toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

シリーズ、『市民政治』の再生を考える[4]

toxandoria2005-08-04



【画像】アングル『ホメロス礼賛』


Jean A. D. Ingres(1780-1867) The Apotheosis of Homer. 1827 3.86 m x 5.12 m  Oil on canvas  Louvre  Paris、 France
<注>この絵の大きな画像は、下記のURLをクリックしてください。
http://www.abcgallery.com/I/ingres/ingres52.html



(画像解説)


  アングルは、フランス・新古典主義絵画の確立者であるダヴィッド(J. L. David/1748-1825)に師事したフランス19世紀のロマン派を代表する画家の一人ですが、特に彼はラファエロ(Raffaello Santi/1483-1520)に共鳴していました。周知のとおり、ラファエロミケランジェロと並び盛期イタリア・ルネサンスを代表する画家です。ラファエロの絵画は、ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti/1475-1564)の作品が見せるマニエリスム的な傾向に対する一種のアンチテーゼとなっており、豊かな色彩・調和がとれた画面構成・穏やかな描写などが、その特徴となっています。このようなラファエロの画風は、17世紀以降、フランス・アカデミズム絵画(新古典主義絵画)の中では至高のマニエラ(手本)的存在として尊敬され続けてきました。アングルはロマン派の画家として、歴史画・肖像画・婦女裸体画の秀作を数多く残していますが、その画風は同じロマン派と目されながらも現代的な意味でのリアリズム絵画を予兆させるドラクロアとは対照的な画風であることが分かります。つまり、同じダヴィッドの後継者でありながらアングルとドラクロアは対照的な画風(美的表象の世界、人間世界のリアリズム)を創造したのです。


  パリ・ルーブル美術館が所蔵する作品『ホメロス礼賛』はアングルの絵画を代表する大作です。このため、アングルはしばしば「ホメロス礼賛の画家」とも呼ばれてきました。この大作は彼の絵画の本質をすべて出しきっています。中央の桂冠詩人の前に左右対称の背中合わせの仕草で腰掛ける二人の女性は寓意化されたイリアス(左、錆びた宝剣の寓意)とオデッセウス(右、オデッセウスは槍と戦車の操術に長けていた)です。周知のとおり『イリアス』と『オデッセウス』は、古代ギリシアの詩人ホメロス(Homeros/生没年未詳)が書いたとされる叙事詩です。前景の右の一角にはラシーヌモリエールボアローなどフランス古典派の詩人たちが、同じく左隅の一角にはプッサンコルネイユなどの顔が見えます。また、上方の画面の左右では、ソフォクレスラファエロヴェルギリウス(以上、左)、フェイデアス、アリストテレスプラトン(以上、右)などが手を差し伸べて中央の桂冠詩人を祝福しています。


  ヨーロッパ世界で逸早く絶対王権を完成させたフランスでは、その国力を誇るかのように歴代の国王たちがパトロンの役割を担いつつ芸術活動を活発化させます。そのハード面の装置が壮大華麗なヴェルサイユ宮殿ルイ13世(1610-1643)の別荘を太陽王ルイ14世(1643-1715)が拡充)であり、ソフト面の充実が1648年にマザラン(Jules Mazarin/1602-61/ルイ14世に仕え、フランス絶対王制の基礎を確立した宰相)が創設したパリの王立絵画彫刻アカデミー(Academie Royale de Peinture et Sculpture)です。この意味で、フランス・アカデミーの主柱となった新古典主義は近代国家をガバナンスするための先駆け的な精神構造の一つとして機能したものであったといえるのです。そして、そのような国家ガバナンスのための精神構造は、ナポレオンを始めとするフランス革命後の専らブルジョワ階級に支持された為政者たちにも引き継がれます。しかし、「七月革命」(1830)の時代を経て、「二月革命」(1848)で第二共和制が成立しフランスの産業革命が進行する頃になると、同じロマン主義絵画でありながらも、社会の諸相をより厳しく現実的に捉えようとするドラクロア的な意味での近代精神の方が、より広くフランス国民に受け入れられるようになります。アングルが確立した官能的な理想美の世界、言い換えれば古典古代の理想を求めて観念の世界へ飛翔するタイプのロマン主義は、やがてドラクロア的なロマン主義を引き継ぐ写実主義という、もう一つの近代精神に席を譲ることになるのです。


