toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「改憲論」に潜むナチズムの病巣(王権神授と民族精神の高揚)


[表題]「改憲論」に潜むナチズムの病巣(王権神授と民族精神の高揚)


1 ナチズム誕生のプレリュード(19世紀以前のドイツ法制事情)


[13〜16世紀におけるドイツ法曹界の事情]


●中世にはSchoeffe(参審員、判決人)と呼ばれる職業の人々が活躍していましたが、13世紀末頃になるとJurist(法曹人)と呼ばれる新しい職業人が現れます。彼らは、専らローマ法・ローマ教会法の学識研究者ですが、従来からドイツで使われてきた慣習法や民衆法(部族法)の上で、これらを止揚した新しい「学識法」(法曹法)を創造し始めていたのです。そして、彼らの法曹の伝統は「ローマ法の継受」と呼ばれています。やがて、このような流れの中からドイツ地域内で普遍的に通用する「普通法」が成立することになります。


●このような「ローマ法の継受」という現象は、12世紀のボローニャ大学(イタリア)で再興されたローマ法(「ローマ法大全」(Corpus Juris Civilis/東ローマ皇帝ユスティニアヌスの勅命によって編纂されたローマ法の集大成))の研究を学んで「万国教授資格」を得た留学生たちが、それぞれの母国に戻りローマ法の伝統を講じたり、Schoeffeなど法実務家の仕事に加わることから始まっています。そして、これらJuristたちは、その高い学識故に身分制社会で特有の釤血統の誓約”から解放される立場を与えられていました。


●このような訳でドイツにおける法律の実践はローマ法を基礎とすることになったのですが、この時代は未だ近・現代的な意味での中枢となる裁判機関が存在しなかったので、実際の審判・判決は大学の学問的な権威、つまり「博士の共通見解」を適用することになっていました。ともかくも、ドイツにおける法制は大学におけるローマ法研究の偏重によってイタリア(ローマ)の影響を強く受けていたのです。そして、この時代頃までのドイツ法曹界ではローマカトリックの受容と同じ様にローマ法をドグマティック(教条主義的)に受け入れる「学識法」が普通のことでした。


[17〜19世紀のドイツ法曹界と「プロイセン憲法」の誕生]


●17世紀に入ると、ドイツへのフランス・ルネサンス文化の影響、フランスのユグノーたちのドイツへの移住、更にオランダ独立戦争(1568-1609)などの影響によって、学問に関する様々な新しい考え方がドイツへ入ってきます。例えば、オランダの「典雅法律学」(Elegante Jurisprudentz/フット(Johannes Voet/1647-1714)に代表されるオランダ典雅学派の法律解釈学)は、人文主義的な視野の広い法解釈の方法をドイツへ伝えました。このため、ドイツの法曹家たちは、ローマ法大全のような「権威的典籍」の中に「書かれた言葉」を教条的(文字・言語原理主義的)に解釈するという、まるで呪縛されたようなドグマ的法解釈の作業から解放されるようになります。また、視野が広がることによって、多様で生きた法制度を新しい観点から体系的に組み直す方法なども手に入れました。この時代は「パンデクテン(Pandekten/ローマ法大全の主要部分を意味するドイツ語)の現代的慣用の時代」と呼ばれる、本格的な「ドイツ法学」の揺籃期です。


●この「ドイツ法学の揺籃期」に決定的とも言えるほど大きな影響を与えたのがホッブス(T. Hobbs/1588-1679/イギリスの経験論哲学者)、ロック(J. Locke/1632-1704/イギリスの経験論哲学者)らの自然法思想(哲学)です。この結果、ドイツでは法哲学が重視されるようになり、国家理念と法哲学が人間の精神環境で通底する可能性が理解されるようになります。ここで起こったのは、かつて哲学がキリスト教神学から解放されたこと同じです。つまり、法律学が史上で初めて「ユスティニアヌス法典」(ローマ法大全の勅法集の部分/最も権威的な位置づけにある部分)という典籍の権威(呪縛)から離れて、科学的な道筋(法体系)の可能性を見出した重要な出来事であり、ここで近代的な法学の方向性が決定したと言っても過言ではないのです。


●19世紀に入るとプロイセン王国(この頃、ドイツで最も強大な王国に成長)の啓蒙専制君主時代(フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、4世頃)から「ドイツ第二帝国」(1871-1918/プロイセン王国が中心)初め頃(ヴィルヘルム1世、2世)にかけて、法形成の淵源を「民族の精神」に求める「歴史法学」がドイツの法学会を支配します。この「歴史法学」の創始者は、経済学における歴史学派の先駆者と見なされるF. リスト(Friedrich List/1789-1846)の影響を受けたと考えられるF.K. サヴィニー(F. K. von Savigny/1779-1861)です。サヴィニーはプロイセン国王(フリードリヒ・ヴィルヘルム4世)の懇請を受けて立法改定相(実質的なプロイセン宰相)に就任(1842-1861)しています。また、1861年サビニーが死去したときには、彼の功績を記念して「サビニー財団」が設立され、ここから現在も刊行が続く法史学雑誌「Zeitschrift der Savigny-Stiftung f・ Rechtsgeschichte 」が発刊されています。


サビニーの功績は偉大なものですが、その中で筆頭に挙げるべきものがドイツの新しい市民法体系の創出を目指して構想された「歴史法学」です。そして、このサヴィニーの功績が、18世紀の「ドイツ法学の揺籃期」に確立された新しい方向性を引き受けたものであることは言うまでもありません。サビニーの思想の根本には釤歴史を遡れば、民族と法律が共同して法形成に参与していた時代(慣習法の時代)がある”という基本的な考え方があります。そして、現代は法律が民族に代わってこの発展の仕事を引き受ける時代になっており、過去における民族精神の発掘の仕事を法哲学が担っているのだと論じています。また、サビニーは歴史と法の関係について次のような言葉を残しています。・・・『法の素材は国民の全ての過去によって与えられており・・・途中略・・・国民自身の最も内奥にある本質とその歴史から生み出される』


●ここで忘れてならないのは、19世紀のドイツは統一国家を模索する中でナショナリズム(民族国家主義)の熱気が湧き上がった時代でもあったということです。無論、このことは、フランス革命の余波(厳密にはナポレオン戦争)とイギリスの産業革命などが刺激となって、統一された国民国家を求める意識がドイツ人たちの間で高まったためであることは明らかです。そして、奇しくも、この時代にサビニーの「民族精神」を根本に据えた「歴史法学」が着想され、そのサビニーが国王の懇請によってプロイセン王国の実質的な宰相となっていたことを想起すべきです。


●その「民族精神」の高揚とは背反するようなことですが、同じ頃のドイツ(フランス革命などの市民革命で遅れをとり、同じゲルマン民族から成る国民としての意識と誇りを傷つけられたドイツ人たち)が精神の拠り所としたのが、すでに遥か昔のウエストファリア条約(1648)で消滅していた『中世ドイツ(第一)帝国』(神聖ローマ帝国)の「栄光」でした。このような経緯で、偉大なる法学者・宰相サビニーは「ゲルマンの純血と民族・伝統精神」への憧れ、そして「神聖ローマ帝国の栄光」の復権という二つの根本原理をアウフヘーベン(Aufheben)する形で、新たなプロイセンナショナリズムに熱気を吹き込む理念の創造に成功したのです。そして、この時代のプロイセン社会の中には、微かながらも「ナチズムの空気」が漂い始めていたのです。


