて表題を「コピー民主主義の国」(上っ面だけの民主主義)から「幻想民主主義の国」へ変えてみました。


 Blogの可能性というような大げさなことではありませんが、このように自分が記録した過去との往還から自分なりの面白さが発見できるのは楽しみでもあります。今後も、新しい記事と並行しながら過去〜現在〜未来〜現在の時間旅行を楽しみつつ、批判の芽を発見したいと思っています。


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 このような「脳」の働きに関する新しい知見から分かることは、“今や全世界を覆いつつあるアメリカ発のモノカルチャーグローバリズム原理主義的な思考(宗教原理主義、自由原理主義市場原理主義規制緩和原理主義、消費原理主義、利益原理主義、民営化原理主義など)は、本来的に多様性(マルチチュード/multitude)を必要とする「生命の本質」という観点から見ても、やはり不健全きわまりない政治・経済・文化の姿だ、ということです。先制攻撃的な武力行使の危険を冒してまで、画一的にマニュアル化された「アメリカ型の経済・文化及び民主主義の形」を世界の隅々まで強引に押しつけることは、フィード・フォワード的な「活力」をもたらす「脳の古い皮質」に比肩できる全地球上の「古いローカル文化」(個性的な歴史と伝統を誇る地域文化)を根こそぎ破壊する懸念があります。また、「場の情報」と「関係子」の協働的な作用の重要性から分かることですが、「生命」は一定のセマンティック・ボーダー(意味論的な区画・区切り)の中に閉じ込められることを最も忌み嫌う存在なのです。このように考えると、新自由主義(自由原理主義市場原理主義)を大義名分として、強引に押し進められつつあるアメリカ型のグローバリズムは、正に、このような意味で「生命」(生命活動)が最も忌み嫌うことの押し付けに他ならないのです。


 このようなグローバリズムに侵された将来の日本に出現するものは、日本固有の文化(これは権力側が上から押し付けようとする愛国心などとは無関係である)や個性的な地域経済が生きいきと発展する姿ではなく、また、生命感あふれた人々の活躍する姿でもなく、そこにあるのは人間本来の意志と自由を剥奪され、空疎で無意味な情報空間と汚染された環境の中で繰り返し大量再生産される「ステロタイプなコピー情報」と「化学汚染物質&産業廃棄物」の巨大な山塊に押し潰されようとする、まるでボッス(Hieronymus Bosch/ca1460-1516/ネーデルラント初期ルネサンスの画家/宗教的・比喩的なテーマの絵が多く、空想的な妖怪や地獄の刑罰の様子などの描写で、時代を遥かに飛び越えた比類のない批判精神を見せてくれる/http://masterworksartgallery.com/Bosch-Hieronymus/)の絵に描かれているような薄汚れて退廃し憔悴しきった、しかも「我欲と煩悩」(金銭欲、食欲、性欲、権力欲、名誉欲など)だけが肥大化した人々の恐ろしくも憐れで、おぞましい姿です。それは、いわばアメリカ型グローバリズムに汚染された結果としての全地球的な思考停止状態の結末であり、未来への夢と希望を完全に喪失して、ひたすら自失呆然とする人々の姿です。どのような贔屓目で見ても、この半ば痴呆化したような、あるいは妖怪化したような社会の姿が、健全な「資本主義」と「民主主義」の将来像が実現した姿だと言い張ることはできないでしょう。つまり、我われ日本国民が希求すべき理想の「民主主義」は、一方的に暴政を牛耳る権力側から与えられる「お仕着せ民主主義」ではあり得ず、まして他国をあんちょこに真似ただけの「コピー民主主義」などの類ではなく、我われ自身が、自分たちの「意志と希望」によって勝ち取ってゆくべきものなのです。(今、声高に進められつつある我が国の構造改革・民営化・規制緩和なるものは、すべてアメリカ政府が日本政府へ要求したプログラムを忠実に実行しているだけです。具体的な根拠は、下記URL(▲)を参照してください。さながら、日本国の首相は「米国植民地日本・総督」といった位置づけのようです)


▲日本政府に規制改革要望書を提出/米国通商代表部(米国大使館HP)
http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041015-50.html


▲日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書
http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041020-50.html#mineika-s(米国大使館HP)


 2003年の衆議院議員選挙の時に、約1億の有権者総数の4割に相当する約4千万人が棄権したという「日本の民主主義」の無残で嘆かわしい姿こそ、このような薄っぺらな日本の「コピー民主主義」を象徴するものではなかったでしょうか? そこで見られたのは大脳の「関係子」に相当する、自律した「責任感ある市民意識」の不在という悲しむべき現実です。そこに見られたものは先進民主主義国家の市民(国民)に相応しい政治意識(民主主義についての正しい理解)の欠如です。もはや、この選挙の結果については、後から如何様に言い訳ができたとしても、絶対に否定できないことは、恐るべき現実(ボッスが描いたような世界)が、必ず、そこからもたらされるだろうと言うことです。それが一国の政治が選択したことについての「冷厳なる結末の姿」であり、恐るべき現実です。しかし、これら棄権した多くの国民は、現在に至っても、未だに、そのことの深刻さを理解していないようです。それどころか、本年4月24日に行われた宮城と福岡の衆議院議員補欠選挙でも恐ろしく低い投票率(福岡2区45.99%、宮城2区36.75%)が出てしまいました。そして、事前の世論調査どおりに自民党候補者が2議席とも獲得して民主党は2議席を失うということになりました。


