toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「小泉擬装改革」の対極にある日本の「優秀企業の条件」(4/4)

先ず、前回の記事(3/4)の繰り返しになりますが、経済産業省・情報経済課の新原 浩朗課長(経済学博士)の「日本の優秀企業三十社」を対象とした「優秀企業の条件についての研究」(http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/niihara/01.html)から導くことができた「結論」を再録しておきます。

[結論]

(1)「事業領域(ドメイン)を矢鱈と拡大せず、真面目に自分の頭で考え抜き、愚直なほど自分で理解できる範囲の仕事に限定しながら、それに情熱を傾けて取り組んでいる」という点に、優秀企業のトップの特徴が見られる。
(2)優秀企業のトップは、このような愚直さの上に「明快な経営ビジョン」と「非常に高い説明能力」を持っている。
(3)産業分野の新・旧の別、ハイテク・ローテクの別、内需・外需の別などで企業の成長性を論ずる「常識」は、一種の「固定観念」に過ぎない。
(4)優秀企業のトップは、徹底した「現場主義者」であり、「机上の空論(=論理)」に遊ぶことなく現実社会(自然、文化、伝統、習慣、ヒト、カネ、モノ、人的ネットワーク、地域社会など)の「因果律」を大切にしている。
(5)優秀企業のトップは、「主流」に甘んじることなく、むしろ「主流」を厳しく批判できる「傍流の目」を持っている。
(6)優秀企業のトップは、「危機をチャンスへ換える不屈の精神」を身につけている。言い換えれば、それは徹底した「プラス思考」である。
(7)優秀企業のトップは、「身の丈に合った成長を図り、事業リスクを直視する」という感性を身につけている。言い換えれば、それは「徹底したキャッシュフロー管理」による経営であり、「バブル志向」、「売上至上主義」、「株の時価総額主義」、「野放図な設備投資拡大」などとは一線を画しながら徹底したバランス経営を行っている。
(8)優秀企業のトップは、「市場」による規律よりも「自社の企業文化」による規律(ガバナンス)の方を重視している。それは、企業人としての一種の「使命感」でもある。
(9)日本企業に経営戦略がないという“アメリカかぶれ”の政治家・官僚・学者・企業家・経営コンサルタントらの批判は間違いである。欧米式であるか、日本式であるかではなく、要は以上の(1)〜(8)の日本型経営の原点を見据えることである。そうすれば、そこから日本社会のあるべき活力源の姿と光が見えてくる。

次に、第一回目の記事(1/n)に掲載したスイス在住のビジネスマン“無用の人”様の「スイスの労働環境についてのレポート」と照らしながら「所見」をまとめてみます。「スイスの労働環境についてのレポート」はスイスの企業で「働く人々の意識と働き方の特徴」をクローズアップしたものであり、一方、新原 浩朗課長(経済学博士)の「日本の優秀企業三十社」を対象とした「優秀企業の条件についての研究」は「日本の優秀企業三十社の経営者層に属する人々の意識の特徴」を抽出したものです。すると意外なことに、スポットライトを当てる対象は異なりながらも、日本人とスイス人(そこには欧米人に共通する、ある種の望ましい性質が存在すると考えられる)の根本的な意識の違いが明瞭に浮かび上がってました。

[所見]

●以上の[結論]の中で(1)〜(3)は、「日本の優秀企業の経営能力」の本質的な特徴だと思われます。特に(1)の「明快な経営ビジョン」を持つということが最も重要で、このことは国家経営にも通じる問題です。その意味で、小泉首相が未だかつて一度も「日本の将来ビジョン」を明快に語れないのは、日本国民にとって悲劇的なことです。なぜなら、日本が進むべき方向が見えぬままに、この5年間を我われは無為に過ごしてしまった可能性があるからです。

●特に、経営が上手く行ってない企業であるのに、トップであるワンマン型社長の頑迷固陋さが災いして、取り巻き連中や社員の多くが“絶対に我が社は潰れない”と信じ込まされている企業は危ないようです。「頑迷・頑固一筋の小泉政権」に引きずられる日本は、この種の病気を患っているようです。

