toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

“見栄え政治”が破壊する日本人の“精神環境の自由”(愛国心・政教分離など)

toxandoria2006-05-16



【画像】Francesco del Cossa(ca1435-1477)『Annunciation and Nativity (Altarpiece of Observation)』、1470 tempera on panel. 137 x 113 cm. Gem舁degalerie Gallerie, Dresden, Germany


・・・お手数ですが、大きな画像は下記URL(★)をクリックしてご覧ください。
http://keptar.demasz.hu/arthp/art/c/cossa/annuncia.jpg


  初期キリスト教時代のおよそ5世紀初めごろ「ドナトウス論争」と呼ばれる異端論争がありました(参照、http://en.wikipedia.org/wiki/Donatismhttp://www32.ocn.ne.jp/~kitaakitsu/infantbaptism.htm)。ドナトウス(Donatus Magnus/315-355)はドナトウス派キリスト教創始者で、本拠地は北アフリカヌミディアです。ディオクレティアヌス帝(Diocletanus/位284-305)いらい、彼らはローマ皇帝から厳しい迫害を受けてきました。彼らは、「迫害を受けた時にローマの官憲に聖書を引き渡して(つまり、官憲に信仰告白をせず本心を誤魔化して)生き延びた司教による聖礼典の執行は無効だ」と主張しました。これに対して、正統キリスト教カソリック)の教義を体系化した聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus/354-430)は、たとえ過去において信仰告白を偽ったとしても、それが「神の国」の正しい理念を掲げる教会(ヴァチカン総本山の権威が認めた司教がいる)の執行であれば、その「公認の聖礼典」は有効であると主張しました。


<注>興味深いことに、『ドナトウス論争』とほぼ同じころ“救いは神の恩恵だけではなく人間どおしのコミュニケーションの参与が作用を及ぼす”とし、また“原罪と幼児洗礼を否定して人間の自由意志を強調”した「ペラギウス派」も異端とされている。これはブリタニア出身の修道士ペラギウス(Peragius/ca360〜ca420)が唱えた神学説を信奉する一派であり、その考え方は後代の自由主義啓蒙思想の原点とさえ言える(参照、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%82%AE%E3%82%A6%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9)。


  ところで、キリスト教史的に見ると「中世」という時代区分はローマ教皇グレゴリウス1世(位590-604)の時から始まります。グレゴリウス1世は、東ローマ(ビザンツ)帝国のユスティニアヌス大帝(位527-565)の「皇帝教皇主義」(皇帝権が教皇権より上にある、つまり世俗的政治権力がキリスト教の最高権威より上位だとする考え方)と「東西ローマ統一」の野望が結局は失敗して、ビザンツ政権が衰退することを見越していました。やがて、グレゴリウス1世はローマの地の利を活かしつつ、ゲルマン国家のフランク王国 (メロビング朝)と手を結び「ローマ教皇権」(教皇皇帝主義)を確立します。このため、厳密な意味では、修道士出身のグレゴリウス1世こそが初めてのローマ教皇であったといえる訳です。いずれにせよ、グレゴリウス1世は「ビザンツ(ギリシア)・ローマ的キリスト教」を「ローマ・ゲルマン的キリスト教」へ変質させました。


  そして、この時にローマの司教であると同時にペトロの後継者としてのローマ教皇の権威が確立し、教皇を頂点とする『ローマ・カトリック教会』が成立したのです。つまり、カトリック教会独特の“教皇を頂点として一般信徒を底辺とするヒエラルキア”が完成したのです。これは、後のプロテスタントの「万人祭司説」(特権階級としての聖職者の地位を認めない考え)とは対極にある性質のものです。このカトリックのヒエラルキアは、人間社会の制度としては様々な矛盾も抱えていますが、そこでは『過剰に放任主義的な原理』を抑制したカトリック特有の『視覚型で静謐な信仰の形態』(荘厳な聖礼典、装飾的な教会建築物、造形美術、宗教音楽などを装備した/下記の<参考>を参照)が確立します。やがて、イタリア半島ルネサンス文化が開花するころになると、特に建築・美術分野ではギリシア・ローマ古典の中から「科学合理主義的な線遠近法のパースペクティブ」を獲得することによって、分かり易く明快で、かつ非常に完成度が高い近代合理主義的なヴィジョン(一種の固定観念化した視覚イメージ)が準備されることになります。その頂点に立つのがレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロらの芸術であり、フィレンツェなど北イタリア諸都市のソフィスティケイトされた都市計画と建造物です。


