toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「暴動の炎」はフランス共和国への絶望と希望の相克[3]


[フランス共和国の理念]


(1)フランス建国理念のルーツ


  現代のフランスを規定する歴史上のエポックは言うまでもなく「フランス革命」です。そして、この大革命の根本理念である「自由、平等、博愛」がフランス共和国憲法の理念の基盤です。現在の憲法は1958年に制定された「第五共和国憲法」です。フランスの「第五共和制」は、アルジェリア在留軍などの反乱の危機に際して、国家の統一と威信を説き国民の前へ再登場したド・ゴール第二次世界大戦でフランスをナチス・ドイツから解放した救国の英雄)が、1958年6月1日に首相となり全権を掌握したうえで、「第四共和国憲法」を国民投票(同年9月28日)に訴えて改正して発足させた国家体制です。


  「フランス革命」の発端は1787年に王権に対する貴族の反抗で口火を切ったことですが、それが1789年7月14日の「パリ民衆によるバスティーユ牢獄襲撃」に繋がり、やがてフランスの全社会層を巻き込む「大革命」に発展して絶対王政(アンシャンレジーム体制/Ancien Regime)を倒すことになるのです。教科書的な説明では、この1789年の衝撃的出来事から立憲王政の時代、急進的共和政の時代、1794年のテルミドールの反動、そして1799年にナポレオンが政権掌握をする時までの一連のプロセス全体を「フランス革命」と呼んでいます。また、この「フランス革命」のプロセスは、単にフランス一国の政治上の変革であるにとどまらず、絶対王政(及び政治と深く癒着したローマ・カトリック教会による支配)下の前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命であるという意味で、この「フランス革命」は世界中の国々へ多様な形で計りしれぬほどの大きな影響を与えました。このため、「フランス革命」は世界史上で「ブルジョア革命」(市民革命)の代表的なものとされているのです。


(2)フランスの「政教分離の原則」の歴史(概観)


  ところで、「自由、平等、博愛」などフランス共和国憲法の理念の根底の、より奥深い所に置かれた礎石があります。それが「政教分離の原則」です。これは、ヨーロッパにおける市民革命の変遷の中で、次第に明確な形で意識されるようになった理念であり、その具体的なあり方は国によって異なりますが、フランスにおける「政教分離の原則」が最も厳格だとされています。それはフランス革命以前のアンシャンレジーム体制の殆んどが事実上カトリックの高位聖職者たちによって牛耳られる仕組みとなっていたことへの反動だとする説もあるようです。それはともかくとしてフランスの「政教分離の原則」のルーツはフランス革命の時に出された「人権宣言/Declaration des droits de l’homme et du citoyen」(1789年8月26日)まで遡ります。そして、 「人権宣言」には、「政教分離の原則」について、おおよそ次のような意味の記述があります。


・・・“国家は人の自然権保全するための永続的に消滅することがない体制”である。また、国家は世俗的目的(今風に言えば公共空間?or市民社会?)を実現するための政治的な団結であり、それは神への喜捨や神の意志(真理)への奉仕にではなく、自由で平等な自律的個人の意思の上に基礎づけられたものである。ここで考えられる個人は、信教の自由を持ち、宗派にかかわりなく平等であることを保障された、そして宗教から解放された世俗的存在(今風に言えば市民?)である。


 現代フランスの「政教分離の原則」を表わすフランス語にライシテ(laicite/宗教からの独立性を表わす言葉/国家体制と市民の公共空間から一切の宗教性を排除することで、逆に市民個人の私的空間の信教の自由を保障するという考え方で移民同化政策などの淵源/英米のほぼ共存型の政教分離の原則や日本の曖昧模糊としたそれとは異なる厳しい定義/特に、小泉首相靖国神社参拝問題などが現実に起こる日本とは対極にある考え方)があり、この言葉が現れたのは1870年代の初めころからです。「人権宣言」(1789)が書かれた後のフランスの政治体制は、後に記述するとおり(参照、「(3)フランス近代史の概観」)、18〜19世紀をとおして共和制、反動体制、復古主義、帝政、共和主義・・・と言う具合で目まぐるしい紆余曲折を繰り返します。概ね、これは最高政治権力をめぐる王党派と共和派の揺り戻しと暗闘の歴史ですが、その根底では常にキリスト教カトリック)と「政教分離の原則」の対立軸が複雑に絡んでいたのです。