4 明治維新政府が幕府から引き継いだ累積債務とその処理(2)


(幕末〜明治維新期における“国家的借金踏み倒し”の原点)


  前に述べたことですが、「明治維新期の財政と国債」(http://www.nri.co.jp/opinion/chitekishisan/2005/pdf/cs20050108.pdf)によると、維新政府が引き継いだ旧藩の累積債務額は約1.1億円なので、維新政府が幕府本体から引き継いだ累積債務額は少なくとも0.3億円程度ではないかと思われます(財政規模の割合から推計)。結局、明治維新元年頃の日本の公的債務累計額の規模は、きわめて大雑把な話になりますが当時の時価で1.4億円程度であったと推計できます。しかし、この数字はあくまでも“表向きのオフィシャルな数字”に過ぎないようです。それは、幕府や諸藩が政治権力(武力、軍事的暴力)を笠に着て“(一方的なデフォルト宣言)を実行するのは当然のことであったからです。特に、倒幕から明治維新期の中央政治で中心的役割を担った薩摩藩長州藩の“借金の踏み倒し”のスケールには驚かされます。


  例えば、薩摩藩では、1830年(天保元年)に藩主・島津重豪(しげひで)から500万両の古借証文の回収を命ぜられた家老・調所広郷(ずしょひろさと)が大坂、江戸の大商人から古い借用証文を取り上げて、250年賦無利子払いに切り替え、事実上の“借金の踏み倒し”を断行しました。敢えて500万両を現価換算すると少なくとも3,000億円程度になります(1両の現価については3〜10万円の諸説があり、ここでは1両=6万円と仮定した)。実に、これだけでも維新政府が諸藩から引き継いだと推定される全債務額に匹敵するのです。また、調所は偽金の密造や琉球国利用の中国密貿易にまで手を染めています。これが、世に名高い「島津藩の藩政改革」の実相の一端です。一方で、諸藩がそれぞれの歩に応じて“借金の踏み倒し”を断行したことは想像に難くありません。このように見てくると、維新期の日本の債務額は、恐らく、少なくとも表向きの数字である1.4億円の10倍以上の規模であったと想像できます。このような事態(大デフォルト)の被害者は没落への泥沼に嵌った大坂、江戸等の大商人のみならず善良な庶民階級へ様々な形で皺寄せが及んだと思われます。


  幕末期における幕府自身の借金踏み倒しの実像は明確でありませんが、幕府には「幕府御用金」という特殊な“打ち出の小槌”(あるいは、これが日本独特の特別会計のルーツ?)が存在したのです。御用金とは、幕府や諸藩が財政上の不足を補うため、町人・農民らに対し臨時に上納を命じた金銀のことです。御用金は献金や税金(年貢)とは異なり、本来は利子付きで年賦返済する借上金でした。その利子は年利2〜3%という超低利で、返済も長期の年賦返済でした。そして、幕末頃になると利子はもちろん元金もほとんど償還されなかったので、半強制的な献金(政治権力による強奪金?)の性格をもつに至ったのです。 幕府の御用金令は、1761年(宝暦11)が最初であり、主なものを拾ってみると1806年(文化3)、1809年(文化6)、1813年(文化10)、37年(天保8)、1839年(天保10)、43年(天保14)、1853年(嘉永6)、1854年(安政1)、1860年(万延1)、1864年(元治1)、1865年(慶応1)、1866年(慶応2)など、幕府財政が悪化する幕末に近づくほど頻繁に発令されました。発令の名目は、幕府財政融通をはじめ米価調節費、江戸城再建費、海防費、長州征伐軍費の調達など、実に様々です。この辺からも、御用金調達という財政的な悪弊が現代日本特別会計のルーツとなったのではないかということを想像させます。


