toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「格差拡大の時代」(政治的事故)を予見したポール・ヴィリリオに学ぶ

  西垣 通氏(東京大学大学院情報学環教授/2005.3.14付夕刊・朝日新聞、連載記事・ヒト科学21、最終回「自己組織的作用が動かす21世紀社会/一部引用は下記ブログ記事★1を参照)によると、ウエブ・ページのリンクの仕方(例えば、ブログサイトのリンクの仕方)、つまりアクセス数の大きさは決して平等ではあり得ないようです。従来型の常識で考えれば、誰でもがいつでもどこでも参加できるという条件(ユビキタス化の条件)がほぼ満たされているネット空間は、これこそが理想的な「自由の空間」であるはずです。ところが、アクセス数の大きさという切り口で考える限り、この「自由の空間」で現実に起こっていることは独占・寡占・集中のアナロジーで説明できるような現象なのです。そして、近年の経済物理学などの研究により、この傾向を支えているのが「ベキ法則」(ベキ乗法則/その詳細とグラフイメージは下記記事★2を参照/経済物理学については下記記事★3を参照)であるらしいことが分かってきました。例えば縦軸にサイト数(x)をとり横軸にアクセス数(y)をとると、この(x)と(y)の関係を示すグラフはy軸に沿った殆んど垂直に近い急激な下りの曲線が、右に行くほど、なだらかな下りからほぼ水平に近い傾向を見せるものとなります。そして、一般的には(a)「絶えず入力があること」、(b)「ダイレクトな出力につながらず空間内部で凝縮されて一時的に定常状態ができる」という二つの条件が「ベキ法則」を支えています。
★1 ブログ『綾川亭日乗』、http://d.hatena.ne.jp/andy22/20050316
★2 べき乗則(ベキ法則: Power Law)、http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2004_19872/slides/10/11.html
★3 ブログtoxandoriaの日記『日本の“格差社会の拡大”を助長する“情報の非対象性”の問題』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060315

  そこで、この「ベキ法則」が成立する世界では具体的に何が起こっているのかを見ると、既述のとおり、それは独占・寡占・集中のアナロジーで説明できるような現象です。上の例で挙げたブログサイトのリンクの仕方について言えば、それはごく少数のサイトにアクセスが集中しているということです。殆んどのサイトは、あまりアクセスがなく特定のサイトへ集中する傾向が見られ、グラフで言えば右端の方向へ向かって集中・分散しています。このとき、その少数のブログサイトには大量のアクセスが観察され、このようにアクセスが集中するサイトはネットワーク用語で「ノード」と呼ばれています。つまり、そのネットワーク全体のアクセスは「ごく少数のノードのアクセス」が独占的・寡占的・集中的に占有している訳です。実は、このように独占的・寡占的・集中的な「べキ法則的分布」はインターネットの世界に限らず、多くの自然現象や社会現象に見られることが知られています。例えば、イタリアの経済学者・パレート(V.F.D Pareto/1848-1923/http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/paretoslaw.html)が発見した所得分布に関する経験則である「パレートの法則」があります。それは、経験的に「全体の2割程度の高額所得者が社会全体の所得の約8割を占めている」ことが観察されることから導かれた法則で、全体規模等に関する前提条件次第ではありますが、この法則に沿う現象が様々な場面で観察されています。例えば、「商品の品質管理の重点項目について、その最上位2項目を徹底改善すると全体の約8割の改善に匹敵する効果が得られる」、「全体の顧客数の2割で、売上げ全体の約8割を占めることができる」、「全学生の2割のレベルアップを図るように授業を工夫すると、学校全体の学力水準が向上する」などです。

