toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「オランダの光」の伝説(second revised、2/6)

●人類が地球上に存在するかぎり、「戦争と平和」は人類の永遠の課題としてあり続けます。しかし、仮に人類が滅亡した暁には、それらのことは存在する意義がありません。それは、一切の人間が死に絶えてしまった地球上で高度に発達した「情報」と「コンピュータ」が蔓延っても何の意味もないのと同じことです。

●仮に、人類が滅亡すべき運命にあるとしても、その人類滅亡への最短コースを提供するのが「戦争」であり、そのための迂遠な道を提供するのが「平和」です。愚かなことだと思いますが、今の世界は、ひたすら“その最短コースを辿るため”にあるだけの知恵を絞り、その成果としての「経済と科学技術」をひたすら“その最短コースを辿るため”駆使しつつあります。

●残念ながら、このような微かな希(のぞみ)と化しつつある「平和」のために重要と思われるキーワードが「オランダの光」と「ディアロゴスの現象学」(H.D.ガダマーの解釈学的哲学)です。前者は感性・感覚次元でのコミュニケーション論に、後者は言語・論理情報次元でのコミュニケーション論に新たな道を提供することが期待されています。また、これらコミュニケーション論で触媒的な役割を担うという意味で重要なポイントと目されるのが「新しいアイデンティティ論」(下記(注)参照)です。

●微かな希(のぞみ)と化したとはいえ、このような意味で、やはり人間は歴史に学びながら「平和」を求め続けなければならないのです。

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  14世紀初め頃のヨーロッパは急激な低温化と多雨によって「大飢饉」(1315-1322)に見舞われています。丁度、この頃は地球気候の歴史の上では「中世温暖期」(下記・注、参照)と呼ばれる時代が終ったところで、この後の時代は、低温と多雨が長く続くようになり、予測ができないほど不安定な「気候の大変動期」に入りました。これは気候学上は「小氷河期」と呼ばれる時代であり、このような時期は19世紀半ば頃まで続きました。この「小氷河期」に入ったころのヨーロッパでは、百年戦争(1339-1453)、ペスト大流行(1346−1351頃)、ローマ教皇権の衰退と教会大分裂(シスマ/Schisma/1378−1417)などの歴史的大事件が連続して起こり、同時にヨーロッパ中の農民や自治都市の反乱と戦争が続発します。つまり、この14〜15世紀の時代は、いわゆる暗黒のヨーロッパ中世で最も陰鬱な闇の時代でした。これよりやや後の時代になりますが、このような激しく厳しい自然環境下の「凍てつく冬の風景」を描いた絵がネーデルラントの画家ピーテル・ブリューゲル(父、Brueghel/ca1528-1569)の『雪中の狩人』(1565、冬)です。ただ、ここで特に留意しなければならないことがあります。それは、「小氷河期」であっても「16世紀半ば〜17世紀後半」の頃、つまり、ほぼ「オランダの黄金時代」に重なる時期は、その前後の時期と比べて比較的温暖な気候であったと考えられることです。

(注)中世温暖期(Middle Ages Warm−Epoch/800〜1300年頃)と超長期的な地球気候の傾向・・・下記資料(▲)によると、800〜1300年頃のヨーロッパの気温は現代並みか、ややそれを上回る程度に温かく、これを「中世温暖期」と呼ぶ。その原因については、活発な太陽活動が考えられているが未解明な部分が多く、更なる検証(実証的研究)が必要である。また、この一時期の温暖傾向は全地球的なものであったことも分かりつつある。この時期の太平洋には流氷がほとんど見られず、アイスランドでは燕麦など麦類の栽培が可能であった。このような時期に、北ヨーロッパではノルマン人が大西洋を渡りグリーンランドへ入植した。その先駆けとなったのが赤毛のエイリーク(Erik the Red/950-1003)で、更にエイリークの子と義弟が1000年頃に北米大陸を発見したとされる。なお、18世紀初頭〜19世紀初頭にかけての「小氷河期」が過ぎると、やがて19世紀半ば以降は再び温暖な時期に入った。そして、特に1970年代以降は地球温暖化傾向が著しくなっている。
▲ブライアン・フェイガン著:気候大変動[河出書房新社] ▲エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリ:気候の歴史[藤原書店]