●誤解を招かぬよう敢えて言っておきますが、論者はサビニーこそがナチズムの原因だなどというトンデモ論を主張するつもりはありません。もし、このように“不埒な放言”をすれば法曹界の方々から大目玉を食らうことになります。それどころか、サビニーはドイツが誇るべき伝統の一つである「歴史法学」(historische Rechtswissenschaft)の道を樹立した偉大な法学者です。ましてや、この「歴史主義」というドイツの伝統には、現在、市場原理主義・金融原理主義に毒されたアメリカ型グローバリズムが世界に撒き散らしつつある恐るべき汚染現象に対する解毒剤・緩和剤の役割が期待されているのです。問題は、どのように優れた理念やシステムにも必ず欠点や弱点があるという現実を謙虚に自覚し、それを如何にして直視できるか、ということです。


●更に、世界に先駆けて、先進的で民主的な「ワイマール憲法」を作ったワイマール共和国が、何ゆえに脆くもナチスヒトラー政権を受け入れることになったのか、という痛ましいほどの歴史的現実があります。しかし、現代のドイツ人は、この痛ましい歴史と真っ向から向かい合うという厳しい生き方を現在に至るまでの長い時間をかけて持続的に選択してきました。決して「ワイマール憲法」に全ての罪を着せて、理想の民主主義を捨て去るような愚考(愚行)はしていません。そこでモラル・ハイグラウンドの光を燦然と放つ光源は唯一点です。それはドイツ人たちが、自ら犯した誤りである歴史的事実に真っ向から対峙しながら、全世界に向けて「率直な反省」の意志を表明しているということです。


●歴史と向き合って「反省」することがどうして「自虐史観」だなどと言えるのでしょうか。もし、歴史を反省することが「自虐史観」だというのであるならば、このほどベルリンに「ホロコースト記念碑」を17年越しで完成させたドイツ人たちの勇気ある行為(詳細はURL、
http://www.asahi.com/world/germany/news/TKY200505090321.htmlを参照)は「自虐史観の記念碑づくり」だということになるでしょう。だから、「自虐史観」のような視野が狭い批判の言葉は、不勉強な輩の単なる“強がり、開き直り”の類なのです。ともかくも、勇気あるドイツの人々の「反省」の中から、現在の拡大EUの一角を支える新たな理念が創造されたのです。つまり、サビニーが樹立したドイツ法に関する「歴史主義」についても同様のことが言えるのです。「反省」の接木によってこそ、人類の未来は切り開かれるのです。(ドイツ人たちが自ら犯した誤りであった歴史についての「反省」がどのようにして拡大EUの理念の中に取り込まれているかについては右のURLを参照)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050329


●1882年(明治15)、伊藤博文らは「大日本帝国憲法」(1889年公布)起草の参考とするため憲法事情及び諸制度の調査を目的に、このような時代のプロイセン渡航しました。その頃は、丁度プロイセン王国を中心とする「ドイツ第二帝国」が成立してから10年ほど経過したばかりの時代で、初代皇帝ヴィルヘルム1世の治世(宰相は既述のサビニー)です。ドイツの統一は、ベルリン・ウイーンの「三月革命」(1848/同年のフランス「二月革命」の影響)以来のドイツ市民層の悲願となっていました。しかし、「三月革命」と「プロイセン憲法紛争」(1862-66/詳細は下記<参考1>)の挫折によって、ドイツ統一のリーダーシップは、既に政治的な覇権を掌握したプロイセンの王権へ移っていたのです。


●また、プロイセンは「プロイセン・オーストリア戦争」(1866)で、ライバルであったオーストリアを破り、オーストリア(人口約1,000万人)を排除する形(小ドイツ主義)で「北ドイツ連邦」を成立させていました。この戦争の勝利は「プロイセン憲法紛争」を巡り王権と対立していた議会内の自由主義勢力を抑えることにもなります。そして、「鉄血宰相」(重工業の振興と軍事力(つまり富国強兵の政策)を最大限に活用したので・・・)と呼ばれたビスマルクは「普仏戦争」(1870-71)でフランスのナポレオン3世軍を破り、南ドイツ4カ国を加えて、遂に悲願の「ドイツ第二帝国」(1871-1918/人口約4,100万人)を誕生させていたのです。


●これに先立ち、1850年(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、宰相サヴィニー)には、「授権規範性」が意図的に排除された「プロイセン憲法」が制定されています。この憲法の大きな特徴は次の3点(★)にあります。同時に、この「プロイセン憲法」の根本には、先に述べたとおり「ゲルマンの純血と民族・伝統精神」への憧れ、そして「神聖ローマ帝国の栄光」の復権という二つの根本原理をアウフヘーベンした「新しいプロイセンナショナリズムの熱気」(ナチズムへ向かう予兆のような空気)が仕込まれていたのです。やがて、この独特のプロイセンの空気が伊藤博文らを介して「大日本帝国憲法」のなかに流れ込むのです。(下記三項(★)で、国王を天皇に読み替えれば、そのままで「大日本帝国憲法」の根本理念となります)


<注>授権規範性:フランス革命ピューリタン革命以降に認識された「憲法」の本性的な役割。立憲君主制であれ、議会民主制であれ、政治権力は必ず暴政へ走る恐れがあることが前提とされる。このため、「憲法」によって政治権力の手足を縛る役割が期待されるようになった。これが「憲法」の授権規範性ということである。当然ながら、「日本国憲法」を始めとして、現代世界の民主憲法にはこの役割が強く期待されている。つまり、国民は「憲法」を介して政治権力の腐敗や暴走を監視していることになる。


★国王の権力は神の恩寵によって授与されたもの(神権政治としての最高権力)と規定されている。


立法権は国王と両議院(衆議院貴族院)が共同でつくるものである。(見かけだけの立憲君主制


★しかし、行政権は国王のみにあり、国王は法案の拒否権を持つ。また、国王は緊急勅令を出すことができ、大臣を任免する大権を持つ。(国王の権力はすべての政治的権力の頂点にある)


<参考1>プロイセン憲法紛争


・・・「プロイセン憲法」が出来た後の1860年プロイセン政府(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、宰相サヴィニー)は、軍事力強化のための軍制改革案を議会へ提示しますが、下院で多数派であった自由主義者たちが反対し、これが「政府」対「下院」の激しい対立をもたらすことになりました。これは、議会の統制下に軍隊を置くか否か(軍事予算の決定権を議会と軍隊のいずれに持たせるべきか)という問題が本質です。この後、ユンカー出身のビスマルクが宰相に就任すると、この対立が一層激しくなりますが、「プロイセン・オーストリア戦争」の勝利で軍備強化の成果が実証されたため、やがてビスマルクの与党・自由党指導力を握ることになります。


