toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「大東亜戦争」前夜を想起させる小泉首相の靖国神社参拝とマスメディ

[民主主義の危機]「大東亜戦争」前夜を想起させる小泉首相靖国神社参拝とマスメディアの対応 


  日露戦争(1904〜05/明治37〜38)の前後に日本のメディア(新聞・雑誌・映画など)が急速に発達したという歴史があることは良く知られています。その背景の一つには印刷機械(輪転機)など技術面での発達ということがありますが、もう一つの理由は明治政府が意図的に広報戦略に力を入れたという事実があります。また、明治政府が広報戦略に力を入れたことにも二つの政治的な理由があり、その一つは、現実の国力以上の莫大な戦費を調達する外債公募のため対外的な広報に力を入れざるを得なかったということです。この部門の仕事を担ったのはハーバード大学出身の金子堅太郎(伊藤博文の娘婿)らの官僚と岡倉天心(思想家、美術評論家東京美術学校の初代校長)、朝河貫一(歴史学者イエール大学名誉教授)らの学者たちです。そして、国内の広報戦略のために明治政府は意識的に新聞をコントロールする戦略を実行しました。


  開戦の前年から日露戦争関連の新聞記事に対する検閲が始まりますが、更に、内務省は新聞記事に関する「取り締まり緊急勅令」を出して軍事記事の勝手な報道を規制し、軍発表の下に完全な報道管制が敷かれたのです。特に、ここで活躍したのが徳富蘇峰(出版社・民友社を創立し、後に国民新聞を発刊したジャーナリスト)です。彼が主宰する国民新聞国民新聞社・刊)は、明治政府(桂 太郎内閣)の意を汲んで「日清戦争」(1894〜1895/明治27〜28)開戦前後ころから国家の対外的膨張が自然であるとする「膨張主義政策」を先導的に主張しており、更に「三国干渉」(1895/明治28)後は、この立場から挙国一致(大政翼賛)と軍備増強(軍国主義)を叫ぶようになりました。このような動向の中で、開戦前は「非戦論」を唱えていた、最も反体制的なスタンスに立っていた新聞「万朝報(よろずちょうほう)」(社主・黒岩涙香)も開戦後には「主戦論」に転じています。このため、他の新聞がすべて「主戦論」に靡いたことは言うまでもありません。


  このような明治政府の「意図的広報戦略」(メディアコントロール)で起こったのが、一般の国民には日本軍の戦力の現実(実態)が知らされず戦勝の報道だけが知らされるという悲劇(メディアの内向化)でした。しかも、この時、当時の日本国民はこのような虚偽報道を信じ込まされた上に戦時増税の大きな負担に必死で耐えていたのです。このため、終戦の「ポーツマス条約」(1905/明治38)で賠償金獲得が出来ぬことを知った国民の一部が怒りのあまり暴徒化して「日比谷焼打事件」や「国民新聞社焼討事件」(御用新聞と称されていた)などの大騒乱が起こり、国内に戒厳令が敷かれる騒ぎとなりました。しかも、更に恐るべきことは、このような騒乱そのものが、明治政府による意図的なガス抜き戦略ではなかったのかと考えられるふしがあることです。いずれにせよ、このような騒乱事件の多発を契機として、治安の妨害を企んだと見做される「新聞記事を発行停止する権限」(メディアに対する政府の統制権)が内務大臣へ与えられることになり、更にその上、刑法の改正が行われて重罰を伴う「騒擾罪」が施行(1908/明治41)されました。これ以降は、下記のような経過を辿り「大東亜戦争」の戦時体制へ突入し、第二次世界大戦の敗戦と「天皇人間宣言」の時を迎えることになります。 


●いわゆる大正デモクラシー期(大正5年頃/1916〜)には、都市の中間層の政治的自覚を背景に民主主義的な思潮が広がり、明治維新以来の藩閥・官僚政治に対抗して護憲運動や普通選挙運動が展開された。大正期に入るとともに、このような民主主義的思潮が広がった背景には様々な要因があるが、特に注目すべき点は、既に述べた「政府による新聞記事を発行停止する権限の確立」ということに対する国民側からの反動がエネルギーになったということである。