  元々、北部ネーデルラント(オランダ地方)は、その低地地帯という地質上の環境条件から常に高波や洪水の危険にさらされていた地域で、11世紀頃の北部ネーデルラントの居住可能な陸地は現在の半分程度しかなかったとされています。特に、「小氷河期」が始まりかけた14世紀の初め頃から15世紀までの間は気象が不安定で、予測し難い悪天候が度々この地方を襲ったという記録が残されています。このため、13〜14世紀頃のオランダとドイツの北海沿岸地帯では、10万人以上の人々が悪天候で死亡したと推定されています。また、この頃の度重なる嵐の襲来で、低地ではありながら比較的地味が肥えた優良な農地であった土地が巨大な内海に変わってしまい、ザイデル海(19世紀に堤防が繋がりアイセル湖となる)が誕生したとされています。15〜16世紀になっても度々大きな嵐がこの地方を襲い、しかも寒冷な気候が続きました。そして、この激しい気象の正体は、イギリス南部からイギリス海峡を越えて北海へ吹き抜ける低気圧であったことが近年の研究で明らかになっています。

  ところで、フランドル諸都市が隆盛を誇るようになる13世紀頃より前のフランドルの北部の海岸地方、つまり現在のオランダあたりは、そのほとんどが荒地、湿地帯であり、良くてもせいぜいが牧草地という不毛の土地でした。従って、この頃のネーデルラントの中心地は現在のベルギー地方にあたる地域でした。中世のベルギー地方(フランドル伯領、ブラーバント公領他)では、封建法(9〜13世紀頃までにローマ法やローマ教会法(カノン)の影響を受けてヨーロッパで成立していた慣習法で、成文法か不文法かは問わない)上はフランドル伯領がフランス王の支配下に属し、他の地域は神聖ローマ帝国に属していました。やがて、およそ13世紀頃から、この地方に住む人々は引き続く悪天候へ命懸けで挑みながら、フリースラント語(オランダ゛北部地方の言語)でテルプと呼ばれる干拓手法(現在、テルプは“村落”の意味に変化)で新しい土地の造成に取り組んできたのです。なお、フリースラント語はネーデルラントで特殊な位置を占める言語で、それはアングロサクソン語(英悟)と低地ドイツ語の中間に位置する言葉です。

  やがて、この地方には多数の小都市群が出現し始めます。この地域には悪天候という自然条件の厳しさ(マイナス面)を十分に補うだけの大きなメリット(プラス面)があったからです。それは、この地方が事実上のヨーロッパの交通・交流の中心地であるということ、つまりこの地域が地政学上の有利な条件を備えていたということです。現在でもオランダ・ベルギー地方がEU欧州連合)本部など国際機関の中枢機関が立地するヨーロッパの中心地であるのと同様に、ここは古い時代から政治的にもヨーロッパの中心的なロケーションであったということです。14〜15世紀、この地方はフランスのヴァロワ系・ブルゴーニュ公国(1361〜1477)の支配下に入っていましたが、15世紀末にはハプスブルグ家の領有(1482〜)となります。やがて16世紀前半には、宗教改革の嵐のなかで、ドイツから急進的なプロテスタントの一派である再洗礼派(幼児洗礼を認めず、自覚した成年の洗礼のみを認める)の人々が流入し、北フランス経由でカルヴァン派が入ってきました。 なお、古代ローマ帝国時代には、現在のベルギーからオランダの一部にかかる地域はtoxandriaと呼ばれており、ヨーロッパにおけるローマ帝国軍団の戦略上の中枢拠点でした。その中心地がほぼ現在のベルギー付近に当ります。

