toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「政教分離の原則」と「民営化」の二大アポリアに苦悩する日本

<注1>「<優勢>民営化」は、「郵政民営化」のパロディーのつもりです。それは、小泉政権が掲げてきた「民営化原理主義」の構造計算ミス(あるいは偽造)で「日本国の構造」が大地震が襲う前に自壊(自滅)する恐れがあるというイメージです。

<注2>アポリア(aporia)とは、原義は“行き先がまったく見えない”あるいは“お先真っ暗である”ことを指すギリシア語です。転じて、解決不能な二律背反の問題、または論理矛盾の壁に突き当たることを指します。

  日本のマスコミ報道で知る限りフランスの暴動は一応沈静化したようにも見えますが、実情はますます混沌としているようです。在仏のブロガー「fenestra」さんの記事(http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20051126)によると、今回の暴動(騒動)の主体は必ずしも一般の移民ニ、三世とは限らず、騒動の主体は住民から遊離して累犯を重ねる少数の逸脱分子(「くず」や「不良」たち)であり、一般の善良な住民や若者たちとはまったく無関係という可能性もあるようです。これが、事実であるとすれば、サルコジ内相が騒動を起こした若者たちを「ごろつき、くず」と呼んだのは適切な表現であったことになります。この点については、いずれ時間が経てば詳しい分析が報告されると思われます。ともかくも、フランスの移民政策は厳しい「政教分離の原則」によって規定されており、その結果としての移民に対する厳しい「同化」の要求が騒動の淵源であることは間違いがないようです。
【注記】「fenestra」さんの引用部分についての補足説明/冒頭の「fenestra」さんの引用部分は、「fenestra」さんが『内務省発表のこの説に疑問を呈している文脈上の部分』ですので申し添えます。つまり、「fenestra」さんが、この説をご支持されている訳ではないことをご留意ください。

  フランスの「政教分離の原則」がフランス革命以前のアンシャンレジーム(旧体制)に対する徹底した反省から着想された共和国の理念であることは、ブログ記事「『暴動の炎』はフランス共和国への絶望と希望の相克[3]」(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20051124)で詳しく述べたとおりです。その同じ原則によって、フランスでは、1989年(ミッテラン大統領時代)の「スカーフ事件」(http://www.kcn.ne.jp/~mo-mo/deki03-4jp.htm)に端を発した大議論が巻き起こり、この問題への法的な解釈上の問題はその後もフランス政府を悩まし続けることになります。そして、長い論争と内政上の混乱が激しくなってきたため、シラク大統領は新しい法律を制定して決着をつけることにします。このようにして、2003年に上下両院で圧倒的多数で可決され、翌2004年から施行されたのが「公立学校における宗教的シンボル禁止法」です。これで、公立学校でのスカーフの着用が法的に禁止されることになった訳です。これが、更にイスラム教徒の女子生徒たちの大量退学事件を連発したことは周知のとおりです。

  何故にフランス政府は、これほど「政教分離の原則」を厳しく適用しようとするのでしょうか?それは、小泉首相の「靖国神社参拝」に関して、大方の国民が寛容な見方や態度を示す日本では想像もできないほどの厳しさです。一つ考えられるのは、宗教に対するかかわり方がフランス人と日本人では根本的に異なるということです。日本人の宗教観が、まるで多神教アニミズムでもあるかのように神道、仏教、キリスト教などを季節感に応じて適当に使い分ける、例えば「初詣(神道)、葬式(仏教)、クリスマス(キリスト教)」という具合である一方、フランスでは今でも信仰心が厚いキリスト教徒が多くを占めているため、彼らは日本人のように複数の宗教を季節に応じて使い分けるような器用なマネはできないし、それは許されることでもありません。つまり、殆んどのフランス人は、私生活においては今でも熱心で厚い信仰心を持つ敬虔なキリスト教徒なのです。

