toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

シリーズ、『市民政治』の再生を考える[5]

toxandoria2005-08-11


【画像】ドラクロア『キオス島の虐殺』


Eugine Delacroix(1798-1863) The Massacre of Chios. 1824. Oil on canvas 417ラ354cm Louvre 、Paris
<注>この絵の大きな画像は、下記のURLをクリックしてください。
http://www.abcgallery.com/D/delacroix/delacroix40.html

(画像解説)

  キオス島(Chios)は、人口が3万程度のエーゲ海東部に浮かぶギリシア領の島です。古代以来、このキオス島は小アジアに面した東岸中央にあって古代ギリシアの詩人ホメロスの出身地とも伝えられる所です。前6世紀前半の一碑文によって民主政治の存在が窺われますが、やがてキオス島はペルシアの宗主権に服すことになります。キオス島は、BC5世紀にはデロス同盟の有力盟約国として海上戦力を保有する独立国の地位を堅持したこともありました。また、ヘレニズム・ローマ時代にはローマとの友好関係を保っっています。ビザンティン時代の重要な史跡には11世紀のネア・モニ修道院などがあります。時代が下って、1566年以降はオスマン・トルコの支配をうけるようになり、「ギリシア独立戦争」(1821〜29)を経た1912年に漸くギリシア領となりました。

  ドラクロアは「ギリシア独立戦争」の時の惨劇『キオスの虐殺』(1822)を描いています。このドラクロアの絵画は“惨劇”から2年後の1824年に描かれています。「ギリシア独立戦争」の山場となった「モレアの反乱」を経てエピダウロス議会が開催され1822年1月にギリシアは独立を宣言しますが、この間のオスマン・トルコ軍の反撃は激しく、特にキオス島におけるトルコ軍による虐殺行為は凄惨をきわめました。同じロマン派に属しながら、アングルを代表者とする天空の世界に飛翔する理念的な画風に対立していたドラクロアは、フランスの新古典主義絵画に反抗してロマン主義絵画という新航路を開きながらも夭折した天才画家ジェリコーを引き継ぐかのような感性を見せてくれます。つまり、ドラクロアは後の時代のジャーナリズムとリアリズムを先取りする技法でこのキオス島の惨劇を見事に描いたのです。

4 明治維新政府が幕府から引き継いだ累積債務とその処理(3)

(幕末〜明治維新期におけるもう一つの“踏み倒し”とルサンチマンの発火) 
  約1年5ヶ月に及んだ「鳥羽伏見」から「五稜郭戦争」に至る内戦の戦費は、会計事務参与・由利公正(元福井藩士/藩札の貸付による福井藩内での殖産興業の実績があった人物)の建議による政府紙幣(不換紙幣であるが金札とも呼ばれており、貨幣との時価交換が約束されていた)の増刷によって賄われました。このため、明治元年期の歳入総額3、150.4万円(1円=現価6万円と仮定すると現価換算で約1兆8,900億円)の約90%が政府紙幣と借り入れ金(政府紙幣も一種の借り入れ金と考えられる)が占めていました。このため、維新政府は三都(江戸、大坂、京都)の豪商たちに対し、彼らからの借金証書を抵当(かた)にして政府紙幣の強制貸付を行い、また各藩に対しても石高に応じて1万石につき1万両の割合で強制貸付を割り当てました。しかも、その貸付条件は元金の3割増しを13年で還付するという厳しいものでした。このようなムチャクチャな国家的高利貸しが国家権力(軍事力)を背景に強行されたのです。なお、政府紙幣は建て前上の金本位制(事実上は、1897年(明治30年)まで銀本位制)が開始された1871年明治4年)から民部省札(兌換紙幣)との交換が、そして1873年明治6年)からは公債(金札引換公債)との交換が開始されて、1879年(明治12年)にすべてが回収されています。

  一方、維新政府は、旧幕府及び諸藩の累積債務処理の他に、同じく武士たちへ家禄(国家及び地方公務員のみなし生涯賃金に相当)を支給するという大きな財政支出要因を抱えていました。旧幕藩体制下で武士階級に支給されてきたのが家禄ですが、その幕末期の総額は約1,300万石(現価換算で約7,800億円/換算基準は同上と仮定)とされています。つまり、維新政府は廃藩置県とともに各藩の家禄(家禄+賞典禄)を引き継ぐことになった訳であり、維新政府は、これを秩禄(国家秩序維持のための禄)と名づけました。まず、維新政府は秩禄の支給を戸主のみに限定し、各藩ごとに異なっていた支給レベルを標準化します。やがて、1873年明治6年)に「徴兵令」が敷かれると兵役に就かぬ者たちへの支給の根拠が失なわれたとして秩禄の支給額を大幅に減額した上で、秩禄の権利と秩禄公債(米で支給することを約した債権)を交換する「秩禄処分」を断行します(1876年(明治9年)には、金札で支給することを約した金禄公債との交換へ変更)。結局、この処分で武士階級の秩禄は明治維新からの10年間で約6割相当額が踏み倒されました(明治維新期の財政と国債http://www.nri.co.jp/opinion/chitekishisan/2005/pdf/cs20050108.pdf)。

