toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「耐震強度偽造問題」を予見したトマス・アクイナスの警告(2)

toxandoria2005-12-17


Aristoteles(BC384-322)
画像出典: http://www.websophia.com/faces/aquinas.html


  経済学を正しく理解するには、それを「第一フェーズ(相/phase)」(特定の者たちの所有に軸足を置く支配的・権力的なフェーズ)と「第ニフェーズ」(平等な分配に軸足を置く民主的なフェーズ)の絡み合いで見る必要があります。そして、米国流の新自由主義思想(新自由主義イデオロギー)に支配された全世界的な政治・経済環境の中で、現代経済学の主流は「第一フェーズ」に属するグローバル市場原理主義となっているため、地球規模で「貧富差の拡大」が進行しています(http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/4650.html)。漸く景気回復の兆しが見えてきた(これは「小泉構造改革」と無関係であることに注意しなければならない/当記事(1)で見た日米の癒着的な金融政策及び財政赤字の深刻さの側面から見ると日本の経済・財政危機はむしろ強まっている)と見られつつある今の日本もその例外ではありません。つまり、我われは循環的な要因等も含めた景気動向に惑わされることなく、現在の「第一フェーズ」に傾斜した主流経済学の主導によって「貧富差の拡大」が世界規模で進んでいる現実から目を逸らすべきではありません。従って、「第ニフェーズ」の経済学の復権を絶えず視野に入れることが肝要なのですが、そこでのキーワードが「公正価格」(justum pretium)です。


  「公正価格」は、主に「モラル・エコノミー」(道徳経済/moral ecomomy)で使われる用語です。現代的な意味でのモラル・エコノミーを主導したのはイギリスの経済学者・哲学者E.P.トムスン(E.P.Thompsom/1924-1993)です。彼は19世紀イギリスの民衆暴動(急速な産業革命のひずみで起こった)の暴徒たちが生活必需品を適正な価格(公正価格)で売る意志をもっていたことを発見して、彼らの動きを「モラル・エコノミー」活動と呼びました。「第一フェーズ」の経済学では、人間は自らの利益を最大にすることをめざして行動すると考えます。しかし、よく考えて見れば我われ一般の人間は、必ずしも、常日頃に利益の最大化ばかりを望んで生きている訳ではありません。日本人の全てが、株式投資、商品相場あるいは不動産投資ファンドなどに血道を上げたり、あるいは「耐震強度偽造問題」にかかわった高名な経営コンサルタント氏のように詐欺的な経済活動に迄のめり込むはずがありません。しかも、まず自分たちが最低限度の条件で生存(生活)することを第一の目的として行動した19世紀イギリスで暴動を起こした民衆の行動の中にも立派な「経済合理性」を見ることは可能なはずです。


  また、イギリスの民衆暴動に先立ち18世紀のアンシャンレジーム時代(ルイ16世の時代)にフランスの農民が起こした「小麦粉戦争」(http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/event/ke.html)でも「モラル・エコノミー」活動が存在したことが知られています。18世紀のフランスは、相次ぐ戦乱(北米植民地での英仏戦争、オーストリア継承戦争七年戦争アメリカ独立戦争の支援など)と貴族に対する年金の増大等によって財政が逼迫していました。しかし、増税政策だけでは限界があるため、財務総監チュルゴーは経済成長政策の一環として穀物と小麦粉の取引を自由化(規制緩和)しました。ところが、この年は天候不順で穀物類が不作となり、1775年に入ると在庫が枯渇します。そこで目敏い投機家たちが買占めに走ったため、小麦などの穀物類とパンの価格が高騰します。そこで、パリ近郊の市場で穀物を買いに来た民衆が価格が高いことに怒り商人たちを脅迫して価格を下げさせました。そして、この騒動は瞬く間にフランス北部一帯に広がったため、チュルゴーは軍の派遣を要請し、漸くこの騒動(食料騒擾)を鎮圧しました。


  フランスの「小麦粉戦争」で特徴的なのは、この食料騒擾を起こした民衆が暴力で奪った穀物を一定の価格で困窮した人々へ販売するという行為が観察されたことです。しかも、この販売代金は市場を管轄する役人のところへ手渡されたのです。この出来事は「民衆的価格設定」と呼ばれていますが、この時、民衆たちは彼らなりの正義感から「一定の公正な価格」を想定していたことになるのです。つまり、彼らは市場の原理(需要=供給の原則)よりも、彼らがそうあるべだきと考える「公正価格」を想定した訳です。別の見方をすると、ここで起こったのは「所有権」と「取引の自由」が「生存権」に従属させられたということです。


  しかも、この時、一部のフランスの役人や貴族たちは、この「民衆的価格設定」を承認し、賛同さえしたのです。なぜなら彼らはトマス・アクイナスにまで遡る「公正価格」の考え方を「正義の伝統精神」として持っていたからです。だからこそ彼らは日頃から民衆の利害に関する意識を斟酌しながら穀物の流通に対して一定の規制を加えてきたのです。アンシャンレジーム時代から一部フランスのエリート層の意識の中に存在していた、このような正義の観念は、その後の革命期を経てフランス共和国市民意識の中へ流れ込み、フランス人の伝統的観念の一部(ディリジスム/dirigisme/モラルエコノミーを実現するため経済活動に対する一定の国家的なコントロールが必要であるとする考え方)となったと考えられます。その後も欧米のエリート層の人々の多くは歴史的教養と伝統的キリスト教精神の中で、このような「公正価格」に関する知識と実践知を様々な形で学び取り継承しています。そして、特に拡大EUを牽引するフランスとドイツは、この種の観念を重視しています。アカデミズムでは、シルビオ・ゲゼル(Silvio Gesell/1862-1930/ドイツの経済学者/参照、http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/index-jp.html)、レギュラシオン学派(フランス発祥の新しい経済学派/参照、http://learning.xrea.jp/%A5%EC%A5%AE%A5%E5%A5%E9%A5%B7%A5%AA%A5%F3%CD%FD%CF%C0.html)などの流れの中に連綿と生き続けています。


