toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「戦争」と「平和」のリアリズムから遊離する日本

  自らの激しい痛みを伴う難病との闘いの体験を踏まえた科学者の目を通してユニークな般若心経の理解に到達した柳沢佳子氏が、著書『生きて死ぬ智慧、心訳・般若心経』(小学館)を出版して話題となっています。かつて、この柳沢氏が人間集団に付き纏う「内集団・外集団偏向」と絡めて「戦争と平和」について語ったことがあります(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050417/p1)。

  この「内集団・外集団偏向」は人間特有の固定観念だと考えられており、それは、ある集団内で濃縮された共通感情が外部の人間に対して必ず攻撃的になる傾向があることを指します。そして、柳沢氏によると「内集団・外集団偏向」、「残忍性」及び「プライド」という三つの感情表出は人間の本性に深く根ざすので簡単に取り除くことは難しいと言っています。このような人間性に纏わるおぞましい側面について、我われは経験的・主観的にある程度は納得するはずです。そして、このような人間性の根っこにあるものが「戦争」の原因となっていると考えることができそうです。

  一方、米国アーカンソー州立大学の軍事教授であるデーヴ・グロスマン氏は、第二次世界大戦で実際に戦争を経験した膨大な数の元兵士たちへ克明な面接調査を実施して研究を積重ねたところ、ほとんどの人間の内部には同類たる人間を殺すことに対する「強烈な抵抗感」があることが分かったと述べています(参照・同上、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050417/p1)。

  グロスマン氏は、この論を詳しく書いた著書『戦争における殺しの心理学』(筑摩学芸文庫)の中で次のように語っています。・・・人間を殺すことに関して「強烈な抵抗感」を持つ初年兵たちも心理学的に工夫された一定プロセスの訓練を受ければ戦争で人を殺すことができるようになる。しかし、そのようになった場合でも、実際の戦場では上官の命令がなければ彼らは殆んど発砲できない。・・・途中略・・・彼らは「イーリアス」に登場するどんな人物にも劣らぬ偉大な英雄たちだが、それにもかかわらず、本書で語られる彼ら自身の言葉(克明な面接調査の結果)は「戦士と戦争が英雄的なものだという栄光の神話」を打ち砕くのだ。他のあらゆる手段が失敗して、こちらにその「つけがまわって」くる時があることを、そして「政治家の誤り」を正すため、または「人民の意志」(政治家やメディアに扇動されて高揚したポピュリズムの意志)を遂行するために、自分たちが戦い苦しみ死なねばならぬ時があることを、兵士たちは理解しているのだ。・・・

  つまり、現役の軍人でもあるグロスマン氏の結論は、個々の人間が持つ本性の7〜8割は「平和」的なものだということになるようです。これは、一見すると、柳沢佳子氏の慧眼が見抜いた「人間性の本質」(人間性のリアリズム)と矛盾するかのように見えます。しかし、“人間性の中には、他の動物の本性とは根本的に異質な部分が存在する”ということさえ理解できれば、一見すると矛盾に見えるかも知れぬ「人間性の本質」についての根源的実相がリアルに見えてくるはずです。そのためには、人間と他の動物との最も大きな差異は何かを問うことがヒントとなるでしょう。その答えは、人間が経験や歴史等の体験から学んだ知恵や環境条件等との相互作用の坩堝の中で自らの性質(人間性)を絶えず変化させることが可能だということです。それを言い換えれば、人間には、自らが住まうエコロジー環境(生態系及び周辺との人間関係などを含む広い意味での環境)と自らの人間性の双方を絶え間なく改良・改変する能力が備わっているということになります。更に、このような人間性についての見方は次に述べる「民主主義の本質」についての論点(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050727)とかかわってくることが理解できるはずです。

  現代における民主主義国家の本質を考えると、次のような二つの相矛盾した性質が見えてきます。これはアンドロジナス(Angrogynous/雌雄同体)かローマ神話ヤヌス神(Janus/頭の前後に反対向きの顔を持つ姿がイメージされる、物事の始まりと終わりの神)に喩えることができる相矛盾した性質です。しかも、生身で生きる無数の国民(人間)を統治する国家は、このように特異な性質があるからこそ生き長らえることが可能だとも言えるのです。それが活力ある民主主義国家の生存条件でさえあるのです。

