toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

正しい歴史認識のためのヒント(ある若者からのコメントへの返事)

・・・・・“かつ”君からのコメント・・・・・

かつ 『 はじめまして。コダワリの女のひとりごとから飛んできました。現在大学受験生のかつといいます。まだまだ知識、経験不足で内容を理解しきれていない部分が数多くあると思いますが、その点は若さに免じてお許しください(笑)

 「共謀罪」の話、はじめて聞きました。

  学校の授業で、「昔日本では、新しい法令の発表は二条河原などに置かれた落書で発表されるのみで、しかも民衆は文字が読めなかったから、民衆の生活にその法令が浸透するまでかなりの時間を要したんだ」と先生が仰っていて、民衆は知らぬ間に法律違反で処罰されたりとかしただろう、さぞ不憫だったんだなぁと思いましたが、現在も変わらぬ状況だったのですね。知らぬ間にこんな法案が審議されているとは・・・。

  それにしても、この「共謀罪」はひどいものですね。国民がいるからこそ、政府も存在しうるはずなのに、政府は一方的に国民の自由を侵害しているんですね。もはや日本という国は、一部の権力者のためにしか存在していないのでしょうか。政府自身だけでなく、法曹・宗教・官僚などもこうした政府の傾向を助長することは、人間は自分の利益のために動くものだという常識があれば容易に想像できますが、マスコミまで迎合してしまうのは・・・。

  明治初期の新聞社などが創設されはじめた頃は、もっと民衆・国民の立場に立った活動を行っていたと聞きます。本来、マスコミは国民の立場から政府の独断を抑制することによって、国民の支持を受けて、それがマスコミ自体の利益に反映されていったのではないかと勝手に推測したりするんですが、政治離れが進行している今、それではマスコミが食べていけないのでしょうかね。だとしたら、民衆の責任と言えなくもないですよね。若貴の亀裂なんて、日本の何千万とある家族の中の、たった一つの家族の話で、国民にとってはどーでもいいはずなのに、時間をかけて流され、本当に大事な自分達の人権に関わることが放送されない。若者にだってこんなのおかしい!って分かるくらいですから、マスコミの方々も分かっているはず。それなのに敢えて流すぐらいですから、よっぽど国民の政治離れが進行してるんでしょうね。どうすればいいんだろ?と考えると結論がでませんね。将来に絶望してしまいそうです。

  また日本史における太平洋戦争の記述で、一方的な戦時中の日本への批判。イラク戦争を見るとどう考えても、戦争は「正義」と「正義」のぶつかり合いとしか見えません。教科書に疑問を抱き調べてみたら、案の定、アメリカのハルノートでは、「日本の中国、満州、朝鮮からの撤兵、そして、三国軍事同盟の解体。これらが実行されれば、石油輸出を解禁してもよい。」という内容が書かれているらしいじゃないですか。当時(今も?)、地球のほとんどが白人に占領されていた状況で、日本がそんな選択できるわけがなく、戦争を選ぶしかなかったのは容易に想像できました。これだけで明らかに、日本が一方的に悪かったという教科書の記述の矛盾が分かります。この戦争も正義と正義のぶつかり合いで、敗れたものが、勝者に従う。まさに「勝てば官軍」ってやつですね。

  いったい日本政府は何がしたいんでしょうか?若者を失望させる政治、そして、自虐的な批判の数々。訳が分かりません。もう、日本は国民のものじゃなく、一部の権力者の利権のために存在するもの。今日のブログを見てそうとしか確信しました。日本を変えていきたい。そういう気持ちが生まれました。受験勉強をさせられている時点で、こうした政府の言いなりになっているようで嫌ですが、これを乗り切らなければ、腐敗した社会に埋没していくだけなので、受験勉強に励み、こうした希望を実現に変えていくことを改めて決意しました。』

