toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

“形象不可能なるものの形象への降臨、受胎告知図”についての考察



【画像】カルロ・クリベリ『聖エミディウスがいる受胎告知図』 「The Annunciation with St.Emidius」 1486 Oil on wood transferred to canvas  207 x 146.5 cm National Gallery 、 London
・・・お手数ですが、大きな画像は下記URL★をクリックしてご覧ください。
http://www.abcgallery.com/I/italy/crivelli2.html

【結論】


●謂わば、現代の世界は「悪魔」(人間精神の魔術的な要素)を否定したはずの「科学合理主義」と「哲学」(及び非“カルト”宗教)が、人間の自由をベースとする現代の民主主義を漸く実現したにもかかわらず、本来は一線を画し続けるべきであった「科学合理主義」が「政治権力」(善と悪の配合的バランスがエネルギー源)と癒着してしまったことによって、「悪魔」の逆襲に晒されている。この癒着の賜物の一つが「新自由主義」なるカルト的エセ思想である。


●別に言えば、これは「現代政治が再び魔術(悪魔)的政治へ逆戻りしつつある」ということだ。そして、そこに介在する有力な「悪魔の手段」は“過剰な視覚イメージへの精神環境の傾斜”(=聴覚・触覚・嗅覚・味覚を犠牲にした、一見したところの分かり安さへの傾斜、つまりプラグマティックで過剰なプレゼンテーション効果への傾斜)である。


●そして、この傾向を助長するのがジャーナリズム能力を根底から失った大方のマスメディアであり、特に“淫猥な小悪魔たちに魂を売り払ったテレビの低劣な映像の垂れ流し”は有害であり、それは大悪魔の息が掛かったジャーゴン(Jargon/政治的意図で意味不明とされた術語・隠語/参照、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E8%AA%9E)の放射に他ならない。従って、日々に我われの精神環境は「悪魔の吐息と涎(よだれ)」で汚染されつつある。


●そして、イラク戦争の結果にも懲りず、再びアメリカ・ブッシュ政権は「アウグスティヌスの正戦論」を持ち出そうとしている。「アウグスティヌスの正戦論」を精緻化したのがトマス・アクイナスであり、それが国際法(国連の機能)と戦時法の基になったことは確かかも知れない。しかし、これには「政治権力に対して一定の民主的な監視機能」が作用するという条件が付いていたはずであるが、肝心のアメリカはもとより、その隷属的な同盟国に甘んじる日本では、殆んど、この悪魔的な政治の暴走に対する監視機能が働かなくなっている。


●従って、今、我われはダニエル・アラスが言うところの“形象不可能なるものの形象への降臨が受胎告知図である”こと(精神環境のあり方についての重要な示唆)について、根底から省察することの重要性を自覚すべきである。つまり、「聖母マリアの受胎告知」に象徴される「人間のピュアな精神環境」はフラジャイルで壊れ易く、それは絶えず「悪魔の種」を仕込まれた「魔女の受胎告知」に取って代わられる恐れがある。それ故、我われは、「科学合理主義」と癒着したため「悪魔」の逆襲に晒されつつある「政治権力」への監視を怠るべきではないのである。


【考察のプロセス】


●何故この世界に悪や苦しみが存在するのか? 悪魔は本当にいるのか? それはどんな姿なのか? 神と悪魔の関係はどうなのか?人間は徹底して悪の問題を避けられるのか、そして、今も現実世界に溢れている“悪徳政治”と“悪魔のような所業・事故・事件”の数々、例えば戦争、テロ、殺人、凶悪犯罪、ガンなど重篤な疾患、大災害、悲惨な事故、経済格差の拡大傾向、等々・・・。かつて、これらの悪魔たちと徹底的に闘い抜いてローマン・カソリックの体系(ヴァチカン教皇庁の体制)を構築したのが聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus/AD354−430)です。そして、現代の世界を見回せば、IT化の進展(ネットワーク化、ユビキタス化)による投資活動のマネーゲーム化の助長もあって、これらの“悪魔”たちが跳梁跋扈するフィールドが確実に広がりつつあるようです。だから、我われは、これら“悪徳”の数々(悪魔、小悪魔たちの暗躍)から一時も目をそむける訳にはゆかないのです。(参照、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3お%83%8C%E3%82%B9)


