toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

亡国の『小泉リフォーム詐欺劇場』を後押しする者は誰か?(2/2)

  冷戦終結後に、その見かけ上の予算規模が縮小しているとはいえ、今や世界全体に占めるアメリカの軍事費の割合は約40%という驚くべき大きさに達しているのです。更に、見逃してならないのは、グローバルな経済活動で特に目立つ国々の軍事費の伸び率の大きさです。1985年度を100とした対2000年度の軍事費の伸び率を大きい順に並べると、日本40%、中国40%、アメリカ26%etcで、日本と中国の伸び率が異常な大きさとなっていることが分かります。このように軍事関連予算の伸びの大きさという観点で見る限り、日本と中国が世界のトップの座を巡って激しく競り合っていることが分かります。小泉首相自身がこの問題をリアルに意識しているかどうかはともかく、“小泉・靖国参拝”をめぐる日中関係のリアルな意味が、この点にあることを見逃すべきではないでしょう。従って、もし、この夏に小泉首相が再び靖国神社参拝を決行した暁には、この隠れた意味が表面に急浮上して中国政府内部の権力構造のバランスが崩壊し、胡錦濤・政権の責任が厳しく追求される問題に発展すると思われます。少なくとも、アメリカ・ブッシュ政権は、この点を十分に織り込んで靖国問題をめぐる日中の対立を注視している筈です。

  他方、日本国内では、このような軍事費の大きな伸びと反対に、年毎に農業・福祉・教育関係の予算が減らされ、一方で一般の国民にとっては、まことに過酷な税制強化と福祉・医療サービスが大きく削減される時代に入りつつあります(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050315)。また、中国は、2005年度の軍事予算の伸び率(実績比)で11.6%を確保しており、これは前年度の実績9.4%増をかなり大きく上回ります。日本も、強固な日米同盟の路線上で動かざるを得ず、それは「トランス・フォーメーション」(米軍再編成)構想の中で明確に位置づけられています。このようにして、現在の日本は、北朝鮮の脅威を想定したMD(ミサイル防衛)システムやイラク派兵関連予算を中心に世界でトップクラスの軍事関連予算の伸びを維持しています。2004年の秋からアメリカのイージス艦日本海に実戦配備されています。なお、アメリカの軍事費の1985年度対2000年度の伸びが26%であり、一見、軍事費が縮小しているように見える訳は、東西冷戦終結の影響もあるが、「軍装備の民営化」(Military Privatization)への移行が主な原因になっていると推測されます。

  このような訳で今や世界の生命線を握ったかのようにさえ見えるネオコンを語る場合、忘れてならないのはネオコンが「アメリカ伝統の保守主義」(及びキリスト教原理主義)と結びつくことによって、アメリカ人一般の「現実認識(世界認識)のあり方」を根本から大きく変質させたということです。この点についての詳細は、既にBlog記事「『ヴェネツィア派の誕生』と歴史的リアリズムの意味(3/3)」(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050318)で述べ
ていますが、本稿と関係がある部分をここに再録しておきます。

・・・(部分再録の始まり)・・・

  1990年代に入ったばかりの頃(レーガンを引き継いだパパ・ブッシュの時代)ですが、「アメリカの保守主義者」たちは、意図的に「二つの敵」をつくる作戦を着想しました。無論、それは冷戦構造の終焉(ソ連崩壊)によって「共産主義」という強大な仮想敵に代わるべく着想されたものでもあります。一つ目の敵は「リベラル派」で、もうひとつの攻撃ターゲットは、そのリベラル派が支配する「文化」です。中岡 望著『アメリ保守革命』(中公新書ラクレ)によると、パパ・ブッシュを大統領候補に選んだ1992年の共和党大会で、パット・ブキャナン(レーガン政権を支えた二大保守勢力の一つペイリオコン(Peleo-conservatismの略称/彼らの祖先たちがヨーロッパを逃れて大陸に到達した時以来の古い伝統的な保守主義の立場/都会派のインテリで極左から転向したネオコンとは対照的な存在で、彼らの支持基盤は中西部と南部の保守層)を代表する人物)は次のように述べています。・・・「わが国ではアメリカ精神をめぐって「文化戦争」が展開中であり、「文化戦争」は冷戦と同じくらいアメリカにとって重要である」・・・また、ネオコンたちも“ソ連崩壊後も全体主義思想が死んではいない。経済的自由、ブルジョア的な価値観、コミュニティの連帯は実現していない。リベラルな思想に染まった文化的エリートたちが、依然、文化を支配している”と主張して「文化戦争」の必要性を説くようになっていました。つまり、この頃からアメリカ国内に「狂ったリアリズム意識」が広がり始めたといえるのです。�

