toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

『1439年、東西統一公会議』の現代的意味(3)

toxandoria2006-05-02


【画像説明】 ゴッツォーリ『東方三博士礼拝』(祭壇の左壁/部分) Benozzo Gozzoli(1420-1498)「Procession of Magus」 1459 fresco 、Palazzo Medici 、Florence
・・・恐れ入りますが、大きな画像は下記URL(★)をクリックしてご覧ください。
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/test2.htm

  『1439年、東西統一公会議』のために東方からやってきた一行をモチーフに描いたとされる絵画がパラッツォ・メディチ(Palazzo Medici/メディチ宮殿)のメディチ礼拝堂・壁面にゴッツォーリが描いた『東方三博士礼拝』(参照、HP『レンブラントの眼』日記6/http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/nikki6.htm)です。ゴッツォーリはフラ・アンジェリコ(Fra Angelico/1387-1455)の弟子としてローマで仕事をした経験があり、その影響を受けていますが、やがて次第に独自の画風に目覚めていきます。ただ、ゴッツォーリの作風は当時のフィレンツェ派のリアリズムとは異なっており、どちらかというと、それはより古い時代の国際ゴシック様式の流れを踏襲する絵画です。その意味では、好んで光度が強い薔薇色や金色などを採用した装飾性が強いフラ・アンジェリコの影響が残っています(同じモチーフの絵にジェンテーレ・ダ・ファブリアーノが大銀行家パッラ・ストロッツイの礼拝堂のために描いた『三博士の参拝』(1423/テンペラ画、ウフィッツィ美術館/参照、HP『レンブラントの眼』Index1/http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/)があります)。ゴッツォーリのこの絵の前に立つと、誰でもが(大)コジモの生きたフィレンツェの雰囲気がそのまま伝わってくるような錯覚につつまれるはずです。絢爛豪華な色彩と中世の面影を引きずる人々と騎馬の形象、これらの洗練され優美で煌びやかな装飾的画面が圧倒的な迫真力で見る者の身を包み込みます。この絵は、時間さえも飛び越えて眼前に迫るようなゴッツォーリの個性的なリアリズム表現の力量を見せてくれます。

  この絵では二つのテーマが同時に描かれています。その一つは1439年の「東西公会議」のためにフィレンツェに来訪したビザンツの要人たちとメディチ家の人々を交えた行進の姿を記録的に描くことであり、もう一つはキリスト生誕の祝いのために東方からやってきたと伝えられるガスパール(Gasparl/ヨーロッパからの代表または老人)、バルタザール(Balthazar/アジアからの代表または中年)、メルキオール(Melchior/アフリカからの代表または青年)の三博士の描写です。ガスパールはロレンツォ豪華王、バルタザールはビザンツ皇帝ヨハネス・パレオロガス、メルキオールはロレンツォ豪華王の弟ジュリアーノの肖像としてそれぞれ描かれています。例えば、この画像では中央で右向きに馬に乗り、鞍にチータを乗せている青色の服の少年がロレンツォの弟ジュリアーノ(メルキオール)だとされています。近年の研究によると、フィレンツェでは14世紀末頃から、毎年、1月6日の「キリスト公現の祭日」(この日は、キリストが異邦人に初めて会われた日でクリスマスから12日目、つまり東方の博士たちがキリストを拝みに来た日とされている)に「星の三博士の行列」という祭りが行われていました。この祭りを主催する「東方三博士礼拝集団」という組織にフィレンツェ政府も加わることで次第に政治的色彩が濃い盛大な“フィレンツェ全体の祭り”に発展してきたのですが、やがて、ドメニコ会や「東方三博士礼拝集団」と繋がりをもつメディチ家がこの祭りを主催するようになったのです。従って、「東西公会議」が行われた頃には、既にこの祭りがメディチ家のカリスマ的政治権力を誇示するための「メコネサンス象徴」(meconnaissance /人間の経験的・内面的・現実的世界に影響を与える目的で権力側が意図的に使用する<象徴>/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050907/p1http://www.k3.dion.ne.jp/~bunka/katudou/katudou08/k08.html)となっていたのです。