  また、地域ポテンシャル計測の基本は「人口」ですが、その「人口規模」と「都市人口の順位」が「ジップの法則」(サイズがk 番目に大きい要素が全体に占める割合が第1位の 1 / k に比例するという経験測/これも「ベキ法則」との関連性があると考えられている/参照、http://www2.chokai.ne.jp/~assoonas/UC203.HTMLhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87)に、ほぼ従うことが知られています。例えば、第二位の都市人口は第一位の1/2、第三位は第一位の1/3・・・という具合です。仮に、都市をノード、都市間人口の移動をリンクとする都市間ネットワークを考えると、都市間人口移動の総容量(リンク総容量)が「ベキ法則」に従うことが知られています(参照、下記記事★4)。なお、筆者(toxadoria)が意図することとは少々異なる「下記記事の結論」へのプロセス(下記の記事の中)で、丸太 一氏は次のように述べています。・・・このように地域の世界は交代の殆んどない不平等な分布(人口状態の現実)が常態化する世界であり、地域当事者にとって絶望が支配する世界です。しかし、ここでよく考えるべきことは(我われは)何に絶望するのかということです。(なぜならば、)地域の発展を広く考えるとき、発展のあり方は「地域の人口ポテンシャルを量的に高めたりすること」だけではありません。・・・
★4 『丸田 一/新しい地域発展論−ベキ法則下での地域の生き方』、http://www.can.or.jp/archives/articles/20030527-01/index.html

 2006年3月24日付・�読売新聞の[報道によると、トヨタ自動車奥田会長が3月24日に行われた名古屋市内の講演で、国民の貧富の差などで社会のゆがみが拡大する「格差社会」について、“格差が拡大しても全体が底上げすれば問題ない”と、格差そのものは問題視しない考えを示したようです。一方、2006年3月.26日付・東京新聞は「記事・核心」(http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20060326/mng_____kakushin000.shtml)で“日本経済がデフレにあえいでいた時期に誕生した小泉政権は、景気が回復軌道に乗るまでさまざまな事態に直面した。不良債権処理はヤマを越え、企業業績はV字回復を遂げたが、各種データを分析すると、労働・生活面などで随所に「改革のひずみ」が生じている。・・・途中略・・・企業の雇用コスト負担を示す労働分配率は一貫して低下。リストラによる業績向上に比べ、家計部門が受ける恩恵が少ないことを意味し、景気回復の実感が得られにくい要因の一つになっている。雇用形態も大きく変化。正規労働者が減る一方、パートなどの非正規労働者が増加。学業にも仕事にも就かないニートやフリーターがちまたにあふれ、若者の間での所得格差につながっている。生活保護世帯数は増加の一途。それとともに公立小中学校で就学援助を受ける児童生徒数は、2004年度が約133万人と2000年度と比べ4割近く増えた。自殺者数は3万人以上で推移し、中高年を中心に社会問題化している。民間に自ら道を開くことを求めた小泉政権下で、優勝劣敗が加速。結果的に、かつての日本で感じることが少なかった「格差」が生じていることを数字は示している。”と分析しています。このような訳で現在の日本における格差の拡大については、当記事でも度々取り上げてきたとおり紛れもない現実であり、その現実に目を瞑る奥田会長の発言は、優秀企業を自負する経営者にしては視野が狭く、下記記事(★5)で取り上げた「小泉首相の開き直り『格差論』」と似たり寄ったりの大多数の国民を有象無象扱いにする暴言です。
★5 ブログtoxandoriaの日記『小泉首相の開き直り“格差論”/外道の喧嘩場と化した国会』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060202

 ここで視点を転じると、「小泉構造改革」がアメリカ流「マニュアル型経済システム」(市場原理主義のツール)への盲目的追従であったことは紛れもない事実であり、このアメリカ型の経済システムを代表するのが、派手で目立つ看板を日本中の都市部郊外沿いに林立させているコンビニ、大・中のショッピングセンター、ラーメン店、焼肉店、ガソリンスタンド、サラ金無人店舗、ゲームセンター、パチンコ店、ファミリーレストラン、ネット・カフェ、カラオケ店などです。しかも、これらの仕様は全国同じ形とレベルで統一され、あるいはマニュアル&データベース化されています。その一方で、全国に点在する稀少で美しい日本の自然と地方の風土に根ざした個性的、魅力的、伝統的な人々の暮らしぶりが根こそぎ破壊されつつあります。つまり、今や日本の「地域経済」と「地域の生活空間」は限りなく取り壊されようとしている訳です。同時にそれらを支えるシステムの稼動速度がIT技術の進展とともに急激に加速しつつあることに注意しなければなりません。そして、このように“効率化”された市場(店舗群)へ向かって“メディアのサブリミナル効果に欲望を刺激されて動物化した消費者の群れ”が、恰も排水溝に流れ込む水のように吸い込まれて行きます。

