toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「小泉擬装改革」の対極にある日本の「優秀企業の条件」(1/4)

 市場競争で「企業と日本社会の健全化」が実現できることを前提とする「小泉構造改革」が現在の景気回復をもたらしたという言説が破綻しつつあります。なぜならば、小泉内閣(小泉・武部・竹中自民党)が「小泉改革成功の象徴」として高く持ち上げた「ホリエモン」の破綻の闇(不健全な企業活動の余波)が果てしなく広がる一方となっており、更に国会審議でも深刻な「格差」の存在がクローズアップされるようになったからです。例えば、日本の全世帯の約1/4近くが「無貯蓄世帯」となってしまっており、「昨年12月の月間有効求人倍率が13年ぶりに1.0に回復した」という嬉しいニュースも、よく内容を確かめると、それは「正社員数が減り、パートが増加した結果として12月の求人倍率が1.0になった」ということであったからです。つまり、正社員が0.6倍で、常用的パートタイム労働者が1.41倍」という数字になっており、求人が増えているのは非正規雇用なのです。そして、13年前の1992年に比べると求人に占めるパートの割合は16.3%から31.8%に高まっているのです(詳しくは、下記の記事★を参照)。
小泉首相の開き直り「格差論」/外道の喧嘩場と化した国会、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060202

  このため、一部の報道によると、勝ち負けの「二元論」に楔を打ち込んで「改革の影の部分」が論点になりそうな風潮を変えたいという思惑から、小泉首相と猪口少子化相が「負け組み」を「待ち組み」というコトバに置き換えて流行らせることを着想したそうです。相変わらず姑息な手段で善良な国民を誑かすつもりのようです。そもそも、「小泉構造改革」が現在の景気回復をもたらしたという言説が誤謬のドグマであった可能性が大きいのです。少し過去に遡って確かめて見ると、2003年5月に「りそな銀行」へ公的資金が投入されてから株価が上昇傾向へ転じ始めていたことが分かります。この経緯から経済小説の巨匠・高杉 良氏は、竹中プランの無効性を指摘しています。皮肉なことにも竹中プランを180°転換した途端に銀行株が買い戻され、そこから株式市場が上昇へ転じたということは、実は竹中プランが景気回復には無効であった(そもそも竹中プランが市場から信頼されていなかった)ことの証明になっている可能性があるのです(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060109)。

  このような「小泉擬装改革」の誤謬のドグマの可能性に加えて、市場原理主義の時代に相応しい人事管理として導入が奨励された「成果主義」の問題があります。これとともに日本企業の特徴とされた年功序列賃金と終身雇用制を廃止する企業が増えたことは周知のとおりです。ミクロな視点で考えれば「成果主義」は個人へ強いモチベーションを与えて「やる気」を引き出す方法として、たしかに合理的な側面があります。ところが、一方では過剰な「市場競争の原理」が予期せぬ弊害を発生しているのです。その「市場原理の弊害」の実体は、「株の時価総額」の前提が「経営者によるエンドレスの賃金抑制意志」というモラルハザードをもたらしたということです。「株の時価総額」への傾斜経営が、実に様々な弊害をもたらすことは、目下、ライブドア事件ホリエモン騒動)が証明しつつあります。また、この「経営者の賃金抑制意志」に基づく過酷なリストラの断行が、市場からの株価上昇の要求に応えるという「悪循環型の株価上昇パターン」が定着しています。

  一般に「成果主義の評価」は絶対評価ではなく相対評価で行われています。それは、喩えれば大学入試の難易度を表わすために使われる偏差値のようなものです。このため、自分がいくら目標達成のために努力しても、他に達成度の高い社員がいるとマイナス評価になる訳です。ここで注目すべきは、評価の基準が目標の「高さ」ではなく目標の「達成度」であるという点です。ここに「成果主義評価」の巧妙なトリックがあり、これを仕掛ける意図は「経営者によるエンドレスの賃金抑制意志」がもたらしているのです。そして、この「経営者の賃金抑制意志」を後押しするものが「市場の要求」、つまり「株の時価総額」なのです。しかも、近年はほぼ一定枠の賃金総額の下で「成果主義」の評価が行われる傾向があります。このため必ず一定割合の社員層が低い評価を受けることになります。かくして、一企業内で「勝ち組」と「負け組」の「格差」が生まれるのです。他方、過酷な仕事を成し遂げた経営者は株主傾斜型の経営に徹することで時価総額の高騰に連動して評価が上がり高収入が約束されることになります。この結果、経営者層のみならず、ごく一部の「勝ち組」を除く社員層の間でも深刻なモラルハザードが広がり始めています。ここに見られるのは、まさにライブドア事件のコピー版であり、「ホリエモン現象」の日本全体への拡散です。

