toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

日本のマスメディアに欠ける、「政治体制の妥当性評価」の視点

  今、小泉首相は「耐震強度擬装事件」と「ライブドア事件」の火の粉を振り払おうと必死です。しかし、特に『小泉劇場』と「ライブドア事件の共犯の可能性」を指摘されると、小泉首相は、「あれだけ派手にホリエモンを持ち上げたのだから、マスコミも同罪だろう!」という論点のすり替えでマスメディア側を逆襲しています。この構図を客観的に見れば、昨年9月の総選挙で「B層戦略」(参照、http://critic2.exblog.jp/2311417)を仕掛ける側に共に立ち“小泉劇場の幻想”(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050929)を蒔き散らしたという意味では、小泉首相の「マスメディア共犯論」の詭弁にも一理がありそうです。しかし、だからといって憲法違反(参院・否決→衆院・解散)を犯してまで強大化させた政治権力を暴走させ、そのあげくに“ホリエモンを政権側に抱き込み政府御用達のブランドイメージをライブドアへ与えた”ため、結果的に政府と連立与党を信用した国民を誑かし欺くことになり、多くの株取引の被害者を出した『小泉劇場』の大罪が許されるべきではありません。これは、見方次第では国民に対する国家的な詐欺行為です。

  他方、この状況はマスメディアに対し極めて深刻な“「政治体制」の「妥当性評価」(relivance appraisal)”の課題を突きつけています。これはジャーナリズム精神の根幹にかかわることです。なぜなら、マスメディアは取材対象との間で適切な距離を維持してこそ『リアリズムの眼』(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060128)を確保することができるからです。逆に言えば、マスメディアが「政治体制の妥当性評価」の能力を発揮するためには、取材対象との間で適切な距離を保つことが絶対条件なのです。また、アナロジカルに言うとジャーナリズムにおける『リアリズムの眼』の問題は科学研究における「研究方法の妥当性」の確保ということにオーバーラップします。このところ、日本と韓国の先端科学アカデミズムで立て続けに「擬装論文事件」(多比良和誠・東大教授のRNA研究論文問題、黄禹錫・ソウル大教授のES細胞論文問題、http://www.excite.co.jp/News/society/20060127122300/20060127E40.064.htmlhttp://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/50285780.html)が起こっています。現代は、科学アカデミズム(=「科学の知」)にとっても、自らが属する国家または政治体制とどのように距離を保つことができるかを真剣に考えるべき時代となっています。

  国家的なリスク管理と国家ガバナンスの観点からすると、サイバー市場原理主義が覇権を握るグローバリズム時代に評価すべき対象と評価する側が、牧歌的な関係を前提とするのは余りにも危険なことです。仮に、両「擬装論文事件」が発覚しなかったとすれば、これらは東アジアにおける二大国家プロジェクトとして、また全人類に貢献する科学的成果として世界中から脚光を浴び、かつ高く評価され続けることになった可能性があります。その意味で、これは「耐震強度擬装」と「ライブドア粉飾経営&株価擬装」に劣らぬ恐るべき出来事です。そして、これら全ての事件に共通するのが、サプライサイド原理主義的な「カネ」(科学技術の場合は予算・補助金助成金等による研究サポート)をパラメータとする「政治権力側との癒着」という問題です。「ライブドア粉飾経営&株価擬装」の場合は、もしホリエモンらの“粉飾・擬装工作”が発覚しなければ、「コイズミ&ホリエモンの凭れ合い」で加速した『幻想の小泉劇場』が愈々ファンファーレ吹奏の佳境に入り、全国民的な想像を絶する大被害が発生したことが考えられます。

  そして、今、「耐震強度擬装」と「ライブドア粉飾経営&株価擬装」に関して「闇のアングラ勢力」と「与党政治家」(巨魁)の“マネーロンダリングの濡れ場”(前者は国土交通省ルート、後者では投資事業組合を巡るからくり)の存在が急浮上しつつあり(参照■、下記URL)、今後の事件展開が予断を許さぬ状況となっています。今や『幻想の小泉劇場』の舞台裏から背筋も凍る冷気と只ならぬ腐臭が漂い始めているのです(日本の戦後史を画期する大疑獄事件の予感?)。
■『ブログ、日々雑感』、http://csx.jp/~gabana/Zaakan/hibi-new.htm
■『ブログ、岸田コラム』、http://www.kishida.biz/column/2006/20060125.html
■『ブログ、立花隆のメディア・ソシオポリテクス』、http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/060124_taiho/
国交省への関与を指摘 安倍氏秘書問題で鳩山氏、http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=poli&NWID=2006012901000593

