toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

(暴政)小泉流「自己陶酔の美学」がもたらす日本ファシズム化への誘惑


  今、わが国では左右の立場の違いを問わず、得たいの知れぬ異様な不安感がジワジワと広がりつつあるようです。その一つの表れが「文芸春秋、12月号」に、関岡英之氏の記事「警告リポート、米国の日本改造計画年次改革要望書」が掲載されたことです。周知のとおり、雑誌「文芸春秋」は、理知的なスタンスに立つ我が国の代表的保守ジャーナリズムの一つです。このような雑誌までが「年次改革要望書」を大きく取り上げたということは、流石に日本の保守本流の一角も小泉劇場の「自己陶酔の美学」に危機感を持ち始めたことが窺われます。小泉劇場に政治理念がカケラ(欠片)もないことは、かなり以前から多くの人々が指摘してきたとおりです。その代わり、そこで大きく目立つのが小泉流の「自己陶酔の美学」であることも、多くの人々によって指摘されてきました。


  この「自己陶酔の美学」の核となっているのは小泉氏独特の「異様な情念の塊」です。普通であれば、誰でもが、このような政治のあり方の異常さについて気がつくはずです。しかし、この異様さがかつての日本の政治の世界では見たこともないほど珍奇なものであったため、多くの人々の目には却ってそれがフレッシュ(新鮮)なものと映ってしまったようです。結局、小泉劇場マーケティング論が得意な手足れの黒子たち(小泉ファミリーの人々、御用学者、保身官僚、広告・メディア関連のコンサルタントなど)は、その注目度に悪乗りする形でテレビ・新聞などのメディアをフル動員して「一見すると分かり易い、大衆受けする政治」を演出することに成功したのです。その結果、今頃になって、左右の立場の違いを問わず得たいの知れぬ異様な不安感がジワジワと広がるような事態に至った訳です。


 その不安感を具体的なコトバに翻訳してみたものが、2005.11.14付の当ブログ記事「『小泉劇場』が犯した七つの大罪/「ポスト小泉体制」を批判する心構え」でまとめた「『小泉劇場』が犯した七つの大罪」であり、それに補足を加えた形で再録すると下記のとおりです。本日、京都で日米首脳会談が行われ、小泉首相ブッシュ大統領から大変なお褒めの言葉を授かったようですが、特にブッシュ大統領が(1)、(3)、(7)の見事な成果については相好を崩したことが想像されます。


(1)盲目的に「自由主義思想」に心酔し、隷属的対米関係を一層深刻化させた/郵政民営化など「年次改革要望書」の忠実な実行(日本における市場原理主義の社会的深化の促進)と「日米軍事協力体制」の強化が主柱となる
(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050829


(2)政教分離の原則を蹂躙し(複数のカルト宗教的要素が国政の中枢を侵食)、維新期〜太平洋戦争期のファシズム的熱狂(神憑りの軍事国体論)を引きずるナショナリズムの流れを国政の中枢へ呼び込んだ(この象徴が靖国神社参拝問題)


(3)日本国憲法の「授権規範性」を蹂躙(非武力的クーデタ)することによって出来た「衆議院・2/3与党絶対安定」体制


(4)「改革の美名」の下で成果を上げ得ぬばかりか、財政赤字額・約250兆円を増加させ国家危機を深刻化させた


(5)「政治的倫理」を冒涜し、日本の政治を下卑たポルノクラシー・レベルまで低下させた(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050829


(6)「非合理な外交」によって、世界の潮流の中で日本を孤立化させた


(7)青少年及び弱者層に対する愛情(慈愛の心)が足りず、日本の教育・医療・福祉環境を著しく劣化させた/「市場原理主義の社会的深化」のスーパーモデルと化した「郵政民営化」に次ぐターゲットは医療・福祉分野に絞られている(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050610/p1


  そして、ブッシュ大統領が喜ぶかどうかはともかくとして、これらの大罪の中で最も日本を亡国(日本のファシズム化)へ導く恐れがあるのは(2)と(6)です。小泉氏は、古びて偏狭な神憑りのナショナリズムを煽ること(軍神・靖国神社参拝)にばかり異常なほど自らの「情念」を注ぎ込んでいます。それこそ、実は得たいの知れぬ危機感が頭をもたげ始めたことの大きな要因となっているのです。特に、これが日本の近代史の理解について未消化な国民層や若年層へ与える影響は深刻です。そのことは未曾有の国家的危機(国難)を招き寄せる恐れがあります。つまり、現状のような日本政府の「非合理な外交」によって、世界の潮流の中で、それも特に東アジア世界の中で日本がますます孤立化しているのに、それに無頓着であることが心配な点です。東アジア各国のナショナリズムが一斉に燃え上がれば、必然的に偏狭な日本のナショナリズムも発火することになるでしょう。情念の広野に拡がった大火炎を消し去ることがいかに至難の業であるかを思い出すべきです。