  ここにみられるのは、相変わらずの一般国民の選挙に関する希薄な権利意識です。また、国政に対する恐るべきほどの無関心と民主主義国家の市民(国民)としての批判精神の欠如です。つまり、このような日本では、いわば国家側からの適切な「場の情報」(例えば、将来の日本が国家としてあるべき理想像)の提供も、民主主義社会のガバナンスに責任のある国民自身が、自分の意志と責任において選挙権の行使によって定義すべき「関係子」に相当する共通概念の構築(理想像に照らした戦略プロジェクトの選択)も殆んど機能していないということです。これは、日本という国家の生命力、つまり未来に向かわんとする日本国民の総体的な活力という観点からすると、とても心配なことです。(なお、各国の国政選挙と比べて、どれほど日本の国政選挙の投票率が低水準であるかを論じたBlog記事(下記■)がありますので参照願います)いずれにしても、このような一向に改善しない国政選挙に関する投票率の現実を見ただけで、日本における民主主義の現状と国民一般の政治意識は改善するどころか、ますます退行し、悪くなりつつあることが分かります。


■「低投票率56.6%」が暗示する日本の危機とは?
http://blog.goo.ne.jp/remb/e/4d88664a380ca983ffd4eec0b087ba0b


  ところで、下に並べた数字は、今年1月〜5月までに発表された「NKH世論調査」の小泉内閣支持率調査のデータです。これを眺めて胸にこみあげてくるのは、どのような具体的成果(実績)があって、右肩上がりで支持率が50%を超えるまで回復したのか?という疑問です。成果どころか、現実には「年金問題」の抜本改革など最も肝心のことは放り投げたまま、多少目先の明るさは感じられるものの景気回復の長期見通しは相変わらず五里夢中であり、目的が分からない(肝心の簡保郵貯原資の財投融資問題にまったく触れぬままなので)「郵政改革」のドタバタ紙芝居劇(内容は道路公団問題と同じ骨抜き状態)が演じられているだけです。一方では「人権擁護法案」、「混合診療の導入」、「サービス残業の合法化」、「小額医療費免責制度の検討」等々、国民の基本的人権を侵すような政策が鉄砲玉のように連発され、周知のとおり財政改革の根本方針が示されぬまま小手先の増税策だけが次々と発表されています。(これらの詳細については下記Blog記事(★)、参照)そして、目立つのは“自称テレビ映りが良い男”、小泉首相を筆頭とする各閣僚・国会議員たちの派手な外遊パフォーマンス・オンパレードばかりです。


★『日本ファシズム化法案』が再提出?
http://blog.goo.ne.jp/remb/e/05db151175d2d0d2e628a08fee282bd5


★「サービス残業の合法化」(等)に関する情報が錯綜してきたので現況をまとめました
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050505/p2


★「貧富差拡大時代」招来の上に、国の「社会保障的義務」も放棄するのか?
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050319/p2


★高すぎる日本の「民主主義のコスト」
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050315/p1


 1月    2月    3月    4月   5月 
 42 (41)  46(40)   46(37)   45(40)  52(35) 


<注>(  )内の数字は支持 しない。(単位:%)


  他方、この間にクッキリと姿を現してきたのが「憲法改正」の問題です。各マスコミの調査によると、もはや憲法改正の方向は既定路線となったような感があり、マスコミ各社のアンケート調査によれば国民の過半以上が「憲法改正」に積極的になっているように見えます。支持率調査にせよ、憲法問題のアンケート調査にせよ、ここで暗黙にすべての人々が前提として了解している内容は、これらの調査結果が「世論」を間違いなく反映しているという、喩えれば信仰心に近いとすら言えるようなドグマ(思い込み、固定観念、先入観、偏見)です。ここで、敢えてドグマと言い切ったのは次のようなことが考えられるからです。つまり「本当の民主化が実現されていない社会で実施されるアンケート調査は、あまり意味がないということ」が言えるのです。(参照、http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssst/annual/0002/01sato.html)日本の社会が本当に民主化していないなどと言うと、大方の人々から大きな反撃を喰らいそうです。しかし、この点については、先ほど触れた国政選挙における異常なほどの低投票率という日本の現実があることを指摘すれば十分だと思われます。更に言うなら、「憲法」が持っている「政治権力に対する授権規範性・制限規範性」の意味を、ほとんどの日本国民が理解していないと思われることも、未成熟な日本の民主主義の証なのです。ただ、この点に関しては、憲法学者等の専門家やマスコミにも、かなりの責任があると思われます。つまり、憲法の正しい意義についての国民一般に対する啓蒙活動を積極的に行ってこなかった、という意味です。


