toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

貧困を煽り、人命を軽視する米国型「市場原理主義」の傲慢

[副題]「WTOドーハラウンド挫折」の根本はアメリカ富裕・支配層のエゴにある


  世界銀行は、WTO・ドーハラウンドの交渉がまとまった場合の世界全体への直接的な経済効果は約3千億ドル(現価換算、約35兆円)であること、及びそれは途上国だけでも860億ドル(同、約10兆円)になるという試算結果を公表しつつ主要国に対してWTOの円滑な交渉を求めてきました(2006.7.26、朝日新聞)。そして、その全世界に対する“経済波及効果”は計り知れぬ規模のものと想定されるはずです。同様に、日本の経済産業省も、WTO交渉による自由化推進が今後の日本経済へもたらす“波及効果”の規模を少なくとも4,018億ドル(現価換算、約47兆円)と皮算用していました(2006.7.27、日本経済新聞)。


  今回のドーハラウンド交渉の目的は、発展途上国側が不公平だと批判する貿易ルールを改善するとともに経済格差を是正し、貧困の広がりにストップをかけることでしたが、今後、WTO交渉が凍結される見通しとなったため、その目的とは裏腹に、経済規模が小さい途上国ほど不利な状況に追い込まれる恐れが出てきました。このため、今回の「WTOドーハラウンド挫折」はあらゆる方面へ大きな衝撃を与えました。7月24日の大使クラスの会合で交渉の凍結を提案する立場に追い込まれたWTOのラミー事務局長は“これほど強い途上国の失望と怒りの声を聞いたことはない!”と嘆き、途上国を主導してきたブラジルは、“先進諸国の農業補助金や途上国農産品に対する高関税が途上国の自立を妨げている!”と落胆しています。また、工業品の輸出拡大の好機を逃すことになった日本経団連御手洗富士夫・会長も“WTOによるグローバルな自由貿易体制こそ今後の日本の基礎となるはずであった”と落胆しています(同、日本経済新聞)。


 しかし、付和雷同するかのように落胆の声をあげるばかりが能ではなく、この機会にこそ、陽があたるラウンドの陰に隠されてきた様々な課題を冷静に抉り出してみることが肝要だと思われます。そこで、ここでは「アメリカ富裕・支配層によるエゴの問題」をクローズアップしてみます。なお、WTO推進の前提となる「マネタリズム」(monetarism)、「潜在成長率」などを想定することの是非の問題(=ワシントンコンセンサスの問題/参照、toxandoriaの日記『シリーズ「民主主義のガバナンス」を考える(1/4)』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060307)は、ここでは置くこととします。ともかくも、今回の交渉の頓挫の直接的な切欠は、六カ国・地域(日本、アメリカ、EU、オーストラリア、ブラジル、インド)の代表閣僚会議が行われていた場面で農産品の関税と補助金削減についての議論で埒が明かなくなり、業を煮やしたアメリカ代表が交渉打ち切りを提案したことです。たしかに、利害関係や立場の違いが錯綜し一種の「スパゲッティ状態」となっていたことが原因であると考えることもできますが、交渉の途中で意表を突くかのようにアメリカが交渉打ち切りを提案してきたことも事実なのです。


  2001年11月にドーハラウンドが開始したとき、アメリカのブッシュ大統領WTO新ラウンドの開始を「2011.9.11同時多発テロ」に対する国際社会の結束の象徴と位置づけていました。つまり、この悲惨なテロをもたらした根本には、発展途上国など、貿易取引で不利な立場に追い込まれた国々の深刻な貧困の問題が存在することをある程度は認識し、だからこそ新自由主義思想の実践の場である世界市場の拡大を図るべく新ラウンド交渉を一層促進すべきだと考えていた節があります。そして、アメリカは、そのための大きな障害として特にEUと日本の高すぎる農業補助による「農業保護政策の改善」を迫ってきた訳です(参照、『 米国、EU、および日本の農業政策 、米国通商代表部』http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20031023d2.html)。


  一方、ここにアメリカのこのような主張を覆すユニークなデータがあります。それは「2005年度における各国の農業補助金の現状」というレポートです(東京三菱UFJ銀行ワシントン事務所報告書、http://www.fujisue.net/archives/images/agriculturesubsidyofnations.bmp)。そのデータ[GDPに占める全体的農業補助金(TSE)の割合/米国0.9%、EU1.1%、日本1.3%、オーストラリア0.3%、ニュージーランド0.45%]、[国・地域別のTSE、単位百万ドル/米国109,680、EU150,501、日本59,568、オーストラリア1,976、ニュージーランド427]、[GDPに占める農業生産の割合/米国0.9%、EU2.0%、日本1.0%、オーストラリア2.5%、ニュージーランド9.5%]を詳細に見ると、実は間接的な補助金も含めた農業補助金の総額はアメリカの1,100億ドル(現価換算、約12.7兆円)が図抜けて大きいことが分かります。このことは、[GDPに占める農業生産の割合]と[国・地域別のTSE]を国・地域別に対照して見ると、更によく理解できます。ごく大雑把に規模の大きさで比べると、アメリカは日本の約2倍の農業補助金を投入しています。EU補助金額も大きく見えますが、これは一地域としてのデータ(欧州EU加盟各国の合計)であること考慮すれば、また、[GDPに占める農業生産の割合]も考慮すれば、そしてEUアメリカに比べればそれほど大きいとは言えないことが分かります(ただ、ここではEUにおける国別の[GDPに占める農業生産の割合]は分かりません/詳細は表記URLを参照乞)。