  しかし、実はこのような近代合理主義を“過剰に先取り”した新しいヴィジョンに対して疑いの目を持ち続けた芸術家たちが存在しました。それはフラ・アンジェリコ(Fra Angelico/1387-1455)、フラ・フィリッピーノ・リッピ(Fra Filippino Lippi/1457-1504)、フランチェスコ・デル・コッサなどの芸術家たちです。無論、彼らは現れたばかりの「近代合理主義志向型のヴィジョン」を直接的に表立って否定することはありませんでしたが、密かに「批判の目」のための巧妙な仕掛けを芸術作品の中に埋め込んでいたのです。ここでは、現代フランスの美術史家ダニエル・アラスの著書『なにも見ていない』(宮下志朗・訳、白水社刊、原著:Daniel Arasse『On n'y voit rien、Descriptions』、Publisher Denoel、2000)の中から、フランチェスコ・デル・コッサの『受胎告知』(Alte Meister Gallerie, Dresden)の例を拾ってみます。


<注>ダニエル・アラス(Daniel Arasse/1944-2003/参照、http://fr.wikipedia.org/wiki/Daniel_Arasse)・・・ヨーロッパで著名なイタリア・ルネサンスを専門とする美術史家。人文学的な知の先端を担うフランス社会科学高等研究所(EHESS/Ecole des Hautes Etudes en Sciences Sociales/参照、http://www.t3.rim.or.jp/~sfjti/a&u/studying/ehess.html )の「芸術の歴史と理論」部門で活躍した。なお、EHESSは大学制度から距離を置いた自由な教育・研究環境に特色がある。


  周知のとおり、この絵は初期ルネサンス期におけるフェラーラ派の画家コッサの傑作であり、聖母マリアに突然訪れた“神聖なる瞬間”を描いた作品です。この著書の中でダニエル・アラスは、コッサらの絵を理解するためには、“過度にアカデミズム化したイコノロジー”(Iconology/図像解釈学/歴史的、社会的、文化史的な総合的観点から絵画の内面的な意味を研究する学問でパノフスキー創始者http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0928.html/キリスト教の寓意(アレゴリー)図像研究などで絵画の“構想の軌跡”を探るイコノグラフィー(Iconography)とは異なる)に頼り過ぎることは、それが我われ人間の「眼」(リアリズムを認識する総合的な感受性)を曇らせるので危険だとすら言ってのけます。


  ダニエル・アラスは、先ずこの絵がそれほど大きなものではないこと(137 x 113 cmの祭壇画であること/下の横長の小さな絵は下壇正面の独立した絵)を指摘します。次に、その絵の大きさに比べて右下の額縁のラインにそってユックリ歩む(ように見える)、約8cm(ガブリエルの靴の約1/3程の長さ)という異常な大きさの“カタツムリの謎”に注目します。この“カタツムリ”については、聖母マリアの象徴としての解釈などイコノグラフィーあるいはイコノロジーによる研究が行われていますが未だに定説がありません。一見したところ、この絵は同時代の他の作品と同じように厳格な線遠近法で描かれているように見えます。しかし、ダニエル・アラスの検証では消失点の設定に無理があるため、天使ガブリエル(左手前)とマリア(右中央)の位置関係やマリアの背後にある寝室などの配置に矛盾が生じています。結局、アラスはコッサが描いた世界は人間の尺度に見合った(人間が目でみて理解し易い)、有限で閉じられたものに過ぎないというのです。