<参考2>「プロイセン憲法紛争」の「大日本帝国憲法」への影響


・・・「プロイセン憲法」をめぐる、このような紛争の経緯が、憲法起草関連の調査・研究のために、遥々と遠い日本からプロイセンを訪ねた伊藤博文らに大きな影響を与えたことは間違いないと思われます。つまり、「大日本帝国憲法」の下で、天皇大権を背に帯びた軍部が暴走し始めたとき、それを国会も政府も止めることができず(事実上、国会は軍事予算への統制能力を失ってしまった)、それが日本の「太平洋戦争」への突入を決定づけたことは明らかであり、それを可能ならしめたものは、万世一系天皇の「非常大権」と優秀な単一民族である大和民族の「民族精神」の二つ(「大日本帝国憲法」の根本に位置するもの)に他ならないからです。


<参考3>プロイセン改革とドイツ・ロマン主義文化の高揚


・・・1807年から「ドイツ第二帝国」が成立する頃にかけて、プロイセン王国では農制、営業・租税制度、行政、軍制、教育制度などの分野にわたる近代化のための様々な改革が推進されました。この改革が「プロイセン改革」と呼ばれるものであり、それはフランス革命の影響を受けた市民層からの要求に応えるとともに急激な政治的革命を巧妙に回避するという意図も併せ持っていたのです。このため、表向きは英仏などの諸国に比べて近代化が遅れた(プロイセン)ドイツの民族的自立を達成し誇りを取り戻すという理念の下で行なわれた改革です。そして、その指導的な役割を担ったのが、主に開明派の官僚たちであり、彼らのリーダーシップによって「上からの啓蒙的な改革」を成し遂げようとしたのです。


・・・目を転じると、18世紀から19世紀のドイツはロマン主義文学が高揚した時代です。特に、ブランデンブルグの中心地ベルリンはロマン主義文学活動の一大中心地でした。また東プロイセンケーニヒスベルク、現在はロシア領カリーニングラード/プロイセン公国誕生の地)のケーニヒスベルク大学(1544年創立)では哲学者カント(I. Kant/1724-1804)が教鞭を取りましたが、このカントに始まるドイツ観念論哲学は、1810年に創立されたベルリン大学の教壇から、フィヒテ(J.G. Fuchte/1762-1814)、ヘーゲル(G.W.F. Hegel/1770-1831)などの哲学者たちによって広く市民層の間へ伝えられました。また、ベルリン大学で忘れてならないのは歴史学者ランケ(L. von Renke/1795-1886)の活躍です。ランケは、厳密な資料(史料)批判と史実の客観的な解釈の重要性を主張して、近代ドイツ歴史学の厳密な研究手法を確立しました。


(「ドイツ第二帝国」の誕生以降の展開、つまり「ワイマール共和国」の崩壊から「ヒトラーナチス・ドイツ」が誕生するまでの経緯については下のURLを参照、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050514


2 「プロイセン憲法」を手本とした「大日本帝国憲法」の特徴


●あまり話題に取り上げられませんが、「大日本帝国憲法」の第1章「天皇」の直前に「告文」と「憲法発布勅語」が置いてあります。大雑把に言ってしまえば、この内容は、国家主権が天皇にあることを権威づけるための序文(前置き)です。つまり、大日本帝国は皇宗(神武天皇)に始まる万世一系の皇室(天皇家)を仰ぐ神の国(神聖なる国家)である。このように畏れ多い主権者たる明治天皇から下賜された「大日本帝国憲法」を臣民は心して拝受の上、それを遵守し、決してこの憲法に背くことなどないように愛国心を大いに奮い立たせなさい、というようなことです。


●そして、ここで隠然と強調されるのが万世一系天皇に仕える臣民(日本国民)が誇りとすべき民族精神(大和民族)の伝統です。このようなプレリュードの演出は、先に「(1)ナチズム誕生のプレリュード」の中で触れた「プロイセン憲法」の焼き直しです。プロイセン・ドイツの"名演出家”サヴィニーの国家理念づくりの「巧み」が日本の根本法の中で見事に生かされている訳です。そして、現在の日本における改憲論者の多くが着眼しているのは、このサビニーの“名演出”ぶりへの回帰ということです。


●これは誤った歴史の繰り返しに繋がる可能性が大きく、まことに危険なことです。しかし、もしも、このようなことを大声で主張すると、それは“杞憂でバカげた心配ごと”だと一笑に付す楽観主義的な傾向が強いようです。しかし、それは国家における「法」についての歴史的な意味と役割を十分シビアに理解していないだけのことです。どのような悪法であるにせよ、いったん決まってしまった「法」には絶対に従わされることになります。“マア、マアそこは常識で・・・”などと笑って済ませることは最早できないのです。鞭で叩かれ、銃口を向けて暴力的に強制されるまでもなく、それが「法の支配の原則」だということを理解すべきです。


(制定までのプロセス)


●1867年(慶応3)の大政奉還王政復古の大号令に続き、明治維新政府は五箇条の御誓文の提示と政体書を公布して政府の組織を整えます。翌年(1868)に改元して明治元年となり、一世一元の制を定めました。この年には神仏分離令が公布されたため廃物毀釈の運動が広がり、それに神祇崇拝の風が重なって多くの寺院や仏像が破壊・焼却されました。


●更に、版籍奉還廃藩置県・身分制の廃止(1871/明治4)が行われ、1873年(明治6)には地租改正の実施とともに徴兵令が出されて近代国家としての体裁が出来上がります。しかし、西洋諸国に伍して近代独立国家の面目を保つには富国強兵とともに近代的な法体系(法制)の整備を図る必要がありました。


●1874年(明治7)の民撰議員設立建白書が憲法制定への動きを促すことになります。その後、明治7年に設立された元老院憲法案の作成に取り組み、ベルギー憲法などを範とする「日本国憲按」が1878年(明治11)に出来上がりますが、その内容が憲法偏重主義(民主的な色彩が強すぎる)などの理由で政府内部、特に岩倉具視(京都・岩倉出の公家、幕末に公武合体を説き王政復古の中枢の一人となった/維新後は右大臣・特命全権大使として欧米の文化・政治制度を視察)から強い反対を受け退けられました。


●また、明治10年以降になると自由民権運動が活発化しますが、その中から英仏の憲法を模範とする様々な「私擬憲法」(憲法私案)が作られます。しかし、明治維新政府はこれらの動きを無視し、やがて自由民権運動そのものが抑圧されるようになりました。しかし、「明治14年の政変」(1881/大久保利通の死後に起きた、大隈重信の追放事件/大隈重信が民営化(政府財産払い下げ)関連のスキャンダルに巻き込まれ、これを機に伊藤博文らの薩長藩閥が大隈の追放と10年後の国会開設の詔の発布を要求した)が切欠となり、1890年(明治23)を期して国会が開設されることになり、それまでの間に憲法が制定されることになります。


伊藤博文(長州出身で英国に留学した政治家/憲法制定、初代首相、初代枢密院議長、立憲政友会結成、初代韓国統監などの重職を歴任/韓国併合を推進したかどで安重根によりハルピンで暗殺)が1882年(明治15)に欧州視察(プロイセン・ドイツ、オーストリアなど)を行い、帰国後に井上毅、伊東巳代治らとともに憲法案を起草します。結局、その憲法案が枢密院の諮詢によって1889年(明治22)に「大日本憲法」として公布されました。しかし、このような一連の憲法公布に至るまでの経緯は、長いあいだ日本国民に対して秘匿されてきたのです。