 ごく新しい事例をみることにします。5.46%の株式を取得して筆頭株主となった村上世彰氏が率いる「投資ファンド村上ファンド)」がデパート「松坂屋」に対し、経営陣と従業員による事業買収(MBO/マネジメント・バイアウト)を提案していることが2月2日明らかになったと報道されました(2/3共同通信http://www.gamenews.ne.jp/archives/2006/02/8235mbo.html)。この共同通信の報道(ただ、この記事は、急遽、一両日中に消去されてしまったようです)によると、この「投資ファンド村上ファンド)」は「松坂屋」がこのMBOに応じられぬなら全従業員を解雇するよう迫っているそうで、その真の狙いは「銀座・松坂屋」が立地する土地など優良資産の有効・高度活用をアピールして「株の時価総額」を煽ることにあるようです。ここで見られるのはホリエモンに劣らぬハイエナ活動であり、まさに日本の株式市場のバクチ場化現象です。

  ここでは優良企業としての「デパート・高島屋」の経済文化価値、従業員とその家族の立場などへの配慮、伝統企業の地域社会との繋がりなどの付加価値は悉く無視されています。そこで高く評価されるのは「小泉=竹中ハゲタカ組」が崇める「カネ」の力、言い換えれば「株の時価総額」の大きさだけです。しかし、ひたすら株の「時価総額」を上げることだけに傾く経済活動は健全な資本主義の姿ではないと思われます。このようにして、日本の経済システムと株式市場のバクチ場化が進む一方で、同じく一般企業の「時価総額経営化」(株主重視型経営への転向)の進展とともに吐き出された(リストラされた)多くの失業者たち、増加する一方の非正規雇用者(パート、派遣、アルバイト)たち、就職できない多くのニート層の若者たちなど、いわゆる「陰の部分」がますます拡大しつつあるのです。この現状に照らすと、「小泉=竹中ハゲタカ組」が信奉する「トリクル理論」(詳しくは、下記の記事★を参照)も破綻していることが分かります。いくらなんでも、これからの日本人は、「負け組み」や乞食化した貧困層が「勝ち組」(富裕層)から「おこぼれの施し」(trickling-down raindrops)を受けるか、あるいはネットトレーダーにでもなって一発逆転に起死回生を賭けながらギャンブラーのように生きるべきだというつもりではないでしょう。
★「神憑る小泉劇場」と「ホリエモン」が煽ったトリクルダウン幻想
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060122

  最近、スイス在住のビジネスマン“無用の人”様からスイスの労働環境に関するコメントを頂きました。それは、同じグローバリズム新自由主義思想の洗礼を受けながら日本とは異なる「経営と働き方の姿」(契約概念に徹した労使関係、十分に柔軟な労働市場、個々の徹底したリスク管理意識など)を垣間見ることができる貴重なレポートです。日本とは根本的に異なるセーフティネット条件、伝統的なキリスト教社会に根付いた自由主義のあり方などがあるので、一概に日本の現状と比較することはできません。しかし、このレポートの中で“無用の人”様がご指摘のとおり、我が国の場合は“日本人としての長所を十分に活かす形”で「仕事と生活の形」を変えてゆくことが肝要だと思われます。これこそが、「日本の改革のあるべき姿」だと思います。このため、先ず、以下に「“無用の人”様のレポート」を転載します。次いで、経済産業省・情報経済課の新原 浩朗課長(経済学博士)の「日本の優秀企業三十社」を対象とした「優秀企業の条件についての研究」(http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/niihara/01.html)を参照しつつ、現時点における「日本の優秀企業三十社」の特徴を抽出し、私見もまじえながら、これからの労働環境のあり方などについて展望を取り纏めてみます。

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「“無用の人”様のレポート」

本稿の目的、

スイスにおける、仕事をめぐる、environment(法規、慣行、トレンド等)、 日本とは異なる社会の労使関係を描写し、それを通じて、市場経済のガ−バナンスを、それなりの想像で透視できるようレポートを作成すること

ただ、ここ10年ほど、新自由主義にもとずく「グロバリゼーション」,「株主の利益優先の考え」が「多少」それを変えたことを付加します、それについては、最小限の言及にとどめ、別稿に譲ります

レポート作成者は、スイスの金融機関のIT,EDP部門に2社、都合、17年在籍、金融機関以外を含めると、20年以上の海外職歴、今は、グローバルプレーヤーではない銀行のEDP部門で糊口をしのいでます、

本論、

1)基本的な労使のスタンス、

自由な個人と、法人との、「契約書一枚の関係」です、その関係が、30年、40年続くときもあれば、3ヶ月の試用期間に、契約解除されうる、景気が悪くなれば、「人員整理」を含む再建策がとられる、
それがだから、普段、雇用者も無理なことは言わない、被雇用者が週40から42.5時間の労働をすれば充分、(説明不可の)「残業の多さ」は、中間管理職、または従業員の「質」の悪さと推測されること多し、

時間が過ぎれば、ゲームオバー、誰にも命令されない、「聖域のプライベート時間」の開始である
仕事仲間と「つるん」で、飲み歩いているような姿は皆無
会社の仕事は、人生の、「一部分, しかしとても大切な一部分」に過ぎない、この考えが基底にあるとおもう 