  このような、アメリカにおける「狂ったリアリズム意識」の最も目立つ形での帰結(成果)が、今や、ますます混迷を深めつつある「イラク戦争」です。また、あまり目立ちませんがブッシュ政権下のアメリカ国内では「アーキビスト問題」という「文化戦争」が起こっています。(この問題の詳細についてはBlog『ベスのひとりごと/現代市民社会の現実(リアリズム)を考える』http://takaya.blogtribe.org/entry-2ff7664ef5d89c31e4f549022bc7fe06.htmlを参照)つまり、アメリカのブッシュ政権が「国際刑事裁判所」(International�Criminal�Court)、「国連」(United�Nations)あるいは全地球的な環境基準たる「京都議定書」などの国際協力(国際法)に基づく枠組み(諸制度)を無視して強引に「一国主義政策」を進める背景には、この「文化戦争」を神(キリスト)の名において戦い抜くという「狂ったリアリズム意識」(主にネオコンキリスト教原理主義が源泉)に基づく基本戦略が存在するからです。ネオコンが信奉する「リバタリアニズム」(自由原理主義、グローバル市場経済原理主義)とペイリオコンが信奉する「キリスト教原理主義的な宗教信念、官僚的ヒエラルキー信奉、権威主義信奉」は、本来ならば矛盾・敵対するはずの価値観なのですが、この点は奇妙なこと(ご都合主義的?)にネジレており、いわば倒錯し歪んだ形で病的に癒着(談合)しているのです。

  そして、このように病的に歪んだ「文化戦争」の行く先にあるのは地球上の多元的な「文化の殲滅」(カルチャー・クレンジング/Calture-Cleansing)であり、やがて、それは「民族浄化」(地球上のあらゆる異端者の殲滅)につながる恐れがあります。なぜなら、文化を構成する根本を個別要素的に捉えて見れば、それは宗教・哲学・倫理・美学などの価値体系に他ならないからです。また、それは「民族」が“文化的な個別要素の集合概念”であることからも必然の帰結だといえます。このような訳で、ブッシュ政権ネオコン&ペイリオコンの癒着政権)の「先制攻撃で世界を民主化するという論理」は本質的に非人間的で「狂ったリアリズム意識」がもたらしたのだといえるのです。また、「文化戦争」は、数多の人々の脳内表象を敵に回すことであるため、具体的な敵が目に見えるはずがなく、まことに絶望的な戦争となります。それ故にこそ、具体的な敵として「テロリストの存在」が必要になったともいえるのです。いわば、「テロリスト」や「悪の枢軸」は“文字どおり”の「必要悪」なのかもしれません。テロリスト発生の予防のためには、本来ならば資本主義の欠陥を自覚しつつ地球上の経済格差(貧富差の拡大)を防ぐ手立てに取り組むことが先決であり、それが最短コースのはずなのですが・・・。例えば、フランスには、“資本主義は各国や地域の制度や習慣の上に育つべきものだ”という視点から、アメリカ発のグローバル市場原理主義に異議(アメリカの資本主義には欠陥があるとの異議)を唱える「レギュラシオン理論」の立場から新たな資本主義を模索・追求する学者グループが存在し、その代表的な学者がロベール・ボワイエ教授(フランス数理経済計画予測研究所)です。彼らは、資本主義を生み出す様々な社会的制度(基盤)を重視し、労使関係、国家制度、法体系などの「制度」(レギュラシオン)の調整を経て経済は機能するのだと主張しています。(詳細については2004.12.19付・朝日新聞の記事を参照)

  生命ある人間にとって昔も今も変わりようがない「現実とのかかわり方」(リアリズム)のヴァリエーション(人間と社会・経済環境とのかかわり方)の可能性は無限のはずであり、これが「文化」の多元性を保証し、人間社会の無限の発展可能性を保証するのです。従って、繰り返しになりますが、アメリカ・ブッシュ政権の病的に歪んだ「狂気の文化戦争」(テロとの戦い)の行く先にあるターゲットは、必然的に、地球上の多元的で多様な「文化の殲滅」とならざるを得ないのです。これこそが、「思いやりの保守主義」を標榜するブッシュ政権の大いなる自己矛盾です。このように見てくると、アメリカの民主主義(アメリカの資本主義社会)が持つ重大な欠陥が、実はレーガン政権以降ずっと引きずってきた「現実との歪んだかかわり方」、つまり「誤ったリアリズム観」であることが明らかになります。ところが、救いとなるのは、このことについて少なくとも約半数のアメリカ国民が気づいていることです。そのため、今回の大統領選挙でブッシュが再選されたとはいえ、見方次第では、一期目と同様に約半数に近い国民の批判を浴びている訳であり、その厳しい国民の監視の眼の中で第二期目のブッシュ政権がスタートしたということことになるのです。