●「大日本帝国憲法」は、見かけ上ヨーロッパ諸国の近代憲法の体裁をとっていますが、君主の権威が強大なドイツ帝国プロイセン・ドイツ)型の立憲君主制を手本とし、そこへ日本独自の「万世一系天皇」を中心とする国家観を付与したものです。つまり、それは絶対君主主義的性格のものでもあります。結局、「大日本帝国憲法」は、「議会という立憲的要素」と「絶対君主主義的要素」の二つを併せ持つ憲法ですが、「外見的立憲主義」と呼ばれています。


憲法構成上の特色)


●[天皇]天皇に費やされる条文量が17カ条(全76カ条の約22%を占有)であること、第1章が天皇であること(この点は現憲法も同じだが)などから、大日本帝国憲法(以下、旧憲法)は明らかに天皇を中核とした憲法であることが分かります。この天皇の地位は、先に述べたとおり、天孫降臨の神勅で根拠が与えられており「天皇神聖にして侵すべからず」(第3条)と規定されています。ここから天皇は現人神(あらひとがみ)と解釈されるようになりました。また、「大日本帝国憲法万世一系天皇これを統治す」(第1条)とあり、日本国民ではなく天皇が主権者であることが示されています。また、この天皇国家元首として統治権を総攬することになっています(第4条)。


●[国家ガバナンス構造]現人神たる天皇を頂点とする国家のガバナンス構造は、帝国議会国務大臣、裁判所の三機関分離制の形をとっています。しかし、天皇に副立法権としての「独立命令権」(第9条/これに対し議会は関与できない)が認められていることや、衆議院(公選による)と対等な貴族院(皇族、華族、勅任議院から成る)が設置されており、事実上は一般国民の意思が抑制されていました。このような訳で、旧憲法は"非立憲(民主主義)的”な国家ガバナンス構造を持っていたのです。



●[枢密院の存在]先ず、憲法から超然たる地位にある枢密院が欽定憲法である大日本帝国憲法・草案の審議にあたりました。国会開設後の藩閥内閣と民党との間の憲法争議にあたっては天皇大権中心の立場から「憲法の番人」となる役割が期待されました。また、枢密院は初期議会での予算審議権等に関する紛議でも、その役割を果たしています。しかし、枢密院を構成する枢密顧問官は勅任で、国民の統制が及ぶ範囲ではありませんでした。この他の超然機関(「大日本帝国憲法」の外にある機関)としては、内大臣天皇の輔弼機関)、元老、軍(統帥権の超然たる地位/天皇以外の関与を拒絶できる強大な軍統率権)がありました。


●[主権、基本的人権]旧憲法は、外見上は表現の自由などの権利を認めています。しかし、それはヨーロッパ諸国(特に英仏など)の自然権的な人間としての権利ではなく、主権者たる天皇が、恩恵的に、上から下の国民へ与えた権利に過ぎなかったのです。つまり、「信教の自由」以外は、いずれも法律で制限できることになっていました。この「信教の自由」にしても、「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限り」(第28条)という条件がついたものであったため、現人神(あらひとがみ)たる天皇及び国家神道靖国神社伊勢神宮)を礼拝することが臣民たる日本国民に強制されることになったのです。


●[非常大権]天皇は、あらゆる権利の上に立つ「非常大権」(第31条)を持つと規定されているが、旧憲法の解釈と運用に関しては、この天皇の「非常大権」を重視する「神権学派」(穂積八束など)と「立憲学派」(美濃部達吉など)の対立がありました。一時、大正デモクラシ-の時代には「立憲学派」が優位となりますが、昭和に入り軍部の勢力が強まるとともに責任政党による議院内閣制は崩壊し、「神権学派」の解釈が正統とされるようになります。やがて、陸・海軍大臣は現役の武官でなければならないとする「陸海軍大臣現役武官制」(1936/昭和11)が成立すると、非常大権を持つ天皇が軍部(大本営など軍令機関)の輔弼に対し消極的な対応をとったこともあり、この「天皇の大権」を後ろ盾とする軍部は内閣の進退も左右できるような強大な独裁的権限を持つに至ります。つまり、このころからの日本は、軍部の独走を誰も止めることができない政治制度の国となってしまった訳です。そして、この時に戦争突入の大義名分として利用されたのが「軍事国体論」と、上から国民に対して与えられ(強要され)た「愛国心」です。結局、国家ガバナンスの歯止めが効かなくなった日本は軍事ファシズムを許すことで全面戦争状態へ突入し、第二次世界大戦の悲劇・悲惨・敗戦をもたらすことになったのです。


(軍事国体論を掲げた日本が、無謀な太平洋戦争へ突入することになる顛末については、右のURLを参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050419


3 「歴史反省」に立脚する現代ドイツ憲法


<注>第二次世界大戦後のドイツがナチスを中心とする過去の歴史と深刻に向き合ってきたことを「過去の克服」(Vergangenheitsbewaeltigung)と呼ぶ。
(間接的な関連という意味で右のURLを参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050329


●ドイツ憲法(通称、ボン憲法/正称、ドイツ連邦共和国憲法)も日本国憲法と同じように連合国軍の占領下で起草されました。しかし、一つだけ日本の場合と大きく異なる点を挙げるならば、それは、初めから「ドイツ憲法は政治に制度的な枠組みを与えるものである」こと、つまり“ドイツ憲法の授権規範性”が、先ず権力的立場に立つ者たち自身によって明確に意識され、かつ国民一般に対してもこの点が周知されてきたということです。


・・・(余談)実は、これが日本国憲法をめぐる「哀れな事情」(たとえ自虐的だ!と右寄りの方々から非難されようが、こう言わざるを得ない)と決定的に異なる点だと思います。第二次世界大戦の敗戦国の立場という意味で、起草の理念は、ほぼ同じであったはずなのに、何故こうなったのかという議論をあまり見たことがありません。これ又、何故なんでしょうかネ?


●また、ドイツ憲法の特徴的な性質を短く言うならば、それはナチズムをもたらした過去の歴史と厳しく対峙(ナチズムを完全否定)しているということです。それは主に、次のとおり、第1条、第20条、第79条の条文内容に明確に書かれています。


(第1条)人間の尊厳は不可侵なので、すべての国家権力はこれを尊重し保護することが義務づけられる。


(第20条)ドイツ連邦共和国は民主的な連邦国家であり、このことは第1条の規定とともに憲法改正の手続きによっても変更できない。(憲法改正の限界を明記)


(第79条)第1条、第20条で定められた原則は、憲法の番人たる「ドイツ連邦憲法裁判所」によって厳しく監視される。


●周知のとおり、ヒトラーナチス政権は、決してクーデタなどによるものではなく「ワイマール共和国憲法」という、当時としては世界で最も民主的な内容を誇った先進的な憲法の下で“きわめて合法的”に誕生したのです。このため、戦後のドイツ憲法が起草されるにあたっては、この点に関する深刻な反省が土台となったわけです。(詳細は右URLを参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050514/p1