  先に述べたとおりワシントンコンセンサスの問題は脇に置くこととし、良識的な経営者と見做せる日本経団連御手洗富士夫・会長(参照、toxandoriaの日記『「小泉擬装改革」の対極にある日本の「優秀企業の条件」(3/4)』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060209)が期待を示すように“WTOによるグローバルな自由貿易体制こそが今後の日本の発展基盤となるもの”だとするならば、ここで見られるようなアメリカの二枚舌・三枚舌(アメリカにとって都合がよいデータを選びながらTPOで適当に使い分けるやり方)、言い換えれば「イラク戦争開戦の口実」と同様な一国主義(ユニラテラリズム)的な身勝手さは許されるべきではないと思います。当初、ド−ハラウンドでは“先進国の過剰な農業保護政策が発展途上国の農業輸出を阻害している”という議論が非常に高まり、輸出農産品に多額の補助金を出していると見做されたEUに非難が集まり、アメリカが更にこれで途上国を炊きつけるという構図が見られました。


  ところが、驚くべきことに2002年頃からブッシュ政権WTOそのものを軽視する方向へ大きく舵を切り始めます。それは世界的な農産物価格の下落で困窮しつつあるアメリカの農業を救済する必要が出てきたためです。具体的には、トウモロコシ・小麦・綿・大豆・米など主要穀物農家を救済する目的で議会が可決した「新農業法」に署名(2002.5.13)しました。この「新農業法」(5年毎に見直すローリング方式、http://www.nochuri.co.jp/report/pdf/n0207ab1.pdf)によって、それ以降10年間に総額1,800億ドル(当時換算、約23兆円/年平均で約2.3兆円)の補助金を交付することになったのです。これによってアメリカの農業補助金の規模が巨額に膨れ上がった訳です。


  このようなブッシュ政権の政策転換の方向は、ワシントンコンセンサスの下で自らが掲げてきた「競争原理によって自由市場の発展を促す」というWTOの精神そのものに違反するものです。更に驚くべきことがあります。それは、この巨額の農業補助金を受け取るのは全体の約1〜2割程度の大規模企業農家であり、残りの中小農家は恩恵に浴するどころか、ますます経営格差が拡大することになっているという現実があることです(参照、http://www2.odn.ne.jp/~cdu37690/1800okudorunohojyokin.htmhttp://www.fujisue.net/archives/2006/07/post_1410.html)。恐らく、この辺りにはアメリ連邦議会上院と大規模綿花農家の癒着の問題(参照、http://tanakanews.com/d0922WTO.htm)と同根の事情が絡むのかも知れません。ともかくも、ここで垣間見えるのは、農業関連分野で政治に大きな影響力を及ぼす特権を独り占めした、ごく一握りの「アメリカ富裕・支配層のエゴ」の存在です。このような姿こそが恐るべき「アメリ格差社会」のエピソードの一コマなのです。


  このような一握りの「アメリカ富裕・支配層のエゴ」の存在は農業関連分野に限らず、軍需産業石油化学工業、製薬メーカーなどあらゆる産業分野に広がっています。また、視点が異なりますが、現在のアメリカにおける貧困層拡大の実像に迫る興味深い研究結果も報告されています(参照、toxandoriaの日記『「国民の人見御供」を容認する「残忍な金融資本主義国」、ニッポン』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060221)。また、ある調査によるとアメリカのCEO(最高経営責任者)と一般社員の総報酬の倍率が「1965年=約40倍」→「1995年=172倍」となっており、「アメリカ社会の格差拡大」は典型的な「鋏型の格差モデル」(西洋鋏を開いた形にすると先端へ行くほど左右の刃の距離が遠くなるように、時間の経過とともに着実に格差の開きが大きくなるモデル)をなぞっているようで不気味です(参照、http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/soejima.htm)。更に、もっと不気味なのは、今まさに幕を下ろそうとする「小泉劇場の5年間」は、このような「アメリカ社会の格差拡大」のコピーであるという現実です。NHKテレビ(NHKスペシャル)が取り上げたことで注目を浴びたワーキング・プア層(400万世帯、約800〜900万人?)の拡大の問題は紛れもなく「アメリカ社会の格差拡大」のコピー(特に、過酷なリストラと常用労働者を非正規労働者へ置き換える雇用政策の推進)の中から生まれてきたものと考えられます(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060725)。