●これらの動きを支援したのが美濃部達吉天皇機関説を唱えた憲法学者)の「国体=文化概念論」であり、吉野作造民本主義を唱えた政治学者)は“日本国体の優秀性は民族精神の問題”だとして、「国体論」を政治学の領域から除外すべきだという議論を展開した。ドイツ観念論哲学を日本へ紹介した哲学者、井上哲次郎も、著書『我が国体と世界の趨勢』の中で君主主義と民主主義の調和にこそ「国体」の安全があると説いた。


1920年代(大正9年〜)に入ると、社会主義思想が蔓延るようになったため、「国体」の変革をめざす市民の行動を罰する目的で「治安維持法」(1925/大正14)が制定された。これによって政府が労働・社会運動を厳しく取り締まるようになり、「国体」の変革を志向する一切の結社と行動が禁じられることになった。


●「満州事変」の勃発(1931年)以降には、右翼思想が活発化して彼らの立場からの「国体論」が強く主張されるようになった。社会主義者たちの中からも「天皇社会主義思想」と呼ばれる一派が台頭し、彼らは天皇を中心とする「国体」と「社会主義」の調和を説いた。


●1935年(昭和10年)には「国体明徴(めいちょう)問題」が起こった。それまで学会の定説となっていた美濃部達吉の「天皇機関説」(天皇は国家を代表する最高機関に過ぎないとする学説)を軍部出身の貴族院議員・菊池武夫が攻撃すると、右翼と軍部が共同して美濃部に対する排撃運動を展開した。岡田啓介内閣は軍部の要求に応じて「国体明徴声明」を出すことになり、天皇機関説は「国体」に反するものと断定された。翌1936年には、このような軍部の動きが過激化して「ニ・ニ六事件」が起こった。結局、事件の鎮圧後に首謀者らは“皇道派”中心の反乱軍を指揮した罪で処刑されるが、これ以降、“統制派”が軍部の発言力の中枢を握るようになった。


●1937年(昭和12年)には、文部省が『国体の本義』(日本の国体に関する正統的な解釈書)を配布した。これは、先の政府による「国体明徴声明」に沿って、文部省が独自に「国体論」を理解するための教材として編集したものである。そこで述べられたのは、天地開闢(てんちかいびゃく)の神話、天照大神の聖徳性、天壌無窮(てんじょうむきゅう/果てしない天と地のこと)の神勅(天孫降臨の時に天照大神が皇室の祖先に賜ったとされる神勅)、三種の神器の神聖性などであり、日本の「国体」の神秘性が益々強調された。


●やがて、満州事変(1931-33/昭和6-8)、盧溝橋事件(1937/昭和12)、日中戦争(同年)、国家総動員法(1938/昭和13)、太平洋戦争開戦(1941/昭和16〜)・・・と、日本が臨戦・戦時体制へ傾斜するとともにこのような傾向が一層強まり、神国論、惟神(かんながら)の大道(古代以来の神の道)、集団禊(しゅうだんみそぎ)など「国体論」に伴う“神憑りの思想”が国民へ強要されるようになった。そして、漸く、第二次世界大戦の敗戦と「天皇人間宣言」によって、これらの「国体論」にかかわる神憑りの思想は否定され、現代の日本へ至る道を歩むことになった。


<注1>「大東亜戦争」は、東条英機内閣が決定した「太平洋戦争」の呼称である。


<注2>「国体論」(または国体思想)とは「開闢」(かいびゃく)以来の日本の国のあり方が世界の中でも特殊な存在であり、しかも、その国家としての優秀性は他に比類がなく、万世一系天皇の統治こそがその正統性を保証する」という強固ながらもエキセントリックで偏狭な信念(unilateralな国家観)を主張するものである。このような考え方が国家経営のための理念として明確な姿を現したのは明治維新政府が誕生した頃である。