・・・・・“かつ”君への返事・・・・・

“かつ”さん、コメントありがとうございます。

  「共謀罪」の話、はじめて聞きました・・・やはり、そうですよね。これは、殆どニュースになっていないので当然だと思います。まず、テレビでは一言の話題にもならず、各新聞でも小さく取扱われるか無視同然のようです。このような傾向の中で、中立・公正なマスコミとしての矜持と初心を保つ東京新聞の報道だけが、ひとり目立っています。ともかくも、日本のマスコミ一般の責任放棄と報道姿勢の堕落は目に余るばかりで情けないことです。第一線の記者の中には本来のジャーナリズム精神に燃えている記者が大勢いるようですが、問題はエグゼプティブの方々が稼ぎ高(売上・視聴率・販売部数等)だけに軸足を置く精神構造になっていることです。そして、「共謀罪」の問題に限らず、近年の日本のマスコミは一般国民の生命・財産・人権など、いわゆる「国民の生存権」(日本国憲法第25条)にかかわる問題を取り上げない傾向が続いているようです。
(丁度、この問題を論じた専門家の記事がありますので、ご覧ください→「森田実の時代を斬る」より“ジャーナリズムが最も恥ずべきことは政治権力の走狗になることである” http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/

  このような流れを念頭に置いた上で、主に経済・財政史の観点から日本の幕末から明治維新の歴史についてザッとお浚いしてみます。日本の近代化は、幕府が1853年に来訪したアメリカ・ペリー艦隊の砲門外交(強大な軍事力)に脅かされて開国に踏み切ったことに始まります。江戸幕府の財政崩壊(膨大な借金財政)を引き継いだ明治新政府明治元年/1868〜 )は、まず急場を凌ぐために多額の公債(この時、維新政府は未だ国債の概念を持っていなかったとされる)の発行政策(秩禄公債、金禄公債など)に取り組み、同時に太政官札(金札)を発行して各藩が発行してきた藩札の流通を即刻禁止しました。更に、翌・明治2年(1869)には大阪に造幣局が設置され鋳貨が開始されています。この一連の通貨・金融・財政改革の強権的な断行によって幕末以来続いていた貨幣制度の大混乱が漸く鎮まることになります。また、明治3年(1870)には鉄道建設の名目で日本最初の国債がロンドン市場(ポンド建て)で発行されます。

  やがて、大量に発行された公債と国債は、日本政府の富国強兵(殖産興業)政策に基づく近代工業の発展と地租改正(土地所有権の公認、物納から金納への転換、私有・転売等の公認など)による税収増、そして軍国主義政策に基づく戦勝国としての賠償景気(日清戦争日露戦争)によって償還されることになります。しかし、明治新政府による金融・財政改革の根本的な推進力は、合法的暴力(軍事力、武力、警察力)で支えられた国家権力(政治権力)を前提とする「強制的な徴税政策」であったことを忘れるべきではないでしょう。そして、このような時代に国民の主権を制限する働きをしたのが讒謗律・新聞紙条例(1875)などの言論弾圧法規、あるいは治安維持法(1925)、予防拘禁制(1941)など労働・社会・人権運動に対する弾圧法規です。今、国会で審議されつつある「共謀罪」は、これらの法規に匹敵したものとなる(予防拘禁的な役割を担う法律となる)恐れがあるのです。「主権在民」の現代に生きる我われは、このような昔の時代の国家「主権」が国民の側になかったことを改めて銘記しなければなりません。現代の日本は「議会制民主主義国家」なのです!

  また、第二次世界大戦が終わった時、いわゆる終戦直後(昭和20年/1945〜)の日本経済は、軍部が独走した戦時体制・戦時特別会計国民精神総動員運動国家総動員法大政翼賛会、大日本産業報告会)下で大量に発行された戦時国債(国民が強制的に買わされた)は政府のデフォルト宣言(一方的な債務不履行宣言)で只の紙切れと化し、強制的な一般国民の預貯金の凍結(預金封鎖)で国民の金融資産が悉く消滅し、ハイパー・インフレによる実質的な国の借金(戦時国債)の踏み倒しが行われるという恐るべき経済大混乱の時代(戦後恐慌の時代)でした。やがて、昭和21年(1946/施行1947〜 )に「日本国憲法」が制定され、この時になって漸く日本の国家「主権」は日本国民のものとなった訳です。現代に生きる我われ日本国民は、ここで概観したような「明治新政府による強制的な徴税政策の時代」から「第二次世界大戦直後の国債デフォルト宣言、預貯金封鎖、ハイパー・インフレによる国民資産消滅の時代」に至る日本国民にとってあまりにも悲惨な歴史を絶対に忘れるべきではありません。それは、国民に「主権」が存在しなかった時代の恐るべき「政治権力の暴走」(国家が一般国民の懐中に手を突っ込んだ、恰も国家が盗人と化したような強権的な搾取政策)の時代だったのです。