  ところで、同上資料「明治維新期の財政と国債」及び「大森徹『明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響』(ディスカッションペーパー・シリーズ」、日本銀行金融研究所(http://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/fjdps2001_index.html))によると、遅くとも1875〜1877年(明治8〜10年)頃には、日本の財政はプライマリー・バランスの黒字を達成していたことになります。周知のとおり、プライマリー・バランスがゼロということは国家財政の赤字がゼロとなることではなく、債務の元利償還の要素を除外した歳入・歳出部分が黒字となること、つまり「国債等発行で賄う歳入部分」と「国債等の元利払が占める歳出部分」のバランスがイコールとなることであり、あくまでも該当年度の歳入・歳出にかかわるバランスの概念です。従って、明治10年頃に国債残高がゼロとなった訳ではありませんが、明治維新政府が目指した国家財政健全化の政策目標は達成したことになります。しかし、ここで忘れてならないのは、今まで見たとおりそれが幕末から維新期における天文学的数字に及ぶ巨大債務の国家的踏み倒しが断行された結果であったということです。踏み倒しの一次的被害者は負け組みの大商人や武士階級ですが、結果的にその皺寄せが下々の日本国民一般まで広く及んだことは言うまでもありません。一方で、勝者となった政商等を始祖とする大企業は「殖産興業」の掛け声の下で近代国家日本の資本主義発展の原動力となるのですが、負け組みのルサンチマンを煽る政治戦略が功を奏したこともあり、やがて藩閥政治の中心人物であった大久保利通が不平士族によって東京・紀尾井坂で暗殺された1878年明治11年)ころから国家主義ナショナリズム)と軍国主義を支持する意識が一般国民の中へ急速に浸透し始めるのです。

明治維新期における本格的ジャーナリズムの誕生)

  国家主義ナショナリズム)と軍国主義を共有する意識が一般国民の中へ深く浸透し始めた1877年(明治10年)頃に先立ち、「維新期における本格的なジャーナリズムの誕生」があったことを思い出すべきです。日本で最初の本格的な定期刊行の新聞は、1871年明治4年)創刊の『横浜毎日新聞』に始まります。1872年(明治5年)には現在の毎日新聞の前身である『東京日日新聞』が創刊され、その後は続々と後の有力新聞の創刊が続きます。民撰議院設立論、自由民権運動などの政治論を主張して「政論新聞」と呼ばれたこれらの新聞の主な読者層は、旧武士階級やインテリが占めており、彼らの多くは厳しい政府批判の言論を展開しました。このような訳で、自由民権運動の幕開けは民主主義思想の啓蒙というよりも、むしろルサンチマンの情念に突き動かされた不平不満分子(士族層が中心)による反政府的な政治論であったのです。このようなジャーナリズムの展開に対して、維新政府は明治8年に「新聞紙条例」と「讒謗律」を制定して弾圧を強化しました。このため、明治9年には神風連の乱秋月の乱などのいわゆる士族の乱が全国に蔓延り、遂に明治10年には西南戦争西郷隆盛が開設した私学校の学生らが西郷を擁して挙兵)が勃発します。

(日本の近・現代史における、ジャーナリズムの役割の放棄と政治権力によるルサンチマンの利用)

  ルサンチマンの捌け口という観点からジャーナリズムを観察すると相反した二面性が見えてきます。それは「客観的なリアリズムを追求する働き」と「時の政治権力と癒着する働き」という二面性のことです。そして、近代民主主義国家に住む我われがジャーナリズムに期待するのは前者の働きであることは言うまでもありません。表面的に見ると、この二面性は矛盾するかのようですが、実は、これは一枚のコインの表裏のような関係であるのです。それが「一枚のコインである」という特殊な性質は、ジャーナリズムが“情報源・取材源”に密着しなければ成り立たないということに由来します。しかも、往々にしてその“情報源・取材源”は政治権力側の立場であることが多いため、ジャーナリストが後者の「時の政治権力と癒着する働き」に堕する恐れが常に付きまとっているのです。いずれにせよ、ジャーナリズムはルサンチマンの捌け口となることができるのです。つまり、ジャーナリズムが前者(客観的なリアリズムを追求する働き)の性質を発揮すれば政治権力を適切に評価・誘導する力となり、後者(時の政治権力と癒着する働き)に堕せば悪政(独裁型政治)を強化する力となるのです。いずれにせよ、ルサンチマンと化した一般国民の精神環境は右傾化であれ、衆愚化であれ政治権力側にとってはきわめて御し易いマグマ現象となる訳です。