  ところで、「政教分離の原則」のルーツを遡るとフランス・ブルボン朝創始者、アンリ4世の「ナントの勅令」(1598)まで遡ります(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050314/p1)。ユグノー(新教徒)であったアンリ4世は、ここで意図的にカトリックへ改宗した上でこの勅令を発しています。この時、アンリ4世の内面では、いわば「王権信条主義」(「個人的な信仰」と「政治権力」を分離し、意識的に王権(政治権力)を信仰の上に置いた)の形で「政教分離」が実行されたのです。もし、アンリ4世ユグノーのままでユグノーに信教の自由を認めていれば、それは「政教一致」であり、なんら歴史的に画期的な意味が生まれないばかりか、カトリック側からの反発がもっと大きなものとなったはずです。だからこそ、この出来事は、その後「政教分離」の意義が広く認識されるようになるための第一歩であったと言えるのです。


  翻って小泉首相の「靖国神社参拝の信条」なるものを点検してみると、それは、このような「アンリ4世の信条」と全く正反対の特異な精神環境であることが分かります。小泉首相の内面は謂わば「信条王権主義」に匹敵する頑迷な意識に雁字搦めになっているのです。小泉首相は「王」ではありませんが、「首相」はある意味では「王」に相当する政治権力者だという意味においてです。つまり、この時、小泉首相は戦犯と合祀した英霊たちを敬うという個人的な信仰心を「首相としての職務」(強大な政治権力の執行権限)の上に奉っている訳です。従って、このような小泉首相の議会制民主主義国家における最高政治権力者としての意識(精神環境)が、日本国憲法に定める「政教分離の原則」に抵触することは疑う余地がありません。


  本日付(2005.10.19)の新聞各紙は「今回の小泉首相靖国神社参拝に関する緊急アンケート調査」の結果を一斉に発表しています。それによると、各紙とも世論が賛否で二分しているという発表内容で一致しています。そして、例えば朝日新聞の関連記事のヘッドラインには『官邸、世論二分で安堵』という大きな活字が躍っています。何故に各新聞社は小泉官邸に対してこんな提灯記事ばかりを書かなければならないのでしょうか? 一方で、中国や韓国から猛反発の声が聞こえてくるだけでなく、欧米系メディアの殆んどが今回の小泉首相靖国神社参拝に対して批判的な記事(日中関係を懸念する内容)を書いており、例えば下記のような報道があります。


『欧米の主要紙は18日、小泉首相靖国神社参拝に関する記事を掲載、日中関係の悪化に懸念を示した。米ニューヨーク・タイムズは「無意味な挑発」と題した社説で「総選挙で改革者として印象を与えた首相が今回は、日本の軍国主義の最悪の伝統を公然と奉じる態度を示した」と批判。「中国が日本の重要な経済パートナーとなろうとしている時期に、周辺諸国に過去の悪夢を思い出させることは誤っている」と指摘した。米ワシントン・ポストは「参拝は東アジアで日本を孤立させる」との専門家のコメントを載せた。仏ルモンドは小泉首相が「心の問題に他人が干渉すべきでない」と発言しながら、国会答弁で極東国際軍事裁判の判決の有効性を認めていることなどを紹介。「日中の外交関係は最も悪い状態にある」と解説した。』(http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20051019AT1C1800718102005.html


  このような内外メディアの対照的な対応姿勢から透けて見えるのは、まさに日本政府による「意図的広報戦略」(メディアコントロール)の道具と化してしまった、現代日本の「内向したメディア事情」です。そこには、グローバルで、しかも真に民主的・客観的で公正な視野で日本の国益や本物の日本の伝統や愛国心を論じようとする視点が殆んど見られません。そのための作為的な前哨戦であったとも言える「9.11小泉・郵政リフォーム劇場」の大騒動(メディアが先頭に立って引き起こした)を重ね合わせると、その姿があまりにも明治末期(日露戦争前後の頃)の「徹底的に牙を抜かれて政府の広報機関化したメディア事情」にソックリ重なることに不気味さを感じます。これに、人権擁護法共謀罪関連や国民投票法関連の更なるメディア規制の動き、改憲論議教育基本法改正の動向などが追い討ちをかけており、更に不穏な空気が漂い始めています。