●しかしながら、必ずしもグローバリズムそのものが悪とは言えないながらも、「科学的な知恵と力」の支援によって加速的なグローバリズムの時代に入った世界は、ますます「我われに対して強制的に消費を強いる時代」に突入してしまったようです(既にアメリカ社会は、この強制消費のメカニズムにスッポリと嵌っています)。それは、我われが“ともかくも必要以上に消費を拡大し続けることを宿命づけられてしまった”ことを意味します。なぜなら、この努力を怠ると世界は「基軸通貨たるドル暴落」という悪夢の中に投げ出され、世界中が連鎖的に大パニックに陥るからです。どうやら、これが“現代の悪魔の正体”の一部であるように思われます。つまり、それはカルト的エセ思想である「新自由主義」の賜物という訳です。


●しかし、過去においては、この“悪魔”と“人間の聖なる真実”が調和した時もあったと思われます。いや、ともかくも“調和させるように人間が真剣に努力した、そして、そのような努力が可能な時代があった”のです。周辺世界が恐ろしい悪魔たちの棲家で、地の果てがどうなっているかも分からないような“野蛮な環境に満ち満ちた時代”であったにもかかわらず、人々が、ともかくも“悪魔”と闘い、聖なる力によって悪徳と調和した世界を実現させようと呻吟していた時代があったのです。それは、例えばアウグスティヌスが生きた初期キリスト教時代であり、初期ルネッサンスの時代です。喩え、数多の迷妄や残酷と不条理が満ちていたとしても、それは、ある意味では現代より良い(正義の哲学のパワーが有意義で有効な)時代であったのかも知れません。


●ところで、現代フランスの美術史家ダニエル・アラス(Daniel Arasse/1944-2003/参照、http://fr.wikipedia.org/wiki/Daniel_Arassehttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060516/ヨーロッパで著名なイタリア・ルネサンスを専門とする美術史家)は、著書『なにも見ていない』(宮下志朗・訳、白水社刊、原著:Daniel Arasse『On n'y voit rien、Descriptions』、Publisher Denoel、2000)の中で「“形象不可能なるものの形象への降臨”こそが“受胎告知図”という画家の仕事だ」という、いささか謎めいた、しかし奥深い意味を感じさせることを主張しています。


●そして、この言葉を代表するような絵がロンドンのナショナルギャラリーにあります。それはカルロ・クリベリ(Carlo Crivelli/1430-1495/ 故郷ムラーノ島を長く離れることになったにもかかわらず、パドヴァ派、特にマンテーニャの大きな影響を受けながらもヴェネツィアムラーノ島)の個性的な空気と伝統の中で培った感性から極めて特異な画風を作り上げた画家)の描いた『聖エミディウスがいる受胎告知図』(The Annunciation with St.Emidius、1486)です。この絵は、画家カルロ・クリベリが生まれた都市、アスコーリ・ピチーノ市からの注文で描かれたもので、画題に名が付く聖エミディウスはアスコーリ・ピチーノ市の守護聖人です。


<注>カルロ・クリベリ
・・・ムラーノ島出身のカルロ・クリヴェリ(Carlo Crivelli/1430/31?-1493/1500?)は、1457年、船乗りの妻を誘拐した姦通罪のかどで6ヶ月の刑を宣告されたため、ムラーノ島を去ってパドヴァに移り住むことになりました。その時パドヴァ派の巨匠マンテーニャ(Andrea Mantegna/1431-1506/北イタリアにおける初期ルネサンスの最大の画家/明確な鋭い曲線で解剖学的な形態を描く手法と厳しい線遠近法を採用した)の大きな影響を受けたとされています(参照、下記URL★)。

★[ブログtoxandoriaの日記、2005-03-17「ヴェネツィア派の誕生」と歴史的リアリズムの意味(2/3)]
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050317