  初めのころの御用金は、大坂や江戸の豪商に対して課せられたのですが、やがて堺、兵庫、西宮などの富裕町人や、大坂や江戸の一般町人、更には農村の富裕層にも命じられるようになっていました。たとえば米価調節のため1806年、1809年、1813年の3回にわたり徴収された御用金は、総額が約125万両に及び、その分担は江戸町人約36万両、大坂、兵庫、西宮、堺の町人約60万両、天領の富裕農民約29万両という具合でした。それでも、この文化年間の御用金の返済状況は増しな方であり、その後、約30年の間に元金の56%(約70万両)が返済され、1843年現在の未返済残高は約55万両となっていました。しかし、年利3%の利子分の未払高は37万両余にも達しており、利子が支払われたのは最初の数年間のみでした。町人や農民は命じられる御用金の負担をできるだけ軽くするため減額の嘆願を行い、このため幕府の指定高と町人・農民の出金請高との間には相当大きな差が発生することがありました。町人や農民は、それなりの抵抗をしていたようです。この点に鑑みると現代日本の一般国民が「特別会計や税金の無駄遣い」にやや無頓着であるのは頂けない気がします。


  また、天領に課せられた幕府の御用金は、御用金上納者の村が天領から私領に変わった場合は全額返済されていました。いくら幕府であっても、大名領や旗本領の領民に御用金を課すことは知行権を侵すことになるので不可能なことであったのです。なお、明治維新政府も、維新の初めころまでは財政窮乏に対処して京都、大阪、東京などの豪商から多額の御用金を徴収していました。しかし、流石に近代国家日本(明治維新政府)は、このような財政手段が一時凌ぎにすぎないことに漸く気がつき(しかも、このころまでの日本には国債という概念が存在しなかった)1869年(明治2)に「御用金の制度」を廃止して、1870年(明治3年)には“日本で初めての国債”が発行されました(ポンド建て、ロンドンで発行)。なお、「御用金の制度」が廃止された1869年(明治2年)は、奇しくも東京九段に「靖国神社」の前身である、戊辰戦争戦没者を軍神として奉る「招魂社」(1879年(明治12年)に靖国神社と改称)が創建されています。このような経緯を知ると、その後の「国債発行と特別会計」の歴史が「軍国主義」の発展と機軸を一にすることが予兆されていたようであり不気味です。未だに、現在の財務省や一部の与党政治家たちの政治感覚の深層には、このような明治2年の“軍神の宣告”が亡霊のように付き纏っているようです。



・・この後は「シリーズ、『市民政治』の再生を考える[5]」へ続く・・


(参考)当シリーズ[4]以降で参照する主な資料、URL


松浦武志著『特別会計への道案内-387兆円のカラクリ-』(創芸出版)
石井紘基著『だれも知らない日本の裏帳簿』(道出版
特殊法人監視機構
http://www.nomuralaw.com/tokushu/
特別会計
http://www.mis.ne.jp/~yosh/nakusukai/page294.html
財務省HP、財政制度等審議会
http://www.mof.go.jp/singikai/zaiseseido/top.htm
財務省HP、予算・決算
http://www.mof.go.jp/jouhou/syukei/syukei.htm
財政制度の改革について(財政改革委員会)
http://www.jimin.jp/jimin/saishin97/gyoukaku-11-2.html
財政投融資(金融用語辞典)
http://www.findai.com/yogo/0070.htm
日本銀行金融研究所
http://www.imes.boj.or.jp/
大森徹『明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響』(ディスカッションペーパー・シリーズ、日本銀行金融研究所)
http://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/fjdps2001_index.html
明治維新期の財政と国債
http://www.nri.co.jp/opinion/chitekishisan/2005/pdf/cs20050108.pdf