・・・(部分再録の終わり)・・・

  今のアメリカの政治・軍事・外交などの「一国主義」の推進をネオコン(Neoconservatives/新保守主義者たち)が牛耳っていることは周知のとおりで
す。ネオコンの思想的背景はシカゴ大学政治学者、レオ・シュトラウス(Leo�Strauss/1899-1973・・・後継者はアラン・ブルーム(Allan�Bloom)教授)
を信奉するシュトラウス学派(政治学分野で唯一の学派を形成)です。レオ・シュトラウスはドイツの公法学カール・シュミット(Carl�Schumit/1888-
1985/一時、ヒトラーの下でナチス学会の活動をしていたドイツの政治学者)と研究上の交流があったと考えられています。このため、ネオコンを「シオニズム+ナチズム」から誕生した、危険で異常なアメリカの右翼思想家たちであると短絡して捉える向きもあるようです。しかし、レオ・シュトラウスの出発点はハイデッガー、ヴィットゲンシュタイン、ホッブズ、中世イスラムとタルムード(ユダヤ典範)の研究であり、さらにソクラテスプラトンアリストテレスなどの古代ギリシア哲学まで遡っており、極めて奥が深く、そのように単純なものとして捉えることは無理のようです。

  しかし、迷路に嵌まり込んだ《近代》を2千年にも及ぶ壮大な思想体系を背景に《根底から批判し尽くして、古代ギリシア時代の古典的な政治合理主義を再生しようとする》という意味では、前代未聞の《全く新しいタイプの保守の立場》であるとも言えるでしょう。ただ、従来の定義どおり保守主義の根本が歴史重視であるとするならば、ネオコンの立場はその対極にあるので、むしろ彼らは「特異なタイプの帝国主義者」といえるかも知れません。なぜならば、彼らが究極的に信奉するのはホッブスの“リバイアサン”的なもの、つまり凡ゆる政治権力を超越した最高権力を想定しているからです。あるいは、強いて言えば、ネオコンは、深遠でエソテリック(esoteric/秘教的)な表現を好みラジカルで批判的な姿勢を貫いた難解な政治哲学者レオ・シュトラウスを、自分たちに都合が良いように解釈しているのだとも思われます。

  シュトラウス(及び、その影響下のネオコン)の近代批判は、まず近代主義の出発点となったホッブズまで一気に遡り、ホッブズの最も重要な著書『リバイアサン』を再解釈・再検証することから始まります。その結論を端的に言うと、理性の根本を支える哲学的パラダイムを《性善説》」から《性悪説》へ転換するということです。『リバイアサン』には「人間の自己保存の問題」(=正当防衛の権利)という論点があります。ここを出発点として近代啓蒙主義の発展過程の全体を根底から批判します。また、シュミットの影響も受けているネオコンの考え方の根本には「悪を見逃す中庸・寛容=悪、憲法の番人としての独裁=善」というものがあります。また、カール・シュミットレオ・シュトラウスを信奉するネオコンの考え方のもう一つの特徴を敢えて分かりやすく言ってしまうと、手間隙が掛かり過ぎて効率が悪くなってしまった「民主主義」よりも、一人の「独裁的な賢人」(善悪を超えた怪獣リバイアサン!)の決断に従う効率的・合理的な政治の方が望ましいという考え方があることです。この場合、「民主主義的な国家ガバナンス」や「憲法」の役割は「独裁的な賢人」の下に位置づけられるのです。