  実は、この点にこそフランス人の厳しい「政教分離の原則」の秘密の一端を垣間見ることができるのです。つまり、フランス人は、「フランス革命」を経て恰も「アンシャンレジーム」に対するアンチテーゼのような意味合いで、この「政教分離の原則」をフランス共和国憲法の根本理念へ取り入れることを着想した訳ですが、そのとき彼らが考えたのは『フランス共和国では、宗教が政治へ介入してはならない』ということであり、『フランスでは、政治が宗教へ介入してはならない』ということではなかったのです。これが、日本国憲法の場合には逆の解釈になることが分かるはずです。つまり、日本では『介入する行為』の主体(主語)はあくまでも『政治』であり、決してそれは『宗教』ではあり得ないのです。言い換えれば、フランス人は私的生活がドップリ宗教(キリスト教)に漬かっているからこそ、その宗教が『政治の作用を受け止めて国民の平等を実現すべき公共空間』へ介入して、国民の間の利害関係などを左右してはならないという訳です。そして、このような考え方(日本とはまったく正反対の考え方)こそが、貴重な歴史的経験である「フランス革命」を経たフランス共和国の重要なアイデンティティなのです。

  しかし、今、このフランス共和国アイデンティティが「移民問題」という世界規模の変化要因(グローバリズムの影響)を受けて揺さぶられつつあるのです。しかし、よく考えてみればフランスの移民問題は過去の「フランス植民地時代」にかかわる問題でもあるのです。従って、かつて「フランス革命」で「アンシャンレジーム」の歴史を乗り越えたように、今、フランスは勇気をもって「フランス植民地時代」と対峙し、再び、その歴史を果敢に乗り越えることが求められているのです。ここで、注目すべき点は、フランスが「政教分離の原則」という、いわば「フランス共和国憲法」の根幹に当たる理念を決して曲げようとはしないことです。また、この「政教分離の原則」への厳しいこだわりは、一歩誤ればフランスの現政権を揺さぶる問題であるに止まらず、拡大EU建設と全欧州のリーダーであることを誇りともするフランスの威信を大きく傷つける可能性があります。しかしながら、今、フランスはあらゆる英知を結集して民主主義の根幹(フランス共和国憲法)を守りつつ、一般国民を巻き込んだ徹底的な議論を尽くす方向へ歩みを進めようとしています。

  翻って日本の現状を見ると、まったくフランスと正反対の政治状況であり、一般国民を蔑ろにしたまま、ますます内向きの政治状況へ嵌りつつあることが分かります。つまり、小泉首相が自ら二度も憲法違反(靖国神社参拝、9.11参院法案否決→衆議院解散・総選挙)を犯しており、特に「靖国神社参拝」問題ではアジアにおける外交的な孤立を深める一方となっています。また、アメリカからの「年次改革要望書」を忠実に実行することに汲々とするばかりで、それをカムフラージュするため「聖域なき構造改革」と「民営化、官から民へ」を呪文のように唱え続けてきました。これら一連の小泉政治の本丸(象徴)だと大見得を切ったのが「郵政民営化」ですが、その行き先も混沌としており視界不良の状況です。それどころか、社会的には耳目を疑うような暗い大事故や面妖な事件が連発し始めており、後を絶つ気配がありません。このところの株高もマネーゲーム的な臭いが紛々としています。

  特に、いま渦中の「建築構造計算の偽造事件」は時間が経つに連れて、その背景が果てしなく政界を含めた闇の世界への奥深い繋がりを想像させる大事件へと変貌しつつあるようです。しかも、この事件の被害者は善良な国民・市民一般なのです。昨日は、関連企業トップの国会における参考人質問が行われましたが、彼らの言動・表情・態度をみるにつけ、国民を小ばかにするという只その一点で、今までの小泉首相の無意味で無責任な国会答弁ぶりにソックリ、瓜二つであることに驚かされました。これこそが「聖域なき構造改革」と「民営化、官から民へ」の総決算なのかも知れません。「政教分離の原則」と「<優勢>民営化」の二大アポリアに苦悩する日本は、これからどこへ向かって行くのでしょうか?