  これに加えて、日本の隠然たる地下水脈ともいえる超右派勢力の後押しがあるかどうかはともかく、「個人情報保護法」の成立に引き続き執拗に「共謀罪」法案を成立させようという、治安維持関連法規を強化しようとする意図が強力に蠢いています。このような右傾化の政治動向と「衆議院・2/3与党絶対安定」体制が、そして特に偏狭なナショナリズムを煽る動きが融合すると、「日本ファシズム化」への道はごく近いものとなります。また、「絶対多数の与党体制をバックにしたお上に異議を申したてることは一切許さぬぞ!」という一般国民に対する見せしめでもあるかのように、官憲が安易に一般市民を逮捕するという事件が続発しています。新しいところでは、沖縄で平和祈念の行脚に参加していた僧侶がささいなことで警察に逮捕され、現在も拘置が続き、接見も禁じられています。これら一連の「安易なプチ逮捕事件」については、下記の東京新聞(11.14付)「特報記事」(★)が詳しく報じていますので参照してください。この記事によると、公安事件を手がける浅野史生弁護士(第二東京弁護士会)が「起訴価値がない事件でも身柄を拘束し、家宅捜索をするのは活動自粛を狙ってのこと。処分保留もいつ起訴されるのか、と委縮させる効果がある。政府が共謀罪などの成立を急ぐ中、現場ではそれを先取りしているということだ」と語っています。


東京新聞(11.14付)「特報記事」/横行する『プチ逮捕』 立川ビラ事件 一審無罪でも
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20051114/mng_____tokuho__000.shtml


  アジア太平洋経済協力会議(APEC)で韓国釜山を訪問中の中国の李肇星外相が、11月15日に「ドイツの指導者がヒトラーナチス(の追悼施設)を参拝したら欧州の人々はどう思うだろうか」との表現で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を非難したとのニュースが流れています。それはともかくとしても、現在の日本の政治・社会状況を見るにつけ“小泉首相ヒトラーに似ている”と言いいたくなります。しかし、こんなことを迂闊に口にすると、必ず、今の状況では“それは違うゾ!”という大きな声が周囲から返ってきます。そうです“違う”のは当たり前です、二人は全く別人なのですから。筆者がこの比喩を度々使うのは、この二人の政治手法があまりにもよく似たところがあると言いたいからなのです。マックス・ピカートの名著、『われわれ自身のなかのヒトラー』(佐野利勝訳、みすす書房刊)の中から、小泉劇場ヒトラー政治がよく共鳴する部分を探すと、次の件(くだり/■)が目に止まります。(これは、下記のブログ記事★でも引用したことがあります)我われは、もう一度、このピカートの名著を読み直して小泉劇場のマインドコントロールから一刻も早く抜け出す必要があるようです。
★「『改憲論』に潜むナチズムの病巣」(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519


[(P.8〜14)ヒトラーの出現を準備するものとしてのヒトラー以前の「いとなみ」]


■この部分は、小泉劇場がテレビの「娯楽化したニュース・ショー番組」や「ワイドショー番組」あるいは「お笑い番組」などを巧みに使って小泉劇場を演出したことを彷彿とさせます。


<・・・(前部分略)・・・「現代人が外界の事物を受け取るやり方はこうなのです」とわたしは言った。「現代人はあらゆるものを、なんの連関もない錯乱状態のままで、手当たりしだいに掻き集めてくるのですが、それは、現代人の心のなかも一種の支離滅裂な錯乱状態を呈していることの証拠にほかなりません。現代人は外界の諸事物に対しても、もはやそれぞれがただ一個かぎりの独自のものとして人間の眼に映ずることもなくなっています。・・・(途中略)・・・従って、何がわが身に降りかかりつつあるかは一向に吟味されない。人々は、とにかく何事かが起こり来たりつつあるという、そのことだけで満足なのです。そして、このような連関のない錯乱状態のなかへは、どんなことでも、また、どんな人物でも、容易に紛れ込むことができるのは言うまでもありません。どうしてアドルフ・ヒトラーだけが紛れ込まないことがありましょう。さて、ヒトラーがそこへ紛れ込めば、どのようにして彼が入り込んだかには気づかれることがなくても、ヒトラーは事実上人間の内部におるわけで、そうなればヒトラーがただ単に人間の心のなかをちょっと通り過ぎるだけで終わるか、あるいは彼が人間の心のなかにしっかり食い込んで離れないかは、彼アドルフ・ヒトラーの手腕しだいであって、もうわれわれ自身でどうこうすることのできる問題ではなくなるのです。・・・(途中略)・・・ラジオはこの連関性喪失の状態を機械的に運営することを引き受けたのである。六時=朝のラジオ体操〜六時十分=レコード・コンサート〜七時=ニュース〜〜〜九時=朝の精神訓話〜〜〜十時四十五分=世界の出来事〜十一時=リエンツイ序曲〜〜〜夜二十二時三十分ジャズ愛好家の時間〜〜これで本日の放送は全部終了いたしました、ということになる。・・・(途中略)・・・しかし、過去の連続性の世界においては、人々はまだ、そのように取るに足りないもの、下らぬものの背後に、偉大なるもの、重大な意義あるものの存在を感じていた。・・・(途中略)・・・ところが、ヒトラーの時代や、それに先立つ時代(主にワイマール共和国時代のこと)においては、およそ空無よりほかには何ものも存在していないかのような有様であった。しかも、その空無は第一次的に存在していたのであって、人々はその空無の場を、偉大なもの、重大な意義あるものがそこから追い出されることによって生じた真空だと感づくことさえ、もはやできなくなっていたのである。>


