toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「小泉・年頭記者会見」に透ける「耐震擬装事件」幕引きのシナリオ

(注)この記事は、2006.1.4付『toxandoriaの日記』(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060104)についてのrenshi様からのTB『父権的部族主義の脱構築多神教ヤポネシア:不連続的差異的投資主義へ』(http://ameblo.jp/renshi/entry-10007676335.html)に対するRes内容を加除修正し、新たに纏め直したものです。

小泉首相の「年頭記者会見」(2006.1.4)のスピーチは、その内容があまりにも現実世界から遊離したものであるため普通のアタマでは理解しがたいものでした。先ず、今の経済が少しづつ上向いているのは断じて「小泉構造改革」の成果ではあり得ません。それは真面目な経営者と一般国民が、過酷なリストラと合理化などに必死に耐えながら、血と汗を流して努力した結果です。それにもかかわらず、国民の税収に対する「自らの寄生的立場」を忘れた、あまりにも身勝手で自画自賛に終始することばかりであり、一国を代表する最高権力者の年頭のコトバとしては国際的にも顰蹙ものだと思います。

●なぜなら、自らの「寄生的立場」が浮き彫りとなり国民から大きな批判を受けることを回避するため、政治家と高級官僚の特権(議員年金制度のゴマカシ、天下り数増大傾向の放置、給与・所得水準の高止まりなど、いわゆる政官による膨大な無駄遣いシステム)、250兆円もの財政赤字拡大(利払込、地方・国累計総額1,000兆円超)、極端な貧富差拡大、アンバランスな徴税システム(国民への大増税の押し付け、法人税・高額所得者等の優遇)、劣化する一方の福祉・医療水準、弱者への加虐的政策の推進などについては頬かむりし、放置したまま(関係省庁への丸投げ状態)であるからです。

●また、小泉首相靖国問題に関する中国との関係について「私は交渉の扉を閉じたことは一度もない」と述べていますが、これは“落ちぶれヤクザ(暴力団・詐欺師の類)の論理”です。つまり、自分が火付けを(=相手を挑発)しておいて、「この問題があるから相互の話し合いの道を閉ざしてはならない」というのは相手を小バカにした、見え見えで安直な詭弁です。見方を変えれば、これは一種の恫喝外交です。あるいは、小泉首相の精神構造は、もはや「自分が恫喝行為をしている」ということすら理解(自覚)できないほど悪化しているのかも知れません。一国の首相の精神がここまで劣化し、痴呆化していることは恐るべきことです。

●一方、小泉首相がナルシズム(自己愛)の対象とする歌舞伎の源流は室町期のバサラ者まで遡りますが、今風に言えば彼らはパンク、ヤンキーに類するアウトローたちでした。アウトローは文字通り「反体制派」であり、決して彼らが「体制派」であるはずがありません。ここで、小泉首相(及びその黒子たち)は“巧妙”に庶民感覚を倒錯させ(B級ターゲット戦略などで)、彼らを小ばかにし、健全な神経を麻痺させるトリックを使っているわけです。即ち、自らの超保守的・国家主義的な「本性を巧みに擬装(偽造)」している訳です。

●ところで、これら室町期〜江戸期初期のアウトローたちの思想的な源流を辿ると古代中国の「墨家」(http://homepage3.nifty.com/juroujinn/bokuka.htm)まで遡ります。この墨家の特徴は、人との交わりに徹底的に誠実であることを重視するあまり、必要であれば国禁を犯してでも責任を持って恩義ある人物などに味方すべきだと考えることにあります。つまり、これはズバリ「反体制の意識」です。これが、少し後になると江戸期〜明治期のヤクザ・任侠集団に大きな影響を与えることとなり、当時の庶民たちは、これらの反体制的なアウトローたちに一定のガス抜き的存在として親近感を持つようになります。また、それは現代の庶民感覚の中にも殆んど無意識に近い形で流れ込んでおり、日常的な庶民文化の一部に浸透しています。なお、この墨家の思想は日本の武士道精神の中にも流れ込んでいるようです。

小泉首相(というより、彼の特異なキャラクターを熟知して巧みに操る黒子たち)は、悪辣にも、このようなアウトロー(任侠ヤクザ・暴力団等)に対する日本国民の「素朴なシンパシーの伝統」を巧みに利用しています。しかし、これら現代日本アウトローたちは、一昔前の「仁義」や「弱者への眼差しの価値観」は完全に捨て去っています。現代のアウトローたちは、冷血な「高級官僚と癒着する暴力的&悪徳的政治権力」(国家的詐欺コングロマリット)の一部と化しています。そこにある至上の価値観は、自己の欲望だけに従順な“エゴ”と“冷徹”だけです。もはや彼らは、決して庶民階級がシンパシーの対象にできるような「伝統文化的存在」ではないのです。

●残念ながら、今や、この国家詐欺的な手法で勘違いさせられた一般大衆の多くが“熱狂的に支持”する「強権的政治権力」によって、「耐震強度擬装(偽造)」問題の「強引な幕引き」(具体的に言うと、コンサル以上の上部構造(関連企業経営者・政治家・高級官僚ら)への責任問題の波及の阻止)が行われようとしています。このような「日本国民の勘違いの姿」は、あまりにも悲劇的です。しかも、日本国民の多くが「意図的、戦略的に勘違いさせられていること」(つまり、強権的な政治権力者によって彼ら弱者の立場の者たちが騙され、小バカにされていること)を十分承知しながら、テレビなど主要マスコミが、これを平然と無視する姿はおぞましい限りです。日本の武士道の伝統も地に堕ちたものだと思います。

(参考)なお、「任侠集団」の歴史(及び、その政党とのかかわりの歴史)の詳細については下記ブログ記事(★)を参照してください。

★『シリーズ「民主主義のガバナンス」を考える(4/4)』(toxandoriaの日記)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050405