  一般にはあまり強く意識されてこなかったのですが、実は、この 『1439年、東西統一公会議』は当時のヨーロッパ世界に“計り知れぬほど大きなメガトン級の衝撃”を与えていたのです。特に一般の庶民階層の人々はそれほど自覚していなかったと思われますが、その大きな衝撃(ショック)はヘビーなボディーブローのように時間の経過とともにヨーロッパの人々の精神世界へ深く浸透して、その後、数百年にわたり様々な影響を与え続けることになります。それは、ギリシア語で書かれた膨大な古典の文献・資料類、言い換えればプラトンアリストテレスらの原典及び解釈・注釈書等の非常に広範囲で豊潤な「知識&知恵情報」(Information&Intelligence)が「東西公会議」へ参加する一団の人々とともにフィレンツェ(当時のヨーロッパのフェネストラ(fenestrae/窓))へ怒涛のごとく流入したからです。やがてフィレンツェでは、それが(大)コジモ”(Cosimo il Vecchio)のプラトンアカデミー創設、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino/1433-1499)の新プラトン主義、各種のギリシア語学校創設ブームなどの形へと変容して、結果的にフィレンツェルネサンスの開花に繋がったことは既に見たとおりです(参照、当シリーズ(2)/http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060419)。更に、1440年頃のことですが、マインツ(Mainz/http://www.mainz.de/WGAPublisher/online/html/default/home)のグーテンベルグ(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg/ca1930-1468)が発明した「活版印刷技術」がこの知的興奮の坩堝と化していたフィレンツェにもたらされ、火に油を注ぐことになります。次いで、フィレンツェの一介の紙屋から身を起こした「書籍・出版商」、ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチ(Vespasiano da Bisticci/1421-98)が、1480年にグーテンベルグ活版印刷技術を導入してイタリアで最初の印刷本『十五世紀有名人列伝』を出版しました(http://www.newadvent.org/cathen/15380a.htm)。

  これが契機となり、瞬く間に印刷術がヨーロッパ中に広がり始めます。このため、従来は手写本のため量産ができず価格も非常に高額であった出版物が急速に庶民の間にも普及し始めるのです。やがて、豪華本や愛蔵本もさることながら、ギリシア語やラテン語の古写本の活版印刷化が急速に広がり始めます。このため、ヨーロッパの学者や聖職者たちは望みさえすれば、いつでもギリシア語で聖書やキリスト教の研究書を読むことができるようになったのです。活版印刷の初期の代表的出版人としては、フィレンツェのビスティッチのほかに15世紀にヴェネチアで活躍した出版人アルド・マヌーツイオ(Aldo Manuzio/ca1450-1515/http://columbia.thefreedictionary.com/Aldo+Manuzio)を挙げておく必要があります。アルド自身がユマニスム的教養人でもあったため、アルド書店はプラトンアリストテレスホメロス、イソップなどのギリシアの古典を次々に出版することになります。また、16世紀に入るとヴェネツイアのジョリート書店は“通俗イタリア語”版の大衆小説やアリオスト(Ludovico Ariosto/1474-1533)、カステリオーネ(Castiglione Baldassare /1478 - 1529 )らのポルノグラフィックな文学作品の廉価本(現代の文庫・新書に相当/正確な比較は困難だが、敢えて推計・換算すると凡そ1冊2〜3万円程か?)を数多く出版しました(参照、澤井繁男著:イタリア・ルネサンス講談社・現代新書)p154〜157)。これによって、中産層の人々も比較的廉価な本を手に入れて読むことができるようになったのです。