(A)多数決原理に従う民主主義国家には、ある階級(階層集団)の他の階級(階層集団)に対する支配の手段と化す性質が絶えずつき纏っている(この性質は、強弱の立場が変われば逆に作用する)。そして、この性質が一方的に強く出過ぎるとある階級(階層集団)の利益だけが傾斜的に追求されるようになり、国家の全体構造のバランスが崩壊する。

(B)多数決原理に従う民主主義国家には、ある種の理想(特定の国家理念、または国家ヴィジョン)に基づく社会秩序を確立して、すべての国民にとって「公平な公共の福祉」を目指すという役割が求められる。

  必然的に、ある国家がこのように相反する二つの性質を伴はざるを得ないことは、恰も“絶えざる生と死の葛藤”の中から新しい生命と新たな活力が次々ともたらされる「生命誕生・生命維持の原理」に似た性質だと見なすことができるかも知れません。従って、そのように相反する矛盾した性質の存在そのものが問題なのではなく、この(A)と(B)の二つの矛盾した性質が国民一般の視野(または意識)から消え去ること、つまり国民一般が、これらの性質が並存する現実(リアリズム)を自覚できなくなることが国家にとっての本当の危機なのです。

  このような時に現れる現象が「政治の分かり易さ」ということです。例えば、それは「ヒトラーナチス政権」や「スターリンの粛清政治」であり、あるいは「ブッシュ政権テロとの戦い」であり、カイカクと脂粉と過剰宣伝に染まった「劇場型の小泉政治」なのです。つまり、国民一般やジャーナリズムから大方の表立った批判精神が消え去ってしまうことが、このように深刻な体制の危機を国家にもたらすことに直結するのです。そして、そのような時にこそ国民一般の「自由」と「平等」が失われ、その国の「民主主義社会」が崩壊する危機が迫ってくるのです。

  さて、このような国家体制に危機が迫る時に必ず現れるのが「戦争」と「平和」の選択という問題です。特に日本の場合に特徴的だと思われるのが「戦争」と「平和」についての“観念論的理解”(というより、他人事としての理解?)という問題です。まず、表記のグロスマン氏の著書を読むまでもなく(グロスマン氏は、この問題を目を背けたくなるほど血生臭くリアルに詳述しています)「戦争」とは「人殺しのこと」です。平時に「人殺し」をやれば殺人罪に問われますが、「戦争」は「合法的な人殺し」であり、ジュネーブ諸条約(http://www.jda.go.jp/j/library/treaty/geneva/)に違反しない限りにおいて、出来うる限り多くの人殺しを実行すれば、その兵士は国家的英雄になる可能性さえあります。

 一方の「平和」も座して与えられる空気のような存在ではありません。それは、我われが過去の血生臭く凄惨な歴史や悲惨な経験の中から反面教師的に、そして具体的に学び取ったものです。従って、その場は寸時の隙と油断があれば、たちまち「戦争の空気」によって占有され、そこから排除されてしまう可能性を帯びた、とてもフラジャイル(Fragile/虚弱で脆く壊れやすい)な「政治状況の一種」だと言うことができます。言って見れば、それは恰も「エントロピー増大の法則」のようなものです。我われが「平和」のためのエネルギー注入の労力を少しでも惜しむや否や増大する機会を虎視眈々と狙っていた「戦争」のエントロピーが急侵入してくるという極めて急迫した政治状況の問題です。

  このような意味で、「平和」も単なる観念論の問題ではあり得ません。しかし、我われ日本人は、この「戦争」と「平和」の問題を日本の伝統文化・愛国心・宗教観などの諸観念と安易に結びつけて、あまりにも観念的にロマンティックに納得させられてしまう思考回路が恰も日本民族の遺伝でもあるかのように思い込まされています。このため、11月22日の結党50年を祝う党大会で自民党が発表した「憲法改正案」の危うさに大方のマスコミも国民一般も気がついていないようです(マスコミは大政翼賛で知らん振り?)。この案の「戦争」と「平和」に関する問題点をクローズアップすると次のようになります。