  1477年、完全なロタリンギア(9世紀、ヴェルダン条約フランク王国は東西フランクとロタリンギア(ロタールの王国)に分割されたが、ロタリンギアの王ロタール(LotharⅠ/ca.795-855)の死後のメルセン条約で東西フランク王国となる)の復活とヴァロワ・フランス王家内での覇権に野心を燃やすシャルル・ル・テメレール(突進王または豪胆王/Charles le Temeraire/1437-1477)が、同じヴァロワ系のフランス王・ルイ11世(LouisⅩⅠ/1423-1483)と対決した「ナンシーの戦い」(1467)で戦死すると、フランスのヴァロワ家に対抗するテメレール系統のヴァロワ家の画策で、テメレールの一人娘マリー(その後も、旧ブルゴーニュ公国の中心地ゲント(現在はベルギーの都市)に住み続けたためブルゴーニュのマリー呼ばれた/Marie de Bourgogne/1457-1482)とオーストリア大公マクシミリアン(ハプスブルグ家)の政略結婚が成立します。ここで「ブルゴーニュ公国」は消滅し、フランドルはハプスブルグ家の支配下に入り、フランドル以外の旧ブルゴーニュ公国領はフランスの支配地となったのです。更に、1482年、ブルゴーニュの女伯爵マリーが放鷹(鷹狩)の途中で落馬して死去するというアクシデントが起こり、マクシミリアン(Maximilian/1459-1529)は1493年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(MaximilianⅠ/位1493-1519)となってフランドルも直轄支配することになります。

  その後、このマリーの遺児二人、フィリップ美公(Philipp der Schone/1478-1506)とマルガレータ(Margarete/1480-1530)は、中世から近世へのエポックをつくる重要な役割を果たすことになります。それが《太陽の没することなき、《世界大帝国スペイン》が成立するための序曲となったのです。フランドルのゲント(ヘント/Ghent)に住むフィリップ美公は、スペイン王女ファナ(Juana/1479-1555/後に狂女ファナと呼ばれる/スペインのフェルナンド(アラゴン国王・FenrandoⅡ/スペイン国王・FernandoⅤ/位1479-1516)とイザベル(スペイン国王・Isabel/位1474-1504)両王の娘)と結婚してニ男一女をもうけます。その長男が後の神聖ローマ皇帝カール5世(KarlⅤ/位1519-1556/スペイン王カルロス1世)で、次男はオーストリア・ハプスブルグ家を継ぎ兄カール5世に次いで神聖ローマ皇帝となったフェルディナンド1世(FerdinandoⅠ/1556-1564)です。なお、スペイン王女ファナの生涯を描いたスペイン映画『女王ファナ』(ヴィンセント・アランダ監督、ピラール・ロペス・ディ・アジャラ(ファナ役)、ダニエル・リオッティ(フィリップ美公役)、2001年制作、http://kadokawa-pictures.com/juana/index02.html))が日本でも公開(2004年)されました。それは時代考証がとても優れているので、映画『女王ファナ』を鑑賞すると、このような歴史的エポックの雰囲気を十分に堪能することができます。

  また、ブルゴーニュの女伯爵マリーをめぐっては、イギリスのマグナカルタ(大憲章/1215)と同等か、それ以上の意義があるという点で、歴史的に決して無視できる筈がない重要なエピソードがあります。しかし、このことは、事実上、歴史的に殆ど無視同然の扱いを受けてきました。驚くべきことに、それはイギリスの「ピューリタン革命」(1642-1649)を遙かに先取りしたものであり、近・現代における本格的な民主主義のルーツとされる出来事です。また、これは「オランダ独立戦争」(1568-1609)の大儀を支える一つの伏線にもなっています。それは、1477年にネーデルラントの市民(大商人やブルジョア階層の人々)たちが女伯爵マリー(神聖ローマ帝国皇帝の代理人たるブルゴーニュのマリー)に自らのために「大特権」の要求を突きつけたという事件です。彼らの要求は次のようなもの(●)でした。

(この「大特権」要求の歴史的な意義の詳細については、次のBlog記事を参照 →
→ 『平和主義は道徳的孤立主義か?』http://blog.goo.ne.jp/remb/e/3bac1d26af7f077048346f3dea969f8f )

●代表権なくして課税なしの原則を徹底する
●各州の承諾なしの新しい税の課税は認めない
●マリーは各州の承諾なしで戦争ができない
●各州・各政府の要職は地元の人間に与える
オランダ語公用語とする
最高裁判所を設置し、裁判の控訴を認めて市民の人権を擁護する

  一方、娘マルガレータは、ベルギー地方のメヘレンに居を構えて“フランドルの統治”(1559年、ネーデルラントの執政となる)に取り組みながらカール5世に帝王学の教育を授けたので“ハプスブルグ・オーストリアのマルガレータ”と呼ばれています。カール5世を継いだ息子フェリペ2世(FelipeⅡ/位1556-1598)は、スペイン王国の最盛期である“太陽の没することなき帝国”を実現しました。そして、カール5世はスペイン、ネーデルラント(ベルギー・オランダ)、ドイツ・オーストリアハンガリー、ティロル、南イタリアナポリ王国シチリアサルディニア)、新大陸植民地、フィリピンという広大な領地の支配に加えてポルトガルも併合します。

