toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

(B/N)ハイパーリンク社会を闊歩する「明治ナショナリズムの亡霊」

<注>この記事はバックナンバーです。現在の『小泉H.C.ポルノ劇場』の欺瞞性を多角的に検証する目的で再掲します。
(2004.5.26、News-Handler 初出)

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  一部の報道によると、今回の小泉訪朝の結果に失望して厳しい批判の発言を繰り返す横田さん、有本さんなど多くの未解決拉致被害者の家族らに対して、全国から脅かしや非難のメール(日本政府に感謝の気持ちが無いのか!、お上に逆らうのか!etc)が殺到しているそうです。これは“イラク人質の自己責任バッシング”とまったく同じ現象です。多くの日本人がそうだとは思いませんが、ここまで、ある種の日本人一般の精神環境が病的に退行し、劣化し、健康な批判能力とバランス感覚を喪失しているのには驚くばかりです。冷静、かつ合理的に考えてみれば、今回の小泉訪朝が“年金問題等の焦点ボカシ”のための選挙対策を意識し、マスメディアを効果的に巻き込んだ、日朝・相互もたれ合いの「談合パフォーマンス・ショー」であったことは明らかです。事前の事務レベルの打ち合わせと段取りに従う“結果ありき”の演出であったことが火を見るよりも明らかです。例えば、日テレによる“事前の米25万トン見返り報道”に対する官邸サイドからの拙速で異常な情報統制の動き、“金額に換算すると米25万トンは約500億相当(下記の《注》参照)であるという事実のボカシ報道(この金額そのものを伏せた報道を徹底させたこと/同時に約束した医療品等支援1,000万トル=約11億円と比べれば、日本のGDP(国内総生産)の0.01%に匹敵する米25万トン=約500億円の大きさが分かる)”、“事後のワイド・ショー、ニュース・ショーの偏向的番組づくり及びキャスターらの政権寄りの誘導発言”、“極端に短かったトップ交渉の時間(実質45分?)”など『結果ありき演出』(メディア・コントロール)に関する傍証は枚挙の暇がありません。

《注》米の日本国内における市販価格は1kg=400〜500円なので、仮に米の調達費を1kg=200円とすると、米25万トンの調達費の総額は、運賃等を除外しても約500億円の巨額になる。一部の関係者から漏れているように、仮に家畜飼料用などの屑米等を混入させたとしても、運賃等の雑費計上が必要なので、どんなに少なく見積もっても250〜300億円程度にはなる。また、このような不埒な小細工をやれば“人道支援”の大義名分に疵がつくことは必至である。

  特に、テレビには「ビジュアル・プレゼンテーションの限界」というメディア・コントロールの問題があります。つまり、視聴率という原理的な呪縛に囚われたテレビは、ビジュアル化による「分りやすい表現」と「視聴者からの受けのよさ」が求められる傾向があるので、報道内容や情報の『質の問題』と『論理性』は二の次にされてしまいます。また、トップ会談が極端に短かったのは金正日サイドが一方的に会談を打ち切ったためだという情報が今になって漏れ出しており、これが事実だとすれば、足元を見られた小泉首相がコケにされ手玉に取られたことになります。このようなマイナーな情報が今頃になってから表に出てくるのは、重要な立場の閣僚の国民年金への未払い・未加入の事実が、懸案の年金関連法案が衆議院を通過してから表面化させたのと全く同じ姑息な手法です。

  このように異常な社会現象をもたらし先導する人たち(メディア・コントロールを受け易い人々が増殖する近年の傾向)が抱える病巣は、小泉首相の「靖国神社参拝問題」(政教分離の原則)に対する不感症(無頓着さ)と同じ日本人一般の精神構造の中にあります。それは、名付けてみれば「明治ナショナリズムの亡霊」の暗躍です。この点に関するかぎり、日本人の深層心理は100年以上前とサッパリ変わっていないようです。変わらぬどころか、ユビキタスハイパーリンク時代になり情報伝播のスピードと範囲が高速化し、昔年と比較にならぬほどグローバル化しただけ、却って事態は厄介になっています。日本が、一夜にしてワーッとナチス・ドイツのような統制・独裁国家に変じることも強(あなが)ち与太話とはいえない時代に入ったようです。日本の現実は、フランク・パブロフ著のベストセラー『茶色の犬』どころか、ナショナリズム化の傾向が加速する一方のようで不気味です。そこで、「明治ナショナリズム」の源流(ルーツ)を、いくつかの切り口から検証してみることにします。