  また、「日本国憲法」の先進性の象徴が「平和主義と第9条」にあり、それが世界中の人々から高く評価されていることは多言を要しない程に明らかな事実です。現在、イラクで英国の警備会社に所属する日本人社員が武装勢力に拘束・拉致される事件が起きています。このような会社は、いわゆる「戦争の民営化」(市場の社会的深化の典型例)の流れの中で生まれたものです。現在の世界では、このような「民営化」路線で戦争を戦うのが当たり前のことになっており、だからこそ日本のように「平和主義」を掲げて戦争とビジネスの間に厳しい一線を画す国は、むしろ珍しいのです。しかも、どちらがノーマルで、かつ望ましいことかと言えば、日本の在り方の方が明らかにノーマルなのです。だからこそ、日本の「平和主義」は世界に先駆けており、そのモラル・ハイグラウンドが世界中の多くの人々から高く評価され、信用されているのです。従って、マスコミの支持率調査の結果だけで、このように世界でも稀少な優れた憲法を改正するべきだと安易に主張するのはまことに愚かなことです。(なお、これらの点に関する詳細は、下記のBlog記事(◎)を参照してください)


◎「軍事的国体論」を超える日本国憲法の先進性
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050419/p1


◎シリーズ「民主主義のガバナンス」を考える(2/4)
http://blog.melma.com/00117791/20050325211319


  ところで、既述のURL記事(http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssst/annual/0002/01sato.html)引用されている、旧東京大学社会情報研究所の小山栄三教授(
http://www.artdai.com/mon/econ/archives/2005/05/post_86.html)が、かつて“世論というものは、基本的にはメディアが媒介項となって、国家と国民の関係性のなかでつくられるものだ”という名言を述べているそうです。(姜 尚中、テッサ・モーリス-鈴木共著『デモクラシーの冒険』(集英社新書))どうやら、我われが暗黙の前提で存在を確信している「世論」なるもの正体は、実は掴みようがない幻影(ファントム)だと言うのが現実であるようです。このように考えれば、メディアコントロ−ルを持ち出すまでもなく政治権力とメディアが協同して「政治的なファントム」を創ることなどは造作も無いことのように思われてきます。そもそも、マスコミ等によるアンケート調査の結果がどこまで信頼できるかは疑わしいところがあります。こんなことを述べると統計の専門家からお叱りを受けそうですが、質問項目の設計と回答者の選び方しだいで、アンケート調査の結果については、かなりの確度で誘導することが可能だと思われます。


  話題は冒頭へ戻りますが、大脳の働きに代表されるような生体内における「関係子」の作用は確かに仮設的な概念に過ぎません。しかしながら、この「関係子」の概念が生物個体内の膨大な細胞群のネットワークを基盤とするニューロンクラスターの発火という、現実に客観的に観察される生理学的な現象に裏付けられています。乱暴に言ってしまえば、「関係子」の作用は、シッカリと生物固体に脚がついている(つまり、地に足がついている)ものです。他方、「世論」や「支持率」などのファントムは、どのように科学(統計)的手法で装ったとしても、地に足がついたものであることを論理的、観察的、客観的に説明できません。人間社会の未来、日本の未来を左右するための社会操作概念に求められるものは、限りなく「関係子」のような性質であるべきで、「世論」のようなファントム(幻想概念、あるいはメディアコントロールのようなご都合主義による政策等の決定に影響されて右往左往するもの)であり得ないことは分かりすぎるくらい当たり前のことです。


  例えば、ある人物に関するアンケート調査では、「その人物を支持する理由についてお答えください・・・・(1)人間的に信頼できそうだから、(2)仕事の実績があるから、(3)他の人より良さそうだから、(4)他に適任者がいないから・・・」という項目が必ず出されます。この場合、(2)はともかくとして、果たして我われは(1)、(3)、(4)をどのような手掛かりに基づき評価することができるのでしょうか? このように、あるものごとや人間についての質的な評価や判断を求める質問に対しては、よくよく現実の姿や行動・言動などを身近な場所で見た上で考えなければ、あるいは、その人物とたまたま知り合いであったり、一緒の生活や一緒の仕事を経験したことがあるというような場合でもない限り、簡単には答えられないはずです。プロセスをブラック・ボックスにして、結果だけを統計的に処理した数字ほど危ないものはありません。たとえ、数字で如何に精緻な理論が構築されたとしても、現実との接点が希薄であるに任せて、そのように矢鱈と数理的に複雑怪奇化した表現世界だけで満足する人は、喩えれば「数学の美学」に耽溺し自己満足するナルシスティックなディレッタントと同類です。人間社会の未来を語る道具として、商品モニター調査や市場調査(マーケティング・リサーチ)のような調査手法にだけ頼るのはきわめて危険です。数字ほど、人を誑かすのに都合がよいツールはないことを想起すべきです。


 ともかくも、このような訳で日本の民主主義社会は、これからも「偉大なるファントムさま」のパフォーマンスに拍手喝采を送りながら、まるでテレビの「お笑いバラエティー・ショー」のような「共同幻想の世界」を浮遊し続けることになるのです。