toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「サルのマスタベーション」化するマルチチュードの世界

  現在の世界の中で、ブッシュ大統領小泉首相が肩で風を切ってみせる姿を見て想像させられるのは「サルのマスタベーション」の“神話”です。今や、世界は「政治が戦争の婢(はしため)」という倒錯した、しかも終わり(=終戦、停戦、講和など)と行く末の展望が見えず、エンドレスの闘争状態、つまり我われ一般市民が、目に見えぬ巨大な権力によって、あらゆる角度から絶対的強制を迫られるという意味で暴力性を帯びた「生政治」(バイオポリテクス、http://www.alpha-net.ne.jp/users2/omth2/biblio/biopolitics.htm)の時代へ向かって突き進んでおり、世界は消耗するばかりとなっています。それは、デーヴ・グロスマンが一定の国際法の下で戦った兵士たちからの膨大な証言を集めて著した名著「戦争における『人殺し』の心理学」(安原和見・訳、筑摩学芸文庫)の知見(下記、・・・〜・・・)ですら古びたものとし葬り去ろうとするかのようです。


・・・兵士たち(その証言が本書の根幹をなしている)は戦争の本質を見抜いている。彼らは「イーリアス」に登場するどんな人物にも劣らぬ偉大な英雄だが、にもかかわらず、本書で語られる言葉、彼ら自身の言葉は、戦士と戦争が英雄的なものだという神話を打ち砕く。他のあらゆる手段が失敗し、こちら(兵士たちの側)にその「つけがまわって」くる時があること、「政治家の誤り」を正すため、そして「国民の意志」を遂行するために、自分たちが戦い、苦しみ、死なねばならぬ時があることを、兵士たちは理解しているのだ・・・


  しかも、日本では、この終わりなき戦争(闘争)状態の中から「二極化傾向(貧富差の拡大)を前提とした「新しいタイプの経済の復活」(=セレブ経済/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060109)が見られます。その本末転倒の倒錯ぶりの実体はまことに恐るべきです。これは、もはや古典的な旧来型の戦争を経済の道具とする「スクラップ&ビルトの経済復興」ですらなく、グローバリズムを活力源とする「二極化傾向(貧富差の拡大)」を前提とした「パラサイト(寄生型)経済」が出現しているのです。このような観点から考察すると、喩えれば、小泉総理大臣が拘る「靖国神社参拝」も「サルのマスタベーション」のように見えてきます。すなわち、小泉総理大臣はブッシュ大統領への忠誠心を示すための「終わり無き戦争への賛同姿勢」とセットで虚妄の「パラサイト(寄生型)経済の復興」を「自作自演」して見せていることになります。


  このような方向を早くから予見していたのが『帝国』(以文社)と『マルチチュード』(NHKブックス)の共著者アントニオ・ネグリhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%82%B0%E3%83%AA)とマイケル・ハートhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88)です。姜 尚中氏(東大教授)の小論『マルチチュードが民主主義を進化させる』(雑誌、月刊・現代2月号)によると、詰まるところネグリ&ハートの言う「マルチチュード」とは、“犯罪やテロを事前に予防するため完全に近い社会統制を実現した世界帝国が、その内部に格差や分裂の構造を包み込みながら恒常的な闘争(戦争)状態を演じることで、『帝国による平和』(Pax Imperia/パックス・インペリーイ)を実現して見せる全地球的な支配体制”のことです。


  その「マルチチュード」にパワーを提供するのが、貪欲にも地球全体を飲み込んだグローバル・ネットワーク型の経済システム(グローバル資本主義)であり、そこでの主役は、IT技術金融工学技術などをフル活用し主にネットワーク上で取引が行われる「非物質的な労働形態」です。そして、ここで最も重要視されるのが「情報」、「知識」、「科学技術」、そして「ユビキタス技術」(http://www.atmarkit.co.jp/fitbiz/column/reg031/reg1.html)であり、更に、それらをネットワークの中で協働的なビジネス情報として表現し交換できるコミュニケーション能力とプレゼンテーション能力が求められることになります。すなわち、「マルチチュード時代」にはこのようにグローバルな分散ネットワーク型の「構成的権力」が世界中の市民たちに対して「生政治型の支配的影響」を与えつつ、雁字搦めに彼らを監視することになります。


  姜 尚中氏は、このようなマルチチュードに「政治的な愛」を夢想して、そこに恒常的な戦争と貧富の格差に病む地球を救う最後の可能性を見てもよいではないか、なぜなら、そこでマルチチュードは「絶対的な民主主義」を実現して「戦争」に抵抗せざるを得ないのだから、と述べています。これは一つの考えであり希望でもあるので、その是非を論ずるつもりはありません。ただ、「マルチチュード」の「生政治型の構成的権力」が、IT技術金融工学技術を活かしつつ地球全体を飲み込んだグローバル・サイバーネットワーク型の経済システム(グローバル・サイバー資本主義)であることから、それが必然的に「パラサイト(寄生型)経済」になるのだという点が気になります。それは、既述のとおり現代日本小泉政権下で起こっているのが「二極化傾向」(貧富差の拡大傾向)を前提とした「新しいパラサイトタイプの経済の復活」(=寄生型セレブ経済)ということだからです。