 一方、この「マニュアル&データベース化」された職場で働く人々の実態(パート・アルバイト等の非正規雇用が主体、正社員対比で劣悪な労働条件と低廉な労働単価など)は、18世紀末〜19世紀前半ころに産業革命が本格化するイギリスで出現した“悲惨の再現”であるかのようにさえ見えてきます。この時代のイギリスは、利潤追求に傾斜した産業資本主義が確立した時代であり仕事の機械化と分業(フォーディズムの源流)が発達して熟練工が不要となったため、資本家たちは賃金が安くて済む子どもや婦人を労働力として扱き使うようになっており、また、当時の“人権を無視された悲惨な労働者”たちは、飽くなき利潤を追及する資本家によって低賃金と長時間労働が強制されていたのです(参照、下記記事★6)。ともかくも、現代の日本では「消費者」と「働く人々」双方のメジャーな部分が「アメリカ型市場原理主義の論理」によって、共に“動物化・家畜化”を強いられつつあります。彼らは無限の利益を生むために低賃金で働かされる擬似人間(ヒューマノイド)への道を歩み始めたかのようにさえ見えます。また、恰も彼らは、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC)の惨めな“レプリカント”の境遇へ追い込まれているようです(参照、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89)。このように見てくると、現在、小泉政権によって押し進められている「格差拡大政策」(大企業と中小企業の格差、中央と地方の格差、正規雇用と非正規雇用の所得及び労働条件の格差、貯蓄のある者とない者の格差など)は、絶対に回避できない冷酷な「ベキ法則」に支配された近未来のユビキタス社会(http://dictionary.sanseido.co.jp/topic/10minnw/011ubiquitous.html)が実現しつつあるようです。そして、今の日本の状況は“少数の人間(勝ち組)と多数のレプリカント(ヘタレ・ショタレ&負け組みの末裔ら)が住まう日本の未来社会”へのプロローグであるかのように思われます。
★6 ブログtoxandoriaの日記『映画“オリバー・ツイスト”に見る小泉劇場“劣等処遇原則”(格差主義)の原像』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060227

  ところで、イタリアの思想家、ポール・ヴィリリオ(Paul Virilio/1932-   /http://www.logico-philosophicus.net/profile/VirilioPaul.htm)は、このようにIT(コンピュータ)技術と相俟ったテクノロジーやメディアの発展が、やがて人間の知覚・心理・行動パターン、働き方、国家権力、企業のあり方などに深刻な影響を与えるであろうと、早くから警告してきました。1960年代に建築家として出発したヴィリリオは、1968年頃から思索活動へ重点を移します。やがて、近代化により「空間が壊れつつある」ことを直感した彼は、その崩壊に向かうリアリティを「速度」の概念でて解き明かそうとします。また、空間距離と時間距離を縮小する最新のテクノロジー技術(航空機・高速鉄道・自動車など)の中に「老化のアナロジー」を発見します。つまり、人間の身体の老化と同様に、テクノロジーが高度に発達した社会では「社会の運動能力と反射神経」が減退し、それが「技術の本質の現れである大事故」になるのだと警告します。この論点は、近年のJR西日本の悲惨な事故などを彷彿とさせて不気味です。また、1996年の著書『電脳世界』(翻訳、1998年刊、産業図書)では、政治権力が通信手段の高度化(リアルタイムの実現)によって「偏在(ユビキタス)・瞬間性・直接性」の三つの属性を支配するようになり、今までにない「新しい神的な権力」を手に入れると警告しています。そして、リアルタイム通信(ネット社会)の実現で姿を現すのは「直接民主主義社会」ではなく「極端な専制政治」であり、そこでは他者との関係をなし崩しにする「リアルタイムによる政治権力の横暴」が出現するだろうと主張しています。