  このように見てくると日本の近・現代の歴史は、その後進性を克服するためにやむを得なかったとはいえ、明らかに軍事力(軍国主義)と経済力(資本主義)が強く結びついたもの(帝国主義植民地主義、周辺国家への侵略主義)であったことを忘れるべきではありません。そして、大いに注目し警戒すべきは、何故に、本来は国家の主権者であるはずの日本国民が、そのプロセスで軍部の独走(軍国主義への急速な傾斜)を許すという罠に嵌ったのかということです。特に、この点については、財務大臣高橋是清(1854-1936/二・ニ六事件で暗殺される)と軍部との間で激しく繰り広げられた戦時国債の発行をめぐる覇権闘争の経緯(歴史)を詳細に見直すべきだと思われます。現代における民主主義政治を採用する先進諸国では、国民に代わって政治・行政の仕事を預かる「政治権力者」(政府や官僚たち)が本当に国民の身になって国家予算を執行(財政運営を実行)しているか否かを「主権者」たる国民の側から厳しく監視・評価するのは、ごくあたり前のことになっています。

  「政治権力」(政府や官僚たち)が本当に国民の立場や利益を考えて予算を使っているなら問題はないのですが、我が国の近年の事例を見る限り、私腹を肥やす目的や政治家個人の票に結びつく身内贔屓のための無駄使いなど、道義的に不埒なケースが目に余るほどに多発しています。そして、その多くの部分が巨額の「国債等長期債務残高」(現在で約570兆円、地方債を含むと約1,000兆円/日本のGDP(約500兆円)に比べると、その異常な大きさが理解できる)の一部となっています(この詳細は、日本の財政赤字カウンタ、http://ueno.cool.ne.jp/gakuten/network/fin.htmlを参照のこと)。これに対して国民側から何の「異議申し立て」(dissent)もなければ、「政治権力」側は、それで善しとするだけのことです。単純に考えて「国家の借金」はいずれ「国民」が尻拭いすべきものだと納得するのは大間違いです。この意味で、その解消のために“先ず増税ありき”だとする今回の「税制調査会」(総理大臣の諮問機関)の答申には大いなる疑義があります。言い換えれば、政治権力の恣意・不正・逸脱・責任放棄などを、国家における「主権者」の立場から批判・監視する役割を自覚するのが現代社会に生きる健全な「市民意識」なのです。

  このような訳で、日本の現代社会の混迷を解くカギは、やはり正しい歴史の認識(当事者間の正義論ではなく、万人が納得できる公正の観点が大切)という点にあります。例えば、太平洋戦争について冷静かつ公正な見方ができるかどうかの分かれ目は、上で見たとおりのことですが、明治〜大正〜昭和の時代史の中で何故に日本が「軍部独裁の政治体制」へ傾くことになったかを理解する必要があります(この論点についての詳細は、Blog記事『「軍事的国体論」を超える日本国憲法の先進性 』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050419を参照ください)。また、古代史から近・現代史にまでにわたり世界の歴史を大きく俯瞰すると分かることですが(その是非論は、一旦、置くとして・・・)、結局は、どの時代でも「軍事力」または「経済力」のいずれかが「国家の信用」の基となってきたという現実があります。それは、つい最近まで現代世界でも同じことでした。従って、我われは、怖気づくことなく、先ずこのような“恐るべき歴史的現実”を直視すべきだと思います。しかし、後で述べますが、だからと言って軍国主義への道を選ぶ(軍事的覇権を求めるべき)必然性はないのです。