●「ワイマール共和国体制」とナチスへの深刻な反省が現れている、その他の「歴史反省」にかかわる点を列挙すると次のようになります。


(議会制民主主義を守る工夫)


・・・ワイマール共和国体制は、「大統領、議会=首相」という二元統治型であった点を反省して、新ドイツ憲法では、第1院(連邦議会)を優位とする一元的な議院内閣制へ変更された。なお、第2院は各州から選出される連邦参議院である。


(大統領の権限)


・・・大統領は対外的に国家を代表するというだけの形式的な立場である。新ドイツ憲法下の大統領は、ワイマール時代と異なり国民から直截選ばれることがない仕組みで、連邦議会(第1院)と各州議会の代表者によって間接的に選挙される。ここには、ワイマール時代にヒトラーを首相に任命してしまった大統領の地位への反省の思いが見られる。また、大統領の地位が国民の人気投票のようなポピュリズムに流されることを防ぐ意図もあると思われる。


・・・なお、ドイツ国民自身もナチスの被害者なのだから、ここまでポピュリズムの弊害を懸念する必要はないとする考え方が我が国の一部の人々の中に存在する。しかし、歴史に対する反省とは、実在する犯人捜しだけに意義があるのではなく、その悲劇をもたらした政治と統治・統制制度に関する反省点を発見することが最も肝要だということを忘れてはならない。

・・・つまり、新ドイツ憲法は、この部分で一般国民と政治を直截結びつけることを慎重に避けている。その狙いは、一般大衆のルサンチマン(不条理な恨み辛みの情念)を裏返したような一時的な熱狂(情熱)が誤って、非民主主義的な専制国家への道を選択をしてしまうような危険性を回避することである。別に言えば、それだけドイツの国会議員はエリートとしての良識と責任(ノーブリス・オブリージェ)が背負わされていることになる。この辺りは、日本政治の惨憺たる現況を照らすと暗澹たる思いがこみ上げてくる。
(日本の惨憺たる現状は右URLを参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050511/p1)


ナチス的な要素の排除)


・・・新ドイツ憲法は、再びドイツにナチスが誕生しないよう徹底した工夫が施されており、事実上、ナチス党はこの憲法によってドイツ国内に存在することが排除されている。例えば、既に見たとおり大統領の権限に対する厳しい制限ということがある上に、有権者の5%を得票できない少数政党は連邦議会から排除される。そして、このことを基本的に保証するのが第20条「憲法改正の限界の明記」、第79条「ドイツ連邦憲法裁判所による行政運営の監視」、そしてドイツの国会議員に与えられたノーブリス・オブリージェとしての責務と権限である。


4 「改憲論」に潜むナチズムの病巣


●全く健康な身体というものがあるとするなら、そのこと自体が異常であり、あるいはそのような存在を想定する考え方そのものが異常だということになります。別に言うなら、全く完全に健康な身体(肉体)というものを現実世界で実現させようとする考え方が「〜〜〜原理主義」と呼ばれる類の精神環境のあり様です。しかし、現代の日本は、このような意味での原理主義的な精神環境を単なる笑いごとで済ますことができない社会となりつつあるようです。例えば、「靖国神社参拝」という自らの行為に頑なにだわるあまり絶えず無用の外交的軋轢を呼び込み、それを批判されるや“批判する方が全く間違っているのだ!”と只々開き直るばかりの一国の内閣総理大臣軍国主義時代の日本が誤って撒き散らした歴史的事実を客観的に記述することが自虐史観だと声高に一方的に批判し糾弾する一群の人々、あるいは自分の思い通りにゆかぬからと言って、自分より弱い立場にある婦女子に犬の首輪を付けて監禁し虐待する若者などなど、今の日本には、かつて想像もできなかったほどエキセントリックな、ハッキリ言ってしまえば唯我独尊的な思考回路と原理主義的な情念の世界にスッポリ嵌り込んだタイプの人物が巷に溢れかえっています。そして、これらの“奇妙な人たち”の言動の裏側には何か通底する環境状態のようなものがあるはずです。


●これから本格的に始まろうとする改憲論議にしても、改憲の必要性についての議論があまりにも短兵急であるばかりか、“合理的に考えて誤りがあれば直せばよいだけだ、過去の歴史と対峙するなどウザイことはやってられるか!”というような乱暴な議論が目立ち初めています。これが、いわゆる“右傾化”ということなら互いに議論の余地があるので救われますが、問答無用型の暴論が蔓延り始めていることが心配です。そして、実はこのような社会が初めて出現したのではなく、近代史を振り返ってみると、今の日本に酷似した時代があったことがわかります。それは、19世紀末から20世紀初頭の「ワイマール共和国」時代のドイツに出現した近代市民社会です。第一次世界大戦終戦後の一時期、戦争の辛苦・悲惨と銃後の生活困窮の体験から労働者と兵士の一部が手を結び『労兵レーテ体制』(Raetesystem/直訳すれば赤色(共産主義)体制/労働者と兵士が手を結んだ組織で、資本主義に代わる新しい政治・経済体制の創造を目論む)を誕生させます。


●しかし、これに危機感を持った軍部の一部・財界・労組・社会民主党が結集することとなり、結局、この結集はドイツ極左集団(スパルタクス団)をも抑えることに成功し、更に都市と農村の中産階級層の支持の獲得にも成功して、世界の流れを先取りする形で近代民主主義的な「ワイマール共和国」(ワイマール憲法体制/1919-1933)を誕生させました。ワイマール憲法は、1919年、ワイマールで開催された国民議会で制定されたドイツ共和国憲法です。国民主権、男女平等の普通選挙の承認、生存権社会権)の保障など時代を遥かに先取りする内容を規定したこの憲法は、その先進性から20世紀民主主義憲法の典型とされています。しかし、このように時代を先取りした民主主義憲法も、ナチスヒトラーの政権掌握によって、事実上、あっさりと歴史から消滅してしまったことは周知のとおりです。(ワイマール共和国の成立前後からナチス・ドイツ第二次世界大戦へ突入する時代についての要点は下記URLを参照)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050514


●この時代の世相の描写から、どのようにして民主主義社会の人々がヒトラーを圧倒的に支持するようになったかを描いた、マックス・ピカート著、佐野利勝訳『われわれ自身のなかのヒトラー』(みすす書房)という名著があります。(この本は1965年(昭和30)に初版が出た古いものなので、恐らく、今は手に入らないと思っていましたが、最近になり復刊されたようです)この本を再読して驚かされるのは、当時のドイツの社会が、あまりにもよく現代の日本と似通っていることです。無論、現代日本のようにインターネットが普及した情報化社会ではありませんが、近代化を急いだ当時のドイツは新聞・出版・映画・ラジオなどのマスメディアが高度に発達した社会であり、アメリカ型の文化を招きいれて高度な大量消費文明を享受した時代だったのです。しかも、そこに社会状況の変化から支離滅裂な「新しいタイプの人種」が現われ、彼らが人口の多くを占めるようになり独裁者の言葉を受け入れる素地が作られてきたと評価するのです。


(参考のために、ほんの一部分を以下に引用しておきます)


[(P.8〜14)ヒトラーの出現を準備するものとしてのヒトラー以前の「いとなみ」]