  ヴィリリオが「リアルタイムの横暴」で示唆することは、奇しくも、高度に発達したIT技術の旗手を標榜(自認)する先端企業と与党政治権力の癒着・結合というまことに醜悪な形で「横暴な政治の典型」を日本で見せつけてくれました。それこそは他ならぬ「ホリエモン自民党がつるんだ総選挙」であり、一連の「ライブドア騒動」です。例えば、至極当然に聞こえるかも知れませんが、大きくとらえてみると今回のライブドア事件で“ホリエモン”(民)に犯罪者の烙印を押すことができるのは紛れもなく「権力A」(司法、検察)であり、くだんのメール騒ぎで自爆した民主党(民の代表たる国会議員)を、事実上、断罪し得たのは「権力B」(行政/内閣)です。(無論、ここで“ホリエモン”を弁護するつもりではありません/また、上手くつるんでいた筈のホリエモン自民党が、どこでボタンのツケ違いをしたかなどの話は別問題です)一方、昨今の事情から、もはや「権力A」は「権力B」の敵ではないと見做されます。背後のネットワークがどのように繋がるかは分かりませんが、ここから見えてくるのは「日本の三権分立」が単なる名目レベルに貶められてしまったという現実です。そして、「政官の権力」、「経済的権力」に次ぐ「第三の権力」と目されることがあるメディアも「権力A」に平伏していることは周知のとおりです。

  事実上、これは日本で独裁型政権のレールが敷かれた(ヴィリリオの予見どおり政権が横暴化し暴走した)ことを意味します。そして、この体制の中枢に居座るのがニ・三世議員、すなわちパラサイト(寄生・世襲)型の国会議員たちです。しかも、“批判能力”を失った主要メディアは、この「パラサイト(寄生・世襲)政治家」たちの『国民的人気度』なるモノを煽り立てるための道具と化しています。このように悲惨な状況が一挙に進んだのは、やはり昨年9月の「郵政民営化参院否決→解散・総選挙」で小泉首相が平然と事実上のクーデタを成功させた(憲法違反を犯した)ときです。つまり、大方の日本国民とメディアが「日本国憲法」の役割を蔑ろにしたことのツケがまわった訳です。憲法には、主権者たる国民のために「権力」に対して一定の縛りを掛ける役割(授権規範性)があることを忘れたことのツケです。これは、民主主義国家における国民の「基本的権利」を死守するための大原則であったはずです。因みに、フランスの第五共和国憲法では第一義的な原則として、国民の「基本的権利」を守ることを掲げています(参照、下記資料★7)。
★『フランス憲法の原則』、http://www.ambafrance-jp.org/IMG/pdf/constitution.pdf

  つまり、2005年9月の「郵政民営化参院否決→解散・総選挙」以降に日本で起こっていることは、まさにヴィリリオの予見どおりにユビキタス社会化しつつある日本で「政治上の大事故」(民主主義政治の事故=小泉首相による憲法違反と暴走、非武力的クーデター)が起こってしまったということです。更に、コトが深刻なのは、もはや一部のブロガー、少数派のメディア、ごく一部の良識派の国民意外は、このことをあまり深刻に考えなくなってしまったことです。更に、本来であれば健全な批判勢力であるべき民主党と主要メディアの堕落ぶりは唾棄すべきほどの体たらくです。その上、更に恐るべきことは、冒頭で概観したとおりの「ベキ法則」の存在によって、日本社会の格差拡大が着実に広がっていることです(参照、下記記事★7、★8、★9)。このように「政治上の大事故」によって打ちひしがれた日本の閉塞状況をブレークスルーするにはどうすべきなのか、今こそ我われ日本国民の一人ひとりが真剣にこの問題を考えるべき時だと思います。
★7 ブログtoxandoriaの日記『映画“オリバー・ツイスト”に見る小泉劇場“劣等処遇原則”(格差主義)の原像』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060227
★8 ブログtoxandoriaの日記『“国民の人身御供”を容認する“残忍な金融資本主義国”、ニッポン』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060221
★9 ブログtoxandoriaの日記『日本の“格差社会の拡大”を助長する“情報の非対象性”の問題』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060315