  歴史的な流れの中で資本主義の発展を大きく捉えて見ると、特に17〜18世紀頃のヨーロッパの歴史が重要であることが分かります。なぜなら、この時代に資本主義の性質に大きな二つの異なる方向性が立ち現れてくるからです。仮に名づけておくと、それは(1)「アングロ・サクソン型資本主義」と(2)「ゲルマン・フランク(欧州)型資本主義」の二つです。(1)「アングロ・サクソン型資本主義」の特徴を敢えて乱暴に言ってしまえば、それは急速な市場の拡大に力点を置いて経済のパイを拡大させようとする立場であり、(2)「ゲルマン・フランク(欧州)型資本主義」の特徴は地域ごとの伝統や歴史を尊重しつつ緩やかに経済のパイを大きくしようとする立場です。現代の世界で、この二つの資本主義の立場を代表するのが「アメリカ」(ブッシュ政権の一国主義、市場原理主義)と「EU」(欧州連合型市場主義)です。このような二つの資本主義発展の方向性に「軍事力の問題」が絡んで近・現代の様々な歴史が展開してきたと見做すことができるのです。なお、壮大な共産主義の歴史的実験(東西冷戦の時代)は1991年のソ連邦崩壊で終焉しています。

  ところで、「2001.9.11NY同時多発テロ」を境として、今や世界はアメリカ・ブッシュ政権が掲げる「テロとの戦い」の名目下で軍事力が増強される時代の方向へ大きく舵を切ったかのように見えます。しかし、世界各国の市民単位で観察するとアメリカを除く世界各国市民の少なくとも6〜7割は「平和を獲得するための戦争」に反対しており、肝心のアメリカでさえも半数近くの市民は「ブッシュのイラク戦争」に疑念を持ち続けているのです。そして、今、再び見直すべきことがあります。それは、17〜18世紀のヨーロッパで意識されていた「資本主義のもう一つの典型的なタイプ」であり、それは平和主義、国際法、国際協調主義の価値を尊重しつつ資本主義経済を発展させるという考え方です。仮に、このタイプの資本主義を(3)「ベネルクス型」(この地域の中心地の古称がtoxandria)とでも名づけておくとすれば、このような考え方の萌芽はオランダ・ルネサンス期の人文学者エラスムス(1469-1536)、国際法の父とされるオランダの法学者グロティウス(1583-1645)、同じくオランダの哲学者スピノザ(1632-77)、ドイツのゲーテ(1749-1832)などの思想の中にみられのです。そして、実はそのような思想の集大成が「国際連合」(United Nations)です。その軍縮会議日本代表部全権大使を2004年3月まで務めた猪口 邦子・上智大学法学部教授が、「平和憲法」を持つ日本の外交姿勢はその「徹底平和主義と戦争放棄」という他に類例がないモラル・ハイグラウンド故にこそ世界中の人々から「信用」(信頼)されているので、日本人はこの事実をもっと自覚して誇りを持つべきだと主張されています。

  今、我が国では日本の近代史に関する“自虐史観”なるものへの反動から、右傾化への単純な意味での関心が高まっており、「共謀罪」のような国民の人権を制限するような法整備への好意的な関心とシンパシーが生まれる懸念があります。また、「テロとの戦い」に関する不安の拡大から再び日本がアジアにおける軍事的覇権を構築すべきだというようなノスタルジックな主張が盛り上がる傾向も見られます。あるいは、社会的な不安を煽り、その捌け口として軍国主義アナクロな愛国的ロマンチシズム(民族的愛国心)を鼓舞するような社会的雰囲気が生まれつつあり、現在の政府自身がそのような傾向を煽りつつあります。しかし、日本が民主主義国家、健全な資本主義国家として発展する道は、上で仮に「ベネルクス型」(古欧州中枢型)と名づけておいた三つ目の資本主義発展の方向、つまり「平和主義を徹底する資本主義の方向」しかあり得ないと思われます。一旦これを放棄してしまえば、再びそれを手にすることはもはや不可能になると思います。ここにこそ、日本が太平洋戦争で300万人を超える尊い国民の生命を犠牲にした深く重い意味があるのです。そして、このような意味で懸念される、「軍国主義」あるいは「市場原理主義」の道へ日本が本格的に踏み出すのを思い止まらせるために必要なのは、一般の日本国民が世界中の市民とともに「平和のために連帯できる」という“世界市民意識”を持つことです。このような訳で、当Blogは「シリーズ、『市民政治』の再生を考える」という連載記事を書き始めたところ(2005.6.25から)です(実は遅々として進みませんが・・・、参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050625)。

 このBlogの内容は、受験勉強そのものの知識として役立つとは思われませんが・・・それはともかく、今後ともどうぞよろしくお願いします。

 貴君が念願の大学受験に成功されますよう心より祈っています。