  歴史的に見ると、日本のジャーナリズムの変質が目立ち始めるのは日清戦争(1894〜1895年/明治27〜28年)・日露戦争(1904〜1905年/明治37〜38年)を経た頃からです。両戦争を契機として、日本のジャーナリズムは急速に後者(時の政治権力と癒着する働き)の方向へ舵を切り始めます。それに先立ち、既に明治20年代に入った頃から日本政府はナショナリズム軍国主義(アジアにおける覇権主義植民地主義)へ進む道を選び取っています。その直接の切欠となったのは、自由民権派の反政府統一運動である「大同団結運動」(明治20〜21年)が「保安条例の公布」(明治20年)によって弾圧されたという出来事です。しかし、政府がいかに努力しても政府だけの力でショナリズムと軍国主義(アジアにおける覇権主義植民地主義)の意識を日本国民の隅々まで浸透させることはできなかった筈です。この時、政府が重視したのが万世一系天皇を中心とする家族型の国家精神、つまり国粋主義精神(伝統的な大和魂を崇めるロマンチシズムとしての愛国心)の活用ということです。そして、このような国家精神を日本国民の隅々まで浸透させる役割を担ったのが“政府の広報誌”と化したジャーナリズムです。このような次元で、“政府の広報誌”と化したジャーナリズムが持て囃すのが「ワンフレーズ・ポリテクス」の政治手法(一見分かり易そうであるが中身がない短い言葉で人心を麻痺させ篭絡する、つまり詭弁を弄する政治手法)です。その特徴は、論理的に正確に説明するよりも、一般の人々の心情面に強く訴えることで意図的に論理的思考回路を遮断し麻痺させるということです。そして、このような手法を最も効果的に利用したのがナチス・ドイツヒトラーであったことは周知のとおりです。

靖国神社創建、軍国主義の発展、特別会計制度誕生の関連性)

  ここで再び、我われは日本におけるジャーナリズムの役割の放棄とともに「靖国神社の創建」、「軍国主義の発展」、「特別会計制度の誕生」が機軸を一にしていたことを思い出さなければならないようです。つまり、「御用金の制度」が廃止された1869年(明治2年)は、奇しくも東京九段に「靖国神社」の前身である、戊辰戦争戦没者を軍神として奉る「招魂社」(1879年(明治12年)に靖国神社と改称)が創建されたのですが、この時、その後の「国債発行と特別会計」の歴史が「軍国主義」の発展と機軸を一にすることが予兆されていた訳です。西南戦争が終わった直後の1878年明治11年)に大隅重信(大倉卿)は殖産興業と対・士華族失業対策を目的とする「起業公債募集」を建議します。これが日本で最初の公募国債であり、その発行額は1,250万円(現価換算で約7,500億円/1円=現価6万円と仮定)でした。戦後の好況(政府紙幣の増刷(インフレ)による一種のバブル景気)を背景に、この公募国債への応募は予定額の二倍(約2,500万円/原価換算で約1.5兆円)に達しました。そして、この公募公債による収入金1,000万円(現価換算で約6,000億円)は、「起業公債基金」として“一般会計とは別途に経理処理”されることになったのです。

  これこそが、我が国における「特別会計」の始まりです。それは、民主主義国家の財政ガバナンスの基本である「国会中心財政主義」を日本政府が無視した最初の出来事です(もっとも、国会開設の詔が出されたのは1881年明治14年)で、国会開設は1890年(明治23年)のことではあるが・・・)。いずれにせよ、このような民主主義国家における根本的な欠陥の萌芽を無視してきたジャーナリズムの責任放棄(リアリズム精神の衰退、時の政治権力と癒着する働きへの傾斜、新聞等の政府広報紙(誌)化)は、後の時代の「膨大な規模の戦時特別会計」の発生などによって日本社会に暗い影を落とし続けることになり、その恐るべきほど深刻な業病の悪影響は現在の「郵政民営化」を巡る日本の狂乱政治(1,000兆円を超える膨大な財政赤字の拡大を放置したまま、小泉ブームという幻想民主主義に陶酔する日本社会の混乱)にも及んでいるのです。今、日本のジャーナリズムは明治前・中期に犯した愚かな錯誤の轍を再び踏みつつあるようです。

・・この後は「シリーズ、『市民政治』の再生を考える[6]」へ続く・・

(参考)当シリーズ[4]以降で参照する主な資料、URL

松浦武志著『特別会計への道案内-387兆円のカラクリ-』(創芸出版)
石井紘基著『だれも知らない日本の裏帳簿』(道出版
特殊法人監視機構
http://www.nomuralaw.com/tokushu/
特別会計
http://www.mis.ne.jp/~yosh/nakusukai/page294.html
財務省HP、財政制度等審議会
http://www.mof.go.jp/singikai/zaiseseido/top.htm
財務省HP、予算・決算
http://www.mof.go.jp/jouhou/syukei/syukei.htm
財政制度の改革について(財政改革委員会)
http://www.jimin.jp/jimin/saishin97/gyoukaku-11-2.html
財政投融資(金融用語辞典)
http://www.findai.com/yogo/0070.htm
日本銀行金融研究所
http://www.imes.boj.or.jp/
大森徹『明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響』(ディスカッションペーパー・シリーズ、日本銀行金融研究所)
http://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/fjdps2001_index.html
明治維新期の財政と国債
http://www.nri.co.jp/opinion/chitekishisan/2005/pdf/cs20050108.pdf