2)柔軟な労働市場
自分が仕事を始めた会社が、30年も40年も利益を出し続けることができない、時に、傾くこともある、それを前提に「仕事社会」が成り立っていると思う、若人に、普通は、中卒後に「仕事」の教育をうける (将来アカデミックな仕事をしたい子には「普通科」がある、ただし少数)

Aparenticeshipの名の下に(日本では徒弟制度などと訳されているが「カビの生えた」訳、しいて言えば、職業教育制度)で職業人としての教育を体系的に受ける、「銀行屋」を一例にあげる、

中卒者は、どこかの「銀行」と契約を結び、週に二三回、学校で一般教養、簿記をまなび、週に二三回その銀行で、実務を学ぶ、三年後、州の試験に受かると、一人前の銀行員として通る、この三年間、小ずかい銭以上の給料が出る、親の負担は交通費ぐらいか?
その後、興味、仕事におおじて、語学を勉強したり、簿記を勉強したり、商業専門の大学に行ったりして、給料を、キャリアを上げていく、なるべく労働市場の要請に見合う、勉強をする、芸ではなく、「労働市場の価値」が身を助ける そして、A社からB社に移っても、年金当で不利になることはない、ただしこれができるのも45歳ぐらいまで、それ以降は、かなりな専門性、管理者としての経験がないと難しい、履歴書がきれいに見えるような、転職、そして時折、国家試験の資格取得をすると、良い職にありつける

柔軟な、労働時間、たとえば、短大や専門学校のようなものに行きたいとする、自分の仕事量を、60%とか80%に減らす、一時、給料は減るけど、その「元」は数年後必ず取れる、
ボーナス、年休は、労働量におおじて、六掛け、八掛けになるだけ、

会社によって異なるけど、たいていは、リフレッシュ休暇を取得可能、前にいた会社では最高六ヶ月の無給休暇を五年以上(?)の在籍の条件で、権利として認められていた、

つまり、「会社」、「仕事べったりにさせないような」システムがある、あまりよりかかれすぎても困る、仕事のしすぎで病気などされたら、医療コストが上がるという深慮遠謀あるのかもしれない(笑)

3)個人主義利己主義、自己防衛の思想 

世の中が、自分のそれぞれの利益を主張することで成り立つ、そしてその利益が競合するとこは、話し合いで決めるというルールがある、自分の権利は徹底してまもる、マネージメントは、「自由な経営権」をより自由に行使しようとし、被雇用者には、労働法、保険法、各種を援用して、自分を守る、損のないようにする、ただし、双方その「権利」の裏側には、「義務」という言葉が書かれてある

自分の「利益」を「意見を」「丁寧なことば」で言い表す訓練ができている、
だから、あまり我慢しすぎて、刃傷沙汰になるということも(ほとんど)ない
ついでに言うと、会議等で、興奮しながら話すなぞ、「完全な」マイナス評価、仕事熱心なぞと取られること皆無、

「有休」全部とるのは当たり前、欠員が一人出れば仕事が遅れる、病気になったら「自分の判断」で出勤、欠勤を判断する、健康管理は「自分自身の判断」の領域、三日以内の病気は、医師の診断書なしで病欠扱いとなる、有休とは別立て、

先日、トナーを床にこぼしてしまった、たまたま仲のいい掃除の人たちがきたので、クリーナーをかけてくれるように頼んだら、、ここの床は、水曜と金曜だけクリーニングします、今日はしません、微笑をもって答えられる、「気配り」、「おもいやり」「ただで仕事をする人」なぞないのです、

ここで、着目していただきたいのは、カロウシもなければ、有休未消化もない、ただし、仕事仲間と「つるん」で、飲み歩いているような姿もない
こういう環境で「利益」を出しているのである

結語

みな、「ひょっとしたら自分に不利になるかもしれない不安定な自由」と 「仕事の責任」とのはざまで仕事しを、そして日々の暮らしを営んでいる、ようにおもわれる

だから、夏なぞ、早めに仕事を始めて(六時半)、仕事が終わったら(職場によっては、三時半、四時)、川に泳ぎに、テニスに、「夕方文化」を楽しむ姿は、それなりの「自由社会」を満喫している姿を映す

ですから、これらの「仕事の形」「文化の背景」のバックグラウンドを捨象した,一部海外勉強組の「向こうではこうやってる、日本は甘い」式の説法に必ずしも同調できないものがあります、日本人(社会)の長所をいかすかたちで、みずから「仕事の形」「生活の形」を変える事が肝要だと思います、「学卒者」が家族をほっぽりだして夜の8時まで仕事をしている姿は、「自由社会」にそぐはない

夜8時のオフィスは、掃除の人たちと、IT屋の世界です

長くなりました、どうもありがとうございます、

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(To be continued.)