  近年は、歴史的都市景観や伝統的な美しい自然環境などをサプライサイド原理主義的な「カネ」以外の尺度で評価するものとして、カール・ポランニー(Karl Polany/1886-1964/ハンガリー出身の経済人類学者、http://cruel.org/econthought/profiles/polanyi.html)の「社会の中に埋め込まれた経済」という考え方が見直されつつあり、それは国家ガバナンスの一つのタイプであるユーロ・コーポラティズム(EU型コーポラティズム、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050602)などへ影響を与えています。一方、経済産業省・情報経済課の新原 浩朗課長(経済学博士)の「日本の優秀企業三十社」を対象とした「優秀企業の条件についての研究」が、コンピュータ・IT・バイオ等の先端技術よりも「経営者のビジョン・伝統的企業文化・企業倫理」などの存在が非常に重要であることを明らかにしたとして注目を集めています(http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/niihara/01.html)。これらの新しい動きは「ユニークな経済社会のあり方」の創発を予感させるだけでなく、「耐震強度擬装事件」や「ライブドア事件」の淵源となったサプライサイド原理主義的な『国家ビジョンなき小泉構造改革』の欠陥を抉り出して見せる可能性があります。このため、日本のマスメディアは「ライブドア事件」での小泉首相の挑発などに乗らず、先ずは竹中平蔵的なサプライサイド原理主義(カルト的市場原理主義)を批判することに狙いを定めて、このような新しい知見を積極的に吸収して理論武装すべきです。

  また、カールの弟・マイケル・ポランニー(Michael Polanyi/1891-1976/物理学者・社会哲学者)が提唱した「暗黙知」(tacitknowledge)についての再検討が行われています。従来、マイケル・ポランニーの暗黙知は経験的に学び取る「相対知」(人間など生物の行動と環境世界とが一体不可分であるという関係論的な理解)と見做されてきましたが、近年はやや異なるアプローチが行われています。その新しい着眼は、「相対知」を集めた知識よりも、人間が「相対知」を獲得する時の「知の発見のプロセスと作用メカニズム」を考察するということです。この考察の淵源は、マイケル・ポランニーに影響を与えたフランスの社会哲学者レヴィ・ブリュール(Lucien Levy-Bruhl/1857-1939/前論理的思考様式の存在の立証を試み、異文化研究に新たな道を開いた)にあります。ブリュールは、未開部族の観察から個人の感情や動機が外界の出来事としばしば同一視される作用に注目し、これを「参加」(participation)と呼びますが、マイケル・ポランニーは、この作用を「dynamo-objective coupling」(動的・客観的結合)と名づけました(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0151.html)。

  この「dynamo-objective coupling」の概念は、例えば、ある科学者が“自らが属する政治体制の影響を知らぬ間に受けて、意識せぬまままに客観的科学が目指すべき真理の姿を歪めてしまうという罠に堕ちる可能性がある”と言うような問題の考察に役立ちます。この辺りはトマス・クーン(T. Samuel Kuhn/1922 - 1996/アメリカの科学哲学者)のパラダイム(paradigm、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0)との類縁性を感じさせます。ともかくも、この考えからすれば、人類共通の真理であるはずの科学が実はアメリカの科学、フランスの科学、ドイツの科学という具合になる可能性が絶えず付き纏っている訳です。ただ、この二律背反的な「dynamo-objective coupling」の中にこそ「未知の真理」を発見する「創発」の働きの秘密が隠れており、そこで創発的に学び取るものが「暗黙知」です。しかも、それが科学の場である場合は、そこで学び取った「暗黙知」は客観的な意味で真理であるべきです。これは、表層的に見ると矛盾しているかに思えますが、このように繊細かつフラジャイルで苛烈な認識作用の瞬間的な鬩ぎあいの中からこそ、新しい真理の発見や社会・文化的なリアリズムについてのユニークな理解が凝集し析出してくるのです。このような意味で、マイケル・ポランニーの「暗黙知」は、自然科学分野の研究者のみならず人文・社会科学やジャーナリズムの領域にも重要な示唆を与えています。

  日本のマスメディアが、新たな政治体制や国家ガバナンスについての「妥当性評価の視点」を持続させつつ本来のジャーナリズムとしての役割を果たすためには、例えば、新原 浩朗氏のような「国家・経営ガバナンスの新しいあり方」を予感させる研究の評価、カール・ポランニーの「新しい資本主義のあり方」のような埋もれた知見の見直し、あるいはマイケル・ポランニーの「暗黙知」が示唆するように、イデオロギーや取材対象(knowing what)との間で適切な距離を取ることなどの意義を再認識する必要があります。ましてや、日本政府や行政官庁サイドから財政面での大きな借りを作ったり、ニュース供給源の安定確保のためバン記者の立場に甘んじたり、記者クラブ制度や機密費等の恩恵にたかったり、あるいは自らの高給実績に満足して「政・官・財」寄りの提灯記事を書き続けるような仕事は絶対に返上すべきです。このような意味で、取材対象(knowing what=政治権力側)に対して十分に禁欲的でありつつ「dynamo-objective coupling」(動的・客観的結合)の苦痛(=ジャーナリズム精神のトポス)に耐えることができなければ、日本のマスメディアは、カルト化した市場原理主義新自由主義思想)で彩り“闇の力の不気味さ”を漂わせる『小泉幻想劇場』の敵ではあり得ません。