・・・(前部分略)・・・「現代人が外界の事物を受け取るやり方はこうなのです」とわたしは言った。「現代人はあらゆるものを、なんの連関もない錯乱状態のままで、手当たりしだいに掻き集めてくるのですが、それは、現代人の心のなかも一種の支離滅裂な錯乱状態を呈していることの証拠にほかなりません。現代人は外界の諸事物に対しても、もはやそれぞれがただ一個かぎりの独自のものとして人間の眼に映ずることもなくなっています。・・・(途中略)・・・従って、何がわが身に降りかかりつつあるかは一向に吟味されない。人々は、とにかく何事かが起こり来たりつつあるという、そのことだけで満足なのです。そして、このような連関のない錯乱状態のなかへは、どんなことでも、また、どんな人物でも、容易に紛れ込むことができるのは言うまでもありません。どうしてアドルフ・ヒトラーだけが紛れ込まないことがありましょう。さて、ヒトラーがそこへ紛れ込めば、どのようにして彼が入り込んだかには気づかれることがなくても、ヒトラーは事実上人間の内部におるわけで、そうなればヒトラーがただ単に人間の心のなかをちょっと通り過ぎるだけで終わるか、あるいは彼が人間の心のなかにしっかり食い込んで離れないかは、彼アドルフ・ヒトラーの手腕しだいであって、もうわれわれ自身でどうこうすることのできる問題ではなくなるのです。・・・(途中略)・・・ラジオはこの連関性喪失の状態を機械的に運営することを引き受けたのである。六時=朝のラジオ体操〜六時十分=レコード・コンサート〜七時=ニュース〜〜〜九時=朝の精神訓話〜〜〜十時四十五分=世界の出来事〜十一時=リエンツイ序曲〜〜〜夜二十二時三十分ジャズ愛好家の時間〜〜これで本日の放送は全部終了いたしました、ということになる。・・・(途中略)・・・しかし、過去の連続性の世界においては、人々はまだ、そのように取るに足りないもの、下らぬものの背後に、偉大なるもの、重大な意義あるものの存在を感じていた。・・・(途中略)・・・ところが、ヒトラーの時代や、それに先立つ時代(主にワイマール共和国時代のこと)においては、およそ空無よりほかには何ものも存在していないかのような有様であった。しかも、その空無は第一次的に存在していたのであって、人々はその空無の場を、偉大なもの、重大な意義あるものがそこから追い出されることによって生じた真空だと感づくことさえ、もはやできなくなっていたのである。


[(P.177〜181)性欲]


・・・(前部分略)・・・現代の非連続の世界では、事情はこれとまったく異なっている。ここでは、性欲はもはや人間の連続性を破壊する必要がない。性欲は、いまさら人間を瞬間的なもののなかへ引きずり込むには及ばないのである。現代の人間は始めからすでに瞬間的なもののなかに住んでいるのであって、そのことによってまた、現代人は性的行為の場面としての世界の構造と同じ構造のなかに生きているのである。一つの世界全体が(現代の世界全体が)性の刹那性、非連続性に合致しているのだ。ここには性欲に対するなんらの抵抗もない。ここでは、まるで自明のことを待ち受けるように、性的なるものが待ち受けられているのだ。・・・(途中略)・・・現代世界において進行しつつあるこの汎性欲主義は、実は性欲の一種の堕落である。それは、現代世界の単なる刹那的な構造から発生した一種の性欲であって、このような性欲は本然的に人間の生理から生じたものでさえもなく、現代世界の惨めな構造から発生したものなのだ。ここでは、精神の相手役たる名誉が性欲から奪い去られている。・・・(途中略)・・・性欲は、今日ではまったく自明のもの、何時でもあるものなのだ・。実際、それは至る所にある。そして、丁度ヒトラーが人々の刹那的な構造によって内包されていたように、性欲は人間たちの刹那的構造によって内包されているのである。要するに、人間が刹那的で、そして無連関的であればあるほど、一層彼は何からなにまで性欲によって支配されやすい状態にあり、同様にまたヒトラーによって支配されやすい状態にあるのだ。・・・(途中略)・・・かつては、人間の顔は身体のなかでも特別の場所であって、そこには精神が肉体を支配しているという“しるし”が刻み込まれていた。そして、顔を構成している物質は、その背後から放射してくる精神の光によって透明にされていたのである。ところが、今日の非連続の世界では、顔は性的なるものによって隈なく浸透されていて、精神は顔から放逐されてしまった。そして、かつては精神が座を占めていた場所に、今や性欲がのさばりかえっているのである。精神ではなくて、性的なものが、現代人の顔にその“しるし”を印している。多くの人々顔は、まったく生殖器そのもののように見えるのだ。・・・(後部分省略)・・・


[(P.182〜183)歴史への破壊的闖入]


ナチの理論家たちは、国民社会主義フィヒテヘーゲルの浪漫主義的な世界国家の理念から導き出そうと試みた。ヒトラーの場合も、ヘーゲルフィヒテの場合と同様に、国家が絶対化されているのであって、そこには確かに関係がある、と彼らは主張したのである。しかしながら、これら二人の哲学者たちにとっては、やはり本当に国家そのもが問題であった。彼らはやはり国家を見ていた。国家は厳然としてそこに存在していたのである。ところがヒトラーは、国家の授けをかりて秩序を破壊するためにのみ、それを利用するだけなのである。ヒトラーが国家を絶対化する場合、彼にとって問題となるのは、国家を位階的秩序から無理やりに切り離すことだ。ただ切り離すことだけが(彼にとっては)問題なのだ。絶対化は彼にとって、万事を切り離すための単なる一つの手段、一つのチャンスであるに過ぎない。ヒトラーは、国家を見る能力(国家を認識する能力)を持っていない。いわんや、それが絶対化された国家であれ、あるいはそうでないものであれ、一つの国家を建設する能力などまるで持ってはいないのである。彼にできることといえば、ただなにものかを切り離すだけだ。これがヒトラーに付着している悪魔(サタン)的な性格である。つまり、ヒトラーにおいては、無理無体に切り離すこと、何物かが秩序から引き離されることだけが意図されている。ヒトラーにおけるあらゆる運動は、すべて破壊の運動なのである。・・・(後部分省略)・・・


●この本を部分的に拾い読みしただけでも、ワイマール共和国時代のドイツの社会状況がが、あまりにも現代日本の政治社会の情勢に似ていることに驚かされます。また、まさか、こんな些細なと思われるようなことの積み重ねのなかから不気味な波紋がひろがり始め、恰も津波が押し寄せるように予期せぬほど大きな時代のうねりが押し寄せてきます。そして、気がついた時には手遅れという事態になることがピカートの文章から読み取れるはずです。例えば、JR西日本の悲惨な事故が起こったとき、ニュースはともかくもワイドショーなどでは事故の報道が終わった途端、急に騒々しいコマーシャルが流れ始め、その後にはキャスターもコメンテータも事故のことなどすっかり忘れた様子で、にこやかに芸能スキャンダルの解説を始めています。その後はお笑い番組、サスペンス・シリーズという具合で、この辺りはピカートが「ヒトラーの出現を準備するもの」で書いた刹那的な社会そのままが再現されています。