  ネーデルラント(ベルギー・オランダ地方)は、このように中世から近世に至る気象と歴史の移り変わりを概観するだけで、地政学上の重層的で多面的な特徴が浮かび上がってきます。現代のオランダの気候はメキシコ湾流のおかげで冬季も比較的温暖といえますが、いったん北海方面から下りてくる寒気団と大陸内部の熱気団が合流するや大気の状態が不安定となり、多くの雲が発生して、雨足が速くなり、激しく変化する気まぐれな気象状態(変化の激しい悪天候)をもたらします。それは、13〜14世紀頃の厳しい気候の再現でもあります。また、ネーデルラント(低地地方)の呼び名のとおり、この地域はヨーロッパ北西端の最も低い土地にあり、アルプスから発しドイツを南から北に流れるライン及び北フランスの山岳地帯から流れ出るマースとスヘルデの三つの川が、ここで北海に注ぎます。このため、おおよそ、この土地を海洋沿岸部と大陸部に分けることができるとしても殆どが平坦地であり、オランダの国土は最高の標高でも約300メートルに過ぎません。

  このように平坦な土地を流れる河川の歴史は、必然的に、この地域での人流・物流を活発なものとしてきました。また、ほぼヨーロッパの中心に位置することもあって、ネーデルラントはヨーロッパの文化・言語・政治権力が出会い、交流し、また激しく衝突する場所でもありました。ネーデルラントには、EUのユーロポート(ロッテルダム)、ブリュッセルEU本部、ハーグの国際司法裁判所などヨーロッパと民主世界の実現を目指す世界的機関の中枢機能が点在し、ゲルマン文化とラテン文化、そしてオランダ語フラマン語ワロン語、フリースラント語、ドイツ語、フランス語がモザイクのように点在した形で共存しています。これらの特徴を一言で表現すると“絶えざる人的・物的交流と流動的な異文化の坩堝”といえるようです。ここでは、今も決して止まることなく、多様性(マルチチュード)を受け止める寛容の精神環境を維持しながら、文化的な『知の積み重ね』が続行されています。一方、このように重層的な精神環境の坩堝の中を、約700年にも及ぶ長い時間をかけた干拓事業(オランダのインフラ創設)という極めてリアルで困難な歴史の柱が貫いているのです。この特有の自然・精神環境こそが「オランダの光」を析出するプリズムの働きをしているのかもしれません。このように個性的な風土のプリズムの中でオランダ独自の「清潔感と日常生活重視」という現実的なバランス感覚に満ちたアイデンティティ(注)が織り上げられ、エラスムス(Erasmus/1469-1536/人文主義者/16世紀)、スピノザSpinoza/1632-1677/汎神論の哲学者/17世紀)、グロティウス(Grotius/1583-1645/自然法国際法の父、法学者/17世紀)らに代表されるネーデルラント特有の「寛容と自制心」を尊重する精神・文化環境を、そしてファン・アイク(Hubert van Eyck/ca.1370-1426)、ロベール・カンパン(Robert Campin/ca1375-1444)、レンブラントフェルメールらの個性的な絵画芸術もたらしているのです。

(注)新しいアイデンティティ(Identity)についての考え方
:Identityは人格における存在証明または同一性と定義される。しかし、その内容を具体的にみると次の四つの次元がある。今まではパーソナル・アイデンティティについて特に注目されてきたが、これら4つの次元を幅広く観察し理解することの重要性が認識されつつある。当然ながら、これらの次元の根は一つである。
●パーソナル・アイデンティティ
・・・個人、家族、地域などとの結びつきから生まれるIdentity。
●クラス・アイデンティティ
・・・階級、貧富の差、国家・国民・民族意識、政治・経済関係などとの結びつきから生まれるIdentity。
●ジョブ・アイデンティティ
・・・職業・仕事・専門性などとの結びつきから生まれるIdentity。
●カルチャー・アイデンティティ
・・・宗教・文化・趣味・教養・知的水準歴史認識などとの結びつきから生まれるIdentity。

(2004/04/09/News-Handler、初出)