●第9条1項(平和希求と戦争放棄)は残す。
●第9条2項(自衛軍の保持、その最高指揮者=内閣総理大臣
●第96条(改憲手続きの緩和/賛成2/3→1/2へ緩和)
●第20条3項(政教分離の原則の緩和)
●前文(国民に「愛国責務」を強制)

  これらの中で、当憲法草案が狙っていると思われる最大の課題は「第9条2項の自衛軍の保持」、「第96条の改憲手続きの緩和」及び「前文の愛国責務の強制」の三つです。この憲法草案の巧妙なトリックは、国の環境保全義務(第25条2)、犯罪被害者の権利(第25条3)、「知的財産権の付加」(第29条)など、ごく当たり前の諸権利等を付加するというオブラートで、この三つの問題点をカムフラージュしていることにあります。従って、これらの周辺的な要素を取り除くと、自民党案の狙いは「本格的な軍隊である自衛軍を創設して、“いざ鎌倉の場合”は愛国の責務を国民へ強制する形での徴兵を容易にすることであり、そのために改憲改正の手続きも簡素化する」ということが考えられるのです。更に、これに関連する国民投票案でも、投票前のマスコミ規制に加えて、憲法草案の個別条文についての賛否ではなく、このような改正案全体を一括する形で賛否を問う方式が検討されており、この点でも核心部分(日本を戦争が出来る国に変えようとする意志が政府・与党にあること)をカムフラージュする意図が窺われます。

  現在も、わが国では分かり易いと大方のマスコミが評価し、大方の国民がそれに追随する「劇場型の小泉政治」に対する一般国民の支持率は高止まり(60%前後)で推移しています。が、その基層では反民主主義的・軍事国体論的な「自民党憲法改正案」や関連する「国民投票法案」が提示され、治安維持法的な「共謀罪関連法案」が繰り返し繰り返し国会へ提案されています。しかし、海外へ目を転じると4年前に「劇場型の小泉政治」をつくるきっかけとなったアメリカの「ブッシュ政権」は、イラク戦争開戦の大義が、「CIA工作員名漏洩事件」関連の展開でますます怪しくなってきています。それは、今やイラク戦争の開戦を急いだブッシュ政権による“情報操作事件”(ブッシュ政権アメリカ国民と世界の両方を欺いた可能性が高くなっている)へ発展しつつあります。また、関連取材にかかわった米紙記者の「報道倫理」を問う声も高まっており、この全米を揺るがす「CIA工作員名漏洩事件」の独立検察官による捜査は、報道機関とワシントンの不明朗な関係を炙り出そうとしており、急激な支持率の低下に悩むブッシュ政権は、ますます窮地に陥っています。

  約4年前の「2001.9.11.NY同時多発テロ事件」を契機として始まった、同じ「テロとの戦い」に取り組む日米両国の民主主義のいずれが健全に機能しているかという点について、我われ一般国民は、今こそそれを自分の問題として十分に考量しなければならないようです。また、ごく最近まで“ブッシュのポチが小泉首相である”とすれば“戦時体制下のアメリカのマスコミはブッシュの奴隷に近い存在”でした。しかし、我われはその同じアメリカで「CIA工作員名漏洩事件」を契機にマスコミと一般国民が急速に目覚めつつある現実を直視しなければなりません。国の政治が混沌として分かりにくくなる一方で、肝心のアメリカでは民主主義そのものの危機を回避する動きが急展開し始めています。これらの国々の問題の在り処は全く別次元ですが、ドイツの政治状況、フランスの政治状況、イギリスの政治状況についても同様の政治を巡る動きが胎動し始めています。これらの国々も見かけ上の政治状況は分かりにくく混沌としており、見方次第では大いに混乱しているようですが、その基層ではそれぞれの国の民主主義が、より健全化する方向へ向かい始めているようです。