●[性欲]と[歴史への破壊的闖入]の記述内容にいたっては、まさに、これは日本の現代社会のドキュメントではないかと思われるほど迫真的です。毎日のように猟奇的な性犯罪のニュースがテレビのワイドショー番組に高付加価値のネタを提供し続け、そのネタは高給寿司ダネでもあるかの如くお茶の間で消費され、深刻な事件・事故の内容や被害者が置かれた悲惨な状況などは次々に忘却の彼方へ送り出されて行きます。タレントも俳優も、そして政治家さえもがプロとしての演技よりも「艶技」の方に精を出し、必要とあらば易々と顔にメスを入れて臆面も無く美容整形術を施すのが当然となりつつあります。また、最近は政治家の支持率調査などで、その人物の政策は評価が低いにもかかわらず、ひたすら構造的破壊ばかりに精を出す、その奇矯な人物像(実在感が希薄でファントマ的なイメージ)の支持率だけは異常に高まるという珍奇な現象(政治家の芸能人化?)が目立っています。最早、大方の日本国民の目にはお笑い芸能人と政治家の区別がつかなくなっているのかも知れません。週刊誌を介して漏れ伝わってくる小泉首相の下ネタ談義・放論(夢精発言等々)などのように、一般国民から求められるのは専らセックス・アピールだけのようです。これで支持率がUPするとは恐るべきヒトラー化現象です。


●ともかくも、このような時代にこそ、我われ一般国民は物事の本質を見極めるため良く自分の頭で物事を考えるという習慣を取り戻すべきです。時には、テレビもインターネットも切断する必要があるでしょう。刹那的にメディアや周囲の環境に反応し、反射的に結果だけをすぐに求めるような性向にブレーキをかける努力をすべきです。成果主義だ、勝ち組だ負け組だ、競争原理だというシュプレヒコールに踊らされる心を時には休める必要があります。そして、今、憲法改正論議が本格化しようとしていますが、忘れるべきでないのはナチス的現象が20世紀初頭のドイツに忽然と現れたのではないということです。また、日本が軍国主義の暴走を止めることができなくなり無謀な太平洋戦争に突入したという歴史を持つこともシッカリ想起すべきです。そして、この二つのことが決して無関係ではなく、19世紀のプロイセン・ドイツ(プロイセン王国〜第二ドイツ帝国の時代)に共通の淵源があることを知るべきです。


●それこそが「『ナチズムと大日本帝国憲法』」の病根」ということであり、その共通の病根は「プロイセン憲法」の中に存在したことが分かりました。ドイツの場合は、その後に軍部の一部・財界・労組・社会民主党が結集することによって民主的な「ワイマール憲法」を作ることに成功したのですが、この民主的な理想の憲法の中には予想もつかぬ欠陥(弱点)が存在したのです。その弱点を“合法的な手段”で突き破りヒトラーナチス政権が誕生した訳です。(この経緯については、既に詳しく述べたとおりですが、ナチス政権が合法的に誕生した経緯については右のURLを参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050514)一方、「プロイセン憲法」を手本として起草された「大日本帝国憲法」が「プロイセン憲法」の病根をそっくり宿していたため、結局、日本では軍部の暴走を誰も止めることができないという国家ガバナンスの破綻を迎える羽目になったのです。この点も既に詳しく見てきたとおりです。


●そして、現在の改憲論議で気がかりことは、自民党改憲案を始めとする論議の内容を見る限り、このような意味での危機感がきわめて希薄だという点です。むしろ、積極的に「プロイセン憲法」が宿していた病根を再評価するべきだというような風潮があることが気がかりです。日本国民も、このような病根論議については殆ど無関心であるか、あるいは気がついておらず、ただ刹那的・反射的に“歴史などに拘らず、新しい時代の日本のためには変えるべきは変えるという積極性が必要だ”というようなレベルの議論が目立つことも気がかりです。仮に改憲に傾くとしても、18〜20世紀初頭にかけてのドイツと日本の関係史等を根本から見直すことから取り組むべきです。このような日本社会の風潮をもたらしているのは、やはり現在の政治状況が反映しているためだと思われます。例えば、相変わらず小泉首相が自分の靖国参拝問題について、独特の積極論を打って騒ぎを再燃させつつあります。(詳細は下のURLを参照、http://www.asahi.com/politics/update/0516/003.html?t


●このように、貧弱な歴史認識に基づく、きわめて低調な政治状況が続く日本は情けない限りです。今、ドイツが戦後60年をかけてナチス・ドイツの歴史に対する真剣な反省を続けてきており、その反省を象徴する壮大な記念碑がベルリン市内に、このほど漸く完成したというニュースが報じられたばかりです。また、そこに押しかけたネオ・ナチのグループが一般市民のガードで押し返されたというニュースも報じられています。(これらの詳細は下のURLを参照)これも既に「(3)『歴史反省』に立脚する現代ドイツ憲法」で見たとおりですが、現代ドイツ憲法(ボン憲法)は、「ワイマール憲法」の欠陥がナチス・ドイツを誕生させたことを徹底的に反省して、再びナチス政権が生まれないような仕組みが工夫されているのです。いずれにせよ、このニュースに接したとき、「民主主義国家をガバナンスする」という意識について、小泉現象なる、まるで芸能番組のような幻想政治(ファントマ政治)にうつつをぬかすばかりの日本とドイツの落差があまりにも大きいことを再び気づかされました。今、日本は再び「ナチズムと大日本帝国憲法」の病根によって侵されようとしているのです。
http://www.asahi.com/world/germany/news/TKY200505090321.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050509-00000555-reu-int


5 「改憲論」に潜むナチズムの病巣(補足)


●最後に、補足を兼ねて『改憲論』に潜むナチズムの「病巣」を抽出し、この「病巣」に対するドイツ政府と日本政府の現時点での対応の違いを大まかに纏めておきます。


(1)病巣の抽出(『王権神授説』、『民族精神』の高揚という二つの病巣がある)


[病巣1] 王権神授説


(ドイツ)


・・・王権神授説(神権政治神聖ローマ帝国への回帰願望)→独裁的なプロイセン王権、プロイセン憲法の成立(授権規範性が欠如)→ドイツ皇帝権の確立(ドイツ第二帝国)→総統ヒトラーの独裁(民主的なワイマール憲法の狡猾な活用による合法化)


(日本)


・・・プロイセン・ドイツの「授権規範性が意図的に排除」された「プロイセン憲法」を媒介に日本の「大日本帝国憲法」へ伝染。神権政治(神格天皇)が合法化され天皇大権が確立。天皇を頂点とする国体守護のために上からの愛国心が強要される。一方で「軍事国体論」の象徴として創建された靖国神社が日本ファシズムの王道を準備する。


・・・結局、天皇大権を盾にする軍部が独走してアジアへの侵略戦争と太平洋戦争へ突入し、議会による財政面からの国家ガバナンス機能も崩壊した。


[病巣2] 民族精神の高揚


(ドイツ)


・・・フランス革命の余波→反動としての「サビニーの歴史法学+ゲルマン民族精神の高揚」→プロイセンナショナリズムプロイセン憲法の成立→ゲルマンの純血を称揚するヒトラーのナチズム(カール・シュミットなど政治学者の一部がナチズムを評価)→第二次世界大戦へ突入