  このような「出版物(情報)の大量生産」という画期的な技術革新現象は、情報の歴史から見ると「第二次情報革命」と位置づけることができます。つまり、第一次情報革命は「文字の発明」、第二次は「グーテンベルグ活版印刷術」、第三次が「コンピュータの実用化」、第四次が「ネットワーク&ユビキタス社会の進展」という位置づけです。これらは、いずれもが人間の精神環境(内面の表象世界)に対して革新的な影響を与えてきたことになり、今はまさに第四次革命の時代に入ったところです。この中でも、特に第二次の「グーテンベルグ活版印刷術」(ca1450)が到来したばかりのギリシア文化(ギリシア語文献)との直接的な接触・融合という(大)コジモの時代のフィレンツェでの出来事、つまり15世紀フィレンツェで起こった『近代ヨーロッパ精神の黎明期』における精神的・社会的な大変革(ドラマティックな文化融合現象)は、“人間存在”の条件を根底から変容・変質させるパワーを生み出したという意味で甚大なものであったと評価できるはずです。今、その流れの中から最も代表的なエポックをニつだけ取り上げてみると、次のようになります。この僅か二つのエポックを概観するだけでも、もし、この時にギリシア人たちがフィレンツェを訪ねる機会がなかったとするならば、また、彼らの「偉大な知の貢献」がなかったとするならば、フィレンツェルネサンス(イタリア・ルネサンス)がフィレンツェで開花することはなかったであろうと思われます。

フィレンツェにおける最も古いギリシア語学校は既に1397年に作られていたが、『1439年、東西統一公会議』を契機としてフィレンツェギリシア語熱が一気に爆発した。1460年には『ヘルメス文書』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9%E6%96%87%E6%9B%B8)のギリシア語版「写本」がフィレンツェにもたらされ、フィツィーノがそれを標準ラテン語で翻訳・出版し、これが『プラトン・アカデミーの哲学と思想』の土壌となった。この豊かな土壌の中からサンドロ・ボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロなどの豊潤で華麗なフィレンツェルネサンスの花が開花することになる。

古代ギリシア文化の「生命の風」を全身に浴びたポーランドコペルニクス(Nicolaus Copernicus, Miko?aj Kopernik/1473-1543)は「地動説」を唱えるようになり、この「地動説」を支持してローマ教会から異端宣告を受けたイタリアのガリレオ・ガリレイGalileo Galilei/1564-1642)は、アルキメデスを自らの師と仰いでいた事実が確認されている。また、ベローナ生まれでありながらコンスタンティノープル(ヴィザンツ)でギリシア語を学んだ人文学者グアリーノ・ダ・ヴェローナ(Guarino da Verona/1370-1460)は、ストラボン(Storabo/caBC64〜AD23)の『地理学』をギリシア語からラテン語に翻訳している。

  これら一連の文化面における画期的な出来事は、「本格的なイタリア・ルネサンスの発展・開花」、「地理上の発見」(大航海時代の始まり)、「宗教改革宗教戦争」、「市民革命」など16〜18世紀に次々と起こる大地殻変動に波及・連鎖して行きます。そして、これらの動向の中ですべてに共通するのが「宗教改革」及び「対抗宗教改革」という人間精神の根源から突き上げてくる情念世界の爆発的な沸騰です。やがて、フィレンツェ圏を中心とするギリシア語による古典文献の研究が進むにつれて、従来のラテン語聖書の定訳に含まれる夥しい数の<誤訳・誤解>が発見・指摘されるようになります。しかも、これらの<誤訳・誤解>の中には『ローマ・カトリック教会にとって都合のよい意図的な誤訳』までが含まれていることが明らかになるのです。これは「宗教・政治権力者によるガバナンス正統性とアーカイブの役割の問題」(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050309)に繋がります。また、それは、当然責任を負うべき政府自身が太平洋戦争末期に戦争責任に繋がる機密文書を焼き捨てることに熱中したという“恰も日本の政治権力が餓鬼道に堕ちてしまったような問題”にも関係します。ここには政治・宗教的な公正・客観はどのように確保できるのかという難問が絡んでいます。

  ともかくも、このためヨーロッパの人々の信仰の原点であった「ローマ・カトリック教会の聖書解釈」への信頼が崩れ始め、ローマ教皇の権威が大きくグラつくことになったのです。特に、フランスでは「ルイ14世によるブルボン朝の絶対王制」強化とともに『ガリカニスム(Gallicanisme)』(http://www.tabiken.com/history/doc/D/D323L200.HTM)の宗教・政治理論の伝統が強化され、後に、その動向は「政教分離の原則」をもたらす遠因になったとも考えられるのです。いわば、イタリア・ルネッサンスを準備した「東西文化の融合」が<ヨーロッパの知の精密化>をもたらし、それがローマ教会の「正統とカトリシズム(普遍性)」という名の「神の代理人の居城」を突き崩し始めたという訳です。やがて、この出来事は、まるでWeb上のハイパー・リンクを伝播するネットワークの広がりのように全ヨーロッパに隈なく拡大し、それが「宗教改革」の起爆剤を準備することになります。後は改革の炎を燃え立たせる導火線の着火が待たれるだけです。