  このようなプロセスの終わりの頃、つまり1870年代(第三共和制の時代)になって漸く“政教分離の原則に基づく政治と宗教の具体的なあり方を規定する言葉”としてライシテ(教会権力に対して“世俗的な、俗人の”を意味するlaiqueを名詞化してlaiciteとした)という言葉が造語されたのです。ここで意図されたのは、フランス国内で安定的に政治と宗教が共生・共存することであり、未だその頃は外国から入って来る移民の問題は想定されていませんでした。このライシテという言葉が初めてフランス共和国憲法の中に現れるのは、パリコミューン(1871)後に制定された第三共和国憲法(制定1875)が1884年に改正された時です。


  以下に、これ以降のフランスにおける「政教分離の原則」に関する法律制定関連のトピックをまとめておきます。


1886年「宗教を排除した義務教育と教師の宗教的中立義務に関する法律」を制定


1905年「教会国家分離法」(Loi de separation des Eglises et de l’Etat)の制定
・・・政治的権力者と宗教的権威者との間で双方に重大な利害関係のある事柄について締結される条約をコンコルダート(concordat)と呼ぶ。ナポレオンが、ローマ教皇庁との間でこのコンコルダートを結んでいた。具体的には、フランス国内でプロテスタントユダヤ教徒の長老会議が存在することを認める内容。しかし、この1905年の「教会国家分離法」の制定によって、この条約は破棄された。


1946年「第四共和国憲法」の改正
・・・「フランスは非宗教的、民主的、社会的な不可分の共和国である」という、「政教分離の原則」についての具体的内容が「第四共和国憲法」に書き込まれた。以降、この内容は現在の「第五共和国憲法」にも引き継がれている。


2004年3月「宗教シンボル禁止法」の制定(施行、9月〜)
・・・これはシラク大統領が設置した諮問委員会の勧告を受けて提出されたもの。具体的には、公立学校(私立学校は対象外)の生徒たちがスカーフや、大きな十字架などを身に付けて登校することを規制する内容である。スカーフを外すことを拒否した生徒たちが退学になり大きな波紋を呼んでいるが、フランス政府は今改めて「公共の空間と私的な空間を峻別し、公共空間へ宗教的要素が入ることを禁じることで、私的な信教の自由と市民の平等の権利を守り抜く」という姿勢を内外へ強くアピールしたことになる。この厳しさに対しては内外からの批判も多い。・・・しかし、一方では、アメリカ・ブッシュ政権キリスト教原理主義の影響を受けて民主主義社会の平等な対話のルールを踏みにじり一国主義(ユニラテラリズム/unilateralism)の方向へ暴走して多くの無辜の市民たち(イラク戦争の一般市民の犠牲者は10万人以上とされる、http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Iraq/lancet04oct.htm)を死に至らしめたこと、日本の小泉首相の「靖国神社参拝」が中国・韓国ほか東アジア諸国から顰蹙を買い日本国民の利益が失われていること、あるいは日本の政権中枢にカルトの疑義がある二つの宗教勢力が浸透することで良識ある国民の多くが不安感を持つに至っていることなどの問題を視野に入れると、フランスの厳格な「政教分離の原則」の意義がリアルに理解できるはずである。


・・・新しい動きとしては、ニコラ・サルコジ内相(次期大統領候補)が1905年の「教会国家分離法」を改正してイスラムへの財政支出を容易にすべきだと主張したことが論議を呼んでいる。自らもハンガリー系移民であるサルコジは、現実的政策を柔軟化させてイスラムを保護することによって、彼らがフランスへ「同化」する方向へ国家政策を変更すべきだという考えを表明している(究極的に「政教分離の原則」を破棄して「共存」型の移民政策の方向へ舵を切るつもりかどうか、その点の真意については今のところ不明)。崇高な「政教分離の原則」という理念よりも、このように現実政策を重視する姿勢が、分かり易さを売りにするポピュリズム的人気に繋がって、同じく大統領候補と目されるド・ビルパン首相と国民の支持を二分している。ただ、フランス共和国の最高理念を曲げることで安易にポピュリズムを煽り一般市民の支持を掻き集めるという戦略は、いま日本の「小泉劇場」の末路について徐々に悲観的な方向が懸念されつつあるように、結果的にフランス国民の権利(国民主権)を大きく毀損する可能性があるかも知れない。いずれにせよ、この選択肢のいずれを選ぶかは、新生ヨーロッパの建設者を自負するフランスにとって、拡大EUについての新たな展望とも絡む非常に困難な課題となりつつある。