  そもそも資本主義経済に内在する「寄生」(パラサイト)の問題は今始まったものではありません。例えば、日本の戦後60年の経済発展の歴史を顧みれば、同時に、それは「財・政・官・暴・マ」の談合・癒着構造を育んできた歴史でもあったことが明らかになっています。この「財・政・官・暴・マ」の談合・癒着構造こそ日本に棲み付いた「巨大な寄生(虫)」の姿です。そして驚くべきことには、それが「小泉構造改革」によって、ますます目に付きにくいものとなりつつある(ステルス化しつつある)のです(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/)。また、この他に新自由主義思想に基づく「構造改革政策」がもたらす「二極化傾向」(貧富差の拡大傾向)の助長という問題もあります。ここでは、技術格差及び職業上の業種・業態区分などによる付加価値面での差別化が広がる一方となっています。これはグローバル・市場原理主義による「弱肉強食世界」の問題です。



  更に、科学技術(特にIT技術)と経済学(特に数理経済学金融工学など)及びイデオロギー新自由主義思想、市場原理主義)などの要素が複合的に作用することで、「グローバリズム」の回転速度が急激に速まり、その加速度の制御ができなくなりつつあるという深刻な問題があります。別に言えば、これは、「ユビキタス化社会」というか経済・社会・文化にかかわる凡ゆる領域のデジタル化とスピード化が猛烈に進行中だということです。この「ユビキタス化社会」の特徴を端的に言えば、それは膨大な数の「個別の情報と知識」を高度なIT技術によって瞬時に集約し、処理することが可能であり、その集約し、処理するスピードが止まるところを知らぬ状態へ接近しつつあるということです。ここから派生するのは「リスク恒常性」の問題です。これは、仮に極限まで「ユビキタス化社会」を推し進めたとしても、人間社会からリスクの要因を完全に排除することはできない、それどころか逆に壊滅的なリスク要因の機会が増加するということです。別に言えば、それは「人間の生物としての機能を外化して際限なく機械に頼る生活が、次々と新たなリスクをもたらすのだ」ということです。



  また、これは人工知能研究の分野で明らかになっていることですが、個別の情報と知識の組み合わせを無限に想定し、それをIT技術を駆使して膨大に積み上げ超スピードで処理してみても、そこから生命や自然の普遍性の論理を演繹的に導き出すことはできません。そして、この問題の周辺にはハイテク装備の航空機事故や鉄道事故あるいは医療事故などで指摘されるヒューマン・エラー、地球環境破壊や生態系の汚染、地球資源の浪費と枯渇、バイオ技術と生命倫理など、先端科学技術をめぐる困難な諸問題が次々と発生しています。結局、これらの困難な問題を解決するには「人間の知恵」を創造的に働かせる必要があるのですが、「ユビキタス化社会」のフレームの中で、いくら個別の特殊な事例を無限に組み合わせて考えても、これらの難問を解決するため普遍的な論理を導くことは不可能です。結局、ここで求められるのは、人間・生命・自然などを全く新しい角度から見直すという態度なのです。



  しかしながら、現実に起こっていることはグローバル・サイバー資本主義における「寄生(パラサイト)の問題」が、ますます深刻化しつつあるということです。例えば、アメリカでは「イラク戦争」の陰に「戦争のビジネス化」(=戦争の民営化、http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/mizutairaq.htm)という新たな寄生の問題が芽生えました。ここでの立役者がチェイニー副大統領とラムズフェルド国防長官であることは周知のとおりです。また、日本では「小泉劇場」で「政治の民営化」が進められたことが明らかになっています。そして、ここでの立役者は、御用学者から政権与党の政治家へ転進した竹中平蔵・大臣です。この一端については、ジャーナリスト・佐々木実氏が月刊・現代2月号の記事『竹中平蔵、仮面の野望』で詳細に論じています。



  いずれにせよ、このような「虚妄のセレブ経済」と「パラサイトの増殖」が進むばかりのグローバル・サイバー資本主義世界という現実があるので、今ここで「政治的な愛」を求めるのは時期尚早ということになるでしょう。そして、このような現在の「世界の混迷」を代表する政治状況が日本の「小泉劇場」です。この「小泉劇場」の特徴は、恰もその演技が現実であるかのように見せつけながら、都合が悪いことについては自らが一切無関係であるように振舞う実に巧妙な「自作自演」の演出効果にあります。主にその演出効果を十分に引き出す役割を演じているのがマスメディア(主にテレビ)です。その上、そのマスメディア自身もジャーナリズム精神を放棄して同じような意味での「自作自演」に熱中しています。結局、一般国民がメディアを通して見せつけられるのは「サルのマスタベーション」のような小泉首相のパフォーマンスだけです。その陰では、竹中大臣がせっせと「政治のビジネス化」というリアルな仕事に励んでいます。このような状況では、アントニオ・ネグリマイケル・ハートのシャングリラ(Shangrila≒マルチチュード)も暫くお預けということになりそうです。