  このような、ヨーロッパに存在する「公正価格」の正統な水源と見做されるのはトマス・アクイナスの「公正価格論」ですが、このアクイナスの経済論は、あくまでも「倫理神学」(実践的な神学/神へ到達するための術(すべ)を社会生活の中で実践的に学ぶための神学)であったことを忘れるべきでないでしょう。つまり、アクイナスの経済論が掲げるのは「個としての人間、共同体(国家)、社会秩序」の正しい関係(正義)はどうあるべきかという論点なのです。一方、アクイナスが最も重視したのは、不完全な人間が神へ至る道を歩むにあたり真摯に体得すべき「徳」(人間の品性・品格、人の道/この対極が“獣の道”)の問題です。従って、アクイナスの神学的な経済についての考え方こそが「モラル・エコノミー」の源流だということになるのです。このような「トマス・アクイナスのモラル・エコノミー」を支える正義のフレームは次のようなもの(・・・〜 〜 〜 ・・・)です。


・・・正義は、あくまでも「徳」に関する議論の中で論じられるべきだ。人間の「徳」は、共同体との繋がりがあってこそ確認される。一方、理想の共同体は共同善を体現すべきであり、このような共同体に属する者は共同善へ秩序づけられることになる。個(または部分)としての人間が共同体または他の個(または部分)とかかわる時に正義が問題となる。正義には「全体的正義」と「特殊的正義」がある。「全体的正義」は個(または部分)と全体とのかかわりの問題であり、「特殊的正義」は個(または部分)と個(または部分)のかかわりの問題である。そして、「特殊的正義」には「交換的正義」と「配分的正義」がある。「交換的正義」は個(または部分)と個(または部分)の間の秩序であり、「配分的正義」は個(または部分)と共同体全体との間の秩序である。また、「特殊的正義」は個(または部分)の「意志」によって顕現すべきものであり、「交換的正義」の中核的なもの(概念)として考察されるのが「公正価格」である。そして、この「公正価格」に対立するのが「悪徳」(“獣の道”に堕ちた人々が崇める価値観)である。・・・


  トマス・アクイナス以前にも「公正価格」の問題は論じられており、その最も古い例は古代ギリシアアリストテレスです。アリストテレスは代表作である『ニコマコス倫理学』と『政治学』で交換的正義の一環として「公正価格」を論じています。また、アリストテレスは“他者の利益をめざす体制が正しい体制だ”という前提から徴利(利息を取ること)を禁じています。また、聖書も同胞から金利を取ることを禁じています。一方、トマス・アクイナスより少し後になりますが、13世紀にパリ大学で活躍したスコラ神学者ヨハネス・ドウンス・スコトウス(Johanesu Duns Scotus/ca1265-1274/スコトウスについての詳細は、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050425を参照)は、生産コストをベースにした中庸な「公正価格」(公正な利益論)を論じており、このスコトウスも正統な「公正価格」論の源流の一つと考えることができそうです。


   一方、大航海時代に入り、新大陸からの銀の大量流入によって急激な物価上昇(インフレ、価格革命)が起こった16世紀になると、スペインのサラマンカ大学(創設1218年、世界最古の大学の一つ/http://www.usal.es/web-usal/Ingles/Universidad/Historia/Historia.shtml)のイエズス会派の神学者(サマランカ学派)たちが「公正な価格とは自然な交換(市場での交換)で決まる価格の上でも下でもない」と定義しており、これはその後の新古典派の「限界効用の理論」を想起させるユニークなものとなっています。このため、ハイエクは“資本主義の基盤をつくったのはイエズス会の教義だ”とさえ述べています。なお、このサマランカ学派の経済思想との関連性は定かでありませんが、16〜17世紀の“日が没することなきスペイン帝国”(ハプスブルグ時代)は、エンコミエンダ(encomienda)と呼ばれる収奪的・暴力的で残忍きわまりない植民地政策の歴史を残しており、その象徴的な出来事がF.ピサロによるインカ帝国の破壊と殺戮(1532)です(参照、http://takaya.blogtribe.org/entry-05d12e938183142dfda838dc5e852484.html)。


 ところで、古典派経済学の祖とされるアダム・スミス(Adam Smith/1723-1790)が著書『諸国民の富(国富論)』(1776)で重商主義理論を批判し、国家は経済活動を統制すべきでなく、個人の自由な経済活動こそが「神の見えざる手」に導かれて社会・経済の調和をもたらすと“論じたとされる”ことはあまりにも有名です。ところが、佐伯啓思著『幻想のグローバル至上主義(上)アダムスミスの誤算』(PHP新書)によると、スミスは、モノの価格の決まり方について市場のプロセス(需要と供給)が決定するとは一言も述べておらず、賃金と利潤と地代の通常率を足した「自然価格」という概念を提示しただけだということです。とすれば、スミスは賃金や利潤は職業などに対応して慣習的にある一定の水準を持っていると考えた訳であり、これは「公正価格」に近い考え方だということになります。また、佐伯氏はスミスがハチソン(F. Hutcheson/1694-1749/アイルランド生れの道徳哲学者でスミスに連なるスコットランド学派の立役者の一人)の自由主義神学(一般に正統主義が聖書と教義の客観的な扱いを要求するのに対して自由主義神学は、その歴史的相対性を主張して信仰の実存や精神活動によってこれを解釈しようとする)の影響を受けた道徳哲学者でもあったことを想起すべきだと言います。 

 
<<To be continued in the next number.>>