toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

本郷 新『わだつみ像』がある晩秋の風景(札幌・宮の森周辺)

晩秋の空気に包まれた北海道(札幌)から帰ったばかりです。

札幌・宮の森の小高い丘の上にある「本郷新・彫刻美術館」が色鮮やかな赤や黄色の枯葉の森にひっそりと佇んでおり、これがとても印象に残りました。ここには有名な二体の「わだつみ像」の一つがあります(http://www.sapporo-mos.org/)。

そういえば、2〜3ヶ月前の「NHK新日曜美術館」が「本郷新の芸術」とこの『わだつみ像』を取り上げていました。平和祈願のシンボルとして名高い本郷新の「わだつみ像」のひとつが、豊かな自然風景の中で揺らぐことなくシッカリと立っていました。

一時、札幌在住時代のtoxandoriaは、わりとこの近いところに住んでいたことがあるので、なおさら感慨深い光景でした。

この名高い彫像の一体は、1950年8月に完成して11月に東大構内に建立させる予定でしたが、大学当局の許可が下りなかったため行き場を失い、結局、それを受け入れたのは学生たちの意をくんだ立命館大学総長末川博で、それは1953年に同大学構内に設置され、今、それは「立命館大学国際平和ミュージアム」で見ることができます。

一方、札幌の「本郷新・彫刻美術館」にある「わだつみ」像は、本来は北大構内に設置するために鋳造されたものですが、やはり北大の許可が下りぬまま、本郷新の「小樽・春香山アトリエ」で仮の除幕式が行われ、1981年に同美術館が開館すると同時に寄託されたものです。

このようなプロセスにも象徴されるように、日本で平和を語り平和を願うことには、いつものことながら、なぜか辺りを憚るような空気が付き纏い、今でも大きな抵抗があるようです。

<注1>札幌の「本郷新・彫刻美術館」にある「わだつみ」像(画像)
http://web.city.sapporo.jp/feature/photo/04_07_26.html

<注2>宮の森の近くにある円山公園の秋の風景(今回の画像ではありませんが雰囲気が出ています)→http://zhivago2.fc2web.com/photo/maruyama/index.html

今や周知のことですが、肝心のアメリカでは「イラク戦争大義」(開戦理由の虚像)の真相が日ごとに暴露されつつあるようです。そして、アメリカのCIAとフランスの情報機関が、両国政府の深刻な対立にもかかわらず、別ルートで冷静な情報交換をやっていたらしいことも明らかにされつつあります。

今になって、そのことがアメリカのためのバランサー(安全装置)として役立っているのは真に皮肉なことです。

このような情報機関の暗躍の是非論はともかくとして、今、我われは民主主義の歴史を重く受け止めている国々の国家理念と国家ガバナンスの重層的な働きを見せつけられることになりそうです。

また、“とても分かり易い日本の小泉劇場に比べると、それは混迷の愚かな政治だ!”と日本の大方のマスコミが冷笑の対象とし揶揄するドイツについても然りです。

決してドイツは混迷の中で右往左往している訳ではなく、米仏とは異なった形で近代の歴史のリアリズムを重く受け止め、その反省の上に立って、漸く手にした民主主義を必死に守ろうとしているのだと思います。

これに比べると、安直なネオコンイデオロギーの受け売りでしかあり得ない“新自由主義思想”(市場原理主義)だけが頼りの我が「小泉劇場」は、三文小説よりも薄っぺらな有様です。

そこでは何の国家ヴィジョンも語られることがなく、上辺だけの“カイカク・カイカク”というワンフレーズ・ポリテクスが浮かれているだけです。それはまるで“張りぼて民主主義”です。

歴史の反省も、民主主義と人権の崩壊に対する危機意識も、未来を照らす理念も倫理観も哲学も・・・そこには内実となるようなものが何もなく、実に荒涼とした光景が拡がるばかりです。

それは、マスコミを広報機関化して大方の国民を煙に巻くことしか能がないようです。大方のマスコミは、きついばかりで金儲けにならない「批判力の発揮」よりも「安逸な大政翼賛」を貪るばかりとなっています。

しかし、平和を語り継ぐのは未だまだこれからです。今からが肝心な時代になると思っています。

数知れず次々と降リ落ちてくる枯葉の擦れる音が、一瞬、まるで時雨のように聞こえた晩秋の北海道の印象です。