<注1>フランス革命以前にも、例えば13世紀のスコットランド出身の神学者ヨハネス・ドウンス・スコトウス


(Johanes Duns Scotus/ca.1265-1308/パリ大学教授)の「人間意志(寛容)の神学」、14世紀の聖職叙任権闘争、シャルル7世(Charles7/1403-1461)のガリカニスム(gallicanisme/フランスによる神学的・政治的な教皇権からの独立運動)の振興、アンリ4世(Henri 4/1553-1610)のナントの勅令(1598)、16世紀初頭の福音主義(evangelisme/聖書主義のプロテスタント諸派/いわゆるプロテスタント諸派キリスト教原理主義(Evangelicalism)とは異なる)によるカトリック刷新運動などもフランスの「政教分離の原則」に何らかの影響を与えたと考えられるが、ここでは詳細を省く。なお、ヨハネス・ドウンス・スコトウスの「人間意志(寛容)の神学」については下記のブログ記事★を参照。
★「自由と実践理性の葛藤(1/2)」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050403
★「自由と実践理性の葛藤(2/2)」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050404


<注2>フランスの「人権宣言」(1789)に先立つ「アメリカ独立宣言」(1776/トマス・ジェファソン起草)もジョン・ロック、トマス・ペインらの社会契約説や啓蒙思想に立脚しており、「人権宣言」と同じように「暴政への抵抗権」、「自由」、「平等」などの理念を掲げました。また、1787年に成立した「合衆国憲法」(世界で最初の民主的な成文憲法)も「国教あるいは政府の支持する宗教という概念を拒否する」としています。このように、ほぼ同じような民主主義の理念をかかげながら、その後の歴史の流れの中でフランス共和国は「政教分離の原則」と「平等」を厳格に守る方向へ、アメリカ合衆国は「自由」を偏重する方向へ進み、アメリカの「政教分離の原則」の理念はやや曖昧な方向へ流されてきました。新自由主義イデオロギー(自由原理主義)を掲げる「ネオコン一派」と「キリスト教原理主義政治勢力」の両派に支持されたアメリカ・ブッシュ政権が、2003年に単独での「イラク戦争開戦」を主張したとき、国連を舞台にしつつ国際法を重視すべきとするフランスと激しく衝突することになったのは記憶に新しいはずです。見方次第ですが、これは、「政教分離の原則」(これを徹底して市民社会の平等を確保するという考え方)を厳格に守るフランス共和国と「宗教&自由」の二つの原理主義に傾くアメリカ合衆国との対立であったと考えることができます。いずれの立場が人類(民主主義と資本主義)の未来にとって「光」となり得るかが、今や、ますます問われつつあるようです。


(3)フランス近代史の概観(フランス革命、ナポレオンの没落から現代まで)