  このような日本と米・独・仏・英各国の民主主義に関するガバナンスの違いが生まれる(いざと言う時になると健全な民主主義を維持しようとするバランサー(安全装置)が作動する)決定的な理由を挙げるとすれば、それは、やはり「戦争」と「平和」に関する理解の仕方が根本的に異なるという点にあるようです。既述したとおり、日本におけるその理解は依然として観念的・抽象的(60年前に大戦を経験したにもかかわらず)なレベルで止まる一方、欧米のそれは極めてリアルなものだということです。例えば、ヨーロッパでは言語・文化・社会構造などが異なる諸民族の間で度重なる血みどろの戦争が勃発しており、その都度、彼らは数多の殺人(戦争)と戦争状態停止(平和)のための交渉を数限りなく繰り返してきました。しかし、ヨーロッパの人々は、その殺し合いと妥協・交渉の連続の中から「戦争」を防ぐために「条約・国際法・法の支配の原則・自由・平等」(これらの総体が平和)などの価値観をリアルな知恵として集積・進歩させてきたのです。アメリカ人も基本的には、このようなリアルな価値観をヨーロッパ人との間で共有しています。ただ、現代においては、アメリカのグローバリズムブッシュ政権の場合はユニラテラリズムと過剰な市場原理主義)とヨーロッパのローカリズム(地域文化重視主義)が異質な価値観としてクローズアップされ、対立する様相を強めている訳です。

  先に述べた「民主主義国家の本質について仮設される(A)、(B)の二つの相矛盾した性質は、このことを別の観点から論理的に捉えたものだと考えることができます。より端的に言えば、(A)は「民主主義国家のエンジンは複数の階層集団間での覇権競争のサイクルだ」ということであり、(B)は「民主主義国家の究極の理念は公平な公共の福祉の実現だ」ということになります。いわば、この相矛盾した二つの性質が切磋琢磨することによって民主主義国家の経験的な意識レベル(歴史的な知恵のレベル)が向上することになり、万が一にも危機的な政治環境が発生した場合には強力な批判勢力の存在を前提することによって混乱のバランスを回復することになります。そして、その批判勢力こそがジャーナリズムとしてのマスメディアであり、批判力を備えた一般国民の存在ということになります。現在のブッシュ政権が窮地に追われながらも、却ってアメリカの民主主義が蘇生する可能性が高まっていると言えるのは、そのような訳によるものです。言わば、この(A)、(B)の性質の存在は民主主義国家のフェイルセーフ(民主主義の生命維持装置)のようなものです。

  ともかくも、欧米各国は「戦争」(殺し合い)と「平和」(妥協・交渉)が連続した「実在的な存在」(リアリズム)であることを自覚しており、60年前の大戦をその総仕上げの意味で捉えています。つまり、彼らは過去の歴史から学んだ現在までの知恵のレベルで「戦争」と「平和」をリアルに意識し、理解しているのです。このような点に比べると、現在、日本人の一部で自らの歴史的な誤りの部分を無視し、直近の世界大戦から学んだはずの知恵を放棄するまでして、執拗に抽象的・観念的な軍事国体論(軍国主義国家)を復活させようとする動きがあることは真に嘆かわしいことです。このような観点から見ると、訪米中の石原慎太郎東京都知事が11月3日にワシントンの米戦略国際問題研究所(CSIS)で講演した折に、「市民社会(=民主主義社会)を持つ米国は戦争で中国には勝てない」と指摘したことは嘆かわしくもあり象徴的でもあります。おそらくアメリカの関係者は、アナクロニズム(古風な観念論、懐古趣味)で余計なお世話だと思ったことでしょう。

  このように見てくると、自民党が今回のような軍事国体論の復活を仕込んだ「憲法改正草案」を掲げる一方、「共謀罪関連法案」等の治安維持法的な法整備の連打で右ねじを巻き続ける「小泉劇場」(しかも、それは大方の国民にとって“分かり易い”安定政権!)の下で日本の民主主義のバランサー(安全装置)、別に言えばフェイルセーフ(民主主義の生命維持装置)が破壊されつつあります。しかも、そのことについて国民の自覚が希薄だという意味で、日本は「戦争」と「平和」のリアリズムから遊離する危機的な政治環境に突入したと思われます。