[(P.177〜181)性欲]
■この部分は、小泉劇場が「政治的倫理」を冒涜し、日本の政治を下卑たポルノクラシー・レベルまで低下させて過半の国民を大いに喜ばせ、誑かした現象を彷彿とさせます。


<・・・(前部分略)・・・現代の非連続の世界では、事情はこれとまったく異なっている。ここでは、性欲はもはや人間の連続性を破壊する必要がない。性欲は、いまさら人間を瞬間的なもののなかへ引きずり込むには及ばないのである。現代の人間は始めからすでに瞬間的なもののなかに住んでいるのであって、そのことによってまた、現代人は性的行為の場面としての世界の構造と同じ構造のなかに生きているのである。一つの世界全体が(現代の世界全体が)性の刹那性、非連続性に合致しているのだ。ここには性欲に対するなんらの抵抗もない。ここでは、まるで自明のことを待ち受けるように、性的なるものが待ち受けられているのだ。・・・(途中略)・・・現代世界において進行しつつあるこの汎性欲主義は、実は性欲の一種の堕落である。それは、現代世界の単なる刹那的な構造から発生した一種の性欲であって、このような性欲は本然的に人間の生理から生じたものでさえもなく、現代世界の惨めな構造から発生したものなのだ。ここでは、精神の相手役たる名誉が性欲から奪い去られている。・・・(途中略)・・・性欲は、今日ではまったく自明のもの、何時でもあるものなのだ・。実際、それは至る所にある。そして、丁度ヒトラーが人々の刹那的な構造によって内包されていたように、性欲は人間たちの刹那的構造によって内包されているのである。要するに、人間が刹那的で、そして無連関的であればあるほど、一層彼は何からなにまで性欲によって支配されやすい状態にあり、同様にまたヒトラーによって支配されやすい状態にあるのだ。・・・(途中略)・・・かつては、人間の顔は身体のなかでも特別の場所であって、そこには精神が肉体を支配しているという“しるし”が刻み込まれていた。そして、顔を構成している物質は、その背後から放射してくる精神の光によって透明にされていたのである。ところが、今日の非連続の世界では、顔は性的なるものによって隈なく浸透されていて、精神は顔から放逐されてしまった。そして、かつては精神が座を占めていた場所(<注>顔のこと)に、今や性欲がのさばりかえっているのである。精神ではなくて、性的なものが、現代人の顔にその“しるし”を印している。多くの人々の顔は、まったく生殖器そのもののように見えるのだ。・・・(後部分省略)・・・>


[(P.182〜183)歴史への破壊的闖入]


■この部分は小泉首相が「自民党をぶっ壊す!」と言って登場したとき多くの国民がヤンヤの喝采を送り、その結果として、今や「日本という国家そのものがぶっ壊れそうになっている」ことを彷彿とさせます。


<ナチの理論家たちは、国民社会主義フィヒテヘーゲルの浪漫主義的な世界国家の理念から導き出そうと試みた。ヒトラーの場合も、ヘーゲルフィヒテの場合と同様に、国家が絶対化されているのであって、そこには確かに関係がある、と彼らは主張したのである。しかしながら、これら二人の哲学者たちにとっては、やはり本当に国家そのもが問題であった。彼らはやはり国家を見ていた。国家は厳然としてそこに存在していたのである。ところがヒトラーは、国家の授けをかりて秩序を破壊するためにのみ、それを利用するだけなのである。ヒトラーが国家を絶対化する場合、彼にとって問題となるのは、国家を位階的秩序から無理やりに切り離すことだ。ただ切り離すことだけが(彼にとっては)問題なのだ。絶対化は彼にとって、万事を切り離すための単なる一つの手段、一つのチャンスであるに過ぎない。ヒトラーは、国家を見る能力(国家を認識する能力)を持っていない。いわんや、それが絶対化された国家であれ、あるいはそうでないものであれ、一つの国家を建設する能力などまるで持ってはいないのである。彼にできることといえば、ただなにものかを切り離すだけだ。これがヒトラーに付着している悪魔(サタン)的な性格である。つまり、ヒトラーにおいては、無理無体に切り離すこと、何物かが秩序から引き離されることだけが意図されている。ヒトラーにおけるあらゆる運動は、すべて破壊の運動なのである。・・・(後部分省略)・・・>