  このように「フランス革命」を契機として認識された「近代民主主義の根本理念」の理解について特に気をつけなければならないことがあります。それは、自由、平等、博愛、政教分離の原則、三権分立などの理念は、我われ一般国民(一般市民)の「持続的な批判力」によって支え続けられてこそ生きてくるものであり、さもなければ、いつでもどこでもすぐに消え失せてしまう危険に晒されているフラジャイル(脆弱)な存在だということです。しかし、一見すると矛盾のように思えますが、この憲法の中で唄われる理念は、我われ主権者たる一般国民(一般市民)が、それは我われ周辺の現実社会と脳内表象を繋ぎ止めるリアルなものだと意識し続ける限り絶対に消滅することがない強靭な存在でもあるのです。それはともかく、このようにフラジャイルな「憲法」には二つの役割があります、一つは現実社会の混沌と混迷の中に埋没し、我われ一人ひとりが差別や人権無視の行動に走らぬよう、つまり欲望原理主義の罠に落ちないよう我われの意識を民主主義の根本理念の方向へ引き戻そうとすることです。もう一つの役割は、同時に政治権力者たちがファシズムやポルノクラシーの如き「暴政」へ走らぬよう絶えず戒め異議を申し立て続けることです。言い換えれば、この二つの役割は「憲法」が政治権力と国家主権の行使者たる個人との双方に対して一定の縛りをかけるという意味で、これが広義の「憲法の授権規範性」の役割だということになります。なお、狭義では大統領や首相など最高政治権力者に対する規範的な強い縛りで一定の拘束を加えるという意味があり、これを踏みにじるのが政治権力者による「非武力的クーデタ」です。


  小泉首相が断行した「参議院での郵政民営化法案の否決を受けた2005.9.11衆議院解散・総選挙」は、この観点からすれば紛れもなく憲法違反のクーデタです。それは憲法を踏みにじったこともさることながら、我われ一般国民のリアルな意識の構成要素である「内面のエクリチュール」を踏みにじったという意味で重大な犯罪行為です(エクリチュールの詳細については下記ブログ記事★を参照)。そして、人類は、このように重要な「憲法の授権規範性」の意味に気づくまで紆余曲折の長い時間を必要としました。実は、上で見た「フランス革命のプロセス」も、実際には、もっと長い歴史的時間を必要としたのです。が、このことは一般的に十分理解されていないようです。
★「『小泉H.C.ポルノ劇場』が蹂躙するエクリチュール」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050829


  教科書的な説明では、フランス革命の主要なプロセスは「1789年7月14日のパリ民衆によるバスティーユ牢獄襲撃〜ナポレオン・ボナパルトの政権掌握」までの歴史だとされていますが、この間の展開を見ただけでも「民衆の蜂起〜ポピュリズムと急進共和制の混乱(第一共和制)〜王政復古〜ナポレオンの第一帝政(独裁政治)」という具合で、いわば「フランス革命の理念」が弄ばれるかのように前進・後退の迂遠なプロセスが繰り返されています。しかも、その過程では幾たびとなく凄惨な内戦が繰り返され、多くの国民の血が流されてきました。この後も、ナポレオンの没落(1815)〜七月革命ルイ・フィリップの王政/オルレアン議会制)〜二月革命(第二共和制)〜ルイ・ナポレオンの独裁(第二帝政)〜第三共和制(1870〜1945/普仏戦争〜パリコミューン(サンディカリズム/1871)〜安定期)という激動のプロセスを辿ります。パリコミューンはサンディカリズム(syndicalisme)と呼ばれる史上初の労働者階級による革命政権ですが、これはティエール(第三共和制・初代大統領)の政府軍との間で繰り広げられた凄惨な市街戦を経て70日で鎮圧され、第三共和制フランスは漸く19世紀末頃になって「第三共和国憲法」(制定1875)による民主主義国家を実現したのです。


  この第三共和国体制は、ナチス・ドイツの侵攻に伏した第二次世界大戦中のヴィシー戦時政府(ペタン首班)の時代(パリはナチス・ドイツに侵略され、中部フランスのヴィシーに親独政権が置かれた/一方、ド・ゴールはロンドンで自由フランス軍を組織した)に引き継がれたのです。第二次世界大戦後のフランスは、ピドー連立内閣の下で極めて共和主義の理想に忠実な憲法(第四共和制憲法/初代大統領オリオール)を制定しますが、その後も政局の不安定が続き、インドシナ戦争(1946-1954)・アルジェリア独立戦争(1954-1962)など多くの難問に囲まれてフランスの国際的威信が損なわれかねない危機的状況を迎えました。ここで、第二次世界大戦の英雄ド・ゴール将軍が復帰(第五共和制の初代大統領)し、このド・ゴールが自ら大統領の権限を強化した「第五共和制・フランス」(第五共和国憲法/1958)の時代に入り、大統領の権限を強化して現在に至っています。