<注>カール・シュミット(Carl Schumit/1888-1985):ドイツの公法・政治学者。ワイマール体制下で議会制民主主義を痛烈に批判し、ナチスヒトラーを賞賛した。一時、ナチス学会で活動した。


(日本)


・・・同じく「プロイセン憲法」を媒介に日本の「大日本帝国憲法」へ伝染。→万世一系の皇室を頂点とする、世界に秀でた大和民族神話が創作→「軍事国体論」と融合→特攻精神、一億玉砕の破局


(2)「病巣」に対するドイツ政府と日本政府の対応の違い


(ドイツ)


・・・ナチズムの徹底反省(現在も反省は持続しており、ナチズムに対するドイツ人の深い反省を象徴する壮大な記念碑がベルリン市内に完成したばかり、http://www.asahi.com/world/germany/news/TKY200505090321.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050509-00000555-reu-int)→ナチズムの徹底排除と授権規範性を明確に意識した「ボン憲法」が成立→ナチズムの反省を克服した「新しい歴史主義」の復活(歴史的伝統を生かした社会的市場経済の理念との結合)→拡大EUの理念へ融合


(日本)


・・・軍事国体論と侵略戦争の歴史への反省が不徹底で、「日本国憲法」に関する授権規範性の意識が希薄である。この点に関する国民一般の認識も低い。


・・・政府の「日本国憲法」を改憲する意志は既に決まっているが、それにもかかわらず世論やマスコミ調査などの動向を観測中。例えば天皇元首論などの様々な退行的思考(愚考?)が小出しにされている。


・・・与党関係者、自衛隊関係者の一部では「軍事国体論」の復活、更には上からの「愛国心」と「民族精神高揚の必要性」さえ主張され始めている。


・・・一部の学者や政治家の中では「日本国憲法」の平和主義の廃棄、授権規範性の弱体化なども論じられている。また、ある学者(グループ)などが民族精神の高揚の必要性を説くため、合理的な常識では理解に苦しむようなトンデモ論(歴史の創作、擬似科学論など)を開陳し始めている。


・・・小泉首相靖国神社参拝の真の背景(大きな圧力源が必ずあるはず)は不明だが、「軍事国体論」の象徴を崇める姿勢は、今回の「ベルリン記念碑創設」に見られるようなドイツのナチズムに対する真摯な反省との大きな違いを際立たせており、世界に対して恥ずかしいかぎりである。


・・・このように見てくると、今や、古い二つの病巣からナチズムの病原菌がこぼれ落ちて日本で異常繁殖しつつあることは間違いなさそうである。


[補遺]


下記の論は某掲示板で偶然に見つけた記事です。内容は別の角度からのものですが、ほぼ同様の問題意識が書かれてありますので、勝手なことかもしれませんが「シリーズ『改憲論』に潜むナチズムの病巣」の[補遺]としてUPしました。


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[日本はドイツとどこが違うのか]
by kusotaka


ドイツにはすでに多くの場所にユダヤ人関連の記念館がある。 にもかかわらず、ドイツ政府は首都ベルリンの、ソウルでいうと世宗路(セジョンノ)ほどの要地に、ユダヤ人追悼公園を新しく建設している。 ドイツは青少年に、先祖が犯したユダヤ人迫害の真相を教える歴史の勉強を持続的にさせている。


1970年12月、厳しい寒さの中でドイツ首相のビリー・ブラントは、ポーランドの首都ワルシャワの過去のユダヤ人集団居住地(ゲットー)で、膝をついてナチス・ドイツの蛮行を謝罪した。 ドイツ首相ゲルハルト・シュレーダーは最近、ブッヘンバルトのユダヤ人収容所解放60周年を迎え、またユダヤ人犠牲者らとその家族に謝罪した。


ドイツ人の過去の反省は終わりがない。 日常生活の一部であるようだ。 日本人が韓国に向かって、「首相が変わる度に韓国に謝罪しろというのか」と話すのとは対照的である。 東京の銀座や新宿に、強制連行された朝鮮人勤労者や慰安婦南京大虐殺の犠牲者の霊を慰める追悼碑を一つ建てるのを期待するのは、西から日が昇るのを待つのと同じように見える。


第2次世界大戦当時、ムッソリーニのイタリアとともに、日独伊ファシスト枢軸の悪のパートナーだったドイツと日本は、どこが違うのか。 オランダ言論人イアン・ブルマは、ヒットラーのドイツと昭和天皇の日本が1930年代と40年代にした蛮行を、両国国民がどのように記憶、反省、克服していているかを比較研究した結果を「Wages of Guilt」という本に記した。


ブルマは言う。 「19世紀末から日本はドイツをモデルとした。 奇異だが、戦前に日本を魅惑させたもの−プロシア権威主義、浪漫的民族主義、類似科学的人種主義−が、ドイツでは光を失ったが、日本では相変わらず生きている」。ブルマは、戦後のドイツは軍人精神、人種的純潔性、国家のための犠牲などナチスドイツの残滓を清算しようと最善を尽くしたが、日本はそうでない、と指摘した。 日本がドイツとの同盟に郷愁を覚えるが、ドイツは困惑するという。


ドイツと日本の差は文化的なものか、政治的なものか。 ブルマは政治的なものと見ている。 「生まれながら危険な国民はいない。危険な事態があるだけだ。


危険な事態は自然の法則や歴史、国民性の結果ではなく、政治形態の結果だ」。


日本の大臣らは政治家だ。 度重なる妄言で、韓国人と中国人の過去の傷に塩を塗る文部科学相と外相も政治家である。 靖国神社参拝を強行し、韓国と中国をずっと刺激することにサディズム的快感を感じる小泉首相は彼らのボスだ。 過去に対する日本の道徳的不感症が政治的な問題だというのに一理あると思われる。 一級戦犯出身で首相を務めた岸信介の孫・安倍晋三がいま、自民党幹事長代理として右翼政治勢力を率いているのを見てもそうだ。


しかし政治を左右するのは政治文化であり、政治文化の土台はその国の文化水準、意識水準、知的水準である。 すべて文化的常識(Cultural literacy)だ。 マッカーサー将軍は1945年の日本を、精神年齢12歳程度の子どもに例えた。 日本には、ヨーロッパ文明の啓蒙主義的、ヒューマニズム的伝統を受け継ぐゲーテのような人物も、ナチス暴政を避けて海外に亡命したトーマス・マンのような作家もいない。 経済大国の知的後進性が問題である。


日本政治家らの言行を見ると、日本は精神的、文化的、知的発達障害にかかったようだ。 日本は国連安保理常任理事国になる資格を自らはく奪している。


こうした日本を相手に独島(日本名・竹島)と歴史教科書問題をどう解決するのか。 独島は実効的支配を続ければよい。 歴史教科書は、両国の市民社会、特に若いネチズンの交流と対話を広めていけば、日本右翼の偏狭で前時代的な歴史記述は立つ場所を失うはずだ。 日本の右翼が韓流に熱狂する日本女性や若者を見て危機意識を感じるのを見ると、歴史的真実は明確にわれわれの方である。