toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

『改革のマドンナ総選挙』(小泉リフォーム詐欺劇場、第二幕)の末路が見える!


  小泉首相によると、今回の総選挙は『改革のマドンナ総選挙』(自称 or 自画自賛?)だそうです(何となく背中がむず痒くなりませんか、ならない?、ソーですか・・・toxadoriaは犬蚤でも集(たか)ったのかナ?)が、その実像は「官邸とマスコミ合作により、“B層(プロデューサーが命名)”の人々の脳内表象が共同幻想空間を浮遊して、恰もエル・グレコマニエリスム絵画のように天空高く舞い上がるファントム選挙』です。それはMr.マリックのマジックショーかオレオレ詐欺に気が動転する様に似ています。

  かくして、小泉劇場外資系チーフプロデューサーの思惑どおりに、“改革のマドンナを飾り窓に陳列したリフォーム詐欺”で最も激しい痛みを蒙る立場の人々こそが『小泉リフォーム詐欺劇場』の共同幻想空間の見事な演出に熱狂的なヤンヤの拍手喝采を浴びせることになります。

  この熱狂の結末は、目下ロードショーで絶賛上映中の映画、『ヒトラー、〜最期の12日間〜』(下記URL▲)で十分堪能することができますので併せてご案内しておきます。
http://c.gyao.jp/index.php?sid=hitler-movie

  ついでながら、そしてまことにおこがましい限りですが、今回の総選挙を予感させるBlog記事を書いておりましたので、部分的なバックナンバーとしてご案内しておきます。(★http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050511/p1

・・・・・・・・上記Blog記事(★)の部分抜粋・・・・・・・・・

●旧東京大学社会情報研究所の小山栄三教授(http://www.artdai.com/mon/econ/archives/2005/05/post_86.html)が、かつて“世論というものは、基本的にはメディアが媒介項となって、国家と国民の関係性のなかでつくられるものだ”という名言を述べているそうです。(姜 尚中、テッサ・モーリス-鈴木共著『デモクラシーの冒険』(集英社新書))どうやら、我われが暗黙の前提で存在を確信している「世論」なるもの正体は、実は掴みようがない幻影(ファントム)だと言うのが現実であるようです。このように考えれば、メディアコントロ−ルを持ち出すまでもなく政治権力とメディアが協同して「政治的なファントム」を創ることなどは造作も無いことのように思われてきます。そもそも、マスコミ等によるアンケート調査の結果がどこまで信頼できるかは疑わしいところがあります。こんなことを述べると統計の専門家からお叱りを受けそうですが、質問項目の設計と回答者の選び方しだいで、アンケート調査の結果については、かなりの確度で誘導することが可能だと思われます。

●話題は冒頭へ戻りますが、大脳の働きに代表されるような生体内における「関係子」の作用は確かに仮設的な概念に過ぎません。しかしながら、この「関係子」の概念は、生物個体内の膨大な細胞群のネットワークを基盤とするニューロンクラスターの発火という、現実に客観的に観察される生理学的な現象に裏付けられています。乱暴に言ってしまえば、「関係子」の作用は、シッカリと生物固体に脚がついている(つまり、地に足がついている)ものです。他方、「世論」や「支持率」などのファントムは、どのように科学(統計)的手法で装ったとしても、地に足がついたものであることを論理的、観察的、客観的に説明できません。人間社会の未来、日本の未来を左右するための社会操作概念に求められるものは、限りなく「関係子」のような性質であるべきで、「世論」のようなファントム(幻想概念、あるいはメディアコントロールのようなご都合主義による政策等の決定に影響されて右往左往するもの)であり得ないことは分かりすぎるくらい当たり前のことです。

● 例えば、ある人物に関するアンケート調査では、「その人物を支持する理由についてお答えください・・・・(1)人間的に信頼できそうだから、(2)仕事の実績があるから、(3)他の人より良さそうだから、(4)他に適任者がいないから・・・」という項目が必ず出されます。この場合、(2)はともかくとして、果たして我われは(1)、(3)、(4)をどのような手掛かりに基づき評価することができるのでしょうか? このように、あるものごとや人間についての質的な評価や判断を求める質問に対しては、よくよく現実の姿や行動・言動などを身近な場所で見た上で考えなければ、あるいは、その人物とたまたま知り合いであったり、一緒の生活や一緒の仕事を経験したことがあるというような場合でもない限り、簡単には答えられないはずです。プロセスをブラック・ボックスにして、結果だけを統計的に処理した数字ほど危ないものはありません。たとえ、数字で如何に精緻な理論が構築されたとしても、現実との接点が希薄であるに任せて、そのように矢鱈と数理的に複雑怪奇化した表現世界だけで満足する人は、喩えれば「数学の美学」に耽溺し自己満足するナルシスティックなディレッタントと同類です。人間社会の未来を語る道具として、商品モニター調査や市場調査(マーケティング・リサーチ)のような調査手法にだけ頼るのはきわめて危険です。数字ほど、人を誑かすのに都合がよいツールはないことを想起すべきです。

●ともかくも、このような訳で日本の民主主義社会は、これからも「偉大なるファントムさま」のパフォーマンスに拍手喝采を送りながら、まるでテレビの「お笑いバラエティー・ショー」のような「共同幻想の世界」を浮遊し続けることになるのです。