  やがて、ルター、カルヴァンらの「宗教改革運動」、そして「オランダ独立戦争」、「ユグノー戦争」、「三十年戦争」など宗教戦争の勃発です。しかし、これに対するカトリック側からの反動(対抗宗教改革)は、多くの場合、極端にマニエリスティックな狂気の姿となって現れます。つまり、それは「異端審問」の弾圧や魔女狩りなどの残酷極まりない悲劇の形象です。これによって数多の人々が無実の咎で八つ裂きの刑や火あぶりの極刑に処され、虐殺されたことを思うと身震いがするほどです。また、プロテスタント側からの、特に熱狂的なカルヴァン派の抵抗運動も一部で甚だ過激なものとなり、その所業のカニバリスティックな残酷さと猟奇的とも言える惨たらしさは「異端審問」に引けをとらぬほど凄惨な地獄絵図を展開します。この状況は、事後の正確な検証で“ブッシュのイラク戦争開戦の理由”であった「大量破壊兵器存在」の根拠が脆くも崩れ去るとともに、関連して引き起こされた残酷で凄惨な捕虜虐待の顛末に酷似しています。つまり、「ローマ教会の普遍(カソリシズム/Catholicism)」も「イラク戦争大義」も、所詮は過半の一般大衆(ポーポロ・ミヌート/Popolo Minuto/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060419)の眼を眩ますための巧妙で偽善に満ちたメディア・コントロール(情報操作)であったということです。そして、ここで際立つのは、両者ともに、全世界の覇権を握る「政治・軍事・宗教・科学的権力」が“原理主義的”に癒着・融合し、「正義」の名の下で“おぞましくも悪魔的な地獄絵図”をこの地上世界にもたらしたということです。

  ここには、本来であれば人間の魂の救済者であるべき宗教的権威が最強の政治・軍事力と融合することで、それがいとも容易(たやす)く《悪魔的暴力装置》に化してしまうという「恐るべき歴史的事実の繰り返し」が開示されています。残念ながら、このような“人類全体の集団ヒステリー(集団狂気現象)の繰り返し”に抗えるものは、唯一、ひたすら平和を願い続ける「平和主義の信念」だけです。そして、このことは歴史を捻じ曲げずに正しく学びさえすれば理解できるはずなのです。しかしながら、一旦このように“全世界的な狂気”の饗宴(=戦争状態)が始まってしまえば「客観的な科学の知」も「公正で中庸な哲学の知」も「中立的な法の支配の原則」も無力化します。また、このような「平和主義の信念」は一般社会の中で大多数を占める我われ普通の人間の「現実感覚」(特に視覚的体性感覚のリアリズム)の問題と深くかかわっているのです。更に、この視覚的な体性感覚の問題は、ユビキタス時代を迎えるいま、パーベイシブ・コンピューティング・インターフェイス(Pervasive Computing Interface/参照、http://satoshi.blogs.com/life/2005/10/pervasive_appli.html)時代へ接近することで、新たな地平に入りつつあるようです。このような、謂わばゲーム感覚に近い視覚的体性感覚が社会生活の場面で大きなウエイトを占める時代には、“愚者が戦争を始める、本当のバカ者が戦争を支持する”と見做すだけの文脈的・論理的な意味での従来型のコモンセンスは危険になります。しかしながら、歴史を紐解けば科学技術の進展が目ざましく進みつつあった19世紀末の人々が、既に、これと似たような体性感覚の危機の時代を経験しており、それは造形芸術の営為に大きな影響を与えていたのです。我われは、このような状況から、また芸術作品のアウラhttp://www7.ocn.ne.jp/~gnosis/page062.html)の問題から何を学ぶべきか新たな思索を重ねる必要があるようです。 

(To be continued)