●古い記事ですが、【2005-03-17「ヴェネツィア派の誕生」と歴史的リアリズムの意味(2/3)(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050317)】から、関連部分の記述を抜粋しておきます(原文、P6〜P10の一部をtoxandoriaが意訳した)。


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現代における優れたルネサンス研究者の一人と目される英国の女流美術史家リサ・ジャルディ-ヌ( Risa Jardine)は、著書『Worldly Goods』(1998、W.W.Norton)の中で、このクリヴェリの『受胎告知』の個性的な表現について次のように述べています。


 夥しいほど多くの貴重で高価な事物が、マリアが住まう建築物の外まで溢れている。見るからに貴重なものであることがわかる石や陶器製の壷には多くの植物が植栽されており、それらの高価な壷類は回廊の手摺の上に置かれている。右上の回廊の手摺にはオリエンタル風の敷物が掛けられており、それは回廊の外壁に装飾されたテラコッタ製の浮き彫りを部分的に隠している。その敷物の傍にはエキゾティックな孔雀が止まっている。


  鳩の棲家だと思われる鳥籠の傍には、陶器製の壷に設えたもう一つの植栽が置かれている。遠方のアーチ橋の上では二人の人物がビジネス交渉を行っている。恐らく、彼らは仲買人か外国からやってきたビジネスマンなのであろう。この絵の前景では、神と神に選ばれた者(マリア)との間での精神的な交流(取引)が行われ、遠景の橋の上ではビジネス取引(交流)が行われている。そして、この遠景と前景の“交流・取引”(transaction)が、クリヴェリの絵の中ではイメージ的に共鳴し合い、合わせ鏡のような干渉の作用をもたらしている。


  画中のトルコ経由で輸入されたペルシア絨毯は、このような絨毯を取り扱う商人の店先に吊るしてあった実物をモデルに描かれたのかもしれない。より現実的に考えれば、これらの絨毯類は、当地の親切な商人が貸し出した本物のペルシア絨毯を実際にクリヴェリが見て模写したものに違いないし、あるいは、その絨毯を貸してくれたのは、どこかの財産家のパトロンであったかもしれない。今では、このクリヴェリの絵は“ペルシア絨毯の歴史”についての貴重な証拠(記録)として、多くの専門家によって、よく利用されている。つまり、今日では、このクリヴェリの絵は“絨毯のデザイン”が15世紀中にどのような変遷を辿ったかを知るための貴重な歴史資料でもあることが理解されるようになった訳である。別に言うなら、この絵の中の「ペルシア絨毯」は、「聖母マリアの手と腕」を恰も生きた肉体のように見事に描いた技術と同等の力量を発揮して、画家クリヴェリが細心の精神力を注ぎながら巧みに写し取った『現実』(real)なのだということである。


  たとえ専門家のような特別の関心を持たなくとも、これらの活きいきと描かれた珍しい事物の姿や形、そして豊かな装飾の中に我われの注意力はすっかり吸い込まれそうになる。また、この絵の中では聖母マリアの象徴的な属性がリアルに描かれている。例えば、棚に置かれたガラス製品はマリアの受胎の純潔さを表わしている。光そのものの性質を失わずに光がクリスタル・ガラスを透過する如く、聖母マリアは彼女の純潔を失うことなく子(キリスト)を宿したという訳である。


  消費財に関する、クリヴェリのこの恐るべきほど正確な視覚リアリズムによる再現の対象は、イタリア半島の物産だけに限られてはいない。聖母マリアの身近には、世界中からあらゆるニーズの大きい商品が集められている。これらの様々な商品と物産は、およそ北フランスあたりからオスマン帝国にまで及ぶ広域な市場で活躍するイタリア交易商人たちの誇りを物語っている。そして、マリアの周囲には次のようなものが集まっている・・・イスタンブール経由で入ってきた使い心地がよさうなペルシア絨毯、部屋に架かっているアラス織りのカーテン、ヴェネツィア産の繊細で洗練されたガラス製品、スペイン半島内イスラム圏からやって来た金属製品、中国産の磁器と絹、ロンドンからやって来た広幅生地(broadcloth)など様々である。15世紀半ば頃までには財力(金銭)さえあれば手に入れることができるようになっていた貴重な日用品の数々を、クリヴェリは細心の配慮で描いている。クリヴェリの仕事の多くは、このようにエキゾティックでニーズが大きいものの世界を描くことに費やされている。多くの人々から祝福され支持された、当時の貿易商たちのグローバルな交易活動そのものがクレヴェリ自身にとっての実利に結びつくビジネスを提供していたのであった。つまり、この初期ルネッサンスの時代には、進取の心意気に溢れた「経済・交易・ビジネス活動」とピュアな「精神世界」の交流が、ごく当然のこととして日常的に行われていたのである。