【明治期における、軍神「靖国神社」の創設】

  ナショナリズム(nationalism)という言葉は多義的で、民族主義国民主義国家主義などと訳されるのが普通です。ここでいう「明治ナショナリズム」は、帝国主義植民地主義の牙を剥く欧米列強への対抗意識から“明治政府が掲げた“富国強兵”の国家目標を指します。このような場合、国家体制の強化が主眼となるため国民一般の主権は殆ど無視同然となる一方で、国民の民族意識を上から鼓舞する必要が生まれます。そして、このナショナリズムを実現するため「神聖で呪術的な象徴」(メコネサンス/meconneissance)を創造して、一般国民が自主的に「主権在民」を否定するように仕向けました。元々、メコネサンスは人類学の用語で“相互誤認、無知、無理解、無視、無関心”などの多義的な意味があります。つまり、この明治政府が目指したのは一種の「神権政治」でした。「神権政治」とは、支配者が神の代理、あるいは神から支配権を授与されたものとして支配・統治する国家体制のことです。歴史的にみれば、古代イスラエル王国、皇帝崇拝が強制された時代のローマ帝国、王権神授論によるヨーロッパの絶対王政などがあります。明治期の日本では、神権政治の実現のため国教制度が創設されました。明治政府(近代天皇制国家)が1879年(明治12年6月4日)に「国家神道」の中枢として“靖国神社を創設”したのです。このため、第二次世界大戦までの間は、一般神社(古来の伝統的な神道)が内務省管轄下であるのに対し、靖国神社は陸・海軍省内務省の3省で管理されていました。つまり、一般の神社と「靖国神社」の宗教的な(軍神としての)性格は根本的に異なるのです。「靖国神社」が国家守護のための軍神的性格から排他的であるのに対して、その他の日本古来の神道には“やおよろずの神々”に対する畏怖の心が基盤となるだけあって、むしろ敵と味方の別を問わずに葬ろうとする一種の寛容さが内在します。

【明治期のアララギ派による“ますらおぶり”の美意識】

  『万葉集』の解読作業は平安初期よりはじまり、鎌倉期の仙覚(せんがく/1203-? /万葉学者)が一応の研究集約を行いました。しかし、その研究が本格化するのは近世期に国学が勃興してからです。契沖(1640-1701)の『万葉代匠記』をはじめ、賀茂真淵(1697-1769)の『万葉考』、加藤千蔭(1735-1808)の『万葉集略解』、岸本由豆流(1788-1846)の『万葉集考証』など多くの注釈書が著されました。これらは『万葉集』に人間の「まこと」(真実)を見いだそうとする意欲が実証的文献学の操作と結合してめざましい成果をあげたものです。その中で最も重要なのは江戸中期の国学者本居宣長(1730-1801)の『古事記伝』です。そして、彼らの仕事が日本古典研究の基礎を築いたのです。ところで、万葉の自然観を“ますらおぶり”の言葉に象徴されるように男性的なものとする見方は、賀茂真淵本居宣長らの江戸の国学者たちに始まり、それは明治期のアララギ派(短歌雑誌・アララギを主宰)の斉藤茂吉伊藤左千夫らに引き継がれます。しかし、“ますらおぶり”という男性的な万葉の自然観が目立つのは必要以上に「明治ナショナリズム」が強調した結果ではないか、という疑念が梅原猛などの研究者によって出されています。それによると、万葉時代の日本の古代人たちは、むしろ自然の中に潜んでいた“荒らぶる神々”を大いに怖れ、その怒りをなだめる気持ちの方が大きかったようです。とすれば、明治政府は“ますらおぶり”を殊更に強調することで、文化(文学)の領域にも“軍神”を創ってナショナリズムを煽っていたことになります。 仮に誤解だったとしても、このような“ますらおぶり”の伝統が万世一系皇国史観と結びつき、結果的に侵略戦争の片棒を担いだとすれば見過ごせる話ではありません。飛鳥・奈良・平安前期頃(7〜10世紀頃)の関西(畿内)の住民の1/3以上が渡来系の人々であったと推計されることを考えると、虚構の国家ナショナリズムの愚かさが分かるはずです。