  このような「政治上の大事故」(日本の民主主義の危機)に対する“リスク感覚の無さ”こそが日本社会の「マニュアル&データベース化」を安易に許してしまう原因であり、再びそれが原因となって一層日本の民主主義の危機が深まって行くという、謂わば自縄自縛の悪循環の罠に嵌った姿こそが、今の日本の実像だと思います。また、「ベキ法則」の観点からペシミスティックに見れば、日本国民の高々2〜3割程度しか「健全な民度を保つ国民」は存在し得ないことを知っている、現在の日本政府は、これら少数の「まともな国民」と対話をする気が毛頭なく、むしろ「動物化・家畜化しつつあって感情の作用が壊れたヘタレ・ショタレの国民」を標的にした「支持率アップの洗脳作戦」(B層ターゲット作戦)にうつつをぬかしているのだから、もはや日本の民主主義は崩壊するままにして、パラサイト(寄生)政治家どもの政権基盤が根腐れ病で自壊するまで放置するしか術がないと見做すこともできるでしょう。しかし、小さな希望があります。それは、アメリカとフランスで国民層の健全な部分として着実に定着しつつある「アソシエーション」を日本で本格的に根付かせるということです。

  アソシエーションは、日本で一般化している用語で言えばNPO(非営利組織)の活動形態に近いものです。しかし、日本のNPOの場合は官の天下りの受け皿になったり、あるいは暴力団の隠れ蓑であったりという具合で、法制面や社会的認知という点で不十分な位置づけとなっているようです。ポイントは、株主利益などに対する気兼ねから社会貢献活動に縛りがかかる従来型の企業と違って、本来のアソシエーション活動には、ユビキタス化する自由競争社会の「マニュアル&データベース化」によって地域のつながりや生活空間を見失った人々をつなぎ直す役割が期待できます。従って、これは、冒頭で述べたウエブ・ページのリンク網を広げるのに役立つ「ネットワークのノード」に相当する働きが期待できる訳です。また、運用次第でしょうが、このアソシエーションのノード機能には「ユビキタス化した高度テクノロジー社会」の深化で分断され孤立化した人々の心のつながりを、バーチャルではなく「リアルな現実社会」のつながりの中で取り戻す作用を期待することもできると思われます。そして、アソシエーション活動で最も重要なことはモノゴト(自然・社会・人間的な存在)の全てをカネの価値だけに収斂する「市場原理主義的」な発想から脱却することです。無論、おカネが大切であるのは当然ですが、丸太 一氏も述べていたとおり(★4)、我われが何に絶望したのかを冷静に見つめ直すべきです。我われはおカネだけのために人生を送っている訳ではなかったはずです。どうやら、複線的で多様なネットワークとノードづくりの工夫がヒントになるようです。

  なお、アソシエーションについての詳細は下記ブログ記事(★10)を参照していただくこととして、以下にアメリカとフランスのアソシエーションの違いについての説明を纏めておきます。
★10  ブログtoxandoriaの日記『“反CPEデモ”に見る、フランス民主主義の“ど根性”』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060321

<注>フランスとアメリカのアソシエーションの違い

・・・アソシエーションは、NPO(Non-Profit Organization/非営利組織)型の共同組織(結社、組合、協会、連合、合同、寄合、集団など)という意味ではフランスとアメリカで共通する部分がある。しかし、ヨーロッパ(EU型/戦後ドイツ経済がモデル)の社会的市場経済(社会の下に市場経済を位置づける)という文脈で実際の運用活動を見るとフランス型とアメリカ型のアソシエーションは似て非なるものとなる。ただ、アメリカのアソシエーションでも、1980年代にサンフランシスコ周辺の“草の根活動”から発展してきたNPO活動には、フランス型のアソシエーションに通じる部分が見られる。

・・・決定的な違いを見分けるためのキーワードを示すと「フランス=人格的なコミュニケーション重視型のアソシエーション」、「アメリカ=規範・マニュアルなどルール重視型のアソシエーション」ということになる。特に、エタティスム(etatisme/国家管理主義/この理念による実際の指導がデリジスム(dirigisme))による修正資本主義の傾向が強かった近・現代フランスでは、移民同化問題などの分野で生活世界の人間的な紐帯となる役割がアソシエーションに期待されている。