  このようにフランス近代史を概観して分かるのは、ある意味で「フランス革命」は今でも続いていると見做すことができるということです。そして、現在もフランスではルソーらの啓蒙思想を色濃く反映した「人権宣言」(1789年8月)の理念(共和国憲法の根本理念となっている)、つまり自由、平等、博愛、政教分離の原則、三権分立などの近代民主主義の支えとなる礎石が「憲法の主要理念」として掲げられているのです。しかし、血みどろの凄惨な戦いが繰り返されたフランス革命など「市民革命」の意義を表層的に理解するのは危険でさえあります。なぜなら、ここで正しい歴史認識と歴史への反省及び憲法の授権規範性の意味などが読み取れない(理解できない)場合、むしろ我われは再び血みどろの戦いの歴史プロセスを繰り返すという煉獄の罠に易々と嵌りかねないからです。それは、喩えれば一般国民が自ら理性的人間であることを止め、過去の歴史プロセスの検証を忘れて、その場限りの刹那的感情や自己中心の欲望と目先の損得計算だけに意識を集中し、あるいは偏狭なナショナリズム動向へ短絡的に反応して「争いや喧嘩モード」(すぐに目先の敵と取っ組み合いや殺し合いを始める好戦的な精神環境)へ容易に嵌るイノシシ、ヒグマ、ドクヘビ、ピラニア、サソリなどの動物たち、あるい右翼・暴力団・ヤクザなど徒党集団の構成員と何ら変わりがないことになるからです。


  このような訳で、これからも人類の歴史は「意識改革(ポピュリズムという名のエントロピー増大へ抵抗するための継続的な啓蒙)の歴史」であり続けなければならないのです。それは、また人間が少しでも「より良い方向へ進化した人間」として生き抜くことでもあるのです。ともかくも、このフランス近代史のプロセスから本物の「改革の意味」を学ぶヒントが見えてきます。今、我われ日本国民は、人類が血みどろの歴史から漸く学び取った民主主義の理念(民主憲法に文字のエクリチュールで記された民主主義の根本理念)を自らが生き抜くための指針として読み直し、確かめ、そして絶えず考え直し、反省する必要があるのです。それでこそ、初めて「政治権力の身勝手な暴走」に異議を申し入れる強靭な批判力が生まれ、我われ一般国民(一般市民)はそのような暴走に歯止めをかけることができるのです。


  2005年11月22日、日本の小泉純一郎首相は都内のホテルで開かれた自民立党50年記念大会で“改革に終わりはない。新しい目標を掲げ、困難な問題にもひるまずに挑戦していく。その意欲が大事だ”と自画自賛の大演説をしました。そして、“今日の大会は斬新な大会だ”とナルシストらしく大いに自己満足し、国民的なチョー人気者(?)である若き杉浦ララ衆議院議員に「ガッツ・ポーズ」をとらせています。どこまでポピュリズムを煽リ続ければ気が済むのでしょうか?相変わらず、ここでは日本の国家理念らしきものは欠片(カケラ)も語られることがなく、「カイカク、モクヒョウ、ヒルマズ、イヨク、ザンシン」などの空疎で軽薄で中身がない言葉が空に舞い上がる一方で、軽率さと軽薄さだけが取り得の自民党のピエロ役、杉浦ララ議員が相変わらずのゴマ摺り音頭とパフォーマンスを繰り広げていました。これが日本の政権与党である自民党の50周年記念大会の「取っておきの出し物」であるのかと思うと背筋が凍ってきます。


  これは、まるで建物の構造計算のデータを偽ったため耐震強度に欠陥がある不良建築物件を何とか買い手を騙して売リつけようとするマンション販売会社のインチキ社長が、社員たちに売上げ増の激しい檄(ゲキ)を飛ばすようなおぞましい光景です。そして、彼らが狙うのは、情報操作が利いて憲法改正の議論が右方向へ大きく傾斜しつつあるのをよいことに、更に世論動向を見据えながら「日本国憲法」の中に存在する「日本国民は持続的に平和を求める」という恒久的な国家理念を実質的に放棄してしまうことです。そして、2005.9.11の「非武力的クーデタで手中にした国民の支持」を人質として、日本国憲法の前文を「本音(軍事国体論)」と「建て前(平和主義)」に分裂した低劣なキャッチコピー(ワンフレーズ・ポリテクス)に書き換える戦略が練られています(軍事国体論については下記のブログ記事★を参照のこと)。
★「『軍事的国体論』を超える日本国憲法の先進性 」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050419