  もともと、「受胎告知」(Annunciation and Nativity)とは、マリアの受託にともなう受肉の瞬間であり、それは人間の目には見えない無限なるものの尺度あるものへの降臨なのです。言い換えれば、それは形象不可能(不可視)なものの形象への降臨(可視化)のはずです。従って、“科学的な遠近法の構図”の下の縁をゆっくり歩む“カタツムリ”は、この絵を見る者に対して「あなたがたは、そのまなざしで、なにも見てはいないのだよ」と語りかけているというのです。まさに驚くべき発見です。しかも、“カタツムリ”は視力(視覚能力)を殆んど持たないので、彼(彼女?)は“科学的な遠近法の構図”の縁をゆっくり歩みながら、後はひたすら「嗅覚」と「触覚」を働かせる他ないのです。これは、まことに驚くべき「視点の発見」ではないでしょうか? 因みに、マリアに受肉の瞬間を与えた当事者である神はどこにいるのでしょうか? どうやら、それはこの絵の消失点から外れた遥か左奥の青い天空に小さな雲のように浮かんでいらっしゃるようです。


  ダニエル・アラスの見解によると、どうやらフランチェスコ・デル・コッサら初期ルネサンスの画家たちの一部は、余りにも分かり易く見えすぎる“近代合理主義”(線遠近法)による見えない世界(内面世界)の説明が危険であることを予感していたようです。つまり、彼らは、このような形で“世俗権力と宗教(聖権)の癒着”が高じると、宗教がいとも容易く「国民総家畜化のための道具」と化すことを警告していた訳です。「小泉首相靖国参拝」や「愛国心」、更には「共謀罪」の問題など、謂わば“国民の内面世界に対するあからさまな政治権力の介入”で悩まされ続ける今の日本は、彼らの警告を改めて真剣に受け止めるべきです。


 「2001.9.11N.Y.同時多発テロ事件」以降の世界は、“見えない敵の脅威”に怯えるばかり(<注>コトの真相は、ますます藪の中状態!/参照、http://tanakanews.com/g0516WTC.htm)のアメリカ・ブッシュ政権に引きづられています。日本の政治も、ひたすら「分かり易さと見えやすさ」ばかりを演出し続けており、大方のマスメディアも、これに迎合するばかりです。そして、いまブッシュ配下の優等生を自負する小泉政権が法制化への取り込みを急ぐのが「愛国心」と「共謀罪」です。また、このチャンスを利用しようとするウルトラ右派の推戴に甘んじる小泉首相は「靖国参拝」(政教分離の原則の無視、軍事国体論への回帰)に頑強に拘り、結果的に日本の国益をひどく毀損しています。このような意味で、小泉政権が“一見の分かり易さ”を演出して国民を誑かし続けようとする流れの中でこそ、「沖縄返還協定に関する密約の問題」(http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200604010932026http://tekcat.blog21.fc2.com/)も理解する必要があるようです。


  独裁的な帝国主義国家であれ、絶対王制国家であれ、民主主義国家であれ、詰まるところは一般国民(その国を構成する一般民衆の存在)が有ればこそ、その国家が存在し得るのです。現代日本の政治権力者たち(小泉シンパ)と過半の日本国民は、このように単純な現実を「嗅覚」で探る術をスッカリ忘れ去っているようです。“神の代理人を語る権力による擬装リアリズム(悪魔に支配される恐れがある精神環境の不自由)のために人間が存在するのではなく、ここに現実に生きる生身の人間のためにこそ神(神と対話する内心の自由)が必要である”ことを我われ日本人は忘れ(させられ)ています。今の日本が酷い「暴政の時代」である所以です。かつて、ローマ帝国の“皇(狂)帝ネロ”が嵌った陥穽も、これと同じです。フェラーラ派の画家フランチェスコ・デル・コッサの“カタツムリ”は、この“のろまでゆったりとした嗅覚のリアリズム”の必要性を時代を超えて“明示”しているのです。また、このような観点から見ると“小泉首相靖国参拝行動”などは“頑迷なナルシズム病を患う奇怪なライオン髪の毒蛾が羽ばたく姿”のように見えてきます。これは、まさに“サテュルヌス(悪魔)のお使い”に他なりません。彼が説教しようとする“愛国心”などは“悪魔のお使い”の戯言(たわごと)です(<注>本来、蛾と同じように飛ぶための羽を持つ“てんとう虫”は“マリアのお使い”の象徴)。