  どうやら、この辺りが、ネオコン(=ブッシュ政権)の発想の異質性の原因となっているようです。我われのような議会制民主主義を国家ガバナンスの根本に据える国民意識の根っ子には「憲法の授権規範性」というものがあるはずです。つまり、「憲法」は、政治権力者の勝手気ままな暴政を許さぬために存在しているということです。もっとも、現在の日本の政治権力中枢を占める政治権力者たちが、本当にこの点を理解しているかどうかは疑わしい限りです。その証拠に、政権中枢の改憲論者の口から次々と出てくる言葉の中では「軍事国体論」、「天皇元首論」、「万世一系の神的な国体下での愛国心の復活」など、ファシズム時代の「大日本帝国憲法」への復帰を目指すような主張が目立ちます。これは恐るべきことです。確かに、経済合理主義の観点からすれば、ネオコンの考え方は正解のように思えますが、その一寸先にあるものは底なしに深い「ナチズムの闇」です。こんな考え方を真に受けて支持し実行するのは、まさに狂気の沙汰の筈です。しかし、残念ながら、今の世界では、本気になってリバイアサンに対する意義申し立てができる人々は少数派となりつつあるのです。大多数の人々は、強大な権力を握るリバイアサンに身を託しつつ安逸な目先の生活を選択する方向へ向かっているのです。これが、日本、アメリカのみならず世界中を覆いつつある「ポピュリズムと呼ばれる政治・社会現象」なのです。安易に「構造価格」、「規制緩和」、「民営化」あるいは「結果主義」が多数の人々によって受け入れられる傾向が強くなりつつあることには、このような背景があるのです。
 
  このポピュリズム現象を最も的確に代表するのが「政治的無関心」という言葉です。特に日本では、国民の中で政治的無関心層の占める割合が拡大の一途を辿っているように見えます。周知のとおり、近年の国政選挙における投票率の低さは惨憺たるものです。(参照、
http://blog.goo.ne.jp/remb/e/4d88664a380ca983ffd4eec0b087ba0b)その悲惨な結果を見ると、これでも日本は民主主義の国なのかと疑いたくなります。民主主義の基本中の基本である“選挙権”を国民の殆どが放棄しており、日本人は最小限の「主権在民意識」すら捨て去ってしまったのでしょうか?「憲法」に関する「授権規範性についての理解」と「選挙権」の二つを放棄することは、民主主義国家の国民にとって自殺行為である筈です。そして、輪を掛けて怪しからんと思われるのは、現代日本の政治権力者たちの殆どが、このようなポピュリズム傾向の上に安住していることです。いや、安住どころか、むしろこのような傾向が続くことが自らの政権維持のために望ましいとさえ思っているふしがあることです。しかも、マスコミの多くも、このようなポピュリズム現象に迎合しています。恐るべきほどの政治権力者たちの堕落・退廃ぶりです。しかし、このような政治権力者たちの現実は、とてつもなく脆い幻想の上に構築されたものであることを自覚すべきです。本物のリバイアサンは未だ真実の姿を見せてはいないのです。つまり、今の日本の政治権力体制は“国民の無関心”の上に築かれた“砂上の楼閣”なのです。

  フランス革命後の混乱の時代に生きた政治学者トックビル(Alexis�Tocqueville/1805-59)が、かつて「アメリカ独立革命」後のアメリカを旅行した時に貴重な記録を残しました。トックビルは、その時の様々な見聞を基にして名著『アメリカのデモクラシー』を残したのです。それによると、トックビルは、独立後のアメリカでは「自由主義」が進むあまり既に《国民の平等化のマイナス影響》が社会の中に現れており、それは《利己主義》と《政治的無関心》という二つの大衆病理現象であると書き残しています。また、その一方で早くもこの時代のアメリカでは《権力の抑制》ということが忘れられつつあり、《人権の保障》も軽視され始めていると分析しています。今、我われは、もう一度、全ての根本に立ち戻るつもりで「民主主義の原点」は何であったのかをジックリ考えるべき時かもしれません。ネオコン一派のように17世紀以降の啓蒙主義の発展を根こそぎにして、人類の歴史のすべてをラジカルに否定するばかりが批判精神ではありません。このような時代にこそ、本格的な民主主義の時代はこれから到来するのだという謙虚な態度が必要なのかも知れません。

<注>レオ・シュトラウスは、1990年代以降になってから、日本でも各大学・大学院(政治哲学・政治学・哲学倫理学)のゼミなどで取り上げられるようになっています。訳本は下記があります。なお、(3)はドイツ語が底本で、それ以外の原書は英語です。レオ・シュトラウスの思想・業績は、近年までドイツでも殆ど知られていなかったようです。

(1)著『自然権と歴史』(ナカニシヤ出版)1988
(2)レオ・シュトラウス著、石崎嘉彦監訳『古典的政治的合理主義の再生』(ナ
カニシヤ出版)1996
(3)レオ・シュトラウス著、添谷育志他訳『ホッブズ政治学』(みすず書房
1990
(4)レオ・シュトラウス著、『政治哲学とは何か』(昭和堂)1992