  今の日本では、テレビなど主要なマスメディアが相変わらず「小泉劇場」の余波を増幅してバラ撒くことに精を出すばかりとなっているため、歴史の深みや日常生活における人間の営みの重さなどへの関心が薄れる一方で、社会全体の「生きている立体像」(リアリズム)が見失われつつあるようです。そして、小泉首相が自らのパフォーマンスとワンフレーズ・ポリテクスに自己陶酔して見せると、それに刺激された一般国民の多くが歓喜の声を上げて「更なるカイカクの暴走」を要求するという恐るべき事態に嵌り続けています。今、日本国民の多くは「過去の歴史と連鎖した現実」(生きたリアリズム)ではなく、「目前の出来事だけとしての現実」(ゲーム感覚のようなヴァーチャル・リアリティ)しか見えなくなっています。これは、かつて「アジアの平和のため」というワンフレーズ・ポリテクスに踊らされた多くの国民が東条英機主戦論(日米開戦論)を諸手で支持した、恐るべき過去の失敗を彷彿とさせます。


  ある意味で、このように異常化した日本の政治・社会環境の中で自らも「歴史から知恵を学ぶことの意義」を見失った与党・右派勢力が目論むのは、あまりにもアナクロな「単一の血統を誇る大和民族による軍事国体論」の理念を復活させるということであり、それを先導するのが、現在の日本国憲法の最も重要な根本理念である「政教分離の原則」を失念した(or意図的に無視した)「小泉首相靖国神社参拝」です。また、その絡みで「平和主義の衣で軍事国体論をカムフラージュした自民党の新憲法草案」が発表されています。これは、まことに恐るべきことです。今、「ブールの暴動」絡みの移民問題(厳密に言えば、これは移民問題ではない/移民ニ、三世の世代に当たる若いフランス人たちの就職・教育制度の失敗の問題)で混迷の度を深めつつあるとはいえ、フランスでは「フランス共和国憲法」の根本理念をこれほど安易に放棄しようなどという軽率な動きは見られません(サルコジポピュリズム扇動という打算的な政治戦略の動きはあるが・・・)。一方、日本の政治権力者たちは「太平洋戦争」を挟んだ近代日本の歴史から何も学んでこなかったか、あるは重篤認知症を患っているようです。 


[仏の移民政策] 


(フランス移民政策の概要と現況 )


  19世紀後半から約30年前頃までのフランスでは移民が大量に受け入れられてきました。その主な理由は長期的な出生率低下傾向が続き労働力人口の不足が見込まれたからです。そのピークは「栄光の30年」(1945〜1975年)と呼ばれた第二次世界大戦後の経済成長期ですが、特に1960〜1970年代の高度成長の時代には建築現場・自動車工場・炭鉱など現業的労働力が不足したため積極的にマグレブなどアフリカからの移民労働者が受け入れられました。この頃、彼らの受け入れのためパリなどの大都市の郊外に建設されたニュータウンが今回の「暴動」の主な舞台となっています。当時は必ずしもマグレブだけが住む場所ではなく、南欧系やイタリアなどからの移民も多かったのですが、経済力を身につけたこれらの移民たちは次第に他の土地へ移住するようになり、結果的に、主に経済的理由で移動できないマグレブが長期に済み続けることになり、これらの街区は次第にゲットー化してきたのです。