●現代は、アメリカ型経営が普及しつつあるためコ-ポレ-ト・ガバナンスと呼ばれる資本市場からの規律(資本市場が企業に及ぼす「カネ」の大きさを基準とするガバナンス・パワー)が重視されています。言い換えれば、それは企業に対する「株式市場の評価」を最重視するということです。しかし、決してそれで十分ではなく、これら優秀企業は「企業の使命感や倫理観という『カネ』以外の文化的規律」を確実に持っており、これが会社と社員の双方を結びつける紐のような役割を担っています。これは、「小泉構造改革」(小泉=竹中コンビ)がホリエモンを最大限に持ち上げて“市場競争で「企業と日本社会の健全化」が実現できる!”と絶叫したにもかかわらず、「ホリエモン」の実像が露呈して日本国民の多くが翻弄されていることを想起すれば理解できるはずです。

●また、注目すべきは、これらの優秀企業では、少々事業が傾き給料がカットされたとしても、優秀な人材が恰も今や沈もうとする船から逃げ出すネズミのような行動をとることはあり得ないということです。つまり、これらの会社の「企業統治」(コーポレート・ガバナンス)では、外在的な「統治制度」よりも企業文化に裏付けられた個々の社員たちの「使命感」の方が上位に位置づけられています。これらの優秀企業のビジネス・コミュニケーション活動の現場では、絶えず「語用論」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%9E%E7%94%A8%E8%AB%96)的な作用のプロセスの中で新たな意味づけの努力が続けられており、それが積み重なることで一種の「文化的拘束条件」が生成される訳です。そして、これこそが「企業文化」や「企業の伝統」と呼ばれる「内発的な規律」(内発的なガバナンス・パワー)となるのです。また、ここには別記事(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060129)で述べた「dynamo-objective coupling」の作用に通じるものがあります。

●資本家としての本来の役割を自覚する経営者が多いことも、これら優秀企業の特徴です。それは、長期的な成長、持続的な社会貢献のように巨視的な目で自らの企業活動を見つめ続けるという良き伝統が、個々の企業のあるべき方向を律するとともに社員一人ひとりに対しても、それが規律的な感覚を与えていることが窺えます。例えば、トヨタ自動車ほどの巨大企業でさえも、どこかで、創業者である豊田家が見ているという独特の企業風土的な感覚が、社の規律に大きな影響を及ぼしているのです。

●近年は、社員に対してストック・オプション(http://www.tohoku.meti.go.jp/shinki/FAQ/stockoption.htm)の権利を与えて社員にモチベーション(動機付け)を与えようとするアメリカ型経営が流行しています。しかし、この手法が危険なのは、「ゼニ・カネ」だけでインセンティブ(誘引・刺激)を与えると、どうしても「自分さえ良ければ、自分が所属する部門やチームはどうでもよい」という「利己主義の発想」が根付いてしまうことです。また、経営者自身が、この発想に取り憑かれればアメリカのエンロン事件(http://www.rieti.go.jp/jp/papers/journal/0211/bs01.html)や渦中の「ホリエモン事件」の二の舞です。

●“無用の人”様の「スイスの労働環境についてのレポート」で観察されるスイスのサラリーマンたちの意識の特徴は健全な「個人主義」です。無論のこと、スイスには日本と根本的に異なるセーフティネットがあるという条件下のことですが・・・。ところで、夏目漱石の文学の真髄は「利己主義」と「個人主義」の相克を乗り越えるところにありますが、明治時代の日本人に限らず現代の多くの日本人も「利己主義」と「個人主義」の違いを理解することが苦手のようです。人間の成長プロセスで見ると「利己主義」→「個人主義」へと、自律的な方向へ自我が深化・熟成することが知られています。このことからすると、欧米人は「大人」で、大方の日本人は未だに「子供」だということになるでしょうか。

●参考までに、現代的な意味での「利己主義の典型」と考えられるアメリカの女流作家であり政治思想家でもあるアイン・ランド(Ayn Rand、本名Alisssia Zinovieva Rosenbaum/1905-1982)の「客観主義哲学」のエッセンスを以下(◎)に転載しておきます(詳細は下記ブログ記事★を参照)。アイン・ランドの「客観主義」信奉者(カルト的な意味合いでランディアンと呼ばれる人)たちが、ネオコン一派やキリスト教原理主義者とともに世界の多くの声を無視して「イラク戦争」に踏み切ったブッシュ政権の「ユニラテラリズム」(米国一国主義)を後押ししています。 これは、まさに健全な「個人主義」の対極にあるもので、カルトというよりも、むしろ狂気に近いほどの自己中心主義(冷血な利己主義)ではないでしょうか。
★「作家アイン・ランド、米国ユニラテラリズムのもう一つの『源流』」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050326