  ところで、第二期ブッシュ政権は、イラク戦争の後遺症が予想外に長引いていることもあって、発足当初は国際協調路線へ軌道修正したかのように見えた時もありますが、実際はネオコン一派及びその息のかかった人々が要職を占めており、第一期政権時代よりタカ派色が強まったというのが実態です。 このような動向を象徴する人事が二つ発表されており、その一つはポール・ウオルフォウイッツ国防副長官(ネオコン)の世界銀行総裁就任です。もう一つはボルトン国務次官(超タカ派ネオコン)の国連大使就任です。後者の方は上院での承認をめぐって賛成派と反対派の激しい衝突が起こり、ボルトン氏の人格にかかわる疑惑や批判が噴出するなどして予定より約2ヶ月以上も評決が遅れています。ボルトン氏を大使に推薦したブッシュ大統領の意図は、中々アメリカ政府の思惑どおりにに動かない国連をボルトン氏の剛腕で強引に「改革」することです。
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 ウオルフォウイッツ氏の世界銀行総裁就任の目的は、冒頭で述べたとおり、1993年に決定した新自由主義思想に基づく金融・経済戦略である「ワシントン・コンセンサス」の徹底を図ることにあるのは明らかです。これで、全世界のグローバル経済は一層のアメリカ型「民営化路線」(privatization)への傾斜、そして際限のない効率化の追求と貧富差拡大政策が強要されることになると思われます。また、ボルトン氏の国連大使就任が承認されれば、ブッシュ政権が国連改革に関して米国ベースでの強硬な介入を押し進めることは間違いありません。また、2005.5.3付東京新聞・特報記事の分析によると、このように益々タカ派色を強めつつある第二期ブッシュ政権のシリア侵攻が、愈々、現実味を帯び始めているようです。アラブ諸国で最後の対イスラエル強硬派とされるシリアへの軍事侵攻が実現すれば、「イラク戦争」に引き続いて再び「軍装備の民営化」(Military Privatization)による巨額の“戦争ビジネス”が中東・シリアで展開されることになります。

  オーストラリア国立大学教授テッサ・モーリス・スズキ女史は、このようなブッシュ政権ネオコン)が強引に「永遠の経済成長」という“幻のシナリオ”を追い続ける、世界における軍事・政治・経済政策を称して「これは人間の歴史を忘却する一方で、ホッブズの架空の自然状態(想像上の理念的世界)のなかに新たな社会を創るというフィクション」を追いかけている姿なのだと言っています。つまり、ブッシュ政権ネオコン一派は「人間の歴史と地球上の自然環境という現実」を在りのままに直視することができなくなっていると言うのです。また、テッサ女史は、これらの本当に実在する(した=歴史)現実をすっかり覆い隠して、そこにどうやって新しい秩序を打ち立てるかという、ある意味で権力側だけにとって非常に都合がよいロジックが創られたのだとも言っています。このような観点から見ると、やはりブッシュ政権の背後には、ネオコンとともに「キリスト教原理主義」のオーラも輝いていることが分かります。そして、恐るべきことには、ブッシュ政権ネオコンたちの会話のなかにはハルマゲドンという言葉が、時折、顔を出すのです。

 現在、日本政府が取り組みつつある「司法制度改革」にせよ、「郵政改革」にせよ、一連の「構造改革」と「規制緩和」の中身は悉くアメリカ政府のお達しに従ったものであることが、下のURL(●)の内容を読めばで分かるはずです。(詳細は、Blog記事『米国に追従する「規制緩和」のお粗末な?実態』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050503を参照)見方によっては、人類のハルマゲドンを想定した“幻のシナリオ”を実現するための手段として、この「要望書」が日本政府に提出されている訳です。このままでは日本という国そのものが、「JR西日本の悲惨な列車事故」のような事態(大クラッシュ)に突入することが懸念されます。だから、今こそ日本国民一人ひとりが、自分自身の問題として“リアルな自然と現実の人間社会(歴史と現実)を見失ったネオコンの「幻のシナリオ」のための「要望書」に対し、只管、盲目的に追従し隷属する以外の道がないものかどうか”ということについて良く考えるべきだと思います。

 「善と悪の葛藤」が最終的には悪の支配によって終わる、という壮大な宇宙ドラマがテーマの映画『Star�Wars-episode3』を鑑賞しながら、このような観点から日本の行く末を考え併せることには大きな意義があると思われるのです。

●日本政府に規制改革要望書を提出/米国通商代表部(米国大使館HP)�
http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041015-50.html
●日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政
府要望書�
http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041020-50.html#mineika-s(米国大
使館HP)