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●この記述から何を感じることができるかは人により様々であり、人々の生き様しだいのところがあると思います。しかし、現代の我われは、有無を言わせず加速し続けるグローバリズムの時代を生き抜かなければならないのです。このように超多忙で粗雑化する一方の現実世界の中で、我われは何か大切なことを忘れがちとなっているようです。そして、これほどモノと情報が溢れて“豊かな時代である”にもかかわらず、日本らしさがどんどん失われ、日本と地方の文化が崩壊しつつあります。そこで見られるのは、老若男女の別を問わぬ心象風景(精神環境)の貧困化と粗暴化であり、街並みや自然環境など日本の伝統美や美しい景観の破壊が深刻化しています。そして、ますますテレビに映る人々(キャスター、コメンテータ、御用学者、テレビ好きの国会議員、芸能タレントら)の相貌が貧相になるのは、どうしたことなのでしょうか?


●このようなことを考えるためのヒントを一つだけ挙げると、それはクリベリの『聖エミディウスがいる受胎告知図』の中で、この絵の真下の縁に描かれている「瓜」(または胡瓜)と「林檎」にあると思われます。「受胎告知図」の同じような場所に「カタツムリ」を描いた例があり、それは同時代(初期ルネサンス)の画家フランチェスコ・デル・コッサの『受胎告知』(Alte Meister Gallerie, Dresden)です(この事例については、[ブログtoxandoriaの日記、2006-05-16“見栄え政治”が破壊する日本人の“精神環境の自由”(愛国心政教分離など)]で詳述している/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060516)。


●ダニエル・アラスによれば、フランチェスコ・デル・コッサの「カタツムリ」は、「余りにも分かり易く見えすぎる“近代合理主義”(線遠近法)による見えない世界(内面世界)の説明が危険である」ことを予感し、見る者たちへ警告を与える意図が隠されています。それとは少し意味合いが異なるものの、このクリベリの『聖エミディウスがいる受胎告知図』の場合も、朽ち果て易い野菜と果物を受胎告知図と現実世界の境界に置くことで、我われ現実世界の人間に対して「このグローバリズム経済がもたらした豊かさと静謐さが調和した聖なる受胎告知の瞬間の奇跡のイメージも、我われ人間の精神世界のあり方一つで朽ち果て易く、非常にフラジャイルなもの(弱々しく儚いイメージの世界にすぎないもの)である」ことを警告しているようです。


●その「儚い聖なるイメージ」が壊れたとき、突如として、世界が暗転するかのように我われの精神環境の中に出現するのが「悪魔」や「小悪魔」の仲間たちの、一見では華麗で色香に溢れた甘美な風情ながらも“内実はオドロオドロしい悪魔の表象”です。それは、まさに「聖母の真実」ならぬ「魔女の受胎告知」です。その「悪魔の表象」が、今や再び中東地域(イラン、パレスチナなど)で「米軍による新たな戦争への誘惑」の媚を売り始めています。一方、稀代のプレゼンテーター(天才詐欺指的なパフォーマー)たる名宰相・小泉首相を戴く日本政府は「愈々、日米軍事同盟が世界規模になった!」と胸を張っており、その背後では、再び、各国の産軍複合体企業が出番を待ち望んでおり、やがて鳴る「悪魔の饗宴」の始まりを告げる恐るべき魔女のファンファーレの響きに聞き耳を立てています。