toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

“好感度”抜群の寄生政治家が創る好戦的な「妖術国家・日本」

toxandoria2006-06-12



【画像】P.ブリューゲル『狂女フリート』 Pieter Brueghel the Elder(ca1528-1569)「Dull Griet(Mad Meg)」c. 1562   Oil on panel  117.4 x 162 cm  Museum Mayer van den Bergh  Antwerp
・・・お手数ですが、大きな画像は下記URL(★)をクリックしてご覧ください。
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/bruegel/mad-meg.jpg


<注>この記事は、たまたま再読していた中野考次著「ブリューゲルへの旅」(河出文庫版)と[「2006-05-30“形象不可能なるものの形象への降臨、受胎告知図”からの反照/http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060530」へ頂いた、renshiさま、kaisetsuさま、レオン様のコメントがオーバラップして浮上した感想をまとめたものです。


(中野考次著「ブリューゲルへの旅」(河出文庫版)、“狂女フリート”の章より抜粋(部分))


・・・前、略・・・ブリューゲルの絵がなぜわたしに働きかけてくるのかという点については、知識はなんの手助けもしてくれなかった。ある研究者はそれをマニエリスムとして様式的に説明し、ある人は近ごろ流行のイコノロジーから個々の形象の意味を解明していた。・・・中、略・・・絵といえば印象派、文学といえば近代文学の個性の劇、大事なのは独創的個性である。芸術は実人生から独立した価値である、詩は純粋に詩であればよく、絵画はひとえにただ色彩、つまり視覚的な感覚だけにまで純化されねばならぬ。芸術家とはそういう純粋な価値の世界に身をささげ、実人生の外に個と普遍とを追及する者だ、云々。どうしてああいうくだらない考えにとりつかれてしまったのだろう。・・・途中略・・・結局、そんな近代的芸術観にたいしあの画家はまったく違う世界を提示しているわけだ、と思う。たしかにあそこではもはや中世的な神の秩序は壊れてしまっている。それは疑いえない。だが、画家の個性とか主観が画面を構成しているのでもない。ディテールはすべてそれだけで明確な物としてそこにある。にもかかわらず、明確なそれらの形象が集まって一つの大画面を構成するとき、それは互いが互いに無限に関わりあいつつ、こっちが他を規定し他がこっちを相対化し、行く目と帰る目が行違い、物をイロニー化し、全体を見方によっては緑にも赤にも光る玉虫色の複合体にしてしまう。あの目の働きは一体なんなんだろう。一人の目が世界を見、表現しているのではない。まるで描き手までが、見る者でありつつ見られる一個のものとなって、画面の中に飲み込まれているかのようだ。狂女フリート、あの力強い魔女も全体の一部にすぎず、彼女も関わりの相対化に犯されずにいない。ともかくたしかなことは、とわたしは打ち切るように呟く。この画家は主観対客観、自己対社会、自然対人生というような一筋縄の対比で割り切れる人物ではないということだ、と。そういう近代的二元論の発生する元まで彼の目はとどいてしまっているかのようだ。彼の目は同時にすべての層を見る。その言葉にまず耳を傾けねばならぬ、と。・・・後、略・・・


(同上、“傲慢”の章より抜粋(部分))


・・・前、略・・・近代世界は、自然的な世界を改造して歴史的な世界をつくり出す。そして歴史的世界のみが、始めと終わりをもつのである。自然はくりかえす。しかし自由はそこから脱却して目的をめざす。科学技術の進歩にしたがって世界が自然状態から文明社会へ改造されていくに従って、歴史的性格は深まっていき、そしてその内面構造を観察すれば、世界は自然のまま横たわっているのではなく、自由の上にもち上げられているように見えてくるにちがいないのである。世界が人間のかたちに似せて改造されてくる。そこに人間の知性には深い崩壊の予感があらわれてくるのである。この状況が、現代人をして終末論に直覚的に親しましめるものを生み出したと思われる。近代世界が古めかしい聖書的終末論になじむのは、近代社会の構造が終末論的になってきているということにほかならない。・・・後、略・・・(注)これは、中野氏が“大木英夫『終末論』から引用した部分である。


(同上、“イカルス”の章より抜粋(部分))


・・・前、略・・・密告制度の上に成立つスペイン風異端審問制度の下では、嫌疑がかけられただけで、もはやどんな猶予も許されぬものだったと、シラーは記している。異端取締の目は、すべての印刷物のみならず絵画作品の上にまで及んでいたのだから。・・・後、略・・・


●この中野考次氏(ドイツ文学者、50歳を過ぎて挑戦した処女作「麦熟るる日に」が平林たい子文学賞を受賞/残念ながら2004年に79歳でご逝去されている/参照、http://members8.tsukaeru.net/senjukai/Zakki/NakanoKoji.html)の名著『ブリューゲルへの旅』(単行本の初版は1976年刊)は、最終的に「エッセイスト・クラブ賞」を受賞しました。しかし、この本が出版されたばかりのときには雑誌ユリイカの鼎談批評で美術史家などアカデミズムの泰斗から酷評とバッシングを受けたことは有名な出来事です(詳細、後述)。


●中野考次氏の慧眼は日本の30年後を見抜いていたと思われます。つまり、新自由主義思想(ド過ぎた自由主義と利己主義、市場原理主義、そして村上ファンドホリエモンに象徴されるド拝金主義)に翻弄されて深刻な格差が拡大する一方の国民層の不安と苦悩もなんのその、“歴史に名を残すことが唯一の目的であるナルシスト宰相・小泉氏”は、嬉々として軍需産業帝国アメリカ・ブッシュ大統領の後塵を拝するのに大わらわで国会審議など上のそらです。そして、その「神聖な指揮棒」を正統に引き継ぐのが、“狂女フリート”ならぬ国民的人気ド抜群(マスメディアによれば多くの善男善女に対する好感ドも抜群らしい?)のマッチョ&マッド・マン安倍氏ということになっているようです。


●kaisetsuさまによれば、特に小泉政権下で目立つ一連のキッチュ(Kitsch/大衆に媚びた低俗で悪趣味なこと)な現象、例えば「5年にも及ぶロングランの小泉詐欺劇場」、「国際的に恥を晒した渦中の贋作者・和田某(ペテン師画家)に対する芸術選奨文部科学大臣賞)授与のアカデミックな茶番劇」、「小泉改革規制緩和市場原理主義)、村上ファンドホリエモンの、まるでロンドを踊るかのような共振現象」などに共通するのは、“近代の開始”という一種の“倒錯現象”であったようです。これは、中野考次氏が指摘する“ブリューゲルの狂女フリート”のモチーフに重なります。


●特に、今回の「国際的に恥を晒した渦中の贋作者・和田某(ペテン師画家)に対する芸術選奨文部科学大臣賞)授与のアカデミックな茶番劇」は、既述のとおり、かつて独文学者・中野孝次氏が名著『ブリューゲルへの旅』を出版したとき、これがブリューゲルの絵画を厳密に検証しつつ、そこへ自らの半生を重ね合わせた内面の告白の形を装った優れた文明批評であったにもかかわらず、高階秀而、中村雄二郎山口昌男らの美術史の専門家と文化アカデミズムによって罵倒に近い批判を受けたことを思い出させます。つまり、ここでも“近代という名の深刻な倒錯”が観察されるのです。


●renshiさま、イオンさまのコメントから得られた理解は、本来であれば認識論的かつ論理的説明から必然的に導かれる倫理的手法で解決に向け地道に取り組むべきであるにも拘わらず、イディア界と実在界の関係を地道に説明することに苛立ちを感じた(或いはアカデミズムと科学が権力と癒着した)場合に、聖俗癒着(特にカルト的エセ宗教と政治の癒着が起こった場合)の政治権力が嵌り易いのが“分かり安さ”(視覚型の現象リアリズム重視)というポピュリズムへの傾斜(政治手法としてポピュリズムを選択すること)だということです。


●これが、ブッシュ政権や日本の小泉・安倍など所謂『寄生政治家』たちに付き纏う胡散臭さの背景です。ブッシュは固より小泉・安倍ら“世襲政治家”の中には狂信の臭いすら巣食っています。これは、部族社会的・家産制的原理と擬似宗教観による呪縛的な使命感で大量虐殺の残忍な歴史を刻印した「絶対王制時代の権力者」たちの“錯誤の姿”に重なります。そして、この矛盾と葛藤したのがイエズス会であったという見方も可能かも知れません。


●ただ、イエズス会については、大航海時代に入り、新大陸からの銀の大量流入によって急激な物価上昇(インフレ、価格革命)が起こった16世紀において、スペインのサラマンカ大学(創設1218年、世界最古の大学の一つ/http://www.usal.es/web-usal/Ingles/Universidad/Historia/Historia.shtml)のイエズス会派の神学者(サマランカ学派)たちが「公正な価格とは自然な交換(市場での交換)で決まる価格の上でも下でもない」と定義しており、これはその後の新古典派の「限界効用の理論」を想起させるユニークなものとなっていることも忘れるべきではないと思います。このため、ハイエクは“資本主義の基盤をつくったのはイエズス会の教義だ”とさえ述べているようです。


●ところで、toxandoriaは芸術論的にも、自然との一体感を重んじる東洋美学に惹かれるものを感じていますが、キリスト教文化も究極には“自然との一体化の問題”まで行き着くのではないか、と思われます。この点に関して、kaisetsuさまは、下記の本(★)を必読書として挙げておられます。
鈴木大拙・著、上田閑照・編『新編・東洋的な見方』(岩波文庫


●従って、プロテスタント的思考を淵源とする「新自由主義思想」が現代の日本で大いに誤解されていることを危惧しています。詰まるところ、「新自由主義思想」とは自然破壊・地球破壊の思想であり、だからこそ欧米では、例えば“苦悩する拡大EU”の姿に見られるように、その矛盾を克服しようとする努力がキリスト教社会の中から芽生えています。アメリカ社会すら、その例外ではあり得ません。


●ところが、例えば小泉政権がこの5年間に行ったヤミクモの競争原理導入の弊害が噴出しつつあることで明らかなように、日本国民の多くは自らが既に手にしているはずの貴重な価値観(東洋哲学・美学的な価値観と社会観)までをも、この「競争原理」(新自由主義思想)の“美名の下”で破壊し尽そうとしています。


●そして、この間隙に侵入してきたのが複数の妖しげなカルト教団神道系、仏教系、キリスト教系)の暗躍です。しかも、恐るべきことは小泉・安倍など一部の“国民的な人気ド、好感ドが大きい寄生政治家”(民主党の一部も含む)たちが、これらカルト教団の支援(愚民層・弱者層を餌食にした霊感商法などからの上納金と選挙票の取り纏めなど)を受けながら、日本国憲法が定める政教分離の原則などクソ喰らえで政権維持体制の確立を図りつつあることです。


●このままでは、日本が全世界から孤立することになります。つまり、日本が、非近代的なカルトと好戦的な闇の勢力に仕切られた“妖術国家”(同時に、軍需産業帝国・アメリカの紛れもない傭兵国家の位置づけ)になる懸念があります。このような”危機感の欠如”こそが問題だと思います。今の日本で最も不幸なことは、テレビ・新聞などメジャーなマスメディアの危機感を掴む感覚が殆んど麻痺していることです。特に、テレビ局の番組づくりの劣化と経営者層の意識のモラル・ハザードは恐るべきものがあります。


小泉首相の後継者と目される安倍氏の“好感ド調査”などをやる暇があるなら、安倍氏の人物像・思想・業績などを詳細に調査し、広く国民へその実像と隠れた姿を抉り出して伝えるなりの仕事に取り組むべきです。また、任期切れが間近い小泉首相が急速にやる気を失ったようになっている(通常国会の会期延長問題よりも、早く訪米してプレスリーの故郷や記念館を訪ねるのが楽しみだなどというお気軽なそぶりを露骨に見せつけ、それをNHKテレビが重要ニュースとして垂れ流す)のは何故か、その背景を探るとともに5年間の小泉政治の結果を総括・点検する調査報道的な番組作りに努力すべきです。現在のような、テレビが芸能と政治を意図的にゴッチャにした視聴率稼ぎの低俗番組づくりはプロ意識という観点から見て噴飯ものです。中野考次氏は『ブリューゲルへの旅』の著者ノート(後書き)で次のように書いています。


・・・前、略・・・書くとうことはぼくにとって、自分で考えだした一つのシチュエーションを書きながら生きることを意味します。この“ブリューゲル”の場合は、1966年に予感したわからないあるものをたしかめるのが問題でした(<注>、ここには中野氏がウイーンの美術史美術館館でブリューゲルの絵に初めて出会ったとき(『雪中の狩人』/「The Hunters in the Snow」、1565 Oil on panel  117 x 162 cm  Kunsthistorisches Museum Wien 、 Vienna 、http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/bruegel/hunters.jpg)、戦中・戦後の自己の体験、つまり「戦争という悲惨な現実」と「自然の一部でもある人間の生の実相」に対して、なぜか、今まで自分が理想として憧れ続けてきた抽象観念の世界は歯が立たないことを自覚させられたという思いが影を落としている)。一種の文明的な危機感があったことは初めに言いましたが、やはり書く原動力となるのは、そういう「このままではやっていけない」という危機意識なのだと思う。少なくともぼくの場合はそうです。・・・後、略・・・