 やがて不況期に入り移民労働力へのニーズが減り始めると、フランスの移民政策は労働力導入を目的とするものから変質してきました。やがて、1974年には就労目的の移民政策が停止されるとともに、これらの移民たちはフランス社会の中の異質な要素と見做されるようになったのです。その後、フランスの移民政策は幾たびかの法改正の中で紆余曲折の歩みを示しますが、現在は、左翼のミッテラン政権下で1998年に改訂された移民法「シュヴェーヌマン法」が適用されています。が、その前年に可決された移民法「パスクア・ドウブレ法」が移民の滞在許可証の更新を認めないという厳しいものであったため、この頃から「サン・パピエ」(sans papiers/身分証明書を持たぬ者たち)と呼ばれる違法移民(入国者)が増えるようになります。また、1998年に可決された国籍法「ギグー法」は「外国人を親としてフランスで生まれた子供が18歳になれば自動的にフランス人になる」ことを定めました。しかし、これには「5年間フランスに滞在していたことを自ら証明すること」という厳しい条件がついています。


 国立統計経済研究所(INSEE、http://www.insee.fr/en/home/home_page.asp)によると、現在のフランスにおける移民の定義は「外国で生まれ、出世時にフランス国籍を持っていなかった人」ということになっており、別に言えば「出生地と国籍を届け出ることで移民か否かが決まる」ことになる訳です。ところで、現在フランスにいる移民の数は、1999年の国勢調査http://www.focus-migration.de/dokumente/country-profiles/CP02%20-%20France.pdf)によると431万人(人口比7.4%)です。このうち156万人がフランス国籍を取得しております。この他にフランスで生まれた外国人が51万人いるので、結局、フランスにいる国籍を持たない外国人は326万人(431-156+51=326)ということになります。問題のサン・パピエの正確な数は分かりませんが、フランス情報省(L'HEXAGONE、http://instruct1.cit.cornell.edu/~agl1/Hexagone.html)は、その数字を30〜100万人と推計しています。彼らのすべてが不法入国者ではなく、この数字には観光ビザで入国したオーバー・ステイが含まれています。


  このように見てくると、1970年代の後半以降は移民の増加を抑制するというフランス政府の継続的な意図が存在する一方で、観光立国の一面があるフランスでは観光ビザの発行をむやみに抑えることはできず、また伝統的な「移民に対する寛容の国フランス」の理念を取り下げることもできないという状態で、フランスの移民政策が抜き差しならぬジレンマに嵌っていることが窺えます。このように曖昧でどっちつかずな移民政策の中で、シテ(ゲットー)に住む移民「第二、第三世代」(移民ルーツのフランス人)の若者たち(それも14〜16歳位の少年層が中心)による「暴動」がフランスの曖昧な移民政策に追い討ちをかけているのです。


  しかし、視点を変えて、より大きな歴史から俯瞰すると、フランス社会は実に多用な人種の坩堝であり純粋なフランス民族あるいはフランス人なるものは存在しないことに気がつくはずです。ローマ・ガリア時代(BC4世紀頃からフランク王国時代の前半頃)まで遡れば、フランス文化の基層にはローマ人(イタリア半島の人々)がもたらしたラテン文化と土着のケルト文化が融合し、そこへゲルマン文化が流入します。そして、このような民族と文化の坩堝の中から、凡そこの時期の後半(4〜5世紀世紀頃)に、フランク王国ではフランス語圏とドイツ語圏の棲み分けが輪郭を表わし始めます。また、この時代の後半は初期キリスト教の時代でもありマグレブビザンツとの深い繋がりが見えています。一方、フランス文化の基層となっている明晰な哲学・論理学などの高度に磨き上げられた精神活動の伝統は、抽象度が高く洗練された古代ギリシア的観念を受け継いだ人々との間の十分に時間をかけた深い交流活動の積み重ねがもたらしたものです。のみならず、近・現代の哲学・美術・文学・映画・音楽などの分野におけるフランス文化の隆盛のために、例えばパブロ・ピカソ、マルク・シャガール、サミュエル・ベケットアラン・コルバン、ジャン・リュック・ゴダール、ジョルジュ・ムスタキ、イヴ・モンタンシャルル・アズナブールなど非常に多くの移民や難民が多大な貢献をしてきたのです。だから、現在の移民問題はこれからのフランス社会と文化の方向と性格を規定する問題でもあることが分かります。つまり、この移民問題の動向はフランスの伝統である国家的文化戦略の問題にも繋がってくるのです。


<<To be continued in the next number.>>