【日本仏教における人間信仰の伝統】

  仏教史的にみると、空海(774-835)の真言密教大日如来(理念的・論理的な究極的存在としての仏)は、哲学的・論理的な思考に未熟だった当時(奈良・平安時代)の日本人一般には、あまり受け入れらなかったようです。彼らは、より人間に近い存在という意味で菩薩(大乗仏教がもたらした、人とともに苦しみながら進む求道者(人間)兼救済者の理念)を信仰しました。この菩薩的な性格をもつ仏たちの仲間は大いに好まれるようになり、それが阿弥陀・観音・地蔵などです。やがて、天台僧・円仁(794-864/第三代座主、天台密教を完成/入唐求法巡礼行記(中公文庫)の名著あり)の流れを汲む良源(913-985)の影響を受け、浄土信仰の開拓者である源信(942-1017/平安中期の天台僧)が阿弥陀仏大日如来の示現(変身した姿)と解釈することを着想しました。これによって、理念的・超越的な大日如来と菩薩信仰が庶民の心の中で矛盾なく重なったのです。ここに、日本人の仏教思想史に特有な「人間信仰」の伝統が生まれました。これはキリスト教の「人効」に相当します。キリスト教には伝統的に「事効」と「人効」の論争があります。端的にいえば「事効」は形式・手続き重視主義で、「人効」は人徳重視主義です。つまり、崇拝形式さえ正しければ、その信仰は正当で、その信仰の場を主宰した司祭の心がけや人徳は信仰とは関係がないというのが「事効」の考え方であり、「人効」はその逆です。このような仏教思想の奥深く、長い流れの中にドップリ漬かってきた日本人は、何がしかの「教義・信条・思想・イデオロギー」などの是非を判断する場合、それらの「論理性」によって価値判断をしようとしません。むしろ、一般の日本人は、その信条などを述べる個々の人間の立ち居振る舞いによって判断しようとします。つまり、卑近に言ってみれば、日本人は教祖様や政治家などの「外面(そとずら)とパフォーマンス」にきわめて弱いのです。ここに、浄土信仰の「他力本願」の思考が加われば、最早、身も心もメロメロという訳で、“絶対にお上には逆らえないという日本人の原型”の完成です。特に日本人がメディア・コントロールに対する免疫が弱いように見える原因は、この点にあるのかもしれません。また、いつまで経っても、日本の社会から馬鹿げた詐欺事件や悪徳商法霊感商法などが後を絶たないのも、案外、この辺に遠因があるのかもしれません。

  ともかくも、このように見ると、実に巧妙に仕組まれた「明治ナショナリズム」の深謀遠慮の戦略は未だに健在のようです。年金問題拉致事件の騒ぎの陰で、お盆には未だ早過ぎるというのに「明治ナショナリズムの亡霊」が彼岸から現実の世界にやってきました。5月20日、遂に「有事関連7法案」と関連する「3条約締結承認案」が衆議院をアッサリ通過しました。「国際平和への寄与」の大義の下に恒常的な米軍への支援が可能となり、必要であれば米軍による日本人の私有地や家屋の強制収用も可能となろうとしています。また、海上における臨検や拿捕が可能であり、限りなく憲法が禁じる「交戦権」の復活に接近しています。また、現在は地方自治体が持つ「港湾管理権限」が国によって奪われ、例えば「核搭載の外国戦艦」の入港拒否が、事実上、不可能となります。更に、有事の名の下で、生産・流通業者らが医療品や食料品の徴用を拒めば懲役刑を課されようとしているのです。最早、手遅れかもしれません。これが、一般の日本人が「論理を否定」して、「パフォーマンスを評価」してきた結果なのです。

(2004.5.26、News-Handler 初出)