  そして、今、細心の注意を払うべきことは“我われにとって最も分かり易いのが「殺人と戦争(公認の殺人)」(目に見え易いモノ)で、最も分かりにくいのが「平和のための努力の継続」(目に見えにくいモノ)だ”ということです。


<参考>カトリック特有の『視覚型で静謐な信仰の形態』確立の歴史


 ビザンツ皇帝ユスティニアヌスからローマ教皇グレゴリウス1世の頃、つまり4世紀から6世紀頃に東西キリスト教世界で目立つエポックを纏めると次のようになる。つまり、これは“漸く中世初期ごろになって「キリスト像など視覚的な威厳表現」が重視されるようになった”ということである。


修道院の成立
・・・修道院成立の起源は4世紀のエジプト。ヨーロッパでは聖ベネディクトウス(Benedictus/ca480-543)が本格的な修道院を始めた。修道院の瞑想・読書・労働の生活が人々に大きな宗教的感化を与えて、多くの土地の寄進を受けた。やがて、修道院は大規模な土地経営者となり、民族移動期の混乱した社会で、精神的・経済的に安定した要因となった。グレゴリウス1世がビザンツの皇帝教皇主義に対抗できた後ろ盾として、修道院の存在は大きなものであった。


●教会の儀式・典礼の整備


●讃美歌の発達


●大会堂の建立(キリスト教建築史上の大きな変化)
・・・バジリカ方式(古代ローマ時代の公共建築物(裁判所・市場等)を模した長方形の教会堂建築/身廊・側廊があり、東端が祭壇)やビザンツ方式(大ドーム、大理石・モザイク等による内部装飾が特色)が発達した。現存する、イスタンブール(旧コンスタンティノポリス)の『聖ソフィア大聖堂』が完成した(537)のは、ユスティニアヌス帝の時。


●キリストの図像にヒゲが生ずる(キリスト図像学上の大きな変化)
・・・古代のキリスト像にはヒゲがない。


●「クリスマス=12月25日」と定める。
・・・354年、ローマ司教リーベリウスの時、ミトラ神(元来はインド・イランの神/ローマでは、BC1〜5世紀頃、密儀宗教として流布)の冬至祭に合わせた。


●西暦年数のカウント開始(532〜)
・・・ローマの修道僧ディオニシウス・エクシグウスが「処女マリアへの受胎告知」は、ローマ暦の753年と計算したことによる。この計算には4年の誤差があることは周知のとおり。


 次に、ローマ教皇グレゴリウス1世の重要な事績をまとめておくと次のとおり。


イングランドアイルランドへの修道士の派遣、伝導開始
・・・フランク王国がイギリスから“中世文化の開拓者”とされるアルクイン(Alcuin/735-804)を招き、その指導にあたらせた「カロリング・ルネサンス」(カール大帝の時/9世紀初頭)の布石となる。


典礼儀式(礼拝順序)の整備


③グレゴリア聖歌(Cantus Gregorianus/ローマ教会が典礼文を朗誦する伝統旋律)の編集・整備


教皇(Papa)称号の創始(教皇皇帝主義の確立)
・・・ペテロに由来する使徒的伝承の保持を宣言した。