◎社会など或る集団の上に立ち、人々の上に君臨する「共通善」なるものは「偽善」に過ぎない
◎歴史的に見ると、平和主義・博愛主義・利他主義の宣言によって行われた革命の行く末は血の海であった
◎他人に対して行い得る唯一の「善」は「触れるな!干渉するな!」ということである
◎人類の歴史は、人間が独創(創造)したものを自然に対して付け加えることで進歩してきた
◎この人間の独創は“良きものを創造したい”と願う人間の「個人的欲望」から生まれる
◎自己中心主義(徹底した利己主義)は「偽善に満ちた利他主義」より優れている

●ごく大雑把に言えば、自律的な個人の尊厳は最大限に主張する一方で、他人の権利も対等に尊重するというのが「個人主義」の特徴ですが、ここで見た「日本の優秀企業のトップ」たちは、見事に日本的な「個人主義」を体現していることが窺えます。このように見てくると、やはり日本人の多くが幸せになれるのは、ここで取り上げた「日本の優秀企業の社長」さんたちのような価値観を持つトップ層が経営する会社で働けることだと思います。その時こそ、スイス在住のビジネスマン“無用の人”様が言うところの「“日本人としての長所を十分に活かす方法”で『仕事と生活の形』を変えてゆくこと」が実現するのだと思われます。

●しかしながら、アメリカの利己的な側面が強く出たイデオロギー新自由主義思想)にかぶれた「小泉擬装改革」(小泉=竹中・詐欺改革)で5年間も振り回され貴重な時間を浪費させられたあげく、昨秋来の「ホリエモン騒動」(ホリエモン&小泉自民党の合作)で大方の国民が詐欺まがいの迷惑と被害を蒙ったことは腹立たしい限りです。つまり、昨年9月の総選挙の時に、あれだけ特別にホリエモンを持ち上げて、結果的に一般国民の株投資熱を煽った現実があることからすれば、小泉首相が2月7日午後の衆議院予算委員会で「図に乗るとすってんてんになるのが株式投資だ、だから国民はあくまでも自己責任で投資していただきたい」と述べたことは、まことにフザケた他人事のような話ぶりです。ホリエモンを巻き込んだ総選挙時のこの構図は、見方次第では「小泉・武部自民党が一般国民に対して罠を仕掛けた詐欺行為」です。

●また、2月7日には「政府・国土開発幹線自動車道建設会議」(国幹会議)で高速道路の整備計画9,342kmのほぼ全線の建設が決まっていますが、そもそも「小泉擬装改革」の目玉として位置づけられていた「高速道路改革」の検討は、小泉首相が「小さな政府」を宣言した2001年に開始しています。そして、昨年の秋に漸く「道路関係四公団」の民営化が実現したことになっているにもかかわらず、今回の高速道路の整備計画決定は、事実上、当初に計画した「高速道路改革」が失敗であったことを意味します。「小泉擬装改革」の実体は、かくの如しであり、同じく昨秋に大騒ぎした「郵政民営化」についても、その内実は胡散臭い限りです(詳細は下記ブログ記事★を参照)。
★「『郵政焦点・総選挙』(付“飾り窓の女”)で何を隠蔽するのか?」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050901

小泉首相は今に至っても「明快な国家ビジョン」を国民へ示すことができていません。これは、小泉首相には「日本の優秀企業のトップ」の特筆すべき特徴である「明快な経営ビジョン」のような観念を持つ(=近未来の現実社会についての構想をつくる)資質が決定的に欠けていることを意味します。別に言えば、それが国家であれ会社であれ、トップに求められる資質で最も重要なことは「近未来について仮説をつくる能力がある」ということです。実は、このような能力は人間を含めた生き物にとって必須の基本的能力なのです。例えば、犬やネコがライオンと初めて遭遇したときでも彼らは「危ない!」というリスクを感じるはずです。この時、犬やネコは初めて出会ったのであるから未知の動物であるライオンの怖さは知らないはずです。しかし、彼らは本能的・直感的に「近未来の危機を仮説している」のです。これが動物一般の「リスク管理」の基本です。

●ところが、紛れなく人間であるにもかかわらず、どうやら小泉首相は、このように「動物的な意味での直感的仮説」すら立てられないようです。このため、バカの一つ覚えのように「靖国神社参拝」に拘ることになるのでしょう。別に言えば、これは健全なプレゼンテーション能力(分かり易く自分の考えを説明する能力)が欠けているということです。「国際舞台に出ると日本人は自分の考えを表明できない」と、よく言われることがありますが、これは「国際社会という場」において未来展望型あるいは双方交流型の「仮説」を構想することが苦手な日本人一般の弱点を突いたコトバです。この種の日本人は、未だに「利己主義」と「個人主義」以前の精神環境の中でまどろみ生きているのかも知れません。しかし、いやしくも組織のトップに立つ人間が「仮説」を立て、近未来と双方交流の世界を構想できないのは、その組織に「リスク管理」が不在であることを意味します。ましてや、一国を統べる立場の小泉首相が日本の近未来の「仮説の物語」をつくれないのは「国家リスク管理」の観点から忌むべきことです。このままでは、第二・第三・第四・第五の耐震強度擬装事件、ライブドア事件が起こり続ける懸念があります。

●我われ日本国民は、“市民社会における現実的な「因果律の連鎖」(自然・生命・文化のリアリズム)に関する「想像力」(=未来の社会についての構想力)を決定的に欠いた「父祖伝来のただ飯喰らい」である小泉首相ら「ニ・三世の世襲的寄生政治家」を恭しく日本のトップ(会社で言えば社長の座)に奉ることのバカバカしさ”をいい加減に自覚すべきです。今のところ、日本の未来はこのただ一点の改善にかかっていると言っても言いすぎではありません。このため、一人でも多くの国民が、それが自分自身に直結する緊急な問題であることに気付く必要があるのです。

●日本のトップ・リーダー層の人々(官民を問わず)も一般国民も、このような意味で一刻も早く健全な「個人主義」に覚醒する必要があります。日本人が立脚すべき共通の価値観は、新自由主義思想と「小泉&竹中・詐欺劇場」がもてはやす「狂気の利己主義」ではあり得ないのです。同時に、「小泉擬装改革」によって破壊された「セーフティネットと公共空間」については、日本の経済・社会の特性に合わせて再構築すべきであり、「小泉擬装内閣」が流行らせた「勝ち組」、「負け組み」などの言葉は熨斗をつけて「小泉&竹中・詐欺劇場」へ返上すべきです。ましてや「待ち組み」(小泉首相と猪口少子化相が考案)などという、どこまでも国民を小バカにした『オチャラケ言葉』は葬り去らなければなりません。

(補足)「経営コンサルタント」の問題
・・・我われは、しばしば「経営コンサルタント」の指南を受けて成功したという企業トップのコトバを耳にします。それは、企業規模の大小には無関係です。ところが、この「経営コンサルタント」の出自を調べて見ると興味深いことが分かります。それは、おおよそ下記(1)〜(5)のように分類できます。彼らの特徴は、一種のカリスマ風を帯びているということです。そして、彼らの存在は、例えば「耐震強度擬装」のような“事件”でスポットを浴びますが、普段は黒子役を演じています。

・・・恐らく、上で見た「日本の優秀企業のトップ」は、この種の「経営コンサルタント」とは無縁です。なぜなら、これらのトップには“愚直なほど自分の頭で考え抜き、自らの頭でつくった「明快な経営ビジョン」を持ち、身の丈にあった事業を実践できるという強靭さと強烈な責任感”を持ち合わせているからです。つまり、彼らは抽象世界の「論理」と現実世界の「因果律」の違いを理解しているのです。他方、「経営コンサルタント」が目を付けるのは「精神の弱さ」と「我欲」の虜となったトップたちです。

・・・下記の区分の中で特に危ないのは(2)、(4)、(5)です。不思議なのは、「政治家」くずれのコンサルタントが寡聞であることです。彼ら政治家は始めから信用がないのかも知れません。なお、経営トップに限らず、ニ・三世政治家や芸能人なども、この種の中で特に「(2)「宗教家」くずれ」または「(5)「詐欺師」くずれ(?)」に頼ることが多く、しばしば“神憑り”に誑かされて巨額の金銭的被害を蒙っているようです。しかし、世間体から彼らはそのことをあまり他言しません。無論、殆んどの「経営コンサルタント」は、高潔な倫理観と高い役割意識を持って真剣に仕事に取り組まれておられる方々であることを申し添えておきます。

(1)「学者・高級官僚」由来(技術系に多い)
(2)「宗教家」由来
(3)「税理士・会計士・法曹家」由来
(4)「経営者」由来
(5)「詐欺師」由来(?・・・由来ではなく詐欺師そのもの?)