  そして、見逃すべきでないのは、内外の別を問わず「アメリカ富裕・支配層のエゴ」が人命を軽視する傾向を強めているということです。軍需産業(産軍複合体)関連は最も分かりやすい事例ですが、ここでは農産物関連の問題を指摘しておきます。それは“遺伝子組換作物(GM=Genetically Modified Crops)はカネになる”という「彼らの非情な割り切り方」にあります。2002年の「新農業法」で多大な恩恵を受けた大規模企業農家は、このGM関連でも恩恵を受けているのです。例えば、アメリカのモンサント社(ttp://www.monsanto.com/monsanto/layout/default.asp)が開発した“殺虫毒素を生成”するトウモロコシ、綿、ジャガイモなどについて見ると、このGM作物に対してすら害虫は強い耐性を獲得するため、殺虫剤を減らすどころか逆に多量の殺虫剤を使う破目となり生態系や人体へ深刻な影響を与えています。しかも、多額の補助金を受け取る大規模企業農家は多量の殺虫剤使用の費用負担に耐えられますが、補助金を受けられない中小農家は大きなダメージを受けます。


  より恐ろしいのは、同じくモンサント社が特許を持つ「ディフェンシン(defensin)の問題」です(参照、http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/yuuki/peptide/peptide.html/モンサント社は、組み換え種子の特許権を最大限に活用する戦略を展開している。このため、遺伝子組み換え種子を一度買った農家には自家採種や種子保存を禁じ、毎年確実に種子を買わせる契約を結び、そうでない農家には突然特許権侵害の脅しの手紙を送りつける/また、遺伝子組み換え作物「不正使用」で、契約していない近隣の一般農家を次々と提訴している/参照、http://hotwired.goo.ne.jp/news/business/story/20050117105.html)。


  ディフェンシンは、人・植物・昆虫などの生物が病原菌に侵入されたとき、防御のために最初に体内でつくられる抗菌物質です。このため、自然の中では病原菌侵入のシグナルが出たときにだけ遺伝子が働いて、ディフェンシンがつくられるようになっています。しかし、遺伝子組換技術によって、これを始めからつくるようにされた生物の体内では、常時、ディフェンシンがつくられることになります。このため、この抗菌物質(ディフェンシン)に接触し続けている様々な菌(周囲に存在する)が高い確率で耐性菌へ変異してしまうのです。そして、一個でも耐性を持った何かの菌が外部へ出てしまうと、それは爆発的に増殖し始めます。しかも、日本では、農林水産省・関連研究機関及び某国立大学などが国家プロジェクトとして、ディフェンシンを組み込んで病気に罹らない耐性イネを作る実験に取り組んでいます。日米の恐るべき「連携・同盟」がこのような分野でヒッソリと進行しているのです。なお、この問題に危機感を覚えた歌手の加藤登紀子さんは、日本でのディフェンシンの実験を中止させる運動に取り組んでいます(参照、http://ine-saiban.com/etc/no-go-area/060127lookingfor-defensin.htm)。


  グローバリズムの進展の恩恵で成長が著しいBRICS諸国(ブラジル・ロシア・インド・中国)でさえも軒並み貧富差の拡大が進みつつあるとされており、総体で見ると世界人口の約半分にあたる30億人が“1日2ドル以下という極貧の生活”に喘いでおり、その傾向はグローバリズムがいくら進もうが止まる気配はありません。そして、これまで見てきたとおりグローバリズムの流れを先導する一国主義のアメリカと、それに追随する日本においても「鋏型の格差モデル」に沿った深刻な貧富差の拡大が着実に進んでいます。このため、今や世界の民主主義から「平等」の文字は現実的に消えつつあるようですが、その危機的な状況に輪を掛けるかのように、モンサント社などアメリカの「富裕・支配層のエゴ」を代表するような寡占企業による“遺伝子組換作物(遺伝子操作技術)はカネになる”という非情な「マネーゲームの嵐」が世界を股にかけて吹き荒れようとしています。しかも、この究極のマネーゲームの対象は、世界中の一般市民並びに地球上の生物たちの「生命」そのものと、かけがえなく美しい「世界中の自然環境」なのです。胴元である肝心のアメリカが身勝手にも責任を放棄してしまった「WTOドーハラウンド挫折」を“奇貨”として、地球と日本の未来、日本と世界の農業のあり方、日本の農業の担い手の問題、農業と愛郷心の問題、日本のセンシティブ産品の代表であるコメと日本文化の関係、あるいは自給率と食糧危機の問題